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石山修武 世田谷村日記 「南インド紀行」 |
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どんな旅をしても仲々に賢くなったり、アッと目覚めたり、何かの啓示を得るなんて事はほとんどあり得ぬのが現実だ。しかしインドには、そんなあり得ぬ事をあきらめ切れずに、若い頃から度々出掛けていた。極く極く一般的な日本人同様に、インドに出掛ける時には何かあるのではないかと身構える事が多かった。インドの側ではなく、こちらの都合で、そうせざるを得ない事情にとり巻かれるのが普通な事でもあった。 今度の南インドの旅には一つ目的があった。ポンディシェリのオーロヴィル訪問である。オーロヴィルは、インド思想界に大きな存在であったオーロビンドの考えをもとに、彼を継承した二代目のフランス人女性教祖、通称マザーが中心となり、オーロビンド思想をリアルな共同体の場として実現しようと建設続行中の自然の中の都市である。 渦巻き状のマスタープラン、ギャラクシーは良く知られてもいる。銀河鉄道の夜が現実に建設されているようなものだ。 アシュラムと俗称される、共同体の存在は随分前から気になってはいた。が、しかしわざわざ南インドまで出掛けてみようかという気にはとてもなれなかった。 私の住居である東京・世田谷村の近くに、旧オウム真理教の元幹部上祐氏を代表としていた宗教的集団アーレフの本部がある。何度か、その本部があるマンションの前の小路を通りかかった事もある。小路の出入り口には今でも警察官が立っており、周辺住民の立ち退き要求の動きも当然ある。 一九九五年に浮上発覚したオウム真理教事件は、同年の阪神淡路大震災と共に、私のモノつくりへの考え方を深く揺り動かした。と言うよりも、それ以前からボンヤリと考えていたような事に、一つの枠組みの如きを与えた。 それが、どういう考え方であるのかは、ここでは述べない。いつか、有料の形でメディアにするから、それに接してもらいたい。タダで読むモノは身につかぬものなのだ。 オウム真理教事件、阪神淡路大震災、二つの大き過ぎる事件は私にとっては「建築」という形式への戦争状態のように感じられた。「建築という形式」は更に言えば、近代建築様式である。二つの事件は一つは巨大な人災として、一つは宿命的な天災として、近代建築様式を襲撃したのである。そして、近代建築様式は二つの戦争に対してあまりにも脆弱でほとんど無防備状態であった。 今の世界の現実に近代建築様式はわずかな接点しか持ち得ていないのではないか。現実の力に無力過ぎるのではないか、の疑いと不安は、年を経るごとにつのるばかりなのだった。
二〇〇七年の夏は猛暑であった。現在の建築の有り様に対する疑いも同時にそんな飽和状態にまで膨らみ切っていた。
恐らくは何も得られる事は無いだろう。旅といっても、現実の枠から自由になれるわけではない。しかし、何かを得たい。得なければならぬ。 ところで、オウム真理教(アーレフ)の連中の、今はいかなる現実なのであろうか。教祖麻原は裁判の過程で無残な正体らしきを世にさらした。麻原彰晃は死刑を科されて当然であろう。が、彼の言説にまどわされ、あるいは突き動かされて人生を狂わせてしまった連中の現実はどうなのか。 夢覚めて現実に戻ろうとも、現実社会はそれを許さない。彼等の今はとてつもなく長い宙吊り状態を続けざるを得ない。何処にも現実の場は用意されない。ヴァーチャル世界を現実に生きようとした信徒達は、二十一世紀が紡ぎ出すであろう悪夢を予言していた。彼等の今は、我々の現実でもある。
あらゆる夢は同時に悪夢を背負い込む。大震災が必ず再来するのと同様に、オウム真理教事件は決して終わってはいない。より深く、より強く現実に伏流化している。 |
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八月二十七日 | |||
