新 西遊記

世田谷村スタジオGAYA

作:石山修武
画:佐藤研吾
調査・研究:趙城埼 渡邊大志
注釈:渡邊大志 佐藤研吾


新西遊記 —西方の都市を巡る— はじまりの章 3

「その尼僧の話を誰からともなく聞いたのは西安の中心から少し外れた大雁塔と、格子状にビッシリと組み込まれた市街地の中、そこに小さな僧房があったのだよ。すでにわたしは年を充分にとっていたし、廻りの者はそれを知っていた。だから殊更に特別扱いはされなかったがね。大雁塔の近くには広々とした僧房もあったんだが、わたしはそこを好まなかった。何故か自分でも分からぬママに長生きをしてしまって、廻りの学僧達とは視てきたモノが全く違うのだからね。それで話が合う筈もなかったし、合わせる必要も全くすでに無かったんだ。
わたしはだから独人でいるのを好んだのだ。しかし森の中や、平原の独人はどうしても独人にはなり切れぬのだよ。
雲の流れや、風の音、陽光の変化もせわしくって、余りにも千変万化、とても眼を据えて何かを眺める、つまり観ずる、考えるって状態には自分を追い込めぬモノなんだ。
西安の城壁の外は実に広々とした原野だった。はるか遠くには青く山並みも連なっていた。馬車に乗ったり、裸馬に乗ったりしても、都市の外の山林に出掛けるのは実に容易なことであったけれど、あんまりそれを好まなかったんだ。その頃のワタシは。

だからな、今もそうなんだがワタシの毎日の生活は大雁塔と格子状の道の中にあった僧房との行き帰りだけだった。この丘の登り降りの繰り返しと何変わることもなかった。
ただ、その行き帰りの短い道すがら、それはそれは沢山の人間に会い、その話にも耳を傾けたのだ。そんな小耳から得たのは、実に途方も無い話も決して少なくはなく、交じっていたのだよ。
何処そこの豪族の頭目が殺されて、その身は引き裂かれて八ツ裂きされたとか、皇帝の寵妃が柳の木に吊るされてあえない最期を遂げたりの血なまぐさいのも少なからずあったさ。みなみな過ぎてしまえばささいな夢の如くさ。生身の姿を消した者も、消えてしまえば皆ハッキリとした形となり、物語だけが語り継がれ続ける。現実と夢は実に薄い紙一重だ。紙一重の薄皮だけがそれこそ無数に宙を舞い続けている。

そう言えば、大雁塔への行き帰りの網目格子の道を一人の若い僧がいつも急ぎ足で行来していた。何かにせかされているように何時も急いでいた。その若い僧は東の島からの留学僧らしかった。決して短くはない留学をアッという間に切り上げてな、沢山の当時流行の密教の経典やら、儀軌を集めておった。何処にそんな金があったのやら、タンカも多く集めておったようだ。
やがて、彼は東の島国へと帰った。そして島国の都に程近い山中に、恐らくは西安の写しと言うには山林の姿にまぎれた如くの小さな山上の都市を作り始めたようだ。チョッと興味があってワシは何度か身をやつしてこの赤茶色の僧衣の上に墨色のケープをまとい、その都市に出掛けてみた。
都市は山上の盆地状にすっぽり納まる小さなモノであったよ。八葉蓮華と呼ばれる山々の相にヒッソリと抱かれて、西安とはまるで異なる、おだやかな村の如くであったよ。
けれどなあ、その穏やかな山上の都市に作られた塔はワシの眼には随分とエキゾチックなモノであった。確か、名は大雁塔とは似ても似つかぬ根本大堂と名付けられていたようだ。一言で言ってしまえば、ホレ、そこに在るタンカだ。
タンカは自身を中心に据えて、外を観ずる。そして涯無い無限の空の最中に形象を観ようとする、自己の想像力の源らしきを観ようとしたモノさ。
観ずるに、眼に視えやすいように壁に掛けねばならない。それに時々、気持の動くままにそれを観ずる場所も変えねばならなかった。だから丸めて持ち運びできるような掛軸の姿形が一番だったのさ。
ワシの二輪車に乗せたオンボロ小屋と同じっていうワケさ。時に、自在に動くモノを介してモノは観ずるに足るになり得るだろう。しかし、人間は気まぐれなモノさ。
丸めて持ち運べる道具が一番だとの始まりは、やがて動かぬ荘厳を求めるようになる。自分の力が充実して、更に外の人々を充分に感化し得るようになると、サテハテ、自分が滅した後はいかがなるであろうの不安が生じるモノだ。
そして、丸められ、運ぶことの出来るタンカは立体化され、更に固定化されるようになる。これもマア、一種の力への信仰、ならして言ってしまえば権力欲のひとつなのだがなあ。
根本大堂と呼び、呼ばれた塔は、だから立体のタンカであった。更には中国風の木の塔、すなわち屋根の重なりの内に妙な、妙なると言っても良かろう、なまめかしい曲線の土饅頭の如くが入り込んでもいた。
塔はリンガのサヤ堂であるのは前にも言ったな。リンガは東の島国では亀腹と称する低い土饅頭に変化したようだ。あんまり、赤裸々なモノは好まれなかったんだろうな。
それで、この塔の面白いのはなあ、その土饅頭、ストゥーパみたいなモノだよコレワ。それが更に宙に浮かされて、持ち上げられて一層目の屋根と二層目の屋根の間に挿入されているが如くなのさ。まるで、リンガのサヤ堂にリンガの受け手でもある女陰の表象がサンドイッチされたの風がある。まことに、男性原理と女性原理、すなわち生殖の初源とも言うべきが形になり表されておる。人間のなす事はしぶといモノがある。

