117 上海ラディソン・ホテル シャングリラ・ラサ・北京紀行 一
ヒマラヤに行くぞ、と言われたので古い小さな肩かけザックを持って家を出た。いかにも歴戦の強者の風をしている。ファスナーが一カ所壊れているので、そこには帽子を挟み込んだ。
磯崎新はと言えば立派な大型の皮革カバンと小さな皮革カバンの二つぞろえの荷造りだ。旅の荷造りでその人物の考えの一端を計り知る事ができる。立派な皮革カバンを見て考えた。磯崎のヒマラヤは頭の中にあり、私のは背中にある。彼はその建築のように頭の中、つまり脳内にあるヒマラヤという観念に立ち会う積もりなのだ。磯崎は何処に行くのも身軽だ。ズッシリ膨らんだ手下げバックを東京で持ち歩く私を見て「お前、体に悪いぞ」と冷やかされた事もある。
しかし、今度は何しろヒマラヤ行なのである。荷を負はずに済まされるものなのか、他人事ながら不安を覚えた。
彼の事だからその脳内にはズッシリと様々な知識がすでに山のように組み立てられて、それを後追いするように山に対しようとしているに違いない。しかし、実体のヒマラヤはその脳内風景をはるかに超えたものとして間もなく眼の前、身体の身近に出現するぞ、その時彼はどう対応するのかと私は変な期待も胸に抱いた。
それはさて置く。
見事に上海風モダーンなホテルの一室で、私の小さな背負いザックは少々異様な存在感を発している。どうにも馴染んでいない。
上海モダーンスタイルはアールデコとは異なる。一切の抑制の力は働いていないが、近代風に仕上がっている。才のあるインテリアデザイナーが良質なモダーンスタイルをなぞったような風がある。ミースのモダーンでは勿論ない。ミース風のホテルでくつろげる客は稀だ。その事を承知の上で意図的にもう少し、沢山のデザインボキャブラリーが繰り拡げられている。それではフィリップ・ジョンソンのニューキャナンのガラスの家風か、と言えば、それには少し近い風もある。室内を彩る小物、家具達も皆、金がかかってるナァというのが解るところが似ている。しかも、適確に表現できているか覚つかぬが、不労所得者の得た金の匂いである。それが客を圧迫しない素だろう。イサム・ノグチの照明を少し崩して、もっと楽にして、色もホンノリつけている。椅子もテーブルも全てそうだ。ミースのインテリアには何処かに労働者の匂いがある。一生けん命働いて、工夫した末に辿り着いた感がみなぎっている。それが客にプレスをかける。モジモジさせ居心地悪く感じさせる。これは凄いと感じさせる事が、居心地良さには決して結びつかぬのである。
磯崎新は今、別のフロアーで上海のプロジェクトの打合わせの最中だ。仕事と旅の区別が無い彼のスタイルそのままの時間を過ごしている。
石山修武
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118 薬と洗剤 シャングリラ・ラサ・北京紀行 二
グッスリと安眠し、翌朝早く目覚めた。約束の朝食の時間迄、まだ時間がある。今度の旅にはスケッチブックを三冊も持って出た。一冊も使い切らぬのは口惜しい。それで室内を再び見廻した。この頃はいつもスケッチブックを持ち歩くようにしている。カメラは持たぬ。特に今度は何しろヒマラヤだ。何十年も昔、インナーヒマラヤのハードトレッキングで六千メーター弱だったか、雪深いトロン峠を超える時、ニコンのF4の重さに耐えかねて、それを捨てようとして、シェルパに肩代わりして貰った記憶がどうしても抜けない。それで今度は全てスケッチブックに記録する事にした。スケッチをするのにはかなりの体力と気力がいるのもすでに知っている。その点、磯崎は常にスケッチだ。いつだったか、マカオの港かどこかで一人、極く極く自然にスケッチをする後姿を眺めていて、少年のように、格好イイナと思った記憶もある。それや、これやのカメラ持たずの旅になった。
何か描かねばの強迫観念のせいか、対象はすぐに決まった。整理のつかねままキャビネットの上に放り散らかしていた二ヶの持物。薬のプラスチックケースと、洗剤入れの紙袋のツインのオブジェ風である。
