石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2002年3月の世田谷村日記
 二月二八日
 七時、鈴木さんの眼覚し時計で起床。まだ眠い。朝食後バスが迎えに来て再びINARIへ。INARIN POROFARMIを訪ねる。要するにラップランド人のトナカイ牧場である。トナカイが引くソリに乗ったりして、それでも楽しんだ。ソリに乗ったのは生まれて初めての事。昼食はコタと呼ばれるラップランドの円型小屋で。十五メーター直径位の円形平面で中心に暖炉仕立てのキッチン。煙が上の円い穴直径七〇センチメーター位から抜けてゆく。そこから光も落ちてきてエリアーデの聖と俗そのままの空間である。その薄暗さが何とも不思議な温もりを感じさせる。匂いと火が中心に在るのだ。住居の原形だろう。オリエンテーションへの考えを尋ねてみたが、良くわからなかった。円形の平面を選んだ途端に方位感覚はうすくなるのだろうか。海の方向とか風の方向とかラップランド衣裳を着た女性が説明してくれたが、今一つわからない。調べてみようか。モンゴルのゲルの生活とオリエンテーションの関係は研究室の海日汗に聞けばわかるかも知れない。(帰国後、海日汗に聞いたらモンゴルのゲルは東南に入口を開けるそうだ。)ノマドピープルとオリエンテーションの問題は大事だろう。洞穴寺院のオリエンテーションはどうかな。ともあれコタは面白かった。来て良かった。ラップランドのオバさんの太鼓と歌も仲々良かった。モンゴルの感じとは少しちがう。しかしモンゴルにはラップランドの太鼓のようなのは無いのではないか。夕方、標高四百メーター程の白い山へ登る。スキー場になっている。五時過ホテルへ戻り、今こうして日記を書いている。鈴木さんは気をきかせてくれてロビーへ待避。今夜はこれから八時にバスが来て何処かでディナーとオーロラのスライドショー。九時にIVALO空港へ、十時〇五分の便でヘルシンキに戻り、空港ホテルで一泊。明日はシシリアへ行く。イイ旅になってきた。ラップランドはメルヴィルの白鯨に書かれている白の恐怖という事くらいしか知らなかったが、狩猟民族の文化に触れられたのは良かった。作っている道具の何がしかはアイヌ民族のモノと類似しているように思った。ラップランドの人々はラップランドの人々にしか知れぬ悲哀もあるだろう。フィンランド人の根底に流れると言う暗ウツで屈折した感情の一端はここに起因して在るのではないかと勝手な事を考えているうちに今六時半、鈴木さんと話しにロビーへ行ってみようか。サウナに行った。
 二十一時三〇分、IVALO空港着。オーロラを見る為に用意された山上のレストランから猛スピードのTAXIで走った。今夜オーロラは見る事ができるのだろうか。
 雲の上に出てすぐヘルシンキに向って左手の窓にオーロラ、次いで右手にも巨大なオーロラが出現。緑色の見事なモノである。大満足。栄久庵さん達も地上で歓声を挙げているだろうか。緑の薄いカーテンがオリオン座の北極圏寄りに長い時間見えている。二三時前見事なヤツが全天にかかった。大満足。ユラユラ揺れてこれは凄い。二三時半ヘルシンキ空港着。十二時ラマダエアーポートホテル着すぐ休む。今日は眠るぞ。

