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石山修武 世田谷村日記 プノンペン - 北京 - 福岡紀行

ひろしまハウス プノンペン編

 十一月二十二日
 只今上海を過ぎ、蘇州上空を広州に向けて飛んでいる。中国時間十七時半。中国南方航空便の客室サービスは一生懸命なところが昇龍中国らしくて良い。広州迄は四時間半のフライト。
 機内で新聞を読んだら、昨二十一日東京で「都内の景観と緑に関する懇談会」が開かれた。石原慎太郎都知事の肝いりでディベロッパー、建設会社二十六社のトップが顔をそろえたとある。新聞によれば五輪招致の思惑を含めた「安藤詣で」が早くも始まったとある。成る程ナァと思った。勝てば官軍負ければ賊軍なのだね、矢張り。その現実を肝に銘じて、マア肩も落とさずヤルしかない。
 今度の十日間程の旅の焦点は北京と福岡にある。北京オリンピック会場の北京モルガンセンターの工事の進行状況、北京でのモルガンセンターの状況をこの眼、この耳で確認して、場合によってはアッという間のスピードで駆け抜けなければならないのだ。福岡は五輪招致失敗で山崎市長が落選の憂き目に会う現実であるが、それとは別にこの中・日協同のプロジェクトは動かしたい。ようやく筋道が視えてきたので走り出す準備を固めたい。全ては北京の現実にある。二十七日のMr. Kとの会談分水嶺だな。プノンペンでも厄介な問題に対面しなくてはならぬが、北京と比べれば小春日和のようなものだ。アト、一時間程で広州に着く。

 広州国際空港はピッカピカの現代建築。さぞかし、トランスファー乗継ぎはスムーズにいくだろうとタカをくくっていたのが大間違い。機内のアナウンスでトランスファーの客も全て手荷物検査が義務づけられています、でオヤオヤといぶかしんだのが始まり。乗継ぎカウンターは何処にもなく、一度出境せざるを得ない。それが例によって馬鹿混みの非能率で、コレはプノンペン便に間に合うかの不安が頭をよぎる。そろそろギリギリかといらつき始めたら、イシヤマオサムのデッカイ看板を持った女性が出境ゲートのあちらに現れた。オレだオレですよと手を振ると、ようやく現れたか、フンの感じで、空港内を急ぎ足でガイドしてくれる。出境手続きの後は迷路状を走り、出境ゲートへ。全ての書類を記入して、出境手続き、手荷物検査ではベルトまで外され、女性職員に黄色のラインから出るなとキツく指導されたりもした。いくつかの関門をかいくぐり、二〇時〇五分のプノンペン便 CZ323 の A13 ゲートに辿り着いたのはギリギリ二〇分前であった。冷や汗をかいた。あの名前看板を持った女性の出現がなかったら、広州空港泊りになっていたであろう。広州経由でプノンペンに出掛ける日本人が非常に少なく、皆、行きだおれているに違いないから、あの女性の出現になったに違いない。ともあれ、プノンペン迄乗継げたのは幸運であった。
 中国はシステムとして役人天国なんだろうが、空港職員が多くが横柄なのはいただけない。こちらも、それに対してイライラするようでは大学教師の間抜け振りそのもので、それも又、いただけない。反省。しかし、中国まわりで遠くに出掛けるのはまだ少々危ないなコレワ。
 飛行機はボーイング 737-700/800 、すごく小さい。二〇時二〇分離陸。短いフライトだが、夕食が供され、中華料理ヴァージョンで、これはマアマアの味であった。今、日本時間で二十三時半、そろそろプノンペンに着く頃だろう。

 プノンペン時間十時過ぎプノンペン空港着。小笠原氏出迎えて下さる。想っていた程暑くない。十一時前ひろしまハウス着。すぐに内を見て廻る。外もグルリと廻る。隣の日本語学校3階へ。渋井さんと再会。テラスに蚊帳を吊って休む。疲れているのに眠りに入れない。朝方ウトウトとする。星々が美しい。ウナロム寺本殿が星の光に白く光っている。

