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石山修武 世田谷村日記

「ラテンアメリカ紀行」
2007 10/23 - 11/4

 R329
 十月二十三日
 八時起床。荷造り。十時半修了。ラテンアメリカにラテンアメリカの男と一緒に行くので、何か間違いは起こるだろうと思う。日本の律儀なシステム内の予定は絵に描いたモチだと考えて行く事にする。

 十一時半、NRTに向けて発つ。

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 十月二十三日
 十五時過、NRTコンチネンタルエアー待合いロビーに居る。同行のチリの建築家アベル・エラソの荷物がオーバーウェイトで引っ掛かったり、何故だか彼がパスポートコントロールでもやり直しさせられたりで、案の定ラテンアメリカ人との旅は想像以上に大変そうだ。

 コレワ、スケジュール通りにはいかんなと再び覚悟する。
 どっちが案内役なのか解らない。ヤジ・キタ道中というよりも、ドン・キホーテとサンチョパンサ、あるいは水戸黄門と助さんだけの旅だな。勿論、アベルが水戸黄門様で、私が助さんなのである。

 研究室に、設計製図のコンピューター使用によるメールでの指導方針を伝える。もうすでにラテンアメリカの旅はドタバタしてるぞと伝えたら、渡辺の奴大笑いしておったが、本当に笑いごとではないのだ。

 十六時過離陸。三〇分雲の上に出る。十七時半夕食。二年後にブラジルへ、昭道和尚と共に旅する事は決めてある。ブラジル日本人会をキーにブラジルの日系知事、市長に会って、ブラジルに何か建てようという計画である。できればラテンアメリカに仕事を残したいと強く念じている。

 日本時間二十一時五〇分、ヒューストンまであと五時間三〇分程のところを飛んでいる。
 『住宅建築』の原稿「清家清ノート」九枚書いた。たった一日の清家清自邸訪問の体験だけで三〇枚(二百字詰)以上を書くつもりなのだから、仲々、テクニックが必要なのだ。疲れたので、少し眠る努力をしてみる。

 アメリカに向けて飛んでいると、若い頃に材木を買い付けに飛んでいた頃、ノースウェスト機の右側エンジンが火を噴いて、サンフランシスコ行がハワイに不時着した事などを思い出す。

 日本時間二十四時過、アメリカ大陸西海岸は朝、右手にセイント・ヘレンズ山の白い雪嶺を見る。白い雪の山がポツリ、ポツリとデッカいスケールの中に島の如くに浮いている。ヨーロッパアルプスとは違う風景だな。ヒマラヤのスケールとは全然違うけれど。
 眠い!

 十三時半(テキサス時間)ヒューストン空港着。パスポートコントロールは厳しい。左右の指紋を新装置でチェックされる。
 税関検査を経て、再び手荷物検査。これはクツ迄脱がされる。十五時E11のゲートでようやく一休み。

 これから、インターネットで原稿を日本に送る。日本は今、朝の五時過、しかも二十四日の水曜日だ。  機上からの写真、機内でのスケッチも送ってみるが、丹羽君を中心に上手くまとめてもらいたい。


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 十月二十三日
 ヒューストン十七時前、研究室に色々とデータを送り、急ぎ足でゲート 11 に戻ったら、ゲートが変わっており、そこに駆けつけたら、何と出発時間は二時間遅れになっていた。やはりラテンである。

 空港内でバカでかいハンバーガーを喰べる。これが今日のディナーであろう。ゲートに戻れば、今度は出発が三〇分早くなっていた。油断ならぬ。待合いロビーで短い熟睡。十九時前、かなり小さなボーイング737に乗り込む。メキシコのグアダラハラ迄は二時間半程の飛行である。

 二十三時四〇分、グアダラハラ市内のグアダラハラ・プラザにチェックイン。荷物を開いて再整理、一段落したところだ。
 グアダラハラ空港には若い建築家のフォン氏が迎えに来てくれた。二時間遅れて飛行機が着いたので大分待たせた事になる。荷物は予想外に順調に到着した。メキシコに入って空港のチェックもいきなりラテンになって非常によろしい。ここはテロの対象になり難いのを知っている感じだ。

 2011年にグアダラハラでパンアメリカンゲームズが開催される事が決まっており、その為のフォーラム形式の会議が明日から三日間開催される。私は磯崎新の福岡オリンピックのアイディアの会場設計を担当した。その案が世界中でかなり評判が良くて、それでここまで出前出張してきたのだ。

 グアダラハラのパンアメリカンゲームズがブラジル・リオデジャネイロの2016年オリンピック計画とどういう位置関係にあるのかは知らぬが、ラテンアメリカは以前から好きだったので二十四時間かけてやってきた。

 福岡オリンピック計画案を今から振り返ると、首都以外の都市でオリンピックを開催する意味のプランニングであった。そこで磯崎新が考えたのが、モバイル・オリンピックというような概念であった。

 メキシコのグアダラハラはメキシコシティに次ぎナンバー2の都市である。首都でもない。そこでパンアメリカンゲームズを開催する骨組みが欲しくて、会議が開かれるわけだ。マア、私は磯崎の考えを代弁しながら、私なりのセカンドシティの可能性を述べるしか無いだろう。