 二月二七日
 四時二〇分目覚める。時差だ仕方ない。日経に原稿送ったのが今頃ゲラになっている筈で送りかえされてくるのを手にするのは明日になるだろう。上手くいけば良いのだが。GA HOUSESの一千字今書いてしまおう。五時書き終えた。アト三時間又眠ろうかどうしようか迷っている。やっぱり眠ろう。何かメッセージが入っているらしい。TVの画面にコンピューター映像でそう伝えている。今日から二日はフィンランドの連中と完全休養でラップランドへ行く。マイナス三〇℃くらいらしいが、オーロラは期待しないで行った方が良いらしい。トナカイ牧場なんて行きたくネェよ。昨日は温度が高くヘルシンキは汚れた雪景色になった。黒い人影が通りを動く風景は哀切なものがある。ノルウェーのムンクもこんな風景の中で本来の孤独を深めていってしまったのだろう。しかしムンクにも日没の光を描いた奇妙な絵があるらしく北欧には絵画的な光は無いというのは暴論であるらしい。日本大使館一等書記官からそう聞いた。ムンクのその絵を帰ったら探してみよう。ブルーモメントという時がフィンランドにはあるらしく、空も雪も雲も一瞬皆薄いブルーの光に満ちるらしい。視てみたいものだ。九時四〇分バスでHOTEL発空港へ。雪降りしきる。朝食は栄久庵さんとおしゃべりしながら。
 十二時二〇分IVALOへ飛ぶ。一時半過IVALO着。北極圏である。流石 何もない。バスでINARIへ。北海道の原野とそれ程のちがいはないが、何となく北極圏である。鈴木先生「イヤハヤ、とんでもないところへ来たナァ」と一言。雪の原野をバスは豪然と走る。大丈夫なのか。小一時間でINARI自然民族博物館へ。たっぷりと見学。後、円錐形の木造小屋で夕食。昨夜のトナカイの肉よりも柔らかくて美味であった。ビールを飲み一息つく。マイナス6℃くらいとの事。マイナス三〇℃にはなるぞとおどかされて来たので拍子抜けする位だ。愉快に過して再びバスでRIEKONKIEPPI HOTELへ。二グループに分れ、栄久庵ソタマグループは製鉄会社のゲストハウスへ。我々は歩いてパーティに合流。疲れてあまり飲めず、喰わず。サウナに入ってもうクタクタで早々に引上げた。フィンランドの連中は酒が強いので要注意なのだ。帰り径雪の中道に迷うが、何とかHOTELに辿り着けた。十二時前眠りにつこうとするが何故か眠れず。同室の鈴木さんはすぐにスヤスヤと寝息を立てて、チクショー体力あるなという感じ。それでもいつやらウトウトと浅い眠りにつく。

 二月二六日
 昨夜半、TOKYO成田に一日足留めされていた栄久庵憲司さん一行はロンドン経由で、他のメンバーはフィンエアーでヘルシンキに着いた筈だ。(ようやくスケジュールが元に戻るだろう。)昨日の事、すなわち会長以下大半のメンバーが不在の日本フィンランドデザイン協会のシンポジウムは大アクシデントだったな。鈴木氏一人で一日を持たせた。今日はようやく正常なスケジュールに戻るだろう。本日の予定は次の通りである。

Tuesday 26 DAY OF COLLABORATION - CONTEMPORARY FINNISH DESIGN
09.00 Departure from hotel by taxi University of Art and Design Helsinki
09.30 JFDA meeting Lecture hall, 8th floor
Subject:Contemporary Finnish Design - Designing the Quietness - exhibition
Chairperson: Yrjo Sotamaa
Participants: JFDA Japan, JFDA Finland,15 Finnish artist who have been invited to participate to the exhibition, altogether 40 persons
12.30 Lunch in the foyer of Media Center Lume for participants of the JFDA meeting
13.30-15.30 Meeting of the JFDA Japan and JFDA Finland exhibition groups Office of Rector Yrjo Sotamaa, 6th floor
Topics
- content, schedule, venue, oraganisation and financing of the 2003 exhibition
-discussion of possible interaction with Japanese architects, designers, artists and craftsmen during the 2003 exhibition in Japan
-discussion of the "Contemporayry Japanese Design" exhibition in Finland 2005: feasibility, planning prosedure, schedule
The afternoon is free for those members who do not belong to the exhibition teams. A visit to the Hackman shop can be arranged with a possibility by products with special discount.
Transport to city/hotel by taxi or by tram nr 6 or bus
17.30 Transport from hotel to the Museum of Art and Design by Taxi
Korkeavuorenkatu 23, 00130 Helsinki
Phone +(358 9) 6220540
Fax +(358 9) 6220 5455
18.00 Opening of the exhibition
AYA's works
In the presence of the Artist Aya Nakayama, By Minister Mr.Kamo, Dr.Kenji Ekuan and Professor Yrjo Sotamaa
The exhibition is jointly organized by the Japan Finland Design Association, The University of Art and Design Helsinki, The Museum of Art and Design and it is designed and constructed by Mr. Arihiro Miyake in co-operation with professor Yrjo Wiherheimo. Poster, invitations and brochure are designed by professor Tapani Aartomaa.
19.15 Transport by bus From the Museum to Villa Angelica
Tamminiementie 3, Helsinki
19.30 Reception and dinner organized by the Japanese Embassy in Villa Angelica, address: on the occassion of Mrs.Nakayama's exhibition and the visit of JFDA Japan to Finland.
Host:Minister Mr.Kamo, Embassy of Japan
Return to hotel by taxi.

