石山修武研究室

追悼 二川幸夫 <壱> 石山修武

「ベイシー店主 菅原正二 様」

もう、すでに御存知やも知れませんが東北は大地震からの復興が遅れていて、まだ耳に届いていないかも知れないとも想い、少しばかり気持も動転しているのでしょう、メールならぬ古い古いFAX原稿でお知らせいたします。我々の類稀なる先輩でもあり友人でもあった建築写真家の二川幸夫さんが亡くなりました。昨日夕方、息子さんの二川由夫さんから訃報連絡がありました。3月5日に享年80歳、病気による急逝との事です。葬儀・告別式は3月10日に御親族だけですでに行なったとのことです。二川幸夫さんの遺志で、供花、供物は固く辞退するとの事です。

 

もしかしたら生前大きなあのダミ声で宣言していた様に「120歳まで生きる」かも知れぬと、二川さんならば万が一そうかも知れぬと想ったりする程に頑健きわまる身体の持主でありましたから、やはり驚いてしまいました。

菅原さん、サックスの坂田明そして二川幸夫とわたくしで何処かのレストランで飛び切りうまいワインを御馳走になった東京での一夜は忘れられぬひとときでした。

「こんなに美味なワインが世界にあったのか!」

と素直に喜ぶ二人を眺めて二川幸夫は例によって

「ワッハッハ、俺はうまいモノしか飲まないし食べない。石山は場末の屋台の焼鳥がうまい、とか言ってるからイイ建築作れネェんだ。そんな貧乏根性は俺には一切無い。うまいモノは高いんだよ。世界中何処だって、貧乏趣味は俺は持たない」

と機嫌が良かった。

二川幸夫さんは妙に偉ぶったり、年寄りじみた教師振りは一切無かった。でも、貴兄もそれは感じ取ったでしょうが、実に教師の中の教師、それを超えた導師(グル)みたいな風があり、わたくし等は実によく叱られ、ハッパをかけられたものです。貴兄がモダーンJAZZそしてそのサウンドを再生するオーディオ(JBL)一筋なのと全く同じに、二川幸夫さんは建築一筋でした。下らぬ例えしかできぬのが残念ですが、そう、まさに一本ドッコの一本道の生き方でした。わたくしも恥ずかしながら建築、つまりは良い建築が好きですが、二川幸夫の凄さは一向にケチなインテリ特有の恥ずかしがる風も一切見せず

「俺はイイ建築が好きで好きで仕方ない」と何はばかる事なく言ってのける一本道がありました。そして、そのイイ建築のグレードと呼ぶかの水準は二川幸夫の世界の建築巡礼体験を経る毎に年々歳々上がる一方なのでした。最上級のワインや料理を味わうのと全く同じに、最高級の建築を味わい尽くしたように思います。それは並の建築家風情の水準をはるかに超えていた。歴史の区分けを超えて二川幸夫はイイ建築を嗅ぎ分け、それを記録し続けました。そして建築家達をイイ、ワルイの評価をもって遠回りに教え続けたと思います。

 

貴兄のベイシーの1960年代モダーンJAZZのレコード再生音の水準は世界一のものだと信じます。名だたる世界のJAZZ奏者達がベイシー詣でを続け、そのオーディオサウンドを聴き、こんなにJAZZって凄いモノだったのかと感動して、自分を奮い立たせている様に、二川幸夫の写真のみならず言葉も又、建築を好きであり続ける者達をふるい立たせてきたのです。ベイシーのスピーカーは半世紀JBL一本道です。そのJBLサウンドを聴いてアメリカ本社のJBL社長も又、ベイシー通いを何度も果したそうです。

そして、俺のところの機器がこんな凄い音を出すのかと仰天し続ける如きが、今、起きている。モダーンJAZZ は1960年代に最盛期を迎え、その後は静かに衰退を続けていると貴兄に教えられました。その少し前の50年代にレコード録音技術は最盛期を迎えていて、奏者のみならず、録音技術も含めた総合が1960年を作り出した、が貴兄の持論であるように理解しています。

二川幸夫を失って、近代建築様式も又、それに酷似した歴史を辿りつつあるのかと思います。目利きとか、鑑識眼の所有の有無を超えて二川幸夫は高みを目指して建築を作り続けようとする者を独特な方法で励まし続けた精神(スピリッツ)の在り方を示しました。

 

