過去の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2001 年1月の世田谷村日記

 十二月二十五日
 世田谷地下会合。
 来年三月十五日発刊「世田谷村」を決める。正月の会合でどれ程の考えがまとまって出てくるか楽しみだ。大学に初めて来た時を思えば、研究室のスタッフは全員二十代の始まりばかりの子供だった。こちらの体力も酷使して寿命を何年か確実に縮めたが、それを思い返せば今の方がまだマシかも知れない。あんまり失望も絶望もしないで、ガキ共に何かをもう一度託してみようと思う。しかしながら、大学というのは恐ろしいところだ。毎年毎年春になると大学院に無知な羊がドーッと流れ込んでくる。こちらは年を取る、経験も増える、しかし原則的に学生は毎年入れ替るわけだから変化しないわけで、彼等の落差は開く一方なのだ。
 「世田谷村」と名付けたプロジェクトを幾つか同時に走らせてみる。全部が上手くゆくとは思えぬが、全滅するとも限らないだろう。

 十二月二十四日 日
 朝、思いたって上九一色村の廃寺へ。辿り着いてみれば、すでに富士御廟と名付けられた墓地になっていて、無住ではなく僧侶が住んでいた。計画の余地は無いなといささかガッカリして、それでも念の為にと思いだいぶ年をめした僧侶に声をかけた。富士一合目とおぼしき高地に人里はなれ、たった一人で修行に明暮らしているかと思いきや、ドテラ姿に胸をはだけたモモ引き姿の生活臭プンプンたる人物で仲々に好感が持てる。破戒僧とは言はぬが俗人ではない。聞けば息子さんが早稲田実業高校出身という事で話しも弾み、色々と話してるうちに、この人物に私の計画を持ちかけてみようの気分になり、話し始めるとこの人物がこの富峯山聖徳寺の住職と言う。二、三千坪特別な区画の霊園として分けてくれるか、と持ちかければ、アイヨ、イイデスヨの答えが帰ってきて拍子抜けしてしまう。お茶をいただき、後日再会を約して帰京。途中相模湖に寄り、T先生を見舞う。二男の住宅を依頼される。T先生は大学の知人の中ではキチンと世間がわかっている人だから、考えてみても良いなと思う。西調布N先生の地下室に寄って上九一色村の報告をして帰宅。暮れなのに忙しい一日であった。

 十二月二十一日
 夕刻銀座で鈴木安藤難波氏と伊藤先生の会。松崎町ストリートミュージアムのまとめをしておいた方が良い。いずれ本にする部品としてのまとめ方が良かろう。

 十二月十七日 日曜日
 明日は二〇〇〇年最後の世田谷村Meeting。二〇〇〇年は建築作品としてはTREEHOUSE(GA JAPAN 号)、増井イカンパニーの二作であった。松崎STREET MUSEUM及び鈴木博之設計会所のコラボレーションは将来の布石となった。
 最大の成果は早稲田・バウハウス佐賀春、夏のワークショップの実現であり、これはTOTO出版より一冊の本としてまとめられた。SAGA計画は建築計画、都市環境設計の専門分野にとどまらず、極めて総合的有機的プロジェクトであるが、アジアの環境問題および、近代化を主題とする研究所の設立、新大学院大学構想のプランニングは二〇〇一年に持ちこされた。
 ひろしまハウスinカンボジア、世田谷村の二つの柱は建設が続行中である。十勝ヘレンケラー記念塔は建設中、年明けに現場チェック予定。
 明日のミーティングでは再び世田谷村と大学の研究室との関係について述べる。又、将来への方法としてプロジェクト・オリエンテーテッド、つまりプロジェクト志向型研究室開設の方針と概略を述べ、
 一、世田谷村計画→ゼロシェルター計画
 二、ひろしまプロジェクト
 三、佐賀計画
 四、MASUI・I計画
 五、MATSUZAKI計画
 六、TOKACHI計画
の進行方法に関して議論する。
 長期のプロジェクトと短期の、いわゆる作品製作の仕事を組み合わせることをそれぞれのスタッフに要求する。
 ただし、スタッフの力量から考えるに、世田谷、大久保共に小さなプロジェクトを確実にこなしてゆくことをベースにしなくてはならないだろう。又、スタッフの国際化に関しては、現実を見据える時期である。実施設計は外国人に任せる事はできない。どのようにして彼等の能力を生かすかは冷徹にやらねばならない。日本人の小器用さは私のようなタイプには役立つのだ。考えてみれば、私はなんだか外人ポイところがあるからね。