やがて学僧は東の島国の皇帝に覚えめでたくなった。自ら売り込みもしたのだろう。あれだけ、急ぎ足の男であったのだからな。
そうして西安の格子状の道を真似た都のかたわらに、そうさね、丁度、入口、出口に当ると言っても良い処に小さからぬ寺院と塔を建立した。
驚いたことに、つい最近だがね、ワシはどうなったのかと気になって再び、その寺院を訪ねてみた。
西安の西方の国々から寄り集まって、華やかな薄物をまとい、あるいは何も衣もまとわずの裸身の舞姫たちが、小さな小屋の中で裸踊りを踊っておった。
ここチベット高原と北京を結ぶ高速の乗物が近くを矢の如くに走り過ぎておった。
薄物をまとった美妃達はこんな形で再び姿を現しておったのかと実に不思議に思ったモノさ。東方の島国の男共は余程、裸踊りが好きな人々のようだな。ワシが生まれる以前のことだが、島国に一人の万能の女神がいたようだ。太陽の光を背負っていたようだ。それが機嫌をそこねて、洞穴の中へと身を隠してしまったと言う。天地は暗闇に包まれた。不吉な風がビューと吹いた。
人々は洞穴の前で、やっぱり舞姫に裸踊りを踊らせたそうだ。
洞穴に隠れた女神は何やら外が騒々しいと、洞穴からそっと外をのぞき見た。時を逃さず島国の人々は洞穴から女神を誘い出した。そうして再び世は光に満ち溢れたのだって。
島国の人々は余程、舞姫の裸踊りの効用を知り尽くしていたようだな。昔も今も。
チョッと話しが脇道にそれたな。ワシの話はいつも脇道が多いのだよ。
ワシがいたく興味をそそられたのは、そんな舞姫の裸踊りではないぞ。
チベット高原の冬は氷と雪の世界だ。とても薄物やら、裸踊りとは無縁なのだ。いくら修行を積み重ねた尼僧だって厚着をせんだったら凍え死んでしまうのさ。

そんなに古い事ではない。たかだか30数年の昔であった。
尼僧の名は誰も定かには知らぬ。
「氷の尼僧」といつとはなしに伝えられ、今にいたる。
尼僧はこの地に氷の僧院を建立したのだ。はじまりは、ようやく人一人、つまり自分が入り込め、そこに訪問者が一人だけ入れれば良いくらいのドーム型の氷のシェルターであった。小さなドームを尼僧は全て独人で成した。凍結して蛇行する川の流れのほとりに、それは作られた。」


新西遊記 —西方の都市を巡る— はじまりの章 2

BARRACKの丘の頂に在る、老僧の庭。丈の低い草がざわめく。まばらに花々も在る。毎朝3時に老僧は目覚める。口をわずかな水ですすぐ。
眠りについたのが、0時程であったから、眠りの時間は極度に短い。
とろりとしたチベット茶を一口。ドアを開けて庭に出る。星空である。
際限のない空の底が抜けた如くの虚空を昔、何度か飛んだような、浮遊していたような。
記憶はあるが、思い出しても仕方がない。今、老僧の居場所はこのゴミの山の頂の、ポッカリ空いた小さな庭しかない。
そして、庭に扉ひとつで通じる、更に小さな部屋。
部屋の天井は色光に満ちている。天井も壁も老僧が作り出した。
脳内風景の如くである。
脚を衰えさせぬ、そのためだけに老僧は丘を昇り降りする。天空の星のさんざめき、かすかな微光の中を昇り降りする。
ここは、ワシも生まれぬ太古、海の底であったはずだから、海底を昇り降りしてるもんだなあ。時に風がどこからか運んだとしか思われぬ、紙片やら、経文やら、写真やらが手に入る。それを、気の向くままに拾い集めて、天井や壁を貼り続けた。
何の目的も在りはしない。自在に、気持のあるがまま、おもむくままにそれを成した。
このチベット高原のゴミの丘に吹く風も又、自由自在。
チベット高原に吹く風は無数に近い位に数々の色や祈りの言葉に満ち満ちている。
人びとが風に見させよう、聞かせようと、旗や、小片の布をたなびかせている。皆、風に音を立てていたモノである。
風に見せよう、聞かせようとしたモノ達でもある。
老僧はその音の数々を聴くことができた。それ故に、老僧の部屋にも庭にも実に静かな、音のさんざめきが在るのだった。
全ての音も色光さえも皆、老僧の脳内に在って、秘かに響いていた。