わたくし自身の建築作品制作の個人史は、ほぼ貴兄と同様に50年弱を迎えます。二川幸夫も無手勝流の写真で、これは60年程であった。そんな小さな歴史の中でわたくしの建築について、二川幸夫がマア良いかと言ったのは一作品しかありません。

カンボジア・プノンペンに作った「ひろしまハウス」です。今世紀になってほぼ完成しました。この建築を見てくれるように二川幸夫に頼むのはビクビクものでした。何度も建築は見に来てくれましたが、ダメだ、ダメだの連続でした。今度もダメだとは思うが、アンコールワットの写真を撮りたいから、ついでに見る。と、それでも言ってくれました。プノンペン空港に御夫妻で来られ、わたくしはお会いした翌朝どうしても北京で用があって、その夜に失礼とは思いましたが、ウナロム寺院の境内の建築に案内させていただきました。二川幸夫は建築を視た瞬間に評価を決める人でしたから、見学に時間はかからないとも知っていたからです。夜更けに寺院境内の「ひろしまハウス」の内外をチラリと見て、二川幸夫は言いました。

「又、ダメかと思って来たんだが、石山コレハイイヨ。お前根性あるな。アリガタイ、涙が出るくらいにイイゾ。明日は俺、気合いを入れて写真撮るぞ」

この一度切りなのです。二川幸夫にマアマアだと言われたのは。しかしながら、人生をオーディオ、そして建築はそう簡単にはゆきません。それ以降ダ作まがいが続き、再び、わたくしは二川幸夫の眼を恐れるようになりました。それ以上に、アレ以上のモノを作って、今度こそ「参った、イイゼ、格好イイ全て良し」と言わせてみたい。と思い込んでしまい、二川幸夫には会えぬ年月が続いていた、そんな矢先の事でした。

何をそんな時代がかった大仰をと、貴兄は言わぬと思います。作った音や、建築がイイかダメか。もし良ければドレ程のモノであるか、作った本人が実ワ良く知るのです。でも重要なときがあって、それは信用できる人間の眼の力に頼らざるを得ない。誰かの為にと言う、生チョロイものではない。コノ人間の眼にさらしたいと言うような時がある。

貴兄のベイシーでも名付け親のカウント・ベイシーがやってきた時、その肝心の時にいつも音の調子がイマイチで、貴兄が落胆を繰り返していたのを知っています。コイツに俺の音を聴かせたいと想う気持は、わたくしの建築作りにもあるのです。それがわたくしには二川幸夫でした。

 

でも、二川幸夫が居なくなって、もう見せてヤル、うならせてやりたい人物は皆無になりました。菅原さんの撮った写真を二川幸夫に見せた事がありました。

「これは俺よりうまいな。品がある」

と二川は即座に言いました。良いモノは良いと余計な事を交えずに判断し、表明できる人だった。ゴッドファーザーがドォと倒れ、これでいよいよ二代目となる息子さんの由夫がこんな事を教えてくれた事があります。ヨーロッパの古典建築を撮っていた時の事のようです。そのルネサンス期の建築を前にして二川幸夫は二代目の由夫に尋ねたそうです。

「これを撮った写真に○○○が在る。今、俺のアングルはアイツに負けてはいないだろうな」

二代目はオヤジに言ったそうです。

「イヤ、アンタが世界で一番だよ」

「そりゃ、そうだ」

とつぶやいて二川幸夫は写真を撮り続けたそうです。自らを頼む事異常な位の人間でしたが、随分な知識の蓄積、情報を持っていたのをしのばせます。

 

適確に世界の建築を観つづけ、それを血肉化した、国境らしきの無い人間でしたが、それでも二川幸夫は古い言い方ですが日本の伝統らしきに余りにも深い関心と感性を働かせ続けた人間のようにも考えます。

貴兄もお持ちの『日本の民家』はアメリカのモダーンJAZZ最盛期であった1950年代の日本の光景の記録でもあった。

 

2011年3.11の大地震そして津波、原子力発電所の事故は恐らく、建築、環境分野のみならず大きく日本人の思考の枠組みに再考を促しているように思います。二川幸夫の眼の力、発言は今、とても重要だなと思う矢先の不在となりました。その不在の空白は実に大きいのは思い知ります。

