石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2002年4月の世田谷村日記
 三月三十一日
 朝、久しぶりに屋上菜園へ上る。程良く緑が増えていた。台所の生ゴミを土に埋める。前のを掘り起こしてみるとすっかり土になっていた。早いのは一週間で土になるそうだ。生ゴミも湯気を立てる位に熱を持ってるからなあ。午後星の子愛児園現場へ。今はこれが精一杯だろう。園長先生も保母さん達も喜んで下さっているようで、ひとまずは安心。夕方日経コラム書く。屋上に木いちごの小木植えた。小木というより苗木だな。サヤエンドーとスイトピーに添木をして糸でツルを支えてやる。照れちゃうね。全く。明日は私の五八才の誕生日である。何の感慨も無い。無駄を省きながらこのまま進むしかない。
 夜、二〇〇二年度の仕事に関しての、オリエンテーションMAP作る。思っていたより簡単に出来上がった。佐賀ワークショップでのトレーニングのお蔭様だ。
 地下では私の打合わせコーナーを作らせよう。コの字型平面の現在物置きにして使用されていない部屋を改造する。
 夜、稲光りして雷鳴った後、光々たる月夜。今日は早稲田バウハウススクールOBの八頭司、黒田、太田がはるばる訪ねてくれたがスレちがいで失礼した。二日に仕切り直しとする。

 三月三〇日
 今日は梅木、権藤と会って、これからの事を相談して帰京の予定。長くて短い三年間であった。朝難波氏と食事。十時学校へ。十一時佐賀新聞梅木氏と会う。武雄の森正洋さん宅へ。ワークショップの将来の事話し合う。沖縄の土の建築の可能性についても。どうせやるなら楽しくやりたいな、遠くでやるならば徹底的に目的を明快にしなければエネルギーを使う意味がない。森正洋さんだって病をおして3年間WORKSHOPに参加して下さったのだから今度は本格的な事をやらなくては生きてる意味がない。アト片付けで残ったスタッフ、学生を残して佐賀を去る。福岡空港で安藤から宮本さんとの打合わせの報告を聞く。安藤の面白いところは馬鹿気た青臭い野心が無いところだな。自分を買いかぶってないところが面白い。自分はデザインが出来ると思っていたり、独特な発想の力があると思っている女学生くらい馬鹿はないから。それが無いってことは才能なんだよね。安藤向井を福岡空港に残して一便早く羽田へ。  丸い月が飛行機の窓から見えている。

 三月二九日
 朝六時起床。今日は佐賀ワークショップ最終日。体力気力共これくらいが限界だ。野村はもう少しその使い道を拡張して考えた方が良いな。あの人柄は貴重だ。沖縄はなんらかの形を任せてみようか。帰京したら沖縄の件で動く。佐賀での体験を生かして、もう少し具体的なモノ作りをベースにしたい。それが一番困難な事なんだけれど。
 最終講評会。十七時半終了。井本知事による恒例の修了証書授与式。井本知事にも大変お世話になった。

 三月二八日
 朝、私の最終講議。昼福岡へ。宮本さんと打合わせ、昼食。十七時佐賀へ戻り、県庁で井本知事にあいさつ。三年間の御礼を述べる。夕方権藤氏来校。懸案の件決める。川副さんにもお世話になった。年寄りには皆潜在能力が在る。野村安藤の報告を聞く。安藤は正念場である。

 三月二七日
 松村秀一レクチャーはこれまでのここでのレクチャーのまとめで最もクリアーなスタイルのものだった。若い学生にも良い影響を与えたであろう。学生はともかく私には刺激的であった。日本の産業としての建設業の一部が向かうべき方向を確実に示した。イームズのケーススタディハウス(自邸)に対する見解はすでに私の考えと共有できるものがある。松村氏は内田研究室が持っていたアカデミズムが持たざるを得ない波風立てぬ中庸の精神を打破する可能性があるな。剣持伶以来の人材だろう。
 第二講中川武 アンコールワットの保存論。
 午後、来客、沖縄での可能性について話し合う。夕食は彼等と料亭で会食。九時ホテル。休む。深夜、止せばいいのにサッカーのTV中継をまどろみながら音だけ聞く。何故、サッカーなんか関心ないのにそうしているのかが解らないが中田が復活したらしい。中田、イチローは新しいタイプの日本人だ。

 三月二六日
 第一講森正洋 第二講安藤忠雄 第三講二川幸夫。
 全て充実した講議であった。達人は皆やさしい言葉で語る。佐賀でのワークショップは終るが、かくの如き人間関係は残るんじゃないか。そうあって欲しい。
 難波和彦、松村秀一、中川武来校。「おさむ」で食事。「おさむ」にも世話になった。

 三月二五日つづき
 夕方二川幸夫佐賀に。六時よりHOTELで食事。相変わらずの元気振りを発揮。「キミね、利休重源空海はアレは魔術師だぜ。」こういうところの、いわゆる長島茂雄型の直感は凄いものがあるのだな、相変らず。二一時過、Barでウィスキーを飲って休む。これ位の酒が今の私には丁度良い。まことに弱くなった。二川さんには敵わないのだ。