老僧のかすかな、しかししっかりともしている記憶の中で、東の小さな島国では大乱があった。都は崩れ、倒壊し、路上には腐乱した人間の死体が放り出され、異臭を放ち続けた。野犬がそれを喰い散らし、鳥がむし喰んだ。
老僧はその全てを観た。そして匂いを嗅いだのであった。
そんな中で東の島国では一人の高僧が達観し得て、そして説いたのだった。
「山川草木みな響きあり」と。
そんな地獄の如くの光景の中で、東のちいさな島国では巨大な仏教寺院が建立された。
かつて建立されていた寺院が倒壊したものが建て直されたのであった。
大乱の余まだ冷めやらぬ逼迫した空気の中であった。
「人間は愚かな者よ、大乱が続き、人は朽ち物も皆、ことごとく倒れ、腐臭をたてるまで、そんな事に気がつかぬのだから」
老僧の膨大な記憶の大方はそんな大乱の最中のモノであった。東方の島国では、それがあきること無く、何度も、何度も繰り返されたのであった。
老僧はアッケラカンとして独人ごちる。
「何処(いずくも)同じ事よ。 ここも、又、そのような運命にあるだろう」

チベット高原のゴミの都市、一見、平和で安隠なようだが、すでに腐乱の臭いがあった。これは大乱のきざしである。

老僧がここを初めて訪れたのは厳しい冬の季節であった。ここは雪と氷に覆われていた。ここから北方へ遠い都西安からやってきた。
老僧は大雁塔と呼ばれる大塔で修行三昧の日々を送っていた。大雁塔は僧玄奘が西方の大学都市ナーランダから大部の経典を持ち帰り、納める為に建立された。堂々たる土と石の大塔である。
西安は昔、長安と呼ばれ西方の土地への出口でもあり入口の都市でもあった。老僧がかつて束の間の時を過した、東方の島国からも、少なからずの学僧、老いも若きもが労苦をいとわず訪れていた。都市の姿は灰黒の重苦しいものであったが、路上は生命の坩堝の如くではあった。
仏教のみならず景教、ゾロアスター教の神々までもが軒を並べていた。異国風の歌舞音曲が路上にまで溢れていたな、と老僧は懐かしむ。薄物をわずかに身にまとった青い眼の色白な舞姫が踊り、えん然たる笑みをまき散らせていた。色鮮やかな玉や宝石が宙に舞い、一瞬天女と見違える如くであった。
あの天女達の振りまく笑みや、香のかおりで更に西方への夢や、欲望をふくらませた者も少なくはあるまい。舞姫たちの、それこそ故郷へまで長駆足をのばそうとする活力に満ち満ちた商人達も多かった。
遠くへ、遠くへの旅は又、巨額な富を得る赤裸々な手段でもあった。隊列を長くなし、次々とキャラバンが出立し、そして富を得て戻ってもきた。戻らぬ不運の者達も数知れずあったのだ。
帰らぬ者達は何処へ消えたのだろうか。老僧はいくつかの面影を思い浮かべたりもするのであった。
舞姫たちの歌舞音曲に胸を震わせたのは男達ばかりでは実は無い。男、あるいは男僧ばかりが遠い西方に眼を向けていたのではない。女達も、あるいは様々な信仰に身を焦がすが如くの尼僧たちもいたのである。
女だってはるかな旅に身を震わせるモノである。都市や家に閉じこもろうとするばかりの者ではなかった。
老僧は西安の僧房から大雁塔への日々の道すがら、様々な路上の光景の満華振りを良く眺めていた。そして、時に旅立つ尼僧の姿をも。
いささかのラクダや馬を乗り継いで、しかしその大半の旅は徒歩でであったが、ようやく雪と氷の涯のここに辿り着いたのは、従者もつれずたった一人で辿り着いたのは、そんな尼僧の一人の話を、風の運ぶのをもれ聴いたからでもあった。
「ワシも、全く物好きな者よのお。舞姫の青い眼にまどわされるのなら、まだしも、薄衣のひるがえるでもなし、この土の色に汚れた血の色の厚ぼったい、同じ僧衣をまとった尼僧の話にグラリと来たとはのお」
グラリときたのでは無かった、そんな軽い傾き方ではなかったのだ。
どうしても、この風の噂は確かめてみなくてはと考えたのだった。永きにわたり、いたるところで物狂いと思える如くの、ありとあらゆる物の、物事の、都市でさえもの生成死滅を目の当りにしてきた。そんな老僧でははったけれど、このはるばるチベット高原の高い空と、風が運んだ話には、いたくひかれるモノがあったのだ。

