石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2011 年 8 月

561 世田谷村日記 ある種族へ
八月十六日

三陸海岸被災地支援の「絵葉書プロジェクト」が12弾迄到達した。もうそろそろ皆さんの関心は薄れるだろうと予測していたけれど、意外や意外に支援の力は持続している。ありがたい事ではある。しかし、まだ5ヶ月程しか経っていない。これから先が苦労であろう。我孫子・真栄寺の馬場昭道住職をはじめとする浄土真宗の多くの寺院他の力をいただけたのは大きい。伏して御礼申し上げる。

又、お陰様でわたしも親鸞上人の勉強を少しづつ始める事もできた。親鸞上人の東日本、北関東での布教活動は、やはり平安、鎌倉期の天変地異、そしてそれを一つの因とする武士階級の勃興と切り離しては考えられぬもののようだが、しかしその歴史の事実を知る事が今、現在の日本列島が恐らくは揺れ動き続けている現実にどう対応すれば良いのかを考え実行する事とは別物であろう。

真栄寺から今年も梨を送ってもらったので、先程御礼の電話をしたら、案の定昭道さんは早朝から飛び歩いているようで、帰りは夜遅くなるとの事。勝手な想像だが絵葉書セットを持ち歩いて、機会ある毎に人々にすすめてくれているのだろうと思う。

「わたしは単純だから、難しい事は良く解らんのよ」が昭道さんの口癖であるが、それを言いながら仏前で手を合わせてただ「南無阿弥陀仏」を唱える彼の背中は年々歳々大きくなっているの実感がある。

やはり飛び抜けた実行家であるな彼は。

友達達の後姿が次第に大きく視えるようになったのは、恥ずかしながらわたしも少しはマシな人間になったかと思うが、わたしには昭道さんのようなシンプルな行動の基盤が薄い。

都市仏教の実践が彼の行動の基軸である。

宮崎県の大寺の後続を長男さんにゆずり、一人北関東に出てきた。我孫子に檀家無しで新しい寺を開設した。父親ゆずりで寺院運営の才質もあり、苦労はしたが、それは見せずに真栄寺をキチンと築き上げた。この先何をやるのかが見モノである。

彼とわたしを会わせたのは亡くなった佐藤健である。このラインはわたしの宝物であると次第に自覚しつつある。

若死にした佐藤健の分迄本当は頑張らないといかんのだが、どうも人間の大きさが欠けているようだ、わたしには。

絵葉書プロジェクトに是非御参加を!

560 世田谷村日記 ある種族へ
八月十五日

ここ2、3日は書くべき事は無いので記さぬ。

あっても読者の皆さんとの関係の糸は細い。細い糸の為に無理して書く程の事もない。

ここ数日考え込んでいた小計画について今朝少しばかりを記した。トップページに随時掲載したい。

13日に一関「ベイシー」菅原正二さんより、9月11日の毛越寺ライブの岩手日日新聞記事が送られてきた。

その一部を要約して記す。

「9月11日午後5時より平泉毛越寺で開催されるカウント・ベイシー楽団毛越寺ライブは以下の通り:

 バンドリーダーの故ウィリアム・カウント・ベイシーと義理と人情の関係にある一関ジャズ喫茶ベイシー店主の菅原正二の実質的主催である。サントリー、JR東日本が協賛する。

 コンサートは9月11日午後より開場。6時開演。於、平泉毛越寺。

 入場料は5000円。予約は一関観光協会=0191-23-2350。あるいは直接ベイシーに。FAX=0191-26-3640。ベイシーにはFAXがベターでしょう。」

この毛越寺のカウント・ベイシー楽団ライブが成功してもらわないと、わたしと山口勝弘さんの小展覧会の開催も覚束なくなるので、9月11日に時間のある人は是非訪ねてみて下さい。みどころ、聴きどころは、カウント・ベイシー・オーケストラの磨き抜かれた音でしょうが、楽団と菅原正二の現代には稀な関係も感じてもらえれば、それにこした事はないのです。