 ようやく、十月二十四日になった。一日かけて、一日過去に戻ったのだが、帰りにはどのみち一日未来へ余計に進むのである。日付変更線はもう少し複雑な形にして、ここを通り抜けた人は二日昔に戻れるとかにしてしまうと、社会は混乱して面白くなるのではないか。

 〇時三〇分、下らぬ事を書きつけているよりは、もう眠ろう。フラフラで眼だって涙目になってきてしまっている。

 十月二十四日
 七時過起床。シャワー、洗濯後スケッチ二点、建築のエスキスとホテルよりの眺め。八時過了。今日は九時よりブレックファストミーティングがあるようで、会議の参加者全員が集まる。研究室に早速スケッチを送る。光が全く東京と違う。インドみたいな光だな。


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 十月二十四日
 九時半より、パンアメリカンゲームズ計画会議。バルセロナ、コロンビア他の建築家達も参加している。CITA事務局よりグアダラハラについてのレクチャーを受ける。質疑応答があり、十二時頃修了。

 すぐに市域の案内ツアーが始まる。ルイス・バラガンの初期の仕事というよりも第一作をみる。仲々良かった。庭の使い方上手い。小鳥の鳴き声が響く建築だった。地面の仕上げのディテールが上手。

 その後、オリンピックサイトを含めバランカと呼ばれる景勝の地等を見学。スケッチをする。十四時迄走り回る。その後昼食。十七時迄。メキシコ時間というか、ライフスタイルは昼が長いな。十七時二〇分ホテルに戻り、メモを記し、大判のスケッチにかかる。

 十八時半ホテル発、市の劇場へ。コンファレンス開始。最初のプレゼンテーション・スピーチはバルセロナのビセンテ・グアラート。シティプランナーらしい。コロンビア、及びバレンシアの都市計画について。会場は五〇〇人位の人で溢れ返っていた。

 アベルが疲労の極に達している。ラテンはのんびりしているが、疲れやすいのだろうか。でも一生懸命やってくれている。
 しかし、カンファレンスは全てスペイン語で、アベルの通訳はとても大事だが、まず、不可能だろうと目星をつけた。スペイン語のレクチャーを時々日本語に訳してくれるのだが、一目瞭然の誤解が多い。凄くシンプルに話さねばならないだろう。

 今は二十一時四十五分、ホテルに戻ってアベルを休ませている。二十二時半からディナーだ。明日はメキシコシティから卒業生のホセが来るようだ。メキシコシティで一人で頑張っているようだ。

 十月二十五日
 〇時四十五分オフィシャルディナーからホテルに戻る。途中ルイス・バラガンの教会を見る。道路からのアプローチ、ディスタンスが素晴らしい。若い建築家のフォン君がわざわざ案内してくれた。まだ建築に夢中な若い奴が居るのだ。彼からは大きなルイス・バラガンの本とグアダラハラの歴史の本をいただいた。一時前、横になる。

 六時過起床。昨夜よりは少し眠れた。満月が大きく光り輝いている。長安一片の月の如し。もっとキラキラしているかも知れない。長安であると万戸衣を打つと続くのだが、グアダラハラだと万戸熟酔の海。都市の灯りが深海の光のようだ。スケッチ一点六時五十五分了。

 七時半にロビーでアベルと会い、プレゼンテーションの最終確認。今日も一日ビッシリとスケジュールが組まれていて、この点だけはラテンではない。
 もしかしたら、ラテンなのはアベルだけではないのか。


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 十月二十五日
 九時二〇分朝食了。沢山食べた。研究室にも記録、スケッチ二点送付した。九時四〇分迎えのスタッフ来るも、アベル食事中なり。ホテルの外の光は鮮烈である。
 十時半会議に出席、メキシコシティよりホセ来て会う。コロンビアの Alejandro Echeverri のプレゼンテーション、次いで十二時半 Ricardo Abuauad (Santiago) のレクチャー。修了したのが十四時前であった。  昼食を抜いて、最後のプレゼンテーションに準備をする。朝に組み直したプログラムが全くコンピューターに入っていなくて、念の為にやった再確認で良かった。アベルに二回やり直しさせる。アベル少々アゴが上がり気味。

 結局通訳の大半をホセに頼んだ。英語からスペイン語はアベルでマアマアだけれど、日本語からスペイン語に難あり。

 十六時半私のプレゼンテーション。十八時半修了。マア良かったようで沢山の人から挨拶を受けた。グアダラハラのパンアメリカンゲームズ担当局長からも、すぐに又、来てくれと言われた。明日、確認する事として、ホテルに戻り、今日のオフィシャルディナーは欠席させてもらった。新聞のインタビューを受けてアベル、ホセ、フォン君の三人と夕方に出掛ける。

 一軒目はしつらえの面白いメキシコ料理屋。二軒目は、コレワ美味であった、魚の切身とオリーブ他、そして一杯のテキーラをやる。ホセも同席。グアダラハラに来て、一番美味な店であった。