「はるか西方に、聖母と呼ばれる者がいるのをワシは勿論知っている。その聖母は神の子とやらを産み落としたとも言われている。父親も無いママに神の啓示を得て受胎したとも。もう2000年以上も昔の事だが、昨日の噂のようにワシは聴いたものだった」
歴代の法王、ダライラマは観音菩薩の生れ変わりだと言われている。その観音菩薩は女性なのか男性なのかは古来問われてきた事ではあるがいまだに不明とされている。
ヒンドゥ教は性におおらかで、時にそれを赤裸々に誇示する如きがある。シヴァ神はリンガに象徴される。リンガは屹立する男性器であり、それは巨大な女性器をかたどった石盤に立てられている。南インドのヒンドゥの儀式においては乳がリンガに注がれ、その身躯を濡らし、女性器に注がれ、更にその乳がトートーと流れ神殿の外の巨大な女性器に注がれるのが示される。
乳は乳海撹拌の乳である。

アンコールワットの神殿、その中央の巨大に須弥山を象った石の山はうちに創建時にはこれも又、巨大なリンガが屹立していた。そのリンガの像はサヤ堂、シェルターでもあった。第一廻廊と呼ぶ巨大な廻廊の全てには精巧な石の浮彫りで「マハバーラタ」「ラマーヤプ」(古代インド神話)、蛇の動態によって表現された乳海撹拌神話が彫り込まれている。
すなわちリンガは女性器たる石盤上に屹立すると同時に、何重もの物語の廻廊によって取り囲まれている構造が明らかなのである。
つまり、中心たる男性器は何重もの即物でもある女性器に囲われると同時に物語の始原とも表象されようとするメディアの廻廊によっても更に大きく男女の性交が表示されようとした。アンコールワットの神殿は、それ故に中央に直立する巨大なリンガが先ず在り、次にそのリンガに山がかぶせられ、その山を乳海と呼ぶ混沌の海が囲うという構造が意図されていた。
老僧はその事もすでに知っていた。
だからみずからの依って立つチベット仏教(密教)が色濃く人間の生を探り、その神秘を讃えようとするものだという事も、知り抜いていた。
「東方の島国の都近くの、草と木で作ったこの小屋とおんなじな住まいに居た頃、それはナア、木の車輪を二つつけて走るというより、ゴロゴロとようやく動くっていう手合いのモノだったがね。
その考えはワシは南インドの祭礼を見物していた頃、得たモノであった。山車と言ってな、神殿を車に載せて動かすと言う、面白いモノがあったんだ。
その神殿には重い石の、あるいは金属のリンガは鎮座してはおらん。アレは重くって動かすのに苦労するんだ。しかも重い石で作られてなければ有難味みは薄いんだ。軽いハリボテのリンガじゃあ、子孫繁栄もままらなんよ。
南インドの巨大な山車は沢山の象によって引き廻された。それは戦に継ぐ戦で良く発達した戦車の技を利用したモノだったのだ。
ワシの動く小屋はそんな剣呑なモノとは程遠い、実に軽いボロ小屋だったよ。冬は寒いし、夏は暑い。外にいるのと全く同じ手合いの小屋であった。
ただし、小屋を置いた場所はナア、実に清々しく清浄な、そうかそれを自然と言うのか、それに取り囲まれていたんだ。大きな岩の上に都から車輪を廻して引きずってきたオンボロ小屋を置いた。水は近くの小川から竹で引き込んだ。小便、大便は今と同じようにそこらの草ムラにたれ流した。
実際コレは今でも変りなく、少し計り困ったモノだなあと考えている。
何とかならんかね君。
何か考えてみましょうかなと、今言ったな。今度来る時には、その何とかしてみましょうを持ってきてくれ。
アンコールワットだって君、王も妃も小便クソはケツ丸出しでほとんど野グソだったんだぜ。
だから神殿も王宮も、人々の掘立て小屋も皆臭気に満ち満ちていたんだ。
その点では、ワシも何度か訪ねている西方の国では下水道が良く完備されている都市があった。西方の国々の人々はペスト(黒死病)という疫病を恐れていた。ペストはアッという間に一つの都市を亡ぼしてしまう事もあったんだ。
でもネ、君。下水道に集められた汚水、汚物の行先は何処なんだろう。大きな川であり、その行先は大海なんだよ。
君だって、日々、その海の浄化力で生きているようなモノなんだよ。
エッ、少し説教調になってるって?
ハハア、ゴメン、ゴメン。あんまり他人と話した事ないんで、知らず知識自慢をほとばしり過ぎだなあ。
エッ、何、西安の舞姫ならぬ、美妃イヤイヤ、土色まみれの僧衣に身を包んだ尼僧の話の続きをヤレって。
あんまり、先を急ぎなさんな。
エッ、君の生は有限なのだネ。それでは少しは急ぎ過ぎぬようにテクテクと歩く速度でね、その話に戻ることにいたそう。
ワシもいつ迄、ここに居るのか知らず、大乱の兆しも空気のすんだ匂いから嗅ぎ取っているのでね」