 三月二五日
 早朝日経原稿書く。朝食は山田脩二とおかゆ。朝第一講山田脩二。相変わらず写真が見事。
 第二講坊城俊成、第三講森川嘉一朗。昼食は山田脩二等とうどん屋で。今日は天気も良く春日和である。

 三月二四日
 今日から子供モノづくり教室開校。宮崎現代っ子センターの藤野忠利さんの力で開校しているが、もう少しつめれば面白いのは解っているのだが、私の方に力のゆとりがない。朝十時開校のあいさつを五十一名の子供達にして、私は引下がる。これは藤野さんに任せておけば良ろしい。
 気が付けば今日は日曜日である。
 独人で諸々のエスキスをすすめる。
 森の学校の第一ステップのアイデア固める。宮本さんの家エスキスすすめる。オープン・テック・ハウスの進路がチョッと視えてきた。夜山田脩二と再会。

 三月二三日
 朝四時前に眼覚めてしまう。疲れているのに長く眠れないのは体力が落ちてきたからだろう。仕方ない。今日は午後福岡に出て宮本さんと打ち合わせ。安藤に担当させようと考えているのだが、当然不安である。何故俺のとこに来てアノコチコチが融けないかな。融ける兆しも無い。他の院生のような青臭い小便臭さが無いのが良いのだが、それだけじゃね。マ、もう少し我マンして使ってみよう。アノ固さを解放してやるのも仕事のうちか。デザインは頭だけで理解しても駄目で、身体で特に手で考えることができないと、柔軟にはなれない。安藤は頭と手がバラバラなままだ。向井は予想通りにしぶとくのびている。将来私のスタッフにできるかなと考えている女性を二人九州のワークショップに参加させてテストしているのだが、こいつ等がのびてくれないと私も不自由になるからな。建築家とそのスタッフの問題は大事な事なのだ。何だかグチになってきた、もう一眠りしよう。
 高木正三郎のレクチャーを聞いて、福岡宮本さんへ。安藤同行。ネクサス石山棟一〇一号室。娘さんに初めて会った。元気な良い娘じゃないか。これは心配しないで良い子供だ。二時間半の打合わせで大方の方向性は視えてきた。十六時過佐賀へ戻る。

 三月二二日
 今日は学校は休みにした。学生達の疲れが眼に見えてきたから。皆弱くなってしまってる。かく言う私も弱くなっているから、当然朝はゆっくりさせてもらってる。昨日東京は大風が吹いて世田谷村は大あわてだったらしい。やっぱり一家の主人が居ないとジタバタするんだなと、かえってホッとする。しかし自然はあなどれない。
 ワークショップの将来像に関して、具体的なプロジェクトを参加メンバーで進めてゆくのが理想である事は確かだ。しかし参加者の能力水準の現実的な低さがそれを不可能にする。学生の指導は若い先生達にほぼ任せて、私は十人ぐらいの社会人職人チームを作り、実際の建築を作ってゆくのはどうか。学生の教育と社会人の現実的可能性とは異なる。一プロジェクト毎に解散できる設計事務所のバリエイションがとれれば良いが、どうか。私の事務所とワークショップを融合させることは可能か。少なくともそのセクションを作ったほうが良いなコレワ。
 佐藤健に電話。心配である。西域には絶対に行くと言う。どうすれば良いか本当のところ解らぬ。難問に対面した。午後スクールでガウディ小論一〇枚書く。今考えるガウディは昔考えていたガウディとは違う。未完という事と廃虚は関係があるな。コロニアグエル地下礼拝堂の意味がチョッと解けたような気がする。
 ワークショップは沖縄で継続する可能性が出てきたと連絡があった。どうなる事やら、いつもフレキシブルに外に開きながら可能性は追いかけて行きたい。少し喰べて休みたい。

 三月二一日
 本格的な雨降り。二五日の大学の卒業式は帰れそうにないが、我家の屋上の菜園でファッション誌の撮影が行われる事になった。モデルがニューファッションを着て、その背景が我家の空中菜園というわけ。笑わせるネェ。
 このワークショップの展望に関して小刻みなプランを作らねば。中間講評会。シンポジウム。グライター氏ベルリンに帰る。このドイツ人との関係は大事にしたい。十九時OB会が楠会館で開かれる。こういう時の坊城君のあいさつは仲々のモノである。

 三月二〇日
 第一講佐藤滋レクチャー。城下町の持つ近代的な意味から説き起こした。地政学的把握である。市民参加の計画的方法を次に事例を引きながら説いた。吉坂隆正の不連続の連続を思いおこさせるものがあった。アレキザンダーの仕事が建築では実を結ばずに、都市へと展開してゆこうとするのだなという事もその仕事振りから考えさせられた。早稲田の都市計画の可能性の一端を見た思いがする。
 第二講伊東豊雄。今現在考えている事を現実の時間の流れの中に身を任せて話してくれた。地歩を築いた自信がそうさせるのだろうが、むしろ新生伊東豊雄を感じた。この人は退行しない。五〇代を乗り切って新境地を切り開いている。ベルギーの仕事、ロンドンの仕事、私にはその価値が痛切にわかるんだなあ。この共感は何と呼べば良いのか。良い航海をと祈りたい。今日のレクチャーの印象はもう少しまとめて記録しておきたい。