559 世田谷村日記 ある種族へ
八月十一日

13時大学院9月修了者修士計画、論文発表会。15時修了。暑い中、クラクラしながら歩くのは大変だった。夜、安藤忠雄と電話で気仙沼の件話し合う。

八月十二日

8時半離床。今日も暑そうだ。

9時前気仙沼の臼井賢志さんと昨夜の安藤忠雄さんとの話しも含めて相談。気仙沼人私案の形で鎮魂の森ゾーンのプランを描いてもらう事にした。魚町(屋号町通り)に関しての情報をいただく。

何しろ、ここは気仙沼の顔で先立つモノは金である。

唐桑の佐藤和則さんと連絡とれた。鈴木、梶原両氏ともに我々のお二人、二家族のための住宅建設プロジェクトの話しを、どうも二人だけと言うのはと、お断りになりそうだ。勿論、古い友人達であるからこそ、わたしはそうなるだろう事は眼に見えていた。

佐藤和則さんから、公民館が皆やられてしまったので、そういうモノはどうだろうかの提案があった。小さな「ひろしまハウス」みたいなものだな、この提案は。

山口勝弘先生とこれも又、電話で話す。意を決して

「先生、一関のレイシーではなくて、ベイシーですよ」と伝える。

「アッ、そう、レイシーね」だって。こりゃダメだ。

暑くなりそうである。

酷暑の中、建築士会連合会の審査評、4点を書き終える。

作者は一生懸命読んでくれるだろうから、手を抜かずに書いた。事務所に送附する。

12時半、カンボジアの友人に電話する。

「イヤー、いただいたお守りがきいちゃって、キチンと飯がノドを通るようになりました。ビンビンです。凄いですぜ、あのお守り」

との事であった。取り敢えずは良かった。ラオスに用事で行く事になったようだ。あんまり無理をしないほうが良いのだが、カンボジアの暑さの中でジイーッとしていたら、それこそ死んじまうだろう。と、暑い世田谷村で、暑いカンボジアに思いを飛ばして、思いだけでも涼ませようとする。ラオスか、暑いだろうな。

558 世田谷村日記 ある種族へ
八月十日

12時、東京駅丸ノ内北口、丸ノ内ホテル7階ロビーで気仙沼の臼井賢志さんと会い、相談。同30分過、安藤忠雄さん加わる。13時過了。鈴木博之さん三陸海岸の文化財の件で臼井さんに紹介する。これから先三陸海岸の文化財他の保存、再生の問題は大事にしなくてはならぬ問題となろう。

臼井さんと別れ、安藤、鈴木、難波各先生方との昼食会。やはり安藤さんの話しがリアルで興味深い。15時過了。では皆さんお元気でとお別れする。

念の為に渡邊大志助教がロビーで待機してくれていたので、東京駅地下で食事。新宿駅で16時過別れ世田谷村へ。寄り道して18時半世田谷村に戻る。

八月十一日

9時前、気仙沼の臼井さんと連絡。

シュツットガルトのカイ・ベックより連絡が入り、どうやら、石山修武展のワイマールからシュツットガルトへの巡回が11月に正式決定となった。どうしても東日本大震災へのプロジェクトを追加展示したいので具体化を考える。

山口勝弘先生に電話するも、のんびりした声で話されるので、とても「レイシー」の件は話せないのであった。「レイシー」ではなくって「ベイシー」ですよと言うのにも骨が折れるのである。