なにしろ、久し振りのヒマラヤ行である。テント泊りもあると聞いていたので、洗濯は全て自分で小マメにやろうと決めての洗剤と、自分の体は自分で守ろうとの薬のパッケージである。それが、又しても上海風モダーンインテリアの中では異彩を放っている。それを描いてみた。フランク・O・ゲーリーはこんな風に全てをオブジェ風に見立てて発想の素にしているらしいが、こちらはただただ描かねばの強迫に押されて描いた。描いてみたら、確かにスケール感が無くなって建築物のように思えぬでもないのだった。
石山修武
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119 ヒマラヤシーツ1 シャングリラ・ラサ・北京紀行 三
身体はホテルの室からまだ外に出ない。河口彗海を読み続けたので、ベッドのシーツのしわが何となくヒマラヤの如くに視えた。スケッチする。要するにスケッチしたり、メモしたりは手持無沙汰でないとできない。妄想は時間のゆとりが作り出す。
七月二日は早朝鈴木博之先生監修の二年越しの原稿書く。少し調子が出たところでストップ。なんとか何処からか東京に原稿を送らねばならぬ。でも、行先がチベットだとは編集者には言えなかった。敦煌からだって原稿送った事あるのだから、ラサからでも送れるに違いないのだ。朝食後十一時過磯崎宅。宮脇愛子さんに久し振りにお目にかかる。磯崎さんの朝食にお附き合い。マーマレードが上味い。十一時四五分磯崎宅発。車で成田へ。車の中で色んな話しをする。二〇一六年のオリンピック合戦の仕事がとり敢えず一段落したので合間を縫ってのチベット行である。十三時頃成田着。ANA、チェックイン。磯崎はANA中国便の職員とは顔なじみのようで、一人案内係がつく。何年か前のカタール行を思い出す。カウンターで、河口慧海の「チベット旅行記」全五巻の内、その一を渡される。多分、その一は今朝読み終えているのであろう。これでは福岡オリンピックと同じのハードな勉強会ではないか、と思ったが読み始めたら面白くて上海に着く迄にはその一は読了できるだろう。どうせ上海に着いたら、その二を渡されるのである。飛行機は少し遅れ、十四時三〇分頃離陸。河口慧海読み続ける。河口慧海については、僕は彼がチベット潜入に際し、ネパール側でしばらく滞在したツクチェ一帯の部族長の子孫であるジュニー・トラチャンと知り合いなので、磯崎よりは河口に近い筈なのだが、彼は今二つ前の席で河口慧海の本を猛烈なスピードで読んでいるから、アッという間にこのアドバンテージはクリアーされてしまうだろう。残念。本の中の慧海は今、ポカラからそのツクチェへの道中である。ツクチェで慧海はハルカマン・スッパという知事の家に泊まる事になるが、これがジュニー・トラチャンの家である。慧海を読むうちに上海空港着。十六時四〇分。十八時半市内ラディゾン・ホテルチェックイン。十九時過ロビーへ。二十一時前上海のディベロッパーとの会食了。部屋に戻り休む。磯崎氏は打合わせ。皆、若い。明日からのツアーはハードなものになりそうだ。
石山修武
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120 ヒマラヤシーツ2 シャングリラ・ラサ・北京紀行 四
七月三日は七時起床。まだ、室を出ない。ホテルの中の風景が面白いのでスケッチする。昨夜は良く眠った。二つシーツのシワをスケッチをしたら、馬鹿馬鹿しくなって止めた。考えてみれば山口勝弘や宮脇愛子といった芸術家達はこういう事に決して馬鹿馬鹿しくならないのだろう。変な人達だ。
八時半1Fへの食事に降りる。曇天の上海らしい天気だ。磯崎氏と食事。九時四五分チェックアウト。一年半振りの上海は驚く程に変化していた。バンドの対岸の新開地はアッという間の大開発で、もうあの滑稽なTV塔も地味に視えてしまう位。
石山修武
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121 シルバーライカ1 シャングリラ・ラサ・北京紀行 五
上海エアーポート十一時前着。総勢八名のパーティーである。ディベロッパー社長 Mr. SAI団長。シャングリラ迄は飛ぶ為に国内便発着の上海空港に着いた。ラウンジで磯崎新が一心不乱に何かやり出した。こんなに無防備な彼を見た事がなかったので気が付かれぬようにスケッチする。見ればカタールの王族シェイクからプレゼントされたというライカをひねり廻している。シルバー製の重い奴だ。私はラウンド・アンナプルナのトロン峠越えでニコンF4の余りの重さに、捨てようと思った経験があるので、この世界に数台しか無いライカはヒマラヤでは役に立たぬような気もしたが、口にはしなかった。
