(Design of Kindergarten in Setagaya, Tokyo)
工事は目下進行中で大枠のデザイン・計画は既に決まっているが、細部のデザインをどんどん詰めていかなければならない。ある部分の詳細が決まると連動して周囲のデザインも展開の手掛かりが得られる。詰めたデザインは素早く模型に反映させることを心がけている。今は50分の1の縮尺の模型をそのメディア=道具として使っているので、常に敷地全体を俯瞰ができる利点がある。
2016年02月08日 佐藤 研吾
(Blung Project 1)
3M四方程度の木造の小屋組をコンクリートのシェルターの内部あるいは周辺に配置する計画。
小屋組の中はいわゆるtea roomとなり、その中の人びとの行為あるいはそこで使われる道具たちが、ここでは中心にある。
2015年08月30日 佐藤 研吾
(Design of Chapel in Karasuyama, Setagaya 2)
ポカリと空いた裏庭のような敷地である。周囲は道に沿って通常の住宅群が並んでいる。昼間は静かで騒がしさはほとんどない。夜も周りの家々に明かりがつくだけでおそらくは静かな場所なのであろう。ある意味周りの家々によって守られている場所でもある。東京はその密集さ故に生まれる隙間のような空き地が多い。東京で、建築について考える時には、そんな空き地から立ち現れるモノの風情を想う。
描いた初期的なスケッチは木レンガ、あるいは校倉のような木の使い方である。全景をまず描いてはみたがこれをまずは崩し壊すところから始める。
2015年08月18日 佐藤 研吾
(Design of Chapel in Karasuyama, Setagaya )
このプロジェクトにおいては建築、あるいは場所のはじまりについて考えたいと思っている。
先日改めて、映画「野のユリ」を観た。
「野のユリ」での、黒人の旅人・”シュミット”の礼拝堂建設は日々凡庸に暮らす民衆たちの埋もれた信仰を浮上させる一つの出来事としてあり、独力での完成を夢見るシュミットの姿が、町の人々の内なる信仰心を建設への助力として具体化させたのであった。そんな神秘性に包まれた物語ではあったが、映画は終始牧歌的な光景に満ちていた。映画の中の村の人々たちはそれぞれ、少し見栄と良心の間で、けれども当然のように礼拝堂の建設に参加した。彼らの内なる全体性によって幾重にも包まれたこの建築(場所)に、神とも異なる、あるいはある種の神以前の霊性のようなものを感じる。私は、そんな、一つの偶然と日常の延長の中で生まれたこの礼拝堂こそが、「建築」であると思う。これは強くそう感じた。ぼんやりとした東京の中の、世田谷・烏山で始まることになるであろう教会建設の活動は、そのような課題を中心の一つとして据えたい。
2015年08月17日 佐藤 研吾
6/12のスケッチ
6/11のスケッチ
(Design of stairways to the roof no.2 )
安全性を考慮して前稿からテラスの内側にできるだけ階段を納めるようにし、さらに、屋上までの動線の無駄を省いて一旦雨樋と階段を分離させて考えを進めている。
6/12のスケッチは2つが分離していくその過渡期であるが、何がしかの主題としてある核のようなものがさらにボヤけてきている。6/11のスケッチで生まれた生命体のような金属の造形のニュアンスは、6/12では消えてしまったが、どこかで再浮上させることができればいいが。
雨水利用の簡易なシステムも含めた雨樋についてより具体的に検討しようと思う。
2015年06月12日 佐藤 研吾
(Design of stairways to the roof )
世田谷村第三期計画の、屋上へ上がるための新設の階段について。その初期的なスケッチであるが、土と緑を載せた屋上に溜まる雨水の有効活用も考えた、雨樋と屋外階段を組み合わせたものを考え始めている。(他の散発的なスケッチも記録として小さくのせている。)
躯体から突き出した既設の横樋に対して、その受け口として据え置く巨大な漏斗に階段の構造を負担させようとしている。漏斗の底板は鉄板で、周囲をエキスパンドメタルを曲げて立たせることで自重を受けようと当初は考えていたが、素材の扱い方の検討がこれでは足りないのが分かる。かなり強引な造形から始めてしまっているが、これを当然ながらリアルなものとして収斂させていきたい。
この工事は、鉄骨工事が主となるが、先月まで工事に付き合っていただいた鉄骨屋田代巧業ら他業種の職人の方々ともまた協同していただきたいとも考えている。
また、2年ほど前から進めてきていた、「飾りのついた家」組合の活動の再発進(第二期)に繋げてもいきたい。
