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近代能楽劇場第2幕
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近代能楽劇場 45 渡邊 大志
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「近代能楽劇場 漂流の巻」 石山修武
一人の若者在り。意欲大なり。志も又大なり。名を大志と謂ふ。
一人の青年在り。数奇の運命をたどる。十年程の昔、突如、身体神経系に自然のテロルを受ける。手足の自由を失う。しかれども、同様に意思あり。淡々とした情動を持つ。この二人、近代大学校にて遭遇せり。共に意あれども不自由なり。
双人共に語らい近代能楽堂なる珍奇なる劇場を想い描く。電脳見中に妄想を描く。読者数百人を数える。
しかれども、何が何だかワカンネーヨの声多し。それはそれでヨシと思えども、チョッとモッ体ナイなとも感ず。モッ体なしは当今の流行なり。
愚者あり。おせっ介なり。口を挟む。
太一、大志共に意あれども尽せず、故に舞台替えせよと。
八重桜狂雲の如く咲き積る日、三者、愚論を交す。
百日を過ぐる盛夏某日、100頁の狂笑のト書を得る。
諸者、諸君に配領すべし。
初春某日、能楽堂とはいったい何なのかと問い合せがあった。能楽劇場のページはおかげさまで多いときで1日100ヒットすることもあるぐらい多くの方に見ていただいているが、この手の指摘は実によく耳にすることがあり、その度に自問自答する機会をもらったのも又、事実である。それを今日改めて言われた。
近代能楽劇場は日常の中に溶け込むような性格を持たせようとしてきたが、あまりにも溶け込みすぎて、それと気付かれないうちにこうして第一幕を閉じることになった。今日からは第2幕とする。
一籌莫展:丹羽太一
「能楽劇場の枠組みを考えた場合、石山さんの言うとおりこのインターネット上でたんたんと語っているということを今も100人がところの人が一見しているわけで、これがもうはじまりと考えることは最初の到達点を示しているのじゃないですか。
もはや舞台を建築してその上で生身の身体が演じることがなくても、劇場という形態は成立し得るのではないか。絵を描くことも形を作ることもなく、演技者を垣間見ることが可能なのだと。」
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近代能楽劇場 46 渡邊 大志
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第一話「山口的イマジナリウム派というべきもの」
其の者は身体に不具合があるが故により身体による感覚に鋭いところがある。
彼が普通の人と同じ日常生活を送るには並々ならぬ苦労があると推測するが、それを支える人にもまたそれなりの苦労がある。トイレに行ったり、着替えをしたり、食事をしたり。常人は他人にものを頼むのに気が引けるような気弱なところがあるが、当然其の者にはそんなものは一切ない。どこか飄々としていて、まあそれやっといてよの感がある。それは傲慢という意味ではない。ただ、それが彼の日常であり、周りの人間にとってもまたそれが日常であるだけのことである。
師曰く「インターネットのスピード自体が能の動きのようなものなのだから、ネット上の舞台と一度割り切ってやってみた方が良い。」
彼応えて曰く「自分と彼の対話劇でもって構成していくとすると、絵はなくてもいいではないか。抽象的なところが良いのである故にどうなっていくのであろうという懸念はあるのだが。」
大志「どうなっていくのでしょう −とにかく能楽堂という有機体は具体的な与条件によって自然記述的に形が変わるものだと思うのです。」
一籌莫展:
「少なくとも現在に於いては、イメージをプロジェクションすることが即ち空間であり、そこに現れる結果の形は重要でなくなっていると考えているのです。」
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近代能楽劇場 47 渡邊 大志
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第二話「手」
彼はいつもコンピュータに向かっている。彼にとってコンピュータこそが社会そのものであり、外の世界との唯一のコミュニケーションでもある。けっして自由には動かない手でマウスをカチッ、カチッとやっている。
遠くからそうした彼の生活を覗き見てみるとまるで一人きりで舞台を舞っているように見えるときがある。その様子は非常に言葉では形容し難いものがあるが、我々にとっても社会と交わるということはそういうことなのかもしれない。
( コンピューターに向かうわたし。
東京を巡って撮影してきたデジタル写真をコンピューターに取りこんで、そこに模型写真を嵌め込んでいる。色々な場所に色々な装置を置いて、その効果を試している。)
「無限に見えるような可能性から −何の投企を生み出せるのだろうかな。」