石山修武
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122 シルバーライカ2 シャングリラ・ラサ・北京紀行 六
磯崎新はまだライカのバッテリー装着他に熱中している。何やら不都合が起きたらしく、東京に電話を入れてカメラのメカニズムを開いたりしている。問題が発生すると、それの解法をロジカルに開いてゆくのが好みなのが知れる。
しかし、カタールの大富豪からプレゼントされたオリジナル・ライカがいざとなったら役に立ちそうも無いだろうという考えは何処かに置去りにされているようだ。カメラは自動車と同じで大量生産品が一番性能が良いのである。そんな事にはお構い無しにまだ磯崎新は特製ライカの言う事をきかそうと、熱中している。
十二時過発。昆明へ。
石山修武
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123昆明のサイモン・ロディア シャングリラ・ラサ・北京紀行 七
十四時四〇分着。社長の知り合いのアーティストのスタジオ・ミュージアムを視ようと出掛ける。上海から来たので何を見ても驚かないが、実に変テコリンなスタジオであった。トルコのハラン集落が中国に降り立ったような、グニャリとした円錐ドームの連続。藤森照信が見たら茫然とするだあろうな。中国はセルフビルドも桁がちがう。今朝、ホテルにあった岡本太郎がモダーンになった様な彫刻らしきがゴロゴロ並べ立てられてあった。布袋様のニンマリとした顔が庭に転がっていたりで、サイモン・ロディアも真っ青な感じなのであった。
石山修武
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124 昆明のサイモン・ロディア2 シャングリラ・ラサ・北京紀行 八
全く、ロディアのワッツ・タワーが平然と苦もなく建っていて、おまけに内外に自分の妙チクリンなアートを並べ立て、どうやら、キチンとビジネスにもしているような人物らしい。五〇半ばで針のようにやせている人らしい。十六時半昆明空港に戻る。十七時半頃シャングリラ(香格里拉)着。緑豊かな美しい土地だ。桃源郷の名にふさわし。四輪駆動のランド・クルーザー四台で迎えられる。屈強なチベッタンぞろいである。高度はすでに三千三百米と云う。何となく、フラリとする感じ。いきなり異郷にまぎれ込んだ感あり。建塘宝館にチェックイン。岩山のふもとの西向きの良いチベット風ホテル。車で街に出る。旧い街並みを歩く。何とも言えぬ風である。シャングリラは、アッという間にシャングリラ・チベッタン・テーマパークになった。観光客がゾロゾロ列をなし、おみやげ物屋がズラリと並んでいる。鎌倉時代前期に建てられたと言う民家を観る。堂々として見事である。街並みの中程が広場になっていて、チベッタン、観光客が入り乱れて盆踊り風のサークル・ダンスをやっていた。勿論演出であろう。直径一米弱の大木で作られた民家を見て、驚く。ゆっくり調べたら面白いだろう。こんな大木が雲南省にあったのだ。大仏様の起源らしきを見たのだろうか。十九時レストランで夕食。空腹もあり美味であった。他のメンバーは街に残り、私は磯崎とホテルに戻って休みをとり、スケッチの整理とメモ。少し原稿も書く。FAXは無い。東大出版には申し訳ないが、ラサから送るしか無いか。十一時、熱い風呂につかり、眠る。明日はいきなり五千米を超えるそうで、どうなる事やら。まさか、磯崎氏とこんな処まで遠征するとは・・・こりゃ、何なのだろうか。眠るつもりが、一向に眠れない。高度が三三〇〇米あるそうで、そのせいなのかどうか。眠れぬママにシャングリラの夜はふけた。
石山修武
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125 梅里雪山を望む シャングリラ・ラサ・北京紀行 九
