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確信犯的コラム 2010

確信犯的コラム 2009

磯崎新がどんな風に建築史研究会と附合っていたのかは知らぬ。あるいは附合いはなかったのかも知れない。知る由も無いが近日中に聞いてはみたい。磯崎新の特異とも言うべき歴史感覚は、今の状況を考えるまでもなく、重要なのである。磯崎新のみならず、時代そのものが要求する事でもあろう。ただ太田博太郎先生に関しては

「『日本建築史序説』はあれは修士論文だったんだからなあ」

と何処かへ同乗した車の中の会話でポツリと洩らしたのを記憶している。これも又、前後の脈絡は一切忘れた。でも鮮明に憶えている。うだつのあがらぬまんまのわたしへのあてこすりだったか、あるいはわたしの同世代の友人の建築史家である鈴木博之や藤森照信への苛立ちであったかも知れない。早稲田の建築史家・中川武、彼は渡辺保忠の後継者であるが、その人柄の茫洋として大柄なことや、アンコールワット、エジプト研究への関心の拡がりを考えるならば、むしろ田辺泰の血を継続展開しているのかなとボンヤリ考えたりもする。創作者も研究者も突出する人材は必ず何者かの血を継承するようになるのである。田辺泰は琉球建築研究で歴史に歩を刻んだが、伊東忠太先生に同行して共に中国、シルクロードの旅を介してアジア建築史への径を歩いてもいたのである。中国大陸大同石窟寺院群を見学した際に石窟寺院群の要の位置に記念プレートが設置されていてそこには伊東忠太、田辺泰の姿が写真で記録されていた。2002年の事であったが、わたしはそれを見て初めて田辺泰の大きさを痛感したのだったが、少しそれは遅過ぎた。学生の頃に田辺泰先生に中国建築の事、シルクロード建築の事などもっと尋ねておけば良かったと後悔する事しきりだった。大方人生はそんな事の連続である。

磯崎新が手放しで人を、特に日本人建築家や研究者を評価するのは実に稀である。勿論、人の悪口や中傷を聞く事も一切無い。しかし、磯崎新ほどに視界明瞭な船乗り、飛行士をわたしは知らぬ。建築家を旅行家に例える愚を敢えて犯せばである。しかしこの愚は実は当っているのだが、又それはいずれ。その視界自体の構造は一見バラバラに視えるだけの諸要素の因果律を明らかにしようとするものであり極めて歴史学の方法に近いのである。磯崎新の建築的表現、それは思想をも含むのだが、建築表現を中心に据えながらの実に多様な思考の表出こそが磯崎新の歴史的独自なのだが、近年それは二点焦点の世界に移行しつつあるのを実感している。別の言い方をすれば磯崎新は創作者としての建築家と諸学の王としての歴史家の二頭の相貌を存在の基盤とし始めているように考えられる。

今は2011年4月29日。東日本大震災大津波福島第一原発事故から四十九日経った。大地は揺れ続いている。東北地方のみならず日本社会の先行きは視えにくくなるばかりだ。こんな時は磯崎新は溌剌とするのがこれ迄の常であったが八十才を迎える今はどうなのか気になるところだ。

鈴木博之、藤森照信という当代を代表する建築史家と震災前であったが何かの会の帰りに磯崎宅を深夜訪ねた。驚いた事にこういう形で磯崎新と日本の建築史家が顔を付き合わせるのは初めての事であった。磯崎はジェントリイな社交家であるし、鈴木博之も最近は洗練された英国紳士の風を身につけている。藤森は野性を失わぬが人柄は温和で人見知りする人物ではない。

深夜何を話したのかうろ覚えだが、藤森照信は藤森らしく、アントニン・レーモンドがヨーロッパ、ポーランドだったかを脱出した真相らしきを熱心にしゃべり続け、磯崎、鈴木は面白そうに聞いてはいたが実はどうだったか。ただその場には何とはないギクシャクとした固い空気が流れていたのである。それは歴史家たちが磯崎を自分達と同様同族の認識者として考えているからだ。ちがう種族、つまり異世界の人間同志は話しやすいが、同じ種族、同じ世界の住人とは、特にその世界をきわめようとする人間同志はそんなに自由気侭な関係は成立しにくいものなのだ。