 三月十九日
 昨夜は良く眠れなかった。眠るのにもエネルギーが必要なのだな。八時ロビー。グライター氏と食事。今日から少し独人で動こう。
 グライター氏のレクチャーは前回東京での遺跡論を踏まえて、それを更に発展させたもの。流石である。ワールドトレードセンターの崩壊はアメリカに歴史的に初めて遺跡が出現した意味があるという指摘が新鮮であった。モダニズムによって封印されていた建築の諸々のイメージがWTCの廃虚によって露出することになる。封印されたものとは例えばコキ族のスネークダンスに代表されるような神話的なものなのだ。ヨーロッパは日常的な廃墟の存在によって今と神話的世界との距離がそれ程遠くはないが、日本においては廃墟の不在によって今と神話世界とは遊離している。それ故、ヨーロッパにはメランコリアがあり、日本にはアイロニーしかない。日本が自己を表現する事なしに常に外を参照しやすい特質を持つのはそれ故である。がレクチャーの主旨。
 十年程前にやり始めていたバリ島のコスモロジーが近代化によって壊されてゆく過程の調査を思い出す。アレも中途で放り出してしまったが、良い視点だったんだ実ニ。しかもバリ島は遠かった。この方向の研究は私には出来なかった。建築作品で遠廻りに、そのような直観を表明しておく事位しか出来ないか、もう。
 海日汗のリポートが送られてきた。モンゴルのゲルのオリエンテーションについてのリポートである。ラップランドのコタで思い付いたことを彼女に調べてもらったのだが、遊牧民族のコスモロジーはそのオリエンテーション感覚に集約されている筈だと思っていた。これは海日汗の博士論文のテーマになるだろう。自分で出来ぬ事は弟子にやってもらうのが良いのか。残念だが。

 三月十八日
 今日は一日休養日である。スケッチしたり散歩したりでのんびりしよう。朝、これ又鈴木先生から書けよ、書くんだぞのプレッシャーとして渡された彰国社への藤森照信の原稿を読む。ウォートルスの出自行末に関するものだ。面白い。藤森探偵が最近つとに世界に出没しているらしいのは知っていた。が、まさかロッキー山脈の奥深い鉱山まで足をのばしていたとは驚いた。歴史家とは面白い人達である。鈴木先生はシシリアのパレルモまでジョサイヤ・コンドルを追ってゆく。たまたま私もその道中に立会えた。藤森探偵はウォートルスを追いロッキー山脈へ。重源論を書き切れなかったのはこの破天荒な行動力が私に薄かったからだろう。畜生。好奇心が全ての才能の素であるならばチョッと問題だな俺は。
 鈴木博之と藤森照信。シシリアとロッキー山脈。これは何か書けそうである。面白いナア。私が書くように求められているのは「闘う」である。藤森は「探る」。でロッキー山脈まで探った。私はこの二人の歴史家と闘うというのを書くか。品良く書ければ面白くなりそうだ。施主と闘ったり、状況と闘ったりはすでに俗だ。歴史家と闘うのが高嶺の百合だな、ヨシ。
 昼前学校へ。昼食はごぼう天うどんとカツ丼。喰い過ぎて眠くなり。午睡。松崎町倉スケッチ。宮本邸チェック。藤井邸スケッチ。建築を考えるのは楽だ。これは馬鹿向きの仕事なんだろうか。十六時過広島市の塚田さん来校。ひろしまハウスの打合わせ。グライター氏来校再会を喜ぶ。グライター塚田氏と夕食。グライターの明日のレクチャーは楽しみである。前回の東京レクチャーの続きをやるのだと言う。遺跡の問題は重要である。彼の日本文化批判に耳を傾けたい。九時学校へ戻る。安藤向井のWORKみる。十時ホテルへ帰る。一人で歩く夜道が気持良かった。夜の庭園の只中を歩く心地良さの素は何だろう。秘密の庭園、トムは真夜中に庭で、等に代表されるイギリス庭園文学の素は何かを考える事でもあるだろう。日本には庭園文学のようなジャンルはあるのか。中国の漢詩や文学には庭園、廃園が詠嘆される事が少ないように思うが、グライターの言うメランコリーとの関連は。

