石山修武研究室 |
道具寺プロジェクトを考える その1 |
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石山修武 |
道具寺道具村建立縁起展二〇〇六年十月二七日ー十一月五日 リビングデザインセンターOZONE・3Fパークタワーホールのオープニングレセプション及びその展示は栄久庵憲司と氏が率いるGKグループの総決算と再出発を象徴している。栄久庵憲司が独特なのは、その活動が近代的枠組みにはくくり切れぬところにある。デザイナー、組織者、事業者、そのいずれの呼称もふさわしくない。想像力が常に構想というにふさわしい広がりを持つ人間に稀にある事ではある。デザインをする事が同時に社会モデルを示す事だというヴィジョンを持つ者に固有の宿命でもある。展示は大きく二つに別れている。入口近くの第一室は道具世界曼荼羅と名付けられている。GKのこれ迄の歴史を作品によって示しながら、現代へのデザインの提案も示されている。次の大きな第二室が興味深く、しかも未知な、矛盾に満ちてもいる展示空間になっている。第二室は栄久庵独特な用語で、行と聖の二つに分かれる。その伝では第一室は俗である。天井高のある第二室は栄久庵の言う道具世界では実物大1/1スケールが持ち込める。最奥の聖の位置には、和歌山白浜町に進行中の道具寺、道具村の中心的存在になるであろう道具寺の本尊である千手観音の姿をした道具観音が御披露目されている。
新宿西口の高層ビル群の一つに展示会とは言え忽然と千手観音像が現れたのである。 |
道具寺プロジェクトを考える その2 |
プロジェクトの演劇性
このプロジェクトには強い演劇的性格がある。観客は社会であり、劇場は現代という時代だ。二十一世紀を迎え、世界はグローバリズムというアメリカ文明の生来の性格である標準化の波に洗われている。経済活動も、その結果としての産物の姿形をつくるデザインも。 第二室の入り口に大きな黒いフレームのガラスの箱がセットされている。どうやら油圧で上下するモバイルユニットのようだ。道具庵と称されている。二〇〇五年十月、栄久庵はこのガラスのコンテナをステージに和歌山県白浜町の森林で山籠りの行を行ったと言う。 |
道具寺プロジェクトを考える その3 |
ガラスのコンテナは、だから白浜町の森林から、ここ東京新宿西口の超高層ビルの一室へと運ばれたのである。今風に言えばモバイルした。和歌山の山林ではガラスのコンテナは栄久庵さんの言葉を借りれば行の道具となった。ガラスの箱の中で密教の行三昧ではなく、栄久庵さんはこれからの道具寺プロジェクトの前途遼遠な事に想いを馳せただろう。それに対して自らの身体の有限である事の悲しみも同時に痛感したに違いない。それは解らない。 屋根も壁も全て透明なガラスである。GKにはその初期の仕事に楕円の断面型をしたスキー用のロッジがある。プラスチック製であった。その小さなロッジは建築を勉強し始めていた私には衝撃であった。建築の形から全く離れたところから生み出された、それは製品であった。屋根も壁も床も分節されずに一体化されたものであった。ロッジとして使用されるものだが、むしろ自動車に近い自由なモビリティーを感じさせるのであった。それに比較すると、この透明なコンテナは随分と建築的な形をしている。油圧ジャッキの足で地面にソフト・ランディングしているところは、アポロ宇宙船の月面着陸を思わせるし、出入口のガラスの扉の開閉方式も建築のディテールには無い斬新なものだ。しかしながら、これはスキーロッジやカウフマン賞を受賞した道具住居等と比べれば、はるかに保守的である建築的スタイルに近づいている。ここにも、実ワ栄久庵憲司が道具寺、道具村にかける執念の強さが現われていると考えたい。会場に大きく示されている道具村の構想図だって、度外れて、日本的な、つまり伝統的なスタイルを表している。五重塔や伝統的な宗教建築のスタイルの連なりでもある。 建築家達がそれを眺めれば不可解なりと首を傾けかねぬ風景が描かれている。栄久庵さんはここ迄明快な保守的建築スタイルを使ってでも、何か、それを超えるヴィジョンを示そうとしているに違いない。会場の最奥部に忽然と姿を現している、道具観音と名付けられた千手観音菩薩像や、曼荼羅の巨大な図像、そして日本の伝統への回帰を想わせる村の風景のヴィジョンは明らかにこれまでのインダストリアル・デザイン、プロダクト・デザインの世界風景からは想像もつかぬものである。ここ迄強い表現スタイルを使って迄栄久庵憲司は何を示そうとしているのだろうか。 それは明らかな日本回帰ではない。堀口捨己や吉田五十八、そして村野藤吾等、日本的な建築家達の日本回帰とは異なる。若い時に強く日本の伝統からの分離、すなわち西欧モダニズムへの離脱を試み、経験を積み、数々の思考の果てに辿り着いたであろう日本回帰とはどうやら違う回路を持つようだ。 |
