石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2014年4月より世田谷村スタジオGAYA日記

世田谷村日記 R289

3月31日

7時離床。8時世田谷村発高田馬場へ。銀行で少し計りの用を足す。10時前研究室。戸山公園の桜が八分咲きであった。明日の世田谷での花見の会は満開だろうが、生憎会場は地下のラーメン屋である。山田脩二に電話する。今日の昼に会おうとなる。

昨日3月30日のわたくしの「これからのこと」大隈講堂は小雨まじりの天候であったが盛況であった。千百人の大隈講堂に二千人程が来場して下さり、地下小講堂、別室大教室に分散して座っていただいた。不自由をさせて申し訳ない。

早朝、磯崎新さんより発熱のため会はカンベンせよとのFAXが入ったが、一昨日中に幾つかのアクシデントを想定してプログラム変更もすでに考えていたので混乱は無かった。又、第三部の平岡敬元広島市長、保坂展人世田谷区長、松崎町の森秀己、藤井晴正、鈴木敏文、気仙沼の臼井賢志さん、唐桑の佐藤和則さん、向風学校の安西直紀の話が、それぞれに大変良くって、参加者にも喜んでいただけたのではないか。安西直紀君は都知事立候補宣言までやらかしてしまうし。難波和彦さんのまとめも、要をついていた。それにつけても平岡敬氏の風格が格別であった。

第二部のJ・グライター、李祖原、栄久庵憲司、そして敬愛する老アヴァンギャルド・山口勝弘、ジャズ喫茶ベイシー店主菅原正二のスピーチも際立っていた。山口勝弘の話はまさにアヴァンギャルドの華であった。第一部の安藤忠雄の講演共々、全て勝手ながら最良の出来具合であった。わたくしへの充分過ぎる「これからのこと」の花向けであった。超満員の参会者の皆さんへのお礼共々、明日からの糧としたい。

会終了後、リーガロイヤルホテルに移り、石山研OB・OGの皆に「ありがとう」のあいさつと短い別れの言葉を贈る。明日からはわたくし「先生と呼ばれる程のバカ」ではなくなり、本来の一介の浪人となるので。

用意されたバスで浅草の飯田くんの親戚の店、十和田へ。李祖原夫妻、J・グライター夫妻、難波和彦夫妻、石山夫妻、飯田君とねぎらいの会食。これからもよろしくの乾杯。22時前終わる。グライター夫人がまだ浅草仲見世を見たことがないというので、最後に小さな夜の観光と人造桜の花見をして別れる。明日皆さんドイツ、台北へと帰る。遠くから本当にありがとう。その友情に報いるためにもこれから余程頑張るつもりだ。23時頃世田谷村に戻った。

世田谷村日記 R288

3月28日10時研究室。李祖原と久し振りの再会。

重い荷物を持参してる。C.Y.LEE大部の最新作品集である。

磯崎新、安藤忠雄、J.グライターに差上げてくれとの事。すぐに手配。昼過まで色々と話す。わたくしの近況報告も。13時近くのうどん屋で昼食。相変わらずの粗食、少食である。見習うべきだろうが仲々マネの出来ることではない。

中谷礼仁とエレベーターホールでベネチアの展示の件でいささかの話し。

疑問が氷解したわけではないが、これ以上の事は今は問うまい。問うてもすでに仕方がないし、大のおとながかまい続ける程の事ではない。

中国プロジェクトの打合わせ。アニミズム紀行5,6,7へのドローイング描き込み20冊程。アト20冊を明日やらねばならないが、ようやく先が視えてきた。

18時新宿南口味王で研究室の面々と会食。労をねぎらう。

20時解散、21時前長崎屋に寄り、ここも託児所にしたら良いと話して、世田谷村に戻る。

明けて3月29日7時前離床。日記R288を記す。

良い天気で室に陽光が差し込んでいる。明日も天気が持ちこたえてくれれば良いが。どうなりますか。

世田谷村日記 R287

3月27日昼前研究室、3月30日の「これからのこと」大隈講堂での会について相談。たしかに細かいこと迄目配りしておかぬと見苦しい事も起きかねぬと思い、細いこと迄相談するが、登壇者の胸につけるリボンは?にはまいって、そんなモノは全て無しにすれば良いと答えた。当日は天気次第で様相はだいぶん変わるであろうがカサも一切用意しないから、雨だったら全て各自用意されたい。

中国杭州満覚路上山庄計画が進んでいて、図面、模型をチェック。アニミズム紀行7,6, 15冊程にドローイングを入れる。

茶館計画のスケッチとなる。

上海より連絡あり、杭州のクライアントグループがビザの問題で少し遅れるだろうとの事。

17時研究室を発ち、18時烏山北口風々ラーメンで向山、大坪両氏と会い、4月1日の件で相談。

20時半世田谷村に戻る。

明けて3月28日、6時離床。晴れ、この天気が少し続いてくれれば良いがと30日の天気を気づかう。1000人以上の方々にイヤな想いはさせたくないから。

今日は10時に李祖原が研究室に来室の予定で9時前には世田谷村を発たねばならぬ。

しかし、李祖原もJ.グライターも義理堅く、仁義も厚い人間である。わたくしもいつかそれには応えねばならぬ。

書くのは易く、行うは難しい。

世田谷村日記 R286

3月26日12時研究室。中国杭州プロジェクト、および稲田堤星の子愛児園増築打ち合わせ。「飾りのついた家」組合作品番号108「いきものたまぐら」に関して討議。飾りのついた家の活動がようやく世間に少しは伝わっているのかと思う。石山研究室全27年の記録本の先行予約は仲々快調のようだし、アニミズム紀行合本5,6,7,8も動いている。皆の努力のお蔭だろう。

保育園の増築案、中国のプロジェクト両方に関してアイデアが浮かびそうになり、アニミズム紀行5,6,7にスケッチを描き込む。スケッチブックに描いている時間が無いので全てアニミズム紀行に記録が残ることになっている。

明日午後の打ち合わせを約して研究室を17時半去り、烏山北口風々ラーメンへ。18時半店主のオカミとデイケアセンター、託児所の件について相談する。4月から世田谷村を拠点とする活動となるので、その準備も急ピッチとなる。烏山の新友人大坪さんに電話して烏山つなぐ会の件を相談する。

大坪さんは引っ込み思案のところがあるので、もっと外に出るようにわたくしなりの妙な意地悪をしている。地元が大事なのではない、人材が大事なのだ。

20時半世田谷村に戻る。

先日、中谷礼仁氏がディレクターを務めるヴェネチア・ビエンナーレに関していささかの疑問が生じ、中谷礼仁氏にわたくしの「開拓者の家」がどういう文脈でどのように展示されるのか中谷氏にメールで尋ねた。中谷氏からはメールで説明があったが、わたしの尋ねたこととは別の説明であった。

高山建築学校も展示されると言うことだが、わたくしにも鈴木博之さんにも何の説明も連絡すらも無い。これも70年代とは異なる文脈でやるのか、それなら関係は全く無いなと放っておいた。

今日、いきなり中谷礼仁のところの助手とやらの若い人間らしきが、開拓者の家の模型の使用許可証をよこせと電話で言ってきた。

こんなガキにそんな事を言われる筋合いは無い。まだ中谷礼仁からもほとんど何の具体的な説明も受けてはいない。それでその助手とやらに中谷本人から説明を聞きたいので電話させてくれと言った。

やがて中谷礼仁から電話があり、それでもよく解らない。でもわたくしの開拓者の家の扱いは二の次で良いと、本来の大疑問であった高山建築学校の件についても尋ねた。

趙海光さんの了解を得て、鈴木博之さんの資料やらを使うとの事であった。それなら知らぬ仲ではない趙海光さんから直接話を聞きたいと述べた。

やがて趙海光氏から電話があり、連絡しないで悪かったとの事。でも鈴木博之に何の連絡もしないママで録音テープやら何やらを一方的に使うのはおかしいと伝えた。

つまらぬ事をグデグデ文句つけているのではない。何故中谷礼仁は鈴木博之に何のコンタクトもしないのかが実は根本にある。ディレクターとして当然果たさねばならぬ事ではなかったのか。仁義とは言わぬ、初歩的なエチケットに反してはいないのかと言う事だ。

初歩的なエチケットは重要なのだ。

まあ夜に電話でやり合うのも大人気ないので今夜はこれ迄として電話を切った。

今日はC.Y.LEE(李祖原)からも東京に着いたの知らせがあった。

明けて3月27日、7時過離床。昨夜の中谷礼仁、趙海光両氏との電話でのやり取りを思い起こす。

高山建築学校は校主倉田康男の旧制東京高校(一高の前身)のロマンチシズム(センチメンタリズム)の産物であった。その良さも滑稽さもそこに在った。若い頃は滑稽さばかりが眼について、その滑稽さの内にある良さに気付かなかった。今は良く解る。だからこそ生松敬三、木田元、小野二郎も寄り集った。若かった鈴木博之、わたくしも駆けつけたのだった。そのロマンチシズムは哲学でいうロマン主義とは違うと、思想史家の生松敬三は言っていた。

アルプスが視える場所でなければならないと校主倉田康男は言っていた。何言ってんだこのオヤジとガキだったわたくしはいぶかしんだ。でも今では倉田の言っていた事は少しは解るようになった。北アルプスはヒマラヤに比べれば全くケチなスケールの山岳群でしか無いのも今は知っている。

風土のスケールが思想、哲学らしきの母体の一部なのも知るまでにはなった。

しかし、北アルプスという名前までヨーロッパ、アルプスのまがいを附された山岳にもそれなりの良さは充分にあるのだ。倉田康男の教養主義も立派なものであった。

そこに集まった人々、教師も学生達も皆、いわば日本の70年代の滑稽さと純真さの入り混じった結晶の如くであった。

先日の東長寺での鈴木博之本葬での弔辞で、わたくしは鈴木を中心の律儀さと実ワ詩心の孤立とにへだたりがあったと述べた。

それがここ6年程の闘病と結局は命がけになった大きな仕事の数々を経て、完全にそのへだたりが一つになり溶融し、成熟したと述べた。

鈴木博之が何故昔、高山建築学校へといぶかしんでもいたのだが、アレは鈴木の詩心、その孤立のすでに表れであったのだ。

馬場昭道さんに電話。3月30日の会の件でお願いする。

ヨルクグライターより郵便物。スイス製のビックリする程立派な60色の色鉛筆であった。友人というのはありがたいものだ。もったいなくってこんな立派な色鉛筆使えないよ。

世田谷村日記 R285

3月25日13時研究室、すぐに中国杭州満覚路上山庄計画打合わせ。他「飾りのついた家」組合の件、3月30日の大隈講堂の、これからのことの会の件等打ち合わせる。雑多な打ち合せとなり頭の中がゴッタ煮状態となる。しかし、こういう状態は決して嫌いではない。

中国のプロジェクトにはかつてプロポーザルしたシンガポールでのプロジェクトが顔をのぞかせ始めている。面白くなりそうだ。

大隈講堂での会の準備状況を聞くうちに、昨日の鈴木博之葬儀本葬のこと、特にアレの会難波和彦は裏方の事務局として大変だったろうと思い浮かぶ。

渡邊、北園両氏が明日夜難波事務所で打ち合せときいて、しばし待てと言う。

そんな細い事迄難波さんを引張り出すのは止せと言う。

一生懸命やってくれているが、昨日の会の状態を見たってどのみち計画通りにはすすまないぞと判断。

これは難波和彦さんに直接会って、昨日のねぎらいと、3月30日の件の礼を言わねば礼を失すると気付き急遽電話して、無理矢理今晩のメシの時間を割いていただく。

19時過、新宿三丁目から南口へのエスカレーターで難波さんとバッタリ会う。お互いに忙しくて少し約束の時間に遅れていた。南口味王へ。

昨日の鈴木博之の会、そして3月30日のわたくしの会について御礼まじりのあいさつ。

「大変だったね」

「大変だった」

それ故、3月30日のわたくしの会では難波和彦の役割を軽減すべく、こうしたいと話す。

こうしたいが、そうはならぬのが現実なのはすでに知るところだが、それでも骨格だけは説明する。

昨日の会を体験するに、要するに要はしかるべき人達の初めの一歩、つまり会場、玄関口のさばき、その案内につきると判断。その役割は北園、高木両氏に任せることとした。

彼等がさばいてくれれば、全てうまく回転するだろう。

21時了。新宿南口階段下で別れ、22時前世田谷村に戻った。

3月26日7時前離床。R285を記し、馬場昭道さんに電話するも不在。坊さんは早朝から動いているな。次いで安西直紀さんに電話。3月30日の件の概要を説明。登壇者としてのスピーチを依頼する。彼は慶応義塾幼稚舎の出身でおまけに福沢諭吉精神研究会の代表でもあり、早稲田の大隈講堂に入るのは初めてで最期の事になるだろうと伝える。

世田谷村日記 R284

3月24日10時45分家内と世田谷村を発つ。新宿南口よりTAXIで東長寺へ。寺には今日の式の事務局の助けの方々がすでに多く参集していた。地下階で安藤忠雄、難波和彦両氏と会う。すでに多くの知己の方々がつめかけている。

12時半、上階本堂に上がる。池には満々と水が張られている。

廻廊に人が溢れんばかりである。難波さんは定員を超えても平気で人が来るとこぼしていたが、それどころの騒ぎではないなこれは。

13時読経始まる。何やら立派な導師の方が、妙なみの虫みたいなかぶりモノをかぶって壇上で禅宗式の儀式をとり行なった。

鈴木博之はむしろイスラムのモスクが似合うのになあと我ながら不穏なことを考えたが、誰に言うわけでもない。

大きな赤い布を巻いた棒のようなモノで空に円を描き、ケッとか叫んでいる。禅宗は少しコケおどしが多いな。

やがて弔辞となり、席を立った。マイクの前で用意の言葉を読み始める。我ながら緊張もせず、固くもならず淡々と読み切る事ができた。鈴木博之が見ているからオタオタするわけにはゆかぬのだ。終えて焼香始まる。15時過了。再び階下で小宴会。鈴木杜幾子御礼と鈴木博之の隠されたエピソードなど。葬儀委員長安藤忠雄挨拶。そして献杯。磯崎新さんに3月30日の君の会ではいかに君が家族に迷惑をかけ通しであったかを話すぞと言われる。工学院の学科長長澤さんと鈴木結さんを交えていささかの長話し。

長澤さんとは初めてゆっくりと話しができて良かった。

鈴木結さんから鈴木博之が大の吉永さゆりファンであった、つまりサユリストであった事を聞く。吉永さゆりも馬鹿にしたもんじゃないなと思う。マリリンファン、つまりモンローびいきであったりしたらもっとビックリしたのにと思うが、鈴木の晩年はモンローウォークどころか、背中もいささか曲って実に痛々しかった。背中曲がってるぞと言ったら、「仕方ないだろ」と怒っていたな。天上の世界は必ずあるが、恐らく今日あたりはすでに天上で佐藤健あたりとブチ当たって、往年のケンカ早さを復活させているのではないか。

佐藤健の禅宗の坊主よりはチョッとはマシな禅の話しなど吹かれて、それはちがうぞと言い返したりしてるんじゃああるまいか。禅宗の坊主はえらくなればなる程にイイ加減なような気がするが、禅というのは若気のいたりなのかも知れんな。若い修行僧は清々しいところがあるが、年寄りはフテブテしいだけじゃあないか。

わたくし達の年代の多くはサユリストであった。特に早稲田の学生はサユリが早稲田に来たものだからのぼせ上がる奴までいたなあ。わざわざ文学部の教室のぞきに行ったりして、勿論わたくしはフザケンナと、行かなかった。

昔から女優という存在そのものが怪しいモノを見るようで好きではなかった。

同級生に、これも又鈴木という姓の名は国定忠治、つまり鈴木忠治って男がいた。若死にしてお棺の中に三角定規やらT定規を入れたりしたらしく、それがイヤだったと別の同級生が言っていた。

この男はいかにもな建築学科の学生上りで、妙に世の中を斜視するクセがあり、ムヅカシイ事を良く知っていた。

「君、ミネルヴァのフクロウのことも知らんのか?」

とわたくしなぞをバカにしおっていた奴であったが、これが実にサユリストでもあった。

フンとえばった顔がニタニタとなり、サユリの後を追っかけていた。

意外にも鈴木という姓の男共はサユリストであると言う共通項があるのかも知れないな。

わたくしもいずれ天上界に昇ったら、その点を両鈴木に尋ねてみたいとの課題を得たのである。

それにつけても佐藤健といい、鈴木博之といい俺の友達にはつまらん姓を背負った奴ばかりだったな。ちなみに日本では一番多い姓は佐藤で二番が鈴木である。

9時隣家の向山さんより電話あり、わたくし共のアイデアそっくりな商品開発が竹中工務店と三菱樹脂化学でなされているとの事。わたくし共のアイデアはサイトにすでに大部前から垂れ流しであったので、それ位の事は想定済みではある。三菱樹脂はソーラーセルも開発しようとしているのか?16年発売というからその可能性もあるだろうが、中国、インドに勝てるのかな?

世田谷村日記 R283

3月23日8時45分あわてて世田谷村を発つ。9時45分過ぎ東急目蒲線洗足駅改札にて渡邊大志と待ち合わせ。洗足の不動産屋誠興業不動産へ。10時伊藤夫妻、建設会社スタッフと洗足のアパート引き渡し式。部屋は4つだが、そのうち2つはすでに入居者が決まり明日には入居との事。あと1つも成約との事でアッという間の入室になりそうだ。こちらでもネット広告を出そうかと準備していたけれど、準備中に完約という事になるやも知れない。最後の一室は一番大きいロフト付の室で何とか我々の手で入居者を決めたいが、不動産業のプロも並々ならぬ力を発揮するから、どうなりますか。11時過終了。伊藤宅へ。昼御飯をごちそうになる。13時過渡邊を竣工したアパートの写真撮影に現場に残し去る。

午後は明日の鈴木博之本葬の弔辞の下書きの清書に没頭する。清書のつもりがやはり大ぶん手を入れて夜23時半迄かかる。字が美しくないのはもう直そうにも直しようが無い。

明けて3月24日7時離床。昨夜書いた弔辞を声を出して読み、リハーサル。何とかなるだろう。鈴木博之らしく淡々とした形式の中にまとめたので、よもや涙声などにはなるまいと想うが、声をつまらせる位には陥るやも知れぬ。自分は良いが鈴木博之に恥をかかせるわけにはゆかぬ。

鈴木が世を去りはや1ヶ月半程になる。本当は俺が先に死んで、彼に弔辞を頼むつもりであったのだけれど、世はままならぬものである。今日はほぼ1日鈴木本葬で暮れる事になりそうだが、他は何もせずに過ごそうと考えている。

世田谷村日記 R282

3月21日10時過京王稲田堤。渡邊大志、佐藤研吾と落合う。10時15分 星の子愛児園。この保育園の周辺模型を作らせたが、どうもその模型がピンとこない。作った人間が実際のサイトを見ていないからかな。でも実際にサイトを体験して、それが土地模型に反映されるというのは実ワ大変な事なのだ。

設計の第一歩だから本当は自分でやりたいところだが正直手がまわらない。でも少し手を動かさねばと思う。出来るかな。

10時30分、理事長、園長、保育士の先生2名、我々3名の打合わせ始める。

結論を記せば、我々の提示した案は工事中に園庭を全て使えなくするので、それがうまくないとなり、根本からやり直すことになった。

しかし、その先の見通しをつけなくては動きがとれないので急遽園庭に出て検討。1年程前に作った案に近く園庭入口側に増築する事になった。厚生館グループは多くの保育園の運営、建設の体験があり、それがいざという時に底力を発揮するのだ。

大方の案を脳内につくり上げ、いざWORKに入ろうとなる。

これで最終案になってくれれば良いが、まだ少し計りの紆余曲折もあるだろう。最終予算もほぼ確定とする。

今の建設事情が計画の骨子にも反映されるだろうが、それに対応するのも我々の役割である。

12時半昼食へ。元気出してやり直そうと、うなぎをご馳走になる。

園長先生も参加。労をねぎらわれる。

14時前散会。稲田堤より烏山へ向う。

15時前、長崎屋に寄り、オバンの手作りおはぎをいただく。

設計のすすめ方について相談、大方の方針を決める。

終了後風々ラーメンへ移る。4月1日の花見の件と風々ラーメンを児童施設、あるいは老人のための施設に作り変える件についてオカミと相談。ビルの平面図他を受け取る。

世田谷区に保育園はいくらあっても、まだ足りぬのが実情である。16時半了。一人世田谷村に戻る。

明けて3月22日6時半離床。

鈴木博之本葬の弔辞を昨日より用意し始めているが、今日はそれを仕上げたい。キチンとしなくてはいけない。

今日も風は吹いているようだが、空は完全に春模様である。

9時50分弔辞書き終る。気合いが入った。弔辞に気合いを入れてどうなるものでもないけれど、盟友である。力が入るのも自然だろう。

世田谷村日記 R281

3月20日 アルチ村日記はようやくにして展開し始めた。書き終わり、12時過研究室へ。安藤忠雄さんより「3月30日、もう一杯で溢れてるらしいな」の電話あり。「安藤さんのお蔭様ですよ」「そんな事あらへん」のやり取り。宮脇愛子、山口勝弘両氏も出席との事。最前列は車椅子の席となるな。14時迄中国杭州満覚路上山庄計画チェックそしてアイデアの開発。14時よりアニミズム紀行8、10冊にドローイング。世田谷村 GAYA STUDIO 扉について。京王稲田堤の星の子愛児園増築計画進め、16時半研究室発。

17時過烏山長崎屋へ。花見の件等相談する。

18時過世田谷村に戻る。

明けて、3月21日7時半離床。日記を記し送信。

9時40分世田谷村発。京王稲田堤へ。

昨日「飾りのついた家」組合のページ展開の説明を受けほぼ満足する。

命じるは易く、為すのは難しい。肝に銘じたい。年はとっても人間はそれ程賢くなるモノに非ずだ。

昨日の雨も上がり、空は快晴だ。本格的な春到来か?

世田谷村日記 R280

3月19日 13時研究室「飾りのついた家」組合打合わせ。用意してきた「生きもの魂倉」の作品原稿を渡し、編集を依頼する。作品番号が無闇に増加するばかりが良いわけがないので重要と思われるモノは同番号内で連載形式をとることにした。細かい工夫ではあるが細部の工夫から全体が拓けることもあるのだ。106左官照明も同様に連載形式になってゆくだろう。

夜、眠れぬままにレイモンド・チャンドラーの短篇集なぞ読んでいるが、日記の文体が少し短く切れているのはそのせいだろう。アメリカ風の文体で、コンピュータには良いかも知れぬ。

多愛ないぜ、ベイビー。

中国杭州満覚路上山庄計画の打合わせ。スタッフとは完全なマンツーマンの、これは禅の師弟関係にも似たものかな。そうしなければ意匠の創作のニュアンスを伝えることはできない。しかし、ギリギリのところで弟子らしさを得たのはせめてもの救いである。

自分だけ良ければいいというものではないのだ設計、デザインは。やはりこれは小集団が良くならねばどうにもならぬ。

5冊アニミズム紀行8にドローイングを入れる。

16時半研究室を去る。

18時前、烏山南口風々ラーメン。おかみに4月1日の烏山5丁目の名残りの花見の会の相談。

長崎屋のオバンがわたしは幹事は向いてない、「コマチのママに頼めば」というのでやってきた。

「七本の老木全部に人を集めることは出来ぬので、3本位に人を張りつけられぬか」

「そうだね。人数が多い程幹事はやりやすい」

の会話があり、できるだけ多くの人間を集めることにした。

志村棟梁にも相談しなくてはならぬ。世田谷野球倶楽部の連中にも。

相談中にドサリと大きな音がした。

何だ!と見渡せば客が一人床にあお向けに倒れているではないか。

頭打ってないか、とかけ寄り引き起す。本当は安静にしていた方が良かったか。

でも大事無いようであった。酔払ったようだ。

人の振り見て我振り直せである。用心したい。

20時相談を終えて世田谷村に戻る。

明けて3月20日。8時前離床。小雨。

さえぬ天気ではあるが、そんな事は言ってられない。天気には眼を向けずにやってゆきたい。

久し振りにアルチ村日記を書きすすめることとする。

世田谷村日記 R279

3月19日8時前離床。昨夜は比較的良く眠れた。

年をとると眠るのに苦労が絶えぬの話しは良く聞かされるが自分にはそんな事はあるまいと、タカをくくっていたが、これが飛んでもない。明け方迄眠れずに、だから本を読んだりが続くのであった。

比較的に良く眠れたと言っても恐らくやはり明け方に近くになっての事なのだろう。時計は見ない事にしているので解らない。

今日は午後に打ち合わせがあるが、午前中は色々と考える事ができるので嬉しい。

新聞をとりに下に降り、ついでに庭を一周した。一周するとは少し計り大ゲサだが世田谷村の庭の中心には梅の老木があり、老木の陰に真赤な大輪の椿を咲かせる小木がある。

その赤が美しいので、その廻りをひと巡りした。

梅の木は他に何本か小木があり、それぞれ異なる色の花を咲かせている。大根の花も紫の花を咲かせていて、今の世田谷村の庭は良い。

新聞は土偶「仮面の女神」が凄いなと思ったきり。

世田谷村日記 R278

3月18日京王線、山手線と乗り継ぎ東急目蒲線洗足、坂道をいささか登り降りして洗足邨・現場。10時。

すでに左官職藤田秀幸さん他待ちかまえている。

じゃ、やろうかと壁塗り、と言うよりもほんのひとハケの塗りを5ヶ所。かねて想い描いていた通りに塗ってもらう。

今度はうまくいった。ホンの少し計りだけの手作業なのだがこの修正があるのと、ないのでは全く壁が別物なのである。

洗足随一の見事な壁となる。15分程度の速力まかせのWORKであった。これで駐車場とそれを囲む壁はOKである。

街に絵壁が立ち上がった。これでやっと建築になったな。

次に内部の左官照明の制作。

円形の既製品の砂ふるいの道具に、これも又、サッと左官職の技で色土を塗りつける。

考えていた以上のモノが出来上がった。

これは「飾りのついた家」組合の作品リストに是非付け加えたい。小一時間程で現場を去る。

12時研究室。「石山研の全仕事」の打ち合わせ。早稲田退職記念をかねた研究室での全仕事を皆がまとめてくれた。

一生懸命何かやっているなと脇目で眺めていた。

ありがたい事である。

が、張り切り過ぎて大部の分厚い本を1000部印刷にかけたらしい。

これは売り切るのには努力がいるなと、若い人の走りにいささかビックリ。

4月からの世田谷村での新しいスタジオ「GAYA」は在庫スタジオになるなと覚悟する。それも又、良いだろう。

中国満覚路上山庄計画の打ち合わせに移る。

16時京王稲田堤の星の子愛児園増築の工事参加希望の建設会社来室する。大方の説明。16時半修了。

アニミズム紀行8、10冊にドローイング描き込む。

満覚路上山庄計画のエスキス、スケッチとする。

建築のエスキスなのでいささか手間取る。

19時千歳烏山長崎屋で一服して20時半前世田谷村に戻る。

世田谷村日記 R277

3月17日、8時離床。日記276を記す。昨夜も猫がわたくしの頭を舞台に大立ち廻りしたので、どうも首の調子がおかしい。

ところが、今朝はこいつ等はあんまりいがみ合いもせずに60cmくらいの距離で寝ころんでお互いの様子を眺め合い、ほぼ眠りに落ちようとしているのである。昨日、長崎屋で近くの深大寺に猫の墓が売りに出ているのを小耳に挟んだ。いくらなのと尋ねたら、ピンからキリまでグレードがあるのだと言う。生きものの世界も死んでからが厳しいようである。

12時研究室。すぐになにはさておきアニミズム紀行8にドローイングを描き込み始める。息せき切ってやる。

15時前50冊以上の絶版書房冊子にドローイングを描き込み続ける。これはわたくしの個人史に於いても記録的な所業である。

50冊への描き込みのテーマは俳人金子兜太さんの句、「ぎらぎらの 朝日子照らす 自然かな」に触発されてのドローイングである。

意識と無意識の狭間で充二分にWORKさせていただいた。ベトナム五行山プロジェクト・大鐘デザインの骨子が、50数点のドローイング中に生まれ、そして固まった。

良い時間であった。

今日(3月17日)の日付の付いたアニミズム紀行8のドローイングはわたくしの内では画期を画するモノになった。

ドローイング作業終了後、星の子愛児園増築計画の打ち合わせに入る。16時40分迄。打ち切って研究室を発つ。17時半過千歳烏山長崎屋にて一服する。ここの一服は生活必需品の如くになっている。何の意味もないところが、わたくしにはとても良い。

19時前、長崎屋発世田谷村に戻る。

明けて3月18日、8時離床。9時前には洗足の現場へ発たねばならぬので大急ぎで昨日の日記R277を読み直し新たに附け加える。昨夜も眠れぬままに乱読を重ねたが面倒くさいので内容は記さない。必要以上に詳述したり、飛ばしたりで実に日記は個人的な世界に属するものだ。

決して客観性なぞは帯びてはいないし、その必要もあるまい。かと言ってここ迄続くともう気まぐれだけとも言えず微妙な処にさしかかっているな。

世田谷村日記 R276

3月16日10時半四谷三丁目東長寺。鈴木博之本葬の打ち合わせ。難波和彦、安藤忠雄両氏にお任せしてしまったのを遅ればせながら参加する。少し時間があったので鈴木杜幾子さんと本堂前の廻廊と池の処で会ったので、鈴木さんの漆の銘板が何処かにあるというので探してみる。やはり見付けたのは夫人の方であったが、夫人や娘さんのモノまですでにあるのには驚いた。

3年程前に用意したのだそうだ。今日は人工の池に水が張ってあり、それなりにこの近代的な寺の良さが発揮されている。この寺を鈴木博之が良しとしたのは様式は伝統を継承しながら工法は近代的なコンクリート造でという、彼の価値観に見合っていたからだろう。

地下の、と言うより1階の墓地と同フロアーの打ち合わせ室で東長寺住職、葬儀社の方々、レセプション係の方との打ち合わせに同席する。

終了後、杜幾子さんが昼食でもと、となり四谷三丁目のJAL HOTELのランチ。ワインをとも思ったが生ビールをいただく。もう一ヶ月半となるが思い出話を少しばかりの杜幾子さんから聞く博之さんの話はわたくしにとっては少しばかりの初めてのものばかりで興味津々。

鈴木博之さんには妙にさめざめと割切ったところもあったから、わたくしの知らぬ事も多いのだろうと知る。

15時前頃別れ、15時半に千歳烏山長崎屋で一人ビールを飲む。オバンとオジンとほぼ三人であった。

長崎屋のカウンターに置いてあるヒヤシンスは中華料理屋の厨房の空気にもあげずに3年目だそうだ。オジンはやたら樹、花に詳しくひと講釈あるのだが、ヒヤシンスは良く保っている。本当は路地に土があればと無念そうであるが、土が無くとも花は工夫次第で育つものだなあ。世田谷村も少しずつ工夫してみたい、と思えどこれは思うだけなのもすでに知るのである。世田谷村の梅の樹がポッキリ折れた話しやら、最近の都市の樹はやたらに折れるなの話しになる。

鈴木博之宅の庭の桜を夫人が博之の桜と名付けたという昼の話しを思い出す。しかし、鈴木には桜はどうも合わぬような気がする。

玄関脇の黄色いバラにほのかに気持を寄せていたのではないか。どうやら杜幾子夫人とはこれからも意見が色々と衝突しそうな予感もする。

大相撲が始まり、しばらくして世田谷村に戻り、横になり若い書き手の『原子力都市』を一冊読み切る。面白い視角を持つが、少し喰い足りぬ感あり、水木しげるの漫画で口直し。水木しげるの深いエロチシズムの世界を楽しむ。金子兜太と水木しげるは良く似たところがある。片やトラック諸島、片やボルネオの南洋の島々にそれぞれの原郷があるからだろう。

わたくしには原郷と呼べるような場所、処、人々が無い。

それで老いても、いまだにやたらと旅に出たがるのやも知れぬ。

世田谷村日記 R275

3月16日 8時過離床。晴れている。寒い。まだ春は来ない。今日は鈴木博之さん本葬の打ち合わせで四谷三丁目の東長寺に安藤忠雄、難波和彦両氏と、鈴木夫人との相談があり9時半には世田谷村を発つ予定。

もう鈴木博之さんが不在となって1ヶ月半にもなろうとしている。月並みだがまことに月日のたつのは駆け足の如くに速い。

光陰矢の如しである。

マレーシア航空の北京行の飛行機が連絡を断って行方不明になり一周間程が経つ。

飛行機が不明となるのと、人間が不在となるのは同じことか?

