石山修武研究室 ベトナム・ダナンの計画

OSAMU ISHIYAMA LABORATORY

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2013.08.30 RENEW!

亀と山と塔1

ベトナム五行山・日本縁起

「金子兜太さんと亀と山車」についてはまたいづれ書き継ぐが、今はとりあえず脇へ置く。ダナン精神文化公園に計画中の五つの山作り計画にスライドさせたい。

五行山は昔、海に浮く五つの島であった。計画地は海底であった。その由縁を大事にしたいと考えた。

浦島太郎伝説の故郷でもあったようだ。

不老長寿の神仙思想のセンターでもあった。金子兜太さんに山車の中に収蔵して贈った亀はやはりそれなりの糸で結ばれている。

2013年4月24日

石山修武

金子兜太さんと亀と山車2

ベトナム五行山・日本縁起

4月13日日蓮宗大本山池上本門寺にて、金子兜太さんにお目にかかりました。用意していた手紙と「ベトナム五行山・日本縁起」の手作りの巻物風小帖。それに五行山の石彫りの亀の小像。その亀を収蔵する山車。総計四点を贈らせていただきました。

ベトナム・ダナン五行山にベトナム人民委員会、共産党共々、「五行山精神文化公園」を計画中です。その手始めの日本ベトナム友好文化センター(仮)内に、日本寺を作りたいとベトナムが望み、それを受けて先ず第一歩は日本寺の鐘楼をという事になりました。更には鐘楼よりも、先ずは鐘だ、となりゴーンと鳴る日本風の鐘を鋳造する事になりました。日本の意匠で、ベトナムで鋳込む方針です。

鐘には金子兜太さんの俳句を是非共鋳込みたいと考えました。我孫子真栄寺の馬場昭道住職に仲立ちしていただき、それで13日の金子兜太さんとの面会となりました。その委細は1031番の世田谷村日記を参照して下さい。

おいおい、その計画案自体もこのウェブサイトで公開します。なにしろ鐘鋳造の費用は日本側が負担しなければなりません。ならないと言うよりも金を用意して当然な事でありましょう。広大な土地も基盤整備もベトナムの負担なのですから。

それはとも角、大きな鐘を鋳造する金が必要となりました。それで事実上、4月13日の金子兜太さん面会を期して、その五行山の鐘の勧進を開始する事となりました。

良く知られるように金子兜太さんは現代俳句の第一人者です。小林一茶の研究者としても有名です。それよりも何よりも太平洋戦争でトラック諸島で米軍と闘い、多くの戦友を亡くした事が俳句作りの原点の一つやも知れません。南洋の海や島には奥深い縁があるのは間違いありません。

五行山にはすでに聖観世音大寺が在ります。そのビン住職は東日本大震災の日本の被災を共に悲しまれ世界で何処よりも早く多額の金を日本の被災地に送って下さいました。

観音は音を観るの意があります。

言葉を観るに同じです。

又、音に言葉を観るの世界だとも考えられます。それで大鐘に金子兜太さんの俳句を鋳込みたいと願ったのでした。

この文章は何を隠そう願文なのです。

五行山にて鐘の鋳造を始めます。その経過は順次報告するとして、何よりも何がしかの喜捨をお願いいたします。

2013年4月14日

石山修武

金子兜太さんと亀と山車

金子兜太

古いスケッチブックをめくっていたら、恐らく昨年だろうか我孫子・真栄寺での金子兜太講演会の際にスケッチした似顔絵が3点あった。

今、金子兜太さんは94歳である。93歳とただし書きが書き込まれているので昨年のものなのを知る。

下手な絵、下手な字なので公表するのにはばかるが、これがわたくしの現実だから記録としたら良いかも知れぬと思い付いた。

93歳のお顔である。

今、サイトのトップページの終いにONしている山口勝弘先生は確か84歳であった。兜太さんが10歳年上という事になる。磯崎新は81歳だったか。若いとしか言い様が無い。しかし、80歳をこえると人間はそれぞれの形が明々白々に表れてくるものだなと考えてしまう。若い時々の言説や思考はうたかたの夢の如くである。80歳をこえる迄生きている人間は、その人間自体がその在り方と言うべきが作品なんだと痛感してしまう。わたくしも長く生きたいものだが、こればかりは運、不運もあるから何ともしがたい。天に任せるしかない。

同じスケッチブックの初めのページの幾枚かに2012年8月の日付を入れた台北・故宮博物院でのスケッチがある。酒器や楽器の姿形にひかれて描いた。

これ等の青銅器は何と紀元前16世紀から紀元前14世紀のものらしいから、何と今から36世紀、つまり3600年程も昔のモノである。台北の故宮博物院そして上海の上海博物館でも、これの親族にお目にかかる事ができるが、言葉を失う程の感動が在る。モノそのモノの力に在る。