新西遊記 —西方の都市を巡る— はじまりの章

作:石山修武
画:佐藤研吾
調査・研究:趙城埼 渡邊大志
注釈:渡邊大志 佐藤研吾

亞青寺に老僧在り。

歳は知らず。
人ばかりの糞尿にあらず、ありとあらゆる生物の排泄物の臭気に包まれた丘の上のバラックに棲む。
登るにいささか苦しいつづら折りの坂である。丘はビッシリと小さなバラックで埋め尽くされている。バラックは皆、人の背の高さ程の小ささだ。
木の端材、ボロ布切れ、ビニール、紙で包まれている。住居とはとても言えぬ体のモノである。それでも人間が何かの意志をもって組み立て、集積したモノ達である。
組み立ての有様にはとても技術と呼べるモノの形式はない。もっと本能的に急を要する人間の生だけを、取り敢えず守る、仮囲いしてあるだけのモノである。
民俗学者の言うブリコラージュの当意即妙さよりも、よほど緊迫した姿がある。群れてある。
何処にも「美」は見当たらない。それとは逆の「醜」さえも見ることが出来ぬ。
美と醜は薄皮一枚の裏表であるが、そんな世界とも程遠い。全てにゴミと呼んで良い世界の断面が露出している。民俗学的な匂い、すなわち近代的にヴァナキュラーと呼ばれる風もない。必要に迫られて、ホンの小さな時間でつぎはぎされているだけだ。
このBARRACK群には何か集団的に逼迫した姿が歴然としている。

アポロ13号が月着陸を目指して、失敗し、三人の宇宙飛行士が地球のNASAとの交信による指示で、急な故障を救急箱にあったガムテープ等で酸素の欠乏をかろうじて防いだごとくの、叙事詩的なアクシデントとも言える緊迫がある。
現代技術の先端である宇宙船の故障はそうやってギリギリのところで必死の工夫がなされ、三人の宇宙飛行士達は奇跡的に地球に生還した。彼ら、宇宙飛行士達が向かおうとしていた月世界だって、実に死の世界であったのだから、何の為の技術の結晶であったのか?
生命を賭けての小さな宇宙船内部での宇宙飛行士達のガムテープとビニール片との組み合わせの工夫の姿。それは地球との、これも壮大な技術の粋とも言える通信手段によるデザインではあった。彼らは地上のNASAに多くをコントロールされていた。けれども実際にその指示を小さな小屋、否、宇宙船内部で遂行したのは実に生身の人間、宇宙飛行士達であったのだ。
そのときのアポロ13号内部の切迫した様相はまるで病んだ人体を切開して、故障した臓器を取り出し治療する大手術の現場のようでもあった。
宇宙飛行士はそうやって、宇宙から奇跡的に帰還したのだった。

この映像は又、壮大に地球上の人間達に伝えられ、皆の共有する体験ともなった。
我々は実に、黙示録的な体験をしたのである。現代技術は死の世界でもある月面を目指すという壮大な錯誤を犯しやすい。人間本来の尊厳をその身体、すなわち内部宇宙の生命本来の有限の尊厳を超えて、暴走しやすいのである。

二〇〇一年9・11のNEW YORKワールド・トレード・センターというツインのこれも又、技術の成果とも呼ぶ超高層ビルへの、大型ジェット旅客機による自爆テロも現代技術と現代技術のこれ又、成果である大型旅客機との人為的衝突という悲劇が露出した事件である。これは宗教による過度に原理的信仰によって、生身の人間によって為され、回避する事が不可能であった。
この時、大型旅客機は人類が予想もし得なかった体当たりの武器としてテロリスト達により科学的知の枠の外に転用されたのである。
アポロ13号の事故は人間本来の技術に対する知の可能性、人間が生き延びる為の本来を示したのだが、我々はその事を深く考えようとはしなかった。

9・11の悲劇も又、技術の一つの本性でもある。大量殺戮兵器への強い関心の陰画でもあった。全ての技術的成果は集団的に人間が人間を殺す、あるいは殺し合う戦争へとも結びつきやすいのである。

この二つの事件の関係を我々は熟考せねばならない。アポロ13号の地球への生還と9・11の悲劇は鏡像、すなわちある技術的世界の裏表なのだ。
かくの如きは我々の日常世界に頻繁に実は多発してもいる。
再びアメリカはイラクへの空爆という戦争を始めた。イスラエルのパレスチナ、ガザ地区への明らかな戦争も誰も制止することが出来ぬ絶対的現実がある。
全ての技術は連鎖する体系への無意識の闇を持たざるを得ぬ基本的性格を持つ。それが産業革命以来の近代技術の本性でもあろう。原爆、水爆という最終兵器、そしてその運搬兵器でもある各種ミサイルに代表される兵器へと連鎖しかねないのである。
3・11の東日本大震災による大津波は福島原子力発電所を破壊した。原子炉の溶融による空気汚染、大地汚染、そして生命の発生の根源でもある海の汚染は、いまだにその全体さえも把握されていない。全体を把握、そして精密に解析しようとする技術の体系が不在なのだ。
現代技術の一側面と言うよりも、連鎖する全体は基本的に人間が生きる、生きざるを得ぬ地球環境の破壊、汚染へと向かい、絶え間なく進もうとしてもいる。