肉親他が不在となった人々の気持はどうにもやり切れぬものがあるだろう。

その意味では葬式という儀式は大事だな。

世田谷村日記 R274

3月15日 13時半洗足、洗足邨現場。左官仕事に立ち会う。駐車場の仕上げに大理石の小片埋め込みに立ち会う。最初の幾つかの埋め込みはやって見せねばならぬのだ。やって見せると言っても、現場でサンユー建設の担当者と渡邊がたたき割った大理石を投げて、これ位の感じでと位置出しをするだけである。でもこれ位の大まかさで良いのだと示さなくてはならない。

手で一つ一つ置いてゆくと手間がかかり過ぎて、しかも縮かんでしまい面白くないのだ。インド行きの間になされた二階の左官装飾をこう修正したいと、これも具体的に指示、他色出し等も見る。左官は大がかりに使う事は出来なくなっている。しかし工業製品の部分と部分の埋まり切らぬ空白に使うとまだまだ力を持つのである。16時前まで外で立ち切りで作業を見守った。左官工事は現場でつき切りで、ああだこうだが言えるので楽しいのである。しかし、寒かった。残りの仕事を任せて、去る。洗足駅迄の坂道でインドで痛めた腰がギクリギクリと鳴るのであった。

17時半烏山長崎屋。お隣りの向山さんにお目にかかる。

NPO法人の件など相談。大坪さんは花粉症とやらで欠席。

18時半切り上げて、19時前世田谷村に戻る。

金子兜太さんに御礼の手紙を午前中したためたのも記しておきたい。94才の大家への挨拶文はとても難しいが、一生懸命書いた。インドの飯田寿一さん、そして上海の趙さんにも連絡文を書いた。随分仕事をした様な気分だけれど電車内でスケッチを数枚したのが面白かった。

世田谷村日記 R273

3月14日予定を変更する。12時研究室。アニミズム紀行8へのドローイング描き込みのノルマを計算すると、どうやら3月30日迄に100冊くらいをやってのけねばならぬ。週5日をそんな時間に当てたとして1日15冊はこなさねばならないの結論に達した。ノルマとしての1日15冊はコレワきついが、何とかしなくてはなるまい。

星の児愛児園増築のエスキス、スケッチを15点程アニミズム紀行8に描き込む。こうしなくては間に合わないのだ。

13時半研究室OBの田中亮平君来室。原口陽子さんの春物マフラーを一点お買い上げいただく。

14時クライアントであった幸脇さん来室。聖書キリスト教会東京教会主任牧師、尾山清仁さんを同伴される。

鈴木博之さんに紹介されて知り合いになった東京カテドラルのネラン神父の話になり面白かった。

スケッチ描き込み後、各種打合わせをすませ15時研究室発。19時烏山長崎屋。80才〜91才までのジイさんバアさん達のオムツが手放せない話に耳を傾ける。

どうやら本格的老人になるとオムツは必需品になるらしい。何処そこのセンターの便所はキレイだとか、あのスーパーの便所、アソコは汚いの話は詳細を極めるのであった。

20時世田谷村に戻る。

深夜、わたくしの頭の上、つまり顔の上で黒ネコと白チビがいがみ合って、ヒドイ目にあった。

わたしの顔は戦場になったのだった。想像もつかないだろうと思うなあ。

3月15日8時半離床。結局朝まで黒ネコと白チビはいがみあっていた。全く冗談ではないのである。

インド、アーメダバードの飯田寿一君に手紙を書く。

KISHAN SHAH 君にもメールを打たねばならない。

わたくしもメール地獄の身になるのかなといささか不安である。

世田谷村日記 R272

3月13日

13時佐藤研吾世田谷村に来て、共に安孫子真栄寺へ向う。渋滞もあり、16時前真栄寺着。馬場昭道住職より金子兜太さん筆の大きな句をいただく。念願のモノであったので嬉しい。明日金子兜太さんに礼状を書く。ベトナム五行山の鐘楼勧進にはずみをつけたいものである。四方山話の後18時前真栄寺を辞す。途中首都高速は眼の前が視えぬ位のドシャ降りとなる。

20時過世田谷村に帰着。家内を拾い、3名で、車で少し遠い栄寿司へ。寿司を喰う。22時散会。世田谷村に戻る。

3月14日8時半離床。高曇り少し寒い。昨日に続き長澤社長と電話で話し、午前中に東京国際展示場で会うこととする。ソーラーすだれ開発のカジ取りが難しい局面を迎えそうである。

事は容易ではない。

9時半世田谷村発。

世田谷村日記 R271

3月12日、直接世田谷村から午後遅く磯崎宅へ向かおうかとも考えていたが、やっぱり研究室でやるべきをやってからにしようと11時研究室へ。すぐにアニミズム紀行8にドローイングを入れ始める。中国杭州・満覚路上山庄計画に関してメールが入り、すぐに対応し、修正案を送信。次第に煮つまってきている。

星の子愛児園増築の実施設計は佐藤研吾がやはり、当然の如くに壁にブチ当っているのを見る。まだ若いから当然の事である。

頭が働いても、身体がそれについてゆかぬのだ。身体=感覚は建築設計においては大半が経験の産物であるからなあ。

しかし、着実にコツコツ努力しているようだから恐らくは突破するであろう。彼には人に数倍するところの体験をさせているから、それを今はジックリ身体が養分にしているに違いない。

インド・グジャラート州アーメダバードのCEPT Univ. School of ArchitectureのKISHAN SHAH君より立派なArchitecture Portfolioがメールで送信されてくる。

すぐに佐藤研吾に受信したの返信をさせる。

いよいよ、インドの若い才能との交信が始まるので英文の交信コーナーをサイトにつくりたい。

そのサイトで詳細に皆さんにお知らせすることにする。

それだけの価値がある。

16時前地下鉄を乗り継いで広尾の磯崎宅へ。少し早く着きそうだったので近くの有栖川公園でベンチに一人座り休む。広尾から磯崎宅まではかなりの登り坂なのだ。

17時過磯崎宅へ。丁度先客の藤森照信との何かでの対談を終えたところであった。色んな話しがやっぱり出た。

忘れてはならじと3月30日のわたくしの早大退職シンポジウムの式次第を渡す。話しなんかさせるの止めろよと言われたが、それはならじと押し込んだり。

やはり鈴木博之が話題の中心となった。寿司と赤ワインをいただき20時頃了。

藤森さんと別れて、広尾駅へ。恵比寿から山手線新宿経由で世田谷村に21時戻った。

明けて3月13日7時半離床。昨夜は何故か明方まで眠りに落ちることが出来なかった。寝不足である。

人間は眠りだめ、つまり眠りのストックが出来ぬ低性能の身体の持主だ。これも頭と身体が切り離れていることによるのか?

世田谷村日記 R270

3月11日11時、世田谷区役所の方々2名と烏山神社社務所へ。総代の方々10名程と保育園建設の件話し合う。12時了。志村喜久男さんと渡邊、佐藤両名と長崎屋へ。烏山神社境内の通称志村稲荷について話し合う。まだサイトには未発表だが、「飾りのついた家」組合の「生きもの魂倉」の資料を差し上げる。

駅のプラットホームが眺められる細長いところ、名前は覚えられぬに移りテキーラを一杯飲んで別れた。渡邊、佐藤は川崎市役所へ。わたしは14時半に世田谷村に戻った。イヤハヤ、眠り男である。昼間からでも眠るのであった。

夜、朝日新聞の大西若人さんより電話で鈴木博之に関してのロングインタビューあり。鈴木博之不在の空白が次第に世に拡がり始めているのかなと思いたい。

明けて3月12日。そろそろインドの疲労もいえてきたようだ。8時過離床。今日は夕方磯崎新宅にうかがう予定がある。あそこは広尾の地下鉄からだいぶん坂道を登らなければならないと、先ず坂道を想い浮かべてしまうところが老人である。最近はソファーに深々と腰をおろすと立ち上がるのに脇のヒジ当てにどうしてもつかまりたいようで、これも又、年である。

しかし、朝夕の少し速力を持たせた散歩や、ましてや柔軟体操などは決してするものかとは考えているのである。

お目にかかった事はないが、チョモランマに80才で登ったという三浦雄一郎の、御本人ではないが父君が異常に元気な方であった。TVで視ただけだが年寄りなのに桁外れの大股で、しかも速く歩いて健康維持法としていた。立派だけれど老人は老人らしくジィーッとしている方が自然だよなあとあきれたりもしたのである。

アノ方も当然、自然に亡くなった。あんなに速く歩き過ぎたからかなとつまらぬ感想も持った。

わたくし自信の身体も自然におとろえている。インドから帰ってそれを急に実感する。インドのアーメダバードのある州の知事が次のインド首相の有力候補だと言う。その人は貧しい階級の生まれの人で、幼少の時は道端でチャイを売っていたそうだ。インドの人々が年を取って老人になると大半がプックラと太るようだ。女性達もサリー姿の脇腹はダブダブとシワだらけなのだ。

あれは日常的にチャイを飲み過ぎるからなのではないか。

インドで学生達や給仕して下さる方々からお茶は何にしますかと尋ねられる事が多かった。イングリッシュティーつまり紅茶にしますかどうですかと尋ねられていた。

わたくしは出来ればチャイにして下さいと必ず答えた。だって好きなんだから。そうすると相手は顔を必ずほころばせるのであった。

つまり紅茶はインド本来の飲み物ではなくって、イギリスの、つまりは植民地時代の宗主国の飲み物であり、チャイはインド本来の民族的飲み物であるのを彼等は知っているなと思った。

チャイは大きな鍋にどっぷりと茶と砂糖を入れて煮上げて、トップリと作られる。小さな器で少しずつ作っていたのでは間に合わぬのだ。

それ位路傍で大量に飲まれている。が、何しろ砂糖の味がモロにする位に甘い。反ダイエットの飲み物なのである。

しかし、あの飲み物はインドの気候にピッタリのもので、寒い日本には合わぬ。

『紅茶を受け皿で』という小野二郎の本があった。晶文社から出ていた。

イギリスのリバプール等の労働者の紅茶の飲み方を書いた本であった。ジョージ・オーウェル等を確かに引きながら、イギリスの労働者達がそこらのお茶屋で、つまりは路上でチョッとお茶を飲る時は、たっぷり受け皿にまで紅茶を溢れさせて注がせ、その受け皿のお茶を飲むのが楽しみなのだの説を説いていた。

小野二郎はなんと42才で死んでしまった。それと比べると、鈴木博之の68才は、キチンとやるべき仕事をまっとうしたなあの感もある。

朝の光の中で何するでも無く無為の時を過ごしているけれど、出来得れば小野二郎、鈴木博之とアーメダバードのオールドタウンの金曜モスク前のチャイ屋でチャイを飲りながら、イギリスとは何者であるのかの話しをしてみたかった。

世田谷村日記 R269

3月11日6時半チョイ前離床。娘がオランダへ行くので早起きに附合った。昨夜は以前は受け付けなかった養老孟司、森毅を半分眠りながら読んでいたら、意外に面白くって一冊全部読み終んでしまった。

この気取りの無さは中沢新一の『蜜に流れる博士』には無いな。

要するに意識と無意識の際について語り合っている本である。脳の微細極まる構造は意識の、つまり論理的と言われている世界に属するモノで集積しているのではない。首と体が切り離されている如くに頭と下半身は実は切り離されていると言う説明が面白かった。

三島由紀夫の生首バッサリの話が例えに出されていて妙に解りやすいのであった。

又、全共闘、連合赤軍浅間山荘事件、そしてオウム真理教事件が一連のモノとして語られていて興味深い。

小浜逸郎のオウム、全共闘、白樺派つまり身体、教条的理想の小歴史と似てはいるが、反白樺派つまりはリアリストとも言えよう、二人の論者が説いているところが面白いのである。

6時半に離床する前、30分程3月30日の退職シンポジウム「これからのこと」で話すべき大筋を決めた。

やはり、真正面から早稲田建築のこれからのことを話すべきだろう。

折角ドイツからグライター、台湾から李祖原と二人の友人も来日してくれるので、何故そのような人脈が生まれたのかを話しておかねばならぬだろう。

鈴木博之がなくなり、とても大事な人物が不在のシンポジウムとなるが、それだけにその不在をわたくしなりに意識して、キチンと話せたら良いと考えた。

折角多くの人々が来て下さるようなので、わかりやすく面白い話しを提供したい。

どう面白いかと言うならば、初めに安藤忠雄が話してくれて、次に磯崎新が話す予定だが、その間にわたくしが割って入ってグライターと李祖原の話をしながら世界の事を話せるかと考えたのである。

早稲田での最後のレクチャーだと思ってガチンコでやるつもり。

今朝は11時に隣りの烏山神社で神社の氏子総会がある。

世田谷区役所からも人が来て、保育園作りの相談の会となる。

世田谷区は日本で一番の都市内待機児童、つまり保育園に行く事が出来ぬ児童が多い処である。それを何とか少しでも解決の方向へ向けて動こうではないかの会でもあるのでキチンと少しでも機能したいと考えている。

只今、8時だ。日記268、269をようやく記し終る。

次は「飾りのついた家」組合日誌70を書くつもりだが、あんまり朝に書き過ぎると夜眠れなくなるのも知る身なので、身体には書かぬ方が良いのだけれど、頭脳と下半身つまり身体は切り離れているそうだから、マア、いいか?

世田谷村日記 R268

3月10日11時研究室。打合わせ。伊藤アパートは名称をクライアントが「洗足邨」とした。その「洗足邨」の家賃を「飾りのついた家」組合の作品リストにUPする件。ナーランダ大学の件。そして星の子愛児園増築の件が議題。他に「生きもの魂倉」犬バージョンのモデルを検討する。これはまだ学生の藤森にやらせているので、マア遅々たるペースだが、もしかしたら育つかも知れぬと考えての抜擢である。まだとても建築にはタッチさせるわけにはゆかぬのは当然の事である。学生はクライアントが何者かであるかを知らぬし、余りにも無知だ。毎日顔くらい洗い直しておきなさい位の者である。まあ率直なのが取得だ。西本願寺にナーランダの件送信して修了。

アニミズム紀行8、10冊にドローイングを入れる。そろそろ予約して下さった読者の手許に届き始めているのかな。便りはまだない。

わたくしの早大退職記念の「石山研全仕事」の分厚い私家本を1000冊印刷すると聞いてビックリ。1冊5000円だと言う。先日、やっとあと書きに代えてを書き終えたばかりのものだ。せいぜい500冊くらいにしといたらと告げる。大隈講堂の教職引退シンポジウムには1000人以上の人が参集して下さるそうで嬉しいけれど、1000人が皆教職引退本を買ってくれるとはとても思えない。

わたくしとしてはアニミズム紀行5、6、7、8号を買い上げていただきたいと考えてはいる。終わった事も大事だが、明日の事はもっと大事だ。

この辺りが鈴木博之の考えの深さに届いていないところだろう。

残念だが日々の暮しの建築稼業だ仕方ない。

15時半研究室を去り、千歳烏山へ。16時半長崎屋で一服するもやはり飲みモノ、食いモノ共に身体が受けつけない。なにしろ油が合わなくなっている。

インドで気持と身体が脳より早く浄化されたのであろうか?

とすると人間の身体は単純な浄化槽みたいなモノでもあろうか?

口から食いモノを放り込んで、ケツの穴から排泄するという一連の管のようなものだからな。

そして意識はクソをコントロール出来ぬ。便秘の時は出ないし、下りの時はジャブジャブ出る。それを調整できないのである。

「アラ、もうお帰りですか、どこか体悪いの?」の長崎屋のオバンの声を背に、

「イヤ、疲れてるだけなんだ」と小声で。まさか、ここの油が身体に合わぬとは言えぬのが、わたくしの気弱いところなのだ。

世田谷村に戻り、すぐ横になる。中国、インドから帰り10日程にもなろうというのにまだ体調は元に戻らない。もう長旅をする身体力が備わっていないのやも知れぬ。

夜、水木しげるの『日本奇人伝』をめくっていたら二笑亭主人が登場している。

ヒトラーはヒトラー伝記を水木本で読んで、活字本より余程ヒトラーを知る事が出来たが、二笑亭もその気配がある。ただ水木さんは二笑亭の実物へのイメージがいささか散漫で迫力が無いような気がした。

生意気を言うが二笑亭は毛綱モン太との『異形の建築』の出発点でもあったから、少し計りモノ申す権利くらいはあるのだ。

養老孟司+森毅の『寄り道して考える』を読みながら深夜いつのまにか眠った。

世田谷村日記 R267

3月9日9時前、世田谷村を発つ。新宿より山手線目黒から東急目黒線で洗足へ。

東急線で洗足に降りそこね、一駅戻ろうとしたら急行で洗足には止まらずで、馬鹿な手間をかけてしまった。約束の時間を15分程遅れて伊藤アパートの現場到着。すでに不動産屋、工務店等の方々が15名程路上に集まっている。伊藤アパートは小さな4戸の賃貸しアパートである。

この設計に関しては地元の工務店の力を使うのが理の当然と考えた。無理をしてまで1個の作品として仕立て上げる迄はしない方が良いと考えた。

それで実施設計は工務店にゆだねた。わたくし共はデザイン監理という立場とした。しかし全てをゆだねたわけではなく、賃貸しアパートの家賃が少しでも高くなるようなポイントとして、道路に面したファサードとも言うべき駐車場に面した壁はキチンとデザインした。道路に直交した壁はこの小さなアパートが街角に占める、言わば最大のポイントである。

そこを新建材を多用しつつも、左官仕上げとして色鮮やかに仕上げた。

又、道路に面した2戸はインテリアにも意を尽した。他の2戸はこの周辺の標準的な仕様の中に納め、工務店の経験、識見に任せた。

さて、仕上がりだが、微妙なところで気に入らぬ。

それ故、半日左官を呼んで手直しを命ずる事となった。

この街角に立てた壁が無ければ、わたくしは0(ゼロ)である。

指示を終えて、近くの誠興不動産本社へ。

山田社長、以下の面々と賃貸しの値段について相談する。

終了後、伊藤邸で昼食をごちそうになる。

カレーが出たのでギクリとしたが、いかにも日本風のカレーであったので美味であった。ワインもいただき、談笑する。

14時迄。帰りは「飾りのついた家」組合の中村未歩さんと目黒迄一緒に帰る。中村さんの作品は4点、今度の建築の重要な壁に取り付けることになるのだ。

15時世田谷村に戻り、横になり休む。

夕方、磯崎新さんと3月30日の件で話したいと思ったが、どうやら留守のようでFAXを送信させていただいた。

なにやかやと考えてはいたけれど、今日、ほぼ完成の伊藤アパートを実見して、これは「飾りのついた家」組合の作品録に公表し、なおかつ、テナント(賃借り希望者)をわたくし共も不動産屋と並行する形で実施してみようと決める。

明日3月10日、ミーティングにかけ、伊藤さんにも御連絡して実行に移したい。

世田谷村日記 R266

3月8日13時、烏山区民センター前広場。藤森他研究室の面々が大テントの中に小さな店を出していた。「飾りのついた家」組合の作品販売をやっていた。

市根井立志さんの作品を中心に並べている。何点か売れたようだ。

やがて佐藤と共に近くの風々ラーメンへ。久し振りのトンコツラーメン、ギョーザを食す。大坪さん現われる。組合作品一点お買い上げとの事。14時半席を移そうと、南口へ。

風々ラーメンのおかみさんから色んな話を聞けて良かった。

南口の駅プラットホームに面した長々しい小洒落た店。小洒落た店故に小洒落た子供達がたむろして、漫画読んでいる。大坪好みなんだな、かくなる植民地風文化の浅瀬は。しかし2階の窓から烏山駅のプラットホームの人の群が眺められて面白い。

佐藤に世田谷村の書庫、1、2階の改造の件を相談し、素早く設計してくれるように依頼。4月からの仕事場である。地下、1階、2階、を合わせると40坪になり、大きくもあるが当初は大き過ぎるので地下使用は将来の事として、始まりは父親の書庫として増築した未完の増築部分、つまり地上階を使用することとした。

1階にビニールハウスを作る案は家族の反対もありあきらめることとした。

16時半メキシコのコロナビール、テキーラをチビリとやって皆さんと別れる。

世田谷村に戻り、横になって読書。結局インドで1枚も読まなかった中沢新一の『蜜の流れる博士』、南方熊楠に関する断片本を読む。中沢新一の才人振りはインドでは鼻について読めなかったが、重い本を折角持っていったのにという残念さがあり東京で読む始末である。

20時夜食をいただき、後読書続行、24時過眠った。

3月9日

7時半離床。日記を記す。今朝は日曜日だが、洗足の伊藤アパートが完成し内覧会、および家賃の決定に立ち会うので9時前に世田谷村を発つ予定。

建築の壁の一部にチョッとした試みをしたので、それは見てみたい。

左官職人がうまくやってくれたとは思うが。

この建築は意図的に地元品川のミドルクラスの工務店との協同とした。

だから純然たる作品と呼べるモノではないが、協同することに意は尽した。

その方がクライアントの利益になると判断したからだが、我々のエネルギーも空廻りをしないで済んだ。

時に住宅設計は非作品を目指した方が合理的であるのは自明の理でもあろう。街角に彩色した壁を一枚、立てたと言うのが実感である。

今朝は不動産屋と会い、1円でも高く家賃を設定するのが役割となる。

世田谷村日記 ある種族へR265

3月7日11時、研究室で打ち合わせ。杭州プロジェクト、星の子愛児園増築の2件。杭州満覚路上山庄計画は中国での打ち合わせを反映した第三次案をチェクする。クライアントの意向もほぼまとまってきたようである。星の子愛児園増築はわたくし共が設計監理した旧棟のリノベーションを含む3階建の増築であり、リノベーション部分が非常にややこしく法規他がからんでいるので、これは渡邊大志担当とする。

増築部分は佐藤研吾に挑戦させ、わたくしが現場を見る事になろう。世田谷村から近いので現場監理は容易である。

100坪弱の規模であり、佐藤の初体験には丁度良かろうが、クライアントの厳しさも同時に体験させねばならない。指示が一段落したところで、アニミズム紀行8に満覚路上山庄計画のドローイングを描き始め、同時に自身の頭を計画の中に連れ込む如き作業をする。とても面白い。

13時、世田谷区役児童保育課の方々3名来客。

世田谷区での計画についてのすり合わせ。

順調に進行すれば良いが、まだ何があるか解らないから慎重に進めたい。

アニミズム紀行8へのドローイングは自然に「いきもの魂倉」犬バージョンのスケッチとなり、これは速力が増しはかどった。総計15冊程にドローイングを描き込む。

16時中国の計画を再びチェック、ほぼまとめて上海へメール送信する。

15時半研究室を3名で出て、京王稲田堤へ向かう。

16時半京王稲田堤・厚生館にて近藤理事長にお目にかかる。

星の子愛児園増築世田谷の物件の2件打ち合わせ。

17時半JR稲田堤駅近くの魚料理屋で理事長親子、佐藤と会食。インド他の報告もかねる。

理事長親子とのお附合も実に長いモノになってきたなあ。

大事にしなくてはならない。

インドで何となく食べたかった、ここのウナ重が出て嬉しいのであった。

想えばインドは粗食であったような気がするが、カレー味ずくめにまだ慣れていないからであろう。

イヤハヤ、インドは何しろ言うまでもなく全部カレー味であった。

サンドイッチとチャイだけがそれから逃れる道であった。

インド人の一般的な頭の良さはカレーの刺激が作りだしているのかなあ。

20時頃会食了。理事長親子とお別れして京王線稲田堤へ。烏山で佐藤と別れ20時半世田谷村に戻る。

3月8日9時離床。そういえば昨日は朝方、ネコの石森さんの事が気になって自宅を訪ねたが、何と真赤な顔で現れ「カゼにやられました」との事であった。

何度ケータイに電話してもつながらず、いぶかしんでいた。インドみやげの華やかな布地を手渡す。

今日は午前中に佐藤他研究室の連中が烏山区民センター前で何やらパフォーマンスに参加すると言っていたから、11時頃出かけてみるつもりだ。

安西直紀さんが20日に我孫子・真栄寺に挨拶に出かけたいとのFAXが入ったので真栄寺に電話したら18日〜24日迄はお彼岸で何かと忙しいとの事。やはり寺にはお彼岸という特殊な時、異次元の時が在る。それは尊重すべきであろう。

10時半に電話してみたら、すでに佐藤はセンター前に居て、何やら、恐らくは手持ち無沙汰でいるのであろう。

しかし若いナア。全く無駄な時間とも思える時間に自らを置くのはわたくしも若い時の常であったが。

そんな時も又、お彼岸と同じに魔の刻なのであろう。

20代はそんな時間の連続である。

世田谷村日記 ある種族へR264

3月6日11時半研究室打合わせ。アニミズム紀行8ドローイング入れながらの杭州プロジェクトスケッチ。10冊。石山研製作「これからのこと」石山全仕事の大冊へあとがきに代えて10枚執筆。16時半研究室を発ち烏山地区へ。向山一夫さんといきものの魂れ倉(飾りのついた家組合)他の打合わせ。19時半了。世田谷村に戻る。ようやく体調が戻りつつある。

3月7日8時過離床。青空が拡がるが薄く雲もゆっくりと流れている。昨日は研究室のOBも交えた諸君が作ってくれた大冊の石山研全仕事の、あとがきをようやく書いた。あとがきを後向きに書くのに向いてはいない性格なので、やはりこれからの事を少し気分にまかせて書いた。いつまでたっても悲観的になれない自分が居るのを自覚して、もうこの性格を修正するのは無理なのを知る。

今日は色々な打合わせが続き目まぐるしい一日になりそうだけど何とか乗り切りたい。コツコツと『アニミズム周辺紀行8』にもドローイングを入れ続けたい。空想妄想の類ではなくって、建築のプロジェクトのエスキスになってしまっているのが、時間に追われている今の自分を良く表している。

あんまり追われ過ぎても、それを乗り切る体力、知力は無いのはすでに知るが、あんまり追われなくとも妄想三昧になり過ぎる自分もすでに知っている。

創作ってのは難しいものである。

9時45分「飾りのついた家」組合日誌68「再び難波和彦の卓上帽子掛けについて」を書き上げる。

作品録90の下に出ている小さな写真がとても良くって、それに触発されて書いた。この卓上帽子掛けの真上からの写真は難波和彦のトレードマークとして使われても良い位のものである。 

世田谷村日記 ある種族へR263

3月6日8時前離床。少し計り普通の朝方に床を離れられるようにはなった。しかし昨夜は21時には眠りに入っていたのだから、睡眠時間は12時間になんなんとしている。中国、インド行の疲れがカゼを引き起こし、セキが止まらないのである。昨日3月5日は結局来客もないので研究室は休ませてもらった。世田谷村で沈没していた。実に手持ち無沙汰であったが楽な一日であった。

仕事と言えば「飾りのついた家」組合日誌に難波和彦さんの帽子置きの作品評をいささか書いた位か。

今朝はグズついていた雨も上がり、3月にはまだ冷たい風が吹いているが、空は弥生の模様である。昨日沈没してしまったので、今日はどうしても出掛けなくてはならない。中国の件、他打合わせが約束されている。