人間が万物にアニミズム(精霊)を感応する事ができた頃の造形物である。同じスケッチブックに電車の中で描いた見知らぬ人間達の群もある。時にハッとする程に人間の姿に感じ入る事があって、気付かれぬように素早く描いた。

金子兜太さんは俳人として有名な人である。だから描いた事もあるのだろうが、そればかりではない。アンディ・ウォーホルのマリリン・モンローやエルヴィス・プレスリーの人物像は複製されて、これも有名である。有名すなわちメディアである。我々はその有名さがより身近であるという得体の知れぬ不思議さの中に在る。でもウォーホルの絵(版画)は、確かに美しいけれど皆死んでいるような気もする。アニミズムを感じようが無い。アメリカ文化、文明の特質かなと思ったりもするが思い付きに過ぎぬ。

金子兜太さんの顔、電車の中の人々の顔、3600年程も昔の中国青銅器の姿形を一冊のスケッチブックの中に発見して、実は驚いている。安手の解釈をせぬように自分をいましめて、だけれど、考えてはみたいなあと思った。

それでサイトに並べて記録しておきたいと考えた。

2013年4月9日

石山修武

絵日記21 ベトナム・ダナン 五行山日本寺の計画

アニミズム紀行

鐘楼の丘を中心に7つの丘が直線上に連なる日本寺の初歩的な全体計画の一部である。7つの丘は段階的に造成していく予定の人工の丘である。先ず本計画の中心的な拠点として鐘楼が建つ丘を造成した後に、計画規模の拡大に併せて丘を連鎖的に造成していくことが想定される。

それぞれの丘の上には何らかの施設あるいは場所が設けられる予定であるが、今回作成したイメージにはまだその姿はない。丘の上には巨大な菩提樹が一本ずつ生い茂る姿のみを描いている。

丘群の背後にそびえるのが五行山の一つ金山である。金山の裾元には池があり、湧き水も出ていると言う。西側に見える運河の水もあわせて、五行山とともに本計画において重要な周辺環境の要素であるだろう。

2013年6月11日 佐藤研吾

絵日記20 ベトナム・ダナン 日本寺鐘楼の鐘の設計02

アニミズム紀行

ベトナム五行山の2.1m高の梵鐘に鋳込む金子兜太さんの句。

その案配には意を尽くしたい。絵日記19、20の写真には芭蕉の古池や蛙飛びこむ水の音を想定した工夫が示されているが、金子兜太の句としてはいまのところ「五百羅漢の、苔むす沢の鳴りわたる」を想定している。絵日記19、20に示された句では勿論ない。ただ、金子兜太は芭蕉のこの句によって、俳句は和歌を超えたとする歌謡、俳句の歴史に対する認識を示している。

(1183 世田谷村日記より)

130609

絵日記19 ベトナム・ダナン 日本寺鐘楼の鐘の設計01

アニミズム紀行

ベトナム・ダナン市に計画中の日本寺鐘楼に奉納する鐘のデザインを進めている。鐘には金子兜太さんの句を鋳込む予定であり、鐘楼のデザインが進むに合せて、特に句を見上げる際の仰角の検討が重要となってきた。さらに兜太さんの句の大きさと位置とも併せて鐘の特に表面装飾のデザインを変更中である。

この鐘は日本側の喜捨によって製作・奉納され、その喜捨の一部もすでにいただいている。

2013年6月9日 渡邊大志

絵日記18 ベトナム・ダナン 日本寺鐘楼の設計

アニミズム紀行

ベトナム・ダナンの五行山の麓に計画する日本寺鐘楼のプロポーションおよびその高さを検討するべくボリューム模型を作成した。内部が中空となるストゥーパより上から、屋根の頂部(屋根飾り下)まで18mである。これに、鐘を撞く場所にまで人が登るためのスロープがつく。

