(渡邊大志)
2015年10月14日 石山修武
(佐藤研吾)
2015年10月14日 石山修武
(渡邊大志)
1、それで先ずは君の何の役にも立ちそうにない観念性のドブを、先ずは埋めなくてはいけないと考えた。大事なトコロはコレもわたくしの観念性の中のアナロジイである。
2、井伏鱒二の山椒魚を思い起こされたい。臭気ただよう汚泥の水に棲息する巨大な山椒魚を。どうもたしなめるつもりがアブハチとらずとなり、わたくしもアナロジーのドブに沈みかかっている。日本人の作家は分野に関わらずとどうやらそういう嫌いもあるようだ。一神教であるキリスト教の一軸的構造性への希求とは異なる多神教、つまりより自然の構造を肯定する深層の住人であるからであろう。
3、イエールで会ったイフェイは漢字の「馬」をアナロジーとして引用する初歩的手法を構想していた。中国からアメリカへの留学生であったから、その出自も含めて自然であった。彼女の「馬」の書体(普遍的漢字世界)は建築の特に大規模な平面形を導き出すのに便利であった。モノの形ではなく、大きなスケールのランドスケープの初歩的足がかりとして、イフェイは馬の字の躍動感つまりは「動き」を足がかりにしようとしていた。良い資質の持主なのをすぐに了解した。彼女は大学院のスタジオの指導教授の恐らくは西欧的積分学の分析らしきをコピーしていたが、「馬」の書体のアナロジーはより、そのナショナリティからして明快であった。西欧には漢字の如き表意文字はなく、全てが表意文字の類であったから、文字、書体がデザインに結びつくというような高度な観念は生まれなかったのだ。全ての表意文字はデザインの母体にもなり得るなと、わたくしはイフェイから教えられた。
4、イフェイ・チャンの「馬」の書体からのアナロジーは君の「森の生活」「開放系技術」の引用とは水準が異なる。
そこに「馬」という視覚的な、しかも高度な抽象性をも帯びた字体に対する関心とは距離がある。
5、これも今は昔、大学院のゼミナールでわたくしは特に女学生たちに漢字ならぬ、ひら仮名文字(女性の書体とされもした)の形の勉強したらと言った事がある。ひら仮名文字の出現は日本文化の重要なポイントである。
君の「美学」らしきをわたくしは尊重する。俗に言えば弥生的な、更にそれが更新された王朝文学的な趣味らしきを面白いなと思ったりもする。
日本の近代建築様式はすでに丹下健三によって大枠が生まれ、堀口捨巳、村野藤吾、吉田五十八等によって相補され尽くしている。更に今、(現代)はそれに資本主義の自動生成であるグローバリズムが完徹の域に達し、固定化している。
君のような創造力の形質の持主は先ずはそんな歴史的自分を自覚すべきであろう。
6、このドローイングは古いコラージュの考えをベースにしている。面白いかと考えられるのは君の手描きの初歩的アナロジーにかぶせられている事。毎日、世田谷村に送り込まれている手近なマーケット情報のコラージュである。もう仕方ない。これが現実である。
7、あのフェルディナント・ポルシェがヒトラーに命じられてデザインしたドイツの国民車フォルクス・ワーゲンが実に苦しまぎれな犯罪を犯した。排気ガス規制に対する偽のソフトウェアーをフォルクスワーゲン・ディーゼル車に搭載していた。
この事件はグローバリズムのほころびの始まりではないか。そんな考えがあり、余白に手描きでV・Wのブランドを描き込んだ。
つまり三重の遺跡状が描き作られている。
8、出来得れば、君達に依頼している現世田谷村の改築計画に於いては、先ずは、今やっているであろう様々な情報取得のフローを図示されたらどうでしょうか。君、および君達が得ている情報の回路を微細に検討すべきだと考えます。
2015年10月13日 石山修武
2015年9月28日 石山修武
2015年9月28日 佐藤研吾
1、プーラン族への仕事で面白いのは現代資本主義世界では考えにくい問題を考え得る事である。つまり考える主題が自由な未耕の地に描けるってことだ。
2、この事は、遠くはるかな山岳高地少数民族の仕事をする非資本主義的姿勢の根本的な性格である。まどろこしい言い方をしないでストレートに言えば、そんなに金にもならぬ、割に合わぬ仕事を何故するのか?の答えにつながる。