我々はそれ故に現代あるいは近代技術そのものの潜在的とも呼び得る、連鎖する全体への閉鎖の体系に替わり得る、より小さな人間の身体能力に即応した技術、および技術観を少しでも呈示したいと考える。
それは開放系技術世界である。

亞青寺はチベット高原に実在する。
丘の斜面に密集する膨大なBARRACKとは異なり、老僧のBARRACKには小さな庭園がある。夜眼にもわかる低い背丈の草々がそよぐ。廃材で庭園は囲われている。
わずかな草花も夜風にそよぐ、ここはゴミの山の上の小さな楽園である。ゴミの山の上の極小庭園の自然。老僧にはどうしてもそれが必要だったのだろう。
夜風はしかし、糞尿の臭気をも運び続ける。
ゴミの山の住人たちの間では妙な噂話が臭気と共に流れてもいる。
黒光りのしたチベッタンそのものの表情、小柄ではあるがガッシリとした頑強な身体の老僧はここよりはるか東に遠い島国からはるばるここに辿り着いたのだと言う。
ここのゴミの山の住民は知らず、老僧の小さな僧院には方丈の趣がある。ゴミの丘の、つまりはゴミによって営々と作り続けられたゴミの都市の一点に構えられ、同時にゴミの丘にゆったりと浮いてもいる小庭園と共にある方丈である。
老僧がそこからはるばる時空を超えて辿り着いたという東方の島国。そこにはたかだか千年程の昔に、島国の首都とも思われる都市間近にこのような、やはり方丈を構えた老僧ならぬ、落ちぶれた下級官吏がいたと言う。
樹木を伐って作られたその東方の島国の都市にも糞尿の臭気はおろか、人間達の死体の腐乱する臭気さえ充満していたと言う。東方の島国のその都市は戦乱が打ち続き、多くの人間が亡くなり、その死体は路上にゴミのように打ち捨てられ腐乱するに任されていた。
下級官吏は好奇心の異常に強い健脚の男であった。木片の方丈を自ら工夫し工作し、それに車輪をつけて、木片の方丈を遊行させたと言う。そして荒廃の極みの都市を眺めた記録を残した。HOJOKI(方丈記)と名付けられた名高い、しかし小さな書物を残したと言う。
はるか西方のゴミの山の住民達はそれを知りようも無い。

さすればこの亞青寺なる名の都市の、丘の上の老僧は歳は知らずと言えども、その西方の島国の車輪付きの方丈の下級官吏の輪廻転生による、見えない都市ならぬ、ありのままの人間の身体を備えてはいるように視えるが、実は視えぬ体の人間とも精霊とも呼べるある存在なのであろうか。
歳は知らず、前世の有り様も知らず。
老僧は読経を終え、立ち上がる。
さてゴミの都市を一巡してくるか。
老僧は自ら火を焚き、小麦粉を練ったダンゴ状の小さな固まりを焼き食す。
方丈はしかし貧しさの極みではあるが華麗の極みである。極彩色の彩色が満ち満ちている。

技術の粋はその成果を「都市」へと、これも又連鎖している現実がある。
現代都市は一つの技術的成果である。
しかし、阪神淡路大震災によって一瞬のうちに出現した廃墟と建築の崇高を懐古的に想わせるのとは全く別のガレキとゴミの山の風景。それは3・11の東日本大震災によっても再び引き起こされた。
福島第一原子力発電所の破壊はその最たる状態であった。ここに明らかに人為によっても作り出された未来永劫とも考えられる人間の終末的風景は都市の死を暗示してもいるのだ。

我々はこの技術的都市に対抗する何らかの方策を考えねばならぬのである。

亞青寺の老僧は早朝3時に寝床を離れる。いまだ天空も丘の上のバラックミニマム僧院を包むのは闇である。チベット高原の大地に銀河が音もなく微光を流し込んでいる。
二〇一四年夏、我々は亞青寺を訪れた。
亞青寺はチベット仏教ニンマ派、俗に言う赤帽派の寺院である。
ニンマ派の総本山は呷妥寺(カトク)。
亞青寺はその分院である。

おいおいそのあたりの事は述べることにする。  
歴史、地政については、そうしたい。
先ずは亞青寺の、他の生物は除く人の数五万人以上とも想われる、巨大都市。しかも、ゴミの山とも想われる人造の地形の中に、あるいは上に創られた巨大都市の
世界の屋根と言われるチベット高原
天地の境界に、うず高く造られた人間の排泄物やら、ゴミやらがゴッタ煮された人工の地形
その中の、小さな小さなゴミの家
そして更に小さな部屋から話し始めてみたい。