今日も暑い。昨日は東京は35℃迄気温が上がったようだ。

電話があって、山口勝弘先生の弟さんからとの事。ギクリとする。何か又、先生やってくれたかと思ったのだ。日経コラム「再生する人」への御礼であった。ホッとする。

先生はシングルである。だから御兄弟、妹さんは大変なのだろうと思う。わたしも「レイシー」問題くらいでヘナヘナしているようではいけないと反省。

しかし、先生がポスター制作にかかってしまう前には「レイはベイの誤りです、レイシーではなくってベイシーです」と伝えなくては。

又、ベイシーは音に対する自負山よりも高く、ほとんど無限の域に達しているので、「音はいりません、無音にします」とも伝えなくてはならぬのである。

唐桑に連絡するもつかまらず。

557 世田谷村日記 ある種族へ
八月九日

7時半離床。すでに暑い。早朝の天空が美しいもへったくれも、この暑さには飛んでしまう。ちょっと気取った風情は暑さの前には夏の犬だ。ゼーゼー青色吐息の意である。昨日は2件案件を片付ける事ができた。明日、東京駅で気仙沼の臼井賢志さんに会う。三陸復興に臼井さんは粉骨砕身されている。わたし達も出来るだけの事をしたい。

東大との合同課題について、早稲田の若い先生に乞われて、隈研吾さんと連絡、通信のやり取りを経て、ほぼまとまったとわたしは考えている。隈さんは隈さん風にサラリと処理してくれた。このサラリが隈流だなと思った。

山口勝弘先生より大きな封書いただく。

先生はスッカリ、ベイシーでの展覧会に乗り気になって下さり、ドンドン、それこそ津波の如くのエネルギーで構想を展開しているようだ。

ベイシーがレイシーになっていたりで、とてもベイシー店主菅原さんには見せられぬ内容である。菅原さんも又、ヒョッとしたら山口勝弘を上廻るが如くの筋金入りの人なので、この二人は会うと問題を起こしそうだ。

山口勝弘のビデオなんか見たくも無いだろうし、わたしとしては徹底的に音無しの展覧会にしたい。

ベイシーの2階で音を出すなんて事は考えぬ方が宜しいのだ。

正直に言って、開催の意向はベイシーに伝えてはあるが、ディテールは未定である。

山口先生は開催日程が決まったら知らせよ、ポスターを作るからと言ってくるし、全く本物のアーティストは津波ですぜ、もう自分の世界に没頭して貝になっちまうのだ。これは小事件だが大変な事になりかねないのである。

なにしろ山口勝弘の頭の中に入り込んでしまった「レイシー」なる不可解なモノを先ずは追い出さねばならないのである。

菅原さんに会って、「アッ、レイシーさん」これで全てはおシャカなのである。

菅原さんにしてみれば、なんだこのクソジジイ、カウント・ベイシーのべの字も知らぬ、ダラスあたりのホットドッグ屋の田舎ジジイじゃねえかという事になってしまう。

しかし、山口勝弘の頭も、一度入ってしまったモノを簡単には追い出せぬ類のアフリカ、マサイ族みたいな風もあり、絶対にレイシーさんで押し通してしまうだろう。

常識人のわたしは間に入ってオロオロ族になるだけのクタビレ損になるのは眼に視えてもいる。悪い予感は必ず当たる。

で、先ずどれ位の金がかかりそうなのかをカウント始めたい。

東北地方(三陸海岸にこだわりません)で一人、二人実行するに手伝ってくれる人がいたらありがたい。名乗りを上げて下され。

伏して頼む。

556 世田谷村日記 ある種族へ
八月六日

昨日と今日で日経夕刊コラムを2本書いた。なんとなく、これ以上書いてはいけないと考えコラム書きはストップ。

我ながら、この数日凄惨極まれりの乱読。大小含め18冊程を読み抜けた。内容は記さぬが華だろう。かくなる読み方をすると今、自分がどの世界に安住しようとしたがっているかが良く解るのだ。他には何の意味もあるまい。大体大方の書き手であってもそれぞれが明確に何に向けて歩いているか等、書いている時にはほぼ解らないのではなかろうか。例え、こむずかしい理論書の類であってもだ。