 十二月十六日 土
 昨日まで三日間は大学で過した。来客会議学生とのミーティング相談で一日が暮れる。大学での教師たちとの会議が一番不可解で無駄なもののように思う。会議では何も決定されずに、会議が終了してから、何処かで何かが決められている。大学の困難さの第一は教師の品性人格の問題にあるのではないか。東京ではやはり最良の資質は事業家企業家への径に流れていかざるを得ないのだろう。私立大学は企業でもあるのだから、今のママの教師像の集合では未来はおぼつかないだろう。
 大学院ゼミ研究室ミーティングを通して痛感させられるのは、モノを作る事への非力と情報を扱う事への関心、あるいは偏芯である。誰もが論文報告書の類をまとめるのは上手だが、設計デザインは下手だ。これはどうした事か。
 帰宅したら、台北からイフェイ・チャンが来ていて、四日程家に滞在するらしい。台湾のデベロパーで働いているのだが、イェール大学大学院で学んだ事は恐らく生かせていないのだろう。私のところで働いた人間達の中でも最優秀の部類に入る人材だが、人生は簡単ではない。有能な人間程実は生き難く、無能な人間程生きやすいのが現実なのだ。しばらく今の職場で働いて、再びアメリカへ戻り、ロースクールに再入学、転機を企てると言う。三十六才になったと言うから、そろそろ自分の径を決めるラストチャンスだろう。明日は長女がアメリカから帰るから、二人で色々相談すればよろしい。しかし、ニューヘブンで会ってから十年イフェイも大人になっているのがおかしいではないか。当時イェールの大学院に在籍していた学生達は今頃どうなっているのやら。

 十二月十二日
 昨日今日と世田谷地下で十勝プロジェクトに集中。未熟なスタッフとは言え十五人を相手のミーティングはエネルギーが要る。しかし、なんとか「水準」、こえなくてはいけないハードルのようなものがあるらしい事くらいは感じ取ってくれただろう。これが感じられなかったら何をやっても駄目なんだけれどね。
 午後は北側のアルミスパンドレルの取付け工事を行う。四人で十Fくらい貼った。

 一二月十日 日曜日
 午後相模湖のT先生訪問。お元気そうでホッとする。自分でも少しずつ体をいたわってやる事に心を使わなくてはならないのが我ながらおかしい。明日からの一週間は十勝の仕事に集中する。デザインする力がどれ程蓄積されているか自分で自分を点検する良い機会だろう。〇ゼロハウスプロジェクトも来年早々には具体案をスタッフに提示できるように準備しなくては。何から何まで自分で考えなければならぬ間は大丈夫なのだ。スタッフの非力未熟に感謝しなくてはならない。
 地道な努力の類は変革期には通用しない。勿論、大ゲサな身振りはそれにも増して役に立たない。冷徹な歴史認識だけがカジを取らせるのだろう。徹底して考え抜かねば生きていけない。無駄な事は省かなくてはならない。例えば金もうけとか、拍手喝采とかの無駄は邪魔だ。

 一二月九日
 増井邸オープンハウス。学生も含めて多くの人が川口の現場に集まった。院生も支援センター商品の販売に精を出し、いつもよりは明るい。しかし、この場所は工務店経営には抜群のロケーションであることを了解した。人の集まりやすい場所なのだ。枕木で作った階段が沈没寸前だった建築本体を救った。まったく建築は微妙なものだ。少しの事でガラリと表情が変わる。土屋檜垣は現場泊まりで少しは良い体験になったであろう。
 檜垣の生かし方に少し光明が指したように思う。実際に物を作らせる機会を増やしていけば良い。独特な存在になるやも知れぬ。
 見学会で配布されたパンフレットに私のキャリアが整理されて出ているのだが、極めて呆気ないもので、コレまでこれ位の事だったのかと、妙に身につまされた。五〇を過ぎて一切手を抜かずにやっているつもりだが、まだまだ薄味なのを痛感する。
 増井邸自体は最後の最後で、自分で課している水準にはすべり込んだように思う。
 ますイイ ハウジング カンパニーの活動方針を決めてすぐにも走り出さねばならない。定期的に人材を出して、一種の共同経営スタイルが望ましいと思うが。石山研に営業能力がありそうなのが少いのが辛いところだ。一週間に一度は増井君と定例会を開く必要がある。最初にやるべきは、この会社だけにしか出来ぬ事を決めて、それを宣伝することだろう。来週に決めてしまおう。

