2010/9/3

第六回 プロポーション

本計画のスタートとなったコラージュのスタディは、シニシズムへと向かう建築に対する批判でありながら、大衆芸術のキッチュ性・想像力の批判に対する限界でもあった。

ここで、今までの形態スタディを振り返ってみる。

建築的でない建築のスタディ。

 まずはシニシズムに反するべく、笑い・親和性を目指して建築的でないアプローチを考えた。建築的でないというのは、プランを考えないこと、エクステリアから考えていくこと、デザインを建築以外のものから参照するということである。

建築に近付けていく為のスタディ。

 次に建築に近付けていく為に、プランからデザインを行った。ここまでが前回までのスタディである。プランの機能性には、建築的美学はない。そこで今回はプロポーションについての考察を行った。建築そのもののデザインを参照し、寸法・数値・形態の美しさを考えていく。

プロポーションとは、建築史の中で脈々と受け継がれて来た共通言語、美学のひとつである。この共通の美意識こそが、建築を建築たらしめている。

なぜならばデザインというのは、それをする個人の発想に根ざす、個人の趣味趣向の表れであると考えられるからだ。デザインを建築以外のものから参照したとき、それらのスタディは図らずも私の個人的趣向を反映した。デザインを建築に近付けていくスタディとは、個人的な世界にあったものを、共通言語のある世界に送り出す行為であったと考えられる。本計画の目指す親和性のあるデザインとは、さらに広域の共通言語、美学を模索し、デザインを拡張していくことなのかも知れない。(S.M)

2010/9/3

一球一脚(4)・母の部屋 コーナー家具

今回は母の部屋のコーナー家具として一球一脚を展開していく。

天高が2400mmであり、そのうち上部600mmが物入れとなっている。

一球一脚の時には、上部が球であることが前提であり必然的に脚の部分に焦点をあててデザインを試みていた。

対して、母の部屋では大工さんによる手作業、組立て可能で持ち運べることなどの条件がありデザインを必要最低限にする為、上部600mmの物入れに焦点を当てることにする。


複数のカタチが考えられる。それらを一つ一つの図形として捉えるのではなく、一つの図形が変化しているのだと考えると、左上のコマ送りのようなアニメーションが生まれる。それらを積層させると球体に近づき、一球一脚の球の部分であると捉えることが出来る。物入れとしての具体的な機能があるので、球の一部分を今回のコーナー家具として顕在化させているイメージである。(Y.K)

2010/8/20

一球一脚(3)

「百鬼夜行絵巻」のヴァリエーションである「百器夜行絵巻」が生まれた背景について少し詳しく触れてみる。

「江戸時代には、数多くのものを収集し、名付け、分類し、陳列して一望するという博物学的思考あるいは嗜好の在り方が、とりわけ都市の住民のあいだに広がっていた」(「妖怪画の系譜」より一部抜粋)とあるように、この頃の妖怪画は博物学と結びつけられて論じられる事が多い。

「百器夜行絵巻」もこれらの影響を受けた一例であり、「百鬼夜行絵巻」の特徴である妖怪の群れや行進にかわって、自己完結的に一つ一つの妖怪を描き出す図鑑的な表現をとりいれている。


『画図百鬼夜行』にて妖怪絵師としての地位を確立した鳥山石燕の後年4作に着目する。これらは江戸時代において妖怪が図鑑化されて行く流れをみることが出来る。

名前と妖怪を一対一で対応させた『画図百鬼夜行』に始まり、次作ではその妖怪がどのような特徴を持っているのかの解説文が入る。3作目『今昔百鬼捨遺』では唯一色彩版があったとされる(説がある)など、さらに妖怪を具体化することで現代の図鑑的表現に近づいて行く。そして、最後に刊行されたものは鬼を器と読み替えた、石燕オリジナルの百器である。

石燕は付喪神や漢書、『徒然草』を参照しながら器物の妖怪を創作した。 百鬼夜行が仏具や武器など庶民になじみのない道具の妖怪ならば、百器夜行は箒、杵、箕、すり鉢、石臼、桶など身近な生活の道具の妖怪である。

百器が対象としている道具を大きさ順にならべ、前回のスタディ2と組み合わせたものが上図である。

小さい鈴から始まり、石臼の大きさまで並べたこの流れの延長線上に、小屋スケールのものをデザインしていきたい。(Y.K)


2010/8/20

第五回 プランを立体化する

プランをダイヤグラム化して、特に動物の動線・人間の動線を整理する。

それを今回具体的に決まった敷地にあてはめてみた。


いくつかのパターンのプラン(A,B,C)をもとにシリーズごとに形を立体化させる。

動物の宿泊場所、外階段、倉庫などを中心にデザインで遊び、その他の部分はあえていわゆる病院の形を意識して立体化させた。(S.M)


2010/8/5

第四回 建築的でないこと

今回作成した物は、上記4つのボリュームである。

Aは箱の中から動物がでてくる、Bは箱の隣に動物がいる、Cは動物の中に箱が収まっているパターンである。さらに、それぞれからのぞいて顔を出す形態を意識した。上記写真の明るくなっている部分を開口部とし、実際に動物達が窓から顔を出す事を想定している。