中国人に最も良く知られた物語、西遊記のはじまりは宇宙の混沌より説き起こされた。
我々の西遊記の始まりは
西安にあらず、
更に西方に遠くの
ゴミの山、ゴミの都市から始まる。
人間なのか怪物か
それとも精霊か
知らず
老僧はひとりごちる
その響きは読経のごとく
天と地の狭間のきしみのごとく
高地の風に吹かれて涯の涯までしみわたる
ゴミの山にはゴミの家々が区別も知らず寄生している。
人間のクソと小便の匂いが大気に充満する。


注釈

見えない都市
 —幻視の涯の、しかも数学性を帯びた形式の厳密性の中の方法—

2014/09/04 渡邊大志

キューバ生まれのイタリア人作家、イタロ・カルヴィーノ(一九二三—一九八五)による一九七二年の小説、原題は「Le Città Invisibili」。

マルコ・ポーロが狂言回しを務めてフビライ汗に語る五十五の見えない都市が、さらにカルヴィーノの各章各節の配布構造によって生み出されるもう一つの見えない都市の架構の上に建てられて全体が構成される。極めて複雑な立体小説である。

河出文庫版の米川良夫の訳者あとがきに指摘があるように、ボルヘスの小説に比する詩的な物語りと数学的規律が互いに牽制しつつも連動するダイナミズムがその骨格を形づくる。ここでは米川の指摘に基本的には従いつつ、その把握の方法について言葉の「選択と変容」から見えない都市を視ようとする。(※1)

例えば、カルヴィーノは以下の三つの言葉に特異付けられる言葉の選択と変容によって、見えない都市を主たる幻視の方法が関数状に編まれた輪郭の存在とする一方で、見えない対象は不在なままにポーロに憑依することで都市がその存在を獲得していく方法を発見した。

ここで言う三つの言葉には、1.「異邦人」、2.「私」、3.「都市(le citta)」が挙げられる。

1.「異邦人の目と耳をとおしてのみ帝国はその存在をフビライの眼前に髣髴とあらわすことができる」のであり、その目と耳は(主としてポーロとフビライの対話とみなすことができるが確証はない)基本的な数学世界の規律(数列式)に従って姿を現わす。つまり、第一章と第九章を除く各章各節に下る順に附された数字はポーロの目と耳から都市の夢を視ることが基盤をなす。

2.それに対して、カルヴィーノは「私」の一人称と「マルコ」の三人称を使い分けることで、ポーロとカルヴィーノを自由に往還し、これによって見えない都市の中の時間と同時に現に平行する時間が存在することを暗示する。

3.その上で、原題における「都市」がle cittaと複数形になっていることは単にポーロによって語られる五十五の都市を指すだけではなく、「私」から「マルコ」への主観の移動と「異邦人」の目と耳の掛け合わせに例示される幻視の方法の数が読者の数だけ存在することを指す。つまりそれこそが「見えない都市」の実体であるとの寓意を潜ませた。

カルヴィーノのいわば一次資料に当たるマルコ・ポーロの『東方見聞録』もまたポーロの口述をルスティケロ・ダ・ピサが筆記したものである。

『東方見聞録』は四冊編二十八の都市からなり、約二〇〇年後の大航海時代においても依然としてヴァスコ・ダ・ガマやコロンブスなどによってアジアに関する一級資料として扱われた。そのとき見えない都市は航路を開拓した先にあるヨーロッパ人の想像力の源泉であった。『見えない都市』そのものはポーロの口述する都市と直接の関係を持たないが、口述筆記という実際のポーロがとった方法もまたカルヴィーノの小説によってその数列式の一端を担うが如くに取り込むことに成功している。

物語りを読み進めるに当たり、先に上げた「異邦人」がポーロから読者へと移行し、「私」がポーロからカルヴィーノへと移行し、それが故に物語る主体が不在なままに「都市」がポーロに憑依した存在から読者の頭の中の都市に移行する変遷は巧みに計算されている。

『見えない都市』をどこから読み始めても構わないことは、偏にカルヴィーノの小説というよりも詩と呼ぶべき、常に寓意を含む単語の連続によって『見えない都市』が綴られているからに他ならない。


※1 筆者の手元にある『見えない都市』は河出文庫版二〇〇七年第四刷であり、以降に引用する言葉も訳者・米川氏の訳語である。本来であればカルヴィーノのイタリア語原文に戻ってどのような単語が用いられているかを精査すべきである。しかしながら、米川氏の訳語はイタリア語と日本語の言語的隠喩の特異点について相当の用心がなされており、訳語の引用は原文の引用をその意義において妨げるものではないと判断した。