道具寺プロジェクトを考える その4 |
良く知られるように、又、本人も度々述べている如くに、栄久庵がインダストリアルデザインの世界に踏み入り、日本にその世界を拓いたきっかけとなる原風景の一つは、戦後の焼跡に進駐したアメリカ兵の所有するモノの機能性、その美との出会いであった。日本にはまだ工業デザインの概念自体が無く、氏は芸大で外国のデザイン誌に触れ、IDの可能性、特に戦後日本での必要を直観した。アメリカ留学を経て、すでにGKを率いていた栄久庵は色濃くアメリカンデザインに傾倒していく。アメリカンデザインとは、ヨーロッパ型のモダニズムデザインの流れとも少し異なる、消費社会型のデザインモデルでもあった。アーツ&クラフツそしてバウハウスの理論を基に拓かれたヨーロッパモダニズムデザインは、その社会性を基盤にしていた。それ故に工業化が必然ともされていた。が、しかしそのデザインの奥深い部分には美意識の階層性とも呼ぶべきモノが隠されてもいた。美的な価値は高度な教養に属し、学ぶべきものであると。美は学ぶべき新種の体系として提出された。バウハウスのメンバーがナチズムにより結局ドイツから多くが追放された歴史を見れば、そのデザインの本体はナチズムの中心であった大地と民俗の歴史、その固有性と相容れぬイデオロギーがあったからだ。 バウハウスの多くのメンバーはアメリカへ亡命した。ハーバード大学、イリノイ工科大学、マサチューセッツ工科大学等で教育に従事した。アメリカは当時ドイツ・ナチズムと敵対していたから、当然それを自然に受け入れた。又、ヨーロッパの新思想を取り入れたいという新しい国アメリカの願望があったろう。栄久庵が学び肌に触れたのはその一端であった。 工業デザインの世界は新しい世界だ。諸芸術の中では歴史が浅い。それ故に新しい価値観、理論は比較的容易に受容され、吸収されやすい。ヨーロッパは歴史と民俗の坩堝である。新思想は急速には受容され難い。歴史と民族の問題から離陸した極めて抽象性の富んだモダンデザインの考えは、それ故アメリカで一気に受容され、急速に開花したのである。 |
道具寺プロジェクトを考える その5 |
道具は建築と異なり、大地から自由に分離されそして動く。それ故に地域、場所が本来持たざるを得ぬ固有性との関係は薄い。建築は大地に固定され、しかも多様な人に使用されるが故の抽象性を持たざるを得ない。自動車やオートバイも多くの人間に使用されるのを旨としているが、基本的には集団、地域、コミュニティに帰属する性格を持たない。土地に属する道具は全く無いとは言えぬが少ない。 建築がその本性として場所に属する物体であるとすれば、道具は人間の身体の延長として存在する。 公共建築は国、自治体、つまり大小のコミュニティに属する物体であるが、その性格を良く反映する事は無かった。特に近代モダニズムデザインはそれからの分離を旨としてきた嫌いがある。それからの離脱、すなわち抽象性の追求を一つの目的としてきたとも言えるだろう。急ぎ足で言うならば近代建築は地球上の、それぞれの場所に、それぞれの経済的営みの結果として構築される物体である。道具はそれに対して、地球という場所に生きる人間に属している。本来、人間の身体の延長、外延した物体への呼称であろうと思われる。産業革命、そして技術の急速な進歩はしかし、その基本的な性格をともすれば失わせる方向に、道具を導いてきた。人間の道具であるよりも、それを生産する企業の経済的活動の道具として考えられ、デザインされる事が歴然としてきたのである。栄久庵とGKはその先端を走り続けてきたとも言えるだろう。日本の近代化、そしてその成果とも言える高度経済成長と工業デザインは同一の歩調を印してきたのである。栄久庵はその牽引車でもあった。同時にその事実への危機意識の持主でもあった。それは道具論をはじめとする多くの著作に良く示されている。日本の戦後復興、そして高度経済成長と共に歩み、走り、牽引してきた実行家であると同時に、栄久庵はその事への深い意識を持ち続けた批評家でもあり続けたのだ。独特なのは、その自己への批評意識が批評の言語形式をとらずに、その実行の形、つまり工業デザインの全体をくるむ衣装のような言葉として表われ続けた事だろう。彼の自己批評は決して自己を破壊する、解体する方向へは向かわない。批評と創造とは両立し難い事は多くの創造者が述べてきた。三島由紀夫のような審美主義者も又、その秀逸な作家論に於いて、それらが同時にある事の困難さに触れている。 例えば栄久庵はデザインに対して「作法」という批評の言葉を投げかける。デザインという言葉が単純にモノに形を与える一直線の行いである感をまぬがれぬのに対して、彼はそのモダーンな呼称に対しても、作法という衣を着せかけてその概念自体をふんわりとくるもうとしてきた。工業デザインとは何者であるかという考えのスタイルを取らずに、近代デザインの本性に何か衣のようなモノを着せてやる必要性を直観していたとも言えるだろう。 |