 三月十七日
 朝五時前世田谷村で目覚める。昨夜は中央林間での有能福祉法人設立準備会から二十一時に帰宅してすぐに倒れる様に眠ってしまった。池原義郎先生から御ていねいなお手紙いただいたので、御礼を書かなくてはいけない。今日は午前中星の子愛児園現場。一度帰宅して夕方九州へ戻る予定。ラップランド、ナショナルロマンティシズム、ラテン系生産システム、パレルモ、ワーグナー、プレパルテノン、鈴木レクチャー、頭がなんだか廻転し始めたような気がする。うまく焦点が浮かび上がれば良いのだが。結局九時過起床。屋上菜園に上り、水をたっぷりまく。まばらだが色んな花が咲いていた。畑の中の通路に転がせていたサオや小木片を片づけたりで小一時間過ごす。
 昼前現場、若干の指示を出し引き上げる。ぜいたくを言えばキリが無いが大体思う通りに出来上がってきた。ツリーハウスと現代っ子ギャラリーが混じったものにはなった。子供は喜ぶだろう。次女の友美は今日から菅平高原正橋孝一さんの家つまり私の若い時の仕事である開拓者の家へ泊りスキー。長男タコ踏み男雄大も合流するらしい。我家のガキ共の親離れは素早い。十七時過羽田空港着。家内に車で空港まで送ってもらう。環八は混んでいてどうなる事かと思ったが結果はゆとりを持って着いた。車の中で「どうするんだコレワ」などとワメイていたので、羽田での別れの際、「バーカ」と言わんばかりの家内の表情が露骨に私を軽べつしているのであった。佐賀空港には誰か来てくれているのだろうか。結局東京に一日戻って佐賀に宿題を三つ持って帰ることになった。藤井晴正邸の構造チェック。聖徳寺の中心(核)の設計。森の学校。北海道からの依頼は少しばかり待っていただくしか無い。
 佐賀便でつれづれなるままに考えた。人間は何故音楽という人工的な音の配列を作ったのだろうか。私は双方の耳が難聴気味なので若い頃から音楽を鋭く聞くことができなかった。双方の耳管の中で年がら年中キーっていう耳鳴りがして一時も消えない。それで微妙な人工音を聴き分けられない。特にセミの鳴き声というか羽根をすり合わせる音なんて聴いた事がないのだ。それで自然に音に関心を失くした。この事は私の思考に関係があるのだろうか。年をとって私の耳は益々聴こえ難くなっている。身の廻りの空気気配には耳鳴りのキーンが常に入り続ける。環境は空気の流れと澱み方、匂い音などの基礎的な要素と、それを把握する社会性を当然帯びた人間主体の知覚の関係交差で生成するわけだ。それを考えるに、私は音への感知力が人並み外れて劣っているわけだから、いつも他人とは異なる環境を感知しているわけだなコレワ。難聴は私の如くに確実にハンディキャップなのだとすれば、難知、つまりきき分けの無い愚鈍な人も又ハンディキャップとして考えねばならないのではないか。要するに学生は未熟である。これは当たり前。未熟も又ハンディキャップの変種であり、近代建築はそれが働くべき、働きかけるべき対象から排除してきた。要するに大学や高校の施設である学校は近代建築様式は望ましくないと私は考えるにいたった。
 飛行機が降下し始めたのでメモを続けることが出来ない。残念。

 三月十六日
 七時起床。薄曇り。七時三〇分鈴木難波両氏と朝食。学校へ歩く。九時鈴木博之レクチャー。パレルモ大聖堂宝物館で見た星型みたいな聖体顕示台の造形の進化を枕にアートとクラフトの違いを語源を追いながら、次第に西欧から日本へと辿り着かせる離れ技である。細部も嵌め込まれ凄いんだ。さてそれで近代の宿命でもあるアート(デザイン)とクラフトの分離分業の意味は、というところで十時十五分、バスの時間になってしまった。残り半分聞けず。単純な未来展望など言う筈もない人物であるのは知り尽くしてはいるが、後半聞きたかった。明日佐賀に戻ったら森川に復習させよう。というわけで今、福岡空港へのバスの中。しかしなあパレルモ大聖堂で聖体顕示台の何かをメモしていたのは気になっていたのだが、そのイタリア語名、英語名に発して、その形体の進歩、変化から、アーツ&クラフツ運動を説き始めるとは恐れ入った。世の中には敵わぬ人がいるものだ。只今二〇時三〇分小田急線で成城学園に向かっている。十六時よりの中央林間での有能福祉法人理事会は十九時五〇分まで、県議市議を混じえて諸々の相談を続けた。結局石山研は三月中に森の学校の完成予想図を仕上げる事になってしまう。