このモデルを基準としながら、今後早急に内部の検討、構造検討そしてプロポーションその他の洗練を進める。

2013年6月8日 佐藤研吾

絵日記17 ダナン五行山 スケッチ

アニミズム紀行

鐘楼の頂部の屋根飾りのアイデアである。

五行山は大理石、他、玉(ぎょく)の産地である。

12種の玉を螺旋状に舞い上らせるアイデアだが詳細は佐藤くんにつめてもらう。

2013年6月7日 石山修武

絵日記16 ベトナム・ダナン 日本寺鐘楼の設計

アニミズム紀行

鐘楼の大方の骨格に寸法を与えて、佐藤くんにソリッドモデル(ボリュームの)の作成を依頼する。

基盤の中空ストゥーパ(室内はギャラリー)のプロポーションがまだ不確かであるが、これを初段階のモデルとしたい。

2013年6月7日 石山修武

絵日記12 ベトナム・ダナン五行山地区

日越文化交流センター(仮)のためのエスキススケッチ02

アニミズム紀行

DANANGスケッチ02は計画地中央に建てる日本寺の鐘楼の、鐘を先ずベトナムで鋳造するべく準備を進めているのだが。その鐘が出来た時のセレモニー用の仮の鐘楼のスケッチである。

組み立て式である。

しかし、日越合同のセレモニー後には本建築用の部材として、そのまま使えるように考えたい。

2013年6月5日 石山修武

絵日記11 ベトナム・ダナン五行山地区

日越文化交流センター(仮)のためのエスキススケッチ01

アニミズム紀行

ベトナム中部ダナンの五行山に関してはおいおい述べることにする。

このエリアは実に独特な風景を持ち、仙人思想や観音信仰の発祥の地とも言われる。少し昔は海であった。

ベトナム人民委員会を介して日越友好のセンター用地を与えられ、その土地に諸複合施設を計画するわけだが、先ず最初に日本寺を開山することになった。

広いサイト全体は精神文化公園として計画されている。

ほぼ東西に1km程の土地に、7つの人工の山を築き、その山と諸施設を融合させてゆこうと考えている。

日本寺はその7つの山の中央に位置する直径100mほどの円形平面を持つ丘を中心に建設される。

これ迄断片として色々なサイトコーナーに示しては来たが、少しまとまった作業も必要となってきたので、絵日記のコーナーに断続的にスケッチ等をストックしてゆくことにする。

ダナンスケッチ01は計画の中央に位置させる人工の山と僧堂、及び鐘楼のSTUDYである。スケッチは膨大なモノになるだろうが、絵日記のコーナーにはランダムに整理しないで記録集積する。

時々少しまとめてDIARY TO THE WEST他に示したい。

2013年6月5日 石山修武

ご寄進の方法

御寄進は一口五千円とさせて下さい。

 個人法人各種団体を問わず上限はありません。

 又、御寄進の方には小さな銅板をお送りします。お名前、文字・絵他何でも書いて下さい。釘でひっかいたり、油性ペンや筆をご使用ください。ベトナムでそれを溶かし、鋳込んで梵鐘づくりの材料とします。みなさんのお気持が梵鐘となり、やがては音となり、五行山に響きわたる事になります。ちなみに観音とは「音を観る」の意があります。


みなさんにお名前や文字をお描き頂く銅板

【お払込先】

(郵便局にて払込取扱票を使用してお払込ください)

口座記号番号:00130-1-575941

加入者名:「町づくり支援センター」

一口5,000円からですが、より多くの御寄進を願いたいと思います。

・通信欄には「ベトナム五行山日本寺開山」と明記ください。

・ご依頼には、郵便番号を含むご住所とお名前を明記ください。記載されたご住所へ銅板をお送りいたします。

お問い合わせ

【まちづくり支援センター】

〒169—8555

東京都新宿区大久保3—4—1

早稲田大学創造理工学部石山修武研究室内

TEL: 03-3209-2278 Fax: 03-3209-8944

Email: osm-i@ishiyama.arch.waseda.ac.jp

梵鐘のデザイン



ベトナム・ダナン計画Ⅱ

梵鐘のデザイン

2013年7月末現在、この梵鐘の製作のための勧進作業が進んでいる。いずれ、その経過を出来る範囲内で公開していきたい。

梵鐘のデザインは生まれて初めてのことだ。色んな事を勉強せねばならないが、何段階かのプロセスを経て、今はここ迄辿り着いた。  

金子兜太さんの句をいただけるようで、それが中心になる。金子兜太持論の「アニミズム」をキーワードにデザインはすすめられた。  

梵鐘の音は西欧のベルに比べて、いかにも蔭にこもって暗い。暗いと言ってしまえば西欧かぶれの相対世界に入り込んでしまう。そこを何とか、「暗い」を「深みがある」に転化させようと努力している。ベトナムで幾つかの鐘の音を聴いた。グォーンという和風の音と少し異なりグォーンでなくて、ゴーン、あるいは少しカーンに近い。鋳造していただくのは今のところはダナンに近い古都フエのベトナム伝統の梵鐘作りの工場を予定している。  