北の窓から烏山神社の森が視えている。クスの樹の大木やらが風にうごめいている。眺めていると東京の森は温暖化が叫ばれているが、地球上ではやっぱり北方のモンスーン地帯に属するのだなと痛感する。黒いのである。

インドでNEEM TREE の樹蔭を体験したからだ。あの樹蔭の空気の感じは全く日本には無いモノである。ジャワ更紗の如くと言うが、まさにヒンドゥーの女性方のサリーの揺らぎと、軽やかさの蔭と言って良かった。樹蔭に横になっていると風が身体を柔らかく包み流れるのであった。白く光るのであった。

一昨日、早々とインドから通信が入っていた。今日は一つだけでも返信を打ちたい。

世田谷村日記 ある種族へR262

3月4日14時研究室。北園徹、柳本康城、渡邊大志他がより集まり3月30日の大隈講堂での早大退職記念シンポジウム『これからのこと』の打合わせするのに附合った。だいぶ多くの方々が集まって下さるようなので、裏方は大変なのである。その打合わせを聞きながら脇で絶版書房『アンミズム周辺紀行8』にいよいよドローイングを入れ始める。題材としては先ずは中国杭州のプロジェクトのスケッチとした。計5冊にドローイングを入れる。計画の一部のスケッチ作業も兼ねた。そうせざるを得ぬ。一日5冊が今のところは限度である。

中国、インドの疲れはいまだに抜けず、セキも止まらない。少々張り切り過ぎた。まだ年相応という事が出来ていない。

16時半、北園、柳本両氏と新宿南口長野屋食堂へ。インドで喰べたかったモノを食す。インド、中国の話を両君と。食堂のオカミから貰いモノをする。18時半世田谷村帰着。すぐ横になり休む。

3月5日

やはり眠り過ぎのようで、4時半に離床してしまう。まだ当然外は暗い。何をするでもなく日記を書く。しばらくして再び休む。

11時過再離床。曇天。日本に帰って青空を視ていない。

インド、アーメダバードのオールド・タウンの喧騒を想い出す。この世田谷村の静寂ばかりではなく、電車や新宿を歩いて横切る時のこれも又、冷え切った如くの空気から考えると、まるで異なる世界ではあった。

アレの元はオートリキシャでの地元の人ならチャイ一杯程度のルピーによる移動にあるのではなかろうか。オートリキシャは人間が走るのよりも少し更に速い位の速力で旧市街を走り廻る。人々の足代りなのである。旧市街は近代化の中で異常に膨らみ、変化してきた。その拡大は人間の足では歩ききれる範囲ではない。そのぶんにオートリキシャが入り込んだ。都市交通としたら、ガソリンなのかより粗悪な燃料なのかは知らぬが高密度の都市では理想的な乗物である。バンコクのパタパタ程のキャパシティは無いが、三人は乗れる。事故は勿論多いのだろうが、死亡事故はそれ程のことはあるまい。なにしろ速力が遅い。日本の都市に普及させるのはドライバーの許認可の点のみで難しい。

しかし、伊豆松崎町で市役所職員が人力二輪車を引いて観光地を巡ったように、地方都市の観光には最適なのではないか。

あのビャアーというエンジン音も心地良いし、何しろ安価である。日本円で見当をつければ大体100円ぐらいではないか。チョッと駅まで、チョッと保育園まで、100円という案配である。

世田谷区なんかにも最適ではあるまいか。歩ける都市を目指すべきであろうけれど、どうしても歩けないエリアが出現してしまう。一人の人間には。

それを駅前や、バスだまり、タクシーだまりにオートリキシャ(電気自動車がやはり望ましかろう。今もとまらぬ、わたくしのセキはオートリキシャの排ガスに因があるやも知れぬ)を集めておいて人々の用の足しにするのはどうか。

タクシーにとっては打撃になるだろうが、日本のタクシー料金はアレは高過ぎる。一人で乗るモノではない。バス料金の半額で相乗りOK、何処でも行けるとなるとこれはオートリキシャの醸し出すうるささはさておいて価値はあるだろう。しかし、あのうるささだって斜陽の国になるだろう日本にとっては、特に地方都市にとっては昼間の花火の空しさには無い活力を産み出せるのではなかろうかと、インドを懐かしむのである。

世田谷村日記 ある種族へR261

3月3日は15時に研究室。20時迄打合わせ。

06星の子愛児園増築、10世田谷計画−①保育園、17京都西本願寺、18ナーランダ大学、19「飾りのついた家」組合、20中国杭州の計画、21インドworkshop、22ソーラーすだれ、に関して討議。大方の方針を決める。

20時半新宿南口味王にて渡邊、佐藤と打合わせ続行。

22時了。世田谷村帰り23時過であった。

3月4日、12時離床。まだまだ眠りたいが起きた。

陽光射し込み暖かい。

難波和彦さんに電話。氏の帽子置きの完成品が石山研に送られてきて、仲々出来が良いので、難波さんに「飾りのついた家」組合の作品録に一筆書いていただきたい旨連絡する。

今日は14時に研究室にチョッとした打合わせがあり、出掛ける。

世田谷村日記 ある種族へR260

3月2日

昨日3月1日は13時過大隈講堂へ。修士論文、設計の公開講評。

修了後、各賞審査会。わたくしはそこで抜ける。23時世田谷村に戻り休む。

本日3月2日は13時過迄眠った。電話その他で何度も起こそうとしたが、遂に起きなかったそうである。

やっぱり日本は寒い。留守中のことは一切知らぬが、再びの大雪だったようだ。

17時過長崎屋へ。おばん、向山、大坪諸氏へ小さなおみやげを渡す。

久し振りの長崎屋の料理は身体が受けつけなかった。疲れで身体が斜めにかしぐ風もあり早々に退散する。18時半早々と横になり休む。

3月3日

11時離床。どうやら14時間と少し計り眠り続けたようだ。チビ白の子猫がフトンにもぐり込んできて鼻をかじったりするので目覚めた。こ奴はどうやらわたくしが帰ったのを喜んでいるようだが、黒デカは歓迎の素振りも見せぬ。

可愛げが無いことおびただしい。

11時半、難波和彦さんに電話して、留守中の鈴木博之本葬事務局の仕事への礼を述べる。

今日は昼過ぎに研究室へ。

世田谷村日記 ある種族へR259

3月1日

7時過離床と思っていたら、時計がまだ香港時間のまんまで実ワ8時過であった。

世田谷村の庭の梅の花が満開で見事である。ホオジロが10羽以上群れ集まって梅の芽をついばんでいる。花と鳥の動きの対比が面白い。この景色にもエネルギーがあるな。いかにも日本的な美の世界ではあるが。

馬場昭道さんに中国・インドから帰った旨、他報告。西本願寺の佐々木さんに来週はじめに、ナーランダの件等を報告する旨も伝えていただく手配。

金子兜太さんの句も近日中にいただきに上がらねばならない。

今日は10時から終日大隈講堂で学部の卒計、修士論文・計画の発表と講評会があるが、午前中の学部生の部は休ませていただく。

午後からの修士の部は出席する予定。先月、23、24日両日のインドでのKurula VarKey Design Forum 及び25日のMS University of Baroda そして2月27日のBaroda Design Academy でのインド、他アジアの学生諸君の力量をつぶさに見聞し、実感したばかりなので、これはどうしても比較して眺めてしまうであろう。

インドは中心的な建築教育はやはり日本同様にと言うべきか、少し異なるかも知れぬがパリ時代のル・コルビュジエの影響が大であった。

ドーシがその中心である。日本で言えば、前川、坂倉、吉阪という事になろう。

ドーシの建築家としての見識がその周りにある種の建築的空気を作り出し続け、それがインド独特の近代建築を作り続けてきた。

早稲田建築にもそれに似た歴史があった。

そんな歴史が次第に崩れてゆく、今日はその幕切れのような気もするな。

上海・インド日記 30

2月28日香港空港、15:20分塔機。キャセイパシフィックNRT便。当然の事ではあるが、ゲート周辺、機内の大半は日本人となる。

若い人や、多分香港買い物ツアーの類なんだろう、団体のオバさん達が異常に多い。イヤな事を言うが、実に皆品格らしきが一切無い。

かなりの時間をインド中西部地域の地方都市で、多くのインドの人々と暮らしてきたので、その風貌仕種等には随分慣れた。

日本のオバさん達の服装は皆かなり派手で、何かのファッション誌から抜け出た如くである。ピカリと光りモノも多い。

これが実に似合わぬ。そして、インドの人々と比較していささかみにくいのである。40才過ぎたら自分の顔には自分で責任をとれとはよく言われる。

その伝で言えば、ここに集り、巨大な飛行機に満載されようとしている日本人の大半は、どうひいき眼に視ても非常に下品である。TVのお笑い番組のスタジオにしゃしゃり出てきてゲヒゲヒ笑っている、そのまんまなのである。

勿論インドのホテルのレストランで放映されているインド・ダンスと唄のポルノと見まがうような大衆文化はある。あれはエロいストリップショーが露出されているようではあるが、がしかし人々の大半は朝な夕なにはヒンドゥー寺院に詣でているようだし、出掛けなくともヒンドゥーの信仰は生きているのは知れる。

イスラムのモスクは男性だけの祈りの場所だが、これも又明らかに日本の神社仏閣とは異なる。要するに何者かが生きているのである。何者かとは神なのである。

シヴァ神のみならず、長い鼻のモンスター、名前を度忘れしてしまったがアイツも生きていた。

モスクにはコーランを唱える人々が集い続けている。

要するにインドの都市はニュータウンをも含めて宗教都市なのである。

日本の仏教寺院は大半が死んで枯れている。

あるのは一部の坊主を除いての、葬式仏教の営利だけである。

馬場昭道が顕在化してしまう様では日本の寺院の将来は一切ない。一人の個人の努力は空しくもある。やがて飛行機は買い物ツアーのババア達を満載して成田に着陸する。成田は昭道の真栄寺に間近である。駆けつけて浄土真宗をヒンドゥー教に改革せよと大馬鹿を言い放ってみたい気もするが、昭道さんも痛感しているに違いないのだが、日本仏教は今や末路である。墓石、戒名商売だけが品格もなく団体の買物ツアーのオバさん達の風雅無き物欲の如くに世にまかり通るばかりなのである。

機内放送があり、間もなく成田に到着するようだ。

実に良い旅であった。中国杭州の人達、そしてインド、アーメダバード、バローダ、そしてバローダ・デザインアカデミーの学生諸君、先生方に感謝して、この日記を終ることにしたい。

明日からは世田谷村日記にもどる。

上海・インド日記 29

2月28日10時、香港空港内のレストランで腰かけている。

未だNRT便までは4時間以上待たねばならない。セキがかなり本格的なものになっていて、いささか不調だ。昨日はボンベイ空港の乗り継ぎにビックリした。Jet Airwaysローカル便から国際便に乗り継ぐのに何と一度空港を出てTAXIに乗らねばならない。まことに古いスタイルの雲助TAXIやら自称ガイドが空港出口にたむろしている。

かいくぐってまともな、手配師抜きのTAXIに乗り込み4km程も離れている国際線ターミナルへ。何日も前に上海から到着したまあ馴染みのターミナルである。何の感慨もない。何時間飛んだのだろう。

腰が痛くて、何とまあ座席からズリ落ちて(自分で)床にうずくまって座席を抱いて、それでも少し眠ったようである。

ボンベイ・香港便は超満員で大型の777は人で溢れ返っていた。

変な格好で眠っていたのでベルトが切れた。捨てた。

まだ成田へのキャセイパシフィックはゲートが決まっていない。

昔、五木寛之が空港のトランジットタイムには無国籍の浮遊感があって好ましい、なんて例によって一説をブッていたけれど、セキをゴホゴホして、まずくて高いレストランで何とも言えぬ五目焼きなどをつついているのは浮遊感とは程遠いのである。

先程、杭州プロジェクトのスケッチを少しやった。

良いアイデアなのかどうかの判断がつかぬ。でもこんな時にはいい考えが出てくれるものやも知れぬ。

上海・インド日記 28

2月27日10時BADODARA、ゲストハウス発10時半BADODARA DESIGN ACADEMY着。郊外の平原に平屋建の教室その他が散在しているのどかで平和なカレッジである。インドの都市の喧騒に馴れた身体がここ2日のバローダMSU大学の森の中のゲストハウスに引き続き、更に心も身体もなごむのであった。

やはりわたくしはどんなに突張って見せてもカントリーBoyならぬカントリー老人なのである。

ディレクター他と挨拶を交わし、大きなチーズを乗せたサンドイッチを供される。

儀礼的な事は抜きにして、どうせ今日は夕方迄時間がポカリと空いているのだから、意を決して学生の仕事を見たいと、オープンスペースの多いキャンパス、そしてスタジオを案内してもらう。

案内は昨日までのバローダMSU大学でのワークショップに参加していた女学生がしてくれた。

1年生の作品群がとても良い。コレワと思い1年生(18才)のワンデイ・ワークショップを思い付く。

以前、日本の佐賀での早稲田バウハウス・スクールで試みたことのある課題を出題することにした。

「あなたの母親が病を得た、余命3年と宣告された、その母親の為の家を設計しなさい」

佐賀での日本、ドイツ他の学生(社会人も含む)の反応は素早かった。インドの学生(ほとんど18才)少年、少女の反応は静かなものであった。

しかし、ここの学生の身の廻りには溢れ返るくらいの自然がある。

土、水、石、木 etc に触れながら暮らしているようだ。

彼等の一人は、すぐに自分の気に入りの場所へ行って作業を始めた。

その気に入りの場所とはキャンパス内に、何故かインド人のファミリーらしきが暮らしていて、その草ぶきのShelterがある。そのShelterの下の陽陰に彼は座り込んで土で模型を作り始めていた。

この場所は実はわたくしも訪問して案内された時に一番好ましく思っていた場所であった。母親が、赤ん坊を小さなハンモックでゆらしながらあやしていた。カレッジの中に母親と赤ん坊の暮らしが実に自然に入り込んでいる。

「凄えなコレワ」と実感した。彼もこの場所が一番気に入っていたのであろう。いい感覚してるな、コイツと考えた。

赤土に似たクレイモデル作りに熱中する彼を見て、コイツどんな人間に成長するんだろうと想ったのであった。

今の日本の大学にはこんな場所も人材も全く無い。こんな人間がスクスクと育ったら途方もないコト、モノを考える人間になるのではないか。

いささかの60名程へのクリティックを佐藤と共に終え、キャンパス内の大木の樹陰で横にならせてもらった。そこで休みたいと思ったから。

見事な樹木でNEEM TREE の名であるそうな。このカレッジはこのNEEM TREE のある樹陰をはじまりとして作られた歴史を持つらしい。学校の原点である。

男の学生が走ってネット状の長椅子というよりもBEDを運んできてくれた。

そこで少し眠った。

風が実に気持良い。

NEEM TREEの樹陰は実にデリケートな陽光が差し込み、そして影がつくられる。

暑くなく、実に人に柔らかいのであった。

インドで得た経験で最良のモノであったかも知れない。

色んな事を考えさせられながら、まどろんだ。

最終クリティックを17時半頃迄。幾たりかの学生に、今日の作業を自力で発展させたら、わたくしのところにメールで送るようにと告げる。

昨日来、とても良質な若者に会っている。

何人の若者から通信が届くかな。

別れを告げ、手作りの記念品もいただき満足する。

今、20時過ぎJet Airways社のボンベイ行のフライトを空港内待合室で待っている。

インドの旅は今回はこれで一旦終わりだ。

インドの学生(若者)を本当に好きになりそうだ。

上海・インド日記 27

2月27日、7時過離床。ここ2日間はグッスリ眠っている。インドに慣れたというよりも、バローダの宿舎の環境が気持ちをなごませているのだろう。

今日午前中にバローダデザインアカデミーを訪問して全ての公式スケジュールは終了する。我ながら杭州以来良くこなした。体力、気力ともまだまだ大丈夫のようである。アーメダバードで86才のMr.ドーシにお目にかかり、親しく話すことができて、老いてからの一つの理想的な建築家像らしきもつかむことができた。良い年齢で良い人に出会えて幸運である。

空はだんだん明るくなり始めているが陽光は無い。

インドは暑いの一般論は少し計り誤りで、インドの天候、空模様にも微妙な変化はあるようだ。

昨日、2月26日は11時から18時半迄終日60名程のインド人学生とスタジオで時を共にした。学生達に不思議な親近感を覚え、そうしたいと考えた。学生達はわたくしの言う事を良く聞き分け、ほぼ指示にしたがい、恐らく2日間のワークショップでは最大級の成果をあげた。

わたくしは時にここに集まったインドの先生方の意見をほぼ無視してそうした。その方がインドの学生達のためになると考えたからである。

今、9時20分長駆日本へ戻る荷作りを終えた。ここ2日程充分な睡眠もとれて、ボンベイ、香港廻りの空の旅も何とか乗り切れそうだ。

10時には迎えの方がゲストハウスに来る。

ゲストハウスの広い、何も無い部屋で静かに暮らしているとキチンと身体も休まるし余計なことも考えない。もともと余計な事を考え過ぎる方なので何となく、これ位がよいのかと気が付いた感もある。

7時から、何度か姿形を変えて部屋係の人間がチャイやら何やらを給仕してくれる。ドアのノックの仕方、笑い顔皆違う。

昨夜は全てのグループへの最終クリティックを終え、日本のわたくしのアドレスへメールをする。つまり、それぞれの次の段階へと作品を進めるように指示。学生達の大半は眼を輝かせてその指示を聞いてくれた。どんな続きがあるのか楽しみにしたい。

心尽くしの学生達のインド、民族ダンス、そしてワークショップ修了書の授与式を終え、20時半には部屋に戻り休んだ。

うまいチャイの味にすっかり馴染んだ。飛行機に乗った途端にこの味ともお別れである。

上海・インド日記 26

2月26日の3

インドのバローダに集まった学生達に告げること

1.もしも君達にその意欲があるならば、このワークショップはインターネットを介して続行する。

2.今日の最終プレゼンテーションはそれぞれのチームでまとめて編集し、わたくしの処へ送りなさい。

3.出来得れば、それぞれのチームのプレゼンテーションはまとめて、一つのプレゼンテーションにしなさい。小さな本の形式が望ましい。

4.E-mailなどのコミュニケーションは公表したい。

上海・インド日記 25

2月26日の2

今、メモを記しながら考えた事だが、この実質2日間のワークショップでの学生達の成果は是非ともインターネットで世界中に公表したら良い。

それだけのモノが充分にあるのだ。

昨日(2月25日)は18時30分からわたくしと佐藤研吾のレクチャーを持った。講堂に学生達をはじめとして300名程の人間が集まった。

インドに来てからアーメダバードのCEPT University での講義とクリティークに続いての2度目の講義であった。佐藤は勿論、初めての講義である。彼は全く良い体験をしていると思う。インドで又も腹はこわした様だが随分な力をつけているようにも考える。御本人は知らずとも。

アーメダバードのCEPT University はドーシが建築家としてのアイデンティティーを賭けて設立した大学である。

インドでは名も力もある。それ故、そのワークショップにはアジア各国から多くの学生が集まる。

2月22、23のクリティークは仲々それ故に面白かった。

CEPTにバングラディシュから来ている男子学生の作品、Floating Cityなどは圧巻であった。特にそのバンブー他で作られた都市の姿のイメージドローイングなどは、これも又、日本人学生の現状を考えればまぶしい位のエネルギーを感じることが出来た。

彼なんかは将来どのような人材として育つのであろうか。

それも又、教師の才質にかかわる問題なのであろう。

他人事ではなく、このワークショップのインド学生達の成果は自分自身の問題でもある。だから、きちんと形にしなくてはならない。

上海・インド日記 24

2月26日、今バローダの大学にいる。6つの大学が共催するワークショップの会場である。天井高の高い直方体の部屋の天井には大きな扇風機が総計15ヶゆっくりでもなく、速くもなく廻っている。学生は8グループに分かれてWORKしている。総勢60名程か。今13時前、最初の中間講評を一人で8グループ毎にやって終わったばかりである。11時に始めてほぼ2時間かかった。

佐藤研吾はわたくしの代理で他の大学へ表敬訪問している。表敬訪問とはどうやらこのタイプのワークショップの義務らしい。

昨日2月25日はわたくしも表敬訪問を一校こなした。風格のある学長さんと共にランチを食し、おまけに何だか凄い表彰式まで付き合った。誰が表彰されるのかと思ったら、わたくしと佐藤が表彰されてしまったようだ。立派な木枠に納められた賞状までいただいてしまった。とても良い体験だったが、予定では全ての大学に表敬訪問がセットされていた。これはかなわん、わたくしは学生たちとのワークショップには関心があるけれど、学長さん達とのランチやディナーにはそれ程関心があるわけではない。

それで、主催者にかなり強く自分の意思を伝えて、可愛そうに佐藤研吾が代理で出掛けたのが実情である。どうやら、インドでは珍しく金も集められてのワークショップであるようで、集めた人間の義理と面子もあるのであろう。中国社会のモノの考え方と良く似ているなと思った。あんまり両国は仲の良い間柄ではないけれど、それは根底に面子を大事にする国民感情があるからではないか。

先程ひとわたり、学生達とのコミュニケーションとも考えているショートクリティックを終えての印象だが、とてもレベルが高い。3年生くらいが選抜されて参加しているようだが、日本の早稲田などのレベルよりもむしろ知的には高いのではなかろうか。それぞれのこの地方の大学から選抜されてきているという事情もあろう。要するに出来の良い学生が集められている。

そんな事情はあるとしても、インドの学生達のひたむきさには日本の今の学生達はひどく影が薄いものとして感じられた。大昔に付き合った飛騨高山の建築学校に集まった学生達を、より頭脳のレベルを上げたような感じなのである。そうなんである。わたくしはインドのここバローダで高山建築学校を想い出しているのである。

教師はもうイイヤ、ゴメンこうむると思っていた矢先のことではあった。

このインドの大学の先生方は、今二人だけ付き合って学生と同じテーブルでランチを共にしている。

他のお偉方は会場にはいない。

この日記は英語では無くて日本語で書かれている。インターネットは実感としても、知識としても日本よりはインドの方が進んでいる。

だから多くの人がわたくしのページをのぞくであろう。それ故、あだおろそかな事は書けぬ。

が、インドの学生達の接してみた印象は驚く程に優秀である。先生達はその知的好奇心に充分に対応できているとは思えない。

恐らく短い一瞬とも言えよう体験でそんな事を言う資格はあるまい。

が、しかし直観としてそう思うのである。

子供達、あるいは学生達の資質は教師の資質によっても大きく左右されるのである。

インドの建築学生が良い教師(天性としての教師)に出会ったならば、彼らは何処まで飛べるであろうか。窓の外には豊かな緑が拡がっている。今泊まっている大学構内には朝、鳥や猿やリスが多くやってくる。

上海・インド日記 23

2月24日疲れは抜けぬが、明日のBODODARAでの講演会の準備をしなくてはならない。今日は午後にドーシ事務所でドーシの模型を作り続けている人間2人に別れのあいさつもしたい。全く素晴らしい2人の職人であった。カタロニアのフェリックス・マルティーンを想い出す。ヘンリー・ムーアの巨大彫刻を実際に彫り続けている凄い人間であった。

9時半レストランで朝食。入口でウェイターにルームナンバーを伝えようとしたら声が出ないのに気付く。ノドが恐らく疲労でやられたのであろう。

一人で部屋にいると声が出ないのもわからない。

朝食はヨーグルト、フルーツ、エッグオムレツ、コーヒー。流石にインドの香辛料は避けた。声も出ないんだから。

ボーッと一人でレストラン内のスクリーンを見る。

マア何とも不思議な映像である。インド映画はミュージカル仕立てで、筋書き(ストーリー)とは無関係にいきなり歌と踊りが始まるのは良く知られている。

それが更に過激となり、もう全て踊りと、歌は付け足しになっている。

女性のダンサーはほとんど裸に近い。腰を振り、胸をつき出し、まるでシヴァ神の現身の如くで、セクシー極まりない。視ている自分が恥ずかしくなる位である。しかもインドの女性ダンサーは日本や欧米のそれと異なりモデル状の人工の細身ではない。ブルンブルンと豊満なのである。

口をあんぐり開けて視ていたら、のどに刺激物が入り込み更に声が出なくなるのではないかと思う。

しかし、昨日のMr.ドーシは良かった。86才だそうだけれど、あんな風に年を取れたら幸せだろう。

11時に下のロビーで佐藤研吾と会い、明日のレクチャー他の準備をする予定。彼の疲れは直ったかな。

上海・インド日記 22

2月23日、日曜日、今日は休日。しかし、9時ホテルに迎えが来て出発。朝食は抜いた。書きたくはないがホトホト疲れている。

CEPT Univ.主催のフォーラムの最終日である。9時半フォーラムスタート。

内容は少し飛ばして、明日記すことにしたい。

11時半Mr.ドーシ来てフォーラム参加。いきなり会場に緊張感が張るのを感じた。やはり、カリスマの力なのであろう。「今日、君と昼飯を食べる予定だよね」と言われる。12時半ラジーフの自宅へMr.ドーシ他と。ラジーフの家はラジーフスタイルの良い家であった。Mr.ドーシは驚いた事に故吉阪隆正と実にうり二つの顔で、すぐそれを言う。「タカはパリ時代(ル・コルビュジエのアトリエ時代)に一番の友達だったよ」との言。吉阪隆正は私の学生時代に、研究室は異なっていたが良く教えていただいた、とても実は親近感のある先生であったが、ドーシの持つ雰囲気は全くドンピシャリと同じであった。吉阪は60代前半で若死にして、ドーシは今86才である。

「彼は居なくなったが、生まれ変わって私がいるのかな」とMr.ドーシが笑う。そうとしか思えない。実に同じフィーリングの持主なのであった。たちどころに好きになった。ヨガのトレーニングのせいか、とても年を感じさせない。

吉阪隆正と話している感じなのだ。

ラジーフを交えて様々な相談をする。これは巡り巡って何かの縁としか言えないと痛感。美味な昼食とインディアンアイスクリームのデザートの後、わたくしの作品集に彼は見入った。ひろしまハウスの仏足の話し、ブッダの足の下に暮らすんだねとすぐに共感してくれた。世田谷村にも異常な関心を示し、特にわたくしのドローイング、銅版画には満面の笑みで応えた。ようやくインドで直観で通じる人間に出会えたのだ。

別れて、フォーラム会場に戻る。熱心なクリティークが続いている。クリティークに参加し、17時頃終了。ドーシのGUFA(フェローセメント製の建築)を眺めながら休みチャイ。

夕食を食べに出掛ける気分にも身体も言うことがきかず、結局飯田寿一君の家で彼の手料理をいただく事にした。佐藤もわたくしもそろそろ身体は限界状態である。

全く中国を含めて休みが取れていない。

21時ホテルに戻る。

上海・インド日記 21

2月22日のプレゼンテーションを終え、近くのMr.ドーシの有機的Shelterに入り休む。表に出てお茶を飲んでいたらアサミ・サラバイさんとバッタリ会う。アサミさんは昨夜のわたくしのレクチャーで幾つかの疑問点ありとの事で、実に自在にそれを言ってくれた。サラバイ氏に嫁いだ日本人女性であった。「では又」とお別れする。

何処かでひと休みしようとCEPT Univ.を去り、近くのヒンディー寺院に上がり込む。古い寺院ではなく、今に生きる生身の寺院である。

太鼓や鐘の音がにぎやかに鳴り響き、とても開放的なエネルギーに溢れる。今の、これも又、アニミズムそのものだなと実感した。

スケッチを数点得る。

空腹となるも、いささか身体も疲れ、なんと佐藤研吾もゲッソリと疲れを見せ始めた。

「疲れたか?」

「イヤ、大丈夫です。でも腹が疲れた」

「そりゃあ、君疲れていると言うもんだぜ」

の会話があり、それなら好物のカツ丼でも喰おうと、本来なら行きたくもないアーメダバード唯一の日本料理屋へ。

メニューを見たら、わたくしも胸やけがして、わたくしはうどんをオーダー。

佐藤はいかにもまずそうな、でもやっぱりカツ丼を飯田君はやはり量の大なるカツカレーを食す。

飯田君は常に質より量をとるのが習性の人と知る。アーメダバードの日本人は恐らくストレスも大きく、自然とそうなるのであろう。

21時半ホテルに戻る。シャワーを使い、疲れをおして日記を記しようやく本日現在までを記すことができて、今23時40分。

横になろう。なってどうにもなるものではないが立っているよりはマシなのである。日本を出てから12日目が過ぎようとしている。

良くまあ、我ながら身体も気分も持ち堪えていると思う。

上海・インド日記 20

13時前、CEPT Universityへ。途中アート専門の本屋に寄り、昨日訪問したペインターの村関係の書物を購入する。

ヨーロッパ人が客として溢れていた。

13時半ランチ、ミーティングの後、アジア各地の学生諸君の作品発表、そしてクリティーク開始。

仲々、発表作品の質は高い。

わたくしは4点に関して発言する。

1.Sohil Soni , Baiwant Sheth School of Architecture.Mumbai

2.Joseph James Alanchery , Department of Architecture.Thiruvanthapuram

3.Nishtha Banker , CEPT University.Ahmedabad

4.Niket Dalal CEPT University.Ahmedabad

4.Niket Dalalの作品Floating Settlements Bay of Bengalはとても良かった。バングラディシュの、ベンガル湾上のFloating City案である。特にそのエレベーションと言うよりも集合の形態は船のモビリティーを使用した、実に自由なエネルギーに満ち溢れ、これは東京の学生には求めても得られぬ才質であると痛感する。

