カバーコラム 石山修武 −シャングリラ・ラサ・北京紀行2
 

大陸的楽観

133 大陸的楽観 シャングリラ・ラサ・北京紀行 十七

 明けて六日、磯崎はやはり足を引きずるようになっている。体も痛んでいるだろう。それでもランドクルーザーは走り続けた。スケッチするヒマもない。再びメコンの支流の大峡谷に入る。道が崩れに崩れて大崩れのガレ場をヒヤヒヤゆっくり走り抜けたり、又も、崩れた道にはまり込んだトラックの脱出を待ったり、何しろ道はこの一本しかない。しかも車一台やっと通れる位の奴だ。これで国道なんだから、上海からのKM数が路肩に標識として建てられているのもおかしい。標識ごと谷間に流されているのもあるだろう。でも中国の風景のデッカさは、谷にしても山にしても全く日本のそれとは異次元だ。それにしても Mr. SAIを団長とするこの中日チベットの混成隊はめげない人達だ。時々グチはこぼすが、何しろ大まかで明るい。前に行く事しか考えていない。段々にそんな彼等に不可思議な親愛感のようなものさえ湧いてくる。こんな状態なのに、雨季のこのルートは誤計画だったなんて決して反省しない。早くラサ迄行って、ラサには泊らず、すぐエヴェレスト(チョモランマ)ベースまで行くのだ、なんてワメイている。
 冗談じゃないよ、まずラサに辿り着く事が先決である。この状態では三日どころか一週間かかっても着けるかどうか。途中、道がどれ程の箇所で崩壊しているやも知れないのに。と、これはいかにも日本的悲観の態度。
 磯崎は隣の席でまどろんでいる。どんな夢を見ているのか。
 石山修武

眠る磯崎新

 

林芝到着

134 林芝到着 シャングリラ・ラサ・北京紀行 十八

 それでも四二〇〇メーターの峠を越え、夕方遅く林芝市に辿り着いた。ラサ迄の行程中最大の都市である。妙に既視感のある整然とした都市である。「ソビエト連邦時代の都市計画だな」と磯崎。街のあちこちに大まかなスケールの広場や、ワシやらを形取ったモニュメントが配置されている。この都市は福建省の支援で興されているらしい。チベット文化圏の各都市毎に支援体制がシステム化され、画一的な中華化が進められている。
 団長の Mr. SAIはまだ若い四〇才そこそこだろう。株式相場で金を得て上海の大ディベロッパーを興した。体は小柄だが、磯崎に平気で仕事を頼む位の中国風大人だ。その大人はこの猛烈旅行に何と子供を二人連れてきた。これも、余りな暴挙である。子供にヒマラヤを見せたい一念である。その小さな男の子が遂にその夜発熱した。葛根湯なんか呑ませて、休んでなさいなんて言っている。子供にしてみれば、そりゃあ熱も出るだろう。いくら中国人のDNA大まか人でも連日事件が多過ぎる。発熱くらいで済んでいるのを幸運としなくてはならない。それでもHOTELらしいHOTELでその夜はゆっくり休めた。中国人達は町へ繰り出したようだ。本当にエネルギッシュな人達である。
 石山修武

 

中華風近代化

135 中華風近代化 シャングリラ・ラサ・北京紀行 十九

 明けて七日、今日は事故さえ無ければ念願のラサに入れるかも知れぬ。空も珍しく晴れ渡っている。とてつも無く古い遺跡を見たり、どおってことない湖を見たり。中国人達はどおやら湖が好きらしいなんて考えたり、次第にこちらも大まかになっている。極めて短期間の中華化である。日本人はフレキシブルなのだ。何処に行ってもその場の人になる。
 国道沿いや、あちらこちらに、いかにも急造な集落を沢山見掛ける。標準設計が為され、屋根はほとんど原色のケバケバしさである。かっての朴政権下の韓国の農村近代化計画と酷似している。「移師雪下」のスローガンをかかげたボードが立てられている。チベット山岳民族を雪より解放し平地に移そうではないか、の考えだろう。チベット民族文化の中華風近代化だ。大中国の国内難民問題はまだ広く世界に知られていない。大急ぎの近代化は大きな民族的スケールのきしみも発生させている。民族文化の多様性に対して、近代化のシステムは極めて強固に画一である。画一だからこそシステムとして働き得る。この、人類最大級の問題には今のところ答えがない。複雑系とか、共生とか色々と花火は打上げられるが、答えは無い。答えが得られぬママに人類は間もなく亡びてしまうやも知れぬ。地球の有限と人口増加の無限という関係の関数動態の問題なのだが、答えは無い。無いからこそ、楽天的にも、大まかにもなり得る。本当は思考停止なのだけれど。
 石山修武