 只今朝六時半今日は一日時差に苦しみそうな気がする。朝食で皆さんに再会するのが楽しみだ。彼等は大変だったろう。
朝食でロンドン経由の栄久庵さん以下皆さんに会った。意外に元気でにぎやかだった。集団だからアクシデントにも平気だったのか。皆で渡れば恐くなかったのかな。
 午前中はヘルシンキ芸術デザイン大学でフィンランド若手アーティスト、デザイナー、建築家達十五名のプレゼンテーションに立会う。来年TOKYOでのフィンランド展に参加する若い世代の代表らしい。昼食後ソタマ学長栄久庵憲司氏等とTOKYOでのフィンランド展に関して議論する。フィンランド側から出てきたコンテンポラリー・フィニッシュという主題に少しばかり異論を述べた。「静けさ」というコンセプトが消えそうになっているからだ。「静けさ」というテーマは重要なキーワードである。それは日本にとってポスト生産ポスト過消費ポスト過建設を意味し得る深い概念になり得る言葉なのだ。
 十八時中山あやさんの個展オープニング。後、日本大使館主催のディナー。都心から少し外れた一軒屋のレストラン。二三時過ホテルに戻った。流石に疲れて部屋に戻る。食べるのにもエネルギーが要る。話すのにも、話しを聞くのにも要るものだ。明日は北極圏ラップランド地方へ出掛ける。しかしディナーのレストランとお内儀というかマダムの巨体には驚いたな。あのマダムの存在感の前に我々は皆消えていた。

 二月二五日
 七時過起床。ホテルの窓からの景色をスケッチする。ヘルシンキ駅のナショナル・ロマンティシズム特有の様式的な塔が視えている。この塔は二年前にスケッチした。淡いブルーの空。フィンランドの国旗のブルーの十字が良く似合っている。TVのスクリーンに私へのメッセージがあると出ている。世田谷村でやり残した病院のコンペのレイアウトその他が送られてきたのだろう。疲れもとれて体調は良い。
 朝食後鈴木さんとヘルシンキ市街中心部を歩く。駅美術館アカデミーブックショップ。スティーブン・ホールの現代美術館は又も月曜休みで入れず。しかしこの美術館も冬の方が良い。空気が澄んでいて作者の考えが良く伝わってくる。カフェアールトでしばし雑談。昼前ホテルに戻る。ヘルシンキは国旗が沢山ひるがえっている。
 十三時チョット前ヘルシンキ芸術工科大学へ。鈴木博之その他のレクチャー。鈴木氏のものは方法的明快さが貫徹された大変良いレクチャーであった。演題は Listen to the Place: Character of Japanese Architecture 庭園を介して日本文化を歴史的に考えるというモノ。日本日本と言うのは嫌なんだが、それでも日本人の外国でのレクチャーの水準は気になった。鈴木博之のそれは否応ない水準を確保し、それ以上のものがあった。満足。アラビアセラミック、ハックマンその他の合同企業主催の歓迎ディナーが夕方あって、夜ホテルへ戻る。色々思うことアリ、鈴木氏とビールを黙々と飲んだ。

