DAILY NEWS WASEDA BAUHAUS SCHOOL in SAGA

3月19日日曜日

公開講座、開かれる

スクールの意義、広く一般へ提唱

早稲田バウハウス・スクールの活動を、特に地元佐賀の県民の人々にプレゼンテーションする重要な行事となる公開講座が、昨18日9時から12時30分までアバンセのホールにて開催された。講師は早稲田大学教授(都市環境工学)の尾島俊雄氏と石山修武。それぞれ「21世紀の都市環境」「生活と技術」という演題のもと、スクールが佐賀で開催されることの重要性や将来へ向けてのヴィジョンなどを語った。
会場には多くの一般の来場者がつめかけ、受講生を含む聴衆は約200名に上った。

青木茂氏来校

昨18日15時、実習場に建築家の青木茂氏が訪れ、自らが「リファイン建築」と銘打つさまざまな建築の保存・改修の仕事についてレクチャーされた。氏はまた、長崎街道沿いの建築再生計画の課題に取り組む参加者たちの相談にもフランクに応じておられた。

道化師の筋金入りの狂気
石山修武の狂気を支える二面性 ─<求道者>難波和彦

石山さんのレクチャーを聞いてると、脳随のさまざまな場所で火花がとび、かき廻されているような感じになる。今回のレクチャーはいつになく力がこもり、刺激的だった。昨年末から今年にかけて、ギャラリー・間で開催された石山修武展でも、その巨大なエネルギーに圧倒されたけれど、今回のレクチャーはその展覧会をさらに拡大し、個別的なプロジェクトをネットワークして、一つの壮大なヴィジョンに構造化させようとする「意志」を感じた。しかしそれは冷静で計算された意志ではない。誤解を恐れずにいえば、それは狂気を帯びた意志である。レクチャーでは膨大な数のプロジェクトを見ながら、誰もが「どこからこれだけのプロジェクトをこなすエネルギーが出て来るのだろう」と感じたに違いない。ぼくの考えでは、それは石山さんの中に潜むヒューマニズムではないかと思う。しかしそれは通り一遍のヒューマニズムではない。狂気を帯びた得体の知れないヒューマニズムである。
石山さんは何度も「アンチ・モダニズム」を主張した。それはぼくの仕事に対する強烈な批評であろう。しかし一方で、石山さんはヴェニスの呼鈴について話しながら、標準化された工業製品の新しい可能性についても提唱した。それはぼくの仕事に対する連帯表明にも思えた。ぼくの見るところ、石山さんの仕事には、つねにこうした二面性が潜んでいる。
もう一つ忘れてならないのは、石山さんが提示する特異な歴史観、とりわけ技術に関する歴史観である。石山さんは、新しい技術のあり方を「開放系技術」と呼ぶ。それは地域に根ざしながら、しかも普遍的な国際性を持った技術である。石山さんはそれを、近代を支配した大量生産技術に対峙させる。しかし一方で、石山さんは、近代技術の成熟によって生み出された高度情報技術を、自らの技術系の中に取り込もうとする。ここにも技術に対する石山さんの二面性を見ることができる。
もう一つ例をあげよう。石山さんの仕事にはキッチュやステレオタイプが積極的にとり込まれている。それは装飾を排除したモダンデザインを見慣れた眼には神経を逆なでされるようなデザインである。しかし石山さんは、キッチュやステレオタイプに対する嫌悪と批評性が埋め込まれている。ここにも石山さんの二面性を見ることができるだろう。
石山さんを突き動かしているのは、こうした錯綜とした二面性、哲学的に言うなら、「弁証法的な矛盾」である。
建築や都市のデザインはきわめて社会的な仕事である。それに対して石山さんは「都市のデザインは時間をかけたインスタレーションにすぎない」と言い放った。この発言に何人の人の眼から鱗が落ちたのだろうか。石山さんの中に潜む二面性は、日常性の中に非日常のくさびを打ち込み、日常を祝祭化しようとする。それはまさに道化の仕事であり、それを支えているのは狂気を帯びたヒューマニズムである。求道者と呼ばれたぼくが石山さんに惹かれるのは、石山さんのそうした道化性にほかならない。

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