鐘は音が生命である。姿形、施される装飾は二の次である。しかし、人間はそれ程理知的な生物ではないから、姿形、色合いによって音の感じだって微妙に受け取られ方が変わるだろう。それで、こんなデザインを施したいと考えている。  

ベトナム・ダナン五行山は観音菩薩の故郷の神話もある。観音、すなわち音を観る仏である。  

金子兜太さんの日本俳句、短型詩論は骨太な論であるが、その底に東京近郊の秩父に対する烈しい誇りがひそんでいる。今の東京につかず、離れず、見据えてやろうのスタンスである。  

その姿勢というには軽過ぎる生き方に共感して、句をお願いして、引き受けていただいた。どんな句が生まれるのか興味津々でもあり、それによってはデザインも変えなくてはならぬだろう。  

この梵鐘作りは皆さんの寄進によってまかなわれるので、無理は言わぬが、関心のある方はご参加下さることを願いたい。



御寄進はこちらへ

ベトナム・ダナン精神文化公園内日越交流センター建設、はじまりとしての五行山日本寺開山、梵鐘鋳造と鐘の鳴る丘造りへの御寄進のお願い

日本を取り巻く世界情勢、特にアジアのそれは極めて厳しいモノになりました。我々それぞれの個人の気持の状態も同様な様に考えます。

 わたくし共まちづくり支援センター(早稲田大学創造理工学部石山修武研究室事務局)はその困難さに対して、ベトナム・ダナン人民委員会と協同してベトナムに日越交流センターの設立、その第一歩として、ベトナム日本寺を人民委員会構想のダナン精神文化公園内に建立したいと着手いたしました。

 五行山はアジア地域の神仙思想発祥の地とも言われます。五行すなわち水金土火木、そして太陽と月を含む七曜、風水思想を含む広大な生命尊厳への希求の源の一つであります。

 南海の観音菩薩の生誕の地でもあり、諸神仏の集まる蓬莱山、浄土補陀落の夢の源でもあります。

 この五行山に日本寺を中心とするベトナム日本交流センターを作るのは、ベトナム政府の精神文化公園作りの考え共々、二一世紀の困難さを生きねばならぬ我々のひとつの希望とも言えましょう。日本の近未来の諸産業にとってもハノイ、ホーチミン両都市の中間部にあるダナン地区は重要なエリアになりましょう。ダナン五行山地区にはベトナム有数の聖観音大寺がすでに在ります。二〇一一年の東日本大震災に際してこの観世音寺は世界で最も早く、東日本被災地に多額の義援金を贈って下さいました。観音菩薩の慈悲の精神として当然の事だとビン住職は申しております。

人類に深く共通する不老長寿への願いは生命への尊敬への万民の願いとして共有できるでしょう。まちづくり支援センターは日本国内に於いては、ともすれば世界をローラーしようともするグローバリズムの波の狭間に落ちこぼれようとする多くの弱小諸地域の特産品作り、販売の支援を続けて参りました。

又、国外ではカンボジアの首都プノンペンのカンボジア小乗仏教大本山ウナロム寺院の境内に広島市、広島県と協同して汗をかいて作り出す平和センターでもある「ひろしまハウス」を十年がかりで建設しました。

ネパール、カトマンドゥ盆地に於いてもキルティプール・ベースキャンプ作りをトリブバン大学と共に実施してまいりました。

 さらに二〇一一年の東日本大震災に際しては、オリジナルの絵葉書の製作販売を真栄寺と共同で行ない、売り上げ八〇〇万円程を被災地に直接贈呈しました。この活動は今日現在、気仙沼・安波山(あんばさん)鎮魂の森計画、唐桑(からくわ)復興計画として続行しています。

それ等の小さな体験を踏まえながら、ベトナム・ダナン五行山日本寺開山を始めたいと思います。そのはじめの一歩として日本寺鐘楼建設、及びその要である梵鐘鋳造を始める所存であります。

 近い将来の諸施設、基盤整備建設はベトナム・ダナン市人民委員会の力を得る事になりますが、先ず日本寺の梵鐘、そして鐘楼だけは日本側で建立したいと念じております。どうぞベトナム五行山日本寺の梵鐘鋳造の資金作りに御協力下さいますよう伏してお願いいたします。

 日本円で梵鐘鋳造一二〇〇万円。小ギャラリーを含む鐘楼建設一五〇〇万円を目標としております。

 御力をいただきたい。

まちづくり支援センター代表 石山修武

真栄寺住職         馬場昭道

仏教伝道協会 会長     沼田智秀


追い追い御報告を続けますが二〇一三年四月現在、この計画のはじまりとして鐘楼の梵鐘に鋳込む気持の一つとして、日本俳句界の第一人者金子兜太さんの句を鋳込む事に御賛同いただきました。金子兜太さんは太平洋戦争に於いて南方トラック諸島に於いて少なからぬ戦友を失っておられます。

