三好シュターク綾のボスニア通信 8
ボスニアで我が家に帰る方法
4.民営化

第二次世界大戦後のユーゴスラビアはカリスマ政治家チトーの指揮下、東ヨーロッパに位置しながら旧ソ連の共産主義とは一線を隔した、国営企業の労働者集団による「自主管理政策」を中核にした独自の社会主義路線を歩みました。政治的にも東西どちらの陣営にも属さない「非同盟主義」、経済的には国の財産は、国有でも私有でもなく「社会有」であるとする 独特なシステムでした。国営企業の労働者には日本の社宅にあたるsocially owned apartment(社会的に所有されたアパート)が与えられ、農村では個人所有の住宅が主流であるのに対し、都市部では半数以上の人々がこの社会有アパートの住民でした。

紛争後政治体制の変化に伴い、これら社会有アパートや国営企業を民営化することになり、当然法整備も必要だったのですが、民族間の分権政治がここでも足かせとなりました。紛争終結時の和平合意で引かれた国内の境界線により、建物の所在地がセルビア人側(スルプスカ共和国)、若しくはムスリム・クロアチア人側(BH連邦)、更には境界線上にある建物が内部で見えない線により分割され、両方のエンティティーに別々に属すという結果になりました。このため、勢力図保持を最重要課題としている各民族が、私有化・民営化のための立法に関して合意するのは不可能。結局、国家単位でなく、エンティティー単位で個別の法律が制定されたのです。

こうなれば民族主義政治家の思う壺。不法占拠者を含む、多数派の同民族である住民だけに社会有アパートの購入資格を与えたり(つまり難民・避難民となった他民族の元住民に資格は無い)、難民及び国内避難民は社会有アパート購入を「申請」するまで2年間待たなければならないなどの条件を課し、他民族の難民・避難民の帰還を妨げる法律を次々に制定しました。これらの不条理な法律は、国際社会によって構成されるボスニアの監督機関であるOffice of the High Representative(上級代表事務所)により改正されています。しかし、民営化によって役人が彼ら自身の手から経済統制の力を失うことを恐れ、民営化の努力を怠っているともいわれ、長年住み慣れたアパートを本当の意味での我が家にするのは至難の業です。

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三好シュターク綾 プロフィール

石山修武研究室
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