鬼沼炭焼き窯

第七章 第五話 猪苗代湖のほとり

鬼沼
炭焼き窯

 二〇〇七年七月、建設進行中の鬼沼計画にまた一つ、小さな進展があった。炭焼き窯が完成して、早速、火が入れられ、炭が焼き始められた。

 窯を作ったのはT社長と福島県下の土木建設業者達だ。全員炭焼きは初体験である。彼等は炭焼き窯を作るにあたって、色々な資料をあたった。そして三浦式標準窯(図1)とやらを参考にした。焚き口、点火室から煙道口までの長さが約三メートル六〇、炭火室の内部幅二メートルのものだ。

鬼沼炭焼き窯 図1

 用意してあった耐火レンガが足りなくなったり、作り上げた窯から、決して洩れてはならぬ煙が洩れたりと色々とあったらしいが、何とかそれらも乗り切ったようだ。T社長持ち前の行動力で、曲りなりにも立派な炭焼き窯は出来上がり、火入れもして、アトは最初の炭が焼き上がるのを待つばかりなのである。

 この窯が作られた場所は、皆が鬼沼計画の前進基地と呼び始めている場所の近くの台地である。

 この小さな台地の端の三メートル程の段差を重機で切り崩して、窯は作られた。台地は、鬼沼計画の主目的になるだろう農園の実験場として考えられている。百メートル程離れて、土に埋もれた洞穴が視える。

 まだこの炭焼き窯から本格的な炭が焼き上がるかどうかは知らない。T社長は自信満々だけれど、Xは、素人ばかりの窯作り、炭焼きが最初から上手くゆくわけがないだろうと思ってはいる。しかしT社長の事だから、結局炭は何とか出来るようにはなるだろう事も知っている。

 焼き上がるだろう炭は、向うに視える洞穴での生活の飲み水のためのものなのだ。 

鬼沼炭焼き窯

 洞穴は金属製である。洞穴の隣りに、少し離れて細長い丘というか、地ぶくれがある。そこにも二本、金属のパイプが埋められている。直径一メートル五〇〇のものだ。T社長とXの考えでは、このパイプに山の水を引き込んで、貯水しようというのだ。パイプが二つ並べられているのは、一次貯水、二次貯水槽としてそのそれぞれに炭やシュロの葉を使った、カーボン系の浄化装置にしようと考えたのだった。普通、その炭やらはそんなに高価なものではないから、そこらの店で買ってくれば良いと考えるだろう。

 ここは福島県猪苗代湖畔、鬼沼と物騒な名のある入江に面した場所。金属パイプを埋めた丘の上からは湖が美しく眺められる。

 猪苗代湖は日本でも有数の水質基準を厳しく課した湖だ。その周辺に何かモノを作ろうとすると、汚水排水にはとても厳しい環境的配慮が求められる。だから汚水排水処理も完全なものにしようと決めていた。

 でも、それはしばらくは先の事。

 先ずは自分達の飲み水の心配をしなくてはならない。

鬼沼炭焼き窯

 二〇〇七年七月現在、25ha の鬼沼計画サイトには以下の工事がすすめられている。

 一、標高六二〇メートルの尾根までの林道工事
 二、屋根上の風光水塔の土地造成工事
 三、T社の分社となる鬼沼環境研究所のヘッドクォーター、土地造成工事
 四、三つの劇場を含む「時の谷」作庭工事
 五、前進基地二期工事
 六、倉庫、及び準備小屋建設
 七、ゲート計画
 と、七つのポイントを結ぶ道路計画

 更に、その先は、ここに大がかりなアジア工芸村を建設したいというのがT社長の考えだ。T社長は日本有数の世界の衣料、工芸品、原材の卸問屋業、今でいう流通業を一代で興した人物である。アジア各地と多くの取引がある。それはいくつかの物語りと関連もするだろうからおいおい話してゆく事になろう。

鬼沼炭焼き窯

 炭に話しを戻す。
 T社長は会社もゼロから全てを作り出した。創業社長に典型的に良くある、全てを自分で把握していたい意欲が強い人物である。自衛隊出身のキャリアの持主でもあったから、また、何でも自分で作れちゃう人でもあるのだった。道路でも、小さなダムでも、小屋だって、当然畑作りなどはお茶のこさいさい位の人なのである。

 炭焼き窯がアッという間に作られた事をXとWは知らなかった。作りますというのは知らされていたが、知らされる時には工事はすでに始まり、アッという間に終了していた。何年か前にこの計画がスタートしたばかりの頃には、こういう事にXもWもよくとまどったものだ。度々、猪苗代湖のサイトに出掛けると、デザインしていないもの、設計していないモノがドデーンと在ったりして、仰天させられる事が、二度や、三度の事ではなかったのだ。
「コレ、何ですか」
「アッ、作っときました、手が余ってたんで、簡単でしたよ。」
XとWはこの計画の、全体の取りまとめ、デザイン設計をするつもりであったから、何だコレはと思わぬ事もないわけではなかった。
「キレイな仕上がりにならないのは、確かに目ざわりでイヤなんだが、俺の考えている理論の上では、まことに良い事なんだよ。作りたいものを、全部自分でドンドン作ってしまうんだからナァ。Tさんは、俺にとっては理論をそのまま体現してる人なんだ。」
「でも、T社長が作るものは全部バラックですよね。これでは美しい建築になりようがない。」
XとWは度々、T社長の、計画よりも、素早い実行力への対応を話し合うのだったが、うまい方策は得られようも無かった。T社長は素早く、たくましかった。美しさ、とか全体とのバランスなんて事には眼もくれぬ、実行家だったのだ。

鬼沼炭焼き窯

 Xも美という二〇世紀的問題には深い関心があったから、苦しまぎれにWに話した。
「眼に視える美と、言葉でしか表現できぬ美とが、今、歴然と二分化してるんじゃないかな。T社長の全部自分の考えで手作りのようにやってしまおうという意欲は、否定する事は決して出来ないよ。だってT社長は、今の、ヘンリー・デビッド・ソローそのものなんだから。彼はソローが社会に対して隠遁的であり過ぎたよりも、ズーッと現代社会に積極的に行動してるから。その過剰な積極性が、たとえ、その場当たりのバラックの醜を露わにしても、仕方ない部分もあるさ。」
「しかし僕のプロフェッションの武器は美を外すわけにはいきません。いくら物語りがキレイだって、残された実物がバラックではどうにも満足できないんですよ。」
「それは、知らぬでもない。君の時の谷のエリアにはできる限りの美のバリヤーを張り巡らせる方法を考えようじゃないか。」
「しかし、炭作りには驚きましたよ。確かに自分で炭を作って、その炭で自分達の飲料水の浄化をしようという総合的な考えの前には、ランドスケープの美や、建築デザインの美という考えは小さく視えてしまいますね。」
「そうだね、前進基地の一角に突如出現してしまった炭焼き窯と、炭は、T社長の大ヒットであるな。我々にも、ひどく解りやすい教訓だよ。山上の教訓、ならぬ前進基地の台地での教訓だ。」

鬼沼炭焼き窯
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