それがその後の俳句作りの原点にもなっているのではと考え、同じ南の海そして海のシルクロードで日本と結ばれてきたベトナム・ダナン五行山計画への御力をいただく事になりました。

これからも多くの方々との結縁を願いながらこの計画をすすめて参ります。その経過は御報告いたします。

四月末日 石山修武 記


詳しくはこちら
ベトナム五行山日本寺勧進帳(日本語)2013.07.29
ベトナム五行山日本寺勧進帳(English)2013.07.29


ベトナム・ダナンの計画〈20〉 

ベトナム・ダナン五行山の観世音祭及び観世音寺院の映像がベトナムから届きました。



ベトナム・ダナンの計画〈19〉 

金子兜太さんにベトナム・ダナン五行山日本寺計画を見ていただく。2

日本俳句界の第一人者であり、荒凡夫でもある金子兜太さんにベトナム・ダナン五行山地区の日越文化交流センター計画、第一期の日本寺開山プロジェクトの模型を見ていただきました。

「俺も建築やろうかな」と言っておられました。

梵鐘作りの勧進活動も始めています。追ってお知らせいたします。


ベトナム・ダナンの計画〈18〉 

金子兜太さんにベトナム・ダナン五行山日本寺計画を見ていただく。

ベトナム・ダナン五行山精神文化公園、日越文化交流センター第一期計画の日本寺開山、鐘楼計画を見ていただいた。

鐘楼の梵鐘に金子兜太さんの句を鋳込みたいと考えたから。

今秋には句をいただけることになった。

すでに何がしかの御寄進が内外より集まり始めている。

力を尽くしたい。

6月17日 石山修武

We showed Mr. Kaneko our plan of the Japanese Temple and the bell tower as the first plan of Japan Vietnam Cultural Center located in Five Elements Mountains Spiritual and Cultural Park, Da Nang, Vietnam.

Mr. Kaneko’s haiku (Japanese poem) will be engraved on the bell. The haiku will be accepted in this autumn.

Mr. Tota Kaneko is one of the most active post-war authors.

He also made a great contribution in respect to the internationalization of haiku poetry, by visiting China and some western countries to promote haiku and by establishing an international department within the Modern Haiku Association. Mr. Kaneko remains a vigorous front runner in the world of haiku.

We already have received some contribution for the construction of the bell and the bell tower.

We will do our best.

June 17th , 2013

Osamu Ishiyama

ベトナム・ダナンの計画〈17〉 

ダナン計画 日誌

ヴェトナム中部最大の都市ダナン、五行山、精神文化公園計画をダナン市、ヴェトナムダナン人民委員会と共に進めます。本日4月5日よりその計画プロセスの一部を公開します。計画の第一ステップとして日本式の鐘楼を作ることになりました。

随時報告しつつ広く皆さんの御力をいただきたいと思います。

4月5日

ダナン市人民委員会+石山修武研究室

ベトナム・ダナンの計画〈16〉 

ダナン計画のサイトは昔、海でした。沢山の船が行き来していたという風に想像します。その姿を一部再現したいと思っています。

The site for Danang Project was once an ocean. We are imaging that many ships used to come to go to this place. It is such scenery that we are trying to visualize in this project.

ベトナム・ダナンの計画〈15〉 

ベトナム・日本の友好関係及び経済的関係の象徴として、ダナン計画を進めています。まず最初のベースは海のシルクロードです。

We are working on Danang Project, a project to represent Vietnam-Japan cordial and economical relationship. The silkroad of the sea is our first base.

ベトナム・ダナンの計画〈14〉 

チャム彫刻芸術の概要

いささか猥雑なチャム彫刻の概要を述べねばならない。我々はベトナム、チャム彫刻にほとんど無知であり続けた。ダナンの計画を考え始めるに当って、最低限のベトナム史、そしてその芸術の粋であるチャム彫刻について知る努力は、ベトナムの人々への最低限のエチケットであろう。にわか仕立ての勉強で深みが無いのは自覚するが、学ぶことから始めなくてはならない。