 三月十五日
 今日は晴れそうだ。一日さわやかに暮らせそうである。八時朝食。朝は難波和彦の講議。次第に歴史家の相を呈してきたな彼は。後半の講議が良かった。池辺陽論として、又自分を自作を使わずに語り、余すところが無かった。創造的作家論を一編書くのが私の目標の一つだが、参考になった。建築家にとっての作家論はその建築家の品格を決めてしまう様なところがある。当然、建築家は自己表現の固まりである。その我を消す力を持たねば作家論は書けない。我が出過ぎた作家論は品性に欠ける。つまり建築家にとっての作家論はその建築家の品格の度合を露出してしまう、リトマス試験紙でもあるのだ。自作つまり自分に一切触れずに作家論を書くとはそういう事だ。重源論から磯崎新論に目標を変えた今、他人の作家論は気になる。昼は文雅で辛いジャワカレー。午後ちょっと原稿書き。十六時より母の家の課題クリティーク。二三時半修了。安藤向井のWORKをチェックしてからホテル戻り〇時二〇分。バスを使い頭を洗って休む。一時過。あらゆる現場で若い人の新しい感じはまだ感じられぬが、無駄な時間では無いような気もする。鈴木博之に言われた、このスクールが私の命取りになるかも、が自分でも自覚できているのだが、こういうやり方でしか暮らしてゆけないような気もするんだね。仕方ない。なるようにしかならないだろう。明日は七時三〇分レストランで鈴木さんと朝食の予定。鈴木氏のレクチャーを半分しか聴けないのが痛い。この年でまだ固まらずにいられるのはこのワークショップのレクチャーを全部勉強しているお蔭なのも実感してるから。本を読むのが苦手になってきているが、人の話を聞くのは好きなのだ。広島の木本君には聖徳寺の観音様の天蓋をやってもらおうか。

 三月十四日
 お馴染みの佐賀ニューオータニHOTELで目覚める。今日のレクチャー第一講の準備をする。八時難波さんとホテル内レストランで朝食。歩いて早稲田バウハウススクール校舎へ。七〇名程の参加者。レクチャーは九時より十二時まで。途中十分の休息をはさんで、準備不足ではあったけれど、手を抜かずやった。午後、室内原稿五枚、および家内が参加した旧外務省研修所保存に関する原稿三枚書く。

 三月十三日
 昼過ぎ竹内ラウンジで電気学科の松本石山、建築の西谷先生と会合。松本先生は高等学院の同級生。西谷先生は後輩らしい。早稲田は学院を大事にしないと亡ぶぜ。早稲田の在野精神の健全な部分の大半は高等学院が作っている。だって東大受験に失敗して、それで結果早稲田の先生になってしまった先生に本来の在野精神が育つワケは無い。早稲田の中心は反権力なんてケチな事ではなく、深い在野の精神、つまり何ものにも束縛されぬ原っぱの自由という理想を忘れぬ精神の方向性そのものだろう。
 午後二時過より、理工学部将来構想シンポジウム。パネリストとして登壇して発言したが、我ながら下らん事をしゃべっていた。私は学内政治には向いていない。中途退席と言うわけで只今山ノ手線で浜松町経由羽田へ。今日から佐賀だ。十七時羽田ターミナル佐賀便待合い室。室内原稿目ざわりデザインの対象がまだ決まらない。担当編集者には悪いけれど本当にギリギリまで書き始められないんだよな。待合室で同じ佐賀ワークショップ行の難波さんに再会。久し振りだ。難波さん浮かぬ顔をしている。何かあったなと思ったら案の定共通の古い友人に関する不幸としか言い様のない話しを聞かされた。五〇を半端過ぎての友人というのはお互いそれなりの歴史を経ているから、それなりの嗅覚知覚を働かせたいくつもの峠を越えてきている。ある種の自然な関係になっているような気もする。危かったり、ややこしかったり、いつもグラグラ変っていたりの人間は自然に避けるようになる。それで生き残っているのが五〇代の友人だ。だから古い友人、つまり生き残らなかった友人の事は、もう自然にほっとけば良いのだ。それがお互いの為だし自然である。と機内でこんな風に考えた。人生酷薄なところがある。良い友人を持つのは面白さの極であるが、それなりの淡々とした努力も必要になる。どう言うのかな、互角平等でいようとする努力みたいな事かな。つまり、ミラノで難波さんにブラマンテを案内されたら、これではいけないと思ったり、難波さんの建築にブラマンテはどう反映される可能性がありや、なしやと考えたり、の努力はしているんだな。であるから、古い友人にまつわる不幸としか言い様の無い話はほっておくしかない。五〇半端を過ぎて、在っても聞いてもならぬ話のような気がします。佐賀ではこの話しは二度と聞かぬつもり。イヤーッ、シシリアは楽しかったぜ。そう言えば難波さんはシシリアにあの事件(9月11日の)で行けなかったんで、俺の話がともすればシシリアに行きがちなのがイヤだっただけなんだろう。それなら、そう言えばよいのに。

 三月十二日
 午前中大学N棟椅子ゼミ。M0のプレゼンテーションをクリティーク。本当にM0くらいの子供は皆どうして良いかわからぬママなのが良くわかるくらいのものである。午後赤坂プリンスホテルへ。芸術選奨授賞式。賞状と副賞をいただく。演劇の部受賞の池内淳子さんの受賞の言葉。彼女が主演で出ていた、フーテンの寅柴又暮情であったかの映画中の科白に似て、「ありがとうございます‥‥沢山言う事を用意してまいったんですけれども‥‥胸がドキドキして何も申せません。舞台の上ではアガッたことはないんですけれども、‥‥本当にありがとうございます。」と同じ間、同じよくようで、要するに女優だなあと思った。演技者の業だろう。同席していた家内など、「あんなベテラン女優でも緊張してたわね」だって。女優があがるわけネェだろ。良い芝居を見せてもらった。夜世田谷で打ち合わせ。