道具寺プロジェクトを考える その6 |
仏身は常に法衣を纏っている。それが無ければ仏身は人体らしきフォルムを与えられているが故に剣呑な本性を露出してしまう。仏身に人体のフォルムを与えたのは人間である。又、その仏身に衣を纏わせたのも人間だ。 栄久庵がこの時代、この時期に道具寺、道具村プロジェクトを世に問うた意味=価値は何なのだろうか。それを考えるのには幾つかの経路が考えられるが、一番大事なのはその中心であり、本性である。道具寺の中心は何か。当然、それは道具観音菩薩である。我々は栄久庵憲司同様に余りにも広く、そして深くモダニズムの教化を帯びている。先ず何よりも社会的教育によって。そして現代文明の性格そのもの、すなわち科学技術への信仰にも近い信頼によって。それ故に、計画の中心にかくの如きイコンが厳然と座す事に触れるのに決して慣れてはいない。ある種の戸惑い感じるのは自然な事であろう。栄久庵憲司も同様に同じようなとまどいに似た感覚をより深く内在させているに違いない。GKという近代的合目的的な組織を率い、近代的合理性を備えた国家、各種公共団体、自治体、そして企業群をクライアントとしてインダストリアル・デザインという、ある種経済活動を最前線で続ける栄久庵には、より大きな逡巡があったかも知れない。恐らくそうに違いない。それでも、なお彼は都心の超高層ビルディングに観世音菩薩を顕現させねばならぬと考えたのであろう。 栄久庵憲司の活動はその最初期から極めて矛盾に満ちた、我々にとっては未知とも言える言動によって支えられてきた。 |
道具寺プロジェクトを考える その7 |
道具観世音菩薩も又、その御手に各種道具を持ちながら、衣をまとっている。その性(SEX)は当然不明である。栄久庵は道具(インダストリアル・デザイン)を語りながら、こんな風に話しが飛躍する才質を持っている。 「アダムとイブね、禁断の木の実を味わったばかりに楽園から追い出されちゃって、それでイチジクの葉っぱで前を隠さなくなっちゃって、で、あのイチジクの葉っぱはどうやってアダムとイブの身体にとまっているのかなぁ、ピンでとまっていたのかな、しかしまだピンは作られてないし、痛いだろうしね。イチジクの葉っぱがノリでとめられていたのか、でも、これは、ピンク映画の前貼りみたいで変だしなぁ、自然じゃない。アダムとイブがイチジクをどんな道具で身体に密着させていたのか、それを考えるのが道具デザインの始まりだよ。実に。」 このような考えが突如示されるところが氏の真骨頂なのである。アダムとイブのイチジクの葉をいかにか身体にとめた道具に思いをはせる事と、道具寺プロジェクトに道具観世音菩薩が出現する事は同じ思考回路から生み出されているようだ。 アダムとイブのイチジクの葉はキリスト教世界では原罪の象徴である。禁断の木の実を喰べてしまった人類の原罪と道具への思考が栄久庵の内では自然としか言いようがなく、結びついている。その言を聞くと人はハッとさせられる時がある。ハッとさせられるのはそれに接した時の、それを聞く側の問題にもなるだろう。栄久庵がそれを意識しているか、無意識にであるのかは計り知れぬが、ここには明らかな演劇性が出現している。人を驚かせる視線がある。それは氏の才質の中心でもあろう。観世音菩薩のSEXは定かではない様だ。しかし、その生誕の研究も進んでいる。その成果によれば、観世音菩薩の原型は古代インドの女神、例えばカーリー神等であったようだ。古代インドは基本的には女系社会であった。定住を基とする農耕社会における豊穣の象徴としての女神であった。そこに遊牧の民の侵入による勢力の移行があった。遊牧の民の基は動く事によって成立する狩猟である。狩りは男性原理的世界であり女系世界は後退せざるを得ない。又、古代インドのカオスそのものを是認する多神教世界(ヒンドゥー世界)から仏教的秩序世界への移行期、転形期に観世音菩薩は生誕した。 大事な事は、壮大な価値の変換期に観世音菩薩が生誕したという歴史の事実である。仏教では女性は穢れの中の人間であり、悟性には辿り着き得ないとされていた。それ故にそのイコンからは性(SEX)が除外された。女性を想わせるモノは意図的に避けられた。アダムとイブのイチジクの葉のように、それはタブーとして隠蔽されたのである。栄久庵の直観は転形期としての時代へ向けられている。それ故にこそ超高層ビルの中に道具観世音菩薩が登場することになったのである。誰もが抱く疑問であろう・・・何故、グローバリズムの今の日本の首都東京に、観世音が出現したかは。栄久庵の直観に導かれて時代の海を渡る勇気がどうしても必要なのだ。 栄久庵憲司は明らかに今をものづくりにとって巨大な転形期として把えている。 |