 チャンパー王国は古代から海路(海のシルクロード)により、北は中国、東と南は南シナ海、西はマレー半島を超えてインドと接しており、その中間地点にあるという地理的要因に基づいて港市国家として発展した。それはチャム人が農耕民でもあった反面、高度な航海技術を兼ね備え、海洋や河川に強い海民(※1)でもあったためでもある。そうした港市国家としての特質がチャム芸術にも色濃く現れる。チャム芸術は、その変遷過程の中で、交易を通してアジアの様々な芸術様式を取り入れ、それらを模倣し、チャム民族固有の美と地域性を表現へと昇華させ、独自の文化を築いていった。

チャン・キー・フォン氏によると、現在最も古いと言われるチャム彫刻はクアンナム・ダナン省のドンズオン遺跡(※2)に残っている4世紀頃に造られたとされるブロンズ製の仏像であり、これは南インドのアマラーヴァティー芸術(※3)の特徴が確認されている。

 初期チャム芸術の諸作品は、東南アジアの他の芸術作品と同様に木製であったが、6世紀以降になると現存する多くのチャム彫刻に見られるように砂岩製の彫像が現れる。砂岩製の最も古い彫像はクアンナムの南、タムキーの近くフニンの川岸で発見された女神像である。さらに同様の砂岩の像がニャーチャンのポー・ナガルの寺院(※4)の本殿に収蔵されていた。それは、ナーガラージャ(ナーガ(※5)の王)であった。

7世紀以降、彫像や建築装飾の技術や様式は15世紀まで何百年もの間、継続し発展してきた。その長い様式の変遷過程の時代区分には多くの専門家が様々な様式を命名しているが、ここでは一般的な分類を以下に示す。

1. 早期チャキュウ様式(7世紀初期〜)

2. アンミー様式(8世紀初期〜)

3. ミーソンE1様式(8世紀〜9世紀)

4. ドンズオン様式(9世紀中頃〜10世紀中頃)

5. クォン・ミィ様式(10世紀初頭)

6. 晩期チャキュウ様式(10世紀末)

7. チェンダン様式(11世紀中頃〜12世紀初頭)

8. タップ・マム様式(12世紀中頃〜13世紀初頭)

9. ヤン・マム様式(14世紀中頃〜15世紀末)

10. ポー・ロメ様式(16世紀〜)

※ 1 紀元前後に古代の海のシルクロードにより海洋交易が行われていた頃、同様に日本列島では中国大陸や朝鮮半島と密接に海洋交易がなされていたことが近年明らかになっている。そして網野善彦氏の言説によると、そうした交流の中で海と深い関わりを持ちつつ、「倭人」と呼ばれる集団が形成されたという。そのため「倭人」は「日本人」と同じではなく、日本列島西部を中心とした弥生文化の担い手であり、海を越え朝鮮半島南部、中国大陸の一部にまで広がった優れた航海技術をもった人々であったと言われている。

※ 2 ドンズオンは9世紀末から10世紀初頭にかけて建設されたとされ、チャンパ王国の最大規模の伽藍を持つ大乗仏教の寺院である。碑文よりドンズオンは仏教に帰依したチャンパの歴代の王たちの崇拝の場でもあり、ミーソンのヒンドゥー聖地に並ぶ仏教の聖地であった。

※ 3 紀元前3世紀から紀元後3世紀まで存続した古代インドの王朝、サータヴァーハナ朝の下で栄えた南インドのアーンドラ美術の代表的な仏教遺跡。アマラーヴァティーは当時の南インドの仏教芸術の中心であり、欄楯(らんじゅん)や石板の浮彫は仏伝図が主体で、豊富な装飾意匠が施されている。仏伝図が北西インドのガンダーラ地方からの影響を示す一方、東南アジアの仏教芸術に影響を与えた。

※ 4  碑文に拠るとポー・ナガル寺院は8世紀以前に建立されたとされ、もとの木造の寺院は774年にジャワ人によって焼かれ、748年にはレンガと石の最初の寺院が建設された。内部にはチャンパの海民の女神であるポー・ナガル(ウマー)神が祀られている。『チャンパ遺跡 海に向かって立つ』(重枝豊著 連合出版)によると、この寺院の伽藍はチャンパの基本構成が守られておらず、海に向かって中心祠堂を配置することに重点が置かれているという。

※ 5 ナーガとはパーリ語、サンスクリット語で蛇神のことである。ヒンドゥー教の神であり、仏典にもよく引用され、水神、龍神とも言われる。『水の神ナーガ』(スメート・ジュムサイ著 西村幸夫訳 鹿島出版会)に、ナーガは水のシンボルであり、様々なかたちに変容しながら「アジアのウォーターフロント」すべての日常生活に深く浸透しているということが如実に記されている。