2015年06月11日 佐藤 研吾
(Design of the handrail of the stairs in front of the entrance)
玄関前の新設する階段に取り付く手摺の工事を行った。鉄骨+ボードの下地にモルタルの下塗りを施した上で、左官職・宮崎貴夫さんと大工・明建築のアキラさんとの工事である。手摺の天端部分は大人が階段を上る際に手をかけてつかまる場所である。そこはモルタルを盛り付け、左官・宮崎さんが素手で撫でつけて仕上げた。それ故、手摺は微かに揺らいで浮腫み、視覚・触覚ともにこの階段空間の中でも特に繊細な際立ち方をしている。
床仕上がりからの高さ600mmとする子どもための手摺は、今日の午前中に現場で墨を出しながらデザインを決め、大工・アキラさんが下地を作った。これに左官屋がアミを巻き、明日大人の手摺同様にモルタルで仕上げる。子どもの手に合わせて掴まり部分を上部に左官で盛り上げる予定である。
そして室内天井において吊り下げた果物(リンゴ)用トレーを型枠として壁面に丸い出っ張りを並べている。仕上がりにはこの緑の色彩は現れないが、一階ピロティを抜けて階段を上り室内に入る一連の体験の中で、このトレーで作る出っ張りが室内の中空に浮かぶトレー群の姿に繋がっていくのである。エントランス、つまり建築の導入部において重要な仕掛けとなり得るだろう。図面等の寸法による指示では無駄が多いので、墨出し・位置出しは設計の我々が直接行った。
デザイン即決・即工事である故に、かなり微妙なデザインまで実現できている部分である。
この建築には様々な職人の共同とも呼べる部分が随所に散りばめられているが、その現場に立ち会えば立ち会うほどに、こちらも彼らの仕事がどのように絡み合うかを隈無く考えることができるので、それだけ良いモノになっていくの感がある。
2015年05月13日 佐藤 研吾
(Assembly of small-scale system of electricity and water in kindergarten, no.2 )
屋上につけて室内に小さな豆電球を吊るしたいと考えている、その極小規模のソーラーパネルの取り付け方法他についてのスケッチ。
土を敷き詰めて草が生える(予定ではクローバー他の種)屋上の地面からニョロリと植物とともに生え出るソーラーパネルの姿を考えている。地面下では建築構造躯体のスラブプレートに溶接にて固定されるのだが、独立して立つのでパネルの裏側の姿に配慮が必要である。図は半割りにした竹を裏に固定するための方法についてである。工場生産されたソーラーパネルと自然の竹をくっつけるのでビスなどの留め方ではなく、番線などで結びつける固定の仕方が望ましいと考えているが、竹の割れなどを考えると番線を通す穴の位置も上下ズラしたりなどの工夫が必要だろう。
ソーラーパネルは5Wの発電量で2800円程度。セルはボッシュ製で中国での組み立てである。室内に据え置く豆電球、バッテリー、チャージコントローラー、電線各種含めると1ユニットおよそ8,000-9,000円程度かかる。小さなパネルではあるが、エネルギーと植物との共存という不思議な関係を考えるにはこのくらいから始めてみるのが良いのではとも思っている。
2015年04月08日 佐藤 研吾
(Assembly of small-scale system of electricity and water in kindergarten. )
小さなソーラーパネルによる極小規模の自家発電と、屋根が集める雨水の利活用の簡易なシステムについての図である。(星の子愛児園と、世田谷式保育園に関するアイデア)
ソーラー発電については先日東京の秋葉原に行ってバッテリーや電線他も含めていろいろ学びながら買い集めて実践済である。取付方法やその姿などはまだ検討が十分ではないが、簡易なモノなので素人の自分でも組み立てることのできる仕様である。この自家発電の小システムを、売電用の大規模発電パネルの間に挿入するかたちで、計画内のいくつかの地点に配布したいと考えている。
雨水利用の仕組みもまた、簡易な工夫によってその実現が可能なものとしたい。予定では屋根上に敷き詰める土壌はスギ皮を粉砕した資源再利用のモノであり、またミネラルを多く含む土壌改良にも適した資材であるので、高低差を利用した水の流れを作ることで、その養分を運ぶ網目状の道筋の形成が可能であろう。小規模な工夫の複合が計画における一つの構想の太軸となるべきとも考えている。
2015年04月06日 佐藤 研吾
(Iron work in a small garden in Hoshinoko Kindergarten no.2.)