 再度、深夜のルイス・バラガンの教会を訪ね、スケッチを一点。ホテルに二十二時三〇分帰着。メモを記し、洗濯をする。雑事を終え十二時前に休んだ。

 十月二十六日
 五時起床。どうも上手に長く眠れない。昨夕のプレゼンテーションはどうやら成功したようでホッとしているのだが。今日の予定も目一杯に入っていて大変そうだ。八時半にホテルレストランで朝食の予定。

 今は日本では二十七日の土曜日。昨日中に早稲田から学生の製図指導データが送られてくる筈なのだが、未着。

 グアダラハラの会議をオーガナイズしているアルフレッドは政治的な目配りも出来るようで、やり手だな。


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 十月二十六日
 十時NYの Keller Easterling のプレゼンテーション、レクチャーを聞く。完全なグローバリズム系の女性である。ドバイ、中国他の仕事を中心に一律に巨大スケールの標準化である。これが世界の主流だな。レム・コールハースの女性版である。
 どうも、話しはスマートなのだが、ムカついてくるね、いかんともしかたない。

 ベルリンの Andreas Ruby のプレゼンテーションはパスして、フォン、ホセ、アベルと旧市街見学。グアダラハラの中心街を体験するのは初めてで楽しかった。

 大聖堂と国立劇場(オペラハウス)、ナショナル・ミュージアムに囲まれた広場は良いスケールで、広場の地下は駐車場になっている。
 国立劇場はバロックで内はミラノのオペラハウスを恐らくコピーしている。

 ホセの友人が近くでタペストリーの工房をやっていると言うので訪ねた。二〇分の道のりであったが天気も良く気分は解放された。
 工房は手織りの芸術品を主に製造しており、大変良いものであった。いつか彼に発注してみたい。

 帰り道に小さなメキシコバロックの聖堂に寄った。ラテン系のバロックの内は気味が悪い。外は良い質感の石を使って独自な趣きなのに。グアダラハラの旧市街は良いと直観する。何かが棲みついている。これが地霊なのかな。

 大聖堂の大味な内を通り過ぎて地下駐車場へ。三時過にランチに指定されたレストランへ。
 ここで変な事件が起きた。事件と言っても誰かの血が流れるといったものではない。バカバカしい事である。

 我々の前に座った、デッカイ、メキシコ系の何者かが、実にマカロニ・ウェスタンに登場していた悪役にそっくりだったのだ。
 ホラ、夕陽のガンマンの凶悪な奴、最後はクリント・イーストウッドとリー・バン・クリーフに射殺されちまう、ヒゲの悪役がいたでしょう。アイツにそっくりなのだ、仕草まで。

 それを発見してから、気が気でない。映画の場面に入ってしまったような感じになっちまった。ホセに教えたら、本当だと笑い出し、アベルが何故笑っているのか、しつこく聞くので、教えてやったら、彼も又、笑いが止まらなくなってしまったのだった。

 私もバカで、三人でグフグフ笑い続けてしまった。実に失礼である。しかし、決闘で殺された奴が目の前で、パスタやバカデッカイ肉まで食し、赤ワインもガブガブ飲んで、あのNYの女建築家に何やら大声でわめいているのだから、実に変テコリンでシュールなのだった。

 NYのグローバリゼーション女が暴行される白昼夢まで見る始末であった。本当にあの悪役と酷似してたんだから。三〇分程グフグフ笑いは止まらないのであった。

 ホテルに帰って、一度休む。四〇分程の予定がグッスリになってアベルの電話で起される。アベルのラテン疲れが完全にこちらに移ってしまった。こりゃいけないと、国立ミュージアム内でのラウンド・テーブルに急ぐ。十九時の予定が到着したのが二〇時前、それでもまだ開かれていなかった。ヤレヤレ、ラテンだ。
 二十一時過会場を抜け出す。昨日のフォンに案内されたレストランでテキーラをやる。私は一杯、止せば良いのにアベルはフラフラなのに二杯目に挑戦、こういう時に頑張るんだからな。

 ホテルに十二時戻り、明日出発の荷作り、とこのメモを書き記し終ったのが、十月二十七日一時二〇分であった。もう眠るぞ。


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 十月二十七日
 朝六時十分起床。大きなドローイング一点、試みるも断念する。シャワーをあびて休む。グアダラハラではアッという間の三日間であった。これから先どうなるか解らぬが附き合ってみよう。東京を出て五日目の朝だ。今日からハードスケジュールの幕開けだ。

 八時半レストランで朝食の予定だが、ホテルの窓からの明け方の山並みにもすっかり馴染んだ。月が西の空にまだ高く白い。

 コロンビアの建築家と朝食、コロンビアでの仕事を作ると言われ再会を約す。チェックアウト後、ホセとグアダラハラ旧市街へフォン君と出掛ける。アベルは案の定、まだ荷造りが出来ていなくて、ホテルに残る。これがラテンなんだな。昨夜の間に荷造りはしておくのが普通なんだよ。