こういう学生(若者)の自由な表現力は貴重である。どんどんのびていって欲しいと考えた。キャラクターも良く実に自由だ。

Nishtha Bankerの作品のイメージ、コンセプトも素晴らしいが、リアルな作図になると少し不自由さがあり、そのギャップが私にはとても興味深かった。

上海・インド日記 19

2月22日10時半、マナ・サラバイ邸見学。二川幸夫、二川由夫両氏も撮影に勿論訪れているそうだ。少し疲れてサラバイ邸の一階リビング・サロンスペースのソファーに座り込み、スケッチを一点得る。ル・コルビュジェはインド・アーメダバードのこの家は建築を空に持ち上げずに大地に密着させている。庭と連続したその自然なつながりが心地良い。ボールト状の天井を注視する。この現場はMr.ドーシが全て視て、図面も全て描いたそうだ。コルビュジェはシンプルな基本設計的な略図であったと聞く。当時マナ・サラバイは綿紡績工場の経営で財を成し、インド唯一の財閥をなしていた。広大なサイトがそれを物語っている。その記念館もサイトに在る。

妹島和世、西沢立衛両氏も見学に来るらしいとの知らせもあったがすれ違う。伊東豊雄さんもアーメダバード来訪の予定ありとの事で、日本の建築家も良く動いているなと感心する。

上海・インド日記 18

遅い昼朝をモスク前のイスラム料理の屋台でとる。これが何とも美味であった。2人で60Rpの安さであった。

オートリキシャをつかまえて再びホテルに戻った。ホテルのロビーで少し計りの準備を再びする。17時KURULA VARKEY DESIGN FORUM会場CEPT Universityへ。

現学長、チャヤ氏の後6月から学長となる予定らしい、Pratyush Shankar他と会い挨拶を交わす。

18時レクチャー会場へ。キャンパス内の大きな講堂へ。いささかのコンピュータ調整の後、わたくしのレクチャー始める。Pratyush Shankarの紹介に続いて、用意のアニメーション放映。小スピーチの後1時半のレクチャーをなす。会場は超満員であった。時に笑いも取り、マア上出来であったのではないかと自己満足する。終了後、早々に飯田、佐藤両君と会場を去り、飯田宅で三人でとり敢えず、ホッと打ち上げ会。22時半ホテルに戻りバタリと横になって24時休む。眠ったような眠れぬような夜となった。

上海・インド日記 17

2月21日11時、佐藤ホテルに来る。今日のKURULA VARKEY DESIGN FORUMでのレクチャー他の打合わせをロビーでする。

東京で組んで来た内容を若干修正する。

修了後サルケージROSAモスクへ。アーメダバードの複合モスクの典型である。入口を入ると左手にSULTAN MEHAMUD BEGRA他の聖廟あり、三つの巨大な石棺が安置されている。天蓋の緑色金糸の布シェルターが美しい。モスクの内に布のシェルターを見るのは初体験である。石棺にも三つのおおいの赤色布地(模様入り)がかけられていて、華やかな感じ。廟のすかし彫りの窓からは広大な長方形の池があったが、今は干上がっている。池の周囲には処々に階段がつけられている。

遠くに女性達の居宅や処々の場の小建築が視える。シャーは石棺の内に眠った後にも、後宮であったのか妃達他の女性の姿を眺めたがったのか。誠に現世的な配置である。シャーの聖廟に対面して妙になまめかしい、しかも大きな廟がある。内には小振りな石棺が安置され、これにも鮮やかに色めいた布でくるまれている。廟の頂部には大きな花の黄金が金色に鮮やかである。これもシャーの愛妃の安置場であるのか、実になまめかしいモスク内の廟である。モスクの中庭は小振りとは言えぬ、しかし広くはないスケールであった。アーメダバード、旧市街の金曜モスクの中庭の広がりは無い。広い池の反対側に現在は小さな水浴場(プール)が作られ、多くの人々が手、足を洗っている。モスクの中庭を出てシャー達の聖廟と王妃の?聖廟との間の舞台に座り込んでスケッチをする。たちまち多くの人々に囲まれてスケッチどころでは無く退散し、近くのベンチで休む。

佐藤研吾が現われたので、王妃の廟前の舞台で丁度、一人の男が太鼓をたたいて、派手なパフォーマンスをしている後ろでスケッチしろとそそのかす。彼は今日いささか疲れがほとばしり出ている感があったが仕方ネェーなという感じで座り込み、つまり太鼓たたきの男のすぐ後ろでスケッチを始めた。わたくしは120メーターくらい離れたベンチに静かに座り込みいかな事になるかと観察する。

佐藤はたちまち凄い人だかりに囲まれる。

この男は疲れていても、どうやら人々から注視されると意外にも勇気リンリンというか、疲れも吹き飛んだ様子でスケッチを続けた。人々の注視が力になるとは仲々に良いではないか。やはり表現者に向いているなと感心しながら、わたくしは近くに小さな娘を座らせて、独り脇に立ちすくみ、黒いヴェールで顔をつつみ何かを叫びながら、恐らく喜捨を求めている女性を誰からものぞかれずにスケッチした。つまり、佐藤をおとりに使い、群集を彼の許に集めて、独り自由の身になったのである。我ながらまことに悪い性格である。アラーの神もイヤな顔をして、何処かで一部始終を眺めていた事であろう。

黒いヴェールの女性の足許の娘には異常な位の喜捨が集まっていた。

それに対して、太鼓たたきの男は群集を皆佐藤に取られて喜捨する者は無し。太鼓たたきはうらめしそうに佐藤を振り返り、何か言いたいそうな素振りとなる。ついに立って佐藤にアッチへ行けと言ったかどうか、それにもめげず佐藤はスケッチをまっとうしたのでした。誠にあっぱれと言う他は無い。

「でも、俺には誰も金をくれなかった」と図々しい言葉を後でもらしたのであった。そんな喜劇模様の芝居がモスク内で演じられ続けた。空はすっかり晴れ渡り、カーンという音もきこえようという位。

上海・インド日記 16

この日(2月20日)は24時近くまでホテルで飯田寿一さんと遅い食事をして、禁酒なのにわたくしの10階の部屋でコッソリウィスキーを飲んで語り合った。良い一日であった。

上海・インド日記 15

村の家々は散在していて、わたくしの足では隣家に行くのも大変そうな位。風景は何とも言えぬ、人間の手が行き届いた、しかも自然なモノになっている。まさにMAN-MADE NATUREだなコレワ。

丘の上の家に着く。水牛が数頭、ヤギも多い。犬やニワトリも多い。動物達が人間と共にいるのを実感する。風景が実に柔らかいのである。

木造の大きな家に入る。

と、これはビックリ実に立派な中央に石をしきつめた細長い土間というより、砂利の細長い中庭があった。その中庭に装飾のついた列柱が並んでいる。見事だ。家の両端の壁に三方向を囲むように見事な壁画がある。しかも長い家の両端に2ヶ所もある。

ここにも勿論ペインターが居た。実に人の好さそうな柔和な男であった。

男が紙を一枚くれと言う。

それに絵を描くと言うのだ。ヘェーと思い用意する。

ペインターは型木らしきを持って来てそれで輪郭を取りながら動物を描き始めた。成程こうやればある程度の絵の量産が村の中で成立するかと感心する。描き終わった絵は、コレワ欲しいなと思って、居合わせているドライバーに、「買えないか?」と尋ねた。実に品格の無い言葉であった。答えは「飛んでもない」

「あなた達に見て貰って、嬉しくって、それで描いているんだ」

ガツーンであった。

これが絵描きの原点だな。

赤い猫か、山猫かの絵がそうして出来上がたった。

ここの家に泊めてもらって一週間もいたら、現代民俗学、芸術学、芸能学の宝庫であろう。素晴らしい体験であった。金では売らないモノ、手渡すモノ、ありがとうの意味を表す表現なのだな、これ等のプリミティーフ達の絵は。売らないし、金のやり取りは無い。むしろ何かへの奉納の意味が強いのであろう。

これが今に生きていた。

頂いた絵は大事に持ち帰った。

子供達が沢山見送ってくれた。

その後、先住民族博物館を見学。貧しいけれども立派な博物館であった。ここでもスケッチを数点得た。

20時にアーメダバードのカントリーホテルに帰着。

インドの先住民とはどのような種族であるのか。アーリア人に侵略されたドラヴィダ族とは言えない。もう少し若かったら調べるのになあと残念。

上海・インド日記 14

何度も道を尋ねたりして、それでも昼過ぎにGold Villageに着く。美しい村である。ゴミ一つ落ちていない。都市の汚濁から遠い感のするところだ。

道のかたわらに目的の壁画の描かれている一軒があった。壁画はコンクリートとレンガ造の家の一階の一室に描かれていた。

これはプリミティーフ(素朴画家)達のまさに原型である。子供の無心の絵のような、エジプトの象形文字の群のような、動物達と人間や馬車や、狩の風景やらが壁一面に描かれていた。構図なんていう概念は全くない。年に2回の村の収穫の祭りに際してペインターがそれぞれの家の壁に描くもののようだ。

銃も描かれているから新しいものでもある。聞けばこれは最も新しく去年だったかに描かれたものだそうだ。

ペインター達の作品をスケッチしていた。色がどうしても必要なので色鉛筆で描いていたら、ポスターカラーのビンをお母さんが持ってきてくれて、これ使えと言う。色がちがうの警告であったのか?

近くにペインターの家があると聞いて出掛ける。

木の扉をノックし続けたら若い男が一人出てきた。中老の男がもう一人ベッドで昼寝をしていた。

二人共にペインターであるようだ。勿論この家にも壁画があった。

壁画には必ず神棚(神様)が描き込まれていて何かの記号状の朱だいだいの丸い点が描き込まれている。その廻りに馬を中心とした動物達と人間のアラベスクが描き込まれている。

若い方のペインターが、村長の家の絵を見るかと言うので車で行った。若いペインターも同行してくれた。

上海・インド日記 13

2月20日

約束通りTAXIドライバーが7時30分にカントリーホテルにやってくる。屈強そうな男だ。もう一度、行先値段の事など確認。走り始める。アーメダバード市内の猛烈な喧騒を抜けて郊外へ、そして高速道路に乗る。凄いスピードで走るが不思議に不安感は無い。プロのドライバーなのだを知る。真赤な気仙沼日ノ出凧のような太陽が空にポッカリ。11時アフマド・シャーモスク遺跡に到着。一人250Rpを払う。何しろこれは世界遺産である。しっかりかたわらに水洗トイレもついている。実にしっかりとした遺跡である。インドの小学生達が300人程大型バスを連ねて見学に来ている。モスクの中を走り廻っているがうるさくはない。背の低い子供達がモスクのドームの下にさざ波の如くに動いている感あり。隣りの八角形の沐浴場(池)の小階段に座りスケッチする。

この頃はスケッチすると気持が落ち着くような気がする。

少し計りイスラム建築の描き方にも慣れてきた。

やはりミナレットの細身の塔と天空の取り合わせが根本なのを知る。モスクは天空と呼応する建築なのだ。遠くの岩山の山上にヒンディーの建築のシルエットがある。ヒンディーとイスラムの争いと共存がインドの近代史の現実であるのだろう。ガンジーはヒンディー教徒に殺された。昼食をドライバーを交えて新しいコンクリート構造、ガラスの多い近代的なレストランでとる。うまいカレーであった。チャイもいただく。ドライバーと佐藤が行先のGold Villageの在処を確認している。まだまだ遠いようだ。しかし行けるようである。道が凸凹道となった。大きな池(湖)がありそこにもイスラムの遺跡が散在していた。

いくつかの村や市場を通り抜けてドンドン走る。

上海・インド日記 12

モスクの中庭にまたも入り込む。外の生命力の騒乱と、この内の静寂の対比は何かと再び感じ入る。スケッチする。佐藤も描き続けているようだ。良い時間を過すことが出来た。

リキシャをつかまえてスタジオ・ロードのスタジオ・シネマ近くのドーシ事務所へ。ドーシ事務所で飯田さんに再会。明日の打合わせと、映像その他の送受信の相談。

18時カントリーホテルに戻る。今日のメモを記し、20時半佐藤、飯田とホテル2階レストランで夕食。23時ホテルの外の庭でタバコを一服する。やはり疲れているのかな。二人と別れて部屋に戻り、又、メモを記す。

沢山記録しておきたいけれど仲々書きとめられぬ。自分の能力の小ささを想う。残念。

24時前、ベッドに横になる。

明日は7時過に遠出のTAXIが迎えにくる予定。

今日はドーシ事務所のラジーフと話せて良かった。メールが入り東京では渡邊が頑張って世田谷区の仕事を進めている様である。東京に帰ったら仕事に忙殺されるだろう。それに備えて体力を再生させたい。何しろ、アーメダバードは禁酒なので身体の具合はすこぶる程ではないが良い様だ。この禁酒状態がいつまで続けられるのか?

上海・インド日記 11

チャールズ・コレアのガンジー記念館は良い建築であった。とても多くの来館者で人が溢れている。建築はその人々の様々な動きの額縁の如くであった。人間というそれ自体が集団の表現体をそれこそ生き生きと浮き上がらせている。

同一の単位として分節された屋根を頑丈な躯体が支えている。群体としての屋根の重量が骨太な躯体で支えられる。人間達が自在に動き廻る自由を、その重力を覆う屋根を支える揺るぎ無さが心地良い。

この天をも支えるという如くの重量が人間の動きの自由を実に保証しているのである。

アルド・ファン・アイクのアムステルダムの孤児院を知ってか知らずか今は知らぬが、この重力の支え方は見事であった。この重さへの安心感は今の建築が失いつつあるものだ。夢中でスケッチする。人間あっての建築なんていう解りやすいヒューマニズムを超える崇高さがある。見習いたいがこの重さへの感性はわたくしには失くなっているか?寂しい事だ。

ガンジーの資料を見て廻るうちに、ガンジーのしていた眼鏡が急に欲しくなった。闇雲である。

飯田さんに言って、この眼鏡手に入らぬかと我ママを言う。ヨシ探しましょうとニュータウンの眼鏡屋を3、4軒当るも、無し。オールドタウンの何軒目かでようやく似た奴を見つけて買った。馬鹿な事に夢中になっていたので疲れも感じない。これはコレアの建築が買わせたな。

フライデーモスク前のチャイ屋台でチャイを飲み、階段に座って人々の動きと声の入り混じったエネルギーをしばし眼鏡をかけるも忘れて眺め入った。凄いな人間の生命力は。

上海・インド日記 10

2月19日11時半ドーシ事務所までホテルから歩いて到着。丁度RAJEEV KATHPALAのレクチャーが山場のナーランダ大学プロジェクトに差し掛かる寸前である。RAJEEV氏は実質的にナーランダ大学プロジェクトを責任遂行している建築家である。ドーシ事務所の責任者と言って差し支えない。多くのヨーロッパ他の国の学生が聴講している。勿論インドの学生他も多い。

講義がひとわたり済んだところで改めて紹介され、何か意見をと言われたので、ナーランダ大学計画の歴史的意味について等少し計りを話した。

その後、ラジーフと話す。日本からのナーランダ・プロジェクトへの参加を考えている組織、団体があるので、是非それを実現したいと申し入れた。

それは素晴らしい、是非すすめてくれとなる。

オフィシャルなペーパーを某組織に送ることが次の段階である。コンタクトを始めたいという挨拶状の送附である。非常に具体的なアイテムを考えているので帰国してすぐ進めたい。

ビハール州のナーランダ大学の壮大なキャンパスの中に日本からの営為を加えたいと思う。オリジナル・ナーランダはそもそも仏教大学として古代実に世界的な存在であった。中国西安からの僧玄奘の旅は後年西遊記としてまとめられ、スーパーベストセラーになった事は良く知られている。その壮大な史実を再びなぞろうというものだ。今度は日本の木造技術をナーランダ大学へ送り届けられれば良い。頑張ってみたい。

写真家の鬼頭志帆さんと共に飯田さんと4名で昼食へ。昨夜飯田さんの処のカレーが美味だったのでそれを喰いにゆこうとなる。カレーの後、チャールズ・コレアのガンジー記念館へ。

上海・インド日記 09

ホテルの2階のレストランで、カレーを避けながら、それでも皆カレー味のような食事をとる。コーヒーがおいしい。たっぷりミルクを入れてくる。ただし時間がかかる。外はまぶしい位の光だ。9時半、チャイ風のコーヒーをもう一杯たのんで、このメモを記している。10時半には飯田君が迎えに来て、ラジーブのレクチャーを聞き、彼と色々と話をすることになるだろう。

昨夜、彼に大方の概要を話したのだが、ラジーフがすすめているビハール州ナーランダ大学の計画、特にその森の計画が良いので、それに参加してみたいと考えていた。釈迦が歩き廻ったラージギルの今は町に接したナーランダ大学の広大なキャンパス。それは一つの都市なのだが、シンガポールが中央の図書館建設の金を出すことになったそうだ。

ラージギルの町からキャンパスのエントランスは導かれている。そしてエントランス一帯は森の計画である。わたくしの考えは、この森の創出と、その中に幾つかの日本の木造技術で宿舎や修行場そして作業場などをつくれないか。そしてベトナムで進めている鐘楼などを建てられぬかである。

今日はその話をラジーブにしてみたい。

頼んだコーヒーがなかなか出来ないので、もう一度言ったら、今度はすぐに来た。今、10時前である。

上海・インド日記 08

2月19日7時離床。カントリーイン・アーメダバードの10階で目覚めた。良く眠れた。昨夜はVASTU SHILPA CONSULTANTSの飯田寿一さんと20時にカントリーインロビーでお目にかかり、ナーランダ大学全体計画のその後のこと等を聞く。ドーシ事務所に彼は居るので実際を良く知ると思われる。ナーランダ大学プロジェクトはインドでも有数の大プロジェクトで、それだからこそのマネジメントの困難さに対面しているようだ。しかし動き出している。明日実質的に計画を取り仕切っているラジーフ氏に会うので、更に尋ねてみることにする。

飯田さんはそのラジーフ氏の旧宅を数人の日本人とシェアして暮らしている。大柄で丸顔の日本人には珍しい好人物である。大方の外国で会う日本人は用心深くて縮んでいるのが多いので目立つ。

夕方はレストランのカレーはイヤだなと正直に言ったら自宅での手作りカレーに招いてくれた。22時半過ぎまで、おいしい、それほど辛くないカレーに舌鼓を打つ。

佐藤研吾は彼の家にアーメダバードではお世話になることになっている。

わたくしのレクチャーは21日の夜なので、それまでは色々と勉強させていただこうと思っている。

21日にはマナ・サラバイ邸にうかがう事になっている。アーメダバードに来てル・コルビュジエとルイス・カーンは外せないと言われた。そりゃそうだなと従うことにした。

昨日の地中の井戸の空振りに懲りて、より本格的な井戸の見学は止めようとも考えたが、やはりアレは見た方が良いとの飯田さんのおすすめであったから、もう一件面白そうな民俗アート村の表現活動は是非行くとして、それでスケジュールは一杯である。アーメダバード周辺はワークショップ開催中にも時間を割いて出掛けることは可能だろう。と書きながらあれこれと想いを巡らせている。独りでTVを見ずにいるから心地よい手持ち無沙汰で、そして10時半には飯田さん、佐藤がホテルに来ることになっている。

今日は長い一日になりそうだ。中国の一週間とは別の時間が流れている。

上海・インド日記 07

今、19時過ぎ、ホテルでこの日記を書いている。洗濯、昼寝をして少し疲れもとれた。

午後は、30数年来、気になっていたダーダー・ハリの地中井戸をリキシャで動いて見た。

あんなに憧れていたのに、サラリという感じで失望した。

凄い地中空間なのだが、やはり水が失くなっていては、本来の生命が失せてしまっているのだ。

井戸の廃墟、涸れて干からびた奴はミイラみたいなものである。

スケッチもしなかった。

こういう失望を何と表現すればよいのか?

車で2時間ほどのところに在るという大きな方の地中井戸はもう見るのを止めようかと思ったり。

いきなり言うが、左官は水の職人である。湿式工法を邪魔者にして近代化=工業化は水の在り処を普段触られる世界から消してきた。都市は居ながらにして白昼の廃墟、ガラガラと干からびたミイラになってしまったのだが、中国杭州でやるプロジェクトは左官職の使い方が決め手になるな。水の精を思わせるまでの表現にしなくてはならない。

ところで、アニミズム紀行3だったかに書いたガキの頃の赤い地下水脈の夢は、あれは何だったのか?あの夢の中の地下水脈の肌触りは、あれは素晴しかったと思う。

上海・インド日記 06

道端で座り込んで飲むチャイはやっぱりうまい。味も良いが、外で飲むのが生き生きとさせてくれるのだろう。

東京のカフェテラスでコーヒー飲むのとは全く別次元である。何故なんだろう。

ジャマー・マスジッド前のレストランの看板出している店内のチャイはやはりまずい。そう思う自分の感覚は少しもデフォルメされていない。ここまで来てそんなウソはつけない。いやウソつくほどに間抜けじゃない。

やっぱり気候と大きな関係がある。インドの大方では外が内であり、内が外だからか?つまり街頭そのものが理想の建築の状態を顕現しているのだろうか。美や汚れはそれほど問題じゃあない。

上海・インド日記 05

8時半頃、オールドタウンのジャマー・マスジッドへ。この街を代表するモスクである。

丹念なつくりではなく、荒いけれどモスク中庭の広さがとても良い。70m×120m位か。真ん中に池があり、東屋がある。

日射しは強くはないが、キリリとしている。モスクの中のどこまでも異教徒である我々も入ることが出来る。おおらかなんだなあ。しかし、モスクはやはり排他的であることが、そしてモスク内の何とも言えぬ静寂が生命である。

中央の池のある長方形の東屋じゃなくって、そこに座っている老人がヤケに格好良いのでスケッチする。一般的にインドアーリア系の老人は皆かっこうのスケッチの対象になりやすい。

80㎝くらいまで接近しての間近のスケッチであった。描く方と描かれる方、双方に微妙なカケヒキがある。描かれる方は意地悪をしてポーズを変えなくともよいのに変え続けるし、こちらもそれにめげずに密着戦を続けた。最近、建築描くより、人間描いた方がズーッと面白いのだ。生きて動いているからだ。それがわかるのはやはり間近に視る必要がある。

上海・インド日記 04

アーメダバード2月18日6時着。Naoki Akaike君他インド人学生2名迎えてくれる。若い。一気にこちらも若返る感あり。風は暖かく、インドだなあと感心する。草木の勢いが日本や中国と違うのだ。いつもインドに来る度に思うことだが、まだうまく言葉に出せない。早朝の清々しい中を街に入り、ホテルCountry Inn & Suites By Carlson Ahmedabadに着くも、時間が早過ぎて荷物を部屋に入れるのはダメだとホテルカウンターの人間が言う。こういう融通のきかぬところがインド人一般にはあるようだ。でもイライラせずに、さいですかとホテルロビーで荷造りをし直して気分が良いので街へ。

休まなくて大丈夫ですかと気遣っていただいたが、そう言われるとヨシ、休まずにヤルぞという気になってしまう。24、5時間の飛行機乗継ぎはこたえているが、それを言ってはおしまいよ、と何がおしまいなのかも知らず、何をヤルでもなく大判の画用紙を持って出る。タクシーは使わない。街中をゆくにはリキシャで充分だ。勿論オートリキシャ。Akaike君の値段交渉他を観察して、これはアーメダバードは穏やかな都市なのを知る。外国人観光客の多いアグラ等のハゲタカ運転手の群れはいない。実に淡色をしていて拍子抜けする位だ。アーメダバード大丈夫かなといぶかしむ。どうしてもインドに来るとこの手の話になってしまうのはやむを得ないのだ。値段のやり取りの中にその都市の人々の生活の実相が隠されている。

上海・インド日記 03

2月18日、離床ならぬ無理な体勢で横になっていたのを、普通に座っている状態に戻す。2時15分である(中国時間)。4時間15分ほど飛んだか。あと1時間15分ほどでムンバイか。

成都は西安よりもだいぶん経度にして西に位置しているようだ。少し眠っているうちに飛行機はヒマラヤを越えたのか。地球の自転方向とは逆の方へ飛行機は飛んでいる。運動の摩擦が発生しないのだろうか。

そう言えば、機内食を一回抜いているので身体が軽くて調子は悪くはない。

杭州計画のスケッチをする。小さな庭を建築に付属させるアイデアを形にしてみよう。

3時45分、ムンバイ空港着。ここではアーメダバード便への待ち時間が5時間ほどもあるので、のんびり席を立つ。入国手続き荷物検査をしてドメスティックラインへ。深夜なのでかかる時間は早い。職員も眠いのであろう。

アーメダバードへの便はAir Indiaで職員の態度は例によって一転する。インドのローカル便の手続き荷物検査はとても厳しい。

預ける荷物をゼロにしたかったが、どうしてもダメで、佐藤の分と二個を預ける。インターナショナルはルーズでローカルは厳しい。

建築の世界と同じだな。中国杭州プロジェクトは中国のローカル(郷土建築)から学び、それをインターナショナルにしようと試みようとしているのだけれど、固有の価値と普通の価値とはあんまりクロスしないのが現実だ。余程の力業が必要であろう。

6時半、ローカル便の待合いロビーCOSTA COFFEEでコーヒーを飲み軽いスナックを食べる。

インド時間3時である。流石に眠い。今日はほとんど24時間ほとんど不眠状態である。旅は体力だな。ロビーで横になれる妙なロングチェアまがいを見つけて横になる。グッスリ眠ってしまうとヤバイが体力はほぼ限界である。

5時15分、眠い眼をこすりつつ搭機。まだ暗い。

機内に中国人の姿は無く、どうやらインド人ばかりだ。当り前だ。眠い。

上海・インド日記 02

17時、上海発CA 429便、ほぼ満席である。流石にインド人の顔が少なくはない。成都近くでかなり揺れた。

21時、成都着陸。ムンバイ行きの客は別コースの空港内バスに乗せられる。前よりこれが合理的となり、急ぎ足ではあるが出国手続き、そして荷物検査とすすみ、ムンバイへの乗継ぎ便CA 429便に乗継ぐ。

機内は英語、中国語が半々くらいか。皆おしゃべりである。

22時(中国時間)departure。

上海・インド日記 01

上海より成都までのフライト中に日記の形式を上海・インド日記に切り換える。中国をインドから眺めたり、インドを中国から眺めたりの検証が出来るかどうか覚束ぬけれど試みてはみたい。

二度目の杭州ではクライアント集団及びその友人たちを介して杭州ピープルと言うべき種族らしきがあるのを知った。

実に知的で穏やかな人達である。わたくしが杭州の仕事にピックアップされたのは、仏教や禅を知る人が望ましいとのことからであった。

仏教や禅を知る人とは、これは恐らく最近、日本やインドの精神世界にいささか関心が深まり、そのことを知ってくれての事ではあろう。

今日2月17日から2月28日までインドの、半分仕事、半分勉強の旅であるが、良く吸収したい。

もう若くはないが受容力は若い時に比べて我ながら増大している。又、自分で言うのもおかしいけれど決断力も大きくなっている。

全ての旅は無限の可能性との遭遇の旅でもある。良い時間と人に会えますようにと祈りたい。

杭州と上海では随分色んな人に会えて何よりであった。

成都へは上海から2時間ほどのフライトである。進行方向左前方にヒマラヤの山々が遠望できる筈だが雲が厚い。杭州も雲の下である。

上海・杭州日記16

只今、2月17日16時25分、上海空港国際線成都行きCA 429便ゲートC 94でサンドイッチを齧ったところ。成都からはムンバイ便まで乗継ぎが1時間しかない。いつも駆け足となる。 先程14時まで、上海の趙事務所で諸々の打合せ。インドでの講義の映像チェックもする。少し組み直したい。今度の杭州のミーティングも趙さんは良くやってくれた。アジアでの仕事に大変有能な人だと再確認する。マネジメント能力が大きい。14時趙事務所を発ってタクシーで上海国際空港へ。Air Chinaにチェックインする。

機内は暖かい。インド用に夏の服装に着替えているので快適である。

上海・杭州日記15

2月17日

7時離床。上海巴黎春天新世界大酒店36階。

昨夜は蘇州市から2時間半走り続け19時前上海HOTEL着。荷を降ろして近くの日本料理屋へ。趙さんが明日からのインド行を配慮してくれて和風料理となった。

21時過、散会。ホテルに戻り休んで今日となった。 今日は昼に趙事務所へ。14時には発ってインドへの便、すなわち成都への便が飛ぶ国際空港へ行かねばならない。7日間の中国での仕事は充実していた。皆、趙さん、クライアントそしてドライバーのお蔭様である。

杭州のクライアント集団はわたくしにとっては望外の、理想的な出会いであったと振り返る。

それぞれの人々の大方の背景、人間模様他把握せねばならぬ事も少しつかむ事が出来た。

まだまだ大変だろうが、このプロジェクトには全力を尽くしたい。

実に多様な個性の集まりである。

2月14日には雅会という中国茶道の集りにも出席できて、多くの人々と知己になる事も出来た。

恐らく雅会の参会者の中にはわたくしの設計する特別な集合住居に住んで下さる人々もいるのではないか。建築を介して、多様な人々と知己になる事くらい人生の楽しみは他にない。楽しみを尽くしたい。

それには尽きぬ努力が必要なのは言うまでもない。

命がけでやり抜くしか無いのである。

上海とアーメダバードの気温差はほぼ25度位か。今、これから荷作りをしなければならぬのだけれど、飛行機の中は寒いくらいだし、ムンバイでの長い時間待ちの空港内もエアコンで寒いだろうから、ほぼ今のまんまの服で行こうと、今決めたところである。

上海・杭州日記14

見学後、職人達と別れ、蘇州博物館へ。16時半近くで入れないだろうが、外からでも観ようとする。I.M.ペイが中国風屋根と対決した建築である。I.M.ペイの建築は理路整然とした近代の成果ではあるが、表現力、すなわち表情が乏しい。やり過ぎでも駄目だけれど律気過ぎてもいけない。建築は難しい。

博物館近くの現代住宅の商業的分譲モデルハウス・センターへ。

金のかかった立派なものだが、やはり固いデザインで、趙さんの知り合いの建築家の手になると言う。中国は様々なマーケット分野に建築家達が進出しているな。販売センターのプロモーションビデオを観る。