が、菅原さん、ベイシーの正二さん。この際、我々は生身の二川幸夫が居なくなった事に嘆いてばかりは居られません。生前も居なくなってからも随分大きな何かを我々は教えられてきたようにも思えます。

菅原さんはレコードを廻し続け、レコード針で音の演奏の再生に恐らく一生を賭け続けるでしょう。二川幸夫さんも、他人が作った建築群の、再生作業に一生を賭けられた。貴兄が俺はレコードを使って演奏しているのだと言うように、二川幸夫も又、建築を再生する作業を膨大にし続けたのでした。それは良く良く考えてみれば歴史家の作業と酷似している。

 

フランク若松の墓参はわたくしにはとても大事な事でもありました。生前の二川幸夫は自分が死んだら白い胡蝶蘭を一輪、そえてくれと言っていました。マ、人が忘れた頃を見計らって貴兄と坂田明と3人で二川幸夫に手向けの花を供えに行きましょうか。坂田明には墓前にて「家路」でも吹いてもらいましょうか。その前にギンギンのモダーンJAZZも一曲やってもらいたい。二川幸夫らしくてイイヤと思います。

二川幸夫が居なくなって、誰かに気持を伝えたいと思いました。本人には伝えられぬから、遠い一関ベイシーの菅原さんに一筆啓上の形で書かせていただきました。

菅原さんはやらないけれど、わたくしのウェブサイトも二川幸夫をしのんで一週間程の休みとします。二川さんにはこれも又、

「石山あれ(ウェブサイト)は良くないぞヤメロ」

と言われていましたので、遅ればせながら意に従おうと決めました。

貴兄から、この追悼に代える便りが万が一にもあったならば、それは追悼のページに勝手にONさせていただきます。返信なしでも一向にかまいません。

 

3月12日

石山修武

追悼 二川幸夫 <弐> 菅原正二

「石山さん」

本当の知らせは、まるで冗談のように突然舞い込みます。

—そんな馬鹿な!

二川幸夫さんから案内状を頂戴しておりました。パナソニック汐留ミュージアムでいま開催中の『二川幸夫・建築写真の原点/日本の民家一九五五年』です。会期が1月12日〜3月24日となっておりましたので、3月10日の日野皓正カルテットのライヴが終わり、4月19日、20日の渡辺貞夫クインテットのライヴまでの間に出掛けるつもりで、昨日その案内状を再読していたところでした。

 

石山さんご存知の通り、大分前にベイシーを訪れてくれた二川さんご本人から頂いた立派な写真集『日本の民家』は今も大事に所持しております。あの写真集を開いた時、ぼくはショックを覚えました。若き日の二川さんは生まれながらの大物だったという※証(0315修正)がここに堂々と表れており、問答無用の凄さにぼくは身震いしました。所謂「ジャズジャイアンツ」といわれたほとんどの人たちがそうであったようにです。不思議なのはここから先です。そんな二川さんが何故にぼくや坂田明に興味を示してくれたんだろう?ということです。石山さんのホラに簡単に乗るような二川さんではありません。ぼくと坂田の為にわざわざ一席もうけてくれた。あの東京女子医大死体置場ふきんのフランス料理店「ポトフ」での一夜は忘れ難い。オーナー・シェフが二川さんに美術品でも扱うような手つきで高級ワインを見せ、うかがいをたてると「ウン」と口には出さず二川さんは首をタテに振った。訊くまでもなく、すでに用意されてあったものであろうと今は思います。つがれたそのワインを口にしたぼくと坂田は同時に「何じゃい、これは!」と声に出していったね。ぼくはもちろん、坂田もこんな高級ワインを味わった経験はない。ぼくらの脳にはこのレベルの複雑な味の素粒子を分析する能力はなかったの。

「サウンド」だったらあるていど知った口を叩けるのですが。墓穴を掘る前に二人で、ただ「旨い!!」とだけ叫んだネ。訳は分からなくてもとにかく破格に美味であることは確かだったから。

あの場面で我々のレベルは二川さんにバレたに相違ない。でも、大物である二川さんは食事を、これも旨かったのだが、しながら嬉しそうにいろいろと喋ってくれましたよね。

 

二川さんはメルセデスの装甲車みたいなクルマに仕事上乗っていたが「停車中にうしろからドカンとぶつけられたことがあってね、この野郎!と思って降りていったら、ぶつけたほうのクルマのフロントがペッシャンコでこっちには傷ひとつついてないの。それでゴメンね、といってやった」。