 二月二四日
 二一時前雪のヘルシンキ空港着。フランクフルト経由。成田フランクフルトを飛んだルフトハンザ機中に世田谷日記メモを置き忘れた。それ故二月二〇日〜二月二四日までの記録は紛失。残念だが仕方ない。余り下らん内容なので天罰だろう。二三日は午後慶応大学図書館の千村君が研究室来室。昨年末天王台酔庵での書道というか初書き初めが面白かったらしく、あの日書いた核の一文字を額装して見せに来てくれたのだ。そして書道をする為のデスクというか架台を作る相談をした。たった一人の千村君のためのデザインである。まことに光栄な事だ。何年か前ブラジルのサンパウロ大学を訪ねた時、リオデジャネイロ大学のマスターコースの女学生の作品に衝撃を受けたことがある。老女がいてその人は病気だ。まぶたが自然に垂れ下がる病気で目が視えない。彼女はその老女の為に眼鏡をデザインした。まぶたが垂れ下がらないようにする眼鏡である。世界でたった一人の老女のための一つだけの眼鏡である。
 手足が不自由な千村君のための書道用のデスクはリオの女学生の作品の背中を見て走ってみるという事である。口でかんで筆を使い、すみをふくませる。その筆と架台をデザインするのだ。それを始まりに段々千村君の色んな道具をデザインしてみようと考えている。出来ればそれを一冊の本にしてみよう。今秋には千村君の書の個展がひらけたら良い。  SASラディソンホテルに着いたら、何と他の栄久庵憲司会長等メンバーは成田でフィンランド航空機が故障してしまったらしく一日遅れでヘルシンキ着との事。明日のヘルシンキ芸術工科大学の講演は鈴木博之だけという事になるかも知れぬ。それでも鈴木先生がフィンエアーでなくルフトハンザでヘルシンキに入ったのは不幸中の幸いだった。それでようやく日本フィンランドデザイン協会主催のヘルシンキでのセレモニーが成立するんだから。全く何が起きるか解らないな。
 もう二四日七時二〇分世田谷村を出て二十四時間ほとんど眠っていない。明日の事は明日だ休もう。

 二月十九日
 朝七時過まで眠った。今日はここを十時過に出れば良いか。椎藤氏に電話して朝方会おう。「現代とは何か」書く。ニューオータニで椎藤と朝食。色々と話す。昨夜は朝の三時までOB達と飲んだそうだ。早目に抜けて良かった。
 ホテルから佐賀駅バスセンターまで歩く。少し汗ばむ位の良い散歩になった。JR高架下のバスセンターはうら寒く暗い。地方都市の困難さを象徴している。十時半の西鉄高速バスで福岡空港へ。十二時二〇分の便で東京へ。今日は夕方日建設計橋本常務と会食の予定が入っている。飛行機でせいぜい休んでおこう。

 二月十八日
 朝五時起床。眠いのにマッタク嫌な商売だ。土地を見に行ったり、依頼主に会ったり皆こちらから動かなくちゃならない。八時半羽田より福岡へ。今、空に浮いている。福岡便は黒背広の男達で満席である。満員のこの人達が謂はゆるマジョリティなんだろうが、どうひいき目に見ても未来への可能性なんて感じられないよ。
 ブッシュ大統領が来日している。日本に経済以上の何ものも求めていないのは明白なのを誰もが知っている。これも巨大な悲哀だよ。ブッシュは親子二代がかりでイラクを、サダムフセインを攻撃するのだろう。機内TVでニュースを見ているとアフガン、ネパールで騒乱が起きている。カトマンズ空港を武装集団が襲撃百名以上の死者がでている。これじゃキルティプールは行けない。
 十時半福岡空港着。十一時カシイ石山棟宮本さん宅。住宅の打ち合わせ。御主人の言う事は理解できるのだが、奥さんは仲々むずかしい。しかし少しは理解できるような気もしてきた。何とかしよう。住宅設計を再開すると覚悟したんだから、これぐらいのことで文句を言ったらいけないのだ。いい家を造ってあげたい気持に変りはないのだが、それに要する労力が依頼主の想像の域を超えているのだ、確実に。宮本さん奥さんの手作り中華風家庭料理をいただいた、コレはおいしかった。十五時頃北九州研究所の高木君がカシイまで来てくれて、私をピックアップ佐賀へ。北九州の集合住宅はまだ土地が決まっていないそうだ。来年まわしだな。佐賀早稲田バウハウス旧校舎でワークショップOBが待っていて、佐賀市内唐人町へ。幾つもある唐人町の空部屋を視る。その空きビル空部屋の使い方を討議する。後、駅前の飯屋で会食。ワークショップOBが次々に集まった。二十一時ホテルニューオータニに帰る。流石にこれ以上は附合えない。日経新聞ゲラチェック。佐賀、椎藤の使い径を真剣に考えてみよう。私の仕事の何がしかに組み込むのが一番なんだろうが、彼にそうする決断を求めるのは無理だ。しかし椎藤を佐賀に眠らせておくのは勿体ないんだよな。四〇過ぎの家庭もある大人の人生を変えるのは難しいが、本当は実に簡単でもあるのも知っている。二十二時寝てしまう。眠さを押さえ切れぬ一日であった。