 十一月二十三日
 六時起床。ひろしまハウスを見て廻る。七時過ぎ博物館にほど近いチャプスイ・レストランで朝食。九時、 S.O.M コーポレーションのソム・モノラック氏と打合せ。その後、広島の平岡敬氏、國近京子さん、塚田さん等と渋井さんを交えてひろしまハウス3階で打合せ。涼しくて気持ち良い。 2階中庭ではこだまこずえさんがセレモニー用の壁画を描いていて、仲々の力作である。午後もこれからの運営方法に関して打合せの予定。
 明日は総勢二百名位の会になるようだ。なんとか、十数年を費やしてここまでこぎつけたわけで、その事だけはホッとしている。これから先のこの建築の残り方、持続力に期待するばかりである。
 昼食は広島の方々と日本食レストラン折紙で。十四時より十七時迄ひろしまハウスで再打合せ。これからの運営について。十八時、総勢百名程のカンボジア・広島交流会パーティ。十九時過ぎ途中退席して、日本語学校へ。渋井さんと様々な相談。二十ニ時中谷礼仁氏等到着。早々と休む。ぐっすり眠った。
 十一月二十四日
 五時起床。七時朝食。ひろしまハウスは祝賀会準備で人の出入りが多い。建築が生き生きとしてくる。八時半小休。メモを記し、水浴と洗濯。
 十時オープニングセレモニー。ウナロム寺院の僧侶五人の読経に始まり、白い小さな花を降りかけられ、いくつかのスピーチで終了。読経の音声の響きが良かったのが収穫。顔見知りの参会者多数あり。皆はるばる日本からの人達で、ありがたい事だ。
 ワークショップ午前の部、富士市の鈴木さん、大阪市立大の中谷礼仁先生。昼食を中庭ホールでいただき、渋井修日本語学校へ戻る。十五時三〇分ワークショップ午後の部、平岡敬氏、私の小スピーチ。十八時前了。丁度日も暮れた。十一年の歳月を思い起こした。マ、はるばる来たものであった。修了後、知合いと会食。中谷、カイ、ヨハネス、長井、三砂の各氏。二〇時前散会。3階のテラスですぐ休む。ここは世田谷村の空間に酷似している。日本も急速な温暖化の最中であるから、世田谷村もアト十年後は亜熱帯状態になるのだろう。
 十一月二十五日
 六時起床。ウナロム寺院前の屋台でコーヒー。その後チャプスイ屋で朝食。ワークショップ参加の豊嶋さん手作りの針山二〇〇個をひろしまハウスに預ける相談。こういう普通のオバさん達の底知れぬ善意こそ大事にするのが、ひろしまハウスの本来の意義であろう。カゼ気味がまだ続き、うっとうしいが熱は出ていない。  昼食は渋井さん手作りの野菜料理。水浴してひろしまハウスへ。十五時過ぎソムさんと打合せ他。十六時平岡さん他広島の方々とお別れの挨拶。十七時二川幸夫夫妻を迎えに空港へ。十八時過ぎ二川さん到着。ひろしまハウスに寄り、インターコンチネンタルホテルへ。二川夫妻と会食。二十二時前戻り。二十四時迄渡邊君と打合せ。水浴して休む。
 十一月二十六日 未明
 良く眠れぬままに三時蚊帳を吊ったベッドから起き出してテラスにてメモを記す。星月夜である。
 昨夜は二川幸夫より、ひろしまハウスは良いの評を受け、安堵の胸をなでおろした。二川のことであるから、プノンペンまでわざわざ足を運んでくれても、出来が悪ければ写真とらないで帰ると言われるのは覚悟していたのだ。ここ数年は酷評を浴び続けていたので、マア久し振りのOKではあった。これで、GAというメディアに出ようが出まいが、私としては一つハードルを越えたの実感である。建築に関しては他の誰よりも彼の評だけが気になるので、もう充分だ。世間から見れば異常なことだろうが、世間の評よりも私にとっては重要なので、これで又、淡々と頑張れるだろう。今日は早朝にプノンペンを発たねばならず、二川幸夫の撮影に立ち会うことはできないが、もう良い。彼の一存に任せれば良い。昼の光で見て、イヤ、コレワ、それ程良くないと言われようが、それはそれで良いのだ。初回の立会いはクリアーしたんだから。