明けて七月四日、七時過荷作りをして八時一階レストランへ。八時半車三台、八人のメンバーで出発。ドライバーは長旅の専門家らしいが、良く解らぬ。シャングリラの街で簡易酸素ボンベ、水等を積み込む。三〇年近く昔にやったヒマラヤ行では高山病にならなかったので得体の知れぬ自信はあるのだが、シャングリラを出て三千六百メーターの峠をこえる。次第に高度を上げ、アッという間に四千六百メーターまで上る。真近に六千メータークラスの白馬雪山を望む。美しいが、ヒマラヤでは小峰だ。それでも、アッという間の高山の景色だったので、驚いた。磯崎新もウムウムっという感じで楽しんでいる。少し下り、梅里雪山を望む展望台へ。氷河が真近に眺められる。近くのハタゴ風レストランで遅い昼食。今日も空腹なのでうまかった。長江(揚子江)の大峡谷を離れ、中国らしい大きなスケールの景色が続く。メコン河の峡谷に入る。深い谷で落石の危険は極めて大。メコンの流れは赤茶色の独特な色合いであった。ミャンマーやカンボジアでのメコンとは全く異なる。しかし、余りの悪路と落石に、もしかしたら事件が起きてしまうかなのイヤな予感も生まれる。八名のメンバーは、どうやら誰もヒマラヤの山の経験者はいないらしく、ひどく楽天的である。中国人は皆こうなのかと不安になる。今は雨期の真只中で勿論ヒマラヤの登山、トレッキングのシーズンでは全くない。七千メーター以上の峰には風速八〇メーターになんなんとする風が吹き荒れている。本当は今の時期のヒマラヤは最悪のシーズンである。しかし、シャングリラ等の観光シーズンとしてはベストなようだ。
石山修武
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126 メコン大峡谷 シャングリラ・ラサ・北京紀行 十
メコン河大峡谷を命からがら走り抜ける。どう命からがらかと言えば、雨期で地盤がゆるんでいて、ガケ崩れ、路肩崩落。落石のただ中を走る、つまりワザワザ危険印の谷に入り込んでゆく様なものなのだ。
右の窓からは真下に数百メーターの谷底、左の窓には垂直に近く切り立ったガケ、そこから崩落してきた岩石で走る道路は埋まっている。ここで遭難してしまったら、私は矢張りねと言われるだけだが、磯崎はどうなんだろう等と、あらぬ事共を考えながら、それでも無謀な旅行団は走り続けた。どんどん走り続けた。夕方になっても走り続けた。どうやら、予定の行程の半分位しか達成していないらしい。一日五〇〇KM位を走る行程だとは聞いていた。しかし、どう考えても時速四〇KM五〇KMが上限と言って良い位の道だ。それでも危い。落石があるからゆっくり走っても更に危い。速くても危い、ゆっくりでも危い。つまり、危い川をワザワザ渡ってるようなものだ。滝の如き川をランドクルーザーはジャブジャブと渡り返す。三台の車が休みを取れるのは、ホンのわずかな所しか無い。落石の心配が無い、千尋の谷に面していない、そんな処は稀少なのだ。
午後も遅くなった頃、チベット人のドライバーの一人が、このプランは、つまり、ラサ迄この径を走るのは不可能だとワメキ出した。
このプラン、つまり、シャングリラからラサ迄、車で三日かけて走り抜けるのを考えた人間は昼過にシャングリラに帰ってしまった。カメラマンらしいけれど、そんなに数字には強く無さそうだった。水平距離だけで大まかな計算して、六千メーターと三千メーターの高度差は一向に考えていなかったのではないかと思いついたが、アトの祭り。
しかし、隣の座席では磯崎が「荒っぽいね」と平気の平左だ。
「中国人は大まかなんだ」なんて言っている。大まかなのは磯崎ではないかと思ったが、ここまで来てしまって、そんな事は言えるものではない。
もう先に行くのはイヤだというドライバーを何とかなだめて、なだめたのは中国人のデベロッパー社長、大まか人だ。今日は夜中の十時位まで走るぞと決めて、走り出した途端に行手をさえぎられた。
大型トッラクがガケから落ちそうになっているのに遭遇してしまったのだ。数百メーターの断崖にトラックが半分、落ちそうに引掛かっている。数メーターの道らしきの反対のガケからワイヤーで、落ちるのを引張って留めている。すなわち、道は完全に行手をさえぎられてしまった。又、ドライバー三人が大声でワメキ始めた。