 三月十一日
 朝星の子現場色決め、遅まきながらTOKYOに現場を作るべきことを学んだ。エネルギーのロスが少ない。三〇分で行ける現場は極楽だ。思えば、これまで遠くへ行き過ぎてたな。現場で色決め。ドーム内の光の感じがつかみ切れず、色の濃度を決めるのに苦労した。完成間際の建築はスリルだ。昼過ぎ世田谷村に戻りミーティング。家具の件が中途半端になっているので前に進めた。芸術選奨受賞への祝電その他多くいただく。山陽新聞インタビュー。夜おそくまで打合わせが続く。この打合わせというのがクセもので、要するに自分一人では出来ない仕事の現実を浮き彫りにする。何でこんな事すぐ出来ないのかと思うのは相変わらずだが、スタッフへのいら立ちは少しづつ少なくはなっている。山本夏彦言わく。旅をしてもロバはロバのままだ。俺いわく。ロバは叱ってもロバのままだ。山頭火風に詠嘆すれば、たたいても たたいても 闇の中。

 三月十日
 今日は日曜日だが、午前中スタジオボイス取材。午後は杉並渡辺邸現場。いよいよ施主と合同のセルフビルドを始める日である。JR亀戸から東武線で曵船へ。生まれて初めて乗る線路だな。墨田区東向島の取材は対象にひどく失望する。これはダメだ。改装した内部の全てに品格がない。取材後杉並渡辺邸現場へ。渡辺親子がペンキ塗りをしていた。荻窪駅前の屋台でスタジオボイス鈴木田辺と焼鳥ビールでくつろぐ。こういう日々が送れれば良い。何の為に働くのか、キチンと考えて、毎日夕方には良い酒をほんの一口飲めれば良いのだ。夜疲れてはいたが少し原稿を書く。文字を書くことだけには機械のようになれたらいいな。

 三月九日
 昨日は世田谷村登記の件で銀行へ。火災保険その他の書き替え。新築してから解体するというのが法体系ならぬ法言語上理解困難らしい。そりゃそうだろう普通は旧屋を解体してから新築するんだから。午後星の子愛児園現場。最後のツメに入りガタガタが随所に視えてきた。スタッフの人間力がこういう時には露出する。現場で高橋工業社長と久し振りに再開。夕方世田谷村で高橋と打ち合わせ。宗柳で食事。相変らず飲むと人に説教するクセは抜けていない。これが無けりゃ本当いい奴なんだがなあ。  今日は八時半に星の子現場。内部ドームに手を入れられるところに人力作戦で手を入れる。ゼネコンが動かぬところはこちらでやるのだ。新聞・TVで二〇〇一年度芸術選奨が発表された。「世田谷村」で文部科学大臣賞を受賞。あらゆる賞は御縁の結果でもあろうが、今回の受賞はその意味では殊更なものがある。ようやくにして日記メモをつける体力が戻ってきた。月並みではあるが前に進みたい。
 八時過京王線下りに乗って稲田堤へ。土曜日なのに上り線の車輌は満員。コチラはガラガラ、これが気持よい。まさに逆行してるってのが実感できる。世界もこれ位に単純明快であれば良いのに。でも電車の上り下り程の単純さも危険か。山手線みたいに上り下りもなくグルグル回転しているのはどうなるんだ。アレはニーチェ流の永劫回帰あるいは仏教の輪廻転生の都市的表象なのであろうか。ありとあらゆる表象論の類はかくの如き詭弁の仕掛けの上に成り立つ砂上の楼閣だろう。昼過まで現場。ディテール、仕上げ、色決め指示。
 午後おそく安藤向井と千村君宅へ。千村君の書道用デスクの型紙づくり。千村君とおしゃべりする。楽しかった。口で書を描く人と友人になれるなんて本当に運がイイ。夕方田園調布駅前の小料理屋で食事。

 三月七日
 昼から大学。昨夜飲んだグラッパが残って体調万全ならず。馬鹿な事したと後悔しても仕方ない。酒ひとつ止められずに偉そうな事言うなと自分で自分を叱る。ズ−ッとこれの連続だな。

 三月五日
 成田エクスプレスで新宿に向かっている。飛行機は時刻表通り八時二〇分成田に着いた。又、汚いところへ帰ってきたなといつも思う。風景に秩序と品格がない。今日は一度世田谷へ戻り、午後大学へ出直そう。やはり疲れた。

 三月四日
 早朝四時起床。今日は長駆シシリアから東京まで帰る。今十二時フランクフルト空港A65ゲート待合室。大きな空港の一番外れ。空港も極東である。パレルモから、ローマ経由で辿り着いた。待合室は流石日本人が大半で気持が我ながらゆるむ感あり。