 二月十七日
 朝気がつけば又〆だ。昨夜つくづく感じたのだが磯崎鈴木が話し出すと仲々話題についてゆけぬ事態が発生している。知識量の桁がちがうぜ。マ、ジタバタしても仕方ないが、チョッとはジタバタしてみよう。下手すると彼等とは日常会話しか交わせぬという悲喜劇が出現してしまうな、六〇代に。ボケ老人にならない為にも何とかしなくちゃ、漢字の表記音訓読みの話しなんか全くついていけなかった。何処で勉強してんだアイツ等は。磯崎さんは書を始めるそうで、何となく予想通りという感じだなあ。上海で師を探すというところが磯崎的である。十四時大学入試空間表現採点。十九時世田谷村地下、宮本邸の模型、星の子愛児園打ち合わせ。安藤平山と軽く食事。うまくこいつ等が育ってくれれば良いのだが。単純ではあるが実感として日曜日に仕事してる奴等はイイヨ。宗柳で彼等と食事、そして少し飲む。どうでもイイけど育って欲しい。建築を作ることと人間を作るコトとどちらが大変かと問えば、勿論人間ではあるが、人間は形になりにくく、建築は形になりやすい。
 明朝ははやい。早く休まねばならぬが、それが出来るか怪しい。二十二時家内と食事。他に誰もいない。デッカイ家に二人はチョッとシンシンとするな。もう少し小さく作っておくべきだったかな。

 二月十六日
 朝八時半富士山聖徳寺へ。杭位置確認及び富士ヶ嶺造園オヤジと土地造成の打合わせ。現場は雪が積もっていて杭を探すのに苦労したが、南北アルプスを一望にして壮快な眺望であった。三月中旬より造園工事にかかる。三時西調布で墓の特許申請に関して国際特許事務所の方と打ち合わせ。特許は必要無いと思うのだが依頼主がどうしてもと言うのだから仕方ないだろう。五時ヒルトンホテルで李祖原をピックアップ磯崎事務所へ。鈴木博之先生、二川由夫合流。磯崎さんの中国での新作、カタールの仕事を見せてもらう。アラベスク装飾の原理的探求が磯崎さんらしくて面白かった。昔三浦梅園今イスラムって感じかな。広尾へ。李祖原が完全なベジタリアンなのだがそれには構はずイタ飯を喰って赤ワインを飲む。批評と理論連続シンポジウムをどうやってまとめ、どうやって発展させるか相談。会談の目的は磯崎さんにまだまだ続けますよの確認であった。一年半後位に全国規模の、独自な歴史意匠部会を考えているのだが。もう少しアイデアをつめてから相談だ。磯崎さんがポロリと。プリンストンからディーンの話しが来てるんだがの話しが出て、もっぱら話題はそちらへ行ってしまった。たまたま二川由夫、李祖原はプリンストン出身だ。引受けたら面白いのに。磯崎さんのアメリカ亡命ってのは面白いよ。鈴木さんも言ってたがグロピウス、ミース、磯崎という意外な歴史的亡命ラインが生じるからね。人生何が起きるか解らぬものだな。李祖原が六月に鈴木博之を台湾に招待して、レクチャーが持たれることになった。台北台中高雄の三都市で。上海に足をのばせないかと思うがどうか。真夜中世田谷に戻る。地下に二名仕事で残っていた。

