開放系技術デザイン論ノート
石山修武
 第一回
 朝食の際フト考えた。飯が炊かれ、味噌汁がつくられ、昆布とキューリとネギのあえもの、昨夜の名残りの細麺のうどんと野菜が煮込んだもの、スーパーマーケットで購入した納豆パック、もらいものの帆立て貝、九州博多の小料理屋からもらってきたふりかけ等がテーブルに並べられている。
 家内は自然食品に関心があるので、何がしかは大量生産・販売のシステムから外れたのが食材として使われている。しかしながら、食材として自分が作ったものは何もない。購入して、それを加工しているだけだ。
 私は今、チョッと体が故障していて、それを修繕中だ。それで食事制限している。一日三食何キロカロリーと自分で定めてそれを自分に課している。そんな枠を身体に課して、それで初めて食品そのものに関心を持った。
 毎日の食卓に並べられる食材の生い立ち、背景、ここ迄やってきた流通の地図を考えてみると、私達がどれ程、これ程身近な世界でさえ盲目である事をすぐに思い知らされる。ネギだってキューリも、昆布も何処から来ているのか知らない。自然食品は千葉県館山三芳村からやってくるので、それだけは全体とは言えなくても一部は把握できているようだ。他は全く背景も何も視えない。特にスーパーマーケットで購入した納豆がそうだ。薄いプラスティックの容器には、カップ、うまい納豆、最上とプリントされている。最上の川下りの情景もプリントされている。オレンジと青の二色刷りだ。製造元は山形県新庄市のS社のようだ。容器には、遺伝子組み換え大豆は使用しておりません、と明記してある。こんなに明記するのを見ると、遺伝子組み換え大豆というのがあって、それは食品として何がしかの悪影響を人体に及ぼすのが、この納豆生産業界では生産者も厚生労働省の食品管理部局でも知られているのを知る事ができる。しかし、こんな風に明記されているのを見ると、明記が義務づけられる以前はどうだったのかが気になり始める。この最上のS社とは一体どんな工場で、どんな人間がどんな風に働いているのかが知りたくなってくる。どれ位の量がどれ程の速力で作られているのかも知りたい。成分の中に、着色材なのだろう、うこんや、酒精、ビタミンCが混ぜられているのはどうしてなのかも知りたくなる。と言うよりも、毎日の食品の実体を知らな過ぎる現実が視えてくる。工場で量産されているこの納豆のような製品はまだ素性が知れる方法があるから良い方だ。ネギやキューリ、魚、肉となると眼の前が暗くなり始める。それだけではない。京都府内の工場で製造されている、ゆずぽん酢の原料は徳島の木屋平村の搾りたて無農薬柚子だと製品には唄われている。無農薬で育てた柚子を何処で搾りたてたのであろうか。どれ程の柚子が生産され消費されているのであろうか。国内産有機野菜・果実から作りましたと書かれている中濃ソース、トマトケチャップ、トマトピューレは共に徳島市のメーカー。ふりかけチーズはアメリカのイリノイ州のメーカーで、輸入元が神奈川県の会社。販売が東京都港区の森永乳業となっている。七味唐がらしは根元八幡屋磯五郎で長野市産。ブルーベリーソースは東京都町田市の企業組合製。その他、スペイン製、イタリア製の食品の数々である。
 要するに食卓上は世界地図の迷路だ。こんなに食品が複雑かつ広範な経路を辿っているとは、これ等が流通するのにどれ程の人手とガソリン代を喰っているかは計り知れぬものがある。
 これ等が食卓に並ぶまでにホボ四〇分くらいの時間が家内の手でかけられた。料理の道具としては包丁、まな板、ひしゃく、三穴のガスコンロ、流し台、そして市販の電気ガマ等である。
 今の台所を使い出して三年になるが、電気ガマは二つ目である。前に使っていた電気ガマの具合が悪くなって、連日硬い御飯が続くようになっても誰も電気ガマを修理してみようと考えなかった。特に最近の生活体験で、洗濯機、冷蔵庫、TV、といった家庭用電化製品は修理修繕が自分では出来ないと思い込んでいるからだ。戦後間もなくの頃、所謂日本が高度経済成長を国策として始めた頃のメイド IN ジャパンの電気製品は安かろう悪かろうの粗悪品の代名詞であった。二〇〇四年の今、日本の電化製品は世界の一流品として世界市場を席巻している。しかし、それは故障すると修繕できぬ製品でもある。
 日本の電化製品だけではない。
 例えばカメラの名品を産み出し続けたライカだってそうだ。何年も前にライカの電化カメラを購入した。電化カメラとは古い言い方だが、要するに電子制御のイージーカメラ、俗称バカチョンカメラである。十二万円位した。それが一年も経たぬ間に故障した。カメラを自分で修理できると考えていなかったので当然写真屋に持っていった。手に負えぬと言う。ライカを買った販売代理店に持っていったら、代理店でも修理不能だと言う。代理店を介して、遂にライカの本社に問い合わせて貰った。修理可能である。但し修理代が五万円弱かかると言う。これなら、普通の新製品の電化カメラが入手できる。巨大な?が芽生えた。現代の電化製品の全ては、たちどころにゴミ製品なのであろうか。電化製品が個人の力で修理修繕が不可能であるとしたら、より高度である筈の電子製品の現実はどうなのであろうか。SONYのTVでも同様の問題に対面した事がある。

