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カバーコラム1 石山修武 |
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014 虹梁
兵庫県小野の浄土寺浄土堂については多くが語られている。その多くは太田博太郎博士の大仏様に関する言及を前提にしている。最近では伊藤ていじ、広瀬鎌二両氏の重源をテーマにした労作があった。
建築家磯崎新も繰り返し繰り返し、折に触れ重源について言及している。磯崎は和様化といういかにも日本的な精神史、政治文化史について考えているようだ。何故、かくの如き、日本建築史には奇跡と思われる程に構築的な建築が日本に於いて表現され得たのか、そして重源一代限りで消滅していったのか。この疑問は実に今に通じる視点である。
ガラスを多用したフラットなエレガンス、モダーンな建築の流行は、磯崎的な視線から言えば和様化なのだ。荒々しいとも感じる構築性が消え、エレガントな表層のニュアンスに時代の抱える問題が隠されて、あいまいになってゆく。そんな時代に今我々は居る。
浄土寺浄土堂の内部には太田博太郎が指摘する構造的、経済的合理性を超えた何者かが存在する。この虹梁が乱舞する堂には確実にある種の精気が張りつめている。
重源のキャリアにはいまだに謎が多い。五〇才以前の彼が何処で何をしていたのかは不明だ。醍醐寺で修行していたのは確からしい。
今に残る大仏様(重源様)の代表的なものは浄土寺浄土堂と東大寺南大門である。南大門には内部空間らしさは無いが、門を通過する時に見上げる架構の圧倒的な力強さは浄土寺浄土堂に通じるものがある。同時代ヨーロッパではゴシック様式が生まれ始めていた。ゴシック様式はヨーロッパを覆い尽くしていた森の精たちを、今で言うグローバリズム=キリスト教が駆逐し、場所場所に棲んでいた森の精(信仰)をキリスト信仰の許に置くための装置であった。それ故、ゴシック様式は森の暗喩の宝庫である。天までそそり立とうとする塔は森の巨樹のアナロジーでもあった。
重源の前半生は山岳修験の生活の中にあったと思われる。山岳と深い森、それは巨樹の林立した森であったろう。重源は西日本の森を地質学者の如くに知り尽くしていた。修験者は地政学者でもあった。森林、鉱山の情報を一番持っていたのだ。周防(今の山口県)に巨樹があり、それを瀬戸内海を介して奈良に運んだのは知られている。重源の中には森林があった。又、それを建築資材として把握し、内海を運河として使えると言う実利的な構想力もあった。
今の修験者たちはいかにも怪し気である。禅の修行僧が何となく(本当は怪しいのに)真正に受け取められるのとは程遠い風がある。重源だって充分に怪し気な人間である。五〇才過ぎる迄無名で、いきなり頼朝源氏に取り入り、平重衡によって焼かれた大仏殿の再建の大歓進に抜擢されるなんてのは怪し気な才質が無ければ出来ない。山師だったのだろう。類稀な観察者であった玉葉の著者によれば、重源が大歓進職が上手くゆかずに、アレコレと細工を労したのが時々出てくる。西行とも附合っていて、これは平泉からの金策だったのだろう。西行って人も大詩人であったのは解るが、これも正体が知れぬ人だった。スパイ映画に出てくる様な感じがつきまとう。
重源に関しては想いが尽きぬので今回はこれ位にするが、浄土寺浄土堂は日本土着の森の精(神々)も棲んでいる事は言いたい。
石山 修武
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013 MACHINE
マシーンが何処でどうしてミシンになったのかは知らない。しかし日本の高度経済成長時代以前、消費生活の生活スタイルが一般に普及する前には各家庭にはミシンがあった。母親は当然のように料理を自分で作り、御飯も自分で炊いていた。そして衣料の一部も自分で作っていた。家はただ消費の場、消費材のストック場所であるだけではなく、衣料の生産の場でもあった。農家の囲炉裏端や土間が、様々に生産加工の場であった様に、家は主婦を中心とした生産の場でもあった。電器ガマは主婦の御飯炊きの労働を極度に軽減した。家での食生活は次第に消費的スタイルへと変化した。