「開高健とは中学生時代からの悪ガキ同士だったが、大人になってから彼とホテルのティー・ルームで待ち合わせたことがあった。遅れてやって来た開高が『やあ、ふたちゃん!ここだけの話だがねェ!』とロビー中に響きわたるような大声で内緒話をするの」。

二川さんの話でぼくが最も感銘を受けたのは「中学生の頃に親父が、これを使えといってライカをくれた。何本フィルムを抜いても全部ピンボケで、いつかは俺もピントが合うようになるのかなあ・・・と思っていたら、あれ、レンズを引っ張り出してから撮るんだってねェ!!大分あとになってからわかった」。ライカの沈胴式レンズだったの。

—過ちを観て斯に仁を知る―けだし大物にありがちな逸話のこれは典型で嬉しく思いましたね。

 

石山さんが、気仙沼の山の中腹に『リアス・アーク美術館』を建て、これが「日本建築学会賞」を受賞。その時、石山さんがぼくに「ひとつ撮影をお願いします」といんぎんに言ってきたけど、石山さんのいうことはほとんど命令といっていい。イチかバチかタイプのぼくはその時はムキになり撮りまくった。そんなところに二川さんが主幹する「GA」が送られて来て、その本の頁をめくると・・・「ジャーン!」、二川さんが撮影したリアス・アーク美術館の写真が堂々と載っていた。頁をめくるたびに二川さんの写真は「ドカーン!」という音を発するの。二川さんの撮る写真は一切のこざかしさを排除した真っ向う勝負で、全てが「横綱相撲」。たったの一枚で被写体の本質を語り尽す圧倒的迫力があるのは誰もが知っている。知ってはいるが、この場合に関してだけは石山さんのおかげでぼくにとっては他人事では済まされず、身のほどわきまえずに正直ビビッた。で、石山さんに「二川さんの写真見て膝頭が震えた」と電話で打ち明けると石山さん、例のトーンで「え?!もしかしてアナタ、二川幸夫に勝つつもりじゃないでしょうね」と冷静に笑ったでしょ。冗談にもほどがあるってもんです。

でもしかし、二川さんにも可愛いところがあった。最初にベイシーに来た頃に「俺もやる」とかなんとかいってタンノイの大型スピーカーを買ってぼくに勝とうとした気配があったらしいじゃない?

 

二川さんは年の半分ぐらいを海外で仕事をするという忙しい人生でもあったから、そう簡単に会える方ではもちろんありませんよね。

実際には会っていなくてもいつも心の中では会っているという人がいるもんです。

—二川さんは、ぼくにとってそういう人の中の確かに一人であったですね。

石山さんが中に入ってくれたおかげで天下の二川さんとお会い出来たことを光栄に思います。

こうなったら、また会える会えないは問題外。いつまでも想い続けます。

ありがとうございました。

2013 3月12日

ベイシー 菅原正二

追悼 二川幸夫 <参> 鈴木博之

「二川幸夫さんの逝去」

二川幸夫さんが亡くなられたとの報は、思わず耳を疑うものでした。

3月11日、学会で小さな委員会があったとき、汐留での二川幸夫写真展を見てきたという委員の一人が、その報を伝えてくれました。

 

ちょうど2カ月ほど前、1月24日に安藤忠雄さんと一緒に北参道のGAビルに二川さんを訪ねたのが最後になりました。この日、国立近現代建築資料館の入り口部分に飾る建築写真を、二川さんの作品の中から選ばせていただけないかというお願いに伺ったのでした。安藤さんは、入り口には二川さんの写真以外は考えられないと言って、交渉をされていました。そして、「一緒に来い」というわけで、お願いに伺ったという次第でした。

 

久しぶりにお目にかかった二川さんは、「いやいや、お二人お揃いで」などと言いながら迎えてくださって、写真の件は快諾、後は現在のお仕事の話となりました。

 

デジカメになってから、解像度がけた違いに向上したので、古典的建築をすべて取りなおすのだと言っておられました。シャルトルの大聖堂を取り直したら、あっと驚くほど細かな部分まで写っていて、ステンドグラスの細部はこうであったかと驚くばかりだったとのことでした。そうした現代の技術を使って、皇居、京都御所、桂と修学院の離宮などを、四季を通じて取り直し始めたところだと言っておられました。許可を取るのが大変だったけれど、ある時点から極めて寛大な許可が得られるようになり、この秋には紅葉の写真を撮ることができた。いまは雪景色を狙っているところで、雪が降ったら即座に出かける体制ができているのだと、気力十分でした。