 グアダラハラ中心を歩く、バロックの教会2つ、カテドラル、オペラハウスを過ぎて、グアダラハラ市立ミュージアムへ。この軸線がこの街の骨格のようだ。

 建築はメキシコバロックで、皆荒い。市立美術館から近代建築様式で作られた巨大なバザールへ。これは良かった。モロッコのフェズのバザールを思い起こす。フェズにあってここにないのは、神学校をはじめとする宗教施設の空白で、ここにあってフェズにないのものは大きなスケールの空間だ。これは技術によって得られるものだ。

 朝の散歩を終えて、アベルをピックアップする為にホテルへ戻る。十五分程遅れたら、アベルが遅いじゃないかだって。アベルにだけはそんな事言われたくネェよとホセと笑う。

 十三時空港へ向けて発つ。朝、アルフレッドとパンアメリカンゲームズ計画の共同を約し別れたので、これから色々と考えなくてはならない。

 十三時四〇分空港着。レストランでビールを飲んでホセと別れる。又、いつか会えるといいね。フォンとは一週間後に又、会うことになる。今、十五時半ダラス行の7番ゲートでウェイティング。ダラス経由、サンチャゴ迄は、遠い。

 十六時二〇分離陸。飛行機は小型の五、六〇人乗りの観光バスみたいなジェット機、アメリカン・イーグル。低い高度を飛ぶので地上がよく視える。

 十八時四〇分ダラス着。ダラス空港は成田程に貧乏臭は無いが、小さな田舎の空港であった。入国審査、税関もアメリカにしてはそれ程厳しくは無かった。テキサス・ダラスというカウボーイの自負があるのだろう。

 グアダラハラ、ダラス間ではなにも食事が出なかったので、ダラスで夕食をとる。もの凄い量のカウボーイ料理みたいのが出てきた。これではアメリカ中南部の連中がデブになる筈だ。レストランの連中も皆デブだけど人柄は明るくてフランクである。アメリカ人の大半はデブでバカで、だけれどもシンプルで人は良いのであるという偏見はいよいよ強化されたのである。

 二十一時過AA 945 便でサンチャゴに向けて発つ。ホセはメキシコ移民をテーマにした「ドリーム・ハウス」というドキュメンタリーDVDを制作した。メキシコからのアメリカへの移民問題は社会的にもメジャーな問題で、それをどうしても映像作品として残したかったと言っていた。サンチャゴに着いたら早速見てみよう。何故、グアダラハラから直接サンチャゴへの便が無いのか、その理由は知らぬが、メキシコ移民の問題と関連しているのかも知れない。沖縄から上海へ飛ぶのに一度東京まで逆行しなくてはならぬ不思議をやっている。

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 十月二十八日
 今、十月二十八日二時四十五分。少し眠ったようだ。サンチャゴ迄あと五時間位か。グアダラハラとチリの計画が共に動いてくれると動きに無駄が無くなって助かるのだが。ともあれ、パンアメリカンゲームズの会議でラテンアメリカに何人かの知己を得たことは良かった。

 五時二十五分、ウトウトとしたり、目覚めたりの時間の中にいる。下界はビッシリと厚い雲に覆われている。何とか考え抜いて、二つの計画の基本戦略をまとめた。
 先程、ダラスで飯を喰った時に、アベルにチリでは一日休みは取れるかねと聞いた。
 「ノーホリデイ、ナイネ。政府の偉い人に会うのも決まっているし、ゼンゼン休みありません」だって。
 そうか、政府の偉い人に会うのに、コンニチワだけじゃ話にならぬだろうから、具体的なアイディアを話さなくてはならないのだと、覚悟しての事だ。

 政府の高官はアベル的ラテン人間ではあるまいからな。しかし、今度の旅というか、仕事は我ながらアベル的珍道中である。

 九時サンチャゴ着。ほとんど眠れなかった。空港には東京で会った、アルベルト・タイディが迎えてくれた。サンチャゴは春である。緑の新芽が美しい。アンデス山脈が白い雪嶺を見せてくれた。

 アルベルトのアパートがサンチャゴの宿泊先。サンチャゴのサンタクルスの丘の間近でド真ん中に位置している。大変美しい部屋であった。金持ちだな彼は。車はプジョーの2ドアタイプ。しかし趣味は大変良く、インテリアはアーリーモダーンでまとめられている。

 椅子はチャールズ・イームズ、サーリネンでまとめ、自動車のおもちゃのコレクションも趣味が一貫している。朝食をいだだき、街を車で案内してもらう。丘に登り、サンチャゴの街の全体を見渡す事が出来た。アンデスが間近に美しい。

 モンクが設計したという教会を訪ねるも中には入れず、アルベルトの設計したカメラマンの家の現場を見学、来年2月の完成のようだが、これは仲々良いモノになるだろうと思われた。バラガンとフランク・ロイド・ライトの落水荘がMIXした如くである。

 十四時アベルの父親のアパート訪問。そっくりの顔であった。ランチとおいしいチリワインをいただく。若い奥さんの仏像のコレクションへの意見を求められた。中国のアンティークだと言うのだが、コレワ明らかにインド風の変なモノで、仏陀が卵状の天蓋を乗せているのであった。コレワ、下手モノだとも言えず、仏陀は何者であるか、何者でも無いのであるとか、言って逃れた。