 朝食の現実は色々な事を気付かせてくれる。もう電気ガマの無い台所は考えられぬ事。しかし、その電気ガマの寿命や、壊れて捨てられゴミになった電気ガマの行方の事も。あの電気ガマ、一時期は私の台所の盟主であった電気ガマは今は物質としてどのような境遇にあるのだろうか。
 食品にしても、食品を加工する、つまり料理の道具ひとつ考えてみても何種類もの迷路が何層にも折り重なって私達の周りに不可視の森を作り上げているのが視えてくる。

 食卓の風景は毎日作られるものだ。しかしその風景はかつてのように単純明快に作られてはいない。あるいは人間が主体的に作り出しているとは言い難い部分が発生している。身体内を構築するエネルギーとなる食品にも、身体の外に様々な形で生活の空間を作り出す道具にも肉眼では視る事ができ難い空洞が口を開けている。その空洞の重なりが新しい闇を内在させた巨大な森、すなわち迷路を生み出している。
 この迷路を自分の足で、眼で、そして知覚で大きく迷わずに歩いてゆく為の技術を、開放系技術と呼ぼうと考える。そして、その技術で作られる形式を開放系デザインと呼ぶ。

 東京の環状八号道路沿いの甲州街道との交差点から少し羽田寄りのドン・キホーテが又、放火されて今燃えているとインターネットニュースが伝えていると言う。我家の真近なので早速三階のテラスに出て見る。インターネットのヤジ馬だ。ところが煙も炎も一切見えない。消防自動車が集まっているであろう音も聴こえない。

