パガン

 秋になっている。涼しく、少しひんやりとした風が吹いている。夏の陽光の強さは去った。光もまた、時とともに転生を繰り返している。多摩丘陵の丘を登り、また坂を降り、XとWは動かぬYの部屋を訪ねている。
 三階にある小さな談話室には気まずい空気が漂う。閉め切られたカーテンから透けて洩れ込む光は弱い。輝きを失い、光はサラサラと流砂のように落ちて流れる。
 階下から聴こえる老婆たちの合唱の声も、こころなしか小さい。人の数が減ったのだろうか。
 この道はいつかきた道、ああ…♪ もずが枯木で…♪ 雨降りお月さん雲の蔭…♪ しわがれた声は、か細く、澄んで、聴こえている。

 XとWは、昼過ぎYの部屋を訪ね、ある提案らしいことをした。協同の絵本作りをしましょうという申し出である。二人にとってみれば何の他意もない、動かぬ人となったYの無為らしきを、なぐさめたいとの思いから出た考えだ。
 Yはその申し出を、峻烈としか言い様のない言い方で拒否した。その挙げ句、しばらく一人で休みたい、と言い放たれ、二人はYの部屋を体よく追い出されてしまった。ほうほうのていで避難した談話室には、二人のほかは誰も居ない。気付かぬ位にユルリ、ソロリとかすかに動く老人たちの影が、二人の話しを聴くばかりである。
 さすがにショックだったのか、いつもは眠りがちのWが珍しく切り出した。

 「機嫌が悪かったですねェ。ビックリしました。」「そうか、君はYのああいうのに出くわすのは初めてだったな。ビックリしたか、ハッハッ。」若いWに年齢なりの余裕を見せようとXは平気を装ってはいたが、つくった笑いは三文芝居の科白のごとくに浮いている。「ああいうの、これまでにも時々あったんですか。」「そんなにめったにあっちゃ困るよね。でも今日の変形タイプにはたびたび出会ってる。」「あそこまで言うか、と思いましたけど、アア、ここに芸術家がいるナァ、とも思いました。」「そうだねェ。くだらない意味論、解釈学に付合う気持ちはない、ってのは、アレは言い過ぎだあ。そう言いたい頭の良さは解るけど、絵本作りまで、その明晰さを貫きたいってのは、ある意味じゃ芸術ボケだと思うけれど。Yの場合は同時に良質な知識人の典型の風もあるから厄介なんだよ。」「絵本の主役をジジイにしたのが気に入らなかったんでしょうか。」「それほど、彼は単純じゃないよ。だてや酔狂に知識を積み重ねている人じゃあない。それに、ジジイが主役じゃあなくて、ジイジじゃないか。しかもアルファベットの GiGi をジイジと読ませる工夫もある。」「そうですね、Y先生も、ジイジかって最初は喜んでくださってましたよね。じゃあ、問題は何処にあったんでしょう。」「Yさんを主役にして、その主役を GiGi と呼ぼうというところまではOKだったんだ。おまけにスーパー GiGi にしましょうかって言ったら、スーパーマンみたいなのはゴメンだと、まだ機嫌よかったと思うんだけど。」「やっぱり、Xさんのシナリオですよ、問題なのは。箱の中の GiGi っていう。」「君もズバリと来るね。やっぱり、そう思うか。」「ハイ。」 「俺も、そうではないかと、気付いてはいるんだ。気付きたくないけれど‥‥‥。」「そりゃそうですよね。絵本のシナリオ作るのはXさんの、いわば職業ですからね。」「君、追い討ちかけてくるね、今日は。眠ってない時は、時にイイヨ。眠らないでいれば、もっとイイけれど。」「問題そらしてません、その言い方。」

 Xはタジタジである。動かぬ GiGi にタジタジ、眠る建築家にもタジタジである。
 タジタジな時にはどんな凡人でもジタバタする。ジタバタするとフッと血路が開かれることがあるものだ。Xはこの時に、その場をとりつくろうと、追いまくられての必要で、無駄な話しをひねり出した。
 しかし、この、その場しのぎにポロリとひねり出した話しが、その後一人で動き始め、いささかの物語へと紡ぎ出されてゆくことになるのは、まだ、その時Xも気付いてはいない。その場に居あわせたWも、それが随分、その後の生き方を左右する事件の始まりであることをまだ知らない。

 「絵本作りは休止しますか。Y先生がイヤだっておっしゃるんだから、動きようがないと思いますが。」「結論は急がぬ方がよい。こんな時はね。君は建築家なんだから、普通よりも更に急いだら駄目なんだ。Yさんも今は昼休みの時間だ。もう小一時間もしたら、また、気を取り直して話しを続けてくださるだろう。今はジィっとここで待とうではないか。老人ホームで急ぐのは厳禁だぜ。」「変な理屈だと思うけれど、マア、今はここで待つのが一番でしょうな。他にすることも無いし。僕もY先生と同じに少し眠ることにしましょう。ここに居ると自然に眠くなりますねェ。誘眠効果があるんだな、きっと。」「それがいいよ。私は少し考えごとをしたい。誰か相手がいて話すことの方が考えやすいんだけれど、君は眠っていたって一向に構わない。私は私で独りで話しているから。」
「‥‥‥‥‥‥」
「もう眠ってる。若いなWは。若い時の夢は眠りと同じようなものだから、それはそれで良い。一向に構わない。
 ところで、Yさんは何にいら立っているのだろう。思うように動けぬ自分の不自由さに辛い思いをしてるのは確かだろうが、そう考えてしまっては何も開けない。
 私だって、これで、本当は一所懸命に動いているんだ。今の不自由さから、どうやって抜け出そうかと、ジタバタあがいている。どうやっても思うように物語れないことがそれが壁になって立ち上がってしまってる。それで、Yさんの力を借りようと思ったんだが、Yさんは、そんな大問題は自分独りでヤレ、っと突き放したんだよ、今日。そんなことには付合っていられないって言い方で。」

008 < 009 > 010