「俺はもうイヤだ、帰らしてくれ」
「イヤ。戻るよりは進んだ方がまだ安全だ」
とか、そんな事なんだろう。中国語とチベット語が交じっているらしくて全く不明。
石山修武
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127 谷底の温泉 シャングリラ・ラサ・北京紀行 十一
「ヘリコプター呼んで戻った方が利口かも知らんな」と磯崎。しかし、ヘリコプターだって着地する場所も無い。トラックを何とかしようとしている人達も何とも覚つかぬ。軍の車輌に来てもらうしか無いだろうな、しかし、辺りは夕闇に包まれ始めている。
「谷底に温泉がある」とドライバーが言い始めた。
「温泉か、そこに泊ろう。一晩寝て待つしかない」と磯崎。
それで谷底に落ちた。ではなくって降りた。落ちたらいけない命が無い。
谷底には、そう言えば湯煙りが立っている。一筋、二筋、三筋。この辺りの人々には有名なところらしい。
あの宙ブラリンのトラック、朝迄に何ともならんだろうな。と思いつつ、その先はどうなるのか、始まった旅はコレで終りかと、ホッと胸をなでおろすのが半分、残念なのが半分で温泉宿に落ちついた。
「石山、来い。イイ湯加減だぞー。」と呼ぶ声が聴こえる。
小手をかざして眺めれば、磯崎だ。もう面倒くさい。申し訳ないけれど敬称は略してしまおう。
驚いた事に、ちゃんと水泳パンツを身につけている。この人物の周到振りには何度も驚かされてきたが、コレには仰天した。ヒマラヤに水泳パンツか。
それが、チャンと役に立っているのだから何ともシュールレアリズムなのでした。コレワ本当の話し。
石山修武
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128 古茶道 シャングリラ・ラサ・北京紀行 十二
翌朝、七時に食堂らしきに行くと、ドライバーが谷に宙吊りだったトラックは片付いた、前へ進めると言う。あの障害物をどうやって取り除いたのか、中国はやはりミステリアスだ。有難いような、有難くない様な。この道は、古茶道と呼ばれ、雲南省、山西省の茶を東南アジア、インドへと交商していたメインルートだ。勿論人間が茶を背に負って、歩いて運んだ道である。メコンの大峡谷のガケを何十センチメータけずってそれで延々たる道筋を作った。足をすべらせれば命もお茶もお陀仏だ。その道を今、我々はランド・クルーザーで走っている。中国の近代化の成果だろう。しかし、良く良く考えてみれば不可解な走り方をしている。何事も無かった様にトラックが片付けられた道を早朝から走る。恐ろしい断崖の上の道をゆく。救いは時折り遠くに視える雪嶺の姿だけ。はるか足許遠くのメコン河を離れ、車はいきなり高原状の高地をゆく。四千数百メーターらしいが、もう高度は余り気にならない。今日はどれ位ラサに近附けるかが気になるばかりだ。
石山修武
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129 TRESPASSERS ON THE ROOF シャングリラ・ラサ・北京紀行 十三
何故、我々はこんな危ない旅をしているのだろう。
この疑問に答えるのには一册の大著をものす覚悟が必要だろう。が、ランド・クルーザーは走り続けているのだから答えも急ぎたい。
TRESPASSERS ON THE ROOF
日本語訳「チベットの潜入者たち」ラサ一番乗りをめざして ピーター・ホップカーク著(白水社)
体系的に調べたわけではない、体験から得た印象だが、ヨーロッパ系のガイドブック、あるいは文化概論書の論調と日本のそれとは随分内容に開きがあるようだ。情報の体系そのものが異なる。有体に言えば日本のモノには情報に歴史的骨格が無いに等しい。
今度の旅に数册の書物を持って出た。その一册が「チベットの潜入者たち」である。成田空港で磯崎から河口慧海の「チベット旅行記」を渡された。チベット近代史を学んだわけではないし、それがあるのかどうかも知らぬ。
日本人のチベットへの関心は極めて日本的である。中国古代史、あるいは西域、シルクロードへの関心と同様に文学的な心情がベースになっている。それを日本文化的と呼んでいいものかは知らぬ。日本的と今呼んでいるのはその文学的な心情のベースという枠組みを指している。