3、それは自分の中の自由が本来的にどんな形質なのかを知りたいからだ。自分の中の自由、すなわち創造力である。
4、社会の不自由から本来的な自由=創造は生まれ得ない。そして深度の深い自由は裸形の諸外的条件=環境から生まれるものだ。
自由を求める者は他者の中にも自由を、その発端の如きを視ようとする。幻視の甘いカスミを透過して直接的に視ようとする。
5、このスケッチは面白い。作者の中の自由への希求らしきを嗅ぎ取ることが出来る。女性と子供の家がその主題である。
6、スケッチに描き込まれている円形の群、そして気泡状の球体の中に人の姿が描かれている。そしてドーム状の天井にはおそらくはハスの花らしきの形が現れている。
7、むずかしい問題も顔をのぞかせている。ハスの花は、オリエンタリズムのシンボルの一つであり、仏教が生み出した諸々のアイコンの素の一つでもある。杉浦康平の仕事参照。
8、基本的にしかも深く近代建築様式はヨーロッパで生み出された。当然、キリスト教そのものと奥底で深い関係を持っている。ヨーロッパ生まれの哲学の歴史が同様にキリスト教神学と深い関係があるように。木田元の反哲学入門にその辺りの事が指摘されている。近代建築様式との関係はわたくしの知る限りではニーチェ研究者の思想によってそれらしきの端緒が切り出されているようだ。
つまり、仏教的世界はキリスト教的世界と歴然と異なる故に、ヨーロッパ哲学が仏教世界と相容れぬところがあり、ヨーロッパ世界においては異端とは異なるが明らかに異なる価値観を持つ世界と断定されやすい。
9、つまり、建築・都市世界はヨーロッパ世界の産物であり続けている。しかし、可能性はわずかなりともある。仏教的世界を禅から入る如くの方法の中に。
10、水泡状の中に人の姿があるスケッチは何処から生まれたのか?とても興味深い。スタンリー・キューブリックの2001年宇宙の旅のラスト・シーン、スターチャイルドだろうか?もしそうだとしたら更に面白い。アノ映像はアーサー・C・クラークの原作よりはるかに良い。そして仏教的世界、つまり輪廻の世界へと接近もしていた。
その象徴がラスト、気泡状のスターに包み込まれ、大きな眼で地球を視つめる転生したボーマン船長の生まれ変わりである、スターチャイルドだった。
11、今、述べているのは作者の発想力、方法の記憶力との関係についてである。どんな映像の記憶を自由自在に、とは言わずとも編集する能力に関しての。わたくしの関心でもある。
それは造形力の才質と深く関連する。形あるモノへの記憶力とその組み合わせ能力が造形力の中枢である。
要するに、このスケッチは母性に関する作者の一片のエンサイクロペディアだろう。
2015年9月28日 石山修武
左:佐藤研吾、右:石山修武
1、幸いにして、いささか年をとったわたくしの身近には教えがいがある人材が幾たりかいる。
実際の行動、創作の日々を介して彼等につくるヒントらしきを与えられたらいいなと考えた。普段、顔をつきあわせて話しも
しているが、話はどんなに賢い人間にも忘れやすく、流れやすく不安定なものである。それで彼等との実作を仲立ちにしてのスケッチ等のやり取りを素材にして、何がしかのヒント、あるいは疑問も交えてそれを記録に残そうと考えた。そして、全てではないけれど、そのやり取りをこうして、ウェブサイトに公開したい。
2、わたくしとは年齢も、それ故の経験も随分と開きがある人材とのやり取りになる。どう開けてゆくか、閉じるのかさえも今はわからない。前置きはこれくらいにして、早速、具体的に進めよう。
3、スタジオGAYAの佐藤研吾から本日(9月24日)3点のスケッチがわたくしに対して出された。二点は、今やっているプーラン族のための計画に関する女性と子供のための建築についてであり、もう一点はその計画地に入るためのゲートのアイデアである。
同じモノについてはGAYAのサイトにわたくしの作業が示されてもいる。
4、3点のうち2点はそんなに的を外していない。プーランの女たちと子供のための建築は続けてスタディするに値する。
