富士ヶ嶺観音堂
ワークス・フォー・マイノリティ
GA JAPAN 70  反ニヒリズムと永遠という時間 富士ヶ嶺観音堂
富士ヶ嶺観音堂カバーコラム 050111
カバーコラム 050105 富士ヶ嶺観音堂
富士ヶ嶺観音堂 カバーコラム 041220
富士ヶ嶺観音堂 設計について
石山修武
二〇〇三年六月六日
院レクチャーメモ
 淡路島一宮町の丘の上に一九九三年に建てた淡路山勝工場。丘に放物線状の土手を作り、大きなクレーター状の地形を作った。そのクレーター状の人工の地形に屋根を架けるというのがこの計画の中心だった。クライアントがフレデリック・キースラーの研究でも知られた環境芸術の草分け山口勝弘であったので、キースラーの銀河系計画に触発されるところがあって、それで大きな放物線が出現した。宇宙を切りさいて運動する彗星の軌跡が思い描かれ、実現した。私の建築では世評に全く取り上げられなかったモノだが、実ワ大変気に入っていた。山勝工場が建てられたのは「いざなぎの丘」だった。国生み神話の生誕地である。この丘の頂に建築を建てる事になったので、極く極く自然に銀河系計画が浮上したのであろう。神話世界は幾つもの神話的イメージを喚起するのだ。いざなぎの丘に建てられた山勝工場は一九九五年の阪神淡路大震災にも耐えた。一宮町はあの震災の震源地であった。
 淡路山勝工場で得たアイデアは一九九四年のリアス・アーク美術館に引き継がれ、二〇〇二年の星の子愛児園の伏流となり、今、建設中の富士ヶ嶺観音堂に辿り着いている。
 富士ヶ嶺観音堂の凹地の源は淡路山勝工場のフレデリック・キースラーの銀河系計画であった。富士ヶ嶺観音堂の敷地は富士山を間近に見る、日本では有数の大きな神話的風景の中にある。聖徳寺伝では古代聖徳太子が黒駒に乗ってこの地まで歩をを進め休息したのだと言う。まさかそんな事はあるまいが、そんな事を人に想わせる程の風景であるのは確かだ。当初計画し、作り終えていた巨大な凹地はバリアフリーの問題で、残念ながら埋め立てられてしまった。凹地の陰画の形態としてのアーチは実現した。不幸中の幸いである。長いアーチの形態はロシア構成主義のタトリンを想起させる。しかし、いくら時空を超えても、ロシア構成主義と富士山というのは似合わない。いかにもミスマッチである。
 しかし、何とか似合わせてみたいというのがこの計画の中心の課題である。似合わせると言っても色んな方法がある。岡本太郎みたいな対極主義だってある。視覚的世界では富士山は日本的世界の盟主だ。この山があるだけでここは日本である事が歴然としてしまう。この敷地はそんな富士山世界の真只中なのである。その事を考えずに建築のデザインはあり得ない。それ故にこの建築のデザインは富士山の形とどう関係させるかが始まりであった。
山勝工場 山勝工場 山勝工場
六月二〇日
 レイトモダニズムの実体は一見表現しないと言う貧血の美学主義に過ぎない。個人的な表現欲を制御するという身を縮めた倫理主義でもなく、要するに表現したいものが無い事を、表現しない如くに、か細く表現しているだけの事なのだ。
 それでは表現したいものがあるのかと問われるだろう。歴然としてあると答えたい。それは何か。表現という言葉さえ、デザインという事自体、勿論芸術と言う概念だって、満足に言明する事さえ良くする事をしない膨大な数の人間達、社会という枠でさえも上手にくくれない裸形の人間達の、それでも在るに違いない幻視に近い欲望だろう、それは。ポピュリズム的手法ではない。それを神話という言葉で言い表わそうと、私達は試みる。確かに一見古い言葉だ、コレワ。民衆という種族は東京には居ない。勿論、大衆も居ない。市民も影も形も無い。あらゆる人間から血も肉もある実体という概念が消えている。身体は都市的演技力の媒介になった。全て、都市という都市、勿論、田園という田園であっても変わりはなく、起きている事は身振り、他者を意識した演技である。自立した個人はあり得ぬ社会になっている。
 それでも表現すると言う時、当然その主体は何者であるかと言う事になる。
 富士ヶ嶺観音堂の建築で試みようとしているのは、この問いかけに対してのおぼろな答えの形式である。この小建築には明らかに表現する形がある。何者が表現しようとしているのか。
 それが敢えて神話という言葉を借りて表明しようとする本体である。

