スタジオ GAYA

開放系技術論

高地で、盆地で、海岸線での3つの道筋とする。
海岸線で、日々の日報を交える

FUKUSHIMA計画


磯崎新の思い出


磯崎新は旅を好んだ。旅は国外へが少なくなかった。何度も同行させてもらった。彼はいつも、ファーストクラスのキャビンで同席は無かった。私にはファーストクラスは似合わぬを知っていた。機内のキャビンを訪ねると、ボーッとパッチ(モモヒキ)姿で仁王立ちの姿であった。腰を少々痛めていたから、そうしていた。短距離の上海へはファーストクラスキャビンが無かったのでビジネスクラスに同席だった。文庫本を数冊、彼は読み切り、読み終わったのを無造作に私に、次々に渡した。「コレ読んでおけ」であった。事程左様に彼は私を教育した。他にも国内外での設計料(金である)の事等も教育した。残念ながら、私にはそんな機会は訪れなかったが、そんなモノなのだは知った。私個人の旅は設計料とは無縁の地域ばかりだったのだが、建築家とはそのような者であるのかは知った。教えられたのは膨大であった。
上海からはチベットの旅であった。ジープ数台のキャラバンで、命からがらの旅であった。よく、メコン河源流の谷底に落ちずにいたと想うばかりの旅であった。
東京のアトリエで何かの打ち合わせの後、磯崎は一枚の写真を見せた。砂漠で屈強な男達と一緒の姿であった。
「どうやらここにノアの方舟が埋まっているんだ」と言った。「アトリエの連中は誰も、僕がこんな事してるのは知らないんだ。」と言った。シリア砂漠であったか、男達はクルド族の者達で、皆銃を持っていた。写真からでも危ない空気は伝わってきた。ノアの方舟を掘り出して、何やらの計画を考えてる者がいるらしかった。
レオナルド・ダ・ヴィンチの人力飛行船の話も忘れられぬ。何処かイタリアの岩山の下で、人骨他が発見された。「アノ人骨はダヴィンチの人力飛行機の操縦士にちがいないんだ。ダヴィンチはこうやって彼の背中を押したんだ」と身振りまでして見せた。最初期のアトリエスタッフであった六角鬼丈に「昔もああだったのか?」と尋ねたら、「そうなんだ、昔からだよ」だった。怜悧きわまる磯崎新とは別の人間であった。
そんな磯崎新を自分は好きだった。

石山修武



「大きな装飾」
高地でツクツェの計画

「世田谷村の類人猿」

「外連国小洒落日本」 COOL JAPAN VARIETY BANG

ディレクター・シナリオ = 高平哲郎
大阪城下での劇場づくりがいよいよ本格的になってきました。
そのダイジェストの細部をこれから報告していきたいと思います。
以下、渡邊大志、佐藤研吾のホームページをご覧ください。
渡邊大志HP
佐藤研吾HP
石山修武