八時前、都営地下鉄線岩本町通過。隣の座席に変った若いホームレス風若者が座った。少し緊張する。彼は身体にビニール袋を幾つもぶら下げ、カバンもビニール袋に包んでいる。ポカリスエットの小ボトルだけが剥き出しという風体である。女性を見ると、一番前の女性専用車に移りなさいと身振りも大きく、無言の仕草を繰り返すのである。 変ったフェミニストだなあと思ったけれど、よくよく考えれば、こういう人物は大なり小なり、今の世の中には多い。今もキチンとしたスーツ姿に背中に派手なザックを背負ったサラリーマンらしきがいたし。車内の人々を見つめるに、皆どうやら大小の異常を内に抱えているように思える。 かく言う私だって、この暑い東京の最中から、更にとてつもなく暑いであろう南インドに出掛けようとしているのだから。私の風体と言えば、派手なハワイ風半そでシャツに、小さな背負いザック、小さなショルダーバッグ、そして野球帽、に大きな画用紙ホルダーなんであり、他人から見れば、何の商売だこのオッサンは、という事になるのだろう。
あの若いホームレスと、私と、何が異なる事があろうか。 日本時間四時、シンガポール・エアラインで飛んでいる。成田を飛び立って四時間以上になる。シンガポールまで、あと一時間半位かな。シンガポール経由で今日の夜、チェンナイ(旧マドラス)にたどり着く予定である。機内で宗教都市オーロヴィルのアシュラムへのルートを幾つか考えるが、インドのことだから予定通りには進まないだろう。
ベンガル湾側のインド、つまりインド亜大陸東海岸は西インド程には急速な超近代化、つまりグローバライゼーションの波には洗われていないと聞いてはいるが、現実を視てみないと解らない。 たった一週間の時間ではあるが、そこらの厳しい現実を冷徹に、ド暑い南インドで考えてみようというのも、今回のインド行きの目的である。世田谷村と仕事場の往復だけに閉じこもっていると、仲々、そういう自己更新、というか自己閉塞を打開するチャンスも無いし、座して考えて突き詰める才も自分には無い。 南インドで、アシュラムは別としても、ヒンドゥー文化最古層のドラヴィダ文化の酷熱の中に身を置いて、火傷を負いながら、火中の活路を見出そうと、我ながらバカバカしく、それでも一生懸命なのである。
年を重ねると、当然のことだろうが、ケチ臭い分別が身についてくる。どうやら、それが私の場合身をほろぼすことになるであろう事は次第にジワリと解ってきた。
が、しかし、視えるからどうなると言うものでもない。小利口になっても何も得るモノはない。せいぜい、何も得なくてもイイヤという、あきらめの境地に沈み込むだけだ。あきらめるというのは、グローバライゼーションに呑み込まれてフテ寝するに等しい。
南インドで書く日記と、スケッチを道具に、そのあたりの事をカッカと考えてみる。まだスケッチは一枚も描いていない。先ずは白いエアポケットに入る必要がある。と書いていると、エアクラフトは乱気流に入ってしまった。 十九時十六分、シンガポール空港 F60 ゲートでチェンナイ(マドラス)便を待つ。先ほど空港内のトランジットスペースで軽食をとった。この空港はいかにもシンガポールらしく無色、無臭。人口花の趣がある。空港内のグリーンがあまりにも自然らしきなので、チョッとむしってみたら、人造の偽モノとナチュラルなのが混成しているのであった。仲々、巧妙だな。
今夏のトウキョウの猛暑の疲れが、空港内の人工環境の中で一気に噴き出している感じで、グッタリしてしまう。これでは火中に飛び込めないぞ。私の体はどうやら空調には馴染まなくなっている。 四時間弱のフライトだ。まだ何のスケッチもしていない。何のアイデアもまだ無し。機内はエアコンが効き過ぎていて体が芯まで冷え込んでいる。 |
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八月二十八日 | |||
