M

「世界は生きている人だけで動くのではない。多くの、数えきれぬほどに多くの死者の記憶の網の目から、紡ぎだされるのだ。」
 今は真っ黒なカラスの形になった彼女。
 彼女の、これもまた、漆黒に濡れた目玉の表面には、そんな考えの信号が点滅している。
 カラスになれた彼女は、カラスの中のカラス、カラスの賢者と言われるまでになっていた。
 彼女の年を、誰も知らなかった。
 今は荒れ果てたT市の外れに、それでも残る、神社の森に棲みついている。連合いは、居るときもあれば、独りのときも多い。噂好きのカラス達の話しで は、Mと女性名を名乗る。名のあるカラスの飛行範囲は、とてつもなく広いのだそうだ。
 ぎくしゃくと弓状に曲がった、日本列島はいざ知らず、遠く黄河や揚子江、メコン河流域、万里の長城の消える先にある砂漠や、死海と呼ばれる海、そして 地中海の堤でもあるアフリカ大陸までも、Mは知り抜いているという。
 それだけではない。
 彼女は自分の意志でカラスになったのだ、そういう伝説だってある。彼女の黒い眼球に点滅する信号を受け取り、解読した者もいるらしい。解説の好きな者 はどの世界にも多いからね。

彼女はこんな信号を時に、廻りに送り出す。カアカア鳴けば、哀歌もどきになってしまうが、これは音にならない信号。

「私は死者を好む。生きて動く人間よりも、よほど深く愛するのだ。腐乱した死肉をついばんできた記憶がそんな性質をつくり出したのか、死者好みは私の数 億数千年の記憶がつくり出したものなのかは、さすがの私だった知りはしない。知らないわよ。
 ただ、今でもハッキリ記憶があるのは、私はズーッと大昔から黒が好きだった。
 今では黒を色として呼んでいるようだけれど、色なんていう標識が考え出されるその前は、黒とは闇そのものだったの。そうなのよ。
 たかだか、千年ほど昔。つい先だってのことのよう憶えている。私はメコン河を、流れにそって、流れのかたちを眼球にシミュレーションして飛んでいた。 マ、今で言う旅をしていた。
 チベット高原には、星明かりで深い闇はなかった。漆黒の底なしの闇はね。
 少し前はビルマと呼ばれていた、今はミャンマーと言うのかもしれない密林の中を、獣たちの雄叫びを耳にしながら飛んでいた。
 気がついたら、小さな高原の荒れ地に出たの。そこで私は本当に久し振りに、四千年ぶりくらいになるのかもしれない、本当の黒、名前を呼ばれて黒色にな る前の、本物の黒に出会った。死の闇と同じ、完全な黒に出会いました。」

「黒というか、あれは闇としか言いようがない場所だった。パゴダの中に入っていくと、コウモリの羽ばたきの響きと一緒に、闇が、黒いかたまりみたいに あったのよ。」

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