 死者はしゃべらない。では死者は表現しようとしないか。そうではない。死んで初めて人間の形は、はっきりすると言うアフォリズムがあるように、死者たち位ハッキリと表現しようと欲望する種族は他に無い。
 この霊園の付属施設に、荷わせたいと考えたのはその欲望の表現だ。墓場は生者が死者を懐かしんだり、祖先崇拝の場であるだけではない。そこは死者達の声にならぬ声の満ち溢れる劇場でもある。それを小さな歴史の劇場であると呼んでも良い。この霊園の数百基の墓に埋葬されている死者の歴史もある。
 それだけではない。
 富士山の、ここは北面。上九一色村である。一九九五年の事件をまだ多くの人間は忘れてはいまい。あの、オウム真理教事件を。

八月二〇日
 一九九五年は日本戦後の歴史に巨大なクラックが刻まれた年であった。阪神大震災、オウム真理教事件、共に日本の戦後半世紀の営みが巨大で脆弱な、バーチャルな豊かさをだけを生み出し得てなかったのかの大疑問を抱かせた。二〇〇三年の夏、あれからすでに八年の才月が経ったが、私達は今もなおこの大疑問が生み出した余りにも大きな懐疑の闇の中に居る。政治経済産業教育、全ての分野に同時併走的に起きている迷走振りは、戦後五十年の結果として厳然と怠惰に、しかもシステマティックに生み出されている事から出現していたのである。
 建設産業の迷走振りには最も深刻なものがある。何故なら戦後五〇年の日本の歴史の骨格は「建設」によって形作られたものであった。その骨格を、実に象徴的に阪神淡路大震災、オウム真理教、二つの事件は直撃したのだった。大震災は建設と言う事自体の危うさを知らしめた。正確に言えば、人間の生活自体にはっきりとした骨格が視えぬままの建設は闇雲な経済活動でしかあり得ぬ事を我々は知った筈だ。私達の生活自体に内在すべき骨格とは、生活の中の価値観である。経済と安楽だけを求めた事が自動的に建設産業の建設する事を自己目的化しただけの盲目的営易を生み出した。
 建設事業を大別すれば官による投資と民による投資によるものと分けられる。官による投資が謂わゆる公共事業への投資である。我国ではこの多くが一途な建設に向けられてきた。土建国家と自嘲的に己らを呼ぶ由縁である。極論すれば、これは我々全ての文化的想像力の貧困を示しているのだ。政治家、官僚、行政の怠惰ばかりに原因があるのではない。突きつめれば土建国家を作ってきたのは国税の負担者、すなわち本来の税の使用の主体者である国民である我々自身なのだ。我々自身の想像力がいかに卑弱なものであるのかを阪神淡路大震災は直撃した。震災によって出現した廃墟は、我々自身の想像力そのものの廃墟でもあった。

 オウム真理教事件があぶり出したのは建設という文明の概念というよりも、むしろ建築、より端的に言えば建築デザインなる本来文化的であるべき筈の概念であった。麻原彰晃以下オウム真理教教徒等が破壊し壊滅させようとした地上の現実の都市に対して彼等が構えた活動の拠点である富士山麓に散在されたサティアン建築群の基本的な性格が示す諸表象群そのものであった。麻原等のサティアン建築の特徴は建築自体の倉庫化であり、パッケージ化であった。麻原彰晃等は彼等が建設したサティアン建築に倉庫以上の意味を全く期待していなかった。そして、その事実は決して彼等の特殊な事情ではなく、どうやら広く社会の一般的な欲求と連関していたのである。

つづく
富士ヶ嶺観音堂
2004 年4月の富士ヶ嶺観音堂

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