110502

磯崎新論を書き切ってやろうという野心を持つ身にとって、磯崎新をコラムの枠に書き散らすのは、我ながらの冒涜であるのは良く知る。良く知るのではあるが、わたしの年令、体力、財力(これは関係ないか)を冷静に観察するに、そろそろ具体的に手を動かさないと、又もや途中で挫折のうき目に会いかねぬ。

わたしの、作家論をひとつ残したいの願望は、指導教授であった建築史家渡辺保忠のさり気ない一言が忘れられずに生まれてしまったものである。

建築論の至上は作家論なのだよ、の一言である。

渡辺保忠は早稲田大学建築学科の建築史研究室の要であった。早稲田の先生方の中では際立った論理性を持った人物であった。生産論(日本建築生産形態史)をベースとしていたが、その才の中心は審美眼らしきへの自己信頼にあった。会津八一を愛し、その教養をベースとされていたが、ポール・ヴァレリーの方法について、あるいはボードレールのデカダンへの傾斜をも身体化されていたように、今にして思うのである。学生の頃には全く解らなかった。ただ面白い先生だなあ位のものであった。そんな学生の無知蒙昧は昔も今も変りはしない。憎まれ口はともかくとして、その実に複雑な審美主義者でもあった渡辺保忠先生が何かの際に、恐らく近代建築史ゼミの流れの中で、「磯崎新というのはアレは宝物みたいな才質だな」と洩らしたのであった。

その一言がどんな脈絡でのポツリであったのかは全く覚えていない。当時わたしは21才だったか、つまりは今から46年昔の事ではあった。

磯崎新が34才の頃か。

当時はメタボリズム全盛の時代であった。早稲田では建築家菊竹清訓がスターであった。学科の先輩達のなにがしかも、例えば後年チーム象のメンバーでもあったアトリエモビルの丸山欣也さん等も、黒川紀章さんの初期のカプセルアパート等のデザイン、模型作りにかり出されていて、黒川さんの初期の中々格好の良いプロジェクトの幾つかは彼等の手になっていたのではないか。

マア、そんな事はどうでも良い。

なにしろ早稲田では学生達に黒川紀章の『プレファブ住宅』という本が教室で売られたりして、黒川さんは中々の実利の才人でもあった。渡辺保忠先生はメタボリズムには懐疑的であった。その因は菊竹清訓の方法論、か、かた、かたちの三段論法。あれは武谷三男のロジックの模写だったのだが、おそらくその論考の単純さを本能的に嫌ったのであろう。複雑な審美主義者にとっては、それは粗野なものとしか写らなかったのであろう。又、早稲田では吉阪隆正研究室が圧倒的な人気で、それに比して建築史研究室は数年にひとりの入室希望者であり、わたしはその数年に一人の一人であった。

わたしが建築史研究室に入室したのは、ただただ無勢であったからに他ならない。多勢は昔から嫌いだった。危ないと思っていたからではない。何しろゴロゴロして群れているのはイヤだっただけだ。

それで渡辺保忠のポツリの発言になる。

磯崎新という人材はアレは宝だよ。の。

それは、メタボリズム批判であり、吉阪流批判でもあったのだ。渡辺は磯崎新の才能は素晴らしい等と単純に考える者ではなかった。これはイヤだなの消去法の末の磯崎新であったのではないか。

渡辺保忠の師は田辺泰であった。田辺は実におおらかで、大柄な気持の持主であり、それは渡辺保忠とは対照的であった。

田辺は歴史研入室に際しわたしにこう言った。

「君の親は何をしとるんだ」

「ハア、教師です」

「そりゃあ、建築家になるのは無理だ。あきらめろ。建築家というのは金持で道楽者がなるものだからな」

そう言われて、あまり反発心が湧かぬのが田辺泰の持味であった。

「君、もし設計どうしてもやるんだったら、寺と城やれ、アレは実にいいぞ。設計料もいいんじゃ、ワハハハハ、それに作れば大方絵葉書になるぞ。近代のものはそうはならんぞ」