我々の仕事も宣伝、広報のプロモーションも重要であろう。幾つかのアイデアが頭の中に浮かんでは消える。誠に忙しい。

雨の中を上海に向けて発つ。

上海・杭州日記13

2月16日、少し寝過ごし9時離床。すぐ身仕度をして別棟のレストランへ。佐藤先着。昨夜はどうやらクライアントとクラブへ行ったらしい。

すぐに変更案の打合わせとアイデアの伝達。作図作業をしばし。10時過修了。今日は杭州を去り蘇州へ行くので荷作りに部屋へ戻る。

かなりな雨の中を蘇州へ走る。

14時半蘇州の郊外レストランで芝匠:百年伝統の技術名師、周園昌さん他と会う。趙さんが探し出してくれた中国伝統工匠の集団である。

世界各国職人らしきは皆同じ顔をしているなと感服。遅い昼食後、彼等のセンターへ行くも今日は日曜日なので入れないとの事。

彼等集団の仕事を見たいと、市内を走る。蘇州はIT部品産業の興隆で大都市へと発展との事。人工は600万人。

彼等伝統職人集団が作っている分譲住宅群を見学する。

左官技術が見られない。瓦職が中心のようだ。部分部分にいかにもな装飾が露出しているが、技術(能)水準はそれ程高くないように見受けた。木工と作庭を押さえればコストは何とかなるかも知れない。しかし、壁仕上げのニュアンス作りの伝達は難しそうである。

困難なニュアンスの部分を小さく限定しておいた方が良いかも知れない。ヒサシ部分と瓦との取り合いディテールは細心の注意を要する。

上海・杭州日記12

今回は二軒隣り合わせで建てられているうちの別の一軒へ。内部はブッディズム、チベット仏教関係の調度品でまとめられている。

打合わせ開始。昨日来のクライアント達のプレゼンテーションに対する意見を聞く。いささかの変更をしなくてはならぬが、至極もっともな点が多く納得した。

打ち合わせ終了後、用意された契約書にサインする。もう仕事は実質的に進行していて、中国での設計の仕事では契約前の作業は信じられぬとは聞かされていたけれど、趙さんの存在とわたくし自身の直観から、わたくしには自然な成り行きであった。時には人間は常識に反して自分の考えを頼りに進むのも悪くはないと思う。わたくしも様々な体験を経て、時には自分の信ずるところを行っても良い年令でもあるのだ。

この仕事は話のあった当初からやってみたかったのでなおさらの事ではある。虎穴に入らずんば虎児を得ずの風もある。

しかし、杭州でのクライアント集団の面々との附合いから、わたくしは彼等を信用して良い、信用するに充分な人物達であるとの判断もしたのだ。これが無ければ仕事に没頭することも出来ないのである。

契約書調印の後記念写真。そしてこのクライアント集団独自の山荘サロンのオリジナル特別精進料理をいただく。ワインとお茶(伝統茶)の組み合わせに納得する。杭州の「集」に少し馴染んできたか。

趙さん夫妻、クライアント、そして佐藤等は何処かへ飲みに行き、わたしは独りで西湖国賓館へ戻る。21時半室で今日の打ち合わせに対応すべく色々と考え、スケッチする。

夜半CCTVのオリンピック番組を眺めながら横になる。

上海・杭州日記11

2月15日、7時離床。眠れたようなあんまり眠れなかったようなウトウト気分である。日記を記す。沢山色々な事があって、記録しておかないと忘れてしまう。忘れてしまっては惜しいのである。さて、今日はいかがなりますやら。

9時前レストランへ。10時過、杭州市内の大ホテルへ。林海鐘さんと待ち合わせ。彼のホテル内ギャラリーで開催されている山水画展を観る。

山水画に関しては宋時代のモノが最高峰である位の知識しか持ち合わせがない。広い会場を一巡し話しも聞く。林海鐘の中国の伝統そして山水画への情熱は大きい。

「今の都市文化は中国本来の伝統を皆壊している」と言う。

「今の建築は見苦しくてイヤだ」と厳しい。

本物の保守主義者であるようだ。

しかし東山魁夷の絵に共感し、京都は素晴らしいという辺りは怪しいところもある。

李祖原に会わせたら、大激突になるであろう。

彼は都市文化の表象としての建築、そして中国文化の拠り所を目指している。

ホテル3階の客室に特別な彼のアトリエがあり、ウーム、彼も都市文化を享受しているのではないかとも思ったり。この人物とはじっくり話し合えば必ず激論になってしまうだろう。

しかし、いただいたカタログの中にはオッと想うようなエネルギッシュな生命感が横溢している絵もあり、ゆっくり眺めてみたい。

11時半辞す。12時西湖周辺の街へ。散歩して家並みを眺める。雨樋の処理に眼がゆく。

昼食後、クライアント・グループの拠点のひとつである森の中の家へ行く。前回杭州に初めて来た時に歓迎会を催していただいた処だ。

上海・杭州日記10

少し遅れて杭州連横記念館に着く。立派な木造中国建築群である。連横は表門表示によれば愛国史学家とある。杭州は国民党の勢力が強いエリアである。蒋介石を愛する人々もいるようだ。中国は大きい、ディテールには大きな物語りが埋蔵されている。奥まった処に一軒の桜閣があり、そこが古式茶道の会場であった。

すでに多くの人が参集していた。「鳥人」とも再会を喜ぶ。万科の王海光会長とあいさつ。

万科は中国最大級のディベロッパーで、安藤忠雄、隈研吾と仕事の附合いがある。我がクライアント代表あいさつの後、王さん立派なスピーチをする。我々のクライアントの今度のプロジェクトの意味を明快に述べた。納得する。中国のお茶会始まり、顔見知りの茶のディレクターと禅の話し等。故佐藤健から学んだ事が今になってとても役に立っている。

会場にはすでに顔見知りとなった人々の顔もチラホラ。

前回お目にかかった女性から大きな手作り菓子の長箱をいただく。

鳥人と、となりの席であったので再びゆっくり話す。この人物も底が深い。会場には中国琴のライブの音も流れ、雅であった。

わたくしは南面して畳に座して空の移り変わりを楽しんだ。

短いスピーチを促される。鳥人の家に負けたくないから頑張ると述べ会場の温かい笑いを得た。クライアントのリーダー一人の夫人の74才の母上の見事な唄も聴く。

伝統歌劇団のスターのようだ。毛沢東の前でも何回も唄い踊りしたらしい。お茶は幾種類も供された。

なかでもお茶の虫喰い葉を使った茶が独特な味、香りで甘酸っぱく、少し古めいたカビの匂いがして、これを愛でる中国人の感性の幅を感じさせられた。日本にはこの類は無い。虫喰い葉だけを集めて煎ったお茶とは不思議な世界である。茶席終り間近、杭州中国美術学院の中国画家、彼には前に会っている、寒山拾得の人と秘かに名付けた人物も来る。

明日10時に彼の展覧会を訪ねるのを約す。

18時過、杭州市内のレストラン、唐寧街八號にゆく。

杭州市最高値のレストランだそうだ。クライアントの中心人物二人の奥様達、先程の人間国宝の夫人の一人の母親も出席。一人は杭州TVの凄腕ディレクターのようだ。彼女は昔、TVドラマ西遊記の妖精役(妖怪ではない)の人気役者であった。西遊記は今、わたくしも少しずつ西遊の旅を重ねており、西安から敦煌、タクラマカン砂漠の入口、そして三蔵法師が辿り着いたインド・ナーランダから、中印国境近くまで旅をしたと話した。何か縁があるな。今度のプロジェクトも西遊記のひとつの章なのかな。

21時半了。美酒美人美食でいささか眼も腹も一杯である。今日はバレンタインデーとの事でクライアントは女性達全てに大きな花束をプレゼント。わたくしも趙夫人からチョコレートの小箱をいただいた。気遣いの名人達である。20時国賓館に戻り、お湯も使わずベッドに倒れ込むも、仲々眠れず。

青銅器スケッチ 上海博物館にて

上海・杭州日記09

2月14日9時朝食。今日はパンにする。少し計り胃が疲れてきている。10時敷地にて再再チェック。もう一度特に周辺状況を頭にたたき込む。桂花林を歩く。乾隆帝40年頃の物語りがあるようだ。村長もそう言っていた。敷地の反対側の裏路地を歩く。山地なのに日本の海辺の村の感あり。何故だろう。

杭州の美術学校副学長宅を訪ねるも留守であった。名刺を置いて去る。

再び村長宅にてクライアント、ローカルアーキテクト他集まりミーティング。

話題はディテールに及んでいる。13時前桂語山房にて昼食。

新作料理の店であり、美味なり。そこかしこにモダーン日本風(和風)の匂いあり。趙さんより小さな庭の可能性についての短い話しがあり印象に残った。その可能性が今の案からは消えている。中央の道路にそれらしきを再アレンジしてみようか。13時半了。雅会へ向う。

青銅器スケッチ 上海博物館にて

上海・杭州日記08

2月14日、そうか昨日の会話に現代中国女性の話し他が多く出たのは、今日がバレンタインデーであったからかと気付く。

相変わらず常識にうといと反省。8時前離床。雪は上がったけれど曇りである。昨日の寒さは半端ではなかった。

今日の午後は国民党のホールらしきで中国古来の茶道の会「雅集」に出席するようで楽しみだ。

洗濯しながら、昨日からのメモを記す。

中国の悠久の歴史中でやはり毛沢東による文革は大いなる伝統破壊の出来事であった事。それに批判的でもある人々が多い事など、中国の現実を少しは知るようになっている。

洗濯に熱中していて、自分を洗濯するのを忘れていた。

干し物で一杯のバスルームで入浴。

陶器スケッチ 上海博物館にて

上海・杭州日記07

2月13日12時過、六合満覚村村長宅へ。会食。

村長は強力なリーダーシップで1600人の村を統率する人物。

この人物を味方にしなくては計画は覚つかぬ。奥さん孫娘も同席。

娘さんは小学校の宿題に日本人の生活習慣と考え方の宿題が出ているそうだ。地下のワイン蔵の各種酒の値段を聞いてビックリ。文革前は富豪でゼロからのやり直しで苦労したそうだ。

13時半、西湖前のヨーロッパ風会館の一室でのプレゼンテーション。15時迄映像を使いながら説明する。冒頭で昨夜聞いた村長と桂花の関係を話す。プレゼンテーション後、打合わせ。

村長よりこの計画を支援するという言をもらう。前回一緒であったTV会社の撮影クルーと再会。18時迄打合わせ続く。

大きな変更はどうやら無さそうである。明日14日朝にサイトに模型を持ち込み周辺民家との関係などを実地検分することとなる。

18時半過、計画のリーダーの一人でもある社長宅で夕食となる。社長宅というよりも36才で亡くなった奥様の実家のマンションのようだ。

社長がブッディストになったのはその事も関係しているのかと思い当たる。

若いけれど、色々な苦労をしているのだろう。手料理、ワインをいただく。

社長の義理の弟さん、趙さん他も同席。

社長より日本の禅と中国の禅の違いを尋ねられる。

7月に前回お目にかかったチベット仏教赤帽派の教皇が仏堂完成祝があるので同行せぬかと尋ねられる。行きましょうと答えた。杭州との附合いが深まるのは面白そうだ。21時過了。

21時半、国賓館へ戻る。

青銅器スケッチ 上海博物館にて

上海・杭州日記06

2月13日

9時国賓館レストラン朝食。佐藤、昨夜の乾杯攻めにもめげず登場。心なしか顔色青い。食事を終えて、今日のプレゼンテーション準備作業をレストランロビーで。暖房あれど足元からシンシンと寒い。日本から持って出たプレゼン資料の手直し。修了11時半。特にビジネス・モデルを中心に修正する。

パブリック施設としての茶館に桂花館機能を入れた。

村長との昨夜の話しで、サイトの桂花(金木犀)36本は車の無い時代に広東省から持ち運んだもので、とても大変であったと聞いた。

12時前、プレゼンテーション、リハーサル修了。

星の子愛児園増築棟スケッチ 上海にて

上海・杭州日記05

2月13日8時離床。外は雪景色である。すぐに日記03-05を記し、チェックする。

今日は13時半からプレゼンテーションで村長も出席との事なので準備しなくてはならない。佐藤とたしか9時に国賓館レストランで待ち合わせで、午前中は準備に追われるだろう。

星の子愛児園増築棟スケッチ 上海にて

上海・杭州日記04

17時杭州駅着。前とは異なる駅で杭州には3つの駅があるようだ。クライアントグループの一人が迎えてくれる。

駅構内をエスカレーターで昇り降りして駐車送迎エリアに出る。

もの凄いでっかいリムジンで顔なじみになったドライバー来る。

聞けばアメリカ製のリムジンだそうだ。何しろデッカク、しかも急坂も登り降り出来る戦車みたいにいかつい。

18時前杭州西湖国賓館にチェックイン。今回はわたくしは趙さんが設計した棟に宿泊。荷をおろしてすぐに発ち歓迎会へ。クライアントの経営する健康料理店へ。2階の社長事務所でおいしい茶をいただく。室内は自然材でまとめられ、チベット仏教風のしつらえである。茶馬古道の興味深い本を読む。歓迎会始まる。クライアントの大方の顔がみえる。25名位のにぎやかな会となった。

すもも焼酎らしきワイン出る。昔、日本の長野菅平の開拓者の家で、正橋孝一さん手作りのものを飲んで、ブッ倒れた事があり、用心してカンパイを続けぬようにした。佐藤研吾はそれと知らずに乾杯乾杯の連続である。大丈夫かね。

しかし、今日は彼の誕生日であり大きなバースデーケーキも用意されていた。気配りは隅々まで行き届いている。

サイトの隣家でもある村長さんも出席。あいさつを交わす。

この人物はこれからの計画にとって重要である。

疲れ切る前に、わたくしと佐藤、そして村長と再びリムジンで会場を去る。21時西湖国賓館に戻る。雪降りしきる。

すぐに横になる

早く休めて助かった。

星の子愛児園増築棟スケッチ 上海にて

上海・杭州日記03

2月12日8時半離床。9時ホテル2階のレストランで朝食。チェックアウトして、近くの趙事務所へ。打合わせ。

11時上海博物館へTAXIで。1階の有名な青銅器のコレクションを見る。何度見ても感動する。夢中でスケッチに没頭する。大判のスケッチ6点を得る。紀元前1500年程の昔の造形物である。全てがアニミズムの表現である。造形にとてつもない生命力を感じる。スケッチしていると元気が出るから不思議だ。昼食を抜いてスケッチに没頭。13時過迄。14時前趙事務所に戻る。小休してTAXIで発つ。15時半前上海ステーション。雨降りしきる。15時半の新幹線で杭州へ発ち、今車内でメモを記している。

星の子愛児園増築棟スケッチ 上海にて

上海・杭州日記02

2度程夜中に目覚めたが、それでも7時半迄眠った。趙さん作成のスケジュール表では旧正月2月15日に合わせて、中国伝統の<雅集>がクライアントにより開催されるとの事。本格中国茶道を知ることができそうだ。楽しみである。

今日2月12日は午前中趙事務所でプレゼンテーション準備。冒頭に少し附け加えたい。昨夜指摘があった英略字表記は全て漢字に直す。東京との通信がスムーズにいくかの実験ともなる。インドのレクチャーデータが今朝入っている筈である。

人間の慣れとは面白いもので、前回あんまり眠れなかった上海のホテルもとり敢えずは眠った。

9時にホテル2階のレストランで佐藤と待ち合わせているので、それ迄しばしプレゼンテーションの改修イメージを作りたい。昨日の上海は5℃で風は冷たい。

星の子愛児園増築棟スケッチ 上海にて

上海・杭州日記01

2月11日13時半前、羽田空港中国東方航空、上海便機中。佐藤が厳重に一つにまとめてきた模型のラッゲージは、やはりどう考えても2つに分けたほうが荷物として扱いやすいので、そうした。幸い機内の棚にスッポリ納まった。14時前、滑走路脇にはまだ雪が残っている。

離陸前に眠りに落ちる。

16時前、星の子愛児園増築棟の基本アイデアからまとめて、佐藤にエレベーションスタディーたのむ。隣席だから伝達は楽である。

上海着は日本時間16時45分との事。

上海空港には趙さん手配のドライバーが迎えに来た。新空港にて趙さん合流。前と同じホテルにチェックイン。すぐに夕食へ。すぐ近くの上海小南国へ。

まだ中国(上海)は春節ペースが14日くらいまで続くのだそうだ。レストランの従業員の数も少ない。法政大学教授高村雅彦さん同席。趙夫人同席。彼女は東京に中国語学校を進出させるべく準備中らしい。食後皆と趙事務所へ。スペインからの特別なワインをいただく。

用意してきた杭州計画案を拡げて小プレゼンテーション。明日、色々な意見が聞かれるであろう。23時半、わたくしは一人一足お先にホテルに戻る。佐藤は残る。それも役目である。日本と1時間の時差があるので上海時間22時半過、風呂を使い横になる。いつも旅の初日はフルタイムで動くのでいささか疲れる。

星の子愛児園増築棟 上海にて

上海・杭州日記 TOPスケッチ


今日より中国、印度への旅です。

スケッチを1日1点ONしますが、日付通りにこの絵は1ヶ月前程の最初の杭州の旅に際して得たもので、1ヶ月昔のものです。

杭州で進めることになる仕事のサイトで描きました。

確約はできませんが毎日更新してインドからはday by dayな現在進行形とします。

2月11日

石山修武

1226アルチ村日記 ある種族へ

日付けも、サインも入れていないスケッチである。余程、描きたくって、他には何も考えずに描いたものだろう。
アルチ村の、アルチ寺院。その門前の古いストゥーパで眠りこける姿を描いている。猫の背景になっているストゥーパは恐らく、アルチ寺院の境内にあったものといわれている。アルチ寺院では最古のものだろう。

1225アルチ村日記 ある種族へ

アルチ寺を訪れる観光客は多い。秘境と言われたラダック地方は昔の事。今は、毎日レーからの定期バスや中型バン等に乗り込んで多くの人間がここを訪れる。ラダック地方に最初に訪れた外国人が何びとであったのかは知らぬ。誰を外国人であるとするかの定義も、ここ迄来ると仲々に難しい。

レー周辺の良く舗装された道路には、インド人であろう、かなりの集団のバイクツアーの連中が多かった。インド人がヘルメットに黒メガネそして皮ジャンのバイクツアーかと驚いた。インドの人間がまさかバイクかの、考えてみれば不可思議な偏見がわたくしの中にどうやって植え付けられたのかは面白い問題なのだろうが、今は考える術が無い。お手上げだ。

しかし、ヨーロッパ人のチベットへの一番乗り競争の歴史を今は我々は知るのだが、地政学上のヨーロッパ各国、特にイギリスとフランス等の軍隊も交えた潜入競争の如きがラダック地方にも及んだのは充分に考えられる。つまり、ヒマラヤの高峰への国家間の一番乗り競争とは少し計り異なる、より植民地支配願望に限り無く近いヨーロッパ諸国の人間達の、ある種の目的を持った探険者に近い種族の存在を考えなくてはならない。中央アジアがそうであったように、ラダックはそのヨーロッパ人にとっての未開の地の、その又更なる秘境でもあったろう。

カンボジアのアンコールワット等の遺跡への来訪者は今は中国人、韓国人が圧倒的に多いようだ。観光客の数はその国の経済力、すなわち国力に比例するのである。かつて、ネパールを度々訪ねていた事がある。首都カトマンドゥはヨーロッパ人の小さな凝似ユートピア状態をさえ呈していた。アメリカ西海岸の人間にとってのハワイは、アメリカ開拓者時代の西へ西への無際限な欲望の残滓が、太平洋上の火山列島に不思議な花を咲かせた如くである。

アメリカ合衆国の歴史は浅い。それ故、ヨーロッパ諸国のように自国の植民地経営としてのオリエント、有り体に言えばアジアという場所が想定される事は無かった。わずかに第二次世界大戦(太平洋戦争)の戦果としての日本、フィリピンがそれらしきの形としてある位だ。今は国家としての視え易い形式ばかりでなく、世界企業の経営戦略の対象としての個別な地域としてのゾーンになり代っているとも言えよう。ネパールは今、中国の政治経済力の支配下にほぼあると言えよう。それ故に首都カトマンドゥにあったヨーロッパのハワイとも呼べようカトマンドゥからはすっかりヨーロッパ人の姿は消えたと言われている。その姿を消したと想われるヨーロッパ人の姿がラダックに、レーに群がり始めているのではあるまいか。

レーの一角にはかつてのカトマンドゥの一角ではないかと視まがうばかりの町の姿がある。スケールも密度も70年代のカトマンドゥにははるかに届いてはいないけれど、そのきざしは十二分にある。レーに代表されるラダックの風景はカトマンドゥ盆地に酷似している。要するにヒマラヤの峰々なのである。ヒマラヤの峰々を遠くに望む、その風景は、ヨーロッパアルプスの白い峰々を超えると地中海の光溢れる国々、すなわちローマ帝国であり、ギリシアでもあるヨーロッパの原郷とでも呼べるゾーンが今でも展開しているのだ。北ヨーロッパ、すなわちスカンディナビア半島の国々を含むヨーロッパ諸国にとってヨーロッパアルプスは地中海の光溢れるゾーンへの越えねばならぬ障壁としてあった。ナポレオンもゲーテもヨーロッパアルプスを越える、踏み越えるのを念願ともしたのである。

そんなヨーロッパ人にとって、ヨーロッパアルプスよりもはるかに高く巨大な峰々、すなわちヒマラヤの存在はいかばかりに、眼にそして脳内風景へと写り込んだのであろうか。

−−つづく−−

1224アルチ村日記 ある種族へ

2014年2月2日

アルチ村の境内から仲々外に出られない。まだまだアルチ寺院境内で得たスケッチだって多くあるので、それを手掛かりにした記憶も決して消えぬであろう。人間の記憶は我々が考えているよりは余程しぶとく、したたかなものである。それを頼りにほとんど無限と言って良い位の、再びの旅に出る事もできるのだ。亡くなった友人の事まで想い出させてくれる。死者は生者が記憶をたどる毎に生き返るのである。記憶の中では死者、生者の区別はそれ程に定かではない。皆、うたかたの夢のようなモノなのだ。センチメンタルなそれは懐古趣味ではない。それはスケッチに良く表現されているのだ。

お前の言う、うたかたの夢、つまりは荘子の蝶の如くは現実に在るのか?

それは在る。蝶の飛ぶ羽音や、飛ばせる風の音だって聴くことができるのだ。

このスケッチに描いたアルチ村の空の雲がそれだ。

そして、ハタハタと鳴っていたタルチョの旗の音もそれなのである。そして、このスケッチの右下に描いた、とても気になったから描いた、金属製の小社、ガラス戸の内に静かに燃えていた灯明の火の光。そして、その匂いも記憶によみがえってくるのである。

この小さな貧しい金属製の社(やしろ)の中で強い匂いを放ちながら燃えていた灯明は、アルチ寺にいてスケッチをしていた無意識の中では気付かなかった。しかし、この灯明のチリチリと燃えていた灯りが、スケッチにあるように、空に昇ってこの雲になっている。それはスケッチに一目瞭然に表現されていたのである。

人間が夢中になって、我を忘れて描いたり、積んだり、彫ったりするモノには全て世界の一部が、開示されているのである。

アルチ寺院境内、のみならずラダックのそこかしこには、そんな世界とも、宇宙と呼んでもしかるべきモノと応答、交信しようとしているモノを、それこそ無数にと言って良い程に視ることができた。・・・・と、このスケッチを眺めながらようやく気付くのである。この灯明の赤い熱と光が流れ、昇り、タルチョの旗に語りかけ、風となり、音を発し、多くのストゥーパのいただきに巨大な祈りの印をも作らせる。それは三層堂の頂きにも在り、ありとし、あらゆる建造物の頂きに在ろうとする。

アルチ寺院の創建は恐らくはその様な人間の高貴な直観としか言えぬ、モノを介して祈りたいと考える情熱から産み出されたものである。

ここに最初のストゥーパを積み上げた人間は、恐らく、このスケッチに描いたインダス河、対岸の巨大な岩山に畏敬の念も抱いて、ここにその畏敬の想いを印そうとしたにちがいないのである。

アルチ寺院が建立されたアルチ村はこの地方には驚くほど豊かな麦畑と、樹木、そして草々や花のつまりは生きとし、生けるモノのうごめいている場所である。

一歩村の外に出れば、そこは砂と石と岩山の鉱物世界が広がる。ここには生命のきざしが良く視えるのだ。

そして人間はインダス河の流れに突き出した場所を見つけた。その場所の向いには巨大な岩山がこれも又、何者かで在る如くに巨大に存在した。その場所を選んで絶妙な人間の構築物が作り続けられたのである。

だから、このスケッチ、あるいはドローイングと気取って言っても良かろうが、これは下手くそだけれども、わたくしなりの曼荼羅であったのだ。

普段、東京で暮らしている時間であってもわたくしは身の廻りをスケッチするならば、こんな光景を描く事が出来るのやも知れない。それが人間にとっては理想とも言える状態であり、時間なのであろうけれど・・・。わたくしにはまだそれが出来ないのである。

だから、はるばるラダック迄出掛けてスケッチを沢山しようとしたのだろう。ラダックはチベット仏教文化圏である。空に一番近いところであるとも言われる。

そこまで出掛けなければ、こんなドローイングを得られぬ、まだ身体なのである。残念だが、これはやはり仕方なくもある。人間は、特にわたくしのような近代人、しかも不自由な知識層らしきは、都市から離れぬ限り、自由で柔軟な気持を持てぬような輩になっているのでもあろう。

アルチ村日記をいささかの無為とも思われる努力をして再開してよかったと痛感している。

ドローイング(スケッチ)する事の重要さも。

まだまだアルチ村日記は続けたい。あと一週間程で再び中国、インドへの旅というか、仕事でもある事に出掛ける。でっかい画用紙といささかの道具も持って出たい。アルチ村日記が杭州日記となり、アーメダバード日記になり変わる混濁振りもすでに眼に視えている。でも、描き続けたい。

1223アルチ村日記 ある種族へ

アルチ村アルチ寺院門前のキッチン

2014年2月1日

アルチ村では目的のアルチ寺院三層堂に一番近いゲストハウスを宿にしていた。これ以上近い宿泊所は無い。なにしろアルチ寺院の門前である。

三層堂他のスケッチや写真撮影には極度にうるさい寺の坊主は、山門の開け閉めにはひどくルーズで、閉めていたり、かんぬきもせずに夜も開け放っていたりだった。こっちのほうが余程物騒な筈なのに、しかし、これが寺院の本来の在り方ではあろう。

本来の寺院とは観光の対象として訪れるわたくし共のような輩の為に作られているモノではない。祈り、すなわちつきつめるところ仏教では自己救済を願う気持を作り出そうとする場所であろう。一神教の如くに絶対の神の許しや救いの如きを願うところでもない。祈りの対象は、ほとんど万物にまでひろがる。極論すればアニミズムなのである。

だから犬でも猫でも来る者は拒まず、全てを受容するのは正しいのである。山門は開け放しが良い。

1979年の高野山大学、毎日新聞合同隊のラダック密教文化調査の頃は、アルチ寺院の山門はあったかどうかはともかく、扉は開けっ放しであったに違いない。隊員の一人であった(本人は行動隊長だと自慢していた)故佐藤健は、深夜ロキシーを飲んでは境内を自由に歩き廻り、なんと三層堂内にだって入り込み、二階も自在に見て回り、偉そうに瞑想まがいをやってのけたりもしておったと報告している。恐らくまだ電気は引かれていなかったから、ロウソクや灯明の、ゆらめく明りで曼荼羅の全ても眺めたのであろう。実にうらやましい限りではある。

灯明やロウソクは無くとも、満天の星あかり、あるいは月の光が堂内を実に微妙に照らしだしていたことだろう。星あかり、つまりは宇宙に万遍なく在る光で視る曼荼羅はいかなる言葉を彼に語りかけたであろうか。驚くべき体験であったろうことだけは想像できようというものだ。

曼荼羅は肉体を持たぬ修行中の、あるいは悟りを得ようとする坊主なのであろうか。声なき声で、だから語ろうとする。観相とはそういうモノではあるまいか。声なき声を聴こうとするのが観相だろう。

ゲストハウスは往時、恐らくはアルチ寺院境内にあった僧院なのではないか。ゲストハウスのお婆ちゃんも、亡くなった爺さんも、恐らくは僧であり尼僧であった。そしてこの僧院に住み暮らしていたのだろう。その縁があって、今、ゲストハウスの営業を許されて宿屋業を営んでいるのではないか。

それであの自分の姿をスケッチさせても、三層堂内、大日堂内他のスケッチは遂にさせなかった二人の坊主は、朝、夕と、恐らくはこのゲストハウスの飛び切りうまいナンを、当然の如くに施され続けているのである。施されるというのは失礼かも知れぬ。当然の権利の如くに食客であり続けているのだろう。坊主の、そのナンの食べ方の堂に入った姿を眺めてそう確信したのである。ナンをいただきに来ている風はまったく無い。だって、昔、ここは僧院であり、僧院の食堂(じきどう)であったからだ。

ある日の朝方、朝食に庭のテーブルに出ていったら、宿のお母さん、今の主人の奥さんが来いと言う。何だろうとついて行ったら、キッチンでナンを焼くから見物したら良いと言う。何処にナンを焼くカマドがあるのかとキョロキョロしても、そんなモノは一切ない。アルチ寺院の境内に直接接した庭の一隅で、スレートらしき平板が、石を並べたカマドの上に置かれて、その簡易カマドに薪がくべられ、火がつけられた。やがてスレートは熱されて鉄板焼きならぬ石板焼き状態となる。そして、小麦粉が練られたナンの原材がトローリと熱いスレートの上に流され、拡げられナンが焼き始められる。

薪の煙はアルチ寺院の境内へと悠々と流れてゆくのである。空をゆく雲の如くに。

特別な道具としては平たく少し大きめな石板スレートだけ。そのスレート板は一部が割れて針金で縫われている。他は、そこらの石ころでサッと作られたカマドだけ。女主人は手織りマットの上にどかりと片膝立てのあぐらをかいてのナン焼きである。庭の一隅にはいくつかの台所用品らしき大皿、大鍋が無造作に転がされている。