移師雪下
 

ラサへ

136 ラサへ シャングリラ・ラサ・北京紀行 二十

 空がだんだん高くなって、澄み渡ってきた。ラサが近着いている。遊牧民のテントに入り込んだり、峠に記念のタルチョを残したりで遊んだ。パタパタと鳴るチベットの経文の旗を見て、「経文を風に詠ませているんだよ。」と磯崎の頭脳も冴えてきた。足は引きづったマンマだけれど、何とかラサ迄は持ちそうだ。団長以下皆元気を取り戻し、トランシーバーで唄の交換会まで始った。中国語、チベット語、日本語が入り交じる。日本語はお馴じみ北国の春や昴等々。磯崎に北国の春は似合わないのは何故かと下らぬこと思いながらも、ドンドン三台のランドクルーザーは走った。調子の悪かった一台も何とかエンジンの調子を取り戻している。車にも高度順応性の良し悪しがあるのを知ったが、人間の気分も乗り移るものらしい。雲や山の連なりそして空の様相の交じる際限の無い中を走った。道バタのガケには明らかな波の打ちよせた跡。太古ヒマラヤは海の底であったのをマザマザと視た。時間の只中を走った風もある。空が高いと人間はどうやら詩人になるらしい。午後遅くラサ近郊に入る。美しい土地だ。一つ一つの集落を巡っても面白かろうに、ランドクルーザーはアッという間に走り抜ける。タンチェン・ラマ生誕の集落で小休。スケッチする。ついでに建造中のチベッタンハウスの左官達、皆女性だった、に交じり泥を壁に塗らせてもらったりした。実に面白い。車の旅もようやく体に慣じんで来たのだろう。
 西陽が並木の葉陰にフラッシュバック状に差し込む中、チベットの首都、黄金の都といはれたラサに辿り着いた。横目でポタラ宮をにらみ、国際迎賓館なる堂々たるHOTELに到着。 Mr. SAIは何処でもナンバーワンのホテルを望むのだ。ホテルには Mr. SAIの友人達の他、チベットの活仏と呼ばれる青年僧が一人迎えてくれた。我々の到着が遅れたので、何日かホテルで足止めし、待ってくれたようだ。若いのに穏やかな物腰の僧であった。
 「この活仏に会ってみたかったんだ。」
 と磯崎がポツリともらした。
 石山修武

 

活仏オーラ

137 活仏オーラ シャングリラ・ラサ・北京紀行 二十一

 その夜ディナーの後、活仏の信者あるいは大スポンサーらしきの家に共に呼ばれた。グルカ族の実に屈強極まる体格の、夫婦共に持主であった。大きな犬が数頭内庭に金網で囲われていた。一頭一千万円以上の犬です、と案内の中国人が小声で告げた。大きな居間に通され大画面の液晶TVで反日の漫画番組を見た。別になんの悪意があるわけではない。上手いお茶を馳走になり、チベットの、万年筆のキャップ大の宝石を見せられた。又、一つ一千万円以上しますと小声で誰かが告げた。活仏は大様に笑うばかりだ。この中国人達、そしてチベット民族の現世利益観の中で活仏は何を想うのだろうか。
 ダライ・ラマ、タンチェン・ラマの最高位の僧と同じに活仏は見つけられるべくして発見される。世襲でもなく、修行によってでもなく、来世より生まれるべくして再生した者として、何処かの村で発見されるべくして発見される。言わば約束された再生の道筋の保有者である。
 何となくそういう人に気押しされるのが私の悪いクセだ。
 「変な圧力がありますね、この活仏」
 と磯崎につぶやいたら
 「オーラはあるね。でも、ダライ・ラマの方がもうチョッとそれが大きかったな。」
 と、彼もオーラの計り売りみたいな事を言う。ズッと何気なく観ていたのだろう。誠に油断ならぬ人物である。
 活仏は肉食妻帯の世俗も許されている。それで不思議な権力も持つのだから、日本の茶の宗匠、千家とか表、裏の家元制よりも余程不可思議なシステムである。
 石山修武