 二月十五日
 朝、星の子愛児園現場見学会。GA杉田君、二川由夫と久し振りに会う。彼等のカメラはみんなデジタルカメラ。3Fの鉄板のチューブが程々に出来ていて今のところ失点は少ない。小さな建築に全精力を費やしている現実を良しとしよう。しかし、小さな単位が群体になっているような、そんな大群体を手掛けてみたい。今なら出来るのになあ、と思う事しきりである。午後地下で打ち合わせしていたら李祖原よりTEL入り、今ヒルトンHOTELだと言う。夕方会う約束を早めて3時過ヒルトンへ。李祖原と久し振りに再会。夕方7時迄話し込む。台湾のリーディングアーキテクトのみならず中国人社会を代表する建築家になっているC・Y・LEEなんだが、彼も周囲から独立そして孤立し過ぎているところがある。東洋の、アジアの建築家の悲哀を一身に背負っているのだ。ヨーロッパにきちんと顔を向け、ヨーロッパに帰順しながら、なおかつ独立しようとしている大建築家に磯崎新がいるのだが、磯崎は李ほどに民族文化にこだわらぬ自由、もしくは根無し草を演技しなくてはならない地政学を自覚している。
 李祖原論を書くようにシンガポールの出版社から依頼されているのだが、これは書かねばならぬだろう。「義」という漢字が本質的に何を意味するのか知らぬ。ただその字体がかもし出す雰囲気は解るような気がする。マア色んなコトを背負い込み過ぎている自分が、誠にサンチョ・パンサもいないドン・キホーテに見えなくも無いが、「義」なんて漢字に心が傾いてしまう自分の古さ、弱さは半分否定しながら、どうしても否定し切れぬところもあるんだなあ。気取るわけじゃないけれど、そんな事気取ったって間抜けだけなのも知っているしね。
 夜十一時磯崎さんとようやく電話がつながって明日夕方、李祖原との会談をスケジュールに入れていただく。明朝、鈴木博之先生にも連絡して時間を取っていただけるかどうか尋ねてみよう。中国現代建築論なんてのは本当は鈴木博之が書くべきなのだ。

 二月十四日
 二〇時ようやく〆に追われまくっていた原稿何本かに目途をつけた。書くのは描くのより数層倍困難だ。困難な事は面白い。設計より面白いのだろうか書くことは。解らんなコレワ。それに書くのはたった一人でやらなければならないのが良いのだな。能力の表現が裸形なところが、赤裸々なのがいい。設計は他力に過ぎるところがある。次は長いのにとりかからねばならない。建築いくら作ったって一つの論に負けるかも知れない本当に。
 今日は昼大学でM0つまり今春より院生になる学生に課題を出した。世田谷は何とかスレスレに廻り始めたが、大学の研究室が停滞してしまったのを少し立て直さなければならない。週に一度はスタジオを見るようにしたいが、できるかな。星の子愛児園の現場が佳境に入って明日は現場見学会。明日は設計に身を入れられそうだ。夜、続々とゲラが送られてくる。isの山内さんもチョッとは喜んでいただけたようでホッとした。夜半少しばかり敦煌の勉強。今日は午後児童公園の写真をダメライカで撮ってみて、すぐに現像したら、何とうまく撮れているではないか。初めての事だ。絞りの感じが少しはつかめた様な気がする。何と手間のかかるカメラだ。しかしこのライカは古いだけあって電池もいらない。何処にも電子部品が組み込まれていないだけあって故障だけは無さそうだ。コンタックスはもうコワれてしまった。修理に時間と金がかかりそうで、新品買い直した方が早そうな気もする。モノの進歩というのはアテにならないところが多過ぎる。ダメライカ的生き方ってのもまっとうできれば面白いかも知れぬ。ハイテクカメラは壊れやすく、修理しにくいという事になると建築に於けるハイテックというのも考え直すべきかも知れないなコレワ。うまい水が飲みたい。しかし、そんな考えを押し進めてみるならばどんなカメラよりもスケッチという事になるのだが・・・。

 二月十三日
 午前中学校でインタビュー。午後卒論説明会その他来客数組。こんな御時世に住宅販売のフランチャイズを新規におこしたいという人がまだいるんだ。明日N棟M0課題。
 課題1 君の好きな椅子がいつどこで誰によってデザインされ、どのようなシステムで生産され、かつ流通しているかを調べよ。三月六日〆
 課題2 君のスタディチェアーをデザイン・制作しなさい。四月二日〆 講評は四月三日。