しかし、今回のスタディはまだ建築であろうとしすぎているとの指摘を受けた。

例に挙げられたのが、先日完成した貴志駅の新駅舎である。猫のたまを駅長としたユーモラスな電車復興計画は、本計画が見習うべきところであり、またこれだけの人々の関心を集める「わかりやすさ」は本計画に不可欠なものである。

一方、現在上海万博にあるマカオ館もまた動物(ウサギ)をモチーフにしたデザインとなっている。両者の違いは、貴志駅のたまは眼が窓として機能しているのに対し、マカオ館のうさぎの頭としっぽは気球であって、内部に空間のない装飾としてとりつけられている点であろう。

そこで前者を参考とし、建築とわかりやすいデザインとのバランスを図りたいと考えるわけである。ここで、「動物が公園を覗いている」という建物内部での動物の行動が、その間をとりもつのではないかと期待して、次回のスタディに進む。(S.M)


2010/7/31

一球一脚(2)

上記はミーティング時に提出したスケッチである。水木しげるの妖怪をコラージュすることで20脚のデザインを行った。

これらの中では3枚目の絵が面白いとの指摘があり、以下になぜそのように感じるかの考察を行っていく事になった。


一つ目は、沢山のコマが連続しているということにある。

前回のミーティングの中で流線型+幾何学を組み合わせてデザインせよという指示を受け、今回スケッチでは動きのあるカタチを出すことを心掛けた。しかし、いくら動いているカタチをだそうとしても、紙面上に捕らえてしまった時点で動きは封じられてしまう。 そこで北斎漫画において用いられているレイアウト方法を意識した。このことにより、一枚の紙の中に動きが生まれる。しかしレイアウトとしての面白みが増す一方、この20脚の中から一脚を選ぶということは難しくなる。それは20脚を一連の動きと捉えているからこその面白みは、20脚を同値に扱い、一つ一つの良さに目を向けるレイアウトではないということなのだと思われる。

二つ目は、タッチの違いである

書道用の筆を使用した3枚目は動いているように感じるが、画像をコラージュしたものは静止しているように感じる。筆の方が勢いがあり自由そうだ。

例えば書道用の筆においても1mm単位で穂の長さが違い好みがわかれるように、確かに描くもののタッチは絵に影響を与える。


以上の2点をかいていて、ふと、与条件に対して無意識に、“動き出そうとする”カタチを描こうとしていたのではないかと気付く。水木しげるの妖怪よりも北斎漫画の方が良い理由があるとするならば、あらゆるものが映像として届けられる今の時代に、即しているという点だろう。映画のコマが1秒24コマで構成されているように、北斎漫画も一連の流れをコマとして分割し表現していた。

“動き出そうとする”ということは、次に何かが起こるかもしれない!と見ている人各々に その先の想像の余地を与えるということになる。 その“想像の余地”をつくることこそが一球一脚デザインの上で重要なのかもしれない。(Y.K)


2010/7/31

第三回 建築のシニシズムについて

本計画では、明るいユーモアをデザインの主題としようとしている部分があり、その実例を見つけたいとも思っている。そうでないと先人達の作品にNOをつきつけることでしか、その方向性を見つけることができないわけであるから。

例えば、ヴェンチューリのギルドハウスは、非常にシンプルな老人のための家でありながら、老人のシンボルを巨大なTVアンテナとして表現したシニカルさを持っている。本計画で目指そうとしているものと、対極の冷たさではないだろうか。

私の家にも犬がおり、彼はよく窓の外を眺めている。時々ため息もつく。その為、私は犬も窓辺にあごをのせて、犬生を儚むのだろうなあと思っていたりする。そういうところからデザインのヒントを得たいものである。(S.M)


10.07.29

第二回 のぞいてみること (星の王子様のひつじ)

前回は、ものがたり的側面からのイメージスタディを行ったので、次により具体的にしていくための形態のスタディを行った。

1つは直線(=人間)と曲線(=動物)の組み合わせに対する分析、もう1つは動物と人間のスケールの違いの重ね合わせに対する分析である。


本日、直線と曲線の組み合わせの中で、それらを垂直方向に組み合わせた物(1-C-2)を選択し、より現実的に落していくようにと指示を受ける。

そこでのぞくという行為に対する作り手の限界と、子供が楽しむというこの計画の目的について以下に私なりに考察していく。

私は本日のミーティングまで、曲線が直線に隠されてしまう形(ex.1-B-B)を選択しようと考えていた。

なぜならば子供の想像力とは、星の王子さまが描いてみせる「箱の中の見えない羊」のことであって、それは外側の直線の壁から内側の曲線の壁の一部を「覗いてみる」事によって示唆できるのではないかと考えたからである。