 

活仏

138 ポタラ宮とセラ寺と シャングリラ・ラサ・北京紀行 二十二

 明けて八日。早朝ポタラ宮前の広場でスケッチした後、ホテルのレストランで食事をしていたら、活仏が同じテーブルにニッコリと着いた。ポタラ宮より余程面白い。これ幸いとスケッチした。何となく会った事もない仏陀の顔らしきに描けてしまう。磯崎も「良く描けてる」なんておだてる。図に乗って私は活仏のスケッチ像にサインを求めた。
「チベット文字で頼め」と磯崎。
 それで私のスケッチブックにはチベットの活仏様の自筆サイン入図像が収まる事になった。このスケッチの値打ちは一千万円を下らぬモノになるだろうと、私は昨夜の犬や宝石を思い出し中国風にニンマリ笑ったのだった。実に他愛ない俗物である。
 食後、中国人達の手配通りに磯崎の部屋にチベットの医者が来た。皆息をひそめている。長く脈を取り、それから体のツボらしきを押し続け、チベットの伝統治療を小一時間程。診断は年令の割に血圧の状態が驚く程良い、ケガはしばらく残るだろうが大事無しとの事であった。彼の古傷についてもピシャリと言い当てた。磯崎は驚く程神妙で、率直な対応をした。そうか、今度、何か意見の喰い違いが発生して、争いになったら、チベットの医者風に対応すれば良いのだと思い当たった。今度試してみたい。少しは気も晴れたか、磯崎はポタラ宮に歩いて登ると言う。介添の男性を一人用心につけてポタラ宮へ。何しろコレワ、建築というよりも小山である。赤い山という特別な丘の全体に建築の形をしたサヤ堂をかけてしまったようなものだ。だから、ケガをした磯崎にはキツイ筈だ。それにポタラ宮は内には何も無いような予感もある。それでも磯崎は足を引きズリながら登った。痛さ、傷への心配よりも好奇心が勝ったのだ。ポタラ宮巡りはケガをしていない私にも仲々キツい運動だった。でも舎利ストゥーパの形とミイラの容器としての機能とか少し解り得た事もあった。又、ポタラ宮最古部分の見学はこの建築が丘に始り、そこに小さなストゥーパが建てられ、そのサヤ堂、そして延々たる増築に次ぐ増築という。全体像無き建築の有り方を良く示しているのも知る事ができた。しかし、ありとあらゆる仏像、イコンに中国元が惜しみなく喜捨され宮(パレス)全体が賽銭箱状態になっているのも知った。仏教的集金マシーンだな。
 カフェテリア様のレストランでイタ飯の昼食。その後、仏教大学、セラ寺へ。河口慧海も学んだところだ。慧海はここで学びながら、チベット人に医術を施している内に医者として望みもせぬ盛名を得てしまい、ダライ・ラマ十三世の知遇を得る迄になってしまった。全て予定外の事件だった。ひっそりと暮らしたかったのだろうに。
 セラ寺では多くの僧侶の闘論パフォーマンスが演じられ、観光の為の演目になっている様であった。K−1みたいに完全な言葉の闘技にして、勝者に千元を賭ける等、もっと中国風にしてしまえ、と余計なお世話迄考えた。これは暴言であるがチベット仏教と中国的資本主義の将来にとっては面白いかも、カジノ仏教社会である。ラサに戻り、磯崎はホテルで休息。残りの者達はジョカン・テンプル(大昭寺)へ。これが凄かったのである。
 石山修武

カバーコラム

 

