「飾りのついた家」組合

HOUSE DECORATING GUILD
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「飾りのついた家」組合日誌

2014.03

「飾りのついた家」組合日誌 77

[2014/03/20]


石山修武


作品番号108は連載形式とする。

事の進展に興味のある方、また何かその世界に惹かれる方がいれば、いればだが107をクリックして更に内に深くもぐり込んで下されば良い。

作品は108「生きもの魂倉」である。

実物だけではとても表現し切れるモノじゃない世界に入り込み始めている。だから、実物の商品としての作品とは別に、説明ともちがう物語りを、やっぱり用意しなくってはと考えつくに至った。

気付いてみれば物語りはすでに語り始めていた。

「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」がそれだ。ウェブサイトにキチンと仕舞ってあるから、読みたい人は読めばよい。読みたくない人は読まなくって結構。余計なお世話を焼くことはしない。

どうやらウェブサイトのタダ読み読者の気質の大方と、わたくしの気質は大いに違う。どう違い、何故違うかをこれ又、クダクダしく説明することはしない。したって何の得にもならない。そんなくだらない事にようやく気付いただけの事である。

それで、ひとまずの結論として、作品番号107は連載形式にする。何故かと短く言えば、そうしたいからそうするまでの事だ。こちらはどうしてもそうやってでも表現は続行したい。言葉だけでの表現では物足りないし、自分を上手に表せぬので、それで物の助けを借りたいと考えた。

このあたりの事は絶版書房刊のアニミズム紀行でようやく辿り着きつつある事なので、モ少し説明を聞きたい向きは読んで下されば良い。「飾りのついた家」組合だって、それがもとで作りつつある事なのだ。

「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」もグラグラと変身を続けた。しょうが無い。頭の中の整理ダンスの何処かが壊れて不具になっている身である。今さら直しようが無い頭脳ではあるが、時々、コレじゃあどうしようもネエなとも気付くところが最低の取り得だ。今度もギリギリの崖プチでようやく気付き、ウェブサイト上のやっぱり不具な出来の物語りに手を入れながら再生させる事にした。

「再びモヘンジョダロ近くの烏山神社1」まで話しは進んでいたが、その先をいったん破断させてから続行させる事とする。

「108生きもの魂倉」である。

無理して物語りの形式はとらない。何処にあるいは奈辺にこの事の目標ありやと、問われれば、表現したいからのガキのタワ言とは別に「いきもの魂倉」を千個、千体、千倉売ってみたいからと答える事にする。

「飾りのついた家」組合日誌 76

[2014/03/18]


石山修武


京王線千歳烏山駅まで歩くのに2つの道があるなと改めて気が付いた。2つの道共に組合のこれからに深く関連がある。

1つは烏山5丁目の再開発現場の歩行者用通路を歩く道。

2つは隣の烏山神社にお参りしてから駅へ向かう道である。

歩行者用通路は近隣の皆さんの力を得て、開発当事者と話し合ってなんとか実現した。

この仮の歩行者通路を歩くと、途中に七本の桜の老木がある。世田谷区の保存樹として指定されている。

開発業者にはこの保存樹は残してくれと頼んだが、その結果はあんまり思わしくはない。

亡くなった鈴木博之さんに頼んで保存の嘆願書めいたもの迄用意したが、一本、二本残るかどうかなのだろうか。

だから風前の灯となっている桜の老木を眺めながら歩くと自然に鈴木博之さんを思い出したりもする。

桜の樹の影とも言うべきは様々な想いを散らせるのである。

烏山神社のお参りルートは、これはいずれ組会員になっていただこうと考えている志村喜久雄さんの通称、志村稲荷があって、時々小銭を喜捨して手を合わせる。

手を合わせて、志村稲荷が「いきもの魂倉」社として発展されんことを祈るのである。

これでは何のことかは解らぬであろうから、この事についてはおいおい書き進めてゆきたい。

鈴木博之名残りの桜に関しても、鈴木さんの指定で装飾の文様が決まった、「ウィリアム・モリスのカバン」(仮称)も、前橋の市根井立志さんに製作していただこうと準備中である。

飾りのついた家組合もすでにこの世から姿を消した人や、これから姿を現そうとしている不思議極る「生きもの」やらを交じえて仲々にぎやかになりそうである。

GAYA、GAYAとさんざめきさえ聴こえるような気がする。

「飾りのついた家」組合日誌 75

[2014/03/18]


