世田谷村の一階エントランス、小さな板の間に「立ち上がる伽藍」と名付けた、木本一之さんと私の共同制作になる立体が置いてある。アップライトピアノと一緒にきゅうくつそうに置かれている。エントランスには造船屋に作らせた無細工な階段もあるし、市根井君という大工さんに作ってもらった、落とし掛けの栗の木の板材による壁もあり、南には二カ所程分厚いガラスのかたまりが挟み込まれていて、そのガラスからは陽光が指せば緑の色光がほのかに差し込むあん配になっている。ただし、そのいかにも芸術的な光は、今は下駄箱の陰になっていて一つはほとんど見ることができぬ。
つまり、色んな工夫がこらされている。その工夫は色々な種類に分けざるを得ない工夫である。技術的世界からの工夫、経済的工夫、感性からの工夫といった分け方をせざるを得ない。黒いピアノを置いたのは、生活上仕方なく、ここに置いた。今は誰も弾く者もなく、捨てる勇気も無く、上に上げる苦労もしたくないので、ここにマア収納されているわけだ。スティール製の規格の棚がクツ棚になっているが、これも取り敢えずのあり合わせである。クツの棚にわざわざ金をかけてキチンとデザインする程金があり余っているわけも無く、こんなもので良いだろうと、ここには美意識のカケラが入る余地はなかった。
問題は「立ち上がる伽藍」である。黒い球体が三つ、丹念な造型を施されて組み合わされている。
二〇〇八年六月〜八月に開催した世田谷美術館での私の個展に際して制作したものである。鉄製であるから、かなり重い。美術館での展示の際もエントランス脇に置いたのだが、あんまり多くの人の目にとまったとも思えない。何故なら、いかにも彫刻・オブジェクト風なものであり、私は彫刻家と呼ばれては居ないので、皆通り過ぎてしまったのだ。美術館では「立ち上がる伽藍」をおいたところには常時は彫刻界の大巨匠ロダンの一番弟子の人体彫刻らしきが置かれていて、私の観察するところでは、これもあんまり入館者の関心はひいていなかったように思う。
しかし、「立ち上がる伽藍」も彫刻と呼ばれても決しておかしくはない物体であった。実際に鉄をたたいたり、曲げたり、切ったりの仕事をした木本一之さんは金属造型作家であるから、だからコレは多分彫刻なのであろうと思われる。
私は図を描いたり、文章で表現したり指示をしたので、恐らく今風に言えばディレクションをしたディレクターなのであろうか。
いずれ、その辺りの不可思議な問題は本格的に論ずるとして、問題は「立ち上がる伽藍」の価値について考えてみることにしたい。
「立ち上がる伽藍」は世田谷美術館の私の個展に際して、その為に作った、謂はば美術館用のオリジナル創作品である。私にとって、この展覧会はある明晰な意図が込められていた。技術を駆使して巨大な立体美を制作する仕事をしてゆきたい。その巨大な立体はこれまであゆふやに建築と呼ばれていたが、私は社会モデルとしての立体の模型を製作したいと考え始めたのである。
もう少し踏んばって世界模型と言ったりすると、平面では密教曼荼羅を立体ではプラトン立体、重源の球四角錐六面体の多宝塔を想起してしまあうだろうが、ここで言う世界模型はそれらが砕け散った破片のようなもの、それでも結晶に向けての運動を止めようとしない如くの状態を呼ぼうとしている。運動というのを簡明に言おうとすると、こうなる。立体の美とは何か。
B・フラーの正球は確かに美しい。その正球はアフリカの子供達の貧困の問題、すなわち初期近代、工業化の理念をも内包する故に美しいと考える思考の動きである。水晶の正球に宇宙を視ようとする如き、マヤカシの美とは厳然として異なる。そして、芸術的な美とは多くの場合そのまやかしである事が多いのである。
私と木本さんの「立ち上がる伽藍」は現寸の彫刻であるが、私にとっては鉄製のモデル(模型)である。しかし、縮尺の無い模型なのだ。百分の一、二百分の一の縮尺がない。考えてみれば、ボーッとしたイメージらしき、あるいは時にそれを美と呼んだりするものには縮尺が無い。「立ち上がる伽藍」モデルには縮尺が製作当初から全く意識されていなかった。
ところで「イメージ」「アイデア」「思い付き」「ある種のジャンプ」らしきは何処から発生するものなのだろうか。それの初源は言葉なのか、映像なのか、少し考えてみたい。抽象的に、まさに、ありもしない確固としたイメージらしきを無理矢理に考えようとするよりも、具体物を例にとって、作業をすすめる事にしよう。