師曰く「演劇には大別すると喜劇と悲劇があるが、どうも見ているとここは悲劇の方に傾いているね。アーキグラムの時代とは違って、最近はプロジェクトというフィールドに華がないけど、いくつかの複数のプロジェクトを演劇仕立てにしていくことができたらいいと思う。」
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近代能楽劇場 48 渡邊 大志
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第三話「頭と体」
彼を自宅まで送っていくことがある。車いすを操作するのは意外に難しく、右手と左手で水平方向に同じ力で押していると段々彼の体が傾きだした。これはいけないと思い、慌てて右手を上にあげるが上手くいかない。彼は何も言わないが、なんとなく憮然としている(ような気がするのだが、後ろから彼の顔を伺い知ることはできない)。しっかりと右腕で持ち上げなければ車いすは水平に戻ってくれない。
体「頭の中にモデルがあるというのはおもしろいと思うのですが、やはりどうしてもものや形にこだわる部分があるのです。というのは、山口先生のようにある種身体を凌駕してしまったスーパージジイ(この辺りの話は『スーパーGiGieの旅』に収録。)は別としても、ただ頭が飛んでいくというだけでは割り切れない何かがあるという直感があって、どうもやっぱり身体だなと。その両方が上手く組み合わさるとおもしろいのではないかと思うのです。」
頭「その感覚自体はそれで良いのだと思う。例えば映像が建築に投影されていてそれを見ている人がいるとすれば、建築の側にもイリュージョンと具体物があって、見る側にも身体という具体物と頭がある。そのどこに重点が置かれているのかということ。体が移動するということが見るということにどう影響を与えるのかということ。」
体「例えば金属を触ると冷たいとか、木を触ると暖かいとかそういうことはインターネットを見ていても伝わらないじゃないですか。そういう身体的な体験と頭の中の体験のズレを表現できる面白いと思うのですけど。」
頭「そういう具体的な体験を大事にするのがいいよ。演じていない面白さがそこにはあるのだと思う。」
少し前に何度か山口先生のところへ伺うことができた。山口先生はスーパージジイだから、一瞬にして宇宙へ飛び立つことができるようだった。
彼にとってのコンピュータも宇宙船のようなものなのだろうか。彼がその箱の前でゆっくりカチッとやるたびに、さながら暗黒舞踏のような身体性を意識させられるのである。
頭から上が切り離されて飛んでいく。確かにそれはあるのだが、それとは相反した身体という重い具体物が彼には認められるのである。あたかも実験工房と具体が同居したような、このなんとも言えぬ違和感をあなたは感じることができるだろうか。
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近代能楽劇場 56 渡邊 大志
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第五話 「声が届かないくらい場所から」
今、私は彼と1000km程離れた場所にいる。インターネットの世界にも関わらず、初めて自分と彼との距離を実感している。その間、ページは止まったままであるが、毎日変わらずコンピュータに向っている彼の姿を想像しながら、ページを覗いているところだ。
ページの更新は彼の範疇であるから、いつもマテリアルを渡してからしばらくして更新されたページをチェックする。そして何か要望があれば、いくらか離れた彼の席へ行って、面と向って「こうして欲しい」と伝える様にしている。
仕事の電話の取り次ぎは、わざわざ動くのも面倒だから、ついつい大声を出して彼の名を呼ぶ。
ここからは彼の姿を見ることや、彼の名を呼ぶことは出来ない。e-mailでやりとりできるが、直接伝えるにはやはり1000km程の行程を経なければならない。やはり彼との距離はどんなに小さくても常に存在する。実際に動いたという認識が空間を保証するという性質が身体に未だに染み付いていることを改めて実感する。
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近代能楽劇場 60 渡邊 大志
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第六話 「打ち合わせ」
彼はこのホームページの編集者であり、うちのネット関係の管理者でもある。今は俗に情報化社会と言われる時代でもあるから、建築のデザインはホームページと非常に絡むところが多く、彼とは綿密に打合わせをせねばならない。
通常はテーブルを囲んで打合わせをするが、彼はメモ書きをすることは一切ない。全て瞬時に情報化され、頭の引き出しの中にしまわれているようだ。
こっちはメモ書きするのに必死である。忘れてしまうから。
メモを書いて体で覚えることと頭で覚えることは根本的にデザインのソースが違う様に思われてならない。
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