三好シュターク綾のボスニア通信 2
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住居選択の不自由 家以前に国が選べない 殆どの日本人は、家が非常に高くて狭いので、住みたい家に住めない、と頭を抱えています。ところが、多くのボスニア人には、それ以前に住みたい国にすら住めない、という更に高いハードルが立ちはだかっているのです。先述のニューヨークに暮らすボスニア難民一家のケースを見てみましょう。 激しい戦渦と民族的迫害に追われ、幼児を連れた母親は隣国クロアチア、父親は国内の他の地域へ、別々のルートで、命からがら身一つで避難しました。この時点で、母子はクロアチア政府に認定された「難民」、父親はボスニア内の「国内避難民」となります。一家は数ヶ月間互いに消息不明で過ごした後、それぞれドイツ政府に受け入れられ、4つの国境を陸路でまたいで再会を果しました。ところが、ドイツ政府はボスニアからの避難民に「難民」ではなく、「暫定的な避難民」としての地位しか与えず、情勢の安定を理由に国外退去を勧告するのです。一家は5年間住み慣れたドイツから、再び移動を迫られました。 選択肢は二つ。本国帰還か、第三国定住。一家はすっかりドイツ生活に馴染み、二人に増えた子供たちはドイツ語を流暢に操り始めた一方で、故郷の治安、特に民族問題はまだまだ深刻でした。それでも本国帰還を望んだ一家は、状況確認のためドイツ政府の支援で試験的一時帰国をしまた。そこで目の当たりにしたのは対立する他民族の家族が当然の如く暮らす我が家、しかも不法占拠者から門前払いされてしまったのです!(住宅の不法占拠の問題は、戦後9年目の現在も未だ完全解決には至っていません。)日本の私たちなら即座に法的手段に訴えるところですが、当時のボスニアでは司法制度に頼ることは殆どできませんでした。一家は涙を呑んで故郷、そしてドイツを後にし、難民として受け入れられた第三国アメリカに旅立つのです。
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