5、始まりのステージで細部にこだわり過ぎるとつまづく。全体を話そうとするのはむずかしいが努力したい。
6、わたくしの「もの」作り=創作の中心軸(インフラストラクチャー)は「開放系技術」である。この考えを少しでも進めようとするからこそ、テンデバラバラなようにも視えるだろう様々な試み=表現を今もバラまいている。このサイトだってバラバラに視えようが、それだからこそ懸命につなぎとめようとしている。何に向けてつなぎ止めようとするか。それは自分自身の内に全体を視たいからだ。この自分自身は決して安手な私小説の如くの「わたくし」ではない。君あるいは、君達の中にも在るにちがいない自分であり、わたくしだ。創作は「わたくし」抜きにはあり得ない。「わたくし」抜きのそれのほとんどは「解説」であり、その高度なものは批評として昇華されてゆく。
7、わたくしの先生でもあった建築史家渡邊保忠から教えられた事の一つは、「作家論」は創作論の最高位なモノである。
8、それが磯崎新論を書こうとする前に「バックミンスター・フラー論」と「重源論」を書きたいと考えていた事の記憶の発掘作業であった。
9、この人、ル・コルビュジェと同じ位に複雑だったんじゃないかと、重源像と対面して考えたりもした。洋の東西があり、時代も異なるが重源はル・コルビュジェそっくりの顔であった。
10、新しい無駄、すなわちこの「建築から都市へ」を目指そうとする若い人へ、の新しい無駄を始めたのがそれである。本格的な無駄は全て面白く、実は為になるのだ。いつかそれぞれが生きているうちに。
11、「開放系技術」は「作家論」と対になっているという事を教えたかった。
これがわたくしの言う全体のフレームである。その他人であるわたくしの全体を頭に置かないと、これから始まる小さなクリティーク、あるいは妄言らしきは良く解りはしない。
12、女性と子供のための建築のスケッチには無意識だろうが、その全体への直角がある。そしてゲートのスケッチにはそれが希薄である。別の言い方をすればゲートのスケッチは建築という今の平凡を目指そうとしていて、もう一方はそれを抜けようとする意志らしきが見える。
13、この基壇のフォルムは「ひろしまハウス」のフォルムでもあるが、この小ささでは何の意味も無いだろう。それ以前にゲートにプーラン族の祭儀に出現する逆円錐形の竹によるフォルムを使おうとするのがこの考えの始まりなのだが、その始まりの大事さが、この基壇状の建築らしきで消えてしまっている。
14、これは簡単なようで困難でもある。難易度が極めて高い。あんまりベースらしくすると、竹の構造の軽さをそこなう。軽くフッと地面に浮いているのが良いだろうが、そのフッというのが実にムズカシイのだ。
15、ムズカシイからやってみたらどうか。ヤサシイ事は20代の君にはそれ程の意味はありはしない。
16、君がインドのバローダで視たそして体験した竹のドームを想い起こしてみよ。アレも面白い試みで中々良かったけれど足許が大失敗していた。と言うよりも何もアイデアらしきがなかった。この竹のゲートの総重量はバローダのデザイン・アカデミーの人々が考え、そして実際に作った竹のフラードームよりも軽いだろう。あの大きな竹のドームだって10人位の人間がかかれば持ち運べるくらいの重量であった。この軽さに着目したい。小さな建築程のある形が人間の手によって持ち運べることに。
17、もっと汗顔な基礎のアイデアが必要だろう。
インド・バローダデザインアカデミーでの竹のパヴィリオン
2015年9月25日 石山修武
2015年9月24日 佐藤研吾
2015年9月24日 石山修武
2015年9月23日 石山修武
2015年9月18日 石山修武
2015年9月17日 石山修武
2015年9月16日 石山修武
2015年9月09日 石山修武
2015年9月08日 石山修武
2015年9月07日 石山修武
2015年9月04日 石山修武
2015年9月01日 石山修武
2015年8月27日 石山修武
2015年8月17日 石山修武
2015年8月11日 石山修武
2015年8月10日 石山修武
2015年8月3日 石山修武