 二月十二日
 追いつめられてやっと原稿書く頭になってきた。十五時前疲れて原稿書き小休止。設計を考える。設計は原稿書きと比べれば楽だ。楽な事してりゃいいのに何やってんだろう。ISの山内さんからビシビシFAXで攻め立てられて十四・五枚十九時修了。 疲れた。東大出版もやっつけてしまおう。

 二月十一日
 修士論文の発表会が八、九の二日間に渡り、その後進路相談。総勢五〇名程の石山研のうち二〇名程の面接を行い世田谷と大久保N棟に振り分けた。一人一分程の面接だが大事な決断が含まれているからこの一分でそれぞれの院生の性格能力がよくわかる。世田谷には構えてない者を選んだ。構えてない奴ってのは自然な人間。自分にそれ程のなまじな自信もなく、真白で何の色にも染まっていない。馬鹿もいるけど仕方ネェだろう。スタジオを世田谷と大学の二カ所に分けたのは今のところ成功している。差別はしないが厳しい区分けはする。マア要するに差別以上に厳しい階層性をスタジオに持ち込むって事かな。大久保N棟のスタジオも明日から動かせるように準備したい。今日は休日で午後に伊豆のハンマーがやってくる。
 午後驚いた事にハンマーのみならず森さん夫婦加茂村のトシちゃんまで来宅。世田谷村を案内する。もっと暖い日のゆっくりできる時間に来てくれれば良いのに。原稿書きが苦しい。追いつめられている。こんな時には無精に他の事をしたくなるんだなあ。

 二月七日
 朝地下ミーティング。そろそろ地下スタッフの入替えをしなければならぬ。大学院の新入生達にも地下組と研究室組に分ける旨をもう一度ハッキリ伝える。現在地下には十二名。九州から一名希望者がいるので十三名。あとキャパシティは二名くらいか。研究室で勉強する者のプログラムも用意しなければならぬのだけれど、どうしてもファーム扱いになるのはやむを得ない。
 全く途方に暮れてしまう程に設計を教えるのは難かしい。マアまだまだ私も発展途上国で型にはまらぬママだからって事もある。昼大学へ。教室会議その他。北海道の見知らぬ方から設計依頼のお手紙いただく。  夕方BBビジネス白書インタビュー。崎山君という編集者が世田谷村日記の読者らしくて驚いた。彼は私のそれこそ日々を知っているわけで、妙に親近感が湧いてしまうのだ。

 二月六日
 まだ細々とした余計な事をやり過ぎている様な気がしてきた。無駄な事はどんどん切り捨てなくては。今日も一日地下で過す予定。毎朝トラックで渡辺邸現場にスタッフが出掛けている。これがキチンとそして大がかりな日常になれるか。
 午後星の子愛児園の屋上チューブを見に行く。ドンピシャのスケールだった。カラーは薄紅色でやってみる。モンスターが寝ている感じかな。涅槃仏みたいでもある。現場が近いと間違いが少なくなる。本当は現場で暮らしたい位のもんだ。

 二月五日
 今日は久し振りに朝寝坊した。今日から西域敦煌の勉強にかかる。星の子愛児園の現場は今日3Fの不整形チューブが搬入される予定。午後オレゴン大学ポール・プリマック氏来校。交換留学生の件。西谷主任同席。二一時過カンボジアの仲根さん来地下。ひろしまハウスの件で打合わせ。もちろん色々困難な事は山積しているが乗り切りたい。

 二月四日
 家の周辺の梅が少しづつ花を咲かせ始めた。夜、その香がかすかに流れてくる。体調が悪い原因は歯グキがはれたからだということが判明。何故歯グキがはれたのかは解らない。私は歯医者は嫌いなので死ぬか生きるか迄は絶対に歯医者には行かぬ。今日も何も無い一日であった。朝から晩まで地下で打ち合わせで暮れた。一人だけで成し遂げられる仕事と、建築設計のように一人だけでは成し遂げられぬ仕事との距離は遠い。この仕事は全て他力本願だ。
 夜、上海から李祖原よりTEL。十四日東京で会う事になる。吉田司宮澤賢治殺人事件読了。現在流通する宮澤賢治観がどのように作られてきたかを知る事ができた。この人が本当に書きたいのは昭和天皇ではないか。