早朝三時、寒くて目覚める。ここはチェンナイ・エアポートの待合いロビー。 昨夜二十二時過ぎにチェンナイ到着。国内線空港に寄り、エア・デカンのチケットオフィスでマドゥライ行きのチケットを入手したところ、五時に空港に来いとの事。市内で宿泊するより、空港で仮眠した方が良いと判断。かくなる始末とあいなった。炎熱地獄どころか空港はエアコンがカリカリに効いていて、寒いこと寒いこと。Tシャツを重ね着する始末になった。 空港内には銃を持つ警備員が多い。ハイデラバードのテロの影響だろうか。薄型の液晶TVスクリーンにはテロリストが南下しているとの報が流れている。油断は禁物である。が、どのように用心したら良いのか定かではない。未だ、スケッチ0点なり。
六時十分、マドゥライ便の出発ロビーで待つ。何とかマドゥライへは行けそうだ。七時離陸 ATR-72-500 という小型のプロペラ機。カンボジアで飛んでいるのと同型機だ。ほぼ満席。 九時、マドゥライ市内ニューカレッジハウス、チェックイン。一息つく。 |
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八月二十九日 | |||
早朝五時、モスクのコーランの詠唱で目覚める。ヒンドゥの聖地にもイスラム教が入っている事を知る。昨日のメモを記す。同室の渡邊はまだ眠っている。
二十八日、ホテルにチェックイン時に明日のタンジャヴール、ブリハディーシュワラ寺院行きの段取りを済ませた。車で四時間半ほどかかるようだ。近くのヴェジタリアンレストランで朝食。チャイと大きくふくらませたナーンのようなモノ。美味であった。
沐浴場に辿り着いてスケッチ2点。とても描き切れるものではない。
とても他の堂内はスケッチできない。明らかに建築なのだが、より洞穴でもある。 中心はヒンドゥ教徒しか入れず。又、入口でサンダルを預け、裸足で歩かなくてはならず、又、短パンは禁止で腰に巻くための布を買った。外の石のペーブは熱く、とても歩けない。飛び跳ねて歩いた。 十三時、再びオートリクシャーでホテルに戻る。午後のツアーがあるというので参加することにした。室で水浴び。二時半ツアーは小型のピンク色のバスでスタート。A/C は無くて熱い。途中で片腕のツアーガイドが加入。右腕が切断されており、そこはオレンジ色の布で上手に隠していた。 王宮、その他ガンディーミュージアムを含めて七カ所巡って疲れた。山の中腹のヒンドゥ寺院では初めて中心の内部にも入れた。クリシュナと二人の夫人の黒い像があり、黒いテントがセットされ秘儀が行われていた。
十八時過ぎ、雨降り始め、激しい雷雨となる。バスは雨漏りしきり。マドゥライ中心部に落雷するのを見る。 二十二時頃、裏で直結していたホテルに戻り、水浴して眠った。朝四時から動いていたので、流石にブッ倒れるごとくに眠った。天井の扇風機は廻し放しにした。蚊取り線香もホテルで買った。 そして、今日二十九日となった。六時にメモを記し終わる。早足でとても書き切れない。今日も長い旅となるだろう。六時半にホテル内のレストランで朝食、七時半ホテル発の予定である。 |
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七時二十分ホテル発。途中二度ほど休みをとって十一時タンジャヴール、ブリハディーシュワラ寺院着。十一世紀初頭建設のこの寺院は、マドゥライのミーナクシ寺院とは全く異なる建築的意志の表れが見てとれる。最良の部類に属する建築である。これも世界遺産である。 十四時までスケッチ6点。その後、ホテル探しに手間どったが、ようやくA/C付きの部屋を得る。昼食をノンヴェジタリアンレストランでとる。ヨーグルトがおいしい。 ツーリストインフォメーションオフィスで明日の情報を得て、十七時前ホテルに戻り休む。夕立ちが来る。 ブリハディーシュワラ寺院は240M×120Mの敷地の中で、高層部分は63Mの高さ。建設者の意志の強さを感得させる見事さを持つ。たとえ、その意志が権力の誇示であろうとも、建築が本来持つ力を良く知っていた。 |