渡辺はそんな田辺から東大に預けられたと聞く。田辺の良さはこれは自分の手に負えぬと知ったら、キチンと預けられるところに預ける度量があったのだ。

渡辺は東大の太田博太郎先生のところへ預けられ、神社研究の稲垣栄三先生と共に学んだのであった。

そんなところから磯崎新の名前を知っていたのだろうと憶測はする。

そう憶測しないと、どうしてもつじつまが合わぬ。

30才前半の磯崎はまだ作品らしい作品も少なく、メタボリズムの陰に隠れて、その存在は顕在化していなかったからだ。

渡辺保忠は東大建築教室の建築史研究会から生々しい磯崎の人物像、才質について聞き知っていたのであろう。

断片的につづく。

110428

note

つくづく思う。建築物の価値はその文化的価値に考えを絞っても建築独自の自律的価値はあり得ないのだと。

抽象画の美らしきを前提とした建築の抽象美的価値、すなわち自律的価値について津波の如くの疑問が襲ってくる。世は東北東日本大地震大津波にいまだ揺れ動いている。

4月16日の「世田谷村日記」で記したように、北野経王堂の復元図にわたしはいたく心を動かされた。この図が示しているのは室町時代前期の巨大建築が技術的成果として現れた唯物論的産物ではないということである。この図版がわたしに示すのは、建築の非自律性とでも言うべきモノである。この図を視て何を想うだろう。山岳である。この正面幅58メートル、奥行き48メートル、高さ26メートルの建築の屋根の大きさはどうだろうか。図版での屋根の大きさは実際に建つ建築としては図版の大きさの半分程のモノとして眼に写るのであるが、それにしてもこの図版が示すモノは異様である。そして図版はこの建築を構想した大工棟梁のイメージを反映している。そのイメージは何から生み出されたのか。山岳である。この巨大建築は山をかたどっている。

岩手県奥州市の山中に正法寺がある。この建築を是非とも視ろと教えたのはフランク若松であった。岩手県一関ジャズ喫茶ベイシーで店主の菅原正二が紹介した。何故フランク若松なのか。ジャズが好きで、しかもフランク・シナトラしか聴かぬという変わり者であった。初めて会った時フランクは不治の病に犯されていた。やがてフランクは入院した。菅原がどうしても来いと言う。フランクがどうしても、わたしに飯を喰わせて、そして案内したい処があるらしい。フランクは水沢市で高級料亭をやっていたのだ。うまい料理を喰べるのを彼は嬉しそうに眺めていた。そしてどうしてもわたしに見せたいと連れて行ったのが正法寺であった。凄い寺であった。何が凄いって、なにしろその屋根が巨大な山のようにデッカクて堂々としていた。おまけに草屋根の上には数本の樹まで自生していた。まさに人工の山そのものであったのだ。風がその樹々をゆすった。

フランク若松はわたしが正法寺の屋根に呆気にとられる程にビックリして感に入ったのを見届けてから、病院に戻った。医者から時間を制限されて、それで病院を抜け出して、そして、わたしに正法寺を、その屋根を見せてやろうと想ってくれたのだった。

北野経王堂の図版を見て、わたしが頭の中に想い描いたのはこの正法寺の屋根であった。そして、ヤセてガリガリになって、それでも正法寺を見せようと強い山中の日射しの中を歩くフランク若松の姿である。

東北にも凄い建築があるんだ、それをわたしに見せておきたいの一念だったんだろうと、これはフランク若松が亡くなってからの菅原正二の言である。

センチメンタルだと言われるかも知れぬ。文学的に建築を考えようとしているとの批評もあるだろう。建築設計業界、しかもある意味では高度に抽象化された思考を好む小さな世界では恐らくそうなのだろうと憶測するのである。

この、わたしの、わたしたちの物語りは、ただのひ弱な感傷から生まれたものなのだろうか。イヤ、違う。

わたしが屋根に強い関心を持つようになったのは確かにフランク若松の強い意志から、正法寺の山のような草屋根を体験したからでもあるだろう。でもよくよく深く考えればそれはキッカケに過ぎない。記憶のゲートが開かれたに過ぎぬのではないか。こんな山のような、あるいは山並みのようなモノへの関心は深く潜在し続けてきたのではないか。