二〇〇〇年一二月六日
 朝六時三〇分世田谷をでて「ますイイ工務店社屋」現場へ。土屋、檜垣二名が現場に寝泊まりして最後の仕上げをしている。幾つか指示をして十時過ぎには再び地下室に戻る。来年一月からの「室内」新連載原稿にとりかかる。トヨタ自動車WiLL Vi批判を書くうちに、我ながら面白くなってしまい色々と横径にそれた本に手をのばしてしまう。書き上げて、編集部にFAXして意見を求める。自分で調べなければならぬ事が多くなりそうだが、この連載は面白くなりそうだ。
 夜、ヘレンケラー記念塔の打合わせ。実際に現場が始まっている建築の打合わせにはエネルギーが要る。抽象的な議論だけではすまされぬ具体的なアイデアが要求されるからだ。それぞれのスタッフの力量が赤裸々になる時でもある。二五才も年の開きがあるスタッフと私では経験力量共に距離があり過ぎて議論にもならないが、それでも時にオヤと思わせるアイデアも出てきて、そんな時は面白くてワクワクする事がある。ギリシャからきているクリストモスはある種の詩を内部に持っているようで楽しみだ。支援センター注文してくれた人達への礼状を書く。一人一人とダイレクトに交信するだいごみがある。何人まで直接お付き合いできるのか、はなはだ心許ないけれど、やれるところまでやってみるつもりだ。
 夜半、佐藤健よりTELあり。病気の友人に差上げた絵が大変喜ばれたそうだ。酒呑みの友人を持つとお互い命をすり減らしているように感じてしまう時があるが、酒をお茶に切り替えるような器用さの持ち合わせはないから、運を天に任せるしかないだろう。

二〇〇〇年一二月五日
 朝から昼まで世田谷村の地下にいて、打ち合わせしたり、図面のチェックをする。それから午後学校へ出かけて諸々の用をしたり、学生の相談にのる。夜は又、地下室に戻る。これが理想的な日課かなと考えたりもするが、現実には、こんな風には時間は流れない、自分の思う通りに時間を割ることはできない。
 今一番頭を悩ませているのは二〇〇一年からの「室内」の新連載だ。この雑誌にはいつも緊張させられる。なにしろ編集人が山本夏彦である。当代一の物書きであり、目利きだ。若い頃から機会を与えられて、わたしはこの人物の許でいささかの文章修行をした。わからぬことをわからぬママに難解に書いてゴマかそうとすれば、必ず突き返された。面白ければ、面白いと言われ、つまらなければヒッヒッヒと笑われた。そうやって、文を書く面白さを教えられた。
 ここ五年ほど、「石山修武の設計ノート」と題して勝手気ママな連載を続けさせてもらった。楽しい連載ではあったが、少し気ママに流れ出したなと考え始めていた。編集部から設計ノートは打止めにして、新連載を考えようと宣言され、私は流石だ!と手を打った。流れ始め、とりとめが失くなったのを知るのはわたしだけではなかったのだ。
 山本夏彦からは「目ざわりデザイン」というテーマを編集者を介してもらった。具体的なモノを通して、デザインを論じよ。しかも普通の言葉で、面白くと言う要求だ。これは難しい。イヤなデザインは世に無数にあるが、そのイヤな感じをわかりやすく、しかも読者に不快感を与えずに書くのは、高度な技術を必要とする。しかも、自分自身のことを気ママに書くばかりでは駄目なので、調べる時間が要る。つまり書評と同じように、困難でしかも面白くするのに手間がかかるのだ。
 〆を明日にひかえて、ようやく第一回に書くべき対象が決まった。トヨタ自動車will vi「WEBバージョン」である。ピンク&ホワイトのかわいいツートーン、名づけて「ストロベリーミックス」と唄われて百台限定販売になっている。
 もの凄く目ざわりなデザインである。恐らく顔黒ギャル達やパラパラ娘には「超可愛イイ」なんて叫ばれているのであろう。
 例えば一九六〇年代のキャデラックのデザインは目ざわりであった。エルヴィス・プレスリイのラスヴェガスのショーでのコスチュームや、プレスリイの存在そのものが目ざわりであったように。そこには悪趣味の過剰さがあった。
 近代の悪趣味の大半はアメリカが発生源だ。何故ならアメリカは金があるが、歴史が作り出した階層、例えば貴族階級は存在しない。貴族の上級な趣味、貴族趣味が存在しない。それで、何とか金にあかせて貴族趣味を打負かしたいと考えた。それで出現したのが悪趣味である。キャデラックのデザインやエルビス・プレスリーはそのようにして出現した。
 今の日本の悪趣味はそれとは異なる仕組みを持っている。
 トヨタ自動車will viデザインの趣味の悪さはエルビス・プレスリーの悪趣味とは違う。ケバケバしさや野生、ヘビーメタル趣味に見え隠れする性的な表現や暴力の露出はない。全てが隠されている。機能も、利便性も生産性も隠されている。自動車の本体が隠されている。デザインは市場意志のようなものだけの為にある。市場意志とは市場を可能な限り独占しようとする意志だ。
 トヨタwill viデザインを一言で要約すれば一種の幼児性であろう。自動車がオモチャを演技している。その演技は市場原理信仰のようなもので、要するに売れるモノは良いモノだの商業の原理に忠実なデザインを求める。デザインは機能から完全に遊離して包装紙のデザインのようなものになっている。ストロベリーミックスのベビーカラーが売りのデザインなのだ。
 トヨタは誰もが知るナンバー1カンパニーである。二位につけていたニッサンはフランスに買収された。本来であればかくの如きデザインは王者が行うものではない。三番手四番手のメーカーが必死で穴場狙いでするものだ。GMが王者の同格を示すものとして市場に出したアメリカン・ドリームとは程遠い。ジャパニーズ・ドリームとは言い切れないものだろう。willの広報パンフレットにはこう唄われている。NG層に適したデザインなのだと。NG層とは何か。ニュージェネレーション世代なのだろうと憶測する。まさかNG(ノーグッド)の略ではないだろう。
 マーケットの王者が、市場から落ちこぼれた層にまで手を延ばす卑しさ。そのゆとりとおごりの姿勢がこの自動車のデザインにはよく現われているのだ。