 第二回
 我家には、安売王ドン・キホーテの商品が幾つも侵入している。二階にある九百八十円のフロアースタンドは安売りが好きな長女が買ってきた。これは全高百八十cmの、まさに堂々たる製品だ。三十五mm位の黒のツヤ消しプラスティック(塩化ビニール)パイプに安物の真鍮風塗装の金物が二ヶ所ついていて、つまり百八十センチメーターのパイプは三分割が可能になっている。そのパイプの途中に廻し型のスイッチが取り付けられている。光源は暖色系の小型蛍光灯、シェードはパイプ部分と同系色の大きな盃形のもので盃部の下端は薄緑色のプラスチック部品が組み合わされている。全体のスタイルはマア、アールデコまがいである。床に接する台部分とパイプは当然ネジ込み式になっている。これが九百八十円であるとはどうしても考えられぬ。物質のヴォリューム、部品数だけを考えたって九百八十円はほとんど奇跡は言い過ぎだとしても晴天の霹靂価格である事は確かだ。長女はアメリカに長く居たので、感覚はいかにもアメリカンである。彼女が素晴らしいと思わぬかというので、それは値段の事か商品の姿の事かと問うたら、勿論そのバランスだと言う。フロアースタンドという機能そのものは、全く日本的なものではない。我家はただただ、だだっ広い納屋みたいな家だから、こんなモノが入ってきてもたじろがぬが、NDKの家にはこのフロアースタンドは明らかに不似合である。しかし、安売王ドン・キホーテがそれでもコレを売ろうと考えたのは、その値段と大きさの間に不自然な隔たりを供給できると考えたからに他ならない。なにしろ九百八十円、一間の高さ、おまけに光るのである。しかも、全体の姿は何ともアメリカ風に安物なのである。テキサスあたりの当然ブッシュ支持、大味なステーキとハンバーグ、それにケンタッキー・フライドチキンしか喰べないような人間がリビングルームの安物のカーペットをしきつめた部屋にピッタリといかにも合いそうなのである。しかし、キッチュの本場アメリカのキッチュモノとは何処かしら異なる風情もある。
 何とも言えぬ風が家の内を圧するので、この製品をひっくり返して台の底を調べてみた。案の定アメリカ、中国混合製品であった。
 デザイン・クオリティはUSA。アメリカン・ライティング・コマースとラベルに銘打ってある。 カリフォルニアの会社だ。USAパテントのナンバーもプラスティックに刻印されている。製造は中国である。メイド・イン・チャイナと大きくこれもプラスティックの裏ブタに刻印されている。製造元の中国の都市、工場名は無い。それは刻印しても価値にならぬか、知られたくないからであろう。

 一般的に言えば販売価格は工場出荷額の三倍くらいが相場であろう。あらゆる商品の工場原価は現代の最大級のブラックボックスであるから、それを知るのは困難極まる。
 特に、ドン・キホーテのような激安が売り物の価格破壊的店舗で販売されている商品の価格設定の基準は計り難い。しかし、無理を承知で古典的な市場原理を適用するならば、このフロアースタンドの中国での工場出荷価格は一つ三百三十円程であろう。それに対して総部品数が大まかに見て二十数点。とすれば、1つの部品の値段は十五円くらいと予測される。この製品が中国の複数の工場で生産されているとは考えられない。何故なら多くの部品を一堂に集めて製品としてまとめる流通コスト、例えば車のガソリン代の方がはるかに高いものになるだろうから。そうすると、この様な製品はアメリカの量販店や、ホームセンター向けの商品をアメリカの設計で、アメリカの品質管理の許で大量に中国の中国人のほとんど手作り状態で量産して、それをアメリカに搬送するモノの一部を日本に横流ししているのが実状ではあるまいか。上海等の大都市からそう遠くない農村が全体で一つの手作り工場と化し、かくの如き製品を生産しているに違いない。
 日本郵船は日本最大の船会社で今、大変な好況にあると言う。その利益の大半が中国、アメリカ大陸間の輸送によっている。まだまだ船が足りなくて増船を考えているようだ。ただし日本郵船の社員の大半は外国人によって占められている。そして船籍も多国籍化している。このドン・キホーテの激安フロアースタンドもそんな船会社の好況を支えているのだろう。

