「沖縄計画」
 地域経営、人間空間、生命維持を総合化するチームを早稲田大学を拠点に作る。新領域を生み出さなくてはならぬ。次世代にも視えやすい希望の形を作りたい。
沖縄ワークショップのための第二回沖縄聞取り調査 2003
  世田谷村日記より
 三月九日
 五時過起床。荷造りをして羽田まで家内に送ってもらう。八時十五分発のANAで沖縄へ。那覇空港で渋井さんに会えるだろう。考えてみれば今日は日曜日ではないか。なんで飛行機に乗って遠くまで行かねばならんのか不思議だな。家内が怒るのも無理ない。が、仕方ない。十一時頃、那覇着。プノンペンの渋井さんと再会。照屋君とも合流。名護へ。昼食後、今帰仁村湧川、仲松キヨさん八十才インタビュー。淡々とした素敵なオバーさんだった。うちのおフクロも考えてみれば八十四才なんだからこれ位の魅力は充分にあるんだと再認識した。年寄りは素晴しい。賢者の知恵をこれからは生かさねば駄目だ。十七時四十五分ホテル二十一世紀チェックイン。本当に絵に描いたようなビジネスホテルで一泊六千五〇〇円。朝飯付き。十八時半中華料理屋で名護市長岸本氏他と会食。談論風発で楽しかった。市長の娘さんが建築関連の仕事らしく、その話を聞いて会ってみたいと思った。驚いた事に市長以下、ウチのホームページのプリントアウトを持っていて驚いた。昨日のNHK国宝探訪も観て下さっていて、まさに世は情報化時代である事に身につまされた。二十一時過会食を終え、ホテルに帰る。渋井さんと二十二時まで話して、自室に戻る。備瀬の福木並木道と、今帰仁中央公民館を体験できたのは良かった。

 三月十日
 朝六時半頃起床。ソニーのミニディスクレコーダーのマニュアルを読む。もう使われている言葉にギャップがあるので四苦八苦。簡単なことが難しく書いてある。今日は風も無く良い天気だ。八時渋井さんと朝食。百円ショップで買った腕時計はまだ動いている。百円で時計が売られる時代なんだ。スタイル、アクション、スポーツ、ファッションとバンドに書いてある。クアラという名前らしきもプリントしてある。驚いた。八時渋井さんと朝食。渋井さん山盛りの野菜喰べる。九時半ホテル発。十時今帰仁村仲尾次。渡名喜長栄さん(九〇才)上間敏雄さん(七〇才)。少し広めの伝統的な沖縄の家屋。長栄さんが歓迎の思いを込めて三曲三線で唄ってくれた。この九〇才も畑仕事に明け暮れている。
 昼食後今帰仁村湧川、山城要八さん(八七才)。十六時ホテルうらわチェックイン。朝食付き三八五〇円。海洋博当時のもののようだ。十八時車で四十分程にある恩納村ムーンビーチへ。国建の国場会長他と会食。国場さんは早稲田建築出身で、故木島安史、象の樋口さん等と同級生との事。ホテルは国場さん設計のもので清々しいモダニズム建築だった。御挨拶とこれからの御支援をお願いする。二〇時ホテルに戻る。二三時結城さんはるばる盛岡より到着。変だなァ。カンボジア、東京、仙台から男三人名護に深夜集まるとは。少し話して、疲れ切って眠る。