石山修武


今日も早朝から洗足の「洗足邨」の左官の現場へ行く。

工業製品をパタパタアッセンブルするだけではない。時に人間の手が表現してしまうブレやヒズミ、そして、間違いなどが表現されてしまうので見逃せない。

わたしの指示だって、その日のエネルギーやら気分で左右されるだろうし、決して機械的なモノではあり得ない。

指示が予定調和の事後確認ではなくって、まさにその場、その時の表現になっている。

左官職の手にする材料も、わたくしが体験した伊豆の長八美術館建設当時とは随分と様変わりしている。

伊豆の長八美術館建設に参加して下さった左官職が手にしていた塗り壁材料はそれこそ江戸末から明治初期を生きた左官の神様と呼ばれる入江長八が自ら独自に工夫、開発した泥絵具の顔料を交ぜたりの個々人の工夫によるオリジナリティーがあったが、今はそこ迄の工夫をなす職人は日本広しと言えどもほとんど居ないのかもしれない。

寂しい限りではあるが、左官の仕事の機会を少しでも増やすことしか、こういう巡り合わせに遭遇することは無いであろう。

少しでも努力してみたい。

「飾りのついた家」組合日誌 74

[2014/03/17]


石山修武


「洗足邨」について

洗足邨の名はクライアントの伊藤氏の命名である。わたくしの世田谷村の洗足版だとの思い入れがあるようだ。

この4戸のアパートは勿論わたくしの作品でもあるが、地元品川の有力工務店サンユーの製作物でもある。

賃貸しアパートであるから、貸してクライアントは利益を得なくてはならない。それで余り目立つモノは作らないで欲しいと言われた。賢明である。わたくしだって営利目的でアパートを作るんだったら先ずわたくしに作品作ってくれとは頼まない。

それは重々承知している。

でも、そうは言っても何やらやはりやらねばの意は強い。それで、結論として、充分に地元工務店の意向を含む経験、技術力を設計に組み入れることにした。

我ながら賢明である。

そして地元の有力工務店の経験他をバックにしながら販売の面で何か出来ぬかと考えたのである。

昨日3月15日午後に現場に立ち切りで、左官仕事の現場監理をした。

何故ならこの建築の設計上の中枢は一枚の壁の表現にあるからだ。これはあくまで設計者だけの胸の内のこと。この前の通りにほぼ直交した壁は、駐車場スペースを介在させ、このアパートのほとんど唯一のデザイン上の表現となっている。他は工業製品のうまい組合わせと言う他はない、いわゆる商品化住宅であり、これは地元工務店の手にほぼゆだねた方が良いと考えた。スペースよりは設備であろうと割り切った。

それで、残された一枚の壁の表現に力を集中させたのである。

だから、ほぼつき切りで現場にて、左官職のWORKに口を出したのである。

左官は伊豆の長八美術館建設以来、わたくしについて廻る特別な職人達である。

この現場の職人たちは、そんな事は知らぬであろう。が、わたくしは伊豆松崎町の左官職伊豆の長八を顕彰する美術館建設以来、この転職には深い愛着がある。一方的に切っても切れぬ仲なのである。

それで左官が出てくると、わたくしの足はどうしても現場に向うのである。

一昨日も通りがかりの品の良いオバさんが一人「あら、朝から何やっているのかしら」と声を掛ける位に、今、現場で左官職が表舞台に立つことは稀である。

しかし、この現場は表通りに面した壁の大半は新建材も含めた、新左官とでも呼び得る技能を駆使したのである。

工事中にすでに広告に出ているのであろう、入居希望者の若いカップルが現場に立ち寄られた。

あと数日で、左官工事は補修を含めて完工する。

前の家の桜の古木に花が咲き始めているやも知れぬ。その桜の花の見事さに見合う壁になればとは思っている。

何だ、こんな壁で大きな事言うなと思われるやも知れぬが建築家だってギリギリの努力はし続けているのである。明日3月18日10時に再び、左官の壁の最終工事に立ち会う。

それで、わたくしの仕事のほぼ大方は終わる。

その後は出来るだけ早く、その壁の仕上がりをネットで公表して、出来るだけ多くの入居希望者の来訪を待ちたい。

「飾りのついた家」組合日誌 73

[2014/03/14]

「Tea on wheels」


石山修武


インド、グジャラード州アーメダバードのKISHAN SHAH君から送られてきたポートフォリオ中にProduct Design and Furniture Design - Upcycled Products - Extra Curricularがあった。

中に ”Tea on wheels” and “The bookie”が目を引いた。

双方共にインドの赤ん坊のいわゆるBaby walkersを再利用したものである。秀逸である。

恐らくインド西部地域に程々の数量が生産されているものの転用であろう。

これを組合の作品リストにONできるかどうか検討したい。

「飾りのついた家」組合日誌 72

[2014/03/13]


石山修武


「信用というモノ」

「飾りのついた家」組合の作品録もそろそろ100番に近づき、どうやらこれはただの冗談ではないな、が世間の通り相場であろう。日本人の大方は、例えば安藤忠雄の如くに、この道一筋という生き方にひかれるようだ。