黒いトランク

139 黒いトランク シャングリラ・ラサ・北京紀行 二十三

 寺院正門前で五体投地を続けるチベッタンを横目にジョカン寺へ入る。活仏も一緒である。彼の所属する寺はラサから大分離れた密教寺院だと聞いているので、この寺との関係所属は不明だ。凄い人だ。東京のラッシュアワーみたいなもの。寺院内は人いきれでむせ返るようだ。廻廊状をグルリと巡り、正面の十一面観音像へ。この巨大な観音が本尊である。皆、白いショールを観音に奉じて現世の幸せを祈る。我団長の Mr. SAIも熱心に祈る。彼は大ディベロッパーの社長で生馬の眼を抜くように金を扱うのに慣れている筈だ。しかし、この信心だ。聞けば何十人の恵まれぬ子供達の里親もしていると言う。プロテスタントと同様に金の社会的還流をわきまえているのだろうか。それとも巨額の金を動かす事への恐れか。
  Mr. SAIが突然部厚い札束を旅団の皆に渡し始めた。中央ホールで僧侶の読経の真只中だ。エッ、こんなに、でも何故こんな金くれちゃうの俺に、と思いきや、飛んでもない誤解だった。部厚い札束は居並ぶ百名以上の僧侶の全てに配らねばならない。多くの人々の視ている前で、読経に対する喜捨を明らさまな現金、中国元の金で配布するのだ。これは生まれて初の体験であった。多人数の眼の前で、こんなに現金をバラまくのは。選挙だったら、すぐに逮捕だな。場内に現金をバラまいて一周して戻り、定席に戻る。
 と、何と、眼の前の僧侶が二人黒い大型の革トランクをパクリと開けた。磯崎の革のバッグよりズーッと大型で現金輸送に使うような奴だ。パクリと開いた中は、ゲーッ、全て札束現金である。それを僧侶は手際よく納めたり、再配布したりしている。衆人環視の真只中である。
 ポタラ宮よりも更に赤裸々な現金の流通の現実。人々に喜捨され、集められ、再配布される現金の現実。 Mr. SAIも恐らくは巨額の喜捨をしているに違いない。海南航空の金も流れ込んでいると言っていた。ダイナミックと言えばダイナミックだし、余りにも赤裸々と言えば、その通り、マネーリアリズムと仏教寺院の関係。ここにもチベットの集金装置としての寺院の現実があるのだった。現金舞う荘厳であった。この金の舞い行く先は何処か。
 その夜はジョカン大僧正をはじめ寺の幹部とラサ地区中国共産党幹部の共催パーティで疲れた。 Mr. SAIの経済力の結実なのか、私も小さな金銅仏をいただいた。磯崎はホテルで寝ていた。知っていたのか、現世的実利の宴になるのを。
 石山修武

黒いトランク

 

天と地の境界に

140 天と地の境界に シャングリラ・ラサ・北京紀行 二十四

 翌九日。旅のクライマックス。
 午前中、再びジョカン・テンプルへ。磯崎、大僧正に返礼訪問。屋上に上る。寺の屋根を修理中で女の左官達が屋根をたたいて唄いながら声を掛け合い塗り固めているのを驚きを持って見守っていた。どうやら、磯崎がチベット、ヒマラヤに何を見ようとしてきたのかが、ようやくにして気配を感じられるまできた。女の職人達が声を出し、たたいて固める音がする。音は地から出て天に届く。タルチョの旗も空に張られた大地の装置だ。音を発する。経文を風に詠ませるのだ。
 チベット自体が地球の屋根と呼ばれる地域だ。屋根は天と地の境界に在る。地球で一番高い場所を観て、彼はそんな事を考えてみたかったに違いない。天と地の境界に人は生き、建築が生まれる。その形式への直感を言葉にしておきたいのだろう。と憶測せざるを得ない。
 ジョカンを去り、皆は旅の終りの買物・ショッピングに出た。ラサの商店街のテラスでお茶を飲んだ。磯崎宅を出た時のように色んな事を話した。福岡の話しは出なかった。そりゃそうだろう。天と地の境界について、その境界をある巾を持って枠づけるのが建築デザインだ、なんて観念に達してしまった者がいつまでも一ヶ所に思いを置き続ける事は出来る筈もない。
 磯崎がこれだけはどうしても視ておきたいと言い張った寺は何と活仏の修行寺であった。活仏を乗せてランド・クルーザーは最終目的地に向かった。途中で出来たばかりのラサ駅を見学。一週間程前のチベット・ラサ鉄道の開通は中国にとってオリンピック開催同様の国家的事業だった。胡主席の初の仕事だった。駅舎はカンカン照の荒地にポツリとあった。ラサ空港を過ぎ更に一時間程走り、大河のほとりへ。渡し船で対岸に渡る。車は大廻りして目的地迄後追いする事になる。
 石山修武

 