実におおらかな自然の庭につくられたキッチンであった。

その焼きたてのナンの美味であったことよ。

1222アルチ村日記 ある種族へ

2014年1月23日

ラダック、アルチ村三層堂をどうしても見てみたいと考えたのは次の理由である。

1.小振りな御堂の三層の床をブチ抜いて大きな仏像が突き抜いている異様

2.小振りな建築そのものが日本の阿弥陀堂との類似が強くありそうだ

3.チベット仏像の曼荼羅の原型らしきに触れてみたい

1に関して。

高野山大学松長有慶学長(当時)を隊長とする1979年の長期にわたるラダック仏教調査隊による研究調査によっても、アルチ寺院の三層堂形式がラダック仏教の中興の祖とも言うべきリンチェン・サンポによるものだとされている。リンチェン・サンポはインドで本格的な仏教を修行し、ラダック地方にそれを拡めたとされている。すでに当時のインドでは仏教は著しく衰退しており、その意味ではチベット仏教に残されているとされるインド仏教の、これは良い雛形とも言えるようだ。木造が主であった仏教寺院の特徴を良く示しているとされる。

木造建築ではあるがラダック地方には豊かな木材資源は極めて少ない。原野の大方は荒れた砂漠状である。それ故に建築物は小振りにならざるを得ない。

しかし、信仰心の強さはそこに納められる仏像の出来るだけの大きさを求めさせた。しかる故に仏像の大きさに比較して堂宇の大きさは小さなモノにならざるを得ない。だから三層の床をブチ抜いて仏像が屹立することになった。床をブチ抜いて仏像が空間をつらぬくと言う、得も言えぬ観念的暴力性が殊更に意識されているのではない。もし意識されていたとしたら、この三層堂型式は極めて近代性を帯びた表現の城に達しているのだけれど……。現物を視て、コレはそうではないなと考えた。二階に昇ることが不可能であったので、ディテールを視る事が出来なかったが、床の切断面の作られ方がいかにも無造作であり、仏身の貫入、しかも物体への貫入というスーパー観念のなせる術ではないのを知ったのである。

日本の播磨、浄土寺浄土堂では、これも巨大な阿弥陀像が、虹梁が飛ぶ空間をブチ抜きはしないが、虹梁の在るのを構わずにドカーンと立ち上がっている。設計者とも言うべき重源は天井を張る和様をとらず、宋からの大仏様(天竺様)を採用した。和様であれば、これも天井板をブチ抜くものであったろう。御堂が仏像に対して小さ過ぎることに対する、敢えてする工夫であった。敢えてというのは経済的、実際的な諸条件に対する極めて現実的な処理の仕方であった。しかし、ここでも重源は丈六の立像を小さくしようとはしなかった。アルチの三層堂も同様である。僧侶という共に中世の宗教家は覆い屋(シェルター)としての仏堂を内の仏像より下位にあるものとして考えていたのである。建築史家、建築家の宗教建築観はその点に著しい不備がある。

2、については一部をすでに述べてしまった。アルチ寺院の三層堂の主尊は観音、弥勒、文殊の諸菩薩である。日本の平安期の阿弥陀堂は大日如来すなわち阿弥陀仏である。

アルチ寺はリンチェン・サンポにより11世紀、遅くとも12世紀には三層堂と大日堂は建立されている。アルチ寺の主堂である大日堂の阿弥陀像と日本の阿弥陀信仰がどのように関連し、壮大な流れを持つものなのかは究明されていない。佐藤健の『阿弥陀が来た道』は阿弥陀の原像を追った大きな旅でもあった。私事ではあるが記しておきたい。

3、曼荼羅の原像に関してはいまだに述べる力を持たぬので記せぬ。しかしながら曼荼羅は突きつめるに宇宙の四次元を平面に転写しようとする無理がその中心に在ると考えている。アルチ寺の三層堂の如くの建築立体の方がその様な人間の宗教的表現意欲を成すには適しているのではなかろうか。

1221アルチ村日記 ある種族へ

ひとつ前の日記にアルチ寺院の恐らくは駐在トップの住職とも言うべき坊主のスケッチを掲載した。その肖像スケッチまでして、三層堂内のスケッチをしたくて叶わず、なんとか僧侶のかたくなさに取り入ろうと試みた末でのスケッチであった。

結果はそれでもダメだったのはすでに記した。冬には全く観光客も、取材も無い処である。夏にだけレーまでの空路が各地から開かれ、多くの人々が訪ねられるようになった。

しばらく前までは字義通りの秘境であり、禁断の地でもあった。

何年か前にアルチ寺院の境内東を流れる豊富な水量のインダス河にダムが作られた。そして、この地方一帯に電気が供される事になった。アルチ村にも、アルチ寺にも今は電気が供されている。インダス河のダムによる発電は予定の発電機4台が2台しか稼働していない。それでアルチ村の電気は時々停電し、思うままに電気を使うには至っていない。それでアルチ寺院の三層堂には小さな90cm×45cm程の太陽光発電のパネルが設置されている。

アルチ村に来て、何よりも驚いたのは、十分にスケッチさせてもらえなかった曼荼羅よりも何よりも、この太陽光発電の小型パネルの普及であった。恐らく坊主やその夫人達が自分の手で設置したものだろう。この件に関しては再び触れたい。

さて、名前も聞かずの坊主のスケッチをもう一点掲示する。このもう一点は何だか描きたくも無い坊主の肖像画まで描いて、それがこちらの三層堂内を描かせろの意思表示であったのが、それが空振り。坊主は何を感じているのかを表には出さず、門前の我々の宿舎、現地ではゲストハウスの手製ナンを持って去った。三層堂の坊主達(わたくしの知る限りでは常時(常駐と言うべきか?)は2名だけ)は時折、自分たちの食用のナンをこのゲストハウスから供されているようだった。恐らく昔、アルチ寺の信仰生活が生き生きとしていた頃は、適度に多くの僧がいて、この宿舎は僧房であったのではなかろうか。

つまり、我々が宿泊したゲストハウスは往時はアルチ寺院の境内にあった。堂宇の伽藍、ストゥーパ等の諸々の配置からそう予測する。

で、その名残りが今の坊主二人が夕刻になると時にゲストハウスにナンを貰いにくるという慣習につながっている。人間の習慣らしきはそんなアルチ寺院の歴史までもうかがわせるのである。このゲストハウスはインダス河に向けて、と言うよりもグルリと周りを囲まれた一番の丘の高みに位置している。

さて、そんな命のアッピールにもかかわらず三層堂内のスケッチは出来ないと知ったわたくしは、そのスケッチを破り捨て坊主に投げつけたりはしなかった。本当は無念さで煮えくり返っていたけれど。お前の日頃の宗教的営為と、わたくしのスケッチはどれ程の意味の相違もあるまいと迄は勿論言わなかった。

それ程の馬鹿ではない。でも、わたくしのスケッチだって本来的には無為無償の行為である。アルチ三層堂に10ルピーの入場料を支払いグルリと見て廻る観光客と同じではあるが、最小限のお前等の食費位になるのであろう、その10ルピーの喜捨と同様に、スケッチだってそんな喜捨の意味と、ほぼ同様なのである。

インドのナーランダ大学遺跡で夢中で大ストゥーパの遺跡をスケッチしていた。猛烈な炎天下であった。いつの間にやらかすかに涼しさの気配を感じた。遺跡の恐らく守衛さんなんだろう、二人がわたくしの汗だらだらのスケッチ姿に傘をさしかけてくれていた。

スケッチを終えて、わたくしは二人に本当に手を合わせた。

そしたら

「ナーランダを描いてくれてありがとう」

の言葉が返ってきた。わたくしのインドの旅の宝石のひとつである。

アルチ寺院の坊主にはそのカケラの感性も無い。恐らくは500ルピーくらい握らせれば何かの手立てはある事位は知るのであるが、その坊主二人の態度、姿勢にわたくしもかたくなになった。それでアウンとでも言うべき袖の下のムニョムニョ経文は使わなかったのである。(別のところでは、勿論使った)。

スケッチ不能の無念さは、やはりスケッチによって返さねばならぬ。左のホホを張られたら、右のホホをなぐり返すのだ。

それで、わたくしはもう一枚のスケッチを描いた。もう、このヤロー、フテエ坊主め、地獄に落ちろの肖像スケッチが、そして生まれた。コレである。

もう、ただただ、うらめしく、憎いだけの、やはり姿にそれはなったのである。

が、しかし、何かフッと変な気分にも陥ったのである。

いかにも無教養で思索の日々とは無縁の坊主ではあろうとも、やはり坊主は坊主である。

彼等には祈りと自己救済の修行の他に、呪いの術もあると言うではないか。それで、わたくしがこんなスケッチを描いたのを知れば、知る程に彼等は、もしや呪術を施すやも知れぬ。それは、何だか恐いナアとわたくしは考えたのである。

それで呪除けも示すことにした。

それが、悪魔の如くに描かれた坊主の頭近くに描かれた輝く、金色の光輪のようなものの、つもりなのである。これは魔除けの光輪なんである。

実に、今に細々と連なるわたくしの宗教心と言えようものの、これは表現であろう。

祈りは天に通じぬ事が多いが、呪いは通じそうなのが現代の不安なのである。

1220アルチ村日記 ある種族へ

アルチ寺院の主役は境内の建築群ではない。寺院の運営者である僧侶だ。坂口安吾や岡本太郎がかつて言い放ったように、寺院建築は焼けて良い、僧侶さえ生きていれば、は正論である。しかし、現実には焼けない方が良ろしいし、焼けてもそれをより良く再建出来る僧侶は見事な位に居ないだろう。今の日本においてもチベット仏教が今に生き残っていると言われるインドラダック地方の各寺院でも、そんな事情に大きな変わりはない。

アルチ寺院のトップの僧侶も同様である。彼の部下なんだろう三層堂の堂守りらしき坊主は入場料をキリリと取るのにやっきだったし、写真撮影をさせぬのに異常な位の情熱を振りしぼっていた。そして、スケッチも絶対ダメだとさせなかった。写真はともかく、スケッチは良いのではなかろうか、ダメの理由を聞きたい位のものだ。

で、三層堂堂内のスケッチは出来なかった。

でも、やっても薄汚れて輝きを失った曼荼羅群があるだけなので、大型本の写真集を眺めていた方が余程よろしいと負けおしみを言う。

ある夕方、その堂守りの坊主の上役であるこの坊主が我々の宿舎にやってきた。我々の宿舎は夜に朝に三層堂の曼荼羅を眺めるためにも、アルチ寺院の山門の真前にとったのである。宿舎を出ればアルチ寺の境内の毎日であった。

曼荼羅のスケッチが出来なくなったので、他の境内のあらゆるモノに眼がむかざるを得なかった。それで無闇やたらに一見雑物ガラクタばかりをスケッチし続けたのである。

この絵の坊主が、だからある夕辺宿舎にきて、しかも宿舎のオバアちゃんの手作りのナンももらっているのに出くわした時は、コレはチャンスであると思った。

だからサッと坊主の顔姿をスケッチした。それをして、「ホラ、コレ、アナタだよ。宗教家らしい、いい顔してるよね」

と猫なで声でなだめすかし、

「だから、お願い。三層堂の中でスケッチさせてくれ」

と必死に頼み込んだのだった。

結果は、それでもダメ。

ウンともスンとも、ピクリともダメであった。

こんなスケッチ描くんじゃなかったの一枚である。本当の無駄な一枚だ。

1219アルチ村日記 ある種族へ

2014年1月18日

アルチ村のアルチ寺院境内には不思議なモノがいっぱいある。三層堂も不思議なものだ。だからはるばる旅をしてやってきた。でも三層堂の不思議さは言ってみれば解る範囲の内の不思議さとでも言おうか。自分の中で失われてしまった宗教心、信仰らしきを遠廻りに恐る恐る見物するに過ぎぬ。五色のタルチョの乱舞も、風に経文を読ませていると理解したりはできるけれど、本当に耳に何やら読経のような音や声が秘かに響きわたるわけでもない。

やはり、それはハタハタと、あるいはパタパタとひるがえっているに過ぎない。決して奇跡は起こりはしない。

沢山ある石積みのチョルテンも何も語りはしない。

でもそのチョルテンの頂きに杖が立てられ、何と黄色い空きカンが空に向けて建てられているのには、理解とか解釈を超えてしまい感動してしまった。この感動らしきが旅の役得であろう。

古びたゴミのひとつである何かの空きカンが何かの印として空に向けて建てられている。

これは謂わば、今の建築のはじまりのひとつなのではあるまいか。

道標と言いたい。

1218アルチ村日記 ある種族へ

2014年1月17日

リンチェン・サンポツェによって創案され、ラダック地方に多く建てられたのが、アルチ寺院の三層堂形式である。多くの概説書にそう書かれている。三層堂は勿論建築形式である。しかし最も重要なのはその内に奉納された曼荼羅の図像だ。しかし最も古来の形式を残しているというアルチ寺の曼荼羅はすでに薄汚れて、本来の輝度を失っていた。図像が描かれた顔料が風化して、それこそカサカサに老いていて、見るべきモノの様には残念ながら思えなかった。それに堂守りの坊主が絶対にスケッチもさせなかった。

この坊主は比較的若い修行中の坊主であった。三僧堂は観光客の入場者が多く、壁や天井に描かれた図像くも恐らくラダック地域の入域が認められてからの傷みが激しかったのであろう。

観光という近代のなせる業である。わたくしもそのお蔭でここに居る。

しかし、曼荼羅図像や三層堂の建築よりも何よりも、正直わたくしの眼を引いたのは境内、入り口近くに在る黒く枯れて、恐らくは死しているのやも知れぬ、それはそれは古い老木であった。

その老木に多くの人々が今も曼荼羅の壁画の奉納代りに、それでも奉納を続けている小さな旗チョルテンの乱舞である。

恐らく雷にやられたのだろうか、黒くミイラの如くになった老木は異様な存在感を境内に放っていた。

自然の樹木が徐々に老いるのではなく、一気に黒焦げになって凍りついた様であった。

その老木に無数のと言いたいチョルテンが結びつけられ風に秘かな音を立てている。

一切の理屈めいた想念もなく、このほとんど死した黒い老木にわたくしの眼は釘づけになったのだ。

その時は何故なんて考えもせずに、夢中でスケッチした。

今、そのスケッチに見入って、これは老いる自分を重ね合わせていたのかと、小賢しい考えをこびりつかせようとしている。

相も変わらずの小賢しさであるけれど、見事に老いるというのはこんなことなのかも知れぬと、考えてみると仲々に勇気もわいてくるのである。

1217アルチ村日記 ある種族へ

2014年1月16日

半年程も昔になったアルチ村、他のインド・ラダック地方の旅を思い起こしている。日記と言っても記憶に頼るあやうさを持つものになるだろう。

でも、敢えて日記としてこれから記してゆこうとするのにはわたくしなりの理由がある。

つまり、半年のアルチ村日記の中断は意図したものでもあると、居直ろうとしているのである。

まことに我ながら剣呑な人間ではある。

何故、そんな不自然なことをしようとするのか?それは、半年前に記していた記録を読み直していて、実に、申し訳ないのであるが、あんまり面白くないと考えてしまったからでもある。

自分の記憶があんまり生々しくって、これでは日本で何となく不自由で砂をかむような暮らしをしているやも知れぬ皆さんには、何だコレワ、呑気なジイさんの勝手な旅じゃないかと思われかねぬと自覚してしまったのであった。

わたくしは決して呑気でヒマにまかせたジジイではない。そんなところも少しはあるけれど、実は皆さんと同じにセコセコと何時も何故いそがしいのかも知らぬままにジタバタとあえいでいる人間でもある。

そのジタバタ振りが半年前の日記の形式ではあんまり伝えられていない。それは片手落ちで、もう少し言えばエエ格好した、やっぱり呑気なジイさん風であるような気もしていたのである。

もう年齢から考えても、そんな状態を自分に野放しにしておいていい筈もない。

それで日記の書き方を変えようと考えた。考えたは良いけれど、それ程わたくしに文才らしきが備わっているわけもない。

文体らしきはもう固まって変えようが無い。

それで、それならば自分のスケッチを主役にした日記を試みてみようと思い付いた。

幸いに、というか本能的にそんなことを見越してはいたのだろう。

アルチ村では異常なとも思える程にスケッチを沢山描いた。

自分でも何故、こんなに沢山スケッチしなけりゃいけないのか、勘弁してくれと思う位に、務めのようにスケッチをし続けたのである。

これは文章で書く日記よりも実にアブノーマルなことではある。

全てのアブノーマルさには必ず、大事な意味がある――がわたくしの考えの根本には在る。

で、このスケッチ群はわたくしにとっては言葉よりも大きな意味があるのではないかと考えたい、と考えたのである。

わたくしはモノのデザイン、設計、そしてものを作ることを生涯の仕事にしている。

どうやら、それ以外には大したことも出来そうにない。モノを作るには言葉を作るのも大事だけれど、やはり、何かの形や色、そして肌ざわり等を作り出すのが最終的な目標となる。それ以外は努力のプロセスであり、結果はいつもモノ自体なのである。

言葉は時に、モノを作り出してしまった言い訳になるようなところもあるのだ。

そう自覚した。

だから、異常な位に描いてしまったスケッチを一度ここに陳列して、それを吟味してみることは、言葉だけを労するよりも、本当の意味で、自分自身の表現の、何者かを知ることになるのではないかと考えたのである。

で、先ずはこのアルチ村に到着して初めて描いたスケッチを展示したいと思う。

少し前置きが長くなってしまった。

このスケッチを描いた動機のようなもの、については次に述べることにしたい。

スケッチの説明をしたりの愚は犯さぬようにしたい。

1216アルチ村日記 ある種族へ

「小石と装飾」

布を引いたテーブルの上に小さな石が何粒も置いてある。ビー玉程の大きさの粒だ。アルチの僧院の門を出たところにある小さなストゥパの基壇の上に供え物のように置いてあった小さい石である。皆、それなりの美しさを持つ。美しさと言っても宝石やガラス細工のそれとは違う。河原や畑を流れる小川のほとりできっと拾い集めたものなんだろう。まとめてストゥパに置かれていたものだから何かの願いか、記念の気持が込められたものであろうか。

日本でも恐山の賽の河原と呼ばれる荒涼とした荒地などには手頃な石が積まれて小山の形を成しているのがある。これは多くは亡くなった人達の記憶のために積まれるようだ。賽の河原の石の小山はもの寂しい。いつも荒涼たる風が吹くような風景を作り出している。恐山の河原には死者が集うと言われている。夏になると死者を呼び出す巫女(イタコ)が集うことでも知られている。

アルチ寺の門の外に在るストゥパはこの寺院では最も古いモノであるとされる。形も古雅である。何の大ゲサな装飾も施されず、人を威圧するようなモノは何もない。ストゥパの最下層の壇にチベット風の獅子や雲形が荘厳されていて、かすかに彩色されているのが残されている。

ストゥパはメインテナンスが必要である。石灰を水にといた液状の灰がただストゥパにぶちまかれ続ける。それ故にストゥパの形は自然に鋭い輪郭を欠き、柔らかい形状となり大地に馴染む。世界中の白壁状の壁を持つ民家が柔らかい感じに包まれるのも、同じ理由からだろう。白く水にといた石灰が、かけられ続けるのである。白い石灰は大地にも流れ、石畳やらにも流れ出し、極く極く自然に大地との一体感をいや増すのだ。全て人間のメインテナンスの結果であり、自然の風雨の侵蝕の結果でもある。延々たる時間がストゥパを大地に融け込ませるのである。

では人間が秘かに置き続ける小さな、これも又、白い色のモノが多い小石は何者であるのだろうか。

アルチ村、及びアルチ寺院はインダス河のほとりの小さな台地に作られた。インダス河はここでも大河である。水量も多く、すぐ上流には巨大なダムが建設された。そこで得られた電気がアルチ村に電気の燈りをもたらせた。いささかの近代が持ち込まれた。インダス河の河原には小さな美しい小石は見当たらない。河原の石は皆大河なりに大きく荒い形状の群である。

だから、この小石は小さな川から丹念に拾い集められたモノにちがいない。人間の暮す集落に間近な小川からのものだろう。これだけの数を拾い集めるのにはやはりある程度の時間を必要とするだろう。

我々、近代都市の消費文化に染まった者にはそんな時間の持ち合わせはない。小さな美しい丸味を帯びた小石を拾い集めるなんて時間はありはしない。

だから、アルチ村から持ち帰った小石がいつまでもテーブルの上から姿を消さないでいる。我々が失った時間の生れ代りなのだ。コレは。

それ以上の事は今は考えられない。つまらぬセンチメントだと言われても言い返さない。この感情はセンチメント(感傷)に近いモノであるだろうが、わたくしはノスタルジーと呼びたいと思う。ノスタルジーはこんな、キレイな小石を拾い集めて何かに託すという、人間本来の装飾的行為の表現である。

1215アルチ村日記 ある種族へ

年をいささかとってみて想うのは、なる程生きるというは旅に例えやすいものだなあという事である。どうしても決して若くはないから最短距離での物言いがしにくくなる。知恵というのか自己防御なのかは知らぬ。まあこれも一種の年令なりの自己保身、つまりは見栄なのだろう。言葉の表現が廻りくどくなる。どうしても遠廻りにならざるを得ない。目的地があるのかどうか、あっても直線としては行けぬ旅と同じようなものである。

アルチ村日記を書き続けて中断していた。もう書くのはやめようとは考えてはいなかった。又、書きたくなるのは良く知っていた。自分とだって附き合って、もう長くなる。決して短い附合いではない。一番の未知は自分だけれど、それを書くにはまだまだ若過ぎるような気もする。もう少し年をとらねば書けぬ。そんな恥ずかしい事は今はまだ出来ぬ。

再びアルチ村日記を書き続けてみる。

何故かなんて事は言わぬ、書きたいから、そして書き捨てた何がしかをいささかの人に読んでもらいたいと考えたからである。それ以上でも、それ以下でもありはしない。

現在、日記状のモノを3本程書いている。我ながら書き過ぎだろう。でも、書きたいと思う。充二分に毎日の自分を書き切っていないという無念さがあるからだ。

世田谷村日記は、ある種族というサブタイトルをつけて、これは普通に日々の暮しを書き述べている。しかし、どうやら一日に書く分量が時に過重になり始めている。それで「飾りのついた家」組合日誌を別に書き始めた。新しくやり始めた我ながら妙な事を、何故なんだろうと考えたいから記録を残したいと考えた。日々の行いを過去として記すのではなく、少しだけ先に向けて書きたいとも考えたからでもある。

アルチ村日記は、すでに記してある様に少し昔のインド・ラダック地方への旅の紀行文である。日々のつまらぬ暮しを離れて少し遠いところに身を置いて書いてみようとしたこれも日録風のものだ。わたくしには「アニミズム紀行」シリーズという記録もある。が、しかし、これは少し計り肩に力が入っており不正直な部分もあり、要するに背のびしているので、も少し日常に近い、しかし遠くを書いてみたいから、試みた。

しばらく、意図的に書くのを休んだ。そうしないとただのゴミにしかならぬと考えた。再開しても、別種の駄文集にしかならぬであろうけれど、少しはゴミにならぬようにと身構えて書き始めようとはしている。それだけが取り柄である。まだまだつくりたいモノは無限ではないが山とは言わず、低い丘程にはある。その低い丘を乗り越える、峠を越えるには随分な体力、気力が必要である。それをたくわえるには言葉を書くしかない。スケッチやドローイングの類は余りにも容易すぎて力にはならぬのだ。スケッチの線や形や色は、これも思い付きの果てのモノに過ぎぬが、どうしても記憶に残りにくい。自分で描いたスケッチが記憶に残りにくいとは、どういう事なのかは自分でも良くは解らぬが、重い実感ではある。

アルチ村、そしてラダックの荒地を旅して後、わたくしはもうあんまり遠くへ旅をしたいとは想わなくなった。体力が低下したのもあるだろうが、恐らくそれだけではあるまい。遠くに旅らしきを繰り返している年令じゃないぞの世間並みの常識らしきが、そう考えさせているわけでも無さそうだ。どうやら、遠くに行く旅らしきはアルチ村への旅でもう良いと気付いたからであろう。

こんな気分が我ながらいつもあやういモノにしか過ぎぬのは自分でも知っている。だからひと夏と秋の盛りの時を間に置いた。又、こんな気分がヒョッコリ変ってしまっては、新しく書く意味もなかろうから。

今は晩秋、あるいは初冬である。自分で自分の気持ちらしきを確かめてみて、やっぱり、もう遠くへは行かなくて良い、行きたくもないという気持が強く持続しているのを痛感できた。

だから旅の記録、あるいは記憶とはちがう世界の入口として「アルチ村日記」を再開してみようと想う。

1214アルチ村日記 ある種族へ

トイレの話を続ける。

マツォー村での滞在で圧巻だったのは、ツェリンさんの生家のトイレ体験であった。村の僧院でまさかの孫悟空とバッタリ会ったのはすでに述べた。その孫悟空にトイレは何処かと尋ねれば、いずこもトイレであるとの答を得たり。要するにいずこもトイレであるとは何処にもトイレは無いと同じなのだが、この僧院にはヨーロッパ系の婦女子の観光客だって決してその数少くは無い。でもヨーロッパ系の婦女子はトイレをどうしているのかと巨大な?もあったのだが、それを詳細に突きとめる迄にはいかなかった。でも、わたくしの好奇心だって半端なモノではなかったので、それらしきの糸口だけはつかんだのだ。西欧人の、しかも婦女子は我々の想像をはるかに超えてタフであるのは何かと知ってはいた。要するに排泄に関しては持久力は大きい。肉体的にはそんな機能が男性よりも附加されているわけもないから、正しくは持久に対する備えが歴史的に備えられている。ヨーロッパ文明に於いて下水道は一つの画期であったが、それが整えられる迄のモバイルトイレつまりオマルの類であるが、それの充実多様振りは分厚かった。フランス革命期のマリー・アントワネット妃も、ヴェルサイユ宮殿でのクソ小便の類は、スカートをたくし上げてのオマル(移動式クソだめポット)使用であった。

そして、オマルに排泄された大小便は外へ投げ捨てられたと聞く。表のきらびやかさと比べればひどく汚らしい事、おびただしい。

フランス料理の洗練と下水道の完備とがどのような関係になるのかは知らぬ。調べてみたいものだ。

トイレットペーパーの進歩、そして普及が建材他の耐久消費財ならぬ、使い物にならぬ南洋材の消費財としての吐け口として開発されたのは言う迄もない。余談ではあるが、日本のワリバシは米国産の杉の大きいマーケットであったのは知られている。特に建材としてのUSシダー(米国産杉)の一等材は日本へ輸出されていないが、その端材としての杉の破片の如きはワリバシ用として米日間をそれ専用のコンテナにつめられて運搬、流通している現実もあった。日本料理の食の素材はともかく、それを食すワリバシの大半はアメリカ産であった。

米国の世界企業であった材木屋の主力商品はティッシュ、トイレットペーパーの類である。すでに地球上の材木生産地をグローバルにコントロールし得る迄になっていた世界企業は膨大なペーパーの原資としての木という資源を統括的に把握していたのである。

マツォー村の住宅のトイレットは全て土で出来ていた。床、壁、天井全てこれ土であった。床も柔らかい土だったのが驚きであった。2M×2Mくらいの平面形のトイレであった。南西の角に位置していた。方位他で日本の前近代と同じように生態学的な法則があるのだろうが知らぬ。床は全て土で四周に柔らかい土が積まれている。そしてほぼ中央に30cmくらいの穴がポッカリ開けられていた。南にかなり大きな開け立ての可能な開部がある。通排気と明かり取りのための開口である。チベット式のトイレは板の床の中央にポッカリ穴が開けられているのは知っていた。その穴に排便するのだろうか。それにしては穴が少し大きすぎる。またいでみると股が張り裂けそうになる。聞けば穴のかたわらに排便して、その排泄物は木製のスコップ状の道具で穴にかき寄せて落すのだそうだ。それに気付くまでは知らぬが仏で、色々な笑えぬ苦労を初めての人間はするようである。

マツォー村のトイレの床の穴は土でしかもすり鉢状である。またぐのには更に苦労する。それで、わたくしはやはり穴のかたわらにいたして、近くに立てかけられた柄の異常に長いスコップでブツをそのすり鉢にすべり落した。しかし、トイレ内に一切の水の在りかが無い。その後の事は実に苦労したのであった。穴をのぞけば一切のペーパー類は見当たらぬ。あるとしたら野蛮なる近代文明人種の使用したものでしかあり得ないのである。この辺のディテールは不明である。東南アジア、あるいはインド式の天然水洗式でもあり得ない。隣りに小さな洗濯室状の水の在り方があり、水で汚れた不浄な手を洗えるようになってはいるのだが、トイレの土の穴と隣りの小部屋までの移動、又はそれに代わる何かがあるのかもついに解らずじまいであった。しかしわからぬママも多いのだが、この全て土のトイレは原理的には便の素材学的変遷にまで想いをいたせばとても合理的であるのかも知れぬが、大きく我々とは価値観そのものが違っているのだろうと考えさせられたのである。

斉天大聖孫悟空が三蔵法師にやり込められて野性を飼い慣らされるきっかけは、立小便にあった。

1213アルチ村日記 ある種族へ

『パンツをはいたサル』は元政治家というよりも国会議員のパンツというか下バキをはいてしまった栗本慎一郎の著作であった。ポランニーだったかの経済人類学を下敷きにしていたのではなかったか。

パンツにいささかこだわるのはやはりトイレの問題である。人間はと、大口開けて出るよりもやっぱり等身大に、わたくしはと言うのがネット時代の常識であろうか。わたくしは哲学者達に代表ならぬ潜在的に象徴されている知の階層性を背景にした言葉よりも、毎日のウンコの状態の方に膨大な多様性つまり世界を視てしまうような人間である。