ベトナム・ダナンの計画〈13〉 

ベトナム古代史 概要

ベトナム北部の中国支配

中国は雲南から海に出る最短ルートとして、ベトナム北部を流れる紅河を支配することを望んでいた。つまり紅河(ホン河)デルタが西方との交易の重要な拠点となっていたわけである。 秦は、始皇帝の死後、ベトナムへの支配力が弱まりつつあった。秦代の末期に、南海部の支配者であった趙佗が独立し、今の中国の広州を首都として南越国を建国した。南越は紀元前208年に南の甌駱(あうらっく)を征服したが、秦を継いで中国の統一王朝となった漢が紀元前111年に南越国を滅ぼしたことにより、ベトナムも漢の支配下に入り、これ以後千年間、中国の支配を受けることになった。

ベトナム南部とカンボジア南部を支配した扶南王国

扶南国はメコン川下流域に一世紀頃建国した王朝である。(※1)建国説話では扶南はもともと柳葉(りゅうよう)という王女が統治しており、あるときインドの東部にあった模跌(もてつ)の国の混慎(こんてん)というバラモンが来航し、柳葉と結婚しこの国の王となった。実際には来航したインド人を土地の有力者や首長たちが自分の娘あるいは姉妹と結婚させ、混血、定住していく過程を説話風に描いたものであった。そのため扶南はインド文化が色濃く反映し、言葉もサンスクリット語が使用されヒンドゥー教が信仰された。またインドから中国へ向かう海路上(海のシルクロード)の中間に位置していたため、通商貿易の拠点となり、港市国家として繁栄した。 しかしその繁栄のため、かえって征服される危険性をはらんでいた。そして中国の分裂により貿易収入は減り始め、徐々に勢力は弱まり、550年頃にクメール族の真臘に滅ぼされてしまった。

ベトナム中部のチャンパー王国

2世紀末(196年)現在のベトナム中部のフエ地方を中心として「林邑」が建国され、インドとの交易を通じて数世紀かかってインドの文物を受け入れ、それが後にサンスクリットで「チャンパー」と呼ばれる王国となる。4世紀後半、チャーキュウ地方(現在のクアンナム省)に、バンドラヴァルマン王が登位し、ヒンドゥー教のシヴァ神バドレーシュヴァラ(王名バンドラヴァルマンとシヴァ神イーシュヴァラが合体したもの)に捧げる、チャム芸術を代表するミーソン寺院を建立した。(※2)この国も扶南同様海のシルクロードの中継地点となり、港市国家として栄えた。 7世紀には、チャンパ・ミーソンの碑文に拠るとチャンパー王国とクメール王国の交易・交流が示され、美術品などに影響があると言われている。 8世紀半ばには、ニャンチャン(現在のニントン省)、ファンラン(現在のカンホア省)と遷都し、安南都護府の衰退にともなって、中部ドンズオンに再遷都したが、隣国クメール王国の侵攻や北方の越族が建国した大越の圧迫に耐えかね、南部ヴィジャヤに千年に三度遷都した。さらに15世紀には越族の大規模な南進を許し、15世紀末には王国としての独立を失ってしまう。近年16、17世紀にチャンパーにイスラーム教徒の王がいたことからチャンパーのイスラーム化が指摘されてもいる。

チャム彫刻については次回述べることとする。

※ 1 扶南国はインドと中国の海上交易のちょうど中間地域に位置しており、近年ではローマ皇帝アントニヌス・ピウスやマルクス・アウレリウス時代の金貨や南インドのアマラーヴァティー様式の仏像、ヒンドゥー教神像などが既に紀元前後から3世紀までの間にその海路を通じて扶南国に運ばれ、それらを模倣し独自の文化を築いていたと言われる。 一方紀元前後から3世紀の日本は弥生時代、つまり先史時代である。稲作農耕が普及し、大陸から金属器がもたらされるものの、農耕を基盤とする祭祀社会であり、本格的な造像伝統は仏教が伝来する538年まで待たなければならない。

※ 2 碑文に拠ると4世紀初頭に聖地ミーソンで最初に建立された木造の寺院が二百年後にルトラヴァルマン王の統治下に大火により消失したとされる。そして7世紀初頭になり、前王の後継者であるシャンブーヴァルマンが、耐久性の強いレンガ造の寺院を再建し、ジャンブーバドレーシュヴァラを祀ったとされる。一方4世紀後半の日本では依然先史時代とされる古墳時代中期であり、伊東忠太が日本最古の建築であると述べた法隆寺は607年創建とされるので、それより数世紀前に既にベトナム古代のチャンパー王国に建築文化があったとされる。