その点、どうやらわたくしの、もうこれは生き方と言う他に無い生きる表現の在方は、この道も、あの道もという風に他から見られるようだ。建築設計一筋というのをやれれば、その方が世間の通りが良い、信用も得られるのは重々承知なのだが、それがどうしても出来ない。

何故なのかは知らぬ、というよりも良く説明する事は出来そうにない。

建築設計一筋の方がスッキリ自分を説明しやすいだろうことも知っているのに。

どうやらそれだけでは生きるに不充分であるとの本能、直覚らしきが働き続けているようにも思う。

17、18の頃にモノ心がつくとして、ハヤ50年、半世紀になんなんとするわけだが、それがこの「飾りのついた家」組合で、自身の錯綜好み、愛好が又も噴き出している。

大体、わたくし、あるいはわたくし達と言うべきかのウェブサイトを介しての、明らかに過剰とも呼ぶべき、表現方式だけでも、これは歴然として、この道一筋とは真逆のすでにスタイルではある。

でも、もうこれは間もなく70才を迎えようとしている今にして、もう修正する事は出来ない。したくない。修正してしまっては自分の存在が消えてしまうような気がする。

この過剰、錯綜はどうやらわたくしの本姓なのだ。

それで、ついでにといっては何だが4月からのわたくしの表現、製作の場が、大学の研究室から離れることになる。本来の、所謂俗に言う肩書きの無い世界に戻るわけだ。肩書きは無くとも仕事場はなくてはならない。

生きるうえで必需品でもある。

仕事場は今も生活している世田谷村の一角に持とうと決めている。家族とも話し合おうとしている。

世田谷村には30坪以上もある大きな地下室がある。昔はそこを地下実験工房なんて呼んで肩をいからせたりしていた。

でも地下は今のところ修理しなくてはならぬ処がいささか多過ぎる。0から仕切り直そうとしているので当初の仕事場の人間は数人である。

その小人数が地下にたむろするのは、いささか危い感もないわけではない。

必要以上に世間に危険感、すなわち反社会的姿勢をかもし出しかねない。

大学の研究室という、それとは正反対の安全地帯からも程遠い。

それで4月からの看板である。

結論を言えば看板は「世田谷村 SETAGAYAMURA GAYA STUDIO」とすることにした。

SETAGAYAのGAYAを反復してGAYA GAYAしたエネルギーが少しでも出せたら良いと考えた。

もっとまともに、世田谷村石山修武研究所とかの方が70才代には良いのではないかの、内なる声もあったが敢えてしりぞけた。一人で、勝手にヒッソリと、決断した。

わたくしは、昔それこそ50年も前に友人達と作った組織の名前をDAM・DANと名付けた前歴がある。

そして、今でも株式会社ダムダン空間工作所の非常勤代表取締役の役職である。

そのダムダンとも再び何かと行動を共にするやも知れぬ。ダムダンとGAYA STUDIOでは、これはやっぱりいささか物騒である。世間の信用は得られまい。

だから仕事によってしばらくは使い分けることにしたい。

さてさて、いかがなりますか?

「飾りのついた家」組合日誌 71

[2014/03/12]


石山修武


「町づくり支援センター」のこと。

ずいぶん昔の事になるが、石山修武研究室で伊豆西海岸・松崎町のオリーブ茶を売りに出していた事がある。

「飾りのついた家」組合の前身、あるいはオリジンとも考える町づくり支援センターを作っての第一回の頒布会での事だった。

意外にも大人気を博した。

オリーブ茶を買っていただいた方からは

「お茶をねェ、大学の研究室へ、それも理工学部に発注するのか?っていう軽い目まい感があるから、それが良い」との評もいただいた。

大学当局からはお茶の販売が大学教育に役立つのか、との正当な見解も洩れ聞いた。

本質的には先生方が自分の著作を販売するのと何変りはないとの理屈を述べた覚えがあるが、随分昔の事で定かではない。

日々、小銭が研究室に入ってくるのが嬉しくて随分と続けた記憶がある。

その間の事は『建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる』というデジタルハリウッド社からの本としたが、今は多分絶版であろう。

それの記憶がわたくしの中に根深く残りつづけて、「飾りのついた家」組合になったと自覚している。

4月からは完全に大学からはフリーとなるので、何をやろうが全て自己責任であり、それでしかない。

トンカツ屋やろうが、古切手売ろうが自由である。

が、当分飲み喰い方面には手を出さぬつもりである。

「町づくり支援センター」ではチーズや、蜂蜜まで手掛けたけれど、賞味期限外の在庫を抱えてしまったりでスタッフには苦労をかけてしまった。

何処までやるかの限定枠はまだ設けていない。

でも町づくり支援センターの経験だけは何かと活かしていきたいとは思う。

「飾りのついた家」組合日誌 70

[2014/03/11]