 アベルには、コレは偽モノだよと教えたら、彼はヒッヒッと嬉しそうに笑ったのであった。ラテンだ。
 「すごく良いモノだから安心しなさい」とお宝鑑定団みたいな事を言い残し、十七時頃去る。

 アルベルトが下町を案内してくれるも、もうフラフラで眠くてたまらず、疲れたーと音をあげる。東京を出てから、連日眠っていないのだから、当然なのである。アベルも疲れており、彼はラテンで意地を張らぬから、帰りましょ、帰りましょ、とアルベルトのアパートに戻り、ベットに倒れ込んだのが十九時頃だったか。

 それでも、あのアジェンデ時代のピノチェト・クーデターの際にも、民衆の流動の拠点になったと言われる、大聖堂の内で人々がカテドラルの内とは思えぬ何かスローガンを叫び、ドンチャカやっているのに接して、とても嬉しかった。


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 十月二十九日
 流石に今回の旅で初めて熟睡する事ができ、目覚めたのが十月二十九日の朝三時で、メモを記し、今日のチリ大学でのレクチャー他の準備をする。これで何とか持ちこたえる事ができるだろう。四時半再び眠る。

 六時過、シャワーを浴び今日の支度を整える。空高い雲がアンデスの方へ流れている。雲足が速い。七時過朝食をとりながらアルベルトとチリ生誕二百年祭りのプロジェクトに関して相談とディスカッション。終了後、アベルと今日のチリ大学でのレクチャープログラムの最終点検及び組み直しをする。

 十一時チリ政府ヒストリカルゾーン・コントロールらしき局の女性トップに会う。一時間程相談、及びサゼッションをもらう。何とかなりそうだ。十二時修了。歩いて大統領府に向かう。ピノチェト軍がアジェンデを殺した現場である。

 又、歩いてチリ大学へ向かう、途中レストランで食事。十三時半チリ大学。建築学科ディーン他に表敬訪問。その後レクチャールームへ。十四時レクチャー。アベルの父親まで来てくれた。

 十六時半修了。質問をいくつか受けて終了。アベルとアベルの友人の家へタクシーで行く。マヌエル・ペラルタのアトリエでワインを少し計り。

 8才になるブルドッグが迎えてくれた。屋上でアンデスを眺めながら話す。とても良いキャラクターのアーティストで、アベルは彼のこのアトリエでディプロマを制作したそうだ。

 マヌエルからアジェンデ・プロジェクトの模型をプレゼントされる。銃弾に倒れたアジェンデの最後をストレートに表現した強いモデルである。箱につめて、サインを附してもらい有難くいただいた。

 十八時前、マヌエルのアトリエに別れを告げ、十八時過、アルベルトのアパートに戻り、小休を得る。

 十九時ペルースタイルレストランでディナー。マヌエル他も参加。二十二時過アパルトマンに戻り、二十四時休む。

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 十月三〇日
 五時前起床。イキケ行きの準備。まだ暗い中をアルベルトにサンチャゴ空港まで送ってもらう。七時イキケに向けて離陸。アンデスが東の光に逆光のシルエットになっている。アンデスの西に暮らす人々と東に暮らす人々とでは毎日朝夕と正反対のイコンを眺めているようなものだな。

 九時十分カラマ空港着。砂漠の中の空港である。荒涼たるものだ。飛行機のエンジンらしきが捨てられていて仲々いい感じだ。

 九時五○分離陸。砂漠の上を飛ぶ。今日は相当ハードな日になりそうだ。十時半イキケ空港着。レンタカーでプロジェクトサイトに向う。太平洋の波打際を走る。二階建の家程のコーラのビンの広告塔が建っていたり、丘の上にコンテナが山と積まれていたり、何とも荒地は変テコリンに装飾されているのだった。

 イキケはイギリス人が入植して開いた港町である。今はハイライズのビル、住居がニョキニョキと生えている。イキケの背後の山を越えぬとサイトには行けぬ。アベル何度も道を間違える。しかし、もう慣れてしまったので別にイライラしない。何とかなるさ位のものだ。

 丘の上には貧しい人々のバラック集落があり、これは凄かった。フィリピンのマニラの貧民街が荒地に延々と拡がっている。しかし、人間はしぶとい生物でもあるななどと感傷にひたっている間もなく、車は砂漠をひた走る。

 空港から一時間チョッと、十二時半頃目指すサイトに着いた。サイトはかつてアメリカ人が移植した製塩工場と住居群、それにイギリス人が作った街の、共に廃墟である。一帯は世界遺産に登録されている。青い空と岩塩の荒地、工場とマーケット、集会所等の廃墟群である。一部がミュージアムになっているが、それも実に貧しいものである。

 これは日本で言えば、足尾銅山跡とか、石見銀山跡みたいなものだと理解した。鉄道のレールも一部残されている。しかも大きなスケールである。広大な風景の中の近代植民地風景の歴史が歴然としてある。