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八月三十日 | |||
昨夜は結局、雨降り止まず、ホテルで休みとなった。六時前起床、メモを記す。今日は目的地アシュラムの都市に辿り着かねばならない。乗物を乗り継いだ移動日になる。朝食後にブリハディーシュワラ寺院をもう一度見たい。
二十一世紀市民社会はこのような記念的建築への意志を共有できないだろう。 六時二十分、ホテルのレストランで朝食。 |
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八月三十一日 | |||
ポンディシェリ、インターナショナルゲストハウス六時二十分ロビー。
昨日は朝、ポンディシェリへの段取りに手間どるも、ブリハディーシュワラ寺院再訪。曇天の為だろう、初見の感動は少々薄れた。正午ホテル発。十六時過ぎ、ポンディシェリ、インターナショナルゲストハウス着。フランスの植民地の歴史がある町で、プノンペンに様子が似ている。 十七時過ぎ、シュリ・オーロビンド・アシュラムへ。ベンガル湾に面した町の東端の一角をアシュラム共同体が占有している。グレーとホワイトを基調としたカラーコントロールが各建物に施されていて、町中に特殊なゾーンを印象づけている。緑の多いゾーンで清潔である。 アシュラム二代目フランス人女性、俗称マザーの大きなテーブル状の墓があり、ヨーロッパ人を多く交えた信者達がメディテーションまがいの最中であった。ベンガル湾を眺める。二十一時就寝。疲れて、グッスリ眠った。 そして、今朝、アシュラム共同体オーロヴィル訪問の段取りを済ませ、八時半メモを記す。今日が今回の旅の最大の目的である。朝、夕、二度の訪問とする。夕方は共同体のメディテーションの様子を観察する予定。
アシュラム創始者、インド哲学者オーロビンド創始のこの集団は、日本で考えていたよりも、余程自然に南インドの文化に融け込んでいるようだ。政府公認保護の集団となっている。
しかし、それは南インドのヒンドゥ文化の許容性、混濁性があっての事で、日本人のピュア好み、天皇制の矛盾に満ちた非許容性内では不可能な事ではあった。
十三時半第一回オーロヴィル訪問を終え、インターナショナルゲストハウスに戻る。四時間程の訪問であった。ビジターセンターでビデオを見たり、多くの資料を得る。 マトリマンディルの金色のドーム内には、午後遅く入るのを許された。楽しみである。ドームをスケッチする。フラードームとヒンドゥ教のシヴァ神リンガが合体したような建築である。李祖原が好みそうな形である。 まだ、未完成で今は頂部に集光装置を載せる工事が行われている。 森の中の遊歩道のシェルターは草と石柱で上手にデザインされている。良い趣味と、ほとんどグロテスクに近い趣味とが入り混じっている感があるが、ともかく、モダーンデザインの世界の枠からは外れてはいる。 |
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九月一日 | |||
十八時、マハバリプラム海岸近くのアビラミゲストハウスで休んでいる。 少しばかり疲れてしまい、メモが途切れそうになりそうだ。穏やかな夕暮れで、天井の扇風機がコトコト廻る音だけ。一人で部屋に居ると静かさが身にしみる。 三十一日の十六時前、オーロヴィルのセンタードーム内のメディテーションに参加した。二十五名程の人数であった。金色のドーム内へは日本風の障子状の入口ドアから入った。スケッチも写真も禁止であった。遠くから眺めていた金色のドームは、近付いてみると、巨大な凹状のロートに四本のストラクチャーで浮かされていた。 球体の底部から内に入る仕組み。この設計者はフランス人で、恐らくフランス系のユダヤ人ではなかろうか。フレデリック・キースラーのエルサレムの書物の神殿と考え方が酷似していた。内に入ると、螺旋状のスロープで頂部のメディテーション・ハウスに登ってゆく仕組みだ。