 この安売王ドン・キホーテのメイド・イン・USA&CHINAのフロアースタンドも、当然のようにすぐ故障した。マア、九百八十円だものねと誰も文句は言わない。しかし、これも修理の仕様が無い。部品を取り替えようにも、アメリカと中国まで問い合わせるのが困難過ぎる。通信料の方が高くなってしまうだろう。安売王ドンキに起きている連続放火事件はこんな事から起きているのではないかと推測している。
 私の家の九百八十円のフロアースタンドより高額な商品をドン・キホーテで購入した人が居たとする。何かの電化製品であったとする。TVなのか、電気ガマは知らぬ。すぐ故障してしまった。当然自分では修理修繕ができぬ。電器屋に行く。ドン・キホーテで買ったんだったらウチでは直せません。ドン・キホーテの事はドン・キホーテに言ってくれと当然冷たく言われる。そこでドン・キホーテに行く。お客さん、コレは簡単に直るモンではありません。何しろ、この値段で買って貰っているんですから。アメリカの販売元会社も中国の工場も対応できないんです。あきらめて下さい。  あきらめろと言われても、仲々あきらめきれぬ人間も居るだろう。故障を直せないようなモノを売る会社を許す社会だって、許せない。本来社会に商品として流通している商品は故障を前提として、それを直そうとするシステム、あるいは金銭的な保証があってしかるべきだと、よおく考えてみれば理の当然な事を、放火犯は思いつめたのではなかろうか。
 ともあれ今、只中にあるドン・キホーテ連続放火事件は余りにも現代的な事件であるような気がする。結末を知りたい。
 日本に於けるスーパーマーケットの創始者でもあった中内功のスーパーダイエーがいよいよ金融再生機構の傘下に納められ、自主的な経営活動が不可能になった。プロ野球パ・リーグのダイエー・ホークスは孫正義のソフトバンクグ・グループに買収され名前をソフトバンク・ホークスと替えた。
 創生期の中内功のダイエーはドン・キホーテ同様に安売りに的が絞られ、それ故に圧倒的に消費者の支持を獲得した。それは消費者運動と見まがうばかりの明快な方法を持っていた。明快な方法とは消費者の生活感覚に直結した流通の組み替えをダイエーは目指そうとしていた。問屋、二次問屋、今で言う販売代理店を介さずに直接生産者と消費者を結ぼうとした。合理的な考え方であり、実践であった。
 いつの間にかその合理性が巨大なスケールメリットだけを追うようになった。旧来の流通方法に安住していた流通業のシステムを改変し続けなければならなかったのが、自身の企業体がアッという間に膨張し、自己制御不能になった。企業体の本質であったのは社会還元の倫理性の枠の認識である。利益追求、資本増大だけの企業意志はいずれその内に資本主義の自動律でもある自己増殖の欲望を自己制御出来ぬという巨大な矛盾を発生させる。マンモスの自滅と同様に自身の巨大化の内に大きなブラックボックス抱え込んで、その重さによって倒れるのだ。

 第三回
 朝食の食卓から話がそれ始めているので元に戻す。ダイエーからソフトバンクへ、ホークス球団が転売されている現実については再び述べる。そもそも南海ホークスという球団は南海電鉄という、阪神電鉄同様弱小な電鉄会社がオーナーであった。今、問題になっている西武鉄道同様に大都市エリアの生活者達の日常の足を補足すべき私有鉄道の役割(機能)はまさにそれであって、それ以上ではない。そういう類の日常的な合理性を大半の企業者は失い始めている。

 寄り道ついでにもう少しこの話しを続ける。先程近くのコーヒーショップに出掛けた。最初の店はドトール系の安売りコーヒー店。次に古いタイプのコーヒー専門店。ここのコーヒーは炭焼きブレンドコーヒーが一杯五百円である。味は、良く解らぬが少しは違うのだろう。
 安売りコーヒーの店では客は飲み物、喰べ物をオーダーして前払いし、それを受け取ったら自分の世界である。老若男女皆それぞれに独立して、この店のシステムと対面している。

 五〇〇円のコーヒーを出す店にはカウンターに一人大声で話しをマスターと交わしている年輩の客がいた。うるさい親父だなと思って、このノートを記していた。本当このオヤジはた迷惑だぜ、静かにさせてくれとイライラする頃、もう一人の、多分近所の人なのだろう男が入ってきて、ヤアヤアとノイジーなオヤジの隣に座った。当然、かなりの大声で会話が始まる。難聴の私だって聞耳立てなくっても知らず知らずに聞かされてしまう位の大声だ。
「オイ、ドン・キホーテ又放火されたの知ってるか。」
「さっき、聞いたばかり。」
「全焼だってね。」
「ヘェ、ボヤじゃネェーのか。」
「イヤ、全部焼けちゃったと・・・・お前じゃないのか、火ィ付けたの。」
「・・・・・・」
「ドン・キホーテに恨み持ってたんじゃネェのか。」
「バカな。」
「一体、どんな奴なんだろね、あんな店に恨み持つってのは。」
「何処から火、出たの。」
「一階じゃなくって良かったよ、一階だったら客は逃げられネェ、二階から火、出たのがまだしもの幸いよ。」
「そうかい。」
「こいつは、まだまだやるゼ、キッと。火付けってのはそういう者だ。八百屋お七っだってそうだろ。」 「あれはチョッと違うんじゃない。」
「でも、ナァ。どんな奴なんだろう、犯人は。」