八月七日 日曜日

5時過離床。今朝も朝焼けの壮大さがあるが、少しふやけていてそれ程美しくはない。毎朝出来がちがう。昨日、日経夕刊コラムへの反応の手紙を送ってくれる方々が何人かいた。読んでくれる人がいるのだな。

11時過世田谷村発、経堂へ。12時半経堂すずらん会館。都内なのに町外れの感じのある会館であった。経堂駅から5分なのに、こういう処があるんだ。控え室で山田脩二さんスライド整理にいそしむ。やがて難波和彦さん来る。13時半定刻通りに、「第三回世田谷式生活・学校」開校。7-80名の参加者であった。第一講、難波和彦さん「映画の中の市民」。市民というよりも、家族像についての一般的な考えを述べられ、箱の家の紹介、最後にアンドレイ・タルコフスキーの映像の一部が紹介された。第二講、山田脩二「淡路瓦師、炭焼き師、印画師」の生涯。難波さんのレクチャーともっと劇的に際立って対比的になるかと期待していたが、やはり講演というスタイルの不自由さもあり、実にお二人とも淡々と水の流れのようにサラサラと流れるのであった。山田脩二さんは実存の人である。実存主義的な色合いが濃厚だけれど、そんな事にはお構いなしの人である。得度して僧になっているが僧侶の口振りは似合わない。そこらの土を焼く陶芸家の口付きも、ましてや写真家の語りも似合わない。

要するに実存としか言い様のない座りの悪さが真骨頂なのである。

そろそろあきらめて、何処かの壺に入って納まった方が生き易いと、余計なお世話も考えるが、他人様の心配している余裕はこちらにも無い。

質疑応答を経て、16時半予定通りに終る。

たまにはいいだろうと考えて、懇親会を持つ事にして、近くの料理屋へ。

二次会に流れて、烏山宗柳へ。20時半全て終わり、散会する。

八月八日

7時半離床。5時半に起きて朝焼けを堪能したいと考えたが、今朝は天空の具合が良くなくて平凡な朝の空であった。考えてみれば、毎朝感動してりゃあくたびれるものな。

新聞をじっくり読むも、読みモノが無い。こうして淡々と流れてゆくのが現実なのだろうが仲々辛いものがある。

メモを記し、10時朝食と小休。午前中は色々と連絡物件をこなさねばならない。

555 世田谷村日記 ある種族へ
八月五日

昼前、気仙沼の臼井賢志さんと電話で話し合う。10日に東京で会う事とした。ようやく身体が元に戻りつつある。まだフラフラするがこれは元々人間が頼り無いので仕方なかろう。

13時20分、苦労して日経コラムの7本目を書きおえる。まだ少し手を入れなくては完稿にならない。

昨日、毎日新聞に鈴木博之さんが「都市の呼吸」の連載で、やはり東日本復興の「等高線の思想」を記しているのを読んだ。

その記事の隣りに石井正己氏の「何をもって復興とするのか―柳田国男の視点」の出足は面白し、が尻切れトンボであった。とても良い論点を持っているのに残念。

若い者に今週はボーッとしててくれと言われて、甘えさせてもらっているが実にコレが一番苦しい。

ズーッと天井を見上げていればと思うが、うちには天井がない。

少し首を傾ければ天が見える。雲が色々とうごめくので、これはコラムに書けるなと想ったり、苦労してる私を尻目に全く自分勝手にこれ又、空を眺めている白足袋を見て、コレもコラムになるなと大変なのである。6本位頭の中で出来てしまった。全くの無駄である。

しかしながら、少しの熱に妄想をつくるのも、キチンとした論を組むのも、猫の想いに眼をやるのも全てコレ断片である。まだまだ急速に拡張しているらしい宇宙の断片である。と、もっともらしい事をつぶやいて再び眠りにつこう。

554 世田谷村日記 ある種族へ
八月四日

5時半いったん離床。体温を計るも、その結果は記さない。

昨日家人が体温、血圧を記しているのを見て、これはおかしいと言った。良く良く考えてみればそうだと納得、細かいデータは記さぬ。誰が他人の体温を知って楽しめるだろうかとも考えた。代りに白足袋の体温を計ってそれを記すかと考えたが、そんな事を実行する元気はとてもない。