 広島の方々にも感謝したい。イイモノを作らせていただいた。渡邊や、これまで手伝ってくれた多くのスタッフにも、面と向かっては言えないが、この場を借りて御苦労をかけた、と言い置く。
 安心して眠れないのが我ながらおかしいが、今日は北京迄グッスリ眠ってゆけば良いのだ。
 しかし、二川幸夫との、誰も観客の居ない試合の連続も、もう随分長きにわたることではある。実にクレージーなことで世間様には誠に申し訳ない。こんな馬鹿なことは私の代で終りだろうが、それは仕方の無いことで、若い諸君の何がしかが、変な事してたなあと、いささか記憶に残してくれれば、それが最大の教育でもあろう。建築設計には金に換算できぬ秘かな喜びもある。恥をさらしてかくの如きを記しておく。  星月夜に光るひろしまハウスをもう一度眺めて、一人満足して再び蚊帳を吊った貧しい限りのゴザのベッドに横になる。アト、一時間半したら、北京行きの荷造りをしなくては。
 十一月二十六日 日曜日
 五時半起床。一時間程眠ったか。水浴。荷造りをして、渋井さんに空港迄送ってもらう。六時半着。北京行きの便は遅れて八時発とのこと。ラウンジで休む。空調が効いていて体に悪そうだ。北京との温度差は25℃程らしく、これも体には悪そうだ。空腹でしかも眠い。
 二時間弱のフライトで再び広州エアポート着。今度は四〇分のトランジットと聞いていたが、何と、又も、入境パスポートチェック、荷物検査、おまけに今度の女子職員はカンボジアで何したかと問いつめて、荷物開けろときた。ラゲージの内張り迄チェックされた。麻薬運搬人の疑いをかけられたのだろう。荷物を開ければ、カンボジアのほこりにまみれた汚いシャツやパンツの類ばかりで、女子職員は明らかに失望の顔色となる。跳びケリ喰らわすぞと思ったが、当然それは拘束を意味するの理性も働き、ジーッとガマン。
 全く広州空港は私大嫌いです。全世界の皆さん、北京オリンピックで中国に来る時は広州入境だけは避けた方が良いですぞ。あるいは、広州空港トランジット最短世界新記録を競うとか、身の危険を顧みず言えば、広州空港女子職員凶暴者リスト作成も必要であろう。
 機内で中国映画を眺める。ほとんど意味は解らぬが紅衛兵時代のラブストーリー。何はともあれ映像が実に美しい。激動の時代を生きる人間のひたむきさが、真正面からひたむきに作られている。こんな風にしかし時代と無関係にモノを作れたら良いな。
 北京編
 十一月二十六日
 八時間の飛行時間を経て北京時間十五時北京着。
 すでに広州で入境手続きを終了させているので、プノンペンからの客は空港内で待たされ、バスで国内便ターミナルに大移動させられる。コレは多分、李祖原の方に何か手違いが発生しているぞと思いながらゲートを出る。案の定、李祖原の姿は無い。彼のことだから必ず来るさと待つ。しばらく経って顔なじみのモルガンセンターのドライバーが現れ、次いで李が現れた。やはり国際便ゲートの方で待ったという。マ、そんな事はどうでも良い。これも又、中国なのだ。
 ヤアヤァ大変だったなと、デッカいリムジンで北京市街へ。クラウンプラザホテル、チェックイン。十一階の部屋からモルガンセンターを眺めれば、どうやら工事は動いている。シャワー、着替え、十七時半過ぎロビー。李祖原とすでにモルガンセンター内に移った Mr. 郭のオフィスへ。