 もうその時は私の耳は何ものも聞き逃すまいと臨戦態勢に入った。
「おメエ、今朝のATV視た。バアロー。孫正義がバカな事、言ってやがんの。」
「孫て、ダイエーの新しい社長か。」
「バアロー、私はソンの王ですだって、つけ上がりやがって。」
 何故、いきなりドン・キホーテからダイエーに話しが飛ぶんだ。これでは私の思考の形式と全く同じではないか。いくら情報化時代は同時多発が特色だって、その時代の特色が家の近くのコーヒーショップの客のオヤジの口から発せられるとは。
 誠にこの時代に独自な情報を持つ事は困難極まる事なのだ。
 しゃべり続けるオヤジの説に未練は多いにあったのだが、私はコーヒーショップの女店員に尋ねた。
「ドン・キホーテの全焼って本当?」
「そうらしいですよ。全焼ですって。」
「あの環八沿いの店ですか。僕、時々寄ってたんだ。」
「お客さん、行かれた事あるんですかあ。」
「家から近いんだ。」

 急いでコーヒーショップを出て家に急いだ。歩くのは少々遠いから、自転車で火事の現場に行こうと考えた。
 これも又、テロなのだ。九・一一の続きなのだと胸騒ぎがした。

 環八沿いのドン・キホーテの火災現場に辿り着いた。午後遅いのに、まだ三々五々以上の人が集まっている。午前の火災の最中は大変な混乱だったろう。
 火災の現場にはロープが張られ、まだ警察官が多く立っていて当然ながら立ち入り禁止。激安王ドン・キホーテの看板が寒空に吹きさられている。二階建ての凡庸な安物建築だったが、二階窓ガラスはほとんど壊されている。消防隊侵入に寄って壊されたものだろう。二階の窓という窓の上部には全て黒煙の跡が生々しい。余程の火勢であったろう事を思わせる。
 店舗としての建築自体は燃えるものとて何も無い倉庫状の建築だから、火が着けられて燃えたのは全て激安商品であったのだろう。改めて看板を眺めれば、薬まで含めて殆んどの日常生活用品は網羅されていたようだ。この店に無い商品は、まさに高級、高額商品だけであった。

 家の近くの安田金物店が店を閉めたのは、近くに百円ショップが開店して、パッタリ日用雑貨が売れなくなったからだと聞いた。その伝で憶測を働かせるならば、犯人はドン・キホーテに客を奪われた小売店経営者か。ともかく、この事件の背景には今の社会が抱え込む矛盾の中枢があるに違いない。

 ニューヨークのWTCがイスラム原理主義者達の標的になった。オサマ・ビン・ラディン率いるタリバンは犯行声明を出し、米国はアフガニスタン、イラク戦争を正義の大義をかざして開始した。二十一世紀のこれが始まりである。
 東京の激安王ショップ、ドン・キホーテが連続放火テロの標的になった。世界を代表する超高層ビルにジェット旅客機をハイジャックして体当たりを敢行する象徴性はここには見られない。アレと比べたら、二階建ての激安王ショップが燃やされただけの事だとも言える。
 NYのテロリズムには病理を感じる事は無い。あるとすれば原理主義そのものが持たざるを得ない止めようの無い暗い意志への力であろう。それを病理だと言う事は出来ぬ。
 まだ、この事件の真相は知らないし、知らされてもいない。しかし、ドン・キホーテ連続放火事件には深い、時代そのものが内在させる病理を嗅ぎつける。

 第四回
 十二月十三日のさいたま市の店舗への放火により従業員三名が死亡して以来、千葉市、大阪市、東京都と連鎖的に事件が続いている。環八沿いの「ドン・キホーテ環八世田谷店」は店舗面積二階建て、延べ床面積約千三〇〇平方メートル。全焼した二階部分は約六三〇平方メートルの衣料品売り場だった。