- 三仏寺投入堂に関する小論に表われた、美についての問題 -
堀口捨己、大岡実、田辺泰、各氏の三仏寺投入堂についての小論を読み比べた。堀口捨己は良く知られるように実作家でもあるが、むしろ著述家としての評価の方が高い人物である。大岡実、田辺泰は建築史学が専門。蛇足だが田辺泰は私の師でもあった。他の二人に面識はない。
一つの対象に対しての記述が恐ろしい位に異なっている。その優劣を論じる力は私にはないが、それでも日本建築界の最良の知とも思えるお三方の小論に現われている「美」に対する対し方、感じ方の相違の余りの開きに驚きを禁じざるを得ない。その違いについて考えてみる事が、又、同時に「美」について考える事になるとも直観したので、記録しておく事にした。
三つの小論の比較と言ってみても、大半は堀口捨己の論と、大岡実の論との比較になり、残念ながら師であった田辺泰の小論は、その二人の「美」についての対し方の相違がはらんでいる緊張感に満ちた対立と比較すれば、小さな附録の如きであるが、私はそれでも田辺の実際の人となりを良く知っているので、やっぱりどうしても考えの中に喰い込ませたいと考えたのである。
田辺泰は伊東忠太先生に随行して広く、東洋の建築を実見した史学者であった。シルクロードと言えるかどうか、雲崗石窟群の前での伊東忠太と共に写っている若き田辺の写真は様々なところで見聞している。田辺泰は非常な実際家であり、あまりうやむやな事、あいまいな事は学生であった私にでさえおっしゃらなかった。
「キミ、実作者(建築家らしきの存在形式)や学者というのは、裕福な家の者がなるものなのだ、キミの家系はどうなのか?そうか、それではアキラメなさい。うまく、ゆく筈が無い」
と私の進路相談らしきに際して言い放った。普通だったら猛反発していたであろう。が私はそうしなかった。驚くべき事に私は、「それはそうだろう、まことにその通りだ」と感じていたのである。田辺の大らかな器量故であろう。四十年以上経った今(二〇〇八年秋)、常識的に時の流れを表現すれば半世紀経って考えてみれば、私が田辺泰に猛反発しなかったのは、実に聡明な事であったと思うのだ。自分で言うのもバカだけれど、本来は、当時の時代の風であれば私は、田辺を本格的に論破していても良い位だったのである。造反有理であった。
何故か、自然に、私は田辺泰の言葉を唯々諾々と受け入れた。むしろ、そう言い放った田辺泰を私はより好ましい人物として受け容れたのだ、田辺はこうも私にさとした。
「それでも実作者になるのだったら、まぁしょうがない、便所の改装でも何でもやって、最後は寺院の設計をやりなさい。あれは設計料が実に良い。身入りがいいんだ。」
私はその教えを忘れていない。
その田辺泰は三仏寺投入堂に関しての小解説文に、こう述べている。適宜、美に関する如きが述べられている処だけを勝手に抜き書く。
「投入堂は切妻造の平を正面とし、二重繁棰を用ふる深い軒を前面に出し廣い廂をつくってゐるが、向って右方の廂は特に単棰で縋破風の手法で葺き下し、左右両側の前半は屋根を二段下げてゐる所から、外形的にこの屋根を望めば、あたかも三段に重ねられたような形となり、意匠上複雑な変化を見せている。」
「また内部は天井に小組格天井を張っているが、その上には古い化粧屋根裏が残存し、小屋組は豕扠首で、手法は藤原時代を降らず、思ふに小組格天井は鎌倉乃至室町時代頃の修理の際附加されたものであろう。」
「要するにこの堂は全体として木割が特に太く、また面取りの如きも殊に著しい。即ち平安時代の手法を遺憾なく発揮しているものと見るべく・・・・一見して軒先の反りや変化も極めて軽妙に、堂全体をして意匠的に最もこの場所に適応した効果的なものたらしめてゐるところ、明らかに當時の名手の作たることを偲ばしむるのである。」
まことに、おらかで、雑駁である。簡素な表現であるとも見えるが、やはり大岡実の論述と比べてみると、この論述は余りにも雑駁である。ましてや堀口捨己の記述と比較してみると天と地程の開きがある。勿論、小論自体を開陳する字数の違いは大枠としてあるにせよ、それを鑑みても、この記述は三仏寺投入堂に関しての美の歴史的実体を記述しているとは言う由もない。田辺の眼は、時代の典型、類型の枠内に余りにもとどまり過ぎているのである。当時の日本建築史学の自然な限界を示しているとも言える。