で、柄谷行人似の猿、すなわち孫悟空がいる僧院の便所である。大目のチップならぬスケッチ許可料を支払って僧院の本堂の内のスケッチをした。石の床にペッタリ座り込んで、つまりは尻をヒンヤリとした石に密着させながら、ラダックに来て初めて堂内の様子、有様をスケッチした。

ヒンヤリと尻から冷気が身体にしみ込んだ。これはいけないなと思考の大半は尻の状態、すなわち少々下痢気味の腸の調子に集中してしまう。この僧院は新旧二つの本堂つまり修道僧が集団で座して諸アイコン、諸仏像を拝しながらメディテーションし、経を唱和する場所を持つ。新旧どちらをスケッチするのかと孫悟空に尋ねられたので、当然、旧であると胸を張って答えた。孫悟空はフムフムとうなずいた。旧い方を選んだのに同意したのかどうかは定かではない。仲々、真意は表情からは汲み取れぬ。三蔵僧に従って頭に緊箍児を巻きつけられ、真の自由を奪われながら長い旅に出た本来の野性丸出しの猿の状態からはだから大いに変化している。そりゃあ千年以上の年を経た猿なのだから、たかが哲学者風情とは桁違いの老成だって仕遂げている。

ここの本尊は観音菩薩である。見事な円環状が少し歪んで、孫悟空があの火焔山の羅刹女から奪い取った芭蕉扇の如くの、相撲の行司の軍配扇のカーブにも似た優美な曲線を表現しながら、千手の、すなわち無数の手の群が細密に集合してかつ集中した手又手の光背状をバックに暗闇に立ち尽くしている。わたくしには日本の東大寺の不空羂索観音よりもズーッと生き生きとした造形を感じる、つまりはアニミズムを感得できるのであった。アニミズムを感受する、つまりは生命の力が表現されていて、より良いという事である。

この僧院の古い観音像は、今度のラダックの旅で出会った諸像の中では一番の見事なモノであった。勿論、わたくしには。皆にそうなのかは別である。なにしろ、観音が身につけている衣裳が素晴らしかった。誠に非超越的な今に通じる装飾性をその衣裳は備えていたが、それは別にゆずる。今は下痢気味を更に更新しかねない石の床の冷たさに刺激された腸の話しに戻したい。

これは危ないな、腸の中で少し固まろうとしたり、液体状になろうとしたりを行きつ戻りつしていた排泄物の形はどうやら、その形態はいざ知らず、体内にとどまろうとする力よりも、体外に、つまり現実社会に出ようとする力がより大になってきている。ギリギリの状態まで放置すると、観音の前で失禁するという前代未聞の事にもなりかねぬ。観音の美はともかく、先ずそれに対応せねばならぬ。堂内のスケッチを自由に放任して、外でツェリンさんと談笑していた孫悟空に、それでトイレの場所を問うたのであった。全てがトイレであると言ったかどうかは定かではない。しかし確かに遠くの空に浮かぶヒマラヤの雪嶺を指さしたのは確かな事だ。まさか、あそこ迄行く訳にはゆかぬ。事は急を要するのだ。それで、わたくしは気づかれぬように下腹を押えつつ僧院の裏手に廻った。小走りではないが、急ぎ足であった。僧院の裏手には何人かの職人が工事のためにいた。簡単な天幕を張ったりで、その中で木をけずったりであった。手をこすり合わせて洗う身振りをしながら、「トイレット」と叫んだ。しかし、トイレットの意味は通じていない。職人は万国皆、少くとも悪い奴は極度に少い。いささか意を決した眼の色を見てとったか、木をけずっていた職人が座りながら、これも身振りで示した。

「そこらで、したら」

きっと彼等も巧妙にそうしているにちがいない。しかし、こちらには彼等程の巧妙さの持ち合わせはない。彼等の仕事場から一段下がったところに幸い水場があった。排便は、それこそ実に恥をしのべば何処でも出来る。しかし、後に残るモノの始末が実により難しいのだ。それに今は、トイレットペーパーを持っていない。マア、水があれば左手でなんとか始末しよう位の気持の用意はできている。で、せっぱつまっているので、その水場にしゃがんだ。絶景である。ヒマラヤを眺めてのクソだ。予想に反して、こんもりと固まった奴が出た。それ程、急を要してはいなかったのかと、なまじ反省する。しかし、しゃがみ込んでみると、どうやらこの水場は地面をけずってコンクリートで洗い場らしきに四角く整えられている。水道の蛇口だって二つもあった。まずは水が必要である。その後の事は、その後である。しかし、座り込んで、クソも出してしまってから考える。人間には、やはり人間の、ここは便所らしきではないぞの勘が働くものなのだ。とすれば、左手で尻を拭き、それも丹念に拭き取る。ヒマラヤの雪嶺と面対しながらであるから、やはりヒマラヤに尻は向けられない。ヒマラヤを眺めながらいたした。次に左手を洗う。かなり丹念に洗う。そして蛇口の取っ手も洗う。皆、左手でやってのける。そう言えば同行者に左利きの人間がいて、食事の道具の使い方その他皆左手を主に使いながらの動作であった。ここの人々は皆、つつしみ深く左利きの彼の左手を凝視する。痛い位に視つめ続けるのだ。インド文化圏、イスラム文化圏では左手は不浄である。左手を使って食事する人間等は居ない。その空気を察して考えた。ここでは左利きの人間は皆どうやって生きているのであろうか。あってはイケない左手の動きを見せる人間の、その左手を視つめる人々の眼の好奇心を超えた恐れにも似た静かな音にならぬどよめきを感じてそう考えたのである。

しかし、千手観音の手だって勿論のこと左手は在る。そして右手同様の表現を与えられている。仏は供物は食べるが、クソはしない、そういう能力の持ち主なのであろうか。体内に入れた供物他の食い物は完全燃焼させて気化した灰燼の如くにかすみになるのか。こんもり、残ったヒマラヤ状の固まりを眺めながら、こいつを皆流すのは容易なことではないぞと考えた。しかし、出来るだけは流しきらねばならぬ。

1212アルチ村日記 ある種族へ

今度のラダックへの旅にも本を一冊だけ持って来た。新潮文庫の『反哲学入門』木田元著である。二ヶ月程前だったかのインド行にも持って出た。一頁も繰る事が無かった。そして、今回も同様に一頁も『反哲学入門』を繰る事をしなかった。出来なかったと言って良い。

木田元は何かのインタビューで哲学らしきの役割は?と問われて、何も無いとは言わず、一方向に進行するばかりの技術文明に対するブレーキみたいなモノであろうと答えていたのを記憶している。成程ナアと感じ入った。それ程に人間が今に生きるに、哲学は積極的意味合いを持つモノではない。と、言う事なのだろう。柄谷行人の『探求』とは随分と自分の拠って立つ位置の考えが異なるように思える。柄谷行人は『探求Ⅰ』の始まりをヴィトゲンシュタインの教えるから確か始めていた筈だ。哲学を教えるという対他者への権力構図らしきを言うのでは無い。外国人という言語形式を異にする種族に日常言語を教えると言う様なアナロジーであったような記憶がある。

一考すると柄谷の視線の高さと木田の視線の低さの如くが写るばかりになりかねぬ。しかし、事はそれ程に単純ではない。この旅の地球の高度の登り下り、何メーターの山の高さを述べる程にはシンプルでは無いような気がする。

旅でのわたくしの日々は実にシンプル極まる。特に今度のラダック地方の旅のように地球の高地、あるいは荒地への旅は特にそうである。早朝に目覚め、寝床を離れる。水が不自由であるから歯もみがかず、口もすすがない。生水、すなわち自然にある水を体内に入れると下痢をしたり、腹痛をおこす因になるのを知るからだ。トイレはチベット式であったり、恵まれれば西欧式の水洗便所に出逢うことができる。出逢えば正直ホッとする。少し意図的に距離を置こうと考え始めている西欧型思想の、教えられる、ここではもっと単純に教化されることから自由になりたいの観念自体が間近に西欧の利便さ、清潔な状態、つまりは保健衛生の概念に触れることが出来る。トイレすなわち排便の処理の方法だけは西欧の技術の恩恵は素直に感謝せねばならない。高地の旅はそれを身にしみさせる。

排便の調子、つまりリズムが正調らしきであれば毎朝のトイレに行く。便秘気味の時は行かない。旅に出ると、どうやら毎朝のトイレ定期便に変調が起こりやすい。身体すなわち内臓の働きはシンプルである。必ず外界に対応してくる。外界との順応力の低下が恐らくは便秘状態を引き起こすのだ。それもトイレの形式に対するほのかな気持の緊張状態が大腸、直腸の臓器の働きを硬化させてしまうらしい。

この旅では、孫悟空に出会ったマツォー村の僧院の便所らしきが圧巻であった。そう言えば僧院で出会った孫悟空は柄谷行人に似ている人相と言うか、猿相をしていた。良く良く振り返れば木田元にも似ていた。それぞれ、最近随分と開きのある記述をなしてはいるが猿似である事は同じである。哲学者は、それも日本の脱近代とは言わぬ、超後期のどんづまりの近代に生きる哲学者らしきは同様に孫悟空に似ざるを得ぬのか。ようく掲示した似顔絵を御覧あれ。

マツォー村の僧院にはトイレは無かった。この僧院も又、ラサのポタラ宮に似せた、それはそれは立派な建築物であった。しかし、トイレが無かった。少くとも我々のような外来者にはそれらしきが一切無かった。出会ったばかりの孫悟空との最初の会話が、

「何処かにトイレは無いのですか?」

で、あった。日本的哲学者の風貌をした猿は、遠くの雪嶺の方を指さして、どうやら、

「そこらが皆、トイレである」

とか言った。

そこらが全てトイレだと言われたって、我々はパンツもはいた猿でもあり、当然とまどう。

1211アルチ村日記 ある種族へ

レー王宮の背中にある小高い丘は、この盆地状のすり鉢の中心に突き出て位置している。転するコマの軸が宙に突き出した岩の丘である。草木は一本も無い。

百歩も登らぬうちに後悔が始まる。登りたくない。どうせ上に辿り着いたって在るのは四周の望だけだ。はるか遠くに望む白い雪嶺はすでにここからだって眺められる。

「もう登るの、止めよう!疲れるだけだ!」と言えばそれで良かったのに。高みに登ろうとするのは仕事だって坂道だって同じに辛いのである。

でも、止められなかった、登るのを。止めたいのに止められぬ。高度が高いので明らかに空気は薄い。息は切れる。足は上がりにくくなる。坂道ならばまだしも、しばらくそれでも登ってゆくと、そこに段々が出現した。階段である。それも一段が丁度座りやすい椅子の座の高さ、つまり35cmから40cmの段々である。頂上までの高さの距離を坂道だけではかせぎ切れなかったのであろう。しかも丘の周囲を坂道だけでグルグル廻って、さざえ状の螺旋坂道にするには、障害物としての小岩峰やらが途中にあり過ぎる。それで胸つき八丁とでも言うべき階段になった。

頂には祈祷所があるようだ。回転するコマの軸の先端で祈祷するのは自然の理でもある。誰でもそうしたい。しかし王がこの坂道、階段状を登ったとはとても思えない。王には言う迄もなく権力が集中していたろう。が、しかし体力気力も集中していたとは限らない。王にもそれぞれの権力のグレードが在るのだ。

往時のチベット王国の首都ラサを訪ねた事がある。中国の上海から飛行機でシャングリラ迄飛び、シャングリラからジープでメコン大谷の道を走った。走りに走って四日間程であった。ジープ3台に酸素ボンベまで積み込んだ旅団が組まれた。組んだのは上海の大ディベロッパーのオーナーであり、建築家の磯崎新も参加した。わたくしは彼に連れられての旅であった。メコンの大谷は色の奔流が流れ、道はしばしば寸断され1000メーター近いの端を命からがら、それでも走った。磯崎新は途中あわやのアクシデントに遭遇した。命拾いしたと言って良い。

余計なお世話だが、今の磯崎は拾った命をかろうじて生きているようなものである。そんな事を考えさせてしまう程に、あの旅は何者かの境界線上を走る特別な旅であった。同じように空にあくまで近くを走り、思い出せば出すほどに、本当に何かと何かの境界線上を走った旅であった。あの時は6000メーターに近い高度の峠をいくつもえた。古来のチベットと中国経由ベトナムとの通商路であった古茶馬道茶馬古道をかろうじてジープでたどる旅であった。凄絶に切り立ったに馬一頭がようやく歩ける程の岩道が古茶馬道茶馬古道である。毛沢東はその道の一部を辿り長征の軍団の旅をなした。

そんな旅をして辿り着いたラサのポタラ宮は圧倒的であった。ポタラ宮は古来、赤い岩と呼ばれ崇拝され続けた特異な巨岩の上に次次と増築を続けながら建てられ、それで今の巨大な姿形に迄なりおおせた。

その姿を恐らくはレーの王宮を築いた王も実際に巡拝したであろうし、良く知っていたにちがいない。ここレーからは世界の中心の山と古来伝えられ続けてきたカイラス山はもう400キロに過ぎぬ。中国国境までは300キロメーター。ラサまでは1400キロメーターである。ラサ迄の道は僧玄奘もたどった。ナーランダまでの中国長安からの旅の行き帰りに辿ったのである。

今のレー、あるいはラダック地方の人々の信仰はダライ・ラマに向いている。それ故に、ダライ・ラマの居城でもあったポタラ宮は憧憬の的であろう。だから、レーの王宮も又、ラサのポタラ宮をモデルとしている。憧れがそのまま模倣となり、この岩山に実現されたのであった。

1210アルチ村日記 ある種族へ

ラダック地方は山国である。それも日本の山国とは随分ちがう山国である。どのようにちがうか?

日本で一番高い山は富士山である。言わずと知れた休火山だ。火山活動を一時休止している。地球内のマグマが尿道の様な地表への隙間から噴き出て、それが冷えて固まったり、爆発の燃えかすの灰が降り積もって、積もり積もって出来た山だ。地球誕生の因は良く知らぬ。宇宙での大爆発やら歪みのエネルギーの、つまりは大きな運動の結果として在るのだろう。ある意味ではその結果としての地球及びその排泄物の、つまりはゴミの山だ。高さが3776メーターある。今いるマツォー村の高度は3800メーターくらいではないか。すぐ北側にある雪嶺が6500メーターくらいだから、その高度と比較しておおよそを知ることができる。

この雪嶺・ミルティに登るには、村から2日かかるという。

我々は富士山頂よりもいささか高い所で2日間を暮らしたことになる。村は緑豊かで、水量の多い河も、沢山の小川も流れている。何百年も昔から200人程の人がここで生活している。牛が草を喰み、鳥が鳴き、人々は自分の畑の作物でほぼ自給自足の暮らしを続けてきた。富士山の頂上に200人の人々が暮らし続けていると考えれば良い。

この村に来る直前のレーの高度は3500メーター。そしてレーで一泊したゲストハウスから250メーター程の高さに在る、レー王宮上の僧院に早朝登ってきた。レーで我々が宿泊したのは「ニュームーン」である。チベッタンが経営する宿で、まだ新しい三階建ての、総室10部屋の小振りなものだ。ラダック地方の山岳地帯の民家に同じく宿泊所の前に15坪少々程の菜園がある。食事に供する野菜類はみなこの小さな畑で獲れるようだ。太陽光エネルギーが強い。「ニュームーン」の高度は約3600メーター程である。宿の名がニュームーンとはゾーッとしないでもないが、ツェリンさんの知り合いらしく、名前がイヤだから別のゲストハウスにしたいとは言えなかった。ラダック地方は75%が仏教徒で、他が25%だと言うから、このチベッタンは75%のメジャーな種族に入るのだろう。

山国の朝はいずこも早い。5時に目覚めて6時に朝食をすませて、厳重に閉じられた鉄の門扉の外に出た。レーの幹線道路ではないが車の通りは多い。かつて秘境と呼ばれた由縁は今は昔である。

道路に出てみたは良いけれど、別にどうするアテも無い。ツェリンさんは10時半に迎えに来て、それで国立病院(S.N.M. Hospital)に行かねばならぬのだが、それ迄の時間がポッカリといている。さて、その穴を埋める選択肢は2つしか無い。登り道を選ぶか、下りを選ぶかだけ。

身体は当然下り坂の道を選びたがっているが、気持は逆の登り道を選んでしまった。最初に下りを選んでしまえば、ここに戻るには必ず登りがつきものだから、それはイヤだったからである。何処へ行くアテは無い。適当なところでUターンして戻ってこなければならぬ。最短距離の目標は?と周りを見廻したら、運悪くレー王宮の西の丘の頂が目に入ってしまった。あわてて眼を伏せた。別に誰が見ているわけでもないのに。

山国というのは、要するに登りと下りしかない。平地というのがほとんど無いからである。どんな登りでも、それは重力に逆らうのだから、エネルギーを消費する。平地を歩くのは高度に関しては平行移動だから、自身の重みだけをズラせば良いので、実にはるかに楽なのである。

要するに、登りはイヤなのだけれど、3時間内で達成できそうな目標が他に無かった。

不運なことに通りを降りてくる人間がいた。他にすることも無いので声をかけてしまった。

「ジュレー、この山の頂までどれぐらいかかりますか?」

「ジュレー」はこの地方で、「今日はどうもどうも」位の意だ。

「ジュレー、30分くらいですよ」

「ええっ、30分なんですか、1時間かかると聞いていたんですけど」

「大人の足なら30分だよ。子供や山羊ならもっと早い」

この一言が効いたのだった。

「30分ならチョッとやってみようか?イヤになったら引き返せばいいんだから」

「そうですね、イヤになったら本当に引き返しましょう」

それが、やっぱり運の尽き。そこまでは言わずとも、余計なコトをやってしまうキッカケになってしまった。朝一番の脚だったので、まだ、かろうじて空元気らしくもあり、それで車の走る道を登り過ぎて、登山道ならぬ、急な丘の頂上までの小道を見逃したりで、手間取ったり。

多くの小さなストゥーパの群や、民家の庭先を登ったりで、ようやく登山道に辿り着いた。このレー王宮の後背の小さな山への道は、明らかに登山道だった。それも随分と急な登山道だ。

東京近郊の、高尾山より高度は3000メーターも高いけれど、「ニュームーン」の高度からはホンの目の先、鼻の先に視えてしまう。当たり前の事だが、イザとなると人間はやはり愚かである。高尾山の坂だって恐ろしく急坂ではあるが、人々はケーブルカーやリフトを使ってイトも簡単に山頂まで運ばれていく。あのリフトの傾斜を思い出しさえすれば、この眼の前の坂は桁外れの急坂であった。だから、坂はつづら折れになっていた。遠くから眺めても、草木は一本もなく、赤裸々な急坂の連続は余りにも歴然としてはいた。でも、全ての坂に通じるように下の方の傾斜は心持ちゆるい。そして段々と急になる。でも、しかし、ゆるい坂を我々はすでに登り始めてしまっていた。

四苦八苦は仏教世界の道理である。まさにこの坂がそれであったとは。人間は愚かな性向の持ち主であり、固まりでもある。つくづく、そう思う。愚かであった。

1209アルチ村日記 ある種族へ

7月5日4時半目覚める。昨夜は降ってくるような星の光の下で眠った。ここはマツォー村のツェリンさんの生家だ。2階の恐らくは南西の室に3人で泊めていただいた。

7月3日、4日のことは再びおいおい記すことにして、アレアレ、この事だったのか、今度の旅と言うには少しばかり探索行めいた趣きに染まってきた日々についてそうだったのかと納得してしまった出来事があったので書いておきたい。

孫悟空に会ってしまった。マツォー(Matho)村の山上の僧院で。神々しいばかりに豊かな光に満ちた観音菩薩の守護についていたから、間違いはなかろう。実にあの男の生き物は孫悟空であった。そうだと名乗りはしなかったが、別れて時間が経つにつれて、やはり、そうに違いないと、巨大な?はすでに確信に変化している。

そうかもしれないと思い始めて、そうだろうになったのは、孫悟空の許しを得て、その肖像をスケッチし始めてからの事だ。

ツェリンさんの生家を訪ねたのはその村が人口500人程、すなわち200戸程の集落で、その僧院が大層立派なものだと聞いたからである。

なにしろ当初のこの旅の目的はと言えば、アルチ村の三層堂をじっくり見て、そして出来ればそれに触発されて、エンドレスハウスらしきを考えおこしてみようと考えたからである。触発されてと言うのは我ながら妙な言い方だなあと思うし、聞く皆さんもそうに違いない。でも、ものつくる人にとってはそれは無くてはならぬ事でもある。旅は、あらゆる旅は人間本来の未知なモノへの好奇心がなさしめるものでもある。未知なるモノをつくりたいなんて好奇心は又、何かに触れて湧きおこる手合いの、これも又モノなのである。何もない処、つまりはゼロからは誰も未知なるモノのかけらさえも想い描くことはできぬのだ。それぞれの人間の内的想像力なんてものはありはしない。人間が未知なるモノらしきを想い描くのは自己の内から忽然と湧き起こるのではなく、必ず何かに触発されてそうなる。つまり人に限らず他者に刺激されてポロリか、ヒョロリか、ジワジワか特定できぬが、そういう生まれ方を必ずする。

へりくつはこれ位にする。何しろマツォー村まで辿り着いた我々の人間の大半が下痢状態であり、屁なぞしようものなら中身がニョロリに必ずなるであろう状態だから、いかなる屁理屈もとり敢えずは避けたい。汚い状態はやはり避けたい。

昨日、マツォー村には13時に辿り着いた。午前中はレーの国立病院に出掛けた。メンバーの1人が高山病と断定され、入院したからだ。この件についてもおいおい述べなくてはならぬ。何しろ順不同のおいおいが非常に多い日記に落ち込んでいるが、仕方ないのである。何しろ、孫悟空に出会ったり、はたまた高山病で大病院にかつぎ込み、大型酸素ボンベで酸素を至急に吸入、そして注射をブツリブツリと何種類も刺し込まれるという事態になったり、荒地ならぬ高地は東京では起こり得ぬ事が起きるものではある。予定調和そのもののプログラム通りにはいかない。

ツェリンさんの生家は今6人の人間が暮らしている。兄夫婦弟夫婦生まれたばかりの女の赤ん坊そして僧院生活をする弟が1人である。この赤ん坊は丈夫で泣かない。大柄である。着いたばかりではあるが、野菜カレーの昼食をいただき、すぐにマツォー僧院に車で出掛けた。ツェリンさんの家の門からは僧院は間近であり、そこに暮らす人の気配も感じられる位だが、何しろ山の上にあるから登りが辛い。それでレーに戻る前のツェリンさんの車に同乗した。

登りと言えば、この日の朝方は登りで大変に苦労したので、それについて記す。孫悟空とのバッタリはその次とする。

1208アルチ村日記 ある種族へ

アルチ村には猫がいた。このゲストハウスはアルチ寺院のゲート、日本で言えば山門に隣接した場所にある。家族経営のゲストハウスで2001年にゲストハウスとして開設された。食事をする為にテーブルが7、8程並べられた庭に面して3つ併立した小ストゥーパがある。又、その庭はおみやげ店の白壁に面している。おみやげ店の隣りには立派なストゥーパが在る。このストゥーパの下の部分、つまり手の届く部分は昨日迄の夕方の時間を二日間使って二人のメンバーが実測した。石畳に座り込んでの作図作業であった。そのストゥーパの足許に夕方になると猫がきた。

そして人の気配なぞ全く気にする事なく、好きな格好をして眠るのである。今のところアルチ村では犬の姿は見ていない。なき声も遠吠えも聴いていない。

小型メジャーを使って実測、作図する二人を眺めながら、わたくしはその猫のスケッチに時間をつぶしていた。時間は踏みつぶせぬから大きな画用紙に筆と色鉛筆で図像に移し変えていた。

11世紀にアルチ寺は建設された。飛び切り古いモノではないけれど、そんなに新しいモノでもない。アルチ寺院の創建時にはこのストゥーパは建てられていたようだから、千年くらいの時間は経ている。どうやらアルチ寺院創建時はこのストゥーパは境内に在ったと言うから、我々がほぼ3日間を過したゲストハウスは恐らくは僧院であったのではないか。何処まで建て変えられたのかはわからないが、その面影はあるような、無いような。この感じにも現実感は欠けている。

わたくしも少しフラフラするような感があり高山病かなと想ったりしたのがレーに着いた時であったが、どうやらこれは寝不足と年のせいであった。高山病というのも現実感のないことおびただしい病気のようだ。

千年の時間を経たストゥーパにメジャーを当てて装飾部の寸法を克明に作図している者だって著しく現実感の薄い中を過ごしていた筈である。

ストゥーパの足許で眠りこける猫と、そのストゥーパの装飾を作図している者とは、だから同じ種族である。千年の眠りに手で触れ、非現実に触れながらの時間を過ごしていた。猫もストゥーパの底部基壇に背中をこすりつけながら眠っていた。

猫のスケッチを3枚描いた。日光東照宮の眠り猫より、余程眠りこける猫の姿であった。ストゥーパのかたわらに毎夕きて、眠りこける猫というのも特別な種族の猫であるのやも知れぬ。陽明門の木彫彩色の猫も白かったけれど、この猫も白毛に少し灰色がかった淡いブチの猫であった。何処の飼い猫でもない。この辺りに住んでいる猫のようだ。

濃い茶色の厚手のチベット服を着た老人が眠りこける猫を抱き上げて、何やらブツブツ話しかけても、全く逃げようともせず、イヤがりもせずに実に自然な様子なのである。

7月3日5時半にゲストハウスの庭に降りた。アルチ村とも今日でお別れである。お別れに1枚を描こうと画用紙をテーブルの上にひろげた。このテーブルの中心からはここにいかにも似合わぬ風のパラソルがニョキリと生えている。つまりテーブルをブチ抜いて突立てられている。

間近のギザギザな姿をした岩山を描き、ゲストハウスに附属しでいるみやげもの店の錆びたシャッターと大きな名のわからぬ老木を描いた。何の劇的なモノも無い。静物画みたいなものだ。アルチ村に来て40点目のスケッチである。いささか静か過ぎるモノになった。

と、あの猫が坂道をとことこと降りてきた。画竜点睛ならぬ画猫点睛となった。サヨナラを言いに来たにちがいないが、わたくしの方はチラリとも見ようとはしなかった。猫らしくて良い。でもこの猫は極寒の冬をどうして暮らしているのであろう。

1207アルチ村日記 ある種族へ

アルチ村に居る。7月2日18時だ。アルチ寺院のゲートの真前にあるゲストハウスに投宿している。29日午前7時に世田谷村を発ち、ニューデリーでナーランダ大学副学長Gopa Sabharwalさん、A.R.Ramanathan氏と遅い会食をインターナショナルセンターで持ち、翌早朝、つまり6月30日朝3時半にジェットエアウェイズ・カウンターでチェックイン。小さなジェット機でレーに到着した。7時だった。空港でラダック地域への入境手続きをして、ゲートより外へ出る。レー空港への飛行機の降下は岩峰をスレスレに飛び越え、なおかつ急旋廻しながらのヒヤヒヤものであった。パイロットはヒマラヤ山系での飛行訓練を特別に積んだ変り者ではなかろうか。恐らくノーマル便では出世しないタイプの人間にちがいない。

何処の国際空港でもTAXIをつかまえなければならぬ時はいささか緊張する。雲助まがいのドライバーが決して少なくないから。

運良くツェリンさんと出会えた。強引な客引きをするでもなく、ボーッと地蔵さんのように突立っていた。

「レー迄、幾ら?高いんじゃない?」と交渉する。

「もう、値段はルールで決まっているんで、この値段しかないのです」

意表をつかれて乗ってしまった。ボソボソ話してみると実に朴とつな人物のようだ。チベッタンらしい。

「あんたはブッディストか?俺はブッディストだ。ラダッキでもある」

「俺等は皆ブッディストである」

ラダックはヨーロッパ人の観光客が多い。ネパールが中国にほぼコントロールされてしまい、行きにくくなったし、チベットもそう容易ではないので、その分をシェアするヨーロッパ人がここに集中しているのだろう。まさかヨーロッパ人にブッディストはほとんどないだろうから、ドライバーのツェリンさんも少し安心して我々に接していたのかも知れない。カラードピープル同志の安心感もある。

結局そのツェリンさんの車でレーまで走りながら話して、アルチ迄長駆走ってもらう事になった。レーのマーケットで予定通り、ハサミとノリを手に入れた。ツェリンさんはきちんと買物まで附き合ってくれた。

そんなわけで6月30日の朝10時にはアルチ村に着いてしまった。世田谷村を発ってから24時間プラス3時間半の時差を足した時間しか経っていない。ほんの少し前迄は秘境と呼ばれ入境も禁じられていた地域である。そこに1日プラス3時間半で辿り着いてしまった。ありがたいような、全くありがたくないような。旅の目的地に到着したとたんにエンドレスどころか、ジ・エンドになるのが現代だから、素晴らしい風景の中に居ても全くその現実感に欠けている事おびただしい。

こんなことを記しているのが、7月3日の朝5時である。ゲストハウス・ヘリテージの一階の小部屋のベッドに腹ばいになりながら書いている。日付がバラバラである。が、仕方ない。自然に、書きたい時に書くようにしたいと考えざるを得ない。それでこうなっている。

30日1日2日のことは又、おいおい思い出しながら書きつける事にする。大体書いてもいつインターネットで東京に送れるのかもわからない。無理をしてまで送る気もしないのだ。自然である。他人様に間髪を置かずに読んでもらうためではない文章が書けるやも知れない。少し時差があるような、つまりコンピューターに反抗しているわけだ。全く勝つ見込みの無い反抗なのは知っている。

レーのツェリンさんが9時にこのゲストハウスに迎えにくる予定になっている。同行者に高山病らしきを発病した者がいて、この先どうするか今のところは決断できない。決められるのは8時半くらいになるであろう。