石山修武


実ワ、染織家・原口陽子から第二回目の組合用作品は、わたくしが中国、インドへの旅に発つ前、つまり一ヶ月程も前に受け取っていた。しかも15点も。

春、秋ものを染めて下さいと頼んでおきながら、今や3月も中旬になろうかと言うのに、一ヶ月も世田谷村でくすぶっていた事になる。

でも、しかし、モノは考えようである。今年、インドに居る間の日本の、しかも人間の多い関東地方の天候はまことに異常であったようだ。40年振りと言われる大雪が降り、今朝も又、30年振りの寒さだとの事である。

これでは一ヶ月前にこの原口作品を発表していたら、どうなっていたか。

春は名のみの、風の寒さやどころではなく、道路の雪は凍結して春モノどころの騒ぎではなかったであろう。

わたくしがなんとなく不精で、ただただこっそりと保管して、作品をくすぶらせていたのは、恐らく天の恵みであった。

一ヶ月もグズグズしていたのには、別の理由もある。すなわち決断力不足という意気地のない理由である。

「飾りのついた家」組合の作品録は番号がようやく90番迄たどり着いている。

全て一品一品がオリジナルな作品群の集合としては仲々にこれは大変なのである。

我々のような零細極貧組織すなわち組合としたら3月には50番迄辿り着ければ、それが実力相応だなと考えていたのに、2倍近くの速力でここ迄やってきた。

まだまだ非力で世に知られる事の無い組合としては良く頑張ったと自慢できるのである。

そして、縁起かつぎである。

90番迄きたら、100番記念には何かドカーンと大物をやってみたいねと話し合ってもいた。

ところが、今朝3月11日東日本大震災3年目の日に、あまり関係ないけれど、わたくしは一ヶ月程も眠らせていた原口陽子さんの作品の、預かっていた大きな紙袋を開けたのである。

ビックリした。

原口さんは、一回目の領布会の売れゆき、評判がとても良かったのに気を良くしたのであろう。二回目の作品群は一回目のそれにも増して、質量共に素晴らしいのである。

一点一点手で触れながらとり出して、コレワ凄いと感じ入った。

それでこれは100番記念は是非共原口陽子作品群でやるべきだと、今決心したのである。

91番から105番迄、一気に作品録は進行させることにした。どれが100番になるかは知らぬ。作品録の編集者次第となるだろう。

が、しかし、これ迄の組合活動のひとつの節目でもある。

当然、組合のエースでもある市根井立志の作品で100番を飾るのが良いのであろうが、ようやく雪融けの春である。ここは市根井立志さんには、春三月、おひなさまに花を持たせていただき100番は原口陽子作品で通り過ぎたい。ついでに尻馬に乗って予告もしてしまうが、106番、107番はチョッと趣を変えて、遠く冥王星迄旅させようと期している組合ロケットは第二弾ロケットに点火2する。

それも楽しみにしていただきたい。

「飾りのついた家」組合日誌 69

[2014/03/10]


石山修武


今、我々のウェブサイトのトップページに掲載している写真。3月10日現在、インドの山村で「ペインター」からいただいた絵である。描かれているのは山猫なのか赤犬なのかは良くわからない。

あの村はほとんど奇跡としか言い様が無い程に良かった。たた一日の、しかも3時間の滞在は勿体なかった。2~3日居たいと考えた。

あんな村が日本にも何処かに在ったら、それこそ入りびたるのになあ

この絵に関する情報はわたくしの上海インド日記15に詳しい。

が、村の名前は祥述しない。

もしや、それを知って人々が押し寄せてしまうのを恐れるからだ。

お前の日記にそれ程の力は無いよと言われれば、この場合にはその方がヨイと思いたい。

村にはペインターが3名いて、その全員にお目にかかる事ができた。

皆、村の祭日だけに民家の壁にこんな絵を描いて廻っている。

わたくしが頂いたこの絵も一切の金は受け取ろうとしなかった。

遠くから視に来てくれて、それが嬉しくってこの絵を描いたからだと、だから金なんて飛んでもないとの事であった。

丘の上の木と土で作られた立派で風格のある民家であった

『アルチ村日記』にはまだ書いてないけれど、ラダック地方レー近郊のマトゥー村で泊めていただいた民家の人達と通じるものがあるのに今、気付いたところだ。

思い出しながらマトゥー村のことも書いてみたい。

アニミズム紀行8をやっと発刊できて、今ドローイングを描き入れている最中なのだが、アニミズム紀行の何番目かでこの村再訪の旅など記すことができたら望外の幸せになるだろうが、その日がやってくるかどうかは、わたくし次第である。表現のルーツに触れたという実感が強くある。