曼荼羅世界の劇場

141 曼荼羅世界の劇場 シャングリラ・ラサ・北京紀行 二十五

 底の平らな四角い箱船であった。この荒地の何処に暮らしているのだと首をひねる位に人が乗り込んだ。活仏も乗り込んだ。日差しが強いので頭を赤茶のマントでくるんで日を除けた。デッカイ風景であった。それはそれは大きな、この世とも思えぬ様な風景であった。雲は大地に様々な影を落し、千変万化な記号、象形をつくり出し続けた。形は無限に天と地の境界に出現しては消えた。
 対岸には古いバスが待っていた。道なき道をゆられて行った。小半時か。荒地に小さな集落の緑が現われ、その中心に寺院があった。活仏の寺である。バスは寺をグルリと円形に囲暁した厚い石の壁を巡り、東門から中に入った。完全な曼荼羅の図形が建築化されているのであった。バスはその完全な円形の壁の内側に入り込み止まった。四つの色の異なる大ストゥーパがあった。緑色のストゥーパの近く、寺院の正門前の広場でチベットの儀式が行われていた。広場にはさじきが設けられ、テントが仕つらえられ舞台になった。寺院は劇場となり生き生きと働いていた。その劇場に入り、夢中でスケッチを続けた。チベットの鬼が身近にせまり、刀を振りかざしたが、スケッチを続けた。長い長いチベットのラッパが数本、ヴァヴォーと鳴りひびき、空気をふるわせた。磯崎はすぐ足早に何処かへ駆けた。足の痛みも忘れていたに違いない。恐らく寺院の曼荼羅像の全体を把握しようと走ったに違いない。私はただ立ち尽くしてスケッチを続けた。視て、手で視たものを写した。雲の形、ストゥーパの目玉、色、舞台、テント、建築、装飾、山の姿形、皆、同じように視えた。プレ・モダーンもモダーンも、近代化も何処かに消えた。消えさせてしまう力がそこにはあった。祭りの儀礼に集った数百人の人々、そして観光客、空、雲、光、影、音、叫び、声、ざわめき、古い建築、テント、その全てに力があった。一瞬世界を視る事が出来た。ほんの数十分であったが我を忘れた。その場所の全てが劇場と化してその力が私を巻き込んだのだ。内に招じられて、寺院内部の闇に入った。これも全て曼荼羅の視覚化である。多くの仏像やイコンに又も中国元がおびただしくはさみ込まれ貼つけられている。アッという間に我に帰った。失望させてくれるじゃないか。外にあった絶対的な自由が内にない。何故か、良く良く考えてみる必要がありそうだ。
 夜になり、寺院内で食事に招かれた。活仏の部屋にも招じ入れられた。外は星月夜であった。月光が全てを照らし出してそれは美しいものだった。
 しかし・・・。
 「町に戻って、ワールド・カップの決勝をTV観戦しようか。」と磯崎。
 「そうですね。シャワーも浴びたいし、長く居てもここは際限がないですよ。」
 「そうだ、帰ろう。」
 石山修武

 

北京での再会

142 北京での再会 シャングリラ・ラサ・北京紀行 二十六

 翌朝ラサ空港へ向けてホテルを発つ。早朝ホテルのレストランで問わずに語りに磯崎は彼の考えを語った。成程ね。七十五才という彼の年令を考えるに、これが建築の世界では最高峰の思考の峰かも知れない。チョモランマ(エベレスト)だ。幸か不幸かヒマラヤの巨峰を遂に見る事はなかった。その代りの、巨峰だったな、磯崎の、と合点する。よい時に、絶妙の大きな峰を巡る事ができた。土台も万全そのものだ。世界で一番高いチベットで彼が考えたんだから。
 ラサ空港迄は何故かアッという間のスピードで走り抜けた。それが幸いした。私の北京行のフライトが一時間も早くなっていた。流石中国である。やる事が早い時もある。空港で、上海行の磯崎と手を振って別れる。  サテ、次は北京だ。