B級SF映画、たとえば007ジェームズ・ボンドシリーズに登場するような、極めて大衆的な娯楽性の如きに満ちた空間であった。昼に持ち帰った資料・図面から想像していたものとは少々ズレていて、いささか失望した。
キースラー唯一の実現した建築であるイスラエルのものも、恐らくはこの類のものだろうと、直観した。
メディテーション・スペースはひんやりとした空気が送り込まれ、全員、床に座り、座禅の型をとる。皆、それなりの気分になっていた。
ヒンドゥ教のリンガ信仰がそのままテクノロジーを介してヴィジュアル化されているのだった。変だよ、コレワ。
しばらく静かに座っていたが、やがて明りが点灯され、球の中のハウスの外に出た。球体の中は赤い光がパネルに反射して、まさにジェームズ・ボンド風。
黄金の球体がセットされた、渦巻きパターンの庭園を歩きながら考えた。この巨大な渦巻き運動状のパターンを持たされた庭園は、アシュラム共同体の中心であり、銀河系宇宙の姿をそのまま模したものであるらしい。 オウム真理教の騒動、事件を痛切に思い起こさざるを得なかった。オウム信徒達はデザイン、殊に建築のそれに完全に無関心であった。アシュラムはそれとは反対に、デザイン、デザインと言いつのる。だが、そのデザインの実体はあまりにも単純な大衆性を帯びている。
ここには世界の現実と直面しようという思考が薄い。世界の現実は不安に満ち満ちている。そのフィーリングの一端ものぞく事が無い。
しかし、アシュラムの実物を見て良かった。モノを見る、そのデザインを見ることで、その思想の深みだって解るのだ。オウム真理教は、教祖の品格の無さが、サティアン建築に良く表現されていた。
夜食はヴェトナム料理を食べたかったが適わず、少し疲れて市内インターナショナルゲストハウスに戻る。このゲストハウスは清潔で大変良い。
そして、明けて本日九月一日朝八時出発。オーロヴィルを過ぎて、なんと、インドで初めて35ルピーの高速道路に乗ったのであった。 |
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十時過ぎマハバリプラム着。アビラミゲストハウスにチェックイン。 海岸寺院他の世界遺産を見て廻る。遺跡保存のデザインは明らかに失敗しており、昔日の面影は無い。海に洗われてこその海岸寺院なのに、陸に上げられ、完全に生気を失っていた。
昼過ぎゲストハウスに戻り小休後、市内を歩き、ただ疲れただけ。 夕方、ゲストハウスに戻り、テラスでベンガル湾をスケッチ。ようやく、メモが現実に辿り着いた。
シーショア・レストランで夕食。マハバリプラムでは地域一帯のレストランがビール一本 100 ルピーの高額振りである。ベンガル湾の波音を聞きながら食す。
短い旅ではあったが、得るモノ、つまり考えさせられる事は少なくはなかった。
明日は夜、チェンナイより飛行機で日本に帰ることになる。いつもの、旅の終りの空しさは無く、さりとて、何かを得たという、おぼろな希望も無い。 今、二十二時半、メモするのも一段落で、そろそろ眠りにつこうかと思い始める。九月一日も、こうして何の変哲もなく終わろうとしている。南インドに居たって、東京に居たって、ほとんど何の変わりも無いのであるが、その、何の変わりも無いという実感が、少しばかりの値打ちなのかも知れない。まだ怪しいけれども。 しかし、南インドは確かに暑かったけれども、雨もあり、東京よりはしのぎやすかったの実感もあった。東京は仲々、人間が生きてゆくには難関が多いな。 |
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九月二日 | |||