ミシンがその姿を家々から消し始めたのが何時の頃か、精確には知らない。ミシンによって衣料その他の一部を作るよりも、買った方が便利になってしまったからだ。私が小学生であった頃、一九五〇年代までは小学校のカリキュラムに家庭科というのがあって、男子も雑巾なんかの作り方を学んだ。それぞれの下着はまだ母親の手作りであったような記憶がある。又、図画工作の時間に本棚、本立て、鳥の巣箱などの作成が課題としてあって、喜々としてモノ作りにいそしんだ。今の小学校のカリキュラムから、それ等はほとんど姿を消した。身の廻りのモノを作ろうとする事なしに、全てを買う、消費する感覚が急成長した。高度経済成長とそれは同一の進行性を持っていた。
我々は身の廻りのモノ、生活環境を自分で作ろうとする人種ではなくなってしまったのだ。クロード・レヴィ=ストロースは文明未開の人々が自分の手で様々なモノを作るのをブリコラージュと呼びブリコロールと名付けた。私達は一九五〇年代まではその能力を失なってはいなかったのだ。
ミシンの姿は今、アジア各地域やヨーロッパの辺境の地で見る事が出来る。ベトナムには大量の日本の古ミシンが流失して、衣料その他の生産をまかなっている。このシンガーミシンにはイタリアのシシリアで会った。パレルモの中心街の商店に堂々と居座っていた。ここにはまだブリコロールが生存しているのを知った。それ故にグローバリゼーションの波にローラーされ切らぬ地域性、自主性が強いのだと知った。
日本の住宅の今は完全消費生活の器である。住宅のデザインも消費生活のファッション・ショーの体になっている。
我々が消費生活の一端として行っている旅行の先は、得てしてミシンのある風景を観光しに出掛けているのではなかろうか。
石山 修武
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012 サーファーの下駄箱
二〇〇一年の6月号・スタジオ・ヴォイス三〇六号にセルフビルドの連載の一つとして紹介した「サーファーの家」の一部である。もう四年も昔の事であるから、大昔のような気もする。
九十九里浜大東岬の北に日本有数のサーフポイントがある。波の来ない日はまず無い。千葉県外房一宮、国道一二八号沿いに世界で唯一と言う麻雀博物館がある。その向いが大橋照雄さんのセルフビルドの家である。奥さんが経営するビューティ・サンタクロースと対になってある。
この家はセルフビルドの傑作の一つだ。セルフビルド・サーファー派とでも呼ぶべきか。特色はなにしろ軽く自在なところだ。家全体の事を知りたければスタジオ・ヴォイスのバックナンバーを開げてくれれば良い。マ、サーファーの家らしく家が船の形をしていて、コレワ少々サーファーにしては重苦しい。スタジオ・ヴォイスの連載はページ数が二頁しか無かったので、中里和人の良い感じの写真が沢山使えなかった。
特に、このサーファーの家ではそうだった。この家で一番ビックリしたのは実ワ、大橋照雄さんの作った部分ではない。照雄さんの息子さん達が、これも又自由気ママに作ったそれぞれの部屋が素晴しかった。特にこのスニーカー掛けが抜群に良かった。お父さんの照雄さんの好みは、私とほぼ同年令なので良くわかった。フムフム語らなくてもツーカーなのだった。しかし、息子さん二人の部屋は全く別世界であった。スニーカー世代の特色が端的に表現されていた。一番気楽で気ママでこだわりの少ない好みが良く表現されていた。実ワ、私は少々ショックで、生まれて初めて位に、俺は古いのかも知れぬと考え込んでしまった。シャクにさわって、この息子さん二人のセンスの中枢を吸収しなくてはと考えた。時間は少々かかったけれど、今は何となく感覚の一部をスライドさせる事も出来た。それで、皆さんにもこのスニーカー掛けを御紹介する。これは新世代の下駄箱なのである。
大橋さんの家には家族の下駄箱が玄関と覚しきに無かったような気がする。二人の息子さんもオヤジゆずりのサーファーなのだが、彼等の部屋はそれぞれに全く異なっていた。それぞれの好み、感性が自然に、しかも激しく、柔らかく表現されていた。一方の部屋には、確かジミ・ヘンドリックスの神棚だったか仏壇があって、もう一方にはヘンドリックスの肖像ならぬ、このスニーカーがこんな風にサラッと引っかけられていた。この感じが何とも言えず良かった。実に良かった。住宅はこういう感じになれば良いのだと、つくづく感じさせられた。
今、幾つかの住宅を手掛けているが、こんな風な下駄箱、ならぬスニーカー掛けは仲々作れない。
スニーカーに下駄箱はいらない。全く似合わない。スニーカーは、はいていない時にはこんな風に宙に浮かせるのが一番なのだ。
誰か、ウーンと若い人、十八、九の若者が住宅を頼んでくれないかと思ってる。そしたら、全体がこんな風な好み、感覚でまとめてあげるのに。
石山 修武