注釈

亞青寺について

2014/08/20 佐藤研吾

我々が亞青寺に到着したのは夕暮れの頃であった。時刻は午後7時くらいであったろうと思われる。四川省のこの辺りは中国の中でもかなり西部に位置しているので、東側の首都圏に対して昼と夜の時間帯が少しばかりズレている。日本にほど近い上海北京などの都市がもうすでにトップリと夜が更けても、この場所はまだ日が明るいのである。時計を気にしながらの近代的時間感覚からしてみれば既に夜になったはずなのに太陽はノロノロと未だ空の中を漂っている、そんな隙間のような時間に、亞青寺に辿り着いた。

亞青寺は「ヤチェン」と呼ばれる修行場である。ある日本人の調査によれば、この修行場はできてまだ30年程度しか経っていないらしい。1人のカリスマ修行僧によって開かれたゲリラ的宗教拠点のようである。故に正確には寺院として登録はされておらず、外圧の影響を受けながらの拡大と縮小を繰り返す、幻想的な都市である。

標高は4200m程度の、広大な高原地帯にこの都市は忽然と現れた。この都市には確かな構造らしきものがある訳ではない。あるとすれば都市の中をゆっくりと蛇行して流れる河がある。この川が流れてくる上流を眺めれば、6000mはあろうかという鋭い山々が遠くに切り立っているのが見える。河辺の道には数多くの僧侶達が歩いているのを眺め見た。夜なのに明るいぼんやりとした光で河はうっすら光っていた。河は彼らのゴミゴミとした住居群を囲み取り、彼らの小さな住居の群は河に寄生するかのように寄り集まって生活しているようだった。その住居の隙間を縫うように一本の細道が通っている。その細道に面した家々から頻繁に人びとが出入りしているのが見える。

聞けば、その地域には約9000人もの尼僧が暮しているのだという。遠くから見えたうごめく沢山の僧侶達は全て女性であったようだ。結局今回の訪問ではその地域の中に脚を踏み入らなかった。

私はまだ「女の都市」という特殊な都市の姿をこの目で見たことがない。そんな都市の中にはむしろ当然に、性差のしがらみを突き抜けたような別種の時間が流れているのかと想像する。日本の中世世界の内奥に迫ろうとしていた歴史家・網野善彦の書く著作のいくつかにも、そのように独自な集まり方をする人びとの社会が登場していたが、ヤチェンの尼僧の都市は網野によって描かれた「無縁」の聖域が如くの独特な閉鎖性と隔世した浮遊感を持っているのかもしれなかった。

ヤチェンに集まる修行僧たちの多くが、チベット文化圏からではない、東部沿岸地域を含む漢民族の人びとであると言われている。かつては都市的生活を送っていた人間もなかにはいるのかもしれない。彼ら、彼女らがどのようにして精神的転向を遂げたのか。私財を全て振るい落として、苦行とも外からは見れるバラック都市に住み込んだ彼らはどのような生活をしているのか。そして果たしてどんな不安を抱えているのだろうか。私は頭の中でそのような茫漠とした疑問を膨らませている程にヤチェンという都市は謎めいて浮んでいた。私は朦朧とした気分でその都市を眺めていた。

先に、河のそばの女性のバラック地域について少し触れたが、ヤチェンはどうやら他にも二つの別のゾーンがあるようである。

河が流れるところから少し高台に登ったところには男の僧侶たちが暮らす地域がある。そこもまたゴチャゴチャのバラックである。そして道を挟んだ所には数多くのストゥーパが建てられた起伏のある丘があり、その丘の手前にいくつかの宗教建築が並んである。なかには建設中の、未だコンクリートの型枠が付いたままの巨大ストゥーパもあり、この都市の宗教活動が今まさに活発であることも伺える。

男の僧侶達の住居、僧房は小高い丘にへばりつくように段々状に密集している。どれもバラバラの大きさの木材を骨組として、ビニール製のシートや布を被せてそれをホチキスで留めているだけの粗末な家々であった。おそらくは彼ら自身が作った家である。その家も道に対して小さな塀で囲まれた庭を持っており、中にはこれまた小さな畑を作っていた家もあった。家の中にいた僧侶たちはみな、私たちがその横を通り過ぎるのを窓からほんの少し顔を出して珍しそうに眺めていた。窓は何故かほとんどが既製のアルミサッシュであった。どこか別の街から流れ着いたものなのかもしれない。日暮れ時の、縹渺たる光のなかで、そのアルミサッシュだけがギラギラと輝いてしまっていたのを記憶している。そしてその窓から少し眩しそうに顔を出していた僧侶たちの口元は動かさずに笑う微かな表情が、周り一面に広がるゴミの塊の都市の風景に不思議と深く溶け込んでいるようにも思えた。

この都市はあらゆる人間とモノたちが外から流れ着いてできた、漂泊都市である。人びとは精神的発展を求め、チベット仏教を介してこの地に流れ着いた。彼らが共有しようとしているであろう豊かな精神世界の情景は、巨大なゴミの塊の如くにモノ達が蠢くヤチェンの騒然とした都市風景とは次元を違わせながらも、間違いなく不即不離のものとして同じ地平上に発生している。