四時、外はまだ暗い。ベッドに腹這いになり、今回の旅の記録を読み直す。四十分もかかってしまう。やはり、アシュラム訪問が核であるのが記録から歴然と浮かび上がる。 アシュラムの創始者オーロビンドの思想、それはインド人の考え方、直観の力をベースにしていたであろう。ヨーロッパの人間にはエキゾチックなるが故に魅力的なものに映っただろう。二代目指導者マザーはフランス人女性であり、組織内では大変な権力を持っていたようだ。一度だけお目にかかったカルカッタ(コルカタ)のマザーテレサ同様に、強い意志の力を持つ人だったのだろう。
その力がオーロビンドの純インド産の思考らしきを、インターナショナルな域へと昇華、あるいは俗化せしめた。マザーと初代との関係がいかなるものであったかは知らない。しかし、アシュラムのデザインにはほとんど彼女の意志が反映されているようで、コレワ明らかに安手のエコロジー思想のように見受けられた。
モダニズム・デザインの閉塞はエコロジー思想によって打破されるのか。
デザイン論、形式論を中心に据えずに、社会学的視点を基盤にしていたと仮定したい。バウハウスの理論の中心らしきは工業化、プロダクトを目的としていた。それ故にそれは機械を美学的なモデルとした。
二十一世紀初頭、それは結果的に世界中にゴミを溢れかえさせることになった。つまり、大量生産大量消費の標準がシステムとして固定された。しかも、この流れはほとんど止めようのない力、地球上最大の勢力として世界を支配していると考える。ここ、インドにおいても亜大陸全体にゴミが溢れかえっている。日本も同様である。
アシュラムの美学、それに対してはノーを言わざるを得ない。あれは無理矢理に捏造されたものだ。怪しい。 オーロヴィル周辺のみならず、それが属する現実の都市にもゴミの姿は多くはなかった。インドの他の都市、農村に普遍的に見られるゴミに溢れかえった姿は無かった。この風景には着目したい。
生産=工業化、そして消費生活=市民社会の見えぬイコンに代わるべきシステムを沢山提示しなければいけない。その一つに参加したいものだ。 アポロ13号の宇宙飛行士達のブリコラージュによる宇宙船修繕、そしてそのオペレーションがNASAとの情報交信によって成された事をもう一度思い起こしたい。 同様に、情報の交信技術は身の回りの再構築に役立てる事ができるのではないか。デザインする事は情報の回路をオリエンテーションする事だ。
六時前、約二時間ランダムなメモを記し続けた。考えを記録しようとし続けると、それなりの小さな成果を得ることができる。
要するに我々はふんころがしという名の虫に実に良く似た生物なのだ。ふんころがしは糞を丸めて、ただただ転がして廻る事を生きる目的としているらしい。違っているかも知れないが、それはどうでも良い。 |
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最終日 | |||
十六時四十分チェンナイ・エアポートの待合いロビー。ここには実は十四時に到着してしまった。七時過ぎにマハバリプラムを発ち、カンチープラムへ、そこで朝昼食をとり二つ程寺院を見学して、辿り着いたのである。とにもかくにも、一応無事で振り出しに戻った。デカン航空のチケットオフィス前を通り過ぎながら、そう思った。短い旅ではあったが、ちょうど良い長さの旅でもあった。
チェンナイ市には遂に滞在することは無かった。来た時も、これから帰るぞという時にも、空港にいた方がいいなと思わせるものがあるのだった。
二十四時、飛行機はシンガポールに向けて飛び立とうとしている。 しかし、カーストの最下層アンタッチャブルの連中には是非キリキリに冷えたビールを飲ませてあげたい。そしてだね、寺院の奥まったところでシヴァ神に油塗ったり水かけたりしている助平なブラフマ(僧侶)の奴らに一気呵成に大蜂起を企てて欲しいね。二千年以上も変なしきたりの枠にはめられている連中にこそ、軽い酒の助けが必要だろう。しかし、強い酒はイカンな。もう国中がそれこそ、シヴァ神の破壊の思うままになっちまうであろうから。ビールぐらいが良いだろう。 了 |
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