 三月三日
 朝四時二〇分目覚めてしまう。考えるにゲーテが旅で来た頃のパレルモはもっと大樹が街中に生い茂っていたのではないだろうか。昨日モンレアーレの聖堂裏のテラスで見たガジュマルの巨木を想い起こせば市街にももっとシュロの大木やガジュマルの樹があったのだろう。ワイマールは森は豊かだが生命力に溢れた大樹は少ない。ゲーテはそれでイチコロにまいった、それで世界で一番美しいイスラム都市だと書いたのであろう。ペルシャのシラーズのバラと同じ伝だな。パレルモの街のいたるところに園芸屋があって、サボテンやら何やらを売っている。又庭作り用の妙な人工物、グロテスク一歩手前の園芸用部品も売られている。これだけ陽の光が強ければ植物は良く育つだろう。周辺の山々に植物があまり見られないのは土地が荒れているからではないだろう。ギリシャの森が人間の手で消された歴史があるように、ここも営々と亜熱帯の森、巨木生茂る森を人間が切り倒してきたにちがいない。フェニキア人の海上貿易には大きな船が必要だったろう。船体やマストを作るのには巨大な樹が必需品であったと「森と文明」の著者は書いていたのを思い起こしているうちに又眠くなってきた。
 八時半目覚める。シャワー洗濯。九時半ホテルを出てセントラルステーションへ。アグリジェントまでのティケット求めるもストライキで運休との事驚く。ホテルに戻りバス便を開き、又駅近くのバスステーションへ。グルグル探し廻りようやくアグリジェント行BUS特定。早い昼食をとる。カレー炊飯大ダンゴもどき。カフェテラスで陽気なシシリアンが唄など披露してくれる。バスでアグリジェントへ。バスストップからTAXIでギリシャ遺跡へ。紀元前四〇〇年〜前五六〇年くらいの神殿群を見学。花咲き乱れ美しい風景であった。又、バスでの二時間の小旅行も車窓から絶景の連続であった。月並みだが緑のじゅうたんが延々と拡がり荒れた岩山岩地とのコントラストが素晴らしいものであった。ギリシャ神殿群はカルタゴにほろぼされたと言うが、古過ぎて何とも感慨が湧かぬ。修復の立札をチェックしていた鈴木博之が、これはアンコールワットにも来ている人物がやってると教示。ウ−ム、そうか、そういう世界なんだと又もワケの解らぬ納得の連続。こういう時はしばらく時が経ってからアレやコレやと思いが浮かぶものだろう。遺跡は海から程良い距離にあり、古代ギリシャ神殿都市が海と深い関係を持つ事を思わせた。知識不足なのが残念。鈴木教授も流石もて余し気味であった。万能の人ではないのだから仕方ないが、持て余し気味の彼の姿を見て少々安心もする。TAXIで街に戻り並木道が見事なテラスで休む。これでフィンランド、ラップランド、シシリアの旅は終り。良く動いた。楽しかった。収穫も多かった。鈴木教授に感謝しよう。良い旅だった。ヨーロッパ北端から最南端まで飛んだが、多くを蓄積したような気がする。四時半のバスでパレルモに戻る。バスは超満員で、多分帰れたのはスレスレであったのではないか。パレルモ駅周辺は何故か機動隊が一杯つめており不穏な空気。フットボールの試合があったのかもしれぬ。ホテルに戻り小休の後、シシリア及びラップランドの旅の最後のディナーへ。近くのイタリアンレストラン、ア・クッカーニャへ。美味であった。ワイン二本空けてホテルへ、マティーニその他 飲む、これも又美味であった。