 二〇〇四年、私達にすっかり馴じんだ感のある日常の消費生活に疑問符がつきつけられた。一つはかつて日本最大の売り上げを誇ったダイエーが経営不振に落ち入り、産業再生機構のもとで再起を期すことになった事。ダイエーは戦後の日本経済の歴史を象徴的に体現していた企業であり、大量生産大量消費の一時代を築き上げたとも言える。
 創業者の中内功は敗戦時フィリピン山中を逃げまわり、生死の境を生き、飢えの極限を体験した。一九五七年日本経済が高度成長をスタートさせた、まさに同時期に株式会社「主婦の店ダイエー本店大阪」を設立。一九五八年には神戸に三宮店をオープン、チェーン化に踏み出した。ヨーロッパでは一九〇〇年頃に消費社会がすでに形成されていた。又、同時に映画産業等の情報、メディア産業の先駆けがあった。アメリカは一九三〇年代ルーズベルト大統領によるニューディール政策が始まる前から、消費社会が出現しており、マスマーケットが生まれ始めていた。それに遅れる事三〇年程経ち、米国との戦争、そして敗戦を経た一九六〇年代の初めに、中内は渡米し、すでにアメリカの消費生活を支える実体になっていたスーパーマーケットをつぶさに体験した。一九七〇年「主婦の店ダイエー」から「ダイエー」に社名を変更した。創業期のダイエーには中内功の消費者の為の店創り、流通業創りという消費者運動にも見まがう脱経営性とも呼べる性格が明らかにあった。ある種の資本主義社会の管理価格的側面の矛盾を突き、それを解体しようとする社会運動的性格を一つの商店が担うというパラドックスがすでに存在していた。
 安売りは消費者すなわち主婦の為の価格破壊であり、その多店鋪化は日本の商品価格が内在させていた多重の流通業構造への攻撃的実践でもあったのである。それ故、店名は消費者の代名詞であった主婦の、その店であると宣言されたのだった。
 中内功は「主婦の店」を看板にする事によって、営利活動の中に消費者の組織化という新種の企業活動を構想し得ていたのだ。七〇年同年に、市価の六割、五万円台のカラーTV「ブブ 13 型」を発売する頃までは、その創業の精神は継続していた。
 家庭電化製品の値段に関して、消費者はほとんど関与する事がなかった。六四年の東京オリンピック、七〇年の大阪万博という国家主導の経済成長計画は同時に消費の欲望への火付け役としても企画されていた。自動車、カラーテレビ、冷蔵庫等の工業製品は入手し易い価格帯の中で設計されてはいたが、その価格は商品を製作する企業群の一見するに自由競争にゆだねられていた。又、当時は製品の大半が国内で生産されていた。販売は零細小売店舗を介して行われた。問屋を通して商品は流れたが、その価格は明らかにメーカー主導、生産者の圧倒的優位のもとに決定されていた。
 消費者は例えば市場流通価格よりも大幅に安価に電化製品を入手したいと考えたら、東京秋葉原、大阪日本橋等の特殊な電気商店街に足を運ばなければならなかった。秋葉原商店街はその経営者達が意識せざる自由市、信長、秀吉に対する堺の町衆の如くの市を結成していたのである。秋葉原の商店群は決してダイエーのブブ 13 型のような企業の意志としてのオリジナル製品を持とうとはしなかった。何故ならそこには消費者主権であるとか、消費者運動的なイデオロギーは全く入り込んでいなかったから。かつての秋葉原電気街は創業時のダイエーと同様に戦後の闇市のルーツを引きずり続けた場所だった。しかし、一九七〇年代にはたかだか一キロ平方弱の秋葉原電気街は全国の家庭電器市場の一〇%を占める迄になっていた。当然の事ながら電気製品メーカーにとっても秋葉原は特例的な価格の存在を許容した方が有利に働く、今で言うアンテナショップ的(実験的店舗)な性格を持たされていた。
 この様な基本的に極めてアナーキーな性格によって場所が形成され続けるのはオタク文化のメッカとして変貌し再機能する二〇〇五年現在の今にも持続しており、秋葉原の特殊な性格を形づくっている。ここにはいつも何のイデオロギー、企業体としての意志のようなものも働く事が極めて少ないのである。
 八〇年代末に秋葉原は郊外の量販店に顧客を奪われることになった。電器商品の価格帯が下がる事によって消費者が家族連れでワザワザ都心へ足を運ぶ迄の魅力が失われ始めたのである。奇しくも、その歴史はスーパーダイエーのそれと酷似、ししてかも連動している。一九七〇年代の高度経済成長=大消費時代に大発展し、一九八〇年代の事業の多角化を経て、一九九〇年代以降、業績が悪化したダイエーと、九〇年代にその商品構成を場所の意志として電化製品からパソコンへと移行させ、一九九七年以降新種の消費者であるオタク達に街を占有される事になる秋葉原の歴史は同根の問題を内在させているのだ。ただ、秋葉原はダイエーとは異なり場所の意志があまりにもアナーキーであったため日本の大企業に独特であった土地本意制とも呼ぶべき経営感覚を持つ事が無かった。電気街を構成する店舗、企業が余りにも多様に微細化していた為に企業意志=イデオロギーを持ち得なかった。しかし、それが秋葉原の変身を支えたのである。