例えば「チベット旅行記」講談社学術文庫全五册の表紙の全ては平山郁夫氏のチベットの風景スケッチで飾られている。中国→西域→チベット、イコール平山郁夫の画という構図そのものがいかにも日本的なのである。平山郁夫の画がどれ程のものかは大方の日本人は良く解らないのだろう。しかしシルクロード、西域と言えば平山郁夫の画をイメージする人は多い。それだけのイメージの政治力を持っている。何故、政治力つまり大衆動員力を持ち得るのか。現実そのものが描かれていないからだ。平山郁夫の画は喜多郎のシンセサイザーによるシルクロードと同様にその根本が大衆の支持しやすい抒情性にある。視覚芸術の抒情性に関して、音楽のそれと比較するのは難しい。
崖淵を走るランド・クルーザーの速力に合わせて先を急げば、自然観を含めた日本人の根深い抒情性の一部の質に対して、磯崎は冷淡である。距離を置こうとしているのは確かである。
石山修武
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130 河口慧海 シャングリラ・ラサ・北京紀行 十四
河口慧海のチベット旅行記には彼の抒情的な(感情的な)側面は表れていない。この人物の独特さはそこにある。平山郁夫的感傷は何処にもない。長文の記録の何処からも見て取る事はない。わずかな例外としたら河口は文中に時折、和歌を詠んで記している。その出来栄えは私のような門外漢に於いても、あまり上出来なものでない事は歴然とする位のものだ。
例えば、
桃の花 咲ける弥生に雪降りて
高野ヶ原は花に花咲く
の如きである。
紋切り型の(クリシェ)が並列されて、極めて説明的である事がその特色である。
この様なある意味では非日本的感性の所有者でなければ、二年数ヶ月の時間を賭けてのチベット行はなし遂げられるものではなかった。河口の記録から読み取れるものは極めて桁外れの即物的思考であり。行動者の感性である。東京深川羅漢寺の一住職でありながら、仏教の原典を求めたい、学びたいの一念からインドを経て、チベット語を学習した後、チベットに潜入、ラサで一年余りも暮らし、ダライ・ラマ十三世の知遇を得る、等の河口の軌跡は、仏教者としての信仰が無ければなせる仕業ではない。しかし、その行動の本体は謂わゆる冒険家のものではないか。血を吐きながらも雪原を独人前へ進み続ける。異常な意志と強健な身体の持主の特権でもある。
ピーター・ホップカークの「チベットの潜入者たち」の中にも当然河口慧海は登場する。この書物には高名なスウェン・ヘディンをはじめとする多くの探検家、冒険家の類のラサ一番乗り競争が描かれている。
石山修武
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131 除けられた慧海 シャングリラ・ラサ・北京紀行 十五
それ故、慧海はラサ潜入の世界的レースでは番外に置き去りにされてしまう。慧海は勿論チベット行を一番乗りのレースを意識して決行したのではない。日本の山登りに初登頂なる概念そのものが存在しなかった。スポーツ登山が成立する程に山そのものが、険なものでは無かったし、登山は修験の場の延長として存在するものであった。しかし、ホップカークは歴然と慧海の大遠征を除外する。当たり前のように。だから、ヨーロッパの一部の人間は駄目人間なのだ。スポーツ登山と同様に冒険探険として見なすならば、そこには一切の差別は入り込む余地はない筈だ。スポーツの如くに把えればヨーロッパのチベット潜入者達の多くは軍人達であった。軍事行動の一環としてラサを目指した。占領と一番乗りとを同一視しながら、黄色人種仏教徒を外すという野蛮さがまかり通るのか!と言いたい。空気が薄いところで読むと誠にイラつく本なのである。
磯崎は日本人芸術家としては稀有な事に、そのスタート時から日本の外に視線を定めてきた。