 三月十一日
 七時半起床。メモをつけて八時ヤロー三名で朝食。雑談九時半照屋君迎えに来て出発。十時運天港着。私は伊是名、結城さんは伊平屋、渋井さんは本部港から伊江島へとそれぞれ別れる。船は小舟かと思っていたら大きな六百五〇tのフェリーだった。これでしばしば欠航があるとは信じられぬ。建設労働者が多く乗り込んでいる。十時半出港。おだやかだと思っていたら、港の外に出たら風が強く、デッキに出ていたら波しぶきでビショ濡れになった。それでも久し振りに気持イイのでデッキに立ち続けた。バカだね我ながら。十一時半伊是名島仲田港着。村役場の神田さん迎えて下さる。民宿まえだチェックイン。沖縄そばの昼食後、尚王朝二代目尚円王の生誕地、アサギ小屋、井戸見学。歩いていたら老夫婦伊禮全忠さん(八四才)ムツさん(七八才)が種イモの苗を作っていたのでインタビュー。仲田部落の浜里ヨネさん(八七才)インタビュー。続いて伊禮正哲さん(七七才)安(ヤス)さん。正哲さんは前の伊是名村長だった。六五才以上の老人による会社のアイデアを眼を輝かせて聞いてくれた。続いて名嘉政晶さん(八九才)ツルさん(八六才)。十六時予定聞き書き修了。なんとかミニディスクも機能しているようだ。
 修了後神田さんに島を案内していただく。神田さんは兄弟六人で島に戻ったのは次男の彼だけだそうだ。ゆったりとした好人物。大阪で新聞配達の苦労をしていたらしい。十八時前民宿に戻る。今日は伊是名部落の銘刈住宅が良かった。仲田、勢理客、諸見の集落を廻った。十九時神田さん等と食事。〆原稿が気になって飲めない。二十二時民宿に戻り日経書評原稿十勝毎日原稿。沖縄でゆっくり人生の為のインタビューしているのに全然ゆっくり生活じゃない。深夜三時前修了。風呂を使って眠る。

 三月十二日
 朝八時朝食コールで起こされる。東京と北海道にそれぞれ昨日書いた原稿送る。部屋の窓から海風が流れ込み潮騒が心地良い。室内の原稿が残っているな。全くイイ生活じゃないのは解っているのだが、どう変えようもネェなコレは。
 十時過ぎ民宿発。伊是名の山川シゲさん(八六才)。伊是名は美しい集落で、山川さんの家はその典型の一つ。南面し、南に縁側がある。雑貨商も営んでいるので少し計り商品、歯みがき粉、石鹸等の日用品がささやかに並べられている。草いじりが好きで庭は花が咲き乱れている。色んな人が、あの花はナーニなんて聞くらしく柱に花の名前が落書き風に自分で書き込んであり、おかしかった。黒砂糖、砂糖を頂いてしまう。気持ちだって。仲田の山内サチさん(八六才)は二回程うかがって留守だったので良く動き廻る人だと知れる。昼食時を狙って行けばつかまるだろうと十二時過にうかがったら今度は居た。ハキハキとよく話し頭の回転も速いお婆さんで沢山話が聞けた。又もお土産に砂糖をいただく。昼食を終え仲田のゲートボール場でジイさん婆さんを待ち伏せる。十五時からチラホラ集まり始まり、盛時十人を超えた。陽射しもきつく私も気持良かった。真青な海に間近な何とも言えぬゲートボール場であった。十六時頃山内サチさんの紹介で皆に交り話を聞く。伊禮正八さん(七〇才)伊是名老人クラブ会長の話を取る事が出来た。伊是名島の老人クラブは六五才以上八五才以下で総勢三八〇名程。全人口の三分の一を占めると言う。十七時前民宿に戻り、夕方の散歩を一時間程。一人は気持ヨイ。十九時伊是名村役所スタッフと会食。二十三時半民宿まえだに帰る。クタクタではあるが健全だなこの状態は。

 三月十三日
 薄曇り。船は出るかな。ゆったりとした3日間だった。時間を気にする事もなく、それだからイライラする事も無い。でもネェそれでも老人達には何かが必要だな。小学校で子供に生活術でも教えるとか。朝食コールで起こされて八時飯。食後また眠る。今日はそれくらいのゼイタクは許されるだろう。仲田港は大がかりな堤防護岸工事でコンクリート漬け。これも日本の何処にでもあるコンクリートの風景だ。
 沖縄の老人たちと話し続けていて次第に私の気持ちも少し計り、ホンのチョッとではあるがゆっくり目に、柔らかくなっているようだ。老人達はおのずからなる先生なんだな。十時過民宿まえだを出て荷物を背負って一人歩く。昨夕見つけた仲田アサギをみて、部落の外に出る。サトウキビ畑の丘をゆく。体中が汗ばんで気持ちの良い事。二時間程歩いて港に十二時過帰り着く。特産売店伊是名屋のオジイさん名嘉正博さん(八五才)諸見の聞き取りをするが客が多くてジイさんその対応に追われてうまくいかない。聞けばこの島で最初に行った尚王金丸生誕地の隣に住んでいると言う。話し好きのジイさんだったが心残りだ。神田君見送りに来てくれて一時過ニューいぜな乗船。晴れてきた。なんとか本島には戻れそうだ。十四時半頃沖縄本島運天港着。結城渋井照屋諸氏と再会。名護へ。北部組合事務所でミーティング。今日現在四十九名のヒヤリングを終了した事を確認する。ホテル、チェックイン後夕食に名護の市中に出る。二十一時過ホテルに戻る。