 

このほか上海万博の撮影では、足がむくんでしまって大変だったことなど、最近の撮影の苦労話などを、実際には楽しそうに語りまくっていました。技術の進歩に信頼を置き、それを駆使して前進する気迫に満ちた姿勢は、むしろこちら側が圧倒されるほどでした。安藤さんはこういうとき、じっと聞いていて無駄な口を挟みませんから、二川さんの意欲にふたりとも圧倒されているといった構図でした。

 

わたくしはこれまで何人かの建築写真家の方々に接する機会がありましたが、やはり二川幸夫さんは現代建築にとって別格の存在だったと思います。わたくしが一番初めに接することができた写真家は渡邊義雄さんで、大学院に入りたてのときでした。当時、太田博太郎先生が『奈良六大寺大観』の編集に携わっておられ、法隆寺の撮影に学生たちをアルバイトとして参加させて下さったからでした。渡邊義雄さんの撮影は、昼間、われわれに反射板を構えさせて、屋外であるにも拘らずマグネシウム球を焚いて、軒裏を照らすといったやり方でした。大型カメラのレンズを合わせ、フィルムを装填して、それから三脚揺れが鎮まるまで、皆シーンとして待つのでした。合宿所で夜、写真の構図の話、表現の話などをうがかったのも、貴重な体験でした。

 

次いで知り合った写真家には、増田彰久さん、村井修さんなどがあり、それぞれに作風というのか、写真の性格がはっきりしていて、勉強になる方々ばかりでした。建築写真にわたくしが求めるのは、けれん味のない静かな写真なのですが、こうした方々の写真は、信頼できるものばかりでした。そしてそのなかで二川さんがダイナミックな写真を見せてくれる大作家でした。二川さんの撮影ははやいのだという噂を聞いたことがあって、入り口から入って裏に抜けたときにはもう撮り終わっていたなどという伝説があるくらいでした。一度そんなことを伺ったところ、撮影の前には図面を検討して、方位や日差し、デザイン上の見せ場などを読み解いておくのだとのことでした。写真家という、建築を見るプロ、建築を解釈するプロの言葉は、聞いていてそれはそれは教えられるところの多いものでした。二川さんのご冥福を祈るとともに、二か月前にお元気でいても、二カ月あれば人は死んでしまうのだと、さまざまにもの思うのです。

追悼 二川幸夫 <四> 坂田明

二川幸夫さんの思い出

二川幸夫さんという建築写真の物凄い人と知り合ったのは建築家の石山修武さんの紹介であった。ああいう人はあったらすぐに大物であることがわかる。存在感がぜーんぜん違う。あったとたんにすってんころりと転がってるしかない。太陽の前の豆電球のようなものだ。それに気付かない奴は一生がタコだ。ま、そういうことだ!

 

二川さんに、石山さんと一関のジャズ喫茶ベイシーのマスター菅原さんとフランス料理を食べに連れて行ってもらったことがある。そこで出てきた赤ワインというものはただ者でなく、菅原さんと「わ!こ、こ、こ、このワインはただ者じゃな、な、な、ないぞ!」と言った覚えがある。ついでにフォアグラのステーキなどを食べたことも記憶にある。印象は強烈だった。どこだかは忘れた。

 

二川さんのところ、GAでソロ・コンサートをやらせてもらったことがある。ずいぶん前だが、その頃は打ち込み(今ではトラックというらしいが)に凝っていて、PAにお金を使って、それを気持よく鳴らしながらコンサートをやった。大赤字になったことを、よく覚えている。やっぱり採算は考えたほうがいい。授業料は高いのだ。

 

二川さんから聞いた話で面白かったのは「開高健、砂利胆石話」だ。自分も胆石を取ったのだが、開高健さんも胆石を取ったらしい。ところが自分のは大きな石だったけど開高さんのは細かいのが沢山あったそうで、

「開高!お前のは砂利だったそうだな!といってやったよ、ガハハハハハ!」

と豪快を絵にかいたように笑われた。そういう人だった。豪傑も何時かは逝ってしまうのだなあ、と思う。

 

2013 3月19日

坂田明