二〇〇〇年一二月四日
 電話して消息を確かめたりしなくても、大丈夫なのを友人というのだが、久しぶりに仙台の結城登美雄、東京藤塚光政に電話してみた。案の定、別に変りはないの素気ない応答だ。あんまりお変り無いだろうから 友人なのであって、考え方生き方共に時々お変りある方はやっぱり友人としては遠慮させて頂くしか無いのだが、それにしても二人共に微動だにしないところが凄惨である。結城藤塚共に福相で人徳大の呼び声高いが、こうまで人が変らぬと、それはすでに人格者の域を越えて、第一次風狂の人の世界に突入している。結城に問えば、今は日々の七割は仕事で旅に出ていると言う。宮本常一の足跡を年をとってから追い始めた結城の面目躍如たるものがある 。
 「やっぱり日本はもうどうあがいても駄目です。全て手遅れです。それを知らせても意味がありません。唐桑の和則が町長選に出馬すると表明してしまいました。今さら、もう手遅れなんです。ジタバタしない方が良いのです。」明るい虚空地蔵の笑いと共に結城は断言する。他の人間がこんな科白を吐いたなら、私はそれをたしなめるだろうが、結城がそう言うのを私は楽しむ事ができる。私だって、結城ほどではないが、あちこち渡り歩いて、もう駄目だろうな位の実感は持つ身だ。ただ、駄目な中で同じように駄目になっていく自分が許せないから、ジタバタしてみるだけの事なのだ。ジタバタする演技こそが日々の仕事になっているだけのことだ。
 結城の「山の暮らし海の暮らし」*注はそれでも変りようのない彼の視点の柔らかさが光っていた。もう駄目な日本の山村、漁村の、それでもそこに暮らさざるを得ぬ常民の生物としての尊厳が描かれていた。生物としての尊厳とは決定的な狡猾さのようなものだ。 山の村も、海の村もその品格心性共に破滅した。しかし、そこに暮す人間たちの生物的狡猾さは強い、時に愛すべきものさえある。それが結城が言いたかったことの要約である。
 わたし達はすでにそのような生物的狡猾さ、わたし達の中に生き残っているネガティブな狡さに頼るしかない。

北海道十勝のヘレンケラー記念塔の建設現場へは来週にもでかけてみよう。今週、九、十両日は川口市に建設中だった増井さんの家と事務所のオープンハウスだ。何とか工事が間に合えば良いのだが。
 支援センターへの注文も少しづつ増えてきているようだから、荷造りを始めなければならない。カンボジアの渋井さんから「ひろしまハウス」工事現場の写真が送られてきた。暮れには建設資金を持ってプノンペンにでかけなければならない。松崎町の倉ギャラリーの次回の展示のための作品も考えなければならない。ジタバタの音が足許に在る。

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