このような覗く行為と観客の想像力への問いかけは、既にマルセルデュシャンの遺作「(1)落ちる水(2)照明用ガスが与えられたとせよ」、ハンスホラインの「サングラス」などにも見られると考えられる。

しかし、これら覗くことには美術だからこそ成り立つ限界がある。つまり、これらは見る側の人間の想像力に因って成り立っていて、一般性がないのだ。そしてそれはつまり、「子供に分かる」という本計画の方向性と異なるということである。

前回のstudyの成果物に対する否定は、イメージを与えすぎること、つまり箱の中の羊をはっきり目の前に差し出してしまうことであると同時に、建築を学んできた私なりの直観、趣向としての否定でもあった。

建築には、建築の歴史、論理、美学が存在しておりそれらは尊重すべきものである。その中で、建築に対してもし批判を行える事があるとすれば、それらの枠組みに対して、建築はあまりにシリアスであるということになろう。そのシリアス傾向は、現在デザインをしないデザインという1つの傾向を導きつつある。

本計画で目指そうとしている「子供に分かる」デザインというのは、このような建築のシニシズムに対するアンチテーゼなのである。ここで求められるのは、勿論前回のstudyでとりあげたような、与えすぎるデザインでもなければ、覗く行為の様なわからなさでもないのである。それは挿絵には表われない、ドリトル先生に描かれる想像力の世界のはずである。

それをいかにして、表現することができるのか。今回のstudyの成果物1-C-2を通して考えていこうと思う。(S.M)


2010/7/29

一球一脚(1)

参球四脚のシリーズとして、一球一脚を考えていく事になった。与えられた条件は以下の4点である。

1. 美術品にしないこと

2. 家具にしないこと

3. 工芸に近づかないこと

4. ユーモラスであること

すでに展開されている参球四脚の流れをふまえて提案していく為に、まずは私の中のイメージを膨らますことにする。

農民画家と呼ばれたブリューゲルは、見た事のあるかたち同士を組み合わせる事で、不思議な生物を描いていた。 この方法は上記の条件を満たす為の一つのヒントになるのではないか。


与条件である「ユーモラスな椅子」について考えてみる。 岡本太郎の「坐ることを拒否する椅子」の容姿は、水木しげるが描いた「土用坊主」という妖怪に似ていると捉えてみる。両作品の共通点は“なんとなく知っているような気がする”という、誰もが何かを連想する容姿だからなのではないかと仮定する。

左図は「水木しげるの妖怪伝 大画集」という本に出てくる妖怪の簡易分類を示している。 水木しげるの妖怪の中でも“2種以上のものが組み合わさっている妖怪”に焦点をあて検証していく。

簡易スタディ@は、1つ脚の妖怪をそのまま椅子にしてみることで近代的な椅子という概念にとらわれない椅子を考えようとしたものである。 しかし2種以上が組み合わさることでできたちょっと不思議な妖怪を、ひとつの造形物とみなして変形していくことは折角のユニークさを失ってしまうのではないか?という疑問にぶつからざるを得ない。 次回からは、2種以上のものを組み合わせた妖怪をつくるように一球一脚の造形をしていくことを目指す。(Y.K)



2010/7/27

第一回 イメージの限界 (トトロのトイレ)

現在、都市の中で有効に活用されていないと考えられる児童公園に対し、公園と動物病院をコネクトした新公園の提案を行う。 動物世界に対する想像力をきっかけに、動物と人間を仲介する建築を考える。子供の持つ想像力、子供が楽しむ建築を念頭に設計を行い、そのプロセスをここに公開する。

まずはじめに、公園と動物という2つのキーワードからイメージを探し出し、形にするためのスタディを行った。 studyAは、舞台背景や絵画からイメージを抽出している。公園から連想されたcatsやwestsidestory などの背景に、ロートレックらの描いた猫のイメージをコラージュし、最終的にそれらのイメージをシャドウとしてとりだして、立体化を行った。 studyBは、本計画の基本イメージであるドリトル先生シリーズの挿絵をコラージュしたものである。それぞれ独立した場面の挿絵の間を繋げていく事によって、新しい1枚の絵を描いた。それをさらに模型化することで、私の中のメルヘン、物語のイメージをとりだした。


これら2つのstudy結果を上記のように並べてみる。3枚目の写真は東京都杉並区に復元された、宮崎駿監督デザインの「となりのトトロの家」風のトイレである。これら3つの絵が示すのは、クリエイター達の想像力の限界といえよう。 これらは総じてどこかで見た様なイメージであり、そのデザイン云々以前にある種のノスタルジーを感じさせる。であるから、多くの人にとってこれらは納得されやすいイメージとして共有され、共有されるが、けしてそれ以上にはなれない。星の王子さまは、帽子に象を飲んだうわばみを重ね合わせてみせるが、これらのイメージは依然帽子のままなのである。 本計画が目指すべきは子供の想像力の実体化、子供が面白いと思えるカタチ、であるから、私は今回のstudyによる成果物は、HPを通して一度否定をしておくこととする。 次回はより建築的な形態のスタディを行う。(S.M)