近代能楽劇場 in the place
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近代能楽劇場 64 渡邊 大志
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近代能楽劇場 in F.O.P.
・ 東アジアコモンハウス in 能古島
福岡の能古の島は博多湾に浮かぶ小さな島だ。博多湾をヴェネツィアに重ねて見ると、ちょうどリド島に当たる。ヴェネツィアは言わずと知れた世界ナンバー1の観光都市だが、たけしが金獅子賞を受賞した国際映画祭や芸術祭が行われていることでも有名だ。
そのリド島に当たる能古島に、韓国、中国、台湾を含めた東アジア文化圏のセンターを考える。センターと言ってもハコものが並ぶ必要がないのは当然で、和魂洋才ではないが歴史が大切である。そうでなければ能古島のリドに対するアイデンティティーが失われてしまう。福岡は自然がよく残っている場所が多いがとりわけ能古島はその感が強い。そこでもう一度風景を昔に戻し、多くのアジアの芸術家が暮らす隠れ里の様なスケッチから始めた。
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近代能楽劇場 63 渡邊 大志
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近代能楽劇場 in 星の子愛児園2
前シテ:園児
後シテ:大人(かつての園児)
ワキ:保母さん
ツレ:園児の親
戯れに、子どもの遊ぶ風景を舞台化してみる。といっても見た目何が変わるわけでもない。現場での打合わせ中に園児たちが遊ぶ風景を見ながら、頭の中で想定してみただけだ。ただそれだけだが、急に園児たちの動きが演劇じみてきた。走り廻る速度が早くなったり、遅くなったりしてちらほら残像が見える。世阿弥の「幽玄」は観阿弥から受け継いだ猿楽主体の動きに犬王のアクロバティックな芸を織り交ぜたものを発展させたものらしいが、幽玄能における「摺り足」の技法と同じ効果が起きているのだろう。
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近代能楽劇場 62 渡邊 大志
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近代能楽劇場 in 星の子愛児園
農家の人が農作物を作る事を芸術活動であると呼んだのは宮沢賢治であった。そのとき農作物は作品であり、表現であった。
星の子愛児園では毎日、多くの子どもたちが泥遊びをしたりして遊んでいる。子どもたちの遊ぶ生活風景もまた彼らの表現であるに違いない。建築はただ、その表現活動の背景として存在していればよい。一つの舞台である。
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近代能楽劇場 61 渡邊 大志
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近代能楽劇場 in 夢の浮き橋
「夢の浮橋、憂き(浮)夢の端、夢の途絶、途絶した橋、断橋ー」
(堀田善衛 『定家明月記私妙』)
閉塞していく社会の中で都市に舞台を架ける。
その先の世界は『アキラ』や『ブレードランナー』とは全く異なる風景であるはずだ。つまり廃墟でもなく、ネットでもない。
定家が描いた高度にヴァーチャルな世界や能の橋掛かりの人工の世界の極地。個人単位のナショナルロマンティシズムを容認する世界。
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近代能楽劇場 55 渡邊 大志
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近代能楽劇場 in O邸
門扉を通り抜けまっすぐに視線をやる。それから2,3歩いて立ち止まりふと辺りに目をやる。当然、自然のものであるから差し込む光や、水の反射には一切の無駄がない。最小限の動きで空間を表現している。自然と空間に緊張感が生まれる。一挙手一投足に意識を集中せざるを得ない。
淵瀬沙門:
私の身体がその空間に関わりはじめると、私のイメージが刺激され、それは次の一歩に反映されるようになる。さて、この私ははたして演者なのかそれとも、観客なのか。私が見ているのはその空間なのかこの行為なのか。そしてその、どこに劇場という観る/観られる接触があるのか。
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近代能楽劇場 53 渡邊 大志
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近代能楽劇場 in 観音寺
毎日通り過ぎる風景を切り取った一枚の写真。今日もいつもと変わらず、自生したリュウノヒゲの脇を通り抜けてそれぞれの旅路を急ぐ。「ゴドーを待ちながら」の様な風景と思えれば、それなりに楽しめる。ただ通り過ぎるだけのことも毎日繰り返されれば儀式となる。どこかへ旅する過程の儀式である。
淵瀬沙門:
対象を見ている行為を時間で切り取ることで、写真という媒体はこの行為を含めたイメージをまた対象化する。対象化されたこの新たな像は写されたものを見せることができ、また写したものの行為として見せることができる。この相違がここではこれから問題にされるのだ。
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