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013
東京/穴/ルイス・キャロル


 吐き出したり流れ出たり、あるいは吸いこまれたり放りこまれたり―東京には無数の“穴”が潜むようにして散在している。東京は音もなく呼吸している。それは私たち人間の皮膚呼吸に似ているかもしれない。
 私たちは穴に囲まれ、穴から聞きだし、穴から吸い込み、穴に差し込み、穴に放りこみ、穴に監視され、そして自ら穴を通過したりしながら生活している。
 スピーカーの穴、ドアの鍵穴、自動販売機の取り出し口、エレベーターの溝、排水管、マンホールの穴、ポスト、車の排気孔、水道の蛇口、きっぷ売り場のコイン投入口、監視カメラのレンズ、コンセントの穴、地下鉄の地上出入り口、、、、一度気付いてしまうと、宝探しをするようにわくわくして止まらない。東京駅周辺を40分程うろついただけで、ざっと50の穴を見つける事ができる。
 しかし、たとえばこれらの穴のむこう側が見えてしまっていたとしたら、あんなに夢中にはならなかったかもしれないと後になって思った。私が東京駅で見つけた穴は、ボタンの穴やちくわの穴とは違うという事だ。すべて、向こう側が見通せない穴なのである。だから私たちは、普段これらの穴をあえてのぞこうとはしない。しかし、意味のない穴はひとつもない。必ず機能がある。
 そこで、これらの穴のむこうに何があるのかを考えてみると、それは多岐にわたっている。
 大きく分類すれば、マシンの内部と外部の境界としての穴、人の動線の出入り口としての穴、電気や水、ガスといったインフラのための管―すなわちダクトの切り口としての穴、の3つである。これは、穴の通じる先が存在する層のレベルによる分類でもある。地上、いわゆる地下空間、さらにその下に広がる情報空間である。
 地上につきあたりがないように、地下空間、情報空間にもつきあたりはない。鍵穴のつきあたりなど誰も知らない。地下鉄のつきあたり、コンセントの穴のつきあたりも同様である。見えない。いくらながめてみてもよくわからないというのが現実だ。
 東京に散在する無数の穴―それはエンドレスなどこかへ導かれる入り口なのかもしれない。

   ナンセンス文学の最高傑作といわれる「不思議の国のアリス」がルイス・キャロルにより生み出されたのは19世紀末のイギリスである。「不思議の国のアリス」の自由気ままなストーリーは、主人公アリスが白ウサギの穴に落ちるところから始まる。穴の先はとりとめのないファンタジーの世界だった。
 「不思議の国のアリス」が後の文学、音楽、絵画、アニメーション等に及ぼした影響が大きい事は有名であるが、中でも興味深いのは、一大ブームを巻き起こした映画「マトリックス」(1999/米)の映画監督が、「不思議の国のアリス」がマトリックス3部作を貫くテーマであると述べている事である。
 「マトリックス」は人間の住む世界が実はコンピューター上の仮想現実だったという設定がなされており、確かに、常識のわくを飛び越えた発想が「アリス」的だと解釈する事は可能である。しかし、「マトリックス」はバーチャル=仮想であってファンタジー=空想ではないのではないだろうか。
 仮に「マトリックス」がバーチャル的、「不思議の国のアリス」がファンタジー的であるとしたとき、バーチャルとファンタジーの違いについて考えてみると、まず言葉のイメージとして後者の方がユーモアや夢に満ちている点が挙げられる。
 次に、バーチャルな空間は一体なにで構成されているかが不明瞭なのに対し、ファンタジーの空間はモノで構成されていると考えられる。すなわち、モノという現実的な物質で構成されているために、ファンタジーの方が身体的であり建築的だという事だ。
 人間が確かなボリュームをもった立体物である限り、人間がモノと断絶したバーチャルな空間に住まう事は考えにくい。しかし、ファンタジーの空間に住まうという事は考えられるのではないだろうか。

   私は今、研究室で「ルイス・キャロルの住宅」という課題に取り組んでいる。それは建築と文学、ファンタジーの関係を模索していく事でもある。
 目の前のコンセントの穴。ビルの排気孔。マンホールの穴。手でさわる事のできるリアリティを持ったモノだ。しかしその穴のむこう側を想像することは、ファンタジーと建築をつないでいく上でなんらかのヒントになるのではないかと考えている。
 渡邉 麻衣

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