過去の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
3月の世田谷村日記

 一月二八日 Sunday
 EUGENE(ユージーン)のザ・シークレット・ガーデンという名のホテルに帰り着いた。講義とクリティックを各一回行えば良い楽なスケジュールだと考えていたら大間違い。消耗し切ってやっと最終日に辿り着いたの実感である。オレゴンの五日間はハードだった。二六日のレクチャーは通訳なしで少々心配だったが、何とかやってしまった。ホールはほぼ満員で反応は良かったように思う。
 ルーブル美術館、グッゲンハイム美術館、バウハウス大学と海外で講演会をやってきたけれど、初めて通訳無しでやってしまったので、一番親近感があったのかも知れない。しかしながら、オープンテクノロジーというロジックはもう少し解りやすく説明する道具が必要だろう。ロジックを構築するのならば英語圏で通用しないと意味がないから。
 しかし、今考えているロジックがアジア圏で通用するかと自問すれば、これは仲々に困難だ。四月の台湾中原大学での講義は少し考え直した方が良いかも知れない。時差ボケで今は夜中の二時半。人体に時差ボケがあるように、地球にだって時差ボケはある。近代化の最中のアジアで開放系技術という、言ってみれば近代以降の社会を想定しようという理論が通用するのか。もう大分昔になってしまったが、磯崎新と北京人民大会堂で講演して、シンポジュームを持った事があったけれど、今振り返ればあれは冒険だった。人民大会堂で毛沢東とミッキーマウスを同じに論じようとする磯崎の隣にいたんだから。良く帰国できたと思う。オレゴン大学で北京を思い返すことができるのも旅の余禄だろう。二七日は早朝から、アレキザンダーの住宅、チャールス・ムーアのキャンパス施設を見て、ポートランドへ三時間位の車の旅。途中で、アルヴァ・アールトの図書館を見学する。アレキザンダーの住宅、ムーアの建築、共にモダーンデザインの流れから逸脱したモノだが二一世紀になって、彼等の仕事が本格的に見直される機会と見直す事ができる人物に再会する事ができるのだろうか。
 一緒に論じる事は困難だけれど、要するに普通の人間のデザイン意識の問題への関心であったと解釈すれば、再評価の径が開けるように思うが、どうだろうか。
 アールトの建築の内部は光のコントロールも細部も安定感があって流石だが、何か、私達の現代とは遠いところで物事が考えられているような気がする。丘の上の修道院の中の建築だからかな。しかし、光の扱いは学ばなくてはならない。
 ポートランドに着いてマイケル・グレーブスの市庁舎を見る。これも又、デザインと大衆を考えた末の建築だが、見る影もない。バウハウスのモダーンデザインにはすでに限界があるのだが、このスタイルではむしろ後戻りであったの印象しか無い。その後に見た倉庫のリノベーションの仕事は良かった。広告代理店のオフィスのようだが、会社自体の豊かさが内部に溢れている。あんまり好きなフィーリングではないが、良いと思った。広告代理店の豊かさと言う、現代の奇妙さが良く表現されている。こんなにアブク銭がかせげるのか広告屋は、という感じ。
 ポートランドに一泊して二八日はオレゴン州の西海岸を走り、又、ユージーンに戻った。夜、ニュート宅でマイケル教授、チャーリーブラウン教授とディナー。
 沢山の人に会ったが、又、お目にかかれる人がどれ程居るだろうか。一日一日を精一杯やっているけれど、できる事には限りがあるのを痛感する。
 〆を過ぎた原稿も結局書けなかった。残念だが、このスケジュールでは無理だ。
 明日は七時にケビンがホテルにピックアップにやってきて、ユージーン空港へ、プロペラの小型機でシアトルへ、乗継ぎで、東京へ帰る。帰れば、原稿地獄だが、仕方ない。
 ただ今、朝の三時四十分。これ迄は何とか時差をゴマ化してきたが、四日目にして完全な不眠状態がやってきている。世界を駆けるのは向いていない体力なのを痛感する、春からヨーロッパへも何回か出掛けなくてはならぬ、スケジュールが組まれているが、もう止めちまうかと反省している。やるなら、徹底してやらなければ意味がないが、東京にジーッとしている事の意味も考えた方が良いかも知れない。何しろ、私はジェット機には向いていない。
 眠れそうにないので、風呂に入ってみることにする。食べて、眠らなければ人間は今のところ生きてはいけないのだから、大して進化してネェーなと思う。
 こりゃ、今日のシアトルの乗継ぎ待ちは、散々だぜ。帰りの飛行機は悪いけれど、眠って帰ることに決めた。原稿何本残ってるのか、考えない事にしよう。
 できないものは、できないのだ。
 風呂から出てもまだ朝の四時チョイ過。まったく眠れない。眠れないという事だけで妙に人生に悲観的になっている。我ながら小者である。情ない。二川幸夫はあれだけ世界を飛び歩いて、全く時差が無いと豪語しておったが、アレは化物かも知れない。磯崎も外国を飛び廻っている時の方がイキイキしているのを実見しているから、化物だろう。
 化物、怪物の類には用心しなくてはならない。全く眠気がやってこない。無念だ。
 そんなわけで、只今六時三〇分。荷造りも終えて、ボー然としているのである。シアトルにはフランク・O・ゲーリーのジャニス・ジョップリン・ミュージアム?が完成している筈だが、こんな体調では三時間の乗継時間で見に行く元気も無いだろう。東京までひたすらジーッとしているしかない。
 ただただハードな五日間であった。