 西部劇に出てくる様な木のデッキに腰かけて、全てが錆びついた風景をスケッチする。突然、コレワ駄目だと、直観する。考えていたプロジェクトのロケーションには全く不適当だと確信してしまう。サイトを実見しないで、アベルの情報だけで動いていたのが愚かであった。ここは手を附けてはならない。一切合切駄目だ。入植したアメリカ人、つまりヨーロッパ人でもあった人々の影が土地に棲みついてしまっている。壊れた巨大な工場跡にも影が動いている。

 ここにパビリオンを作ったり、インスタレーションで飾りたてたりする事はならない。サイトを見ずして妄想をたくましくしていた我身が情けない。流石のアベルも、私がここには何もしないぞと決心してしまったのを感じ取ったのだろう。ここは死んでる、と彼なりに印象を述べた。イキケのコンビニで買ったチリハンバーガーをほうばる。完全な空振りで、見事な位だ。

 土地に精霊が居るとしたら、まさに目の前にある風景の中に棲んでいるのだと、了解した。ここには近代の精霊がいるのだった。このサイトはこれからの未来にも永遠に近く、できるだけ錆びつかせ、自然に壊れるにまかせるのがよい。

 空振りもこれ位見事だと我ながら見事だった。チリ政府の歴史保存局の女性高官がとに角一度サイトを見て下さいと言ったのを思い出した。

 イギリス村の方も当然同様だ。これは完全なイギリスの小さな町が砂漠の中に再現されている。鉄道も機関車も風に吹かれて錆びついている。劇場、ホテル、病院も一式そろっている。
 仕方なく、ここに来た人も多いだろう、しかし勇気のある人々でもあった。こんな砂漠の中に蜃気楼のような町を作ってしまったのだから、大したもんだよ、よく頑張ったナァとつくづくと思う。タイの山田長政の作った村らしきとは大違いだ。
 筋金入りの入植魂だな。近代そのものだ。

 しかし、ここ迄来て、空振りして帰るのも残念至極である。どこかにパビリオン置くのに良いサイトは無いかと頭はグラグラと回転する。そうだ近くに古いインディアン達が描いた、ビック・ピクチャー、つまり地上絵があると聞いていた。ヤケクソだ、そこに行ってみよう。もしかしたら、そこならば「土地の尊厳」のテーマ地になるかも知れない。しかも、アジアとの共同作業地にもなるかなと、まだまだあきらめ切れないのでした。

 四〇KM近く走った砂と岩の山肌にそれは描かれていた。ここにも、鉄道の駅舎が廃墟としてあり、レールが近くを走っていた跡もある。

 この岩山のネイティブ諸君の絵は素晴らしかった。素晴らし過ぎて手がつけられない。聖域であることはあせっている馬鹿頭でも良く解った。

 アベルもう解った、サンチャゴに帰るぞ、
 「そ、ですね、それイイヨ」
 そんなに簡単に言うなよお前、と思ったが、ジィッと辛抱した。アベルが悪いわけでは全く無い。

 車をビュンビュン飛ばして、砂漠を駆けた。十八時十五分の便に間に合うからと、アベルもここが大空振りであった事は妙にすんなり納得している。二日間ここをリサーチしましょうといったのは誰なんだクソタレがと内心つぶやいた。しかし、馬鹿なのは俺だ。アベルではない。

 十七時過空港に走り込む。しかし、満席であった。他の便ランチリで帰ろうかと交渉したが、チケットが高価過ぎて合理的ではない。アベルが「車は二日分借りてまーす。」なんて言ってくれちゃう。車でサンチャゴまで二千KM走れるかよ、と思うもジィとこらえる。

 結局イキケに戻り、ホリディイン・エクスプレスに投宿した。二十二時過、夜食を近くのレストランでとり、二十四時近くようやく寝た


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 十月三十一日
 五時起床。床に紙を拡げてドローイングをする。十四枚組の大作をアッという間に描いた。昨日のネイティブの山に描いた絵の印象、他が強烈だったのだろう。プロジェクトは空振りだったけれど、いいドローイングを得たと、それなりに満足する。

 終了後、昨日からのメモを記し、今、八時四十五分。窓の外は太平洋である。海岸を歩く人もちらほら。今日は送られてきた日本の学生の課題を見てアドヴァイスを送り返す必要がある。
 しかし、昨日は大変な一日であった。

 朝食後、アベルと今日の飛行機便のチケットを取りにゆく。イキケの中心街にSKYの店がある。市の中央プラザ地下の駐車場に車を停めて、木のデッキの廻廊を歩いたりして、チケットオフィスへ。

 案の定、チケットは無いと言はれる。アベルは昨日はあると言っていたのにと叫ぶが、駄目なモノは駄目なのだ。アベルは他人を信じ過ぎる悪いクセがあるな。

 遂に十八時迄時間がポッカリ、ラテン的空白に陥ってしまう。イキケ・セントラルプラザに集まった露天商をからかっって歩く。何しろ時間はくさる程あるのだ。

 ペルー人のグループが街路で仲々いい音をかなでていたので耳を傾ける。DVDも買ってしまった。エイとばかり、色々と買い込む。ガラクタばかりだ。

 行くところも無い事だしと空港に向ってしまう。十三時イキケ空港着。サンチャゴ便まで五時間のゆとりがある。アベルと無駄話しをして過す。

 只今、十五時、アト三時間程だ。サンチャゴの人達に今晩はコーリア料理でサヨナラ・パーティーをすることにして、その旨伝えて、少し眠る事にする。こんなに、眠らなかった旅は、ほとんど初めてのことである。よく体がもっていると思う。明日から帰りの旅も仲々のハードさだから、完全に用心体制に入ることにする。
 十八時十五分イキケ発。二十一時過サンチャゴ着。機内食は全てパス。