 三月十四日
 八時結城渋井さんと朝食。九時頃名護バスターミナル。九時二〇分高速バス発。渋井さんも今日東京へ帰るので同行。十一時過那覇空港着。渋井さんと別れ十一時五〇分のANA82便に空席があったので滑り込む。いきなり時間の流れが変わってしまったな。機内ではウツラウツラしていた。やはり体は疲れているんだ。東京に帰って、二日間は時間の使い方を上手にしないと。

沖縄ワークショップのための第一回沖縄聞取り調査 2003
  世田谷村日記より
 二月二〇日
 六時半起床。六〇才になって入学できる学校。六〇才以上の方々で運営する会社。コミュニティのエリアにある程度の集団で自給自足可能な農園の実現。ハイテック介護カーetc、結城さんとの雑談から生まれたアイデアである。これだけで結城さんを沖縄に呼んだ価値がある。今日は幾つか表敬訪問した後百才のおばあちゃんの聞き書きから本格的なスタディを始める。
 八時四五分ホテル発。九時過北部広域市町村圏事務組合訪問。十時三〇分名桜大学訪問。十一時半大宜味村笑味(えみ)の店金城笑子さんインタビュー。十四時奥島ウシさん菊枝さん母子訪問。ウシさん百才。菊枝さん(七四才)のお話を聞く。百才の人間に会うのは初めての事だ。が、会って、その見事な存在感に圧倒された。私なんかは百才から見れば高尾山程度の低いジャリ山だな。八十才まで魚売りをしていたそうだ。この人物の見事なのは全く事実しかしゃべらない事だ。アリのママの言葉が連続している。私や結城さんの言葉はチョッと抽象的で事実から浮いている。途中でそれに気付いて私はインタビューを止めて、ただただ聞き役に廻った。なにしろこの大人物は良く仕事する人であった。二二才で鹿児島に魚売りに行ってから百才の今まで一途に仕事してきた。今でも天気が良ければ畑に出ているそうだ。友達が皆いってしまって時にあっちに行きたいと思う事があるけれど、それでも畑に行きたいと言う。そう言えば、先ほどの笑味の金城笑子さんのインタビューの合間に、道をへだてた畑に行ったら、金城弘安さん(七四才)に会った。畑仕事を黙々とやっていた。八十四、五はもちろん、九六才も畑仕事は現役だと言ってた。畑と言っても本当に猫の額程の三〇Fせいぜい五〇F程度のもので、猪が食い散らしにくるので対応が大変ならしい。その畑でウシさんは倒れるんじゃないかと菊枝さんは言った。インタビューの間、菊枝さんはずっと敷居をへだてた次の間で正座して、母ウシさんを見上げていた。七十四才にして娘のママなんだ。なんだかウシさん母子の話を聞いているうちに、泣けてきたな。自然に。山本夏彦のきらいだったアイダミツオじゃないけれど、人間百才まで生きたら凄いモノになるんだなと了解した。ウシさんは鉄人ルーテーズだ。十六時大宜味村喜如嘉。インタビュー相手のじいさんたちはまだゲートボールの最中だったので、芭蕉布の工房を見学。十七時平良仁松さん(九三才)稲富吉雄さん(八五才)福地善次さん(七六才)稲福肇さん(七二才)のインタビュー。ジイさん達はウシさんに比べると皆可愛いい。皆さん大工あがりの方々だった。今までは旅に出て仕事をしていたが、これからは若い人に仕事がないのが心配だと言う。平良さんが毎朝犬を連れて散歩に出て、流木を拾ってきて何か作っていると言うのでお宅にうかがった。庭や納屋に沢山のオブジェが作ってあり、小さなシュバルの趣あり。元気そうにしているが、九十過ぎの平良さんには一人の辛さが押し寄せていたな。でも平良さんのミニシュバル宮殿にうかがえて良かった。十九時過名護の喜瀬ビーチホテルに戻る。今日のまとめのミーティングと明日の段取りをして食事へ。