フランク若松の感性が凄ゲーと強く思ったのは正法寺の草屋根に本当に山を視たからだろう。連れられてそれを眺めたわたしもそれを直観したのだろうと考える。

人間が何かに感動するのはそれが何かに似通っていると直観するからだ。フランク若松がフランク・シナトラにぞっこんになったのは何故なのかは知らぬ。そもそも地方都市の料亭のオヤジがモダーンジャズにひかれ、フランク・シナトラに自分の好みの的をしぼるの、独自が生まれたのは、それは「物語り」としか言い様がない。その「物語り」に浅い普遍を問うのは愚かである。個々の「物語り」は深く人間の尊厳の表現であるからだ。

コラムはかくなる抽象的思考を述べる場所ではない。わたしが記録しておきたいと考えたのは北野経王堂の図版が強く奥州市正法寺を思い起させ、フランク若松という人間を懐かしませたという事だ。これは私的な感傷であるが、言葉を語らぬモノ(建築)を時に愛好する者には多かれ少なかれ共有するモノではなかろうか。

110419

壺中天の例えが中国にある。

ガストン・バシュラールだったら大小の弁証法とでも言うのだろう。大宇宙小宇宙の関係への想像力の集約表現とも考えられる。

今、日本のみならず世界中が注視している壺がある。福島第一原発の原子炉の壺4ヶである。壺の今の状態を我々は良く知る事が出来ぬままにいる。恐らく誰も知る事が出来ぬのだろう。素人が考えても恐ろしい程の原始的な方法で壺を冷やそうと努力がこらされている。何をやっても上手くゆかぬようだ。小さな壺のヒビ割れらしきが、壺4つを中心にした半径30kmの人々、あるいは風向きによってはより広範囲な地域に住み暮してきた人間達をほぼ強制的に全員避難させようとしている。小さな壺の中の状態が半径30kmの生活圏の人間の生活を不可能にしている現実に、まさにそんな壺中天の現実にわたし達は初めて触れている。接しているのではない裸の身体でまさに触れている。

世田谷村にも沢山壺がある。一番多いのは植木鉢である。次が花瓶かな。冷蔵庫の中にはラッキョウを漬けているガラス器があるが、これは内が視えるので壺とは言えぬ。やはり壺というのは内が視えにくいのを呼ぶのではないか。原子炉はその最たる壺である。

その4つの壺の内の故障により壺から半径30kmほどの外の人間達は計画避難を命じられた。壺の内の瞬発的ではあるが決して停止する事のない修羅場が外にはこれから十年単位のゆっくりした時間の中で確実に再現されてゆこうとしている。

又、実に現代的な副次的災害も発生した。これはもっと恐ろしい災害である。半径30kmどころではない、恐らくいきなり地球スケールでアッという間に拡がっている。風評被害と呼ばれる新種の災害、あるいは深い病理でもある。福島産の食品は野菜にしても、魚にしても、米にしても原子炉の事故によって大被害を受けた。

原始爆弾が投下爆発して後、何年経ってから人々は広島産の食品を口にするようになったのか。長崎産のザボンや果物を安心して喰べるようになったのは何時頃からの事であったのか不明である。それは放射能の恐ろしさに対する風評らしきが封じられていたからなのか。

原子爆弾も原子力発電もその生誕地は米国である。米国では核実験場も放射性廃棄物の投棄地もその大半がネイティブアメリカン(アメリカ原住民)の居住地である事は日本ではまだ良く知られていない。その居住地に封印された彼等の生活の実態も知らされる事は少い。

10年後の福島が、具体的には計画避難のエリア内の人間達の将来はアメリカのネイティブ達の現実に重なるのではないかと恐れる。

110415

平安という名をコラム群の頭につけようと考えたのに深い意味があったわけではない。東日本大震災の余震がまだ続く今、大震災から一ヶ月経った今には一番良い名前じゃないかと、しかし確信している。3・11から一ヶ月実に各種メディアにのめり込み続けた。そして、得た結論。TVはドキュメンタリーとニュース番組だけで良い。ペーパーメディアは月に一度、全紙を読み比べて即断し、今月の一紙を決めてそれを熟読すれば良い。各紙それぞれの記事は署名入りになり始めているので、そのうち自分と意見を同じくする、あるいは近い、時に正反対の意見を持つ記者を発見するようになるだろう。そうすると、新聞の政治力学まで視えるようになるから不思議である。視えるような気分と言った方が正しいか。TVの報道番組の大方は、全てではないが新聞記事のコピーと考えて間違いではない。

