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009
石灯ろう

 無作為の作為をそのまま形に出来ないか。こんな禅問答の?みたいな事を考えてみる。世界は明晰な論理だけで組み立てられてはいない。不可解、非条理に満ち満ちている。伊豆西海岸、賀茂村の海岸で一日過ごした事がある。山と海が接するところに沢山の岩や石が在って、その造形群の妙にみせられ、身を極小にまで縮めて、岩石群の仲に踏み迷ってみた。石の村を旅する感があって楽しめた。石の一つ一つの造形はそれこそ千差万別であきない。表面はそのまま地図を眺めるに等しい。山があり、河があり、海もある。無言の固まりでありながら、多くを語り続ける。しかもその群の組み合わせは偶然でありながら、巨大な作為が明らかに在る。
 何万年もの時間がそこに働いている。海の干満のエネルギー、打ち寄せては退く波のエネルギー。それが山を打ち砕き、岩となし、やがて石の形を造る。若くまだ鋭い角を持つ岩や、老いて丸くすり減らされた石が混在している。人間社会のモデルのようにも視えたりする。
 この組み合わせを、そのままデザインに置き変えられぬかと、いささか強引に試みたのが、松崎町那賀川の岸辺のデザインだった。河原の石を拾い集め、幾つかを無作為に並べる。そのシルエットを紙に描き、その一部が地上に露出した姿とする。松崎町那賀川 川沿いに巨きな石がポコリ、ポカンと現れた姿とする。でたらめと言えばでたらめなのだが、その形の裏には明らかなモデルが在る。何万年の時間が作り出した石の姿のモデルだ。それをコンクリートに置き変えて岸辺に並べた。何十メーターも離してそれを配した。その間の距離は新幹線の架線のワイヤーで結んだ。JRに頼み込んで強力なテンション・スプリングをかけたワイヤーで石の形と形を結んだ。
 これは良い風景を作り出したぞとニンマリとした。人知れず試みたデザインだった。

HOSHINOKO  この試みを、そのまま建築の造形に展開できぬかとスケッチを重ね続けた。初めての建築化の試みが、川崎市稲田堤の星の子愛児園であった。大きな箱の上に石の形の一部が浮いて出たものだった。

 まだ考えが充分に言葉に純化されぬママに形にしてしまったので、充分なモノにはならなかった。しかし那賀川の岸辺の造形と、愛児園のデザインは不連続に連続していると自覚していた。その関係は無意識に意識された状態であった。

 その考えを一度、形にまとめておきたいと思って作ったのが、この石灯ろうである。
 佐賀のバウハウスとのワークショップで会った広島県在住のアーティスト木本一之の手をわずらわせた。木本君とは手紙のやりとりで仕事を進めた。スケッチを交えた言葉のやりとりでは考えは次第に純化され、育った。
 木本君は中国地方の川を巡り、これはと思う石を幾つも拾い集めてくれて、写真を送って来た。石には番号が附されていた。私はその中から、コレとコレとアレではどうかと組み合わせの考えを幾つか述べた。実物に触れ、その感触、重さは木本君だけが知り、私は知らなかった。写真と言葉だけが私のデザインの拠りどころであった。
 何回かの交信があって、やがて途絶えた。木本君は実製作に入った。

GENDAIKKO  私のこれ迄の建築の中で自身でも一番不可解なのは宮崎の藤野忠利の為に作った「現代っ子ギャラリー」である。
 アルミ板のファサードに丸い紅色の丸い造形物が無作為にプカリ、プカリと浮いている。この作品は不可解なものではあったが自信作であった。何故こんなに自信があるのかわからぬママに自信作だった。
 木本君から完成した石灯ろうの写真が送られて来た。満足である。現代っ子ギャラリーの秘かな自信の素を良く理解する事が出来た。

 無関係の関係。あるいはもっと純化させて言い切るならば無作為の作為。この言葉の親は吉阪隆正のものだ。
 吉阪が到達した地点は、要約すれば「不連続の連続」である。レオポルドビルのコンペ案や、実作としては八王子の学生セミナー・ハウスがその造形の有形学的現われである。現代っ子ギャラリーはその系譜の中にあった。宮崎の仕事はそれがファサードに良く現われていた。しかし、スケールの問題もあり、内と外とがまだ充分に流通していなかった。
 建築の表層にだけ現われていた。

 身心脱落。脱落身心。
 死んだ佐藤健から教えられた言葉である。無作為の作為という自由を良く表現している。
 石をただ積み重ねるのだってプリミティブな造形である。積み重ねるには子供が積み木をするような実に初歩的な技術が必要である。技術とは言えぬようなしかし初原的な手と感覚なバランスを要する。木本君は先ずそれを試みた。そして、その幾つかを私に写真で伝えた。写真を眺めて私はその組み合わせの一つを選んだ。
 木本君の感覚と私の感覚がゆるやかに組み合わされる事ができた。通信を介して、デザインを組み合わせたのが良かった。木本君の主体と私の主体とがゆるやかに、お互いの自由を損なわずに連結できた。無関係の関係である。石と石の積み重ねの状態も同じである。積み重ねた石はそのままでは不安定だ。その不安定が良いとも思えるが、それでは賽の河原の石積みと変わらない。木本君の本来の仕事、すなわち修練を積み重ねたプロフェッションは鉄工芸である。ドイツのマイスターについてその技術を鍛練した。
 しかしながら石の力を生かす為に鉄のフレームは最小限の細工にとどめた。石は鉄の架構にくるまれて、組み合わせの形を固定された。不安定の安定の状態が生み出された。
 このデザインは機能を持つものではない。楽しみの為、遊びの為のモノである。それ故に様々に展開する事ができるように思える。巨大にすれば建築になる事もできよう。

 それぞれの部分が自由な存在でありながらゆるやかに自由な関係を保つ。その状態が少し表現されている。部分という概念には殆ど無限なバリエーション、スケールがある。地球は太陽系惑星群の部分である。太陽系は銀河系の部分だ。建築は都市の部分であり、石灯ろうは庭の部分である。それぞれに個別な部分は、それぞれが属するスケール(世界)の中で本来自由気ママな偶然の中に浮遊している。無関係に散在している。その無関係な散在状態に、できるだけゆるやかな、秩序とは呼ばぬ程の関係の構造を作りだすのがデザインなのである。

   この石灯ろうのデザインは、自然そして時間の力を知った上でその妙の可能性を計りながらの偶然な必然である。無作為の作為とは自然の力を知りつつ行う一見非論理的に見えてしまう演技の事である。デザインをなす力にも構造がある。感覚は趣味が知覚的に構成された総合でもある。
 石山修武

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