■ 倉庫と引出し -13 (動くものと動かないものとの相互貫入-2)
〜建築のディープポイントへ〜:手のスピードと頭のスピード
北斎が全てのコマを描くのにどれだけの時間をかけていたのかはわからないが、自分で画狂人と名乗るくらいだから相当なものだったことは想像がつく。当然北斎はシリーズものだけではなく一枚ものの作品も作っているが、そうしたものに比べれば「北斎漫画」の一枚一枚にかけられた時間は少ないだろう。同じシリーズ物でも「富嶽三十六景」などの方が明らかに手間ひまが掛けられている。「北斎漫画」はそれに比べれば走り描きである。しかし必ずしも「富嶽三十六景」の方が修練された作品であるとはいえない。なぜなら、描く時間が短いものが連続して作られるということ自体は北斎が考える頭のスピードにより近い速さで作品が出力されたといえるからである。つまり、北斎の頭の中で展開された動きがよりそのままの速度を包含したものとして出力されたのが「北斎漫画」なのである。「北斎漫画」は北斎という一人の主体と彼自身の作品との知覚的なコミュニケーションそのものである。
一方で観客の側にも作品との知覚的なコミュニケーションは生じる。その機構は特に現在のアニメーションに端的に現れている。1秒間に8コマというリミテッドアニメに始まった日本のアニメーションは現在では膨大なコマ数が速度をともなって描かれる世界である。例えば、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」は上映時間124分35秒21コマを作画枚数112,367枚で描いている。実際にはこれらがコンピュータ上で組み合わされて作られるのでコマ数はもっと膨大なのだが、単純に計算しても1秒間に約15コマ程度となる。ということは、どんなにコマが少ない場面でも「鉄腕アトム」の倍近い動きが展開されていることになる。観客の視線はそれだけより多様に発生している。これと同様に「北斎漫画」では見る側の視線は北斎によってより複雑に交錯するように仕向けられている。前回にも示した「踊る人間」がなぜ33コマで描かれているのか。なぜ32コマでもなく34コマでもないのか。それはこの辺りのことに関係があるのではないかと憶測している。
この様にコマ数とは、作家自身の知覚と観客側の知覚の錯綜に大きく関わるものであり、それによって形を与えられた作品とは両者のコミュニケーションのドキュメントである。北斎が200年も前に描いたのはまさにこうした自分自身と個々人との速度を包含した構造体であり、それはあまりにも現代的ではなかっただろうか。
渡邊 大志
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