それはさておく。この調子はあんまりコラムには不向きだ。コラムという短文の形式は大問題らしきを論じるには向いていない。しかも定形短詩の最短形式である日本の俳句とも異なる。金子兜太さん等の俳人のともすれば詠嘆の情らしきはコラムには気恥ずかしいモノになってしまうだろう。

つまり、わたしの専門領域の建築デザインで言えば、小さな建築のたたずまいや、その内部の光景みたいなモノである。内部の光景らしきを建築デザインの専門家達は空間と呼んだりするのだが、専門家らしきが空間と呼ぶのはある種の光景の事だ。他の何者でもない。

わたしの、その光景愛好癖はどうやらそのほとんどが言葉によるショートストーリーと密接な関係があり、実在、不在を問わぬ。

例えば、イタリアの山岳都市で出会ったシナゴーグ(ユダヤ教小礼拝堂)の内部には、光が高い小さな窓から複数の束で指し込んでいた。その時にはそんな事を思ってもみなかったが、その光景は黒澤明の用心棒のクライマックスの前段に出てくる。用心棒すなわち三船敏郎が潜んで、投げ包丁で敵を殺すトレーニングにはげんでいた村はずれの小さな地蔵堂か観音堂の内部に酷似していた。

シナゴーグには光の束が光線として視えた。それは床の大半が固められた土の状態であり、それ故に土のホコリが室内に舞い、光を線として視える状態にしてくれたからだ。用心棒の地蔵堂、やっぱりあれは地蔵堂でしかあり得ぬが、それには土ボコリは舞ってはいなかったが、木の小堂にはやはり光の線が指し込み、同時に風も舞い込んで、その風が堂内に吹き込んだ枯葉を生き物のように動かし舞わせた。三船敏郎はその動く枝葉に包丁を投げて、とどめを刺す、つまり動かぬモノとする訓練を続け、やがて最期の決闘でその訓練の成果として相手を倒したのであった。

そして、用心棒の主役は風と土ボコリであったのは言うまでも無い。

イタリアの山岳都市のシナゴーグでの強い印象も又、土ぼこりと光が作り出した光景であった。

あの時、わたしはアニマを間近に視ていたのを今になって知るのである。

記憶に残る光景とはずいぶんと入り組んだ思考から生み出されるモノである。視覚的なモノだけからは記憶に残る光景は生まれるモノでは無い。

110411

6

このコラムが中断してだいぶんの時が経つ。世田谷村の2階で芽ぶいてきた樹々の姿や空の雲のモヤーッとした動きを眺めている時にフッとコラムを書こうと思いついた。

東日本大震災に揺り動かされぬ人間もどうかと思うが、動かされ続けて座しているばかりもいかがか。わたしも東日本大震災に対して何ができるのかを考え、ほんの少しを実行しつつある。しかし、それだけではいけないような気がしてならない。

確かに、花見に浮かれている時ではない。でも浮かれもせずに花を眺めて気持を休める、あるいは空白にする必要も逼迫しているように思えてならぬ。千年に一度の天災をやり過す、柳に風のだらしなさの時間も持ちたいものである。そんな時にはコラムを書くのがわたしには一番なのだ。好きな絵を眺めたり、音楽を聴いたりの趣味は実にわたしには全くないのである。全く無いとは言い過ぎで、少いというのが正しい。

小林秀雄のエッセイに触発されて、新宿だったかの生命保険会社のギャラリーにゴッホの「カラスの群れ飛ぶ麦畑」の複製をワザワザ視に入った事がある。小林秀雄と同じに複製のその絵の前に立ったは良いが、わたしは全然動けなくなったり、絵の中の巨大で暗い眼がわたしを見つめてくれる事もない、それでひどく失望して5分も眺める事はなかった。足がとまったり、小一時間も動けなかったりは皆、建築の内部であった。イタリアの山岳都市の小さな名もないシナゴーグの内であったり、イスラムの神学校の内庭であったり、その他諸々みんなどこかの小建築の内部に偶然、予備知識無しに入り込んだ時に、そんな津波がわたしを襲うのであった。明らかにそれは誰もが認める名建築の一部ではなかった。そしてアノ二ミティー(無名性)の観念に縛られる程にわたしも生硬な状態ではない、もっと自由な時にそれはやってくるのであった。

時々、そんな時を書き継いでゆく。

110411
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