 先ず、モルガンセンター内の李祖原オフィスへ。沢山のスタッフが追込み作業中であった。二十四時間態勢だという。工事も二十四時間態勢だから自然にそうなるのだ。
 ファイナルデザインを見る。凄くセンセーショナルなフォルムである。七月に決めた案の通りに動いたという。李祖原の強さだ。 Mr. 郭に再会。モルガン会長室内のプライベートレストランで夕食。休みなく話しが続く。昨日眠っていないなんて言えずに、なんとか付合った。食事は大変美味。ワインも最良。
 モルガンセンター工事再開のオフィシャルな報道資料の提供を求め、すぐに対応。北京市、政府との協定書も。全て問題はクリアーされた。ハハア、これで今度は私の方が大変な重荷を背負ったことになる。二〇〇八年九月までアト二年である。しかし、彼等と話していると色々なアイデアが湧いてくるから不思議だ。夜中になって、一度歩いてモルガンセンターを廻ってみようと Mr. 郭が言い出し、夜中のボディガード付き大名行列となる。日曜の夜だというのに、工事は進行している。三千人の労働者が入っているという。
 工事現場を夜中に一周するだけで疲れた。何KM歩いたかも知れず。モルガンセンターは全長七百メートル以上だから、マ、2KMは歩いたナア。 Mr. 郭は鉄骨まで入念にチェックする。この人はやっぱり異常な何かがあるな。会長室に戻り、又、実に様々な相談。二十二時、石山が疲れてるみたいだと同情されて、ようよう修了。
 二十四時ホテルに戻り、ベッドに倒れ込む。カンボジア以来もう何時間起きたママなのかも解らなくなってしまっている。明日も大変そうだ。
 十一月二十七日
 プノンペンの習慣が乗り移っていて五時に目覚める。
 窓から北京オリンピックメインスタジアム、水泳競技場、そしてモルガンセンター改め、北京モルガン・セブンスタープラザの巨大な姿が間近である。全部が工事中、しかも不眠不休だ。
 オリンピック・メインスタジアムよりもモルガン・プラザは巨大に視える。良く中国政府が許可したなと、 Mr. 郭も大変だったろうと思う。中国が国家の威信を問う北京オリンピックに、もう一つの新中国のシンボルが出現している。面白いナア。六時過ぎメモを記し、又眠る。
 九時頃再び起きる。北京モルガン社とのビジネスモデルを考案。無い頭で考えることだから、一般的に言えば途方もない事を考えているのだろう。カンボジアの汚れ物を洗濯。十時半ドライバーにピックアップされてモルガン・プラザへ。李祖原と打合せ。昨夜考えたアイデアのチェック。ランチはモルガン内で。午後打合せ続行。夕方、旧市街を少しばかりドライブ。デッカいリムジンで動いたので旧市街の細い径はドライバーが大変だった。十六時半モルガン・プラザに戻る。 Mr. 郭と打合せ。大方の了承を得た。夕食は再びモルガン内の特設レストランで。十九時半了。二十時過ぎクラウンホテルに戻る。
 十一月二十八日
 七時起床。今朝の北京は気持ち良く晴れ上がっている。モルガン・プラザの向こうに青い山並がハッキリと視えている。北京から山が視えるのを初めて知る。中国は山国でもあるのだ。モルガン・プラザもオリンピックスタジアムも夜通しの工事で、今朝も双方共に溶接の青い火花が星のように光っている。
 昨夕の Mr .郭との打合せで、今回の北京の目的は大方果たした。一週間ぶっ続けに動いたので、今日は少しのんびりさせてもらおう。
 北京モルガンプロジェクトは、カンボジアのひろしまハウスとは異なり、建築の形式から大きく踏み出した計画だ。政治経済の世界での仕事になる。大きな枠組みの構想と、小さな具体的な仕掛けの双方を同時に動かさなければならぬ。身を捨ててやってみましょう。