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011大沢温泉ホテル
伊豆西海岸松崎町大沢温泉ホテルは四〇〇年前、武田勝頼の重臣、依田一族の隠れ里として歴史をスタートさせた。依田家はその後、北海道開拓の父依田勉三、町づくりの英才依田敬一等を生み出した。考現学の今和次郎のアドバイス等も得て先代依田敬一はこの隠れ里を三百数十年の豪壮な庄屋造りの民家を中心に、ホテルとして再生した。
当代依田博之氏の依頼を受け、これから数年をかけて再再再生するデザインをしている。依田さんとのキャッチボールでアイデアをまとめ、この類い希なホテルを更に磨き上げようと思う。広大なホテルの細部、細部に手を施してみる。
西伊豆松崎町とは縁が深い。
大沢温泉ホテルを介して、再びその縁が深まるやも知れぬ。
手のつけ始めは、大沢温泉ホテルの名物でもあった、大浴場のテラスとその周辺。今はここまで手が入った。木製テラスの前を流れる清流は那賀川の支流から水を引き入れて、小さな水力発電も試みられている流れだ。
大沢の湯は湯ざめしない、そして肌がしっとりと美しくなるので女性に人気高い。その温泉にとっぷりとつかり、外に出て、テラスで風に吹かれ、足先を清流につける。陽光は、そして雲の流れも、刻々と変化する。
何も考えない。
空白だけがある。
この一刻を是非味わっていただきたい。
湯上がりに木のテラスに裸で寝ころんで、あるいは座り込んで、間近の山と対面する。午後遅い西からの陽光は伊豆西海岸に独特のものだ。濃密に五感を包み込む。裸で庭に出てみるのも良いだろう。裸は感覚を鋭くする。普段働いていない毛穴から風が吹き込んで、思いもかけず眠っていた細胞の目を覚ますこともあるにちがいない。
石山 修武
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010あいさつお化け
中央林間に建設中の「森の学校」では正面に「あいさつお化け」をデザインしている。
エジプトのスフィンクスの謎かけは良く知られているが、スフィンクスは子供達には似つかわしくない。
森の中の小さな保育園へ、毎朝子供達は両親に連れられてやってくる。普段暮らしている家の廻りの風景とは違う森の中に建築はある。スプロールし続けている新興住宅地には珍しい森だ。この森には多くの昆虫や動物が棲んでいる。その生物たちと同様に子供たちの想像力は森の精たちを作りあげるだろう。その森の精を建築全体に棲みつかせる事は困難だ。
しかし、朝の来園時に子供たちを迎える顔は用意したい。「オハヨー」とあいさつする顔だ。
人間の顔や身体に擬体化させた近代建築は無くはない。しかし大方は見苦しく失敗している。
この「あいさつお化け」はこの建築をつくる為に切り倒さねばならなかった樹木を使用して作る。切り倒して現場に寝かせている丸太を輪切りにしたり、チョッとだけ手を入れて再生する。その再生のプロセスは小さな本にして先生方は子供達に伝えてもらいたいと考えている。きちんと伝えてもらえば、子供達はこの装飾群に意味を嗅ぎ取るだろう。
そうすると、建築は別の姿となり、子供達とあいさつをする様になる。
朝は、オハヨー、夕べはサヨナラ、又、アシタって。
もう、遠い記憶になってしまったが、私も子供の頃は木や虫や動物達と時に話していた。
石山 修武
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009 通信
広島のクラフトマン木本一之君に新しいモノをお願いしたいと考えた。これ迄一年程の準備期間を持ち、何回も通信を往復させた。木本君の工房にはどうやらコンピューターは置かれていない。ケイタイも持たない。それでFAXを使ってやり取りしてみたが、どうもうまくいかぬ。考えるスピード、鉄をたたいて作るスピードと通信の速力が合わない。それで今年から全て郵便で、という事にした。郵便は届くのに二日程かかる。その間に、送ったアノ手紙のあそこを修正したい、ここが欠けていた等と考える事もできる。勿論、全然考えぬ事も多い。
木本君だって、送られてきた通信を眺めて、こんなモンできるか、とムッとする事もあるだろう。それに通信は相互間の対話を旨とする。僕はあんまり細々とした事、形の細部までは口を挟まない。木本君にお願いするのだから、木本君には木本君の考えや、こうしたいというモノがある。それだからこそ、こういうモノを頼もうとしている。