「飾りのついた家」組合日誌 68

[2014/03/08]

「再び難波和彦の卓上帽子掛け」について


石山修武


難波和彦の卓上帽子置き(掛け)について短文を寄せたら、同日に御本人からも120字程の短文が届いたようで、すぐに作品録にONした。 この作者の自作解説は名品である。

御本人がそう意識せずに短時間で書き捨てている感があり、それが好いのである。

どうやら難波和彦さんは短文を書くにもエスキスをしてしまうクセの持主であるようだ。彼の日誌をのぞいているとそれが良くわかる。

この短文にはそのヒネクリ廻した用意周到さが無い。それで難波和彦さんの思考の断面が一瞬のうちに露出している。

つまり、この形状は難波和彦の脳内風景の断面なのだ。

どうやら難波さんは本当に心から帽子を愛している。

だから帽子を壁に掛けたりの、なおざりはしない。

どうしてもテーブルの上、より言ってしまえば神棚の如くに大事に奉納状に保管したいのである。

それで卓上の帽子が主人の、椅子状がデザインされた。

椅子は四脚が相場である。不安定な荷重に耐え切るのは三脚はダメで、だから実利を超えた原理は避けられ、四つ足の、つまりは生きものの一般の如くに四つ足が選ばれたのである。

上から、あるいは下から眺め降ろし、あるいは眺め上げるとこの椅子は何故か分子構造の如くの純正幾何学を表現している。

この写真は誰が撮ったのか知らぬが良い。

作家の脳内をのぞき視る風がある。

「飾りのついた家」組合日誌 67

[2014/03/05]

「難波和彦の帽子置き」


石山修武


中国、インドの長旅を終えて帰った。研究室のテーブル上に市根井立志さんからの、少し大き目の箱が届いていた。箱を開けると中に難波和彦デザインの帽子置きがあった。市根井さんが知り合いの工場に一つだけと頭を下げて作ってもらったモノである。

近日中に組合の作品リストに掲載するが、仲々に良いモノであった。

箱の家の難波和彦さんが宅配便の箱の中に入って届いたなの印象があった。難波和彦さんの箱の家の仕事は多品種中量生産への径を歩き続けている。

わたくしの見る処、まだその生産方式への中枢とも思える考えは定かではない。多品種の品種は難波和彦さんの師であった池辺陽の小住宅ナンバーシリーズからの継続ではある。

が、しかし、どのように多品種であるのかはいまだ定かではない。多品種と呼ぶには品種にそれ程の多様が無いのかも知れぬ。

そう考えるとそれは中量生産を旨とした特異な種に属するものかも知れない。個別な一個の独特さを生産する形式には属していない。

マア、そんな固苦しい理屈は棚に上げといて、箱の中から出てきた難波和彦デザインの帽子置きは、いかにも難波和彦の帽子を置く道具としてそこにあった。

4つの木の球をかついだクモみたいだなと、思った。R.B.フラーのインテグラル理論は三角をベースにしているがその原理性は無い。

だから、難波和彦さんらしく実利性に富んだ四点支持になっている。つまり、四つ足なのである。四つ足が四つの球をかついでいる形になっている。要するに帽子の椅子なのである。

作家、サン=テグジュペリは『星の王子さま』の文中で、帽子の中にうわばみや、象が隠されていると思えぬ人間が、それが大人という生物なのですと言っていた。その点で言えば、これは帽子の中に八つ足のクモが隠されていたということにもなり、難波和彦の隠された詩人の顔がのぞいたようなモノなのかも知れぬ。

ボルサリーノの中にクモを飼っていたのやも知れぬのだ。

オリジナル難波デザインでは小さな八つの木球の塗装の色はオレンジであったが、市根井さんがオレンジ塗装ではペイントの缶を一つ新しく買わねばならないので、ここはひとつ手持ちの柿渋塗りでやらせてくれと申し出があり、結局そうなった。難波さんはエットーレ、ソットサスではないから、遊戯に無駄な浪費をする人間ではない

見れば見る程にコレは帽子に棲みついたクモである。

それ故に、わたくしはこの作品を帽子グモ、あるいはボルサリーノ系クモと名付けたいと思うが、作者(デザイナー)である難波和彦さんがどう受け止めるかは知るところではない。

「飾りのついた家」組合日誌 66

[2014/02/12]

石山修武センセイへ―出品作品「酒盃」について―


大坪義明


土曜日の午後は「超」唐突なオファーをありがとうございました。突然の指示にはずいぶん慣れてきましたが、今回は母親の退院当日だった上、「出品作を選んで」「写真を撮って」「夕方長崎屋で打合せ」…OMG! 結果、なんとかお眼鏡にかなうものがあって、ホッとしました。