1206アルチ村日記 ある種族へ

7時過世田谷村発。モヘンジョダロを足早に歩いていたら石森のダンナとタマの朝の散歩に遭遇した。インドに出掛ける前の未知との遭遇である。遠くから手をグルグル廻してオーイなので、チョッと小径にそれて御あいさつ。タマの野郎はプイと顔をそむけやがる。

「気をつけていってらっしゃいませ」

女房も言わぬ言葉をいただく。これで何かみやげを買ってこないとやばくなった。アルチ村には冬の厳しさを想えば猫は居ないだろうが犬が多いかもしれない。

日本時間15時前中国大陸上空南京近くを飛んでいる。持ってきた佼成出版、『ルポ仏教』佐藤健を読み直している。佐藤健は1979年に高野山大学・毎日新聞社合同隊の副団長らしきでわたくしが今向かっているインド・ラダック地域に日本仏教の源流を探るという目的で入った。43年も昔の事だ。今、インド航空の飛行機の中で読み直すと、克明にメモを取らねばならぬ程に良く書き込んでいるのを知る。

「新聞記者は君とちがってキチンとウラを取らなきゃならないから大変なんだ。」と歴史家の実証まがいの困難さを言っていたが、当時は聞き流していた。今読み返すと特にインド密教の盛衰の歴史も含めてアルチ寺の遺跡が仏教文化の重要な要であるのが良く書かれていて驚いた。弘法大師空海が八世紀に日本に持ち帰った「金剛頂経」とアルチ寺の曼荼羅は同類であり、リンチェンサンポと空海は三世紀の時間の差があるが、空海の密教が基本的には日本に根付かずにしまったのも、やはり同様に余りの思想の高さの故であったのか?ともあれその思想は日本に受け容れられなかった。しかし空海という人間像は巨大な存在として崇拝された。大師巡礼の民衆の大流をも作り出した。そこが不思議だ。

どうやらアルチ村のアルチ寺、スムダ寺そしてマンギュ寺等ローツァワ(翻訳官の意)・リンチェンサンポが作った寺々もラダック地方では民衆による巡礼地として崇拝されているらしい。リンチェンサンポも又空海同様に語学の才に優れていた。三つの寺を我々も又巡礼して、リンチェンサンポという宗教家の足跡を追ってみるのも良いかも知れない。

しかし自分の今の身体の力を見据えればとても荒地の岩山なぞ登れそうにないからアルチ村で動かぬのが一番か?明日のLeh迄の飛行機から山の姿など眺めながら決断したい。

昨夜、これ迄のいくつかの旅を振り返ってみた。ギリシャのアトス山の僧院を仕切りに思い出した。ナーランダ大学キャンパスのコンペ与件概要及びMr.ドーシ案に触発されているのは確かだが、ギリシャ正教のみならず僧院の自給自足生活、エネルギー負荷、消費の極度の低減は、これからの都市に必然になる。しかし村上春樹のトルコ、ギリシャ紀行だったかにギリシャ正教のアトス山の僧院に生活する層の平均寿命が極度に若い、確か30才前半だったかと記されているのを憶えていて、極端は人間を又、滅ぼすのだなあと考えたりで、その当りのこともこの旅で考えてみようと昨夜決めたのであった。まさかアルチ村絶食道場10日間は無い。今日になってからだって朝起きてから17時間たっているのに、貧しい機内食の昼食を一食摂っただけである。空腹である。大食はせぬが必要最低限のメシは喰いたい。

それでは、と突然思い付く。思い付くんだった、昔から。アルチ村滞在中に最小限住宅ならぬ極貧建築と名付けたプロジェクトを作ることにしたい。小さな模型も貧しい材料で作ってしまおう。リンチェンサンポによるアルチの三層寺は平面が6m×6m程のものだ。同じスケールでフレデリック・キースラーの向うを張ってエンドレス建築を考えてみることにしたい。何に対してエンドレスかと言えば、ボリュームのみならず観念としても極小を目指すような。幸い画用紙は200枚以上持ってきた。あとはレーのバザールでハサミとノリを手に入れれば模型は出来そうである。どのみちハサミは今は飛行機に持ち込めはしないから、現地調達しなくてはならぬのだ。バザールでそれ等を手中にするのも面白い試練ではないか。本物のブリコラージュである。

1205アルチ村日記 ある種族へ

アルチ村の三層堂は恐らく、最初期のラダック・ザンスカール地域チベット仏教文化調査隊であった高野山大学・毎日新聞合同隊、松長有慶・高野山大学元教授らの1979年の調査報告によれば、ラダック地域で最良の建築物すなわち曼荼羅収蔵庫であろうとされている。最良は誤解を招く言葉だが、インドで生まれた密教の世界観を良く伝えているという意味である。インドの密教はチベット仏教の産物としてラサのポタラ宮を産んだ。それと比較すればアルチにあるのは納屋ともよぶべき小屋程度のものだ。

しかし、ラダック地方はその地政学的秘境性により、世界で最もインド仏教のオリジナルな様相を守り続けた。オリジナルな様相とは密教的要素である。

その中でもローツァワ・リンチェンサンポの手によるアルチ村の三層堂は良く残されたとも言うべき精華の一つだ。

松長有慶によれば、ラダック仏教はローツァワ・リンチェン・サンポの事積の中に最も良く残されているとの結論である。だからアルチ村の三層堂を探ねる。

アルチ村は自給自足生態系による小村である。予想している風景は、それこそ福島第一原発事故による地域の壊滅状態の涯としての荒地状の風景である。インダス河上流のほとりにほんの一握りの緑があり、それをオアシスの如くにしながら閉鎖系の環境システムの内で残存してきた。

それを福島と同じように体験したいと思った。

Mt.アトスで体験したギリシアの海と空、そして僧院のそれから(自然からの)の孤立とは異る系を視たいと考えたからだ。

もうそろそろ荷作りをしなくてはならぬので、いったんペンを置く。

ニューデリーへの飛行機の中で再整理したいが、それを日本に送れるかは定かではない。試みてはみるが、日記状の報告は閉じることになるかも知れぬ。結局、ラダックでのノートパソコン使用は不可能であろうとの結論に達した。

6月29日6時半。まだ世田谷村である。

1204アルチ村日記 ある種族へ

9時過世田谷村発、石森宅の猫のポスターを眺めながら千歳烏山駅へ。世田谷区南烏山5丁目に子供たちのための公園と動物たちの場所を作る会(仮)は少しずつ会員が集り始めている。石森宅の土地は大手不動産屋の買いたし、求む土地!活動が激しいようだ。20階建のビル建ててしまえとハッパをかける。しかし彼のようなブッ飛んだ気質の人間でなかったら、こんなバカバカしい事は出来なかったろう。

10時15分大学、研究室で大学院レクチャーの筋道を再々チェックする。40分大学院レクチャー。ルイス・カーンのブリティッシュアートセンターの光について。つまりは偶像、装飾否定のユダヤ教のシナゴーグの建築とルイス・カーンについて、等を2時間弱話す。

明日の夜はニューデリーでA.R.Ramanathan氏に会う。ナーランダプロジェクトのその後について他を話し合いたい。アルチ村の三層堂次第ではアルチを素早く片付けて、インドに取って返しアーメダバード迄足をのばす事になるやも知れぬ。全て三層堂次第なのだ。アルチの三層堂で何を見る事になるのか、もしやニューヘブンのブリティッシュアートセンターの光と同質のアジア的産物に接するのではないかと期待したり、どうせ期待はずれさと覚悟したりなのである。

ギリシアのMt.アトスの僧院で体験したのは圧倒的な空と海のブルーであった。星々のさんざめきは白く霧状の光となり空をおおい尽くした。海はそれを写し出した。修道僧達が作り出した僧院はそんな圧倒的な自然の光の中に必死に孤立していた。決して融け込もうとはしていなかった。

恐らくアルチ村の空も又、Mt.アトスの空と同じに、あるいはより高く宙に近い。星々光の強さは想像を絶する程のモノであろう。その時、三層堂はどのような姿を見せてくれるのか?それを視ることはわたくし自身の能力、才質のリミットに触れることになるかも知れぬし、全くそんな事は何も起きぬやも知れぬ。

なにしろ三層堂である。そして何も無ければ居ても仕方ないのもすでに知るのである。

1203アルチ村日記 ある種族へ

11時前東京駅ステーションホテル、虎屋茶房。綿貫不二夫御夫妻とお茶。具体Gコレクションのこれからの事など話す。御夫妻共々お元気そうであった。来春くらいに石山修武展をやりましょうと言われる。今度のアルチ村でどれ程の作品が得られるかだな。何しろ作品数は多ければ多い程良いと再び教えられた。12時前了。長い長い地下通路を歩いて京葉線ホームへ。12時過の快速電車に乗り込む。与えられたスケジュール表通りに動いているだけなので何処へ向いて動いているのか解らない。

車内でアニミズム紀行8に手を入れる。

13時過土気着。エスカレーターで上に上ると、今日の審査の面々、村松、難波、松川、竹原各氏にお目にかかる。竹原さんは退院後初めて会えたので、やはり嬉しい。TAXI 2台に分乗してホキ美術館へ。

ホキ美術館入口で日建設計山梨、中本、鈴木各氏と会う。

美術館をグルリと外から一周する。新興住宅地のエッジに建てられた特異な建築だ。山梨さんとは新木場の木材会館以来の再会であった。

上手い人だなの印象があった。しきりに隣りの昭和の森公園の森林の風景との関係付けの話をなさったが、外を一周してこれは新興住宅地の中の美術館であると考えた。

ヒッチコックの映画だったか、ロス・アンジェルスの郊外住宅地の中の異様な建築が登場する。北北西に進路を取れだったかな。

フラードームがキャンティレバーで新興住宅地の斜面に浮いているという体のものであった。ジェームズ・ボンドが登場する007シリーズであったやも知れぬ。ともあれ新興住宅地にニョッキリ出現するモノであった。山梨さんはやっぱり森のエッジにある美術館として、むしろ保守的に正統性を帯びさせて美術館を考えたかったのであろうが、この美術館の都市の消費生活的テイストは、そのような従来の公共建築としての美術館の骨組みとは異なるところにある。

館内でオーナーの保木将夫氏にお目にかかったが、オーナーはワインと絵のある風景が欲しかったらしい。

つまり、この美術館は酒とバラの日々美術館なのである。

それ故に新興住宅団地の中にニョロリと出現した姿が、いかにもな酒とバラの日々であった。

設計者には通常深刻でもある芸術の意識はまるで無い。住宅団地の市民生活の消費生活性だけが在る。

これは皮肉でも何でもない。オーナーの当初の意図はむしろその方向であったように思われた。ワインを飲みながらブラブラ絵や花を見て廻り、楽しむが理想であったのだろう。

つまり、森のエッジに位置すると考えるよりも、住宅団地のエッジに位置する、これも又消費物であると考えた方が良ろしかったのではなかろうか。

乾坤一滴のキャンティレバー、鉄板のアクロバチックな使い方、内部照明の過剰さ、曲面の組み合わせの平面計画等は全てコレ、消費感覚の過剰な遊戯であろう。そこをもう一歩突きつめたらコレワ面白かったのにと勝手ながら考えた。

15時過見学修了。

再びTAXIで土気駅へ。東京へ戻る電車の中で竹原さんから色々と興味深い話しをうかがう。生死をかいくぐってきた人の話しはやっぱり迫力がある。わたくしもかつて亡友佐藤健のために「究極の家」を設計した。四畳半と六畳と縁側だけの家であった。身心脱落、脱楽心身の言葉を手掛りとした。安原さんが手掛けた東京の究極の家もそんな世界の産物やも知れぬ。そうでないかも知れぬ。しかし話しの中にクライアントの姿が浮かび上がるのであった。東京駅で村松さんと別れ、新宿で竹原さんと別れ、17時過千歳烏山へ。

明けて6月28日6時離床。曇天、朝顔はやはり青空が良く似合うな。少しのWORK、8時小休する。明後日アルチ村に入る予定である。今日は製作物の準備に暮れるか。

1202アルチ村日記 ある種族へ

8時半再離床。青空がひろがっている。インドの空の高さとは比すべくも無いが、いかにも日本的に穏やかで美しい。朝顔が濃い紫と薄い紅色の花をそれはそれは沢山咲かせている。3階のテラスは今これも又、こじんまりと見事な光景である。

先程眠る前にアルチ村日記の一部を自分なりに自己編集してXゼミナールに投稿してみようかと、これはまだ思い付きだ。

一字一句もとは大ゲサだけれど、もうあんまり無駄はできぬのだ。渡邊大志、佐藤研吾も幸い同行するので、旅はわたくしにとってゼミナールの如くになる。

明朝の大学院レクチャーは現代建築マスターピース群の最終として、ルイス・カーンのニューヘブン・イェール大学のブリティッシュアートセンターとする。その冒頭に、ミース・ファン・デル・ローエのバルセロナ・パヴィリオン、ノーマン・フォスターのセインズベリーアートセンター、ル・コルビュジエのラ・トゥーレットの僧院の3点を、光を中心として付け加えたい。

さらに宮沢賢治の姿とフランク・ロイド・ライトの姿、そして旧帝国ホテルの姿、二人はこの建設途次に周辺ですれ違っている可能性がある。そして宮沢賢治のアニミズムがそれらの現代建築の名作が持つ光と同様な水準を保有し得ていたことも述べたいので、宮沢賢治の作品もいくつか加えて下さい。渡邊、佐藤両君は短く良い議論をなして、それを編集せよ。擬音の多用巧妙がキーである。ゴロゴロゴロ、ドンドンドンとかの。この音の群は賢治の童話が動物に言葉を話させるのと同様に音の普遍性=コスモポリタニズムの表現でもあった。

話は飛ぶがダナンの五行山計画ともつながるものなのです。

アルチ村には念のため一台ノートパソコンを持って行きましょう。

レーのホテルから通信可能だと思います。

1201アルチ村日記 ある種族へ

突然世田谷村日記がアルチ村日記へ名前が変わる。

気まぐれではない。ある意味では用意周到な準備があっての事だ。意図的なそれこそ一生懸命な意匠の末でもある。

明後日6月29日にインドのニューデリーを経て、インド国内チベット仏教文化圏ラダック地方アルチ村に向う。5月には用事があり、ニューデリーのタジマハールホテルに滞在し、デリー大学構内のナショナルギャラリーの特設コーナーでの国立ナーランダ大学キャンパス・国際コンペの審査に参加した。釈迦が好んだとされるラージギルのナーランダ大学建設用地のサイトも訪ねた。若いころに訪れた事のあるナーランダ大学の遺跡も訪ねた。わたくしのサイトで途切れ途切れに報告を続けている「Journey to the West」の取材も兼ねて僧玄奘記念館も訪ねた。

国際コンペの結果はインドのMr.ドーシの案が一等を獲得した。

このコンペはサイトでのエネルギー0負荷を目指し、場所(サイト)をモダニズムが崩れ落ち込みつつある工学的に一律化された価値観とは一線を画す画期的な与件を、つまりはとてつもなく古く、そして同時にそれ故にこそ新しくもある希望に満ちた命題を持った。そしてその命題が与えられたコンペであった。 コンペの審査に参加した事でわたくしも久方振りに本格的な勉強をする事ができた。

Mr.ドーシはインド古来のタントラ思想をベースにWater Bodyの概念を出すなど、実に画期的な案を創出したのである。

その記憶も生々しい中で再びのニューデリー、ナショナルギャラリー訪問と、そしてヒマラヤの古い言い方だけれど秘境とも呼ぶべきラダック・アルチ村訪問である。

Mr.ドーシの提示したヴィジョンは、要するに旧というべきオリジナルナーランダ大学が電気エネルギーが全く無い時代にラージギルの風土気候と共生しながら人間に理想的であったろう生存状態、そして学びつつ生活する環境を総合的にとらえ直したものであった。

外からそれを眺め、アアとため息をつきながら学習したばかりではない。

それでは明治以来の西欧の学習の姿勢に似たモノに一向に変わりはない。

わたくしは今、現在幾つかのプロジェクトを手掛けている。

その中の幾つかがMr.ドーシの国立ナーランダ大学コンペ一等案と通底していると感じ、同じだといささかの自信を持って言えるような気もしたのであった。

その幾つかは、

1.ネパール・カトマンドゥ盆地キルティプール計画。アニミズム紀行5に記録。そして動画による発表。

2.ベトナム・ダナン五行山精神文化公園計画。未発表。

3.東日本大震災復興、気仙沼・唐桑の計画。サイトに断片的に発表、記録。

4.東京都世田谷区での幾つかの試み、サイトに断片を公表。

5.絶版書房・アニミズム紀行の記録

などである。

その幾つかの計画に、より明快な筋道と枠組みを与えるのに四苦八苦している毎日でもあるが、昔から良くそうしていたように、考える自分の居る場所を変えてみようと決心した。

東京に居たらロクな考えが生まれようが無い、の馬鹿な思い付きからではない。

つまらない日常の中で耐えてゆく、かいくぐらねばならぬのも今では良く知っている。でもニューデリーを間に挟んでの小さな移動の旅が、ケチ臭くない事を考えさせるキッカケにはなるだろう。

それはこれ迄のいささかの経験で知っている。明後日からの旅はだからいささかの目的を持った旅となる。10日間程で再び東京に戻ってくるのだが、その10日間という時間をうまく使ってみたいと考えた。

それで旅へ出る前の2日間を助走期間として添える事にした。東京での生活はインドにつながってもいるからだ。

ちょうど、続けてきた世田谷村日記のある時期からの通し番号も今日6月27日が1201番という何やらフンギリがつきそうな日付に非ず、番号でもある。

とり敢えずは短く10日間の旅の建前を口上として述べた。

肩の力を抜きたい。

5時半にアニミズム紀行8の原稿を25枚までのばして、ようやく、書き直し前の原稿95枚程にドッキングさせる事ができた。アニミズム紀行8のタイトルは「サティアンから福島第一原発」とする。

こんな時がある。

一気呵成に物事の数々に道筋が通る如くに視えようかという時がある。

7時20分前、いささか疲れて小休とする。

今朝はわたくしが企画、監修した「具体 Gコレクションより」のその後の事で、ときの忘れものの綿貫不二夫さんに東京駅でお目にかかりいささかの相談をしなくてはならぬ。

その時に、同時にこの「アルチ村日記」の出版の件なども相談してみよう。

午後は千葉へ建築見学が予定されている。

明日の大学院レクチャーもひとつの区切りなのでレクチャー自体の仕組みをわずかなりとも考えてみたい。

復活「生垣」03 「ネコ」

モヘンジョダロの遺跡を抜けて千歳烏山駅に歩く。遺跡は数年前から放置されている二階建てコートハウスの住宅団地がほとんど取り壊された残骸である。

基礎部分だけが原っぱの中に放置されている。これを勝手にモヘンジョダロと呼んでいる。呼ぶ自由はある。この仲々に良かった駅から歩いて二、三分の最良に近い物件を区から買い取ったのはS社であった。高層マンションを数本建てようとしたのだけれどそんなのモノが売れる世の中ではすでに無い。同じS社の近くの高級分譲マンションは売れ残り、当初販売価格の半分でも、まだ売れ残っている。そんな事情は地元の人々は皆良く知っている。だから区で一部を安く買い戻して児童公園にしたらの声も起きているようだ。

この土地、つまりモヘンジョダロの使い方に関してはほぼ毎日、朝夕に通り抜けている人間としては何かの形を区役所に提言したいとは考えている。多くの人間が常日頃通り抜けている道路が数本大きな敷地内をつらぬいてもいるから、その道の存続だけは言う権利と義務もあるだろう。

それはさて置く。いづれさて置き続ける事は出来なくなるのは眼に視えているのだが、今すぐにガタガタ言うのもおかしいと考えているのだ。わたくしの世田谷での大事な仕事にはなるであろう。

朝夕にこのモヘンジョダロの遺跡で会う猫と老人がいる。猫は仲々の美猫で、これも又、わたくしは勝手にタマと呼んでいる。

「タマ、こっち来い」

「イヤ、タマじゃない。チイっていうんです」

「ヨセヤイ、チイなんてイヤラシイ。タマと呼びたい」

のやり取りが毎回会うたんびにある。

飼い主は石森さんという。これは勝手に呼び変えるわけにはゆかぬ。石森さんは雨の日を除いて、ほとんど毎日、遺跡でタマと一緒に遊んでいる。最近、友達となった。遺跡で猫と遊ぶ老人と、メルヘンチックなジイさんかと思っていたら、これが大間違いで、この人物と猫はソバ屋宗柳の真前のデッカイ家に住んでいる。時々、ソバ屋で会うと実にウルサイ、ジイさんで、

「カラオケ、いこう」

とワメクのである。声もでかくて猫と遺跡で遊ぶ老人、なんて、こちらのセンチメンタリズムはすぐに吹っ飛んでしまった。ギャーギャー叫ぶようにソバ屋でたむろする主人を猫は道の向いの二階のテラスから心配そうに眺めている。

「相思相愛です」

なんて不気味なことだって叫ぶのだ。猫じゃなくって主人の方。

怖くなって念の為に猫の性別を恐る恐る尋ねたらオスだと分かってホッと胸をなでおろした。毎夜同じフトンで共寝の仲らしい。

妙な猫の衣装やら迄身につけさせているし、食事も特注の高価なモノらしい。

身体をこわして医者にみせるとウン十万円もかかると、それでも自慢気である。

わたくしなんかより余程医療費、食費はかかっているのは確かだ。

格差社会である。どうやら、わたくしはタマより格下だ。烏山地区にも時折ホームレスの老人の姿を見かけるようになった。大きな荷物を乳母車に満載して、モヘンジョダロの道端にうずくまっている。

このホームレスの人間にはわたくしは声を掛けられない。豊かな猫には声を掛けられたのに、ほとんど限界状態の中にいるに違いないホームレスにはそれが出来ない。人間と動物の仲は容易だけれど、人間と人間の関係はとても難しい。

このモヘンジョダロに時折いるホームレスの人、そしてこの巨大に理不尽なマンマの空地、そしてタマと遊ぶ老人と、困難さのグレード、つまり格差は歴然としている。

2013年2月13日 石山修武

復活「生垣」02 寺山修司

世田谷文学館の「帰ってきた寺山修司」展を観てきた。沢山の人がつめかけていた。太宰治人気もこのようなモノであったかとしのばれた。というのも多くの寺山自筆の手紙が展示されていて、克明にそれを読んでいる人が多い。私信をのぞく感がある。寺山は他人の家の庭に侵入してのぞきだと物議をかもした経歴も持つ。作家は誰にものぞきたがる傾向があるのだろう。この手紙が実に女々しいのである。女々しいというかセンチメンタルなのであり、現代の女性はこんなに女々しくは無い。もっとドスコイの体育会系であるのも少なくはない。便りを何故くれないのか、私は書いて出しているのにの類が多い。どうやら青森県出身は太宰にしても啄木でも、啄木は岩手か、根底がやっぱり文学方面は女々しいのが少なくないなと、これでは思われかねぬ。棟方志功の男らしさ、おおらかさとはまるで違う。棟方志功は短歌小説に行かずに良かったと思う。そりゃそうだろう。短歌に中学時代からのめり込むなんてのは女々しさの極みだろう。観覧者は女性が多い。オバさんグループは短歌づくりの同人なのだろうか。カルメン・マキのような暗い感じの独りの女性も多い。カルメン・マキも生き永らえているようだがカルメンの名も恥じらう老婆だ。61才でロックをやっているようだが、それでも相変わらず長い髪で暗い感じのロックなんだろうか。辛いナア。二階が主展示室で階下に沢山の短歌がお化けすだれのように、暗い中にブラ下がっている広い部屋があり、今時にも居るのかの文学青年らしきが座ってムヅカシそうな顔をしているのにブチ当たり、この部屋はパスした。女性はまだしも、男の今の寺山ファンはどうにも頼りになりにくい感がする。昔懐かしいビート詩人の老いたる風が多い。皆独りである。暗い。アッ、俺もそう視られていたかと気がつくが後の祭りである。

人が皆元気な時代に詩人は異形の光を持つ存在であった。今のように皆不元気な時代に詩人はただのゴミ状である。今は大半の若者はとうに寺山がアジるまでも無く書を捨ててしまっているし、家出ならぬ閉じ込もりのオタクである。会場には若い男もチラホラいた。短歌のお化けスダレがブラ下がっている部屋に座り込んでいた男も若かった。余計なお世話に過ぎぬがどうするんだろう、この寒空にと思ってしまう。

「帰ってきた寺山修司」が世田谷文学館の展覧会のタイトルである。

ウームである。

寺山修司は今、帰ってきたとしても寄る辺なき都市の孤独死を待つ老人に過ぎないかも知れない。田園に死すと言ったってもう田園には死ねなかった。田園が何処にも無いのだから。身の廻りの自然は無惨である。となげいてばかりではゴミにも劣る詩人になってしまう。少しでも何とかしたい。

2013年2月12日 石山修武

開放系技術論 14 復活「生垣」01 寺山修司

今ウェブサイトに書き込んでいるのは、世田谷村日記と開放系技術論、Xゼミナールに作家論・磯崎新である。最近世田谷村日記の書く長短が定まらなくなった。書くべきか、書かざるべきかとハムレットのように悩んでいるわけではない。そんな若々しい逡巡は少し計り昔に捨て去った。書きたい事があり過ぎて世田谷村日記には書き切れなくなったのだ。それで昔、コラム欄を設けた事もあり、最近では生垣と名付けたコラムの連載を始めていたが、これは開放系技術論に吸収した方が良いと考えて、生垣コーナーは廃止となった。でも最近ではあるが、時に日記が長くなり重い感じになる事がある。時々といっても定期的にそうなる。日記も日付による区分けを止めてしまったので、それ自体がコラムの連載風になっている事がある。

わたくしの書く事の本筋は「アニミズム紀行」である。これはウェブサイトには広告文しか書かぬと決めていて、変える事は無い。

アニミズム紀行文も自家制の本の形式を取るが、有料である。それなりの金を介する交換価値があると信じてそうしている。作家論・磯崎新もいずれ活字にして書物の形に移し変えようと考えている。

ガチャガチャ書いているが、「生垣」コラムを再開する。要するに書きたい事を日記よりは少し長く書けるスペースがやっぱり欲しいのである。

との前口上を述べて早速「生垣」コラム1に入る。

生垣01 寺山修司

世田谷村の近くに世田谷文学館がある。歩いて二、三分のところだ。世田谷美術館には良く出掛けるが文学館の方へは仲々足が向かない。近過ぎて行くぞという気持が仲々に起きないのだろう。今朝は良く晴れてしかも休日である。おまけに自分のサイトに小さなコラムを復活させるぞと書き込んでしまった。ところがそんなささいな宣言をして、いざ何か書こうと思ったら、何にも書くことが無いのである。昨日の世田谷区長保坂展人の会で会った不思議な肩書きの人、亀田博さんの印象でも書こうかとも考えたが、「生垣」コラム欄にはどうかなと考え込む。この人の名刺には名前の上にフリーランス歴史研究者・山歩き・市民ランナーとあって不思議だ。でもうさん臭くは無い。肩書きらしきが偉そうでないのが良い。いただいた富士登山紀行みたいな小冊子も今読み終わったが、どうもわたくしのコラムの題としてはまだ蒸留できぬ感がある。それで世田谷文学館から送っていただいた、「帰ってきた寺山修司」展を憶い出した。文学館ニュースを取り出して見たら表紙が横尾忠則の1967年のポスターである。アールヌーボー風の額縁に演劇実験室と書かれそれをサーカスの象が長い鼻で持っている。この頃の横尾忠則は唐十郎の状況劇場のポスターも描いていて今思えば世阿弥言うところの時分の花ではあった。唐率いる状況劇場の面々が寺山の天井桟敷になぐり込んだりして血気盛んな時代であった。横尾忠則のポスターのアールヌーボー風額縁が、生垣に視えなくもないと、それこそアールヌーボー風にねじれ曲ったこじつけをして自分を納得させ、それで寺山修司を連載第1回生垣欄とすることにした。流石に横尾忠則のポスターは素晴しかった。

当時一枚位ははがして失敬しておいたらと悔やまれる。

表紙だけ眺めても、と中身を操る。加賀乙彦(小説家・精神科医)と文学館館長菅野昭正の対談があって、読み出したら滅法面白いではないか。あやうく寺山修司を忘れそうになってしまった。

寺山修司はわたくしの学生時代六本木の交差点ですれちがった事がある。その前に彼の天井桟敷から舞台装置のデザイン及び製作に声を掛けられたが実現しなかった。すれちがったのである。六本木の交差点の早朝であった。こちらは徹夜の図面描きの朝帰りだった。アマンドの前の横断歩道を渡ろうとしたら寺山修司が寒そうにコートのエリを立てて向うから来た。かたわらに藤圭子がいた。夢は夜ひらく、新宿の女、で一世を風靡していた。藤圭子に眼がいって、ついでに寺山修司だったのか。寺山修司に眼がいって、オヤ、藤圭子ではないかなのかはもう定かではない。半世紀程も昔の出来事である。

でも、この寺山修司、藤圭子の連れ立ちがわたくしの寺山修司の記憶の全てである。

売れっ子の才人劇作家と、それにイヤ増す売れっ子の美人演歌歌手の連れ立ちであった。早朝5時くらいだったから、人の姿は無かった。朝モヤの中から現われたわけではない。とても乾いた光景であった。二人の仲を勘ぐるようなモノは何も無かった。恐らく二人もカラリとスレ違ったのであろう。

寺山修司については色々と読みかつ聞いても、わたくしにとっては六本木交差点の早朝のスレ違いなのである。

今日はこれから世田谷文学館にでかけてみるが、恐らくは何を見せられても、見ても、わたくしにはスレ違いの一瞬に時間は戻るであろう。

エリを立てて、うつむき加減に眼も伏目がちな。それは寺山修司の短歌や、書を捨てて街に出ようの書き物や、遊撃の思想だったかの固く鋭いアジテーションとは全く異なる光景であり、眼ではあった。

ほんの、一分にも満たぬスレ違いであったが、今でも消えぬ精霊が交差点にうごめいていた。

2013年2月11日 石山修武

石山修武・世田谷村の読み物