ベトナム・ダナンの計画〈12〉 

プノンペンの国立博物館で、プレアンコールの石彫に出会い驚いた。それで博物館でのスケッチWORKの習慣が始まった。ベトナム・ダナンのチャム彫刻博物館の石彫群はプノンペンのプレアンコールに勝るとも劣らずの見事なものであった。午前中の大半の時間を博物館でのスケッチで過した。至福の時であった。

シルクロードのガンダーラ文化のギリシャと仏像との融体でもあるガンダーラ彫刻に酷似するモノもあり、最初の一室でわたくしの足は止まってしまった。博物館での様々なモノ=アイコンのスケッチをしていると、まだ言葉には出来ぬが、それを製作している職人や製作発注者の考えや手の動き、そしてその延々たる日常の生活迄もが押し寄せてくるのを感じるのである。

三月三十日 石山修武

ベトナム・ダナンの計画〈11〉 

スケッチは対象物の輪郭をペンでなぞるだけの作業であるが、なぞるという行動によって、その対象物の一部分と自分とに描画線を介した連関が生まれのである。スケッチを進め、描画線を重ねることで生まれたその連関の束こそが、スケッチにおける価値となるものであろう。(『アニミズム周辺紀行7』佐藤研吾「素描経験の束」)

ベトナム・ダナンの計画〈10〉 

敷地の後背の山である土山の風景。あぜ道で描かれたその最初のスケッチ(※)。 

※スケッチは自然物の抽象化の作業でもなければ複製でもない。作品のアウラの有無など関係なく、スケッチは例え対象の模写のつもりであったとしてもまるで違うものにしかならないのである。(『アニミズム周辺紀行7』佐藤研吾「鳥へのまなざし」)

ベトナム・ダナンの計画〈9〉 

ダナンの街角のベトナム式コーヒー屋から眺めたバイタク(バイクタクシー)のおじさん

ダナンでバイタクのおじさんに目が行くのは、以前ホーチミンの街角で、手作業でバイクを解体・修繕している風景(※)を目にした記憶が強く残っているためです。

※石山修武 『室内』2002年2月号 目ざわりデザイン 「修理修繕のない国の巻」、『セルフビルド』自分で家を建てるということ 冒頭解説を参照されたし

 

ダナンのベトナム式ラーメン屋

高校生くらいの女の子がよく働いている。カメラを向けたら笑ってくれた。

こんなに愛想が良いのは珍しい。

ベトナム・ダナンの計画〈8〉 

ダナン初日の日、街のベトナム式コーヒーショップで見た椅子

ベトナム・ダナンの計画〈7〉 ダナン・敷地にて 

ベトナム・ダナンの計画〈6〉 

奇異な風景と人間の想像力

岩石の形、樹木の枝振り、山の姿など、自然が作り出した造形物を「見立て」やアナロジー(形態的連想・言語的操作)によってではなく認識するその手法について考えている。もちろん想像力の果てを尽せば、あらゆる事象がアナロジーの発想で言いくるめられてしまうのであろうが、問題なのは、われわれの想像力には圧倒的な限りがあるということである。これはどうすることもできない。

偶然性とも言うべき、我々には想定不能な変化を自然は備えている。われわれは彼らの奔放な移り変わりを必死になぞって、認識可能な世界の中に取り込もうと様々な手段を講じる。それはアナロジーなどの言語操作による抽象化かもしれないし、写真や絵画などを媒介とした表現もあるだろう。

けれどもまずは時間をかけ熟成された自然物の有様を、ただただとスケッチする=写し取ることから向き合いたい。作品と呼ぶべきに至りもしていない、この盆景のような模型化もそうしたスケッチの一種である。そして、スケッチにおける場当たり的な選択や、一見適当かに自分でも思える不正確な輪郭線についてを、スケッチし終えた後にわざわざと考え込むことから次のスケッチは始まるだろう。

自然の中からニュルニュルと生えてくるような建築を構想するかのように、偶然に出来てしまったオリジナルとの差異の連鎖から、自然への好奇の想像を添えたい。

(佐藤研吾)

ベトナム・ダナンの計画〈5〉 

これから進めてゆくプロジェクトの東隣りにダナン五行山観世音寺がある。その寺院の祭礼の様子である。

日本で最も民衆に人気のある観音様は、少し南の東南アジアでは媽祖神と重複する。

我々の計画の中心はヴェトナム民族の博物館、図書館になるであろうが、それは信仰の広がりの中に内包されるモノになるかも知れない。

2012年1月10日 石山修武

ベトナム・ダナンの計画〈4〉 

ベトナム・ダナンの計画〈3〉 

ベトナム・ダナンの計画〈2〉 

ベトナム・ダナンの計画〈1〉