 北京空港には少し遅れて着いた。誰も迎えをあきらめて帰ってしまったかなと、ラサからの飛行は時々狂うものなのかと夜の空港を出たら、李祖原が手を振って待っていてくれた。彼とも磯崎と同様二〇年以上の附き合いだ。デッカイ黒塗りのリムジン仕立てのBMWに押し込まれる。北京モルガンセンター・オーナーの Mr. 郭の車だ。これも又、私の肩かけザックは誠に似合わない。おまけにザックはチベットの土に充二分にまみれている。「大変な旅だったな」と李。「ウン、ご覧の通りだ」
 「 Mr. 郭は今、重慶市で、明日北京に戻る。彼の家に招待すると言ってるから、その時打合わせしよう」
ノープロブレム
 「モルガンセンターの工事は再開されたか」
 「ノープロブレムだ。ファイナルの案を作ってる。明日、見せよう。」
 夜遅く、ホテルにチェック・イン。李祖原とビールで再会を祝す。李祖原は伊磯崎新とは全く別世界の建築世界の巨人である。何より、デッカイ建築こそ価値があるとの揺ぎない思想の持主だ。世界一の高さを誇る台北101フィナンシャル・ビルディングの設計者であり、今は二〇〇八年北京オリンピックサイトに、これ又、巨大な北京モルガンセンターを設計、工事中である。ところが大アクシデントが起きた。モルガンセンター・オーナーの Mr. 郭と北京市が抗争になった。連日、北京の新聞、TVが騒ぎ立て、工事は途中でストップして、一年余りになる。私も、この計画にはあるアイデアがあって加わろうとしている。日本でも、このアクシデントは知る人ぞ知るで、石山さん、あの人大丈夫なんですか、中国人は解りませんよ、なんて忠告が多い。だって、ノープロブレムと言ってるんだからノープロブレムです。李も Mr. 郭も友人なんだから。と理屈にならぬ理屈を返すだけであった。が、しかし、北京オリンピック開幕まで、わずか二年となり、工期的に心配となり、それで今度の北京行となった。
  Mr. 郭らしく、ホテルの一番大きなスウィートが用意されていて、又しても私のザックは居心地良くない。ラサ・ジョカン・テンプルからいただいた釈迦牟尼像を取り出して、眺め、早々に眠りについた。早く頭を切り換えねばならぬ。
 翌十一日、早朝、李とホテルで食事。話しを聞けば北京市との争いはクリアーした、今は北京政府とやってるんだとの事。ノープロブレムだよ。早速その、大モメだがノープロブレムの北京オリンピック・サイトを見て廻る。
 石山修武

 

新しい中心

143 新しい中心 シャングリラ・ラサ・北京紀行 二十七

 巨大な鳥カゴみたいなメインスタジアムや今流行の非構造的構造のスウィミンングプールの骨組みがオリンピックサイトに出現している。広大なサイトの外れの選手村全域も工事が開始されていた。工事自体はまだ再開していないが北京モルガンセンターの工事の方がまだ進行は早い状態だ。大まかではあるが、これで二〇〇八年北京オリンピックが無事開催されるならば、北京モルガンセンターの工事もまだ充分にオープンには間に合うだろうと合点した。
 オリンピックサイトに接して反対側にある北京モルガンオフィスに行く。李の今の設計状況の説明を受ける。北京市、中国政府を向うに廻し堂々たる戦い振りである。福岡・九州は見習うべしと痛感する。
 天安門近くで北京ダックの昼食。美味極るが多くは喰べられず。チベットで胃が少し縮んだのかもしれない。食後、オリンピックサイト間近の Mr. 郭の別の大プロジェクトの現場を訪ねたり、国立オペラハウスを通り過ぎたり、レム・コールハースの現場はパスしたりで、李と色々と話し合いながら過ごす。北京市は大改造の真只中である。 Mr. 郭、李祖原は北京オリンピックサイトのプロジェクトを、まさに中国大陸の中心の計画であると把えている。中国人には何につけても中心(センター)の思想が強い。北京オリンピックは天安門広場を中国の中心とする、古い中国からのセンターの移動の計画であると彼等は考えている。だから、どうしても力が入る。簡単には引き下がらない。自分達の理想の是非がかけられている。
 境界線に関心を深める磯崎とは正反対な思考のようにも見えるが、大事なところは同じだ。境界線の揺らぎ、消失、あるいは拡張に焦点を合わせるのか、中心の移動を見据えるかの違いだけである。その強度、深度そのものは同質であるように思える。チベット旅行のお蔭様で私も随分大まかに物事を考えられるようになった。日本に帰ったらさぞかし居心地悪いだろうな。夜、北京に戻った Mr. 郭に再会。香港での初会、東京での打合わせ、いつも彼には驚かされるばかりだが、その行動の軸は全く振れない。三国志の若き英雄振りを眼の当りにしているようなものだ。チベットに行った事を言うと、あそこは全て北京政府の直轄エリアだけれど、自分は今のところ関心が無いと言う。近代的なマネーが力を持つところではないと。巨大なスケールのマネーゲームの渦中の彼と、ラサの現金主義とはまだ隔世の感あり、なのであろう。
 石山修武