 サンチャゴ空港から、サンタルチアの丘、アルベルトのアパルトマン迄、乗り合いTAXI。随分時間を手間取った。
 アルベルトの部屋には何人かのサンチャゴで得た友人達が待っていた。

 イキケの件をディスカッション。考えた通りの事を率直に話す。その後、近くのレストランへ。
 深夜疲れ切ってベットに倒れ込む。

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 十一月一日
 九時起床。良く眠ったが、疲れは抜けていない。ボーッとした頭でそれでも帰りの旅の荷作りをする。沢山の本やらで重くなった。今日は夕方迄休みたかったが、アルベルトがどうしても見せたい処があるという事で遠出をする事になった。

 十一時グアダハラの会議で知り合ったビンセント氏と彼の設計した建築大学で会う。中庭と地下をうまくデザインしている。今日は休日らしく小さな息子を連れてきた。道路の向いの建築と、彼の師匠筋にあたるチリのリーディングアーキテクトの設計した医学部を見る。これは、仲々良かった。二川幸夫の知り合いだそうだ。二川さんも本当に良く見て回っているな。グレージングを使い抜いて地下に光を執拗に取り込もうとしている。

 三つの建築を歩いてみて廻り、いささか疲れたが、サンチャゴの南の都市バルパライソへ向う。ブドウ畑が拡がるなだらかな丘を走り抜ける。一時間チョッとで大きな港町バルパライソに着く。風が冷たい。

 荒々しいリスボンのような感じの町で、坂が多く、ケーブルカーも多い。二百メーター程のトンネルをくぐって、エレベーターで見晴らし塔に上るという珍しい装置があったが、トンネルの入口が閉じられていた。リスボンのギュスターブ・エッフェルのエレベーター・タワーを思い出した。

 丘の上の見晴らしの良いレストランでビールを一杯。猫があお向けに眠っていて、世田谷村の白足袋ネコを思い出した。チリ最大の港町のようで、湾内には海軍の船も数隻停泊していた。

 アベルがしきりに、ロマンチックですと言うが、でも荒れているナァと思う。家々の壁や屋根は波板鉄板にペンキが塗られたものも多い。市庁舎はグレーに塗られた完全なコロニアル様式。チリの都市の建築は考えてみれば全てコロニアル様式だな。

 バザールが圧巻であった。大きな四階建の石造建築の中に吹き抜けがあり、天井はガラスのトンガリ屋根。吹き抜けには二重らせんの階段がある。内部は荒れ切った廃墟状で、しかし売店やレストランが散在している。ブレードランナーの映画の中に迷い込んだ感じである。屋上からのバルパライソの全景は素晴らしかった。

 ケーブルカーに乗る。車輪は木造で床の隙間から下の急坂やレールが見えるのだった。丘の上には露店が並んでいた。100ペソ有料公衆トイレ使用。大きな見た事のないV型平面二人共用小便器であった。チリでは連れ小便が多いのだろうか。実に堂々たる小便器であった。

 湾の対岸の豪華な高層アパートが建ち並ぶ保養地らしきに行く。ビーチには海水浴、サーフィンに興ずる人々が多い。遅い昼食をとる。バルパライソを一望の許にする魚料理屋で、甘エビ、アワビ、イカ、各種貝類がとてもうまかった。アルベルトの気使いが身にしみる。

 サンチャゴに向けて走る。カサブランカを通り過ぎドンドン走る。サンチャゴに十九時到着。休む間もなく、十九時半アパートを発つ。サンチャゴ空港二〇時着。お茶を飲んでお別れの打合わせ。

 定刻通り二十二時十五分サンチャゴを発つ。グアダハラのフォン・ポンセにチリワインのおみやげを買った。彼にも大変お世話になったから。サンチャゴのアルベルトにも世話になり放しであった。アベルもよく頑張ってくれた。アベルはチリに残してきた。彼はサンチャゴで色々としなくてはならぬ事が多い。

 飛行機に乗ったらすぐにブッ倒れる如くに眠った。五時間程眠り、今チリ時間四時過で、メモの続きを記し終えたところ。あとダラス迄四時間チョッとの飛行である。本当にマア、よく走り廻った日々なのであった。

 R341
 十一月二日
 ダラス迄あと四〇分。機内では実によく眠った。空に大きく光る星があったが、南十字星だろうか。

 七時前ダラス空港D 34 番ゲートで休んでいる。九時スケッチ二点描く。今度の旅行では沢山描いたな。十時ニ○分グアダラハラに向けて離陸。グアダラハラ迄二時間半の飛行である。

