3月23日木曜日PREV/NEXT
各々の実力、あぶり出される
年齢別中間講評会にて、赤裸々に今期の中間講評会が21日10時より20時30分まで、休憩をはさみながらも約10時間にわたって行われた。参加者たちは年齢の高い方から順に発表、石山修武と古谷誠章氏が担当し、作品のレベルに従って逐次講評を加えた。時折若年層の中でも群を抜く作品が現れたものの、全体に経験者と学生の水準の差がまざまざと浮き彫りになり、各々自分の実力を実感した。
当日はまた1週間コースの参加者の最終日にもあたり、将来計画の相談も繰り広げられた。ミジンコが開く鍵
―古谷誠章今まで、正直なところ佐賀で何をやっているのか詳らかには分からなかった。早稲田には学年200人もの学生が置き去りにされているし、不夜城のはずのこの時期もぬけの殻である。確かに昨年来のギャラリー・間での展覧会の、会場を支配する錯乱した想像のエネルギーからは、ただならぬ鬼気が放散されていて、そこにある片鱗を見たつもりではいた。
実際にやってきた佐賀で、僕はまだ序の口を覗いたに過ぎないが、はたと合点の行ったものがある。ここでは石山さんは“思い切り”やっているのである。度々口にする「この学校はそういう学校だ」という教育の理念だ。教わろうとしてやってくる者と、教えようとして(実は教えることで教わろうともしている訳だが)やって来る者とが直接向き合っているという実感がここにはある。何度も話したことのある内容なのに、こんなに緊張しながら講義をしたのも昨今稀なことであった。ここには教える者にも厳しく課せられた命題がある。「話すたびごとに、そこから新しい真実を見出そうとしているのか」。
最初は大勢いるが、段々人数が少なくなって行き、課程を全うして最後までやりとげる者はごく一握りの人間になる。実社会では全く当たり前であるこうした事態が、学校の中で平然とおきることは、日本では滅多にない。今の教師と学生の関係の中でそんなことを強行すればさし障れることばかりだ。ここでは多分きわめて自然にそんなことが起きる。最も最後まで行き着かないということも、これは単なる脱落を意味するのではない。この学校の課程を完遂することだけが目標ではないからだ。自らの方位を見定める契機とし、離脱を大いなる決別に置きかえることもまた本人次第ということになる。教わる者にも教える者にもこの自覚的振舞いが要求されている。
坂田明さんと同日に教壇に立てたのは甚だ幸いであった。「国際化」したはずの現代社会は次の世紀には、真に「民族」の葛藤の時代に突入すると言われている。坂田さんはきわめて平明にしかし鋭くそれを直言(直演?)された。民族とは何か、また民族を超越するものは何なのか。唐突とも言える“ミジンコ”にも「その都合」という言葉に象徴される固有の宇宙があって、しかもそれは僕たちの凄むこの宇宙とも完全に重なり合っているという事実を痛快に説き明かした。さらにその先に見えてくるもの、これを各自がおぼろげにもイメージできる想像力を持ち合わせられるかどうかに、未来への鍵がある。
ISHIYAMA LABORATORY