さて、土曜日お会いした時と、翌日に電話でご指示いただいた件、以下のとおり確認させていただきます。


1.六点への絞り込み

結果的にうまく絞り込めたと思います。器形は平盃が三点・それ以外が三点。産地や種類もほどほどにばらけてバランスがいいかな、と。作者は今年30歳となる古谷宣幸さんを除いて全員30代(制作時)、もはや新人の域を脱し、中堅作家として活躍している人たちです。作品はすべて、ここ1〜3年以内の都内一流店での個展出品作となりました。私の信用は、センセイがいろいろとお書きくださるおかげで地に墜ちたも同然ですが、出品作の方は一流店の信用で、なんとかクオリティに信を置いていただけるものと思います。


2.作品のコンディション

私はモノを大切に扱う方なので、いずれも新品同様、使用感はありません。実際、どれもせいぜい数回使用しただけですし、無疵・完品であることを保証します。


3.作品の詳細説明

作家についての説明は、センセイがおっしゃるとおり、不要だと思います。全員、ちょっとI/Nで検索すれば、いくらでも情報をひろえる方々ですから。作品についての説明は、概ね、こんな感じでどうでしょう?


①備前ぐい吞 小山厚子 作(2012年 銀座・黒田陶苑個展 出品作)8,000円

六点の中では最も大ぶり(径・高さ共60ミリ前後)、冷酒向き。胴の内外でまったく違った表情を持ち(内側は火襷…茜色の線状の模様が入る)、コロッとした高台や、絞った胴など、控えめながらいろいろと凝った意匠が施されている。

②紫志野ぐい吞 鈴木伸治 作(2011年 銀座・黒田陶苑個展 出品作)8,000円

組合日誌60で、蔡翼全氏がとりあげている川端康成の「千羽鶴」は、志野の魅力を一気に世間に広めた小説として知られる。主人公の太田夫人が愛用した、口縁に口紅のあとが染みついた茶碗が「白無地」の志野、一方「紫志野」は鈴木氏のオリジナルで、他に作り手はいない。小振りで、燗酒にも冷酒にも向くおすすめの一品。

③黒南蛮ぐい吞 古谷宣幸 作(2012年 渋谷・穴窯陶廊炎色野個展 出品作)4,000円

世界的な陶磁学者で実作者でもあった小山富士夫が再現した、種子島の焼締作品は、その後「南蛮手」として、多くの陶芸家が手がけるようになった。釉薬を用いない素朴な南蛮手は、酒映りのよさが秀逸で、酒が注がれた途端にさっと浮かび上がる景色と、透明な酒に映り込む光がきらきらとゆらめく様は、とてつもなく魅力的なものだ。村松友視は、偶然出会った小山の南蛮ぐい吞みを契機に小説「永仁の壺」を書いた。その魅力の一端は、この作品でも十分、窺い知ることができる。

④粉吹ぐい吞 辻村塊 作(2013年 銀座・一穂堂サロン個展 出品作)6,000円

3年前に購入した同じ作者の粉吹(通常は「粉引」)ぐい吞をうっかり落として割ってしまった。具合がよかったので同手の作品を購ったのだが、作行きは一段とよくなっていた。見込みに溜ったガラス質の釉溜りが見どころ。


4.価格

もし初めて酒盃を買うなら、せいぜい数千円かと思い、そのような価格帯のものをできるだけ選びました。すべて発表価格の2〜3割引きに設定しています。もっと安くしてもよかったのですが、それでは作品に対して失礼な気がしたものですから。この値段でも、私が買いたいくらいです。あ、そりゃヘンか。

あまり手放したくないので、売れなくてもハッピーです。しかし、どなたか購入して愛用してくださるなら、もちろんハッピーです。購入者は、絶対にハッピーだと信じています。

確認は以上です。

こうして「飾りのついた家」に参加できるのは、とてもうれしく光栄なことです。私の頭の中で、常々ぐるぐると回っているのは

「趣味の何者たるをも心得ぬ下司下郎…」(夏目漱石「草枕」)

「(大切なのは思想の趣味化ではなくして)趣味の思想化である」(小野二郎「ウィリアム・モリス」)

そしてもちろん、

“Have nothing in your houses that you do not know to be useful or believe to be beautiful.” by William Morris

これらのフレーズ、箴言を体現するものが「飾りのついた家」であることを心から願いつつ、私なりに力を尽くしたいと思っております。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

大坪義明 拝

「飾りのついた家」組合日誌 65

[2014/02/12]