 昼前グアダラハラ着。フォン・ポンセが約束通り迎えてくれた。市内の最も古い教会を案内してくれる。次に、ニ十三階建の建築の最上階に上った。グアダラハラ全体が良く理解できた。アルフレッドが会いたいというので、彼のオフィスに行く。彼はすでにパンアメリカンゲームズ会議の次のステップに考えを進めていた。それでグアダラハラの全景を見せられたのだ。
 グアダラハラ駅から2KM程の長さのセンター地域のマスタープランを作れと言う。会議に呼ばれた連中の中から、幾たりかがピックアップされて、パンアメリカンゲームズに関連した都市改造の、それぞれの案を作る事になっていた。私の研究室が割り当てられたのは、国立ライブラリーを含めた中枢のメディア・コミュニケーションゾーンであった。

 アルフレッドのオフィス近くの日本食レストランでスシランチ。メキシカン・スシだったが、アボカドが旨かった。ほとんどのメニューがMAKI寿司なのであった。グアダラハラのパンアメリカンゲームズに対面した都市改造のプランの相談が続く。

 多くのデータを渡され、説明が続く。政府の同意もすでに得ているようだ。食後、フォン・ポンセ、アルフレッド事務所のスタッフと石山研に割り当てられたサイトを歩く。

 アルフレッドのパートナーのハバナからきた男は、誠にアクティブな奴で、キューバに関心があるんだと言ったら、次はカリブをやろうと、言った。

 二〇時過フォンとディナーに出掛ける。色々とレストランを巡ったが、どうもピンとこない。結局先週通った庶民的な処へ。最後のメキシコでのディナーだから少し計りテキーラでもやるかと思うも、体が受け付けない。マ、二週間変な英語でコミュニケーションよくし続けたと思う。言葉疲れだなコレワ。

 少々ふけた二人の男のかなでるギターが、コレが疲れた体に良くしみた。再び、夜のバラガンの教会を訪ねて、メキシコにお別れとする。二十四時、荷造りをして眠る。

 R342
 十一月三日
 四時、電話が鳴って飛び起きた。不覚にも自分で目覚めることができなかった。フォンがロビーからコールしてくれた。五分で身支度をすませ、下へ。すぐに車で空港へ。二〇分弱で着く。早朝は道がガラガラだ。

 チェックインを済ませ、フォンから再び入念なグアダラハラの資料、特に私の受け持ちになったサイトのレクチャーをコンピュータースクリーンで受け、その全てのデータを渡される。この仕事がうまく進行したら、彼をTOKYOに呼んで担当させようと決める。

 只今定刻通り、コンチネンタルエアラインの小型ジェットは八時半過離陸するところである。朝焼けの空が美しい。

 朝もやの中をヒューストンに向けて飛びながら考えた。予測していたことではあるが、私はラテンアメリカに実にピッタリな人間のようだ。考えていることが次々に実現に向けて動き始める。アッケラカンとして自然にそうなる。昔、岡本太郎がメキシコに一時のめり込んだ時期があったようだが、その感じは良く解る。自分は生まれた国をミスっているのかな。

 今回の旅はたった二週間だったが、思わぬ大旅行になった。グアダラハラ市のセンター、及びサンチャゴのWORKは一生懸命取り組みたい。体調もすこぶる良いし、気持ちも充実してきた。

 ヒューストン着、コンチネンタルNRT便まで五〇分の時間しかない。しかもアメリカの入出国のセキュリティチェックは厳しい。しかし、頑張って十五分前にE7番ゲートよりNRT便にチェックインした。まだ旅客が少し残っていて並んだ列の最後尾であった。何とかなるものだな。それでも、念のためにコンチネンタルグアダラハラ〜ヒューストン便の年配のスチュワードにヒューストンでの乗り継ぎに関して尋ねて、答えてもらったのは全て逆であった。旅の最後に再びラテンに出会ったわけだ。東京までは十三時間二十七分の飛行のようだ。

 機内ですることも無いので珍しく映画を見る。一番馬鹿馬鹿しいのが良いと考えて、ハリーポッターとスティーヴン・スピルバーグのトランスフォーマーを比べて、トランスフォーマーにする。宇宙からやってきた変身ロボットが二手に別れて闘うというもの凄い筋書のエンターテインメント。ようするにガンダム、エヴァンゲリオンをアメリカ式に翻案した映画だった。

 日本マンガの影響が露骨で、流石にロボットを「あれは多分日本製だ」「イヤ、確かに日本製だ」と登場人物に言わせているところがおかしくて笑った。今、ベーリング海峡を飛んでいる。向かい風が追い風に変化して揺れている。パイロットが高度を二百米程上げて乱流を避けている。

 ファンタジーとSF仕立てのスーパー漫画が映画世界で大当たりのようだ。映像世界にコンピューターが入り込んで、リアルな世界からの越境が容易になったからだ。しかし、筋書きは随分単純過ぎる。と言いつつ、トランスフォーマーは英語ヴァージョンと日本語の奴を二回見てしまった。もちろんハリーポッターも見てしまう。

 シベリアの雪原上を飛びオホーツク海に出る。あと3時間弱で成田に着く。
 十一月四日十四時五〇分成田着。眠い。


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