それこそが彼の本格的な独自性だ。出発点から世界性に身を置き、今でも日本回帰の兆も見せぬ。しかし、それだからこそこの種の差別、区別にはイヤと言う程に立ち会ってきたであろう。NYグッゲンハイム美術館での最終のANY会議での彼のプレゼンテーションの始まりは阿弥陀来迎図であった。その時聴衆がザワザワと彼はブッディストなのかとささやき合ったのを私は目撃している。建築界なんて広くインターナショナルらしきを装っていはいるが、一皮むけばまだそんなモノなんだろう。で、磯崎も今や七十五才である。恐らく、今の境地はより深い世界性の如きモノを考究せねばと考えているに違いないのだ。ラサ行きも福岡オリンピック・プロジェクトも当然その一環なのではあるまいか。つまり、一見、明らかに無謀でしか無いこのラサ突貫旅行はその様に深読みしなくては根拠が無いのである。
この事は旅の終りに答えを得る事になるが、それはさて置き、ランドクルーザーはひた走りに走り続ける。
石山修武
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132 事件 シャングリラ・ラサ・北京紀行 十六
次第に高度も上っているようだ。チベット高原の大遊牧地帯を行く。四千メーターの高度を走る。中国軍の駐屯地らしき荒涼たる盆地に辿り着いた。昼飯時である。小さなレストランで食事。さて出発という時に事件が起きた。
同行者の空をつんざくような悲鳴が起き、磯崎の姿がランド・クルーザーの窓から消えた。明らかなドライバーの不注意で磯崎が車から振り落とされたのである。場所が平地でまだ良かった。メコン大峡谷の只中であったら・・・と思うと背筋が凍る。しかし、磯崎の身のこなし方が彼自身を救った。車輪に巻き込まれる事もなく、六メーター程車に引きずられて荒地に横転した。
生きていてくれと駆け寄る。「大丈夫です。」こうなって、こう対応して、結果、こうなりましたと冷静に説明しようとする磯崎。そんな、建築設計してる場合じゃないんだから。あわてて手分けして手持の薬と包帯で仮の処置を講ずる。ドライバーも気が動転して顔色が無い。磯崎が一番冷静だ。何者だろう磯崎とは。「さりながら、死ぬのはいつも他人なり」のデュシャンの言葉が、演技も体裁も無しで身についてしまっているのか。この人物は御当人に降りかかった事故でさえ、覚め覚めと外から観ている。
「今は、大丈夫だけれど、明日はひどい痛みが来るでしょう。打ち身、肉ばなれはそういうものです。」
徹底した観察者の眼。観察する事。自己をさえ、解析し批評の対象とする。そこから単純な主観抜きの相対的主体が作られ、同様な創る力が積み上げられている。それが磯崎の抜き差しならぬ身体の現場であり、個性だ。身体に不即不離な思考も知覚の検視鏡でまじまじと点検され続けている。
再び何事も無かった様に無謀な旅行団は先に進む。「これは石山、仲々の景色だぜ」と他人事のように磯崎。こちらは景色どころではない。何処で本格的な医者に見せようかの算段するも、ここはチベット当然よい知恵が浮かぶわけも無い。打つ手は無い。かと言って、「大丈夫ですか」を連発すればイヤがられるのも眼に視えている。黙って窓の外を見る振りするしかない。
しかし、それでも、ランドクルーザーの外の風景は凄味が増していた。磯崎のアクシデントがその気分に加速度をつけている。五千数百メーターの峠を越え、メコン支流の大峡谷に入り、数メーター迄せばまった大奔流の谷のトンネルをくぐり、銃を持った国境警備兵の検閲を受けそれでも負傷した磯崎を乗せランドクルーザーは走り続けた。
今日はもう事故は無いかも知れぬ、と思ったのも束の間。やはり、も一度来た。又も遭遇してしまった。トラブルに。道は一本である。廻り道はない。しかも平地だった。車がピタリと止まった。どうしたんだと乗り出せば道路が壊れて水がたまり、大型トラックがその泥水に埋まっている。大勢のチベッタンがその事故を取り巻いて見物している。何と、大ケガをしたばかりの磯崎まで、どうした、どうしたと嬉しそうに身を乗り出し、車の外に出る始末。この人物の本性は事件愛好者なんだと、つくづく思って空を見上げた。我々の車は一台パンクしてしまったが、何とかその泥沼アクシデントも乗り切った。ランドクルーザーは夜の闇を走り続ける。まだ今日の目的地迄は遠い。結局その日はドライバーがもう走れぬとて、とある町の旅館に泊った。疲れ切っていた。
石山修武
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