 十時半発、モルガン・プラザへ。李祖原打合せ。 Mr. 郭打合せ。李と昼食後、眼の前の北京オリンピックサイトへ。メインスタジアムと水泳競技場を見る。共に仲々のモノだと実感する。脱構築的構造の新傾向はこれでとどめをさされるな。全て、これに包括されるであろう。
 十六時モルガン・プラザに戻る。
「どうだった」と Mr. 郭が問うので、モルガン・プラザは残り一年半を頑張らないとならない、と答えた。外装を石に変えたのは良かったと思う。ハイテクで軽い感じはオリンピックの二つの代表的建築とは抗し得ない。特に内部が良い。モルガン・プラザは外のフォルムはOKなのだが、内部はどうか、李の頑張りどころだろう。空が澄んで遠くの西山が美しい。
 夕食は近くのレストランで李と。あわびと上海ガニ、そして海老、チンゲン菜、ホウレン草。世田谷村のチンゲン菜とホウレン草はキチンと育っているだろうか。二十時モルガン・プラザに戻る。 Mr. 郭と最後の打合せ。この人物とは長い付合いになるであろう。二十三時迄。二十三時半ホテルに戻り、メモを記し休む。明日は福岡か。
 十一月二十九日
 五時四十五分起床。荷造り。図面その他が少々増えたが軽い。三日間の北京モルガンでのミーティングはタイミングも良くマアマアの出来だった。
 さて、今日から九州だ。七時過ぎ北京空港。七時五〇分ラウンジで中国国際航空福岡便を待つ。八日目の旅だが疲れも無く、何とか元気だ。八時前機内に。半過ぎ離陸。十二時頃福岡空港着。良く眠った。
 只今、十三時前キャナルシティのグランドハイアットでひと休み。夕方迄時間が空いている。福岡オリンピック計画作り以来5ヵ月振りのハイアットである。
 櫛田神社にお参りして、福岡オリンピック敗退とこれからの更なる戦いの祈願。ソバの昼食。部屋で休む。福岡地所の青山君より連絡あり、空港迄迎えてくれたそうだがスレ違ったとの事。十六時過藤氏と会う。平塚氏とも再会。チョッとした相談する。夕方、市役所の若手、日本設計の方々、福岡オリンピックチームの面々と会食。その後藤氏と深夜まで話す。久し振りの酒で、何を話したのか忘れてしまった。
 十一月三十日
 八時半起床。二川幸夫はプノンペンからアンコールワットに無事に発ったそうだ。あの人は筋金入りの建築狂いだな。市役所から連絡が入り今夕山崎前市長と会食となり、十八時寿司屋でお目にかかる。二十二時ホテルに戻り休む。
 十二月一日
 四時半起床。別にする事も無く昨日の毎日新聞を隅から隅迄読む。五時再び眠る。八時半再び起床。十時前ロビーで梅木氏と会い佐賀へ。昼前、佐賀県内に入り、神崎のまっちゃん食堂でうどん他の朝昼飯。昼過長崎県波佐見町白山陶器。デザイン室長阪本氏に工場案内していただく。森正洋先生のプロダクトデザインを生産してきた会社だ。十五時過迄二時間立話しに終始したのには驚いた。この会社が森正洋のデザインを本当に大事に慈しんできたのかな。十六時前森正洋アトリエ。生前の姿そのマンマのたたずまいであった。先生の奥様の弟さんとお目にかかり、おいしい紅茶他をいただき一息つく。弟さんは奇異な事に、今は伊豆西海岸松崎町ずまいである。石部の山の中に一人暮らしとの事。松崎の共通の知合いの話題で話がはずんだ。森正洋先生の仕事は膨大なものだが、そのビジネスの権利関係は今のところ殆どルーズとしか評しようがないようだ。デザインの価値が全く無視されているとしか思えない。十八時過長崎大村空港まで送っていただく。空港ロビーでメモを記し、この十日間の旅をしめくくる。チョッと疲れたな。二十一時羽田着。二十二時四〇分世田谷村帰着。夜の畑を見るも暗くて様子が解らぬが、ズイブン赤カブらしきが育っているような風もある。
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