 一月二一日 (日)
 久し振りに世田谷村で休む。まとめて、スケッチする時間が一番欲しいが、仲々できぬ。

 一月二〇日 土
 両国でブラジル建築ワークショップのシンポジューム参加。夜、今年二度目の雪。

 一月一六、一七
 北海道十勝ヘレンケラー記念塔現場。
仁科建設社長、大工棟梁に会う。工場で使用木材検分。
 二日共に天気に恵まれ、塔のプロポーション、内部スケールと外との関連の最終確認を済ませた。幌尻岳、大雪山の眺望も素晴しく、良い仕事に恵まれた事を痛感した。これらの山岳をいかに塔内部にとり入れることができるかが命題であろう。

 一月四日
 二川幸夫さんと仙台往復。伊東豊雄の仙台メディアテック見学。十二日の伊東さんとの対談にそなえて。良い建築であることに間違いないが、革新的な建築ではない。ガラスの建築の抽象性と鉄のゆがんだ構造の矛盾が目立った。

二〇〇一年 一月二日
 TREE HOUSE、ヘレンケラー記念塔、上九一色計画、ひろしまハウスINプノンペン、の流れにようやく1つの径筋を発見しかかっているように思う。
「身体の悲劇」の連作と直感的に呼ぼうとしていたのだが、むしろこの連作は近代そのものの、その結果として近代建築の限界を自然に浮き上がらせる仕組として把えた方が生産的なのだ。近代的な計画概念は常に健常に想定された機能に対する諸物質の配置概念であった。20世紀を象徴する建築形式はオフィスビルであった。前世紀の帰結は高度に管理化された資本主義の貨幣の自由であった。貨幣の自由は人間生活の自由をはるかに超え、情報と共に今や国家の境界を越え、資本そのものの自在な体系を構築し始めた。オフィスビルはそのような現代資本主義の装置として表象されるものになった。ミ−スの鉄とガラスの建築形式はその貨幣の自由の装置として最も有効な抽象性を持つものとして多用された。貨幣と情報は共通する性格を持つ。それは極めて抽象的な性格を持つものだから、眼に視えにくいものだ。形が無いように考えられる。それ故にガラスの透明性に親近感を持つ。現代建築がその用途を問わず、大勢として巨大なパッケージ化の傾向を示しているのはそのような理由からだ。ガラスの箱の透明性は情報・貨幣の基本的な性格を良く表現しやすいのだ。それは貨幣・情報の強力な流通・交通性を表現しやすい。

 TREE HOUSE、ヘレンケラー記念塔等の仕事の意味は何か。それは近代の計画学、モダンデザインが避けてきた、非正常つまり異者の問題を主題にしていることだろう。正常は常にアウトサイダーを嫌う。均算化された正常にとってアウトサイダーは間違いとして眼に写るからだ。しかし非正常者の問題こそは本格的な多様性の問題でもある。近代が避けてきた問題は多様な生の在り方だったのではないか。機能主義、近代デザイン共に建築家をも含めた生産合理主義、つまり正常者の論理であった。その論理は広義な意味での生産合理主義であり、貨幣の論理でもある。
 TREE HOUSE、ヘレンケラー記念塔のデザインの意味は深くアウトサイダーの側に身を寄せ、多様性について考え始めようとしていることである。障害者の問題は又、ひろしまや上九一色村の悲劇の問題にまで辿り着く。正常者の中に潜む悪の問題である。日本が経済の問題に明け暮れていた時に、アフリカでは凄惨としか言い様のない、民族間の大虐殺が起きていた。人間は常に正常の衣を着た悪になり得る可能性を持つ。余りのノーマルさは常に多様性に対するホロコーストの役割を成しかねぬのだ。
 二〇〇一年に少しづつ姿を現わし始める、私の仕事は弱者に身を寄せようとしているのではない。より直接的に異者、アウトサイダーの多様性に加担しようとしている。
 アウトサイダーの多様性とは、別の系から攻めようとしている開放系技術の問題へとつながってゆく可能性を持つことは言うまでもない。
 建築家の自由を言っているのではない。建築家が自由であろうと、なかろうとそれは問題ではない。個々人の自由、個々に貨幣のアナーキズムに不自由になっている人間が、本来所有している多様な尊厳の自由のための道具を用意しようと言っている。

2000 年12月の世田谷村日記

最新の世田谷村日記
石山修武 世田谷村日記 PDF 版
サイト・インデックス

ISHIYAMA LABORATORY:ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp
(C) Osamu Ishiyama Laboratory ,1996-2001 all rights reserved