大沢温泉ホテルのテラスにと考えたこの照明器具の基本は一枚の鉄板からどれ程多くの形をつくり出せるかという考えと、それが出来るならばその形は出来るだけ具体的な方が良かろうという考えだ。その二つのアイデアが結ばれて、こんな木本君への通信(メディア)が出来た。返信を待とう。
石山 修武 一月十四日
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008 富士ヶ嶺観音堂 3
二〇〇五年一月一日多摩プラーザの山口勝弘先生を一年振りに訪ねた。鎌倉近代美術館の展覧会に向けて色々な準備をしているようだった。山口さんらしいなと思ったその一つの構想が鎌倉近代美術館の池の上に能舞台を作るというアイディアだ。
山口さんは能のうたいはうらみ節だろうと断言した。観阿弥、世阿弥っていう連中は大変な奴等で、あいつらは要するに武士をたぶらかしてたんだよ。
中世というのは亡霊、悪霊、死霊、幽霊達が人々の中にリアルに生きていたんだ。能のうたいはそういう霊達の叫び、うなり、だった。そのなりを使って能の連中は武士達におそれの感覚を与えたんだろう。
だましてた、と言うのは、要するに幻を体験させていたのと同義である。乱世を生きる武士達、貴族達が最もおそれていたのは霊であった。殺した者の霊、様々に死んでいった者達の霊が、今とは比較にならぬ位に生き残った者達を、おびやかしていた。
「能楽堂それ自体があの世と、この世の架け橋だったんだ。」
つまり、山口勝弘さんはこう言いたかったに違いない。
能はヴァーチャルアートだ。あの世の霊達の世界を現実界に写し込んでいる。確かに所作のひどくゆっくりし過ぎているスピードそして静止。表情の無い能面。うたい。その全てがあの世の霊たちの立居ふるまいを思い起こさせる。能の観客であった武士、貴族達にとっての日常の現実は多くの死が実に身近にあった。人災、天災による多くの死体が日常の中にリアルに存在していた。それ故に霊の存在も又異常なリアルさの中に在った。あの世と、この世は背中合わせに共存していた。
大津波や戦争、大地震等の災害が続く。私達の気持ちには常に不安が巣喰っている。棲みついて、ゆっくりと能の所作の如くに心の平安をむしばんでいる。能を生み出した中世のように死霊、怨霊がハッキリと眼に視えるように跋扈するわけではないが、それよりも性質の悪い不安が身体の中に巣喰って、心をむしばんでいる。現代は不安の揺れ動きが一番リアルなのだ。
不安と平安は背中合わせの、共にヴァーチャルな精神世界である。だからこそその世界に眼に視えて、触れられる架橋を架けてみたいのだ。
不安自体が内に在り、それが揺れ動き、運動を止めないのは防ぎ難い。不安、怖れは恒常的なものだ。だからこそ、その揺れ動き続け増殖を止めぬ運動の場に、確固とした物質の不動の形式を建築として構築したいのだ。
石山修武
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007 富士ヶ嶺観音堂 2
マルセル・デュシャンはローズ・セラヴィと女性名を名乗り、女装する事があった。マン・レイはその肖像写真を記録として残した。
ローズは明らかに女性名詞であり、男と光の代名詞でもあったマン・レイ(光線)と対になっている。
何とも厄介極まる謎を彼等は残した。
デュシャンは何故、女装しなければならなかったか。そして、それを写真による肖像画として記録したのか。
デュシャンは当然の事ながら男性として生まれ、あるいは生誕してしまい、芸術家として生きた。その厳然たる現実をデュシャンは唯一絶対の現実として考えようとはしなかった。DNAの一瞬の誤作動の如きで男性という性に殆ど偶然の如くに生まれた。
その現実は現実であっても唯一の現実ではない。もう一つの現実の影の不在によって成立している。もう一つの視えぬ現実とは自分が女性として生まれた非現実である。現実と非現実と呼ばれる世界は極度に薄いフィルムの様な膜で合わせ鏡になっているに過ぎない。そう考えてデュシャンは女性としての肖像を残した。生身の男性としての自分だけがオリジナルなものではない。その自分をのぞき込んでゆくと、もう一つの視えぬオリジナルが視えてくるだろう。
現実と非現実は同一性を持つ。
そういう考えに辿り着いたデュシャンがアイロニーと密着したユーモアのセンスを持つマン・レイにその非現実=現実の肖像写真の記録を頼んだのは理の当然であった。しかも、ローズとマンとは代名詞としても合わせ鏡になっている。
建築をメディア化しようと考える時、こんな考えを垣間見た者はどんな風に考えたら良いのか。
