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第三回   国家的イベント事業の変遷とその関係       

オリンピック、万博という国際的な祭典は参加国、特に開催国の国力を世界に発信する最も大きなイベント事業である。国家的宣伝戦略のひとつとしてこの一大イベントを利用した初源はベルリンオリンピックにみることができ、ナチ政権は巨額の費用を投じ、このイベントをドイツ国の栄華、民力、財力の誇示に最大限利用しようとした。当時のナチ政権はゲッベルス率いる宣伝省の、新しいメディアを用いた広報戦略、レニ・リーフェンシュタールがつくった記録映画、ニュース映画などによって大量の民衆をナチズムへと傾倒させた。

国を挙げてのイベント事業というオリンピックや万博の性質は、戦後急速な復興と発展を遂げた日本で再び顕在化する。1964年東京オリンピック、1970年大阪万博はまさに近代国家としての日本の姿を世界に向けて「宣伝」する絶好の機会だった。

そして、21世紀、かつてのドイツ、かつての日本のように発展した自国の姿を2008年北京オリンピック2010年上海万博を通して世界に発信したい中国は、莫大な費用、人力を注いで盛大な祭典を執り行う。巨大なスタジアムの建設や、絢爛たる式典などに総力を注ぐ、それはベルリンオリンピックがつくりあげた聖火リレーや選手村、メインスタジアム、隊列行進などの現代オリンピックの基本形となるイベント計画の踏襲とみることが出来るだろう。


国家的イベント事業の変遷とその関係


「情報の総体としての大阪万博」マトリックス 修正版(2010 年 5 月 7 日)

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第二回   国家の戦略的広報       M.O.

1960-70年代においてめざましい発展を遂げた技術としてメディア技術がある。3Cメディア(カラーテレビ、カラーポスター、カラーグラビア)が発信する「生活を変えよう」というメッセージによって消費者としての大衆の意識が大きく変わった。その後さらに加速するメディア、コミュニケーションの変革を表象するかのように1970年、日本のグラフィックデザインを牽引するデザイナー集団であった日宣美は解散する。

同年の1970年大阪万博では日本においてほぼ初めて、大々的、戦略的な広報活動が行われた。(大阪への招致から、終了後の記録の編さんまでのほとんどの広報を電通が請負、日本におけるその後の博覧会は電通がとりしきることになる。)

国家的なイベントである大阪万博によって、日本は戦後めざましい復興と発展を遂げた近代国家としての姿を世界に発信すべく、登場したメディア技術を駆使してその姿を広報によってつくりあげた。それは、WW2下において登場したばかりのラジオ放送をはじめ、あらゆるメディアを手中におき、プロパガンダを発信していったヒトラー率いるナチズム政権を思わせるような、国家的思惑による広報戦略であった。

そして現代になると、技術向上は情報技術を革新的に進化させる。再びコミュニケーションの方法が大きく変化し、かつてメディア革新によって影を潜めることになったグラフィックデザインの可能性が見直されはじめた。デザイナーはゼロ年代も終えた21世紀、情報時代の今、改めてグラフィックデザインについて考えなければならない局面にある。


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M0へ

それぞれの卒業論文のテーマを決める為の。コレワ、予行演習です。それを忘れぬように。大阪万博を介して、今考えるべき事を探求しているのです。

@何故、40年(半世紀昔の)大阪万博をスタディするのか。

それは君達が西洋建築史で、ギリシャ、ローマ、ロマネスク、ゴシック、バロックそして近代を学ぶ(学んだ)のと、同じなのか、異なるのか。(これは、とても重要です。)

A当然、大阪万博には学ぶべきモノがあるのだけれどそれは、何なのか、何故なのか。それを自問しなさい。

Bそれと先ず、短く要約しなさい。

Cそれが、解らなければ大阪万博を勉強することはないのです。

D1990年代までの日本近代の建築の歴史はアメリカ型市民社会の建築様式として、考え深い歴史家はくくり始めている事を知りなさい。その視界の中で、大阪万博の世界的な意味を考えようとしなさい。

出来なくても努力する事。それが大事です。

日本の近代における編集的創作の可能性

バブル崩壊の直前に生まれた世代の私達が考えるデザインとは、情報を再編集し構成する方法にオリジナリティを模索することの中にある。

1970年大阪万博は単なる西洋の模倣ではない。それは、編集的創作態度による情報デザインの総体であったと、今にしてみれば考えることができるのではないだろうか。

70年万博の諸遺産のなかにそれを発見し、さらにインターネットを用いて読者として皆さんに参加していただくことに、この考えを深めていくヒントが隠されていると思うのである。

※ゼミの進行状況により、Web上にあげた文章、イラスト等に修正・変更が加わる場合があります。


第一回   大阪万博を情報総体から捉える       C.I.

私達は、大阪万博にあったひとつひとつのものを分析するのではなく、それらを情報の総体としてとらえ、分析することで、何が大阪万博たらしめていたのかを考える。

1960 ~ 70年、急速に進歩した科学技術は既に一般人の理解の範疇を超えていた。

70年大阪万博で人々が魅了されたものは、当時の最新技術そのものではなく、それによって表現された未来像である。

大阪万博のパビリオンは、光や音、水、映像など、それまで確固たる形として扱われていなかったもの、或いは一つの方向性をもって発展してきたものが多く扱われている。

それらが最新技術によって効果的に制御、操作され、それまで人々が体験したことのない空間や事物が、近い将来起こり得る未来像として表現されたのである。

その未来像のひとつひとつを集積し総合してみると、大阪万博は当時の技術の最大値ではなくその先にあるものを見据えたものであり、技術が持っていた可能性の提示なのである。


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石山研 M0 ゼミの公開にあたって(教師としての前口上) - 石山修武

 M0ゼミとは早大建築石山研で、大学院への進学前のアンダーグラディエイト学生、4年生のゼミナールをいう。いわば昔風に言えば予科練における研究とも言うべきか。しかし、色んな制度上の現実から言えば、大学院にも増して、一番勉強できる時間のゼミナールなのである。

 今年はテーマを大阪万博に絞り込んだ。今のような歴史的な転形期に於いては、歴史を学ばざるを得ぬ必然が、どんな阿呆にも良く解るのである。歴史の中に現在を感じ取る事が、学生にはどうしても必需である。

 歴史教育は、遠い教養として日本では受け止められる宿命がある。

 しかし、近代の建築史を良く深く視れば、そこに何がしかの、定理を視る事が出来る筈だ。それ故の、研究の主題の、最良のモノの一つ、恐らく、ベストに近いモノが大阪万博の諸遺産の中にあるだろう。

 だから、学生達にとっての大阪万博は日本建築史の、特に近代史の特別なスペシャルポイントの研究という事になるだろう。