 三月二日
 朝八時二〇分日経文化局小林さんの電話で起こされる。昨日フランクフルト空港からのFAXメッセージが届いたらしい。しかし良く眠った。今日は歩かされる日になるから良かった。昨日はシシリアは二三°Cだったらしいから今日も暑くなるだろう。ラップランドと実に三〇℃の温度差である。
 九時ホテルを出て歩き始める。混沌の極みの市場を通り抜けてカタコンベへ実に二時間四〇分歩きづめ。鈴木、水くらい飲ましてくれ。で十一時四〇分ピアッツァインディペンデンツァのカフェテリアで水を飲んでようやく休み。先が思いやられる。やっぱり鈴木は歩く人である。十三時MONREALE聖堂前のピザ屋でようやくピザにありつく。
 十九時ホテル帰着。予想通り朝から歩きづめ。もう、クタクタ、ヘロヘロ。しかしながらMONREALEのカテドラルは興味深いものだった。鈴木教授のレクチャーでは、ジョサイヤ・コンドルの先生であったウィリアム・バージェスがこのMONREALEの聖堂をいたく気に入っていたらしく、その影響をコンドル先生は受けたようだ。聖堂はロマネスク、イスラム、サラセン様式が入り混じったもので、結果コンドルは日本近代建築様式は偽サラセン様式が望ましいとの説を持つようになったらしい。日本の近代建築様式の始まりにそのようなコンドルの考えがあった事は面白い事ではある。辰野金吾はサラセンを受容する感性が無かったのかどうか。シシリアまで来て、日本近代建築の始源に触れるエピソードに出会ったわけである。実に愉快極まる。
 パレルモ聖堂はボケ−ッと抜けたノルマン様式との事。地下墓所を見る。今日は午前中カタコンベで沢山のミイラを見て、夕方、パレルモ聖堂地下墓所で終った。墓から墓への旅であった。カタコンベの一九二〇年の二才の女の児のミイラは本当にまだ生きているようで不思議な感慨を持った。キリスト教は忘れまい忘れまい、記憶せよ記憶せよという思想が根底にあるのではないか。それが聖堂になり、その特別なのがカタコンベの類になる。又、墓地のスタイルも写真や像が生々しく残される。都市にいたるところに歴史的人物の記念像を残そうとする。それに対して仏教は全て忘れよう、忘れようと促すところがある。無常感はその最たるものだろう。輪廻の思想も死を生との境界線を薄くするように働いている。それ故に建築という概念、思想が日本では育たなかったようにも思う。しかしパレルモの旧市街を歩き、幾つかの聖堂を見る事が出来たのは良かった。しかし、良く歩いた一日であった。
 夜八時ロビー。食事へ。ホテル近くの金城酒店へ。看板は立派だが味は難アリの中華料理店であった。日本の学生食堂の味そのモノ。シシリアとは言はぬ、パレルモの食文化は大丈夫なのか。若いシシリアンで満員であった。二十二時前、ホテルに帰る。今日は汗もかき、良い一日だった。明日は九時半ロビーの約束で部屋に帰る。このホテルはロビーに音楽家のワーグナーの像があり、尋ねるにワーグナーがしばらく滞在した歴史があるようだ。パレルモの街はいかにもワーグナー好みの、外の構えは大がかりで中身は雑駁な印象が強い。ゲーテもイタリア紀行中、シシリアは更にパレルモは世界で最も美しいイスラムの都市であると言明しているらしいのだが、ゲーテ、ワーグナーが絶賛したと言う、おおらかな雑駁さがこの都市には在ると感じる。かの巨匠達が何がしかを過したドイツ・ワイマールに似た空気があるんだなあ。かく言う日記をつけて二十二時三〇分休む。

 三月一日
 朝五時半起床。荷作りをし直す。フィンランドの木造建築調べる必要がある。ログハウスを馬鹿にしてはいけない。森の学校の設計に本格的な木造を取り込んでみようか。聖徳寺の内部にも。あのコタの感じは良かった。ラマダホテルのスタイルは典型的なコマーシャルファンクショナリズムである。AirPORT HOTEL特有な素気なさの固まりで、アランドロンが演ったサムライという映画の殺し屋の部屋のインテリアを思い出してしまった。我ながら積らぬ感傷である。一人赤面する。今日はフランクフルト、ローマ経由パレルモまで飛ぶ。一日飛行機を乗り継ぐわけでそれなりに大変な一日である。
 九時三〇分ルフトハンザ機内へ。いつの間にか眠った。フランクフルトまでアト三〇分程。地上にはうっすらと緑の田園が見えている。ドイツにも春が来てるんだ。東京はすっかり春になっているだろう。我家もしのぎやすくなっているにちがいない。世田谷村のスタイルは気候としたらまさにアジアモンスーン地帯でしか通用しないな。ラップランドでは凍死しちまう。フランクフルト着十一時二〇分。ラウンジでビールを飲んで時間を過す。鈴木さん買物へ。ローマ行は十三時四十五分。ラウンジから日経新聞へFAX打つ。非常に混んでいる。もう一本コラム書いておいた方が安全だな。四時三〇分ローマ空港で乗り継ぎ、今パレルモ行の飛行機に乗ったところ。ラゲージがまだ外に転がされている。パレルモ行B-737の機体の内部は全く仕切りが無い。最後部座席から操縦席のドアが開けられていてパイロットや計器が丸見え。もちろんビジネス、エコノミーの区別など全くない。シシリア便らしいなと意味のない感慨にふける。
 十八時前シシリア島パレルモ空港着。荒々しい岩山の近くの空港で何となく予想していたシシリアとは違った。シシリアは山の島なんだ。ヨーロッパというよりもアジアに近い雰囲気のようだ。客引きのTAXIドライバーが寄ってきたりして、こんなのは久し振りです。TAXIでGrandHOTELへ。随分 にぎやかに市民が集まっている大ホテルだ。部屋は何の飾り気もない。外観のモノモノしさと比べ非常にちぐはぐである。七時半ロビーへ。レストランレジーナで食事。TAXIでチョットぼられて帰る。マッタク、ボッラーレ、ボッラーレ、カンターレ、ウォホホホですよ。バカターレ。二十二時 寝る。ここは面白そうだ。鈴木博之は相変わらず健脚である。明日はしごかれそうだ。

2002 年2月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
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