昭和十八年東京美術研究所発行岩波書店発売、美術史学一月号に大岡實「三徳山三佛寺(上)」が記されている。次いで、三月号に続編(下)が発表された。
大岡の記述は紀行文のスタイルをとってスタートされる。お蔭で我々は大岡が「豫ねてより行きたいと考えていた」三佛寺行への旅の情景迄も追体験出来る。いまだに第二次世界大戦中であり、日本は戦時下の真最中であった。東京駅からの急行券を得るのに長い行列で苦労した様が描かれている。「鉄道省の遊山旅行中止の注意」の中の旅であった。どうしても見届けなければならぬ何かがあったのだろう。京都で乗り換え、再びギューギュー詰めの列車に乗り換え、この混雑が城崎、橋立辺りへの遊山か、丹波地方への茸狩り、或は買出し部隊なのを見て、全く自粛が望ましいとつぶやくのが面白い。自身の三佛寺行が更に高踏な物見遊山である事が忘れられている。弁当も買えず、福知山近くでゆで栗を手に入れ、それが大きくって実に美味かったと書かれている。大らかで健康的な人柄なのを知る。三島由紀夫に代表される戦後世代には無い感受の趣向である。車窓からの風景は今からは想像もつかぬ程の前近代性を帯びたものである。大岡はそれを汽車に乗り合わせた老人の方言に直観している。三朝温泉に一泊、翌朝雨の中を徒歩で六kmの道を出発する。途中の風景描写は、少し計り漢文素養の気配があるが月並みである。三佛寺鳥居に着く。「周囲は一層幽邃で、山気が身に染みる。所謂山獄寺院が平安朝に好まれた意味が、無条件に判る気がして」とある。今想えば荒っぽい感慨と思わざるを得ないが、当時の史学者はかくの如き分類学の中に生きて充二分であった事も知る事が出来る。
以前来訪した時はTAXIで、苦労せずに辿り着いてしまった、と記されているので二度目の来訪なのを知る。昔も今も、このような事にはそれ程の変わりがあり得ようもない事を実感する。歴史に学ぶには、可能な限り、それが成された当時に近い状態で接近するのが良いらしい。要すれば、出来るだけ歩いて近づけっていう事だ。石段下の事務所で、靴を草履に履き代えるとある。古建築調査の明らかな目的があっての旅であるのを再び知る。「岩を攀ぢて堂の縁に上ると下は千仞の断崖で、身の毛のよだつのを覚える」と記される。現在でも三佛寺は冬期は入山禁止である。自然の厳しさだけは大岡の旅の昔も今も、更には創建当時の想像を絶する、建立の困難さへの想像力も、この自然の厳しさ故に、ほぼ一様に今も共有するものになっている。岩の上の文珠堂に関しては様式史的記述がされている。
「恐らくこの形式は平安期の堂の形式を大體踏襲してゐるのであろう。唯、内々陣中央の厨子は出組の斗栱を組み、蟇股木鼻を用い、室町風の装飾を施してゐるが、その形は中々宜しい。」
この、中々宜しい、が曲者である。大岡は何を基準にして宜しいと記したのであろうか。室町時代は日本独自の表現形式が湧き立った時代であるが、大岡はそれを概して室町風の装飾と表現している様にも受け取る事ができる。
田辺泰や渡辺保忠から受けた、雀の涙程の様式鑑賞術の手ほどきからは、どうやら史家の「中々宜しい」とは、古くへ遡行すれば、する程に宜しいとなるらしく、その突き当たりは古代のアルカイック、つまり古拙の美にあるように感受した。史家は木鼻、肝木、蟇股の細部、細工に表われる工匠の美学の基準を感得する事によって、時代の遡行段階を予測するのが才質の一番とされた時代もあったのである。工匠の技術が巧みになればなる程にそれは理の当然、自然な文明史として古拙からは遠ざからざるを得ない。古拙な美が古代人と自然との共同制作の結果として表われてくるもの(アニミズム)であれば、近代に近づくにつれてそれが非自然の美に生まれ変るのは必然でもあり、人工の美が新しい基準とならざるを得ないとすれば、ここで大岡の言う中々宜しいは、宙吊りにならざるを得ない。
六〇年以上の昔の建築史家のしかも、小記述に疑問を唱える為にこの小論を書いているわけではない。現在に於いても、良質な大方の印象批評はこの基準の上に立ち続けているのである。又、それに依拠せぬ印象批評は、それからの離脱、分離のみを基準とする、かなり怪しい水準のものが多いのではなかろうか。全く歴史が意識化されていないと言っても良いモノが野放しになっているのが現実かも知れぬ。