酒器コレクションから 酒盃


大坪義明


日頃、意見の一致を見ること悉く稀な石山修武さんに、「モリス好み」を口にしてしまったばかりに、むりやり小宅を「モリスの家」と称するよう強いられている大坪です。

石山さんも敬愛してやまないウイリアム・モリスは、無銘の日用雑器の<スリップウェア>を高く評価したことで知られますが、モリスの時代、すなわち産業革命後の英国では、スリップウェアのような一点もの(つまりは手作り)の陶器から、同じ陶器でもより機械生産に向くクリームウェアや磁器であるボーンチャイナなどに、焼物の主役の座が取って代わられつつありました。

私が出品させていただくのは日本の若手・中堅作家の手による酒盃ですが、一点ものの陶器の欠点は、酒盃や徳利、片口などの酒器において、実に大いなるメリットに転じます。

独自性…複製品ではない、世の中に二つとないものを愛玩する喜び。

透湿性…酒が滲みることによって変化する器肌、しっとりした感触の心地よさ。

手取り・口当たり…持ち重りのする安定感、手や唇になじむフォルム、肌あい。

唐津や李朝の「本歌」は確かにいいけれど、ばかばかしいくらいに高価です。日本酒を、より旨く飲む―ささやかな日常の贅沢を楽しむのに、これらの器が十分役立ってくれることを請け合います。

「飾りのついた家」組合日誌 64

[2014/02/08]


2014年2月8日

組合員の一人であった鈴木博之さんが亡くなりましたが、彼の名は永久欠番ならぬ、名誉会員としてメンバー録には記録し続けたいと考えますので、皆さんの御了承を願いたい。

鈴木博之さんの死はすでに予測し、わたくしも覚悟はできていた。でもどうしても組合員の一人として名を連ねて欲しかった。それで鈴木さんも同意してくれての事でした。何を同意してくれたかと言えば、そのように不在の永久欠番になるのを承知の上の事でした。

記しておきたいと思います。

石山修武

「飾りのついた家」組合日誌 63

[2014/02/05]


2014年2月5日

生きもの稲荷と勝手に名付けている、烏山神社の志村稲荷は烏山の志村一族の氏神様である。

今日は烏山神社の境内で昨日前橋の市根井立志さんから送られてきた作品の写真撮影をする予定だ。昨夜隣家の向山一夫さんがその作品を持ち帰った。営業活動に必要だからと。向山さんはこの作品が滅法気に入ってくれた。気に入れば、売ってみたいというのがこの人物の美質である。単純明快である。

気がついたら、市根井作品の名がまだ決まっていない。肝心の記録写真も無いので、今日の撮影とした。昨夜の降雪で今日の空は澄み切り、神社での撮影にはもってこいの日よりとなった。

ところで、この市根井立志の力作の名前だが、どうするか。藤江民の作品も力作ばかりで、これは互角の競作になり、サイトの掲載空間は一段とざわめくだろう。

生きもの倉では何のことか伝わりにくい。

「生きものの魂倉」はどうだろうか。

あるいは「生きもの・魂倉」あるいは、「生きもの・たまぐら」はどうか。たまぐらのひらがなの形があんまり、ひら仮名の良さが生きていない。やはりすこし固いけれども「生きもの、魂倉」とする。


神社は朝の光が良いのだけれど、ぜい沢は言わない事とする。午後の光でも今日一日は空気が澄んでいるだろうから、木肌の神々しさは浮き出してくれるだろう。

神社本殿の縁上と、縁の下でも撮れたら良い。そして石段の上、参道の畳石の上にも置いてみたい。

これからの事を考えれば、志村稲荷の中や小さな縁にも置いてみたい。随分楽しめそうではないか。

「飾りのついた家」組合日誌 62

[2014/02/04]

クラフト・エヴィング商會 世田谷文学館展示会「星を売る店」


2014年2月2日

世田谷文学館で開催中の「星を売る店」クラフト・エヴィング商會の展覧会に出かけた。なにしろ世田谷文学館は世田谷村から歩いて5分もかからぬ処に在るので、これくらい行きやすい文学館は、わたくしには無いのである。靴なんかはいたりせずに、スポンジぞうりや、裸足で行ったりができそうな位である。建築デザインは良くないが、ぜいたくは言わない。

クラフト・エヴィング商會の活動は以前から知っていた。美術と文学の狭間に誰からも嫌われずに引っかかっている類の表現世界がそこにあった。

会場には圧倒的に女性の姿が多かった。

唐突だが宝塚歌劇団の如くの、星組、花組のような可憐さがそこに在るからなのだろう。けっして女子プロレスの世界ではない、しかもやはりどうしても可憐な表現なのである。

今流行語の可愛いの世界がそこに在る。


唐十郎の赤テント、状況劇場が最盛期の頃、テント劇場も又、宝塚の如くに女性客で埋まった。麿赤児、大久保鷹、四谷シモンといった怪優達の存在感が消えてゆき、今は唐と別れた李麗仙、根津甚八の唐版風の又三郎が評判になっていた。李麗仙は男女両性具有の風の又三郎を演じていた。