 二月二一日
 朝四時半起床。二〇日のメモを記す。六時まえに再び寝る。七時半起床。沖縄の老人達と比べると俺は卑弱だ。体をもっと使うようにしなければ。九時HOTEL発。十時頃東村にて三名インタビュー。私は高良輝忠さん(九八才)おしゃれな老人であった。後で聞けばコロンビアの歌手体験もあった人との事。本人はそんな事おくびにも出さなかった。第二次世界大戦の折、高良さんは東村の戸籍係になっていたという。戦前、戦後の境目で戸籍が全て消失して、その失くなった記録を復元するのが高良さんの仕事だったと言う。謂わゆる東村住民の記録の復元係であったと言う事だ。毛筆で一つ一つ全て記し直したらしい。それで東村の人々の歴史を全て把握してしまった人物だ。事実は小説よりも奇なりと言うが、まさにその通りの人物っであった。オシャレで少しばかりのテライもあって素敵な人物であった。十三時名護市に戻る。岸本市長と面談。三〇分程二度目の挨拶であったが、和やかで良かった。挨拶は人情の極北だな。市長は早大出身で、白井総長が沖縄振興審議会会長に就任することの内定を伝えた。要するに私がこのプロジェクトに力を尽くすというのを伝えたのだ。
 その後再び北へ。十六時頃国頭村安田、古堅昇さん(七八才)宅。聞き書き。弟さんは衆議院議員古堅実吉氏との事。安田はまことに平穏なところだった。二〇時過名護に戻り、食事。二三時過HOTELに戻る。今日も良い一日であった。

 二月二二日
 七時起床。今日も快晴、風も無く名護の海は静まり返っている。第一回の沖縄聞取り調査は四日目の最終日。朝食後チェックアウトして九時ホテル発。北へ。一〇時国頭村浜へ。木下フジさん(八四才)大城ミヨさん(七七才)島袋ミエさん(七六才)インタビュー。にぎやかで元気なオバさん達だった。「一人でもの想いにふける事は病を得るのと同じ」だユンタク(おしゃべり)はアゴの運動だけれど健康には効能がある旨を力説された。木下さんは午後にうかがう奥の生れで、兄さんも教員であったとの事。その給料は二六〇円でタバコ代と同じであった由。昼頃インタビューを終え再び北へ。沖縄最北端の辺戸岬へ。岬のレストランで決して美味とは言えぬ沖縄ソバを喰う。アメリカ人がグループでバイクで乗りつけていた。塩味がきつくて喰える代物ではなかった。十三時過、沖縄最北端の集落「奥」へ。資料館で宮城正男さん(九〇才)に会う。まだまだ美しさの残る集落だった。海太郎の「品格のある町づくり」晶文社が資料館の本棚にあり、この集落に勉強好きが多い事が知れる。インタビューは結城さんに任せて、奥集落の実見に出た。二月だと言うのにカンカン照りの真夏陽の光が集落に溢れ、小路には異常な静謐さが溢れ返っていた。私の七、八才の岡山の故郷にあった抜けるような静けさと酷似していた。好きなんだナァこの雰囲気は。海に面した奥、中・小学校はデザインは悪いが、その位置、大きさ共に良かった。この学校が奥集落では大きさ、風格共に一番であった。それがいい。人材育成に集落の将来を賭けているのが歴然とわかる。スケッチをして一時間後に資料館に戻る。
 インタビューは良い結果を得たらしく、やはりこの奥集落が沖縄の共同店舗の始まりである事、相互扶助のシステムによっていた事が判明したようだ。三時間かけて那覇に戻る。二〇時五五分のJAS最終便で東京へ。只今二三時三五分東京駅より中央線車中。深夜なのに車中は人がいっぱいだ。沖縄の奥集落の静けさがもう夢のように思えてしまう。

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