どうやら、一流二流を問わず、建築批評の言語は実見の印象を礎としてそれを実証するのが定理であり、その累々たる石を積み上げて、構築されているのが建築史であることは間違いがない。
山の上で最初に出会う構築物である文殊堂へのいささかの時代考証を残して、大岡は投入堂へと心急がせながら進む。山の背を進み地蔵堂を経て、小さな春日造の堂にさしかかる。納経堂である。
「古くは鎮守の堂であったのが、佛堂に編入されたのである。建物は現在最古の春日造として有名である。」
この納経堂が仏教伝来以前の日本の山岳信仰の社を再使用した建築である事を指摘しているのである。
『日本宗教造型論』美術出版社(一九六六年)を著した水尾比呂志氏によれば、「単独神像の制作は、次第に本地垂迹思想の組織的造型化へと進む。曼荼羅的表現が生み出されてくるのである。その例は春日大社においてもっとも顕著に見られる。春日大社は、藤原氏の氏神として、平城地方の神域春日連峯の御蓋山を背景に、天平中期に創建された。(中略)藤原氏の繁栄とともに官社に昇って格氏を誇っていた。この春日の神々が本地垂迹思想に組込まれたのは、平安前期の末頃と推定される。
春日造という、寺院建築の影響を部分的に受けた社殿を持ち、・・・五重塔まで加えられた建築様式は、まず顕著な神仏習合様式と言うことが出来るが、・・・」
要するに春日造は藤原道長の子頼通による宇治平等院鳳凰堂を代表例として残す藤原家の私有的占有の性格が強い建築様式であった。その春日造が何故日本海を望む急峻な人跡未踏の三徳山にあるのか。
浄土教の典型的現実化世界モデル、宗教的宇宙モデルとして平等院鳳凰堂は建立された。浄土教は又、阿弥陀如来つまり光を意味するイコンを中心とする極楽浄土を観想するバーチャル世界への憧憬そのものであった。しかも浄土教には本来的に当時の移入仏教導入が国家鎮護を旨とする公的性格の中軸を補完するものとして利用された嫌いが強いのとは別な、極めて私的な性格を脱する事も無かったのである。
水尾は記す。少し計り長く引用する(日本宗教造型論)。
「鳳凰堂は、中堂の左右に二階の翼廊を、後方には尾廊を持ち、翼廊はそれぞれ楼閣を頂く。前に苑池がある意匠は、寝殿造の形式によるとともに、浄土変相図の宝楼閣を実現する意図を有することが明らかである。中堂内部は、内陣に、八尺を上廻る丈六阿弥陀座像が定印を結んで安座し、その胎内には、蓮台に乗せた月輪に梵字の阿弥陀小呪と大呪を書いて納めてある。本尊台座の蓮華座とともに、この蓮台は藤原時代の意匠のもっとも美しい結晶である。(中略)天井は全て彩色の花文で埋められ、小壁には五十二体の雲中供養菩薩が歌舞を演ずる。本尊の後壁には供養図と浄土図、正面扉、側壁は九品阿弥陀聖衆来迎図、背面の小扉には日想観図が、各々観無量寿経を記した色紙形を伴って描かれている。
この堂内には頼通のほかは入る事を許されぬ。扉を閉じればすなわち現世に出現した浄土と化し、光明に燦然と映える恍惚境が完全に造型されているのである。浄土教の悦楽の極地と言い得よう。頼通は、この現世の浄土に籠ることで末法の世から自らを遮断し、そのまま鳳凰の翼に乗って西方へ飛去ろうと意図したに違いない。」
不思議な既視感を感じないだろうか。そう、今現在のコンピューター世界との通時性が明らかにここには在る。コンピューターのスクリーンの光の中に自分を遮断し、そのまま現実から遊離してゆきつつある我々の、光という視覚を介した脳内風景の有様と酷似しているのである。
その事は更に深く考えてみる事を予告して、もう一度大岡の三仏寺の旅に戻らなければならない。更には、堀口捨己の美に対する史観へと進みたい。
納経堂のさき、岩窟の中の観音堂を過ぎる。少なからぬ小伽藍と呼べぬ程の御堂が山の背に連続して配布されている。恐らく近代以前の行者達、あるいは参拝者達はその配布の意味合いを我々よりはるかに実感として把握しつつ山上の旅の道行、巡礼の如きを実感していたに違いない。ここは物見遊山の気持では辿り着けぬ場所であるし、中世は更に厳しい条件の登高行であったことは確かであろう。古代日本に存在した大峯、能野の二大流派の修験道の一つと、藤原文化が結託した末に出現したのが三仏寺の奇跡的とも言える建築様式であろうと思われるが、そこには日本古代から平安期に転形してゆくイコンの歴史が端的に表現されていたと考えられる。イコン、すなわち美の観念の形象化された姿である。