5 追悼 栄久庵憲司

追悼 栄久庵憲司

世田谷村スタジオGAYA

追悼 栄久庵憲司

恩師でもあった栄久庵憲司氏が亡くなった。わたくしはウーンと若い頃短期間ではあったけれど栄久庵憲司等が創設したGKインダストリアルデザイン研究所に身を寄せた事がある。間近に声を聴き、飲み、指導を受けた。そして、自分はGKのような民主的チームには向いていないなと思い知り、離れた。
しかし、後年その事をいささか恥じた。そして栄久庵憲司が多様に展開させた日本デザイン機構、世界デザインフォーラムの動きに参加させていただき、少し計りの恩返しめいた事をさせていただきもした。
遠くから、近くからの屈曲した師弟関係であった。一方的にそう想う。
栄久庵憲司は民主的なGKという共同設計とも呼ぶべき組織を作り上げた、しかもカリスマであった。そういう大矛盾を自ら内に持った作家であり、デザイン共同体の思想的バックボーンであり、組織者、運動家でもあった。その矛盾にも満ちた存在形式に真骨頂があった。

世に名高い数々の工業デザインの歴史的名品はともかく、わたくしは栄久庵憲司の「道具論」にはじまる、数々の未完のプロジェクト群を代表作として推したい。
「道具寺」「道具村」の構想は日本近代の、これも又大矛盾を内在させた大きな目標とも言うべきでもあり、ヴィジョンでもあった。

延々と脱亜入欧の近代化の大道を歩き続けた日本近代のデザイン史において、それは建築におけるメタボリズムと並び称されるべき思想でもあった。
栄久庵さんは負けず嫌いでもあったから、並び称されると言ってしまえば口惜しがるだろう。勝り、劣ることは無いと言い直したい。
栄久庵憲司の「道具論」「道具寺」「道具村」の一群を振り返れば、仏教に象徴される東洋的思想と、欧米の一神教的思想の共生である。この考え方は日本現代のデザイン思想としても前人未踏の、いまだに未開の荒野でもあり続けている。

栄久庵憲司死去の報を、わたくしは今すすめている小さな児童施設の建設現場で接した。高い足場に登るのはそろそろ用心せねばならないと痛感している時でもあった。そして、このわたくしの最新作とも呼ぶべきは栄久庵憲司の「道具論」他の、わたくしなりの建築的実践であった(ある)のを直截に理解した。そして納得もした。
栄久庵憲司のGKでの仕事場には世界中で集めた、そして贈られた子供のオモチャがゴッタ煮の如くに集積されていた。そこに居ると不思議な安心感が襲うのを何度か体験もした。
子供の如き稚気と大人の合理精神とが栄久庵憲司の中では同時に併存していた。

栄久庵憲司の「玩具考」「遊び論」を一度聴きたかったなあと、残念に想う。

が、しかし、日本の近現代デザイン史の中で、栄久庵憲司は過不足のない、大きな足跡を残して去った。

ありがとうございました。

2014年 2月
石山修武