「誰だ、お前が又三郎と呼ばなけりゃあ、わたしは宇都宮くんだりの飯たき女だったんだ」と二都物語の李麗仙は夜空に叫び、異常に多かった観客達はどよめいた。テントを風がパタパタとはためかせた。

時代は時に演劇的であり、演劇は観客によっても作られる現実を我々は知ったのである。

クラフト・エヴィング商會の広報誌とも思われる、ムーンシャイナー、moon shiner、クラフト・エヴィング商會は『月下密造通信』とネーミングされている。唐十郎が時分の華であった頃、彼は堀口大学張りに、『月下の一群』と名付けた個人誌を発刊していて、わたくしも創刊号は手にしたが、今は手許には無い。赤テントの熱気も遠くすでに過去の世界に消えている。

クラフト・エヴィング商會の表現活動の何処にも一時の大観衆を集める前の、赤テントの暴力的な何者も、観客に対しても、匕首を突きつけるようなモノは何処にもない。

前からそうであった。初めから終りまで全てが可愛いらしい。

しかし、その事の良し悪しは表現者の側にだけある問題ではない。時代が秘やかな展覧会の女性の観客の如くに可愛らしいと言わざるを得ない。

恐らくは戦前のと想われる街角の一角が会場に復元されている。真黒に壁は塗られ、床もどうしても古びた舗装材らしきで作りたかったのであろう、少し床が高くなりそれらしい材料が従来の床材の上にかぶせられている。ともあれ舞台のようなモノであるから全てニセモノ作りである。そのいつも月下の通りらしきの入り口には中村医院の古びた小さな広告塔のようなモノ。平日午前9時〜午後7時半、土日午前9時〜午後1時とある。50M先とあり小さな矢印が。星を売る店のイントロダクションである。古書一角獣の隣りがクラフト・エヴィング商會の工作室である。黒塗りの荷台の大きい自転車もある。月刊シネマの広告には電気ホテルも在る。センチメンタルなノスタルジーが心地良い。

先日訪ねた上海の新開地は一角の街全体が全てこの調子で作られていた。中国人や外国人が実に沢山訪れていた。それと比較するのは酷である。

クラフト・エヴィング商會の活動は現実と関わりのない、小さな秘やかさ、つまり現実に対する非力を自覚した想像力の肯定そのものの中に在るのだろう。会場を出ると旧ウテナ薬品の邸跡の庭に咲く紅梅が色鮮やかであった。

時々寄る文学館の一階喫茶室で昼食をとる。

ここの従業員の方々は、いささかの障害を持つ人々であるとされている。一生懸命な客との対応が、可愛らしいをはるかに超えて気持を打つ。リゾットもコーヒーもおいしかった。値段もビックリする程に安い。

春からの「飾りのついた家」組合の打合わせには時々この喫茶室を使いたいと考えた。

「飾りのついた家」組合日誌 61

[2014/02/01]

「モリスの家」


2014年1月31日

北烏山のモリスの家のオーナーは大坪義明さんである。屋敷の庭にバラを植えて、その手入れに明け暮れる、うらやましい限りの人物である。

でも何にでも興味津々の人であり、色んな会合やら集会に顔を出していた。ほら居るでしょ。いつも何処でも悲観的な評論家振りの人って。わたくしも何かの会で、アッそうだ、世田谷式生活・学校の会に出てきた、その大坪さんに出くわした。正直イヤなヤローだなあと思った。グズグズ細かいこと言って、話を前に進ませぬ人なのであった。

でも、イヤなヤローも時には必要なのだ、が、いささか年老いたわたくしについた知恵らしきでもあった。ガマンして付き合っているうちにこのイヤなヤローがウイリアム・モリス好きだということを知った。それなら本当はイイ人な筈だ。何か蝶番が外れて、それでユートピア便りならぬデストピアの番人みたいな人柄になってしまったのではないか。壊れた蝶番を直せば一気にスタスタと前へ歩き始める人にもなるのではないだろうかと考えてしまった。

で、今日は夕方にそのイヤなヤロー、大坪義明さんに会って、大坪コレクションを我々組合の作品群に入れられないかの打合せをすることになった。ウイリアム・モリス主義者を名乗ったのは故小野二郎であった。英文学者であった。大坪義明さんは恐らく小野二郎の如くにウイリアム・モリス主義者を大言壮語する人間、というよりも人柄ではない。そうであって欲しくとも、そうはならぬのが現実である。

しかし、ウイリアム・モリス主義者に非ずとも、ウイリアム・モリスの総合性への趣味とでも言うべきの信奉者なのではあるまいか。

今夕、大坪義明さんのコレクションの何がしかを見せていただき、その一端を知ることができるやも知れず楽しみである。