 

博多の空

144 博多の空 シャングリラ・ラサ・北京紀行 二十八

 翌十二日昼、北京市中心の Mr. 郭の家を訪ねた。デッカイ、四合院風のつくりの大邸宅である。地下階に映画館があり、プールもある迄は驚かないが、二階の私設ギャラリーのコレクションの質の高さとその量には仰天した。秦代の仏立像。日本では飛鳥寺の仏頭が最古の国宝であるが、それと同時代の完全な立像が持仏とっして奉じられている。李祖原がヒザを屈して三拝九礼を行い線香を献じる。私も自然にそれに習った。それからは出るわ出るわ、コレクションの主幹は唐代のペインティング。樹皮に描かれた、素人眼にも見事なものばかりだ。「これ一つ、二つで北京モルガンセンターと同価だろう」と李祖原。「一巻くれないか」とは流石に言いそびれた。いつかは言ってみたい。磯崎のカタールの王族と同じ種族なんだろう。漢民族の懐は深い。深海の闇だ。「日本の富豪らしきが良く観せてくれとやって来るよ」と Mr. 郭。その名を聞いて息を呑んだ。これは書けぬ。
 折角だからと、立像をスケッチするも、その値段がちらついて上手く描けぬ。俗小人だな俺は。
 昼食は専属の料理人、給仕がついて誠に美味。ワインも飛切り。食後、北京モルガンセンターのオリンピック時の私の計画案について述べる。彼が高校生の頃、モルガン・スタンレーから言われたような科白、
 「君に希望を与えよう。」
 で、お開きとなった。何が希望なのか、まだハッキリとはしないが、やれるだけの事はしてみよう。もしかしたら福岡オリンピックの続編プロジェクトとして展開出来るやも知れぬ。我ながら大まかで、荒っぽいが、世界に未来があるとすれば、突破口の一つにはなり得るだろう。
 夕刻、北京モルガン・オフィスに福岡から電話が入った。どうしたんだろう。聞けば博多山笠の山見せに、磯崎新が行けぬの知らせが上海から入ったと言う。そりゃ磯崎は行けないよ。あのケガなんだからと答えるに、「博多山笠はオリンピックより大事な祭です。磯崎新に来てもらわないと祭そのものが成立しません。山笠の歴史、始まって以来の大不祥事になるんで、石山よ、磯崎新の代りに明日の昼迄に福岡に来てくれ、それじゃないと誰かが腹切らなくちゃならない」と驚かされる仕末。腹切ればいいじゃないと思いはしたが、誠に気が弱い。遂に押し切られてしまった。
  Mr. 郭、李祖原、共に呆然としている。
 「オリンピックと山笠を測にかければ、山笠が重いのだ、それが福岡ピープルの希望らしい。」
 と、理由にならぬ、いいわけをして、その夜北京空港へ、上海まわりで福岡への強行軍となった。もう惨々な旅の終りである。雷で北京空港は全て閉鎖だと知る李祖原が、それでもあきれながら空港まで送ってくれた。申し訳ないにも程があると、文句を言っても仕方ないのだ。それが世界だ。日本社会だとブツブツ文句を一人言いながら、翌日、山笠山見せにギリギリの時間に福岡空港着。何と!聞けば磯崎新はケガを押して上海から福岡入りして、今、山に乗る仕度中であるとの事。何たる事であろうか、でも全ては仕方の無い成行なのだ。磯崎新も遂に泣き落とされたのだろう。チベットの活仏の不思議な感化も働いたのだろうか。泣く子と福岡ピープルには誰も敵わないのである、と空をあおいだ。福岡の空も哀しい位に高く澄み切っている。
 了
 石山修武

境界線の旅
石山修武 『境界線の旅』 写真:磯崎新
 ふたりの建築家が疾走した
 高度五千メートル
 チベットの真実

石山修武 『境界線の旅』 写真:磯崎新
15冊限定サイン入り
ご希望の方石山研究室にて承ります

カバーコラムバックナンバー一覧 シャングリラ・ラサ・北京紀行1→カバーコラム13
カバーコラム
インデックス
ホーム