あらゆるメディアは女装した、ローズ・セラヴィとしてのマルセル・デュシャンだ。それ故、実物としての建築は何らかの形でメディア化する時には女装させる必要がある。
それがもう一つの作品だ。
石山修武
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006 富士ヶ嶺観音堂 1
あらゆる写真は現実ではない。あらゆる事物は三次元、または四次元に属しているが、写真はそれを二次元の平面に移し変える。当然そこには異常な無理が働いている。あらゆる写真はそれ故に非現実世界を表現している。
この写真は富士山麓上九一色村に建てた観音堂の夜景である。ステンレス製の墓の丸い小シェルターに点々と光が写し込まれているのが撮られている。この写真をとった人はその風景に特別な意味を見ようとして、この写真を撮った。撮ってみて、現像してみたら、更に不思議なモノが写っていた。観音堂のほぼ中心に変な丸い大きな光がハッキリと写し出されている。
ただし、蛍の光のようなステンレスの反射光は人間の肉眼が視た現実だが、この観音堂の中心の丸い光は写真機が写したとったものである。人間の肉眼(身体)はそれを観てはいない。つまり、ここに写されている丸い光はカメラという機械が拾ったものだ。発光体にレンズを向けた時に良くレンズが起こす現象であるかも知れぬ。弱い逆光を写そうとして出現してしまったモノの可能性が高い。
しかし、それでは人間の側の問題は考える事ができぬ。この写真には先ず第一に写真をとった人の身体の偶然が引き起こしたカメラのレンズの誤作動があったかも知れない。第二に、その誤作動の結果、印画紙上に出現した丸い光を、観音玉光だと直観した人間の想像力がある。それを前近代だとか、妄想、迷信の類いだと捨てきれない。例え、機械の犯した誤りであるにせよ、その誤りのお蔭で何人もの人間が有難い事だと想う事の方が大事なのではなかろうか。
病気、障害も又、それぞれの人間に個別な尊厳である。それぞれの人間にとっては不可避な事件であると考えるよりも、それぞれの人体器官が主体的に引きおこした誤作動の結果だと考えた方が、その宿命のようなものを受け入れて、対応しやすくなるだろう。誤りも又、一つの個別性を持った現実なのである。
異常な現象は世に満ち満ちている。考えてみれば日々の生活の繰り返し性、退屈さだって異常と言えばそうなのだ。健康というものだって生命の維持運動のディテールを想像すれば異常の連続によって引き起こされているのだろう。病気、障害も又、厳然たる人間の個性だと考えると、少しばかり世界が別の様相を帯びてくる。
石山修武
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005 ざくろ
稲田堤の厚生館愛児園のために広島の木本一之さんに作ってもらった。木本さんは私の佐賀、上海でのワークショップで得た友人である。ドイツで鉄工芸を学び今は広島に自身の工房を運営している。
ある程度の人生経験を踏んだ後での、人と会う事は、その後の附合いをほとんど瞬間的な価値判断にゆだねるのが大半だ。
木本さんはあんまりしゃべらず、勿論自分を売り込んだりもしない。上等な例えではないが、堀りたての大きな、じゃがイモみたいな感じの人で、会った途端に信用できるなと直観した。以来、機をうかがっていたが、熟したとみて、第一回の仕事を依頼した。それがこの小さな、ざくろのオブジェクト、玄関灯である。
全体がどんな姿になるのか思案中なのだが、いずれ大きな建築をこんな風に作りたいと考えている。
こんな風と言っても、どんな風なのかうまくはまだ言えない。今のところの私の建築の大半はそのための習作である。
アントニオ・ガウディの建築の姿、形はともかく、仕事のすすめ方にはほとほと感動した。バルセロナのサクラダファミリア教会の現場には友人の外尾悦郎が今も居る。何年も昔に彼からその職人達を紹介してもらった。その時は、たった九人程であったと記憶している。今はコンクリート工事になっているから、もっと多いだろう。皆、木本さんみたいな男達であった。無口で頑固で、人の噂話し評判なんて意に介さない。つまりプライドが高い。彼等は今でも皆ガウディと共に仕事をしている、そんな気持ちを持っている。つまり、ガウディに教育され続けている。今の、サクラダファミリア教会の主任建築家ボネット氏の父親は直接ガウディの許で指導を受けた職人で、その話しは痛烈に面白かった。今、ここに記すゆとりが無いが、いつか作れた時には機会があれば語ってみたい。