 二月三日
 長男の雄大は変なアルバイトに異常な情熱を燃やしている。恐らく学校は卒業出来ないだろう。昨年の暮からタコ踏みに精を出しているとは聞いていたが、築地の市場で冷凍タコ(海にいる足が沢山ある奴)を踏みつける仕事をしていたらしいが、今は何をしているのか知らぬ。何踏んでもイイが人だけは踏むなよと祈るばかり。今日はタコ踏みで得た金で中古車を買ったらしく、それが家に来るらしい。俺は大反対したのだが、家内は雄大には甘いから、家内をだましてどうやらそうしたのだ。俺の貯金箱から金を盗み出して十万円みんなパチンコに消えてしまったし、ヤローがフイと居なくなったら必ずパチンコ屋なんだから、バカヤローお前勘当だと言った位じゃどこ吹く風で、客が来れば愛想だけは良くって、誰の血をひいたんだコイツは。しかし運動部の競技用ヨットだけは夢中になっていて、それが無ければコイツはただのサギ師だな。しかしネェ。ヨット車タコ踏みじゃあ、どうしようもないゼ、コレワ。まさか私の家から体育会系のタコ踏み男が出るとは、全く人生は喜劇でもある。二女もしたい放題の巨大スネカジリ虫である。こいつが一番の難敵であろう。誰の入れ知恵か、親のスネはかじり倒せと教えられたらしく、本気でそれだけは実行してやがる。こいつも何言ってもきかないからネェ。段々こちらもあきらめて、もう何を言う気もない。上手くいってると思っているのであろう。最近の無気味な娘のふくみ笑いがそれを物語っている。こいつ等の顔見てるとお先真暗だ。体の調子も良くなくて一日ボーッとして暮す。こういう日が続いてくれると人生は楽だ。

 二月二日
 早大大隈講堂で卒業設計講評会。夜西調布にて聖徳寺プレゼンテーション。聖徳寺霊園はこれでほぼ基本計画は決まった。墓地とお堂の設計に取り組めるのは幸運である。スカルパの墓地と勝負してやる。昨日、日本フィンランドデザイン協会でフィンランド行のスケジュール他諸々が決まった。鈴木博之のヘルシンキでのレクチャーも決まり。彼には広くデザイン界芸術界に足を延ばしてもらいたいと思っていたから、それには少し役立つであろう。西域行も日程が決まった。勉強しないと大恥かくな本当。

 二月一日
 月並みだがアッという間に一月は過ぎた。と言うよりアッと声を立てる間もなかった。本を読む時間さえ無い。無いと言うより作れない。余程気力を尽くして余計なモノをそぎ落としていかないと駄目だな。一日一日の暮し方の設計をキチンとしないと。私は年を経る毎に頑なになりつつあるのを自覚しているが、今の世相は相当に頑なにしても、まだ流されるという実感があるのが恐い。嘉納先生から日本建築学会が設計の入札制度廃止に動いているという話しを聞いた。コレは違うと直観する。学会は建築家への利益導入に動いてはならない。勿論入札制度の不透明振りには大問題があるが、学会がそれを指摘するのはおかしい。短絡して言えばそれも又歴然たる拝金主義なのだ。建設業界の金まみれ体質の現実はある。しかし建築家の世界だってそれ程聖域である筈はない。建築家達の世界こそ談合談判の日常ではないのか。しかも現学会は建築家仙田満が会長である。会長が会長の属する世界への利益導入を企てる事はいかがなものであろうか。学会は建築家の不況対策など講じることはない。他にやるべき事は少なくない筈である。十三時ホテルオークラ6F桃花林で龍谷大学学長上山大峻氏杉浦康平、佐藤健と会食。四月十五日より西域へ調査旅行する事に決定。十八時目白GKで日本フィンランドデザイン協会へ、フィンランドのスケジュールが決まる。今日は朝、聖徳寺霊園の模型写真撮影した。これで次のステップへ進めるだろう。

2002 年1月の世田谷村日記

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