 ダイエーは一九七二年に東京証券取引所市場第1部に株式上場、同時に物価値上り阻止運動を宣言し、三越を抜き、売り上げで小売業日本一を達成した。一九八〇年には年間売上高一兆円に到達した。しかし土地の値上りを見込んだ土地の購入=多店舗展開と消費者の動向の見誤りが加速し、九〇年代以降はその業績は悪化する一方となり、遂に二〇〇五年孫正義のソフトバンク社にその多角化の象徴でもあった福岡ダイエーホークスの経営権と株式譲渡と共に移行する事になった。コンピュータ内のサイトをビジネスの主幹とし、土地に頼ろうとしないソフトバンク社がリアルな「場所」を持たぬIT企業であった事は象徴的な出来事でもあった。

 ダイエーがその創業時のアナーキーさを本格的に振り捨て、企業として完全に資本主義化した八〇年代、秋葉原は顧客=消費者を郊外の量販店に奪われ始めていた。
 二〇〇四年末に連続放火事件に遭遇する事になったドン・キホーテが会社を創業したのが一九八〇年であった。
 ドン・キホーテは一九八〇年日用雑貨品等の卸売販売、小売販売を目的として株式会社ジャストとして設立されたのが企業としての始りである。杉並区桃井に「泥棒市場」と名付けた小規模店舗を構えた。創業者は安田隆夫。中内功がダイエーの創業に際して、主婦の店ダイエーと名乗ったのに対して、ドン・キホーテは泥棒市場と名乗りを上げたのが時代の流れ、消費者の意識、無意識な動向の変化を良く象徴している。
 一九八九年本店を埼玉県新座市より東京都府中市に移転。主な事業形を卸売業から小売業へ変更し、府中市に「ドン・キホーテ」一号店を開設した。当初より激安の殿堂を看板にしていた。ダイエー等のスーパー、ディスカウントストアーが基本的に大量仕入れ、大量販売により生活必需品を安価に消費者に提供するのに対して、ドン・キホーテ等のディスカウントハウスと呼ばれる業態はメーカーの在庫過剰や倒産による処分品等を仕入れて消費者に供するというゲリラ的な性格が在る。ドン・キホーテの前身が泥棒市場を名乗ったのは、その企業形態の本質を良く自ら把握していたからに他ならない。
 一九九五年商号を株式会社ドン・キホーテに変更。一九九六年店舗市場に株式公開。一九九八年東京証券取引所市場第2部に上場。一九九九年東京都渋谷区道玄坂に大都市中心立地の一号店としてドン・キホーテ渋谷店を開設。二〇〇〇年ナスダックジャパン市場に上場。同年東京証券取引所市場第1部銘柄へ昇格。二〇〇一年小型ディスカウントストア「ピカソ」一号店を横浜市に出店。九州一号店を福岡市に出店し、全国展開を開始する。

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