ガウディの建築の鉄の様子と比較すれば、このザクロはまだまだ子供である。木本さんも私も、そんな事は重々承知の上なのだ。しかし、たゆまぬ練習が欠かせない。しかも実社会の本番での練習が必須だ。
その私達の練習の成果は、つまり木本さんと私の第二作は近々、ここに発表する。
石山修武
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004 PEGGY AND KIESLER
二〇〇三年の冬にヴェネチアのペギー・グッゲンハイム美術館でフレデリック・キースラー展を視た。バウハウス大学のJ・グライターと一緒だった。山口勝弘の著作その他でキースラーには大きな関心があった。彼の制作物の実物に触れたのは初めてであった。
鎌倉近代美術館でB・フラーのダイマクションハウスのバスユニットのオリジナルモデルに接した時と同様の感動があった。
キースラーはP・ジョンソンのオーガナイズした幻想建築展などの影響もあり、幻視の造形家の印象が強い。が、実際の制作物からの印象はそれとは 正反対のものであった。
一人の制作者がキチンと与えられた与件に対応しながら、その合理的精神を直接、物質に作り込んでゆく、異常な丹念さを感じた。
キースラーの有名な肖像写真は大きなエンドレスハウスを制作中のものだ。彼は石膏まみれになって自身の夢の建築に寄りかかっている。明らかにモデルを自身の手で製作しているのが解る。
倉俣史朗の家具は限り無く美しい。それは私でも解る。キースラーの制作物にはその美しさは無い。もっと生なキースラーの精神に直結した身体を感じる。
現代に蔓延しているやに思える美しさは倉俣的な複製美術的美しさだ。その危ういエロチシズムは複製のフィルターを抜けて表現されている。伊東豊雄や妹島和世の建築もそれに通じる。そんな事は理の当然の事であろうが、それが現代なのだからという理屈に私は同意しない。
キースラーやB・フラーの生々しいモデルの持つ意味はある筈だ。少なくとも私はそちらの側に立とうと考えている。
石山修武
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003 百人スクール
茨城県利根町の町民スクールを、皆で設立して一年位経った。頑張らない、モゴモゴ、なまけながら続けるがモットーだ。利根町を訪ねるたんびに出てくる、野菜漬物がとってもおいしいので、誰が作ったのと尋ねたら、皆、それぞれに自分の畑で作ってるものが原材だと言う。そんな事が出来るのなら、共同で農場作りをやろうと言う事になり、「百笑園」なる名の農園も作ってしまった。これは立派な町づくりである。
最近は「まんじゅう」作りまで始めた。これは六ヶ三百円で早くも売っているそうだ。美味だが包装方式にいささかの難があると思う。
石山修武
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002 石川陽子さんのダーチャI
ロシアまでダーチャを見学に行った。ダーチャは自家用農園の事。ソビエト連邦が崩壊した際、餓死者が出なかったのはダーチャを国民の大半が所有していたからだと聞いたので出掛けた。
帰って、その話しを利根町の百人スクールで話したら、おばさん達がそれ石川さんところの農園の話しみたいだねと言う。それで石川陽子さんのところを訪ねて呆然とした。ロシアのダーチャよりも余程実り豊かな自家農園がそこにあったからだ。
遠くに出掛ける前に近くを学べとは山本夏彦さんの名言であった、というのは嘘で、夏彦さんはもっと辛辣に、旅をしてもロバはロバだと言い続けていた。しかしながら私の如き俗人は遠く迄行って、初めて身のまわりの大事さに気付く類なのだ。
石山修武
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001 友岡前進基地=猪苗代鬼沼計画
福島県猪苗代湖の鬼沼、ここは天皇家お忍びの里であったという伝説がある。小さな天橋立のような神話的風景の地だ。
ここにアジア工芸村を興そうというのが、友岡ファミリーの夢だ。十年がかりの計画である。友岡さんは世界の民芸品の輸入販売アパレルその他を大掛かりに営んでいる実業家だ。アジア各地の民芸で喰べさせて貰ったのだから、それを少しでも返したいという考えで、この計画を思い付いた。全体は二十五haの広大な土地だ。前進基地はその全体計画へのベースキャンプである。
石山修武
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