9時、どれ位振りか、シャワーを使い頭を洗う。頭の状態が昨日から悪く、それは頭のかゆさから来るのではないかと思いついた。ただその頭のかゆさが頭蓋骨の外部のかゆさなのか、内部のかゆさなのか当人には不明なのだ。

で、先ずは外から洗ってみた。少しはサッパリしたので内部洗いは次に持ちこすことにする。

昨日は、午前11時半に世田谷村から大学地下スタジオに車で連れていってもらい、院・学部4年混合の学生の作品を見る。15時鈴木博之先生来られ、講義。その後、学生作品のクリティークにも参加してもらう。1点飛び抜けたモノがあった。鈴木先生もそれには関心を持たれたようだった。

18時に修了し、鈴木先生と別れ、再び世田谷村迄車で送り届けてもらった。もう、ただの物言うポンコツであった。

世田谷村に、絵葉書プロジェクト、最新版20部送って下さい。

553 世田谷村日記 ある種族へ
八月三日

7時半離床。昨夜は実に良く眠った。すぐに熱を計る。オッ36度9分迄落ちているではないか。自己努力では良くやった。しかし、これは仮に落ちているので又、上がるのが良く解る。中古冷凍庫エアークラフトのダメージは大きいのだ。うちの冷凍庫中の食品も皆カゼをひいているな。食品もとれたモノをすぐに食べるのが一番なのだろう。

熱を取りあえず37℃まで下げたので、今日のクリティークには出掛ける事に決定。念の為に9時にもう一度熱を計って、それで渡邊助教に電話することにした。

今日も水曜日で日経夕刊コラムの5本目「プノンペンで」が掲載される。昨夕最終チェックもすませた。今、わたし達のホームページのトップ(表紙)に先日の一週間程のプノンペンでのスケッチがONされている。

それは今日が最後である。ウナロム寺院の西の僧房から眺めたメコンの朝焼けがONされる予定だ。もし出来得ればその「メコンの朝焼け」のスケッチと共に今夕のコラムを読んで下さると嬉しい。

孔子は「市井隠」をいった。賢者は自然の中に、竹林や桃源郷に隠れるのではなく市井にひっそりと暮らすと言った。

この壮大極まる朝焼けに接する度に不思議な感動があった。わたしは賢者ではないが、俗人のアウトサイダーであろうか。しかも俗人の中のホトホト臭気漂う俗臭もすぐかぎ取る、イヤなタイプの俗人である。俗人であるから見られぬモノを視たいの渇望が強い。今日のホームページのトップはその気持が良く表われている。

552 世田谷村日記 ある種族へ
八月二日

5時半目覚める。ボーッとしている。熱を計る。39℃これはいかんぞ。しょうがネギスープを飲む。うまい。8時半再び熱を計る。38℃。このママ、熱が引いてゆくとはとても思えない。5日だったかの鈴木さんの講義は何とか聴きたいが、この調子では解らないな。今日は1日、布団にくるまって汗びっしょりになって眠らねば。

汗ビッショリになって朝食のおかゆを食す。ようやく、これはいけない、治すぞの気持になってきた。治す以外の事は何もせぬ事である。

18時半、熱は何とか37℃中頃迄落ちた。今晩〜翌朝まで汗かいて眠れば何とかなるかも知れない。しかし、とても歩けないので誰かに世田谷村迄11時半頃来てもらい、12時過にスタジオへ、ざっと学生の作品を見て、3時からの鈴木先生のレクチャー、及びクリティークに備えるというアイデアを作る。学生達も頑張っていたから、それ位の事はするべきだろう。

この項目は渡邊助教に伝える事。明朝再び連絡したい。

熱いネギスープをフーフー飲む。

石山修武研究室の読み物