前投稿の鉄造形について、改めて写真を撮りなおした。道を歩く子供の高さから物体を覗き込んでみた。撮影時の夕暮れの翳りとともに、物質の表情が明らかに投稿18の写真と違っている。
先述したようにこの二つの造形物は、自分が鉄筋棒を叩いて折り曲げ、300-400mm程度の長さで切断した後に現場に転がる鉄の破片を鉄骨屋さん(田代さん)に溶接でくっつけてもらったものであるが、溶接の焦げ目はもちろん、鉄筋棒を叩いたときの傷が所々に残っている。それに改めて気が付いた。
鉄筋棒の折り曲げに使った道具は、大きめのハンマー、作業台としたコンクリートブロック、棒を固定するための万力。自分はロクな道具を持っていないので、現場の職人の邪魔にならないようにその時彼らがあまり使ってなさそうな(そしてもちろん自分が使うことができそうな)道具を探し、借りなければならない。残念ながらそのときは、棒の固定道具として先端の細いシャコ万しか見つからなかった。しょうがないのでそれで鉄筋棒をコンクリートブロックの上に固定してみるが、細いのでなかなかしっくりと鉄筋棒は落ち着かない。ハンマーで叩く度にシャコ万は若干ずれ、鉄筋棒は思わぬ方向へ曲がってしまう。昼過ぎの、職人の昼休みの時間あたりから作業を始めて、2時前くらいに溶接を頼む予定であったので、あまり悠々と作業している時間もなく、構わずどんどんガンガンとハンマーで叩きまくる。ハンマーを叩いていた時間よりもおそらくシャコ万を締めなおしていた時間の方が長い。残ってしまった鉄筋棒の傷跡は明らかにシャコ万がずれて鉄筋棒が擦れてしまった傷である。結局、道具探し・実験の時間も含めて、おそらく2本の棒の折り曲げに1時間半程度の作業時間を要したのではないか。先の投稿で「即興制作の速度」などと浮ついた言葉を書いたが、全く即興と呼べるほどの速度はなかったようである。
2015年3月31日 佐藤 研吾
(Iron work in a small garden in Hoshinoko Kindergarten.)
本日、二つの増床の小建築に挟まれた北側の小庭の両端に小さな鉄造形を制作した。
各棟の雨樋の足元にそれらを溶接付けしたものである(溶接取り付けは鉄骨屋さんに頼んだ)。
いささか無機質で冷たい雨樋の表情に対してメガネを掛けるように飾りを施した。庭への侵入防止の役目もある。
現場で鉄丸鋼6mmΦを叩いて曲げ、現場に転がっていた鉄の厚板の破片を組み合わせた。この現場の鉄の量塊は圧倒的である。かなりゴツい部材が現場で加工され、画像のような生生しいガス切断跡の破片がゴロゴロしている。それらを同じ敷地内に種撒きの如く配布した。
取り付くのが庭だからと、虫らしき造形をとも考えたが、結局残ったのは動きの造形ニュアンスと即興制作の速度のみの些細なオブジェクトである。
前回の投稿で門扉のスケッチを載せたが、門扉のデザインも紙の上ではなく現場に転がる破片を実際に集め、現物を当てがって考えるべきだろう。
2015年3月28日 佐藤 研吾
(Design of the gate of the annex in Hoshinoko Kindergarten.)
今現場には円盤を頭につけた柱が林立し、湾曲して流れる有機的な造形の折半屋根が取り付きつつある。大方の柱の取り付けが完了し、前面の道路からはその姿を大まかに思い浮かべることができるようになった。そこで、改めて工作ノートno.5(2014/10/24)のスケッチを引っ張り出して、入口付近のデザインについて検討を試みる。画像は10月のスケッチに新たなエレメントを糊で貼り付けたものである。10月のスケッチではサッと描いたような斜め柱が、今現場ではかなりの重厚さを持って立ち現れている。自分達の現場であるが、やはりこの森の如くの、ひしめき合うような物体と物体が応答しあう風景から学ぶことは多い。この感触をぜひ門扉の姿にうつし出したいと考えている。(制作は自分自身でやらなければならない部分があるだろう。)
また、現場が進行するにつれて、増築の計画である故に、既存建築物との取り合い(接続部分)においていくつかの破片部材が生まれている。所謂建築工事のゴミであるが、これには愛児園開園当初からの時間が刻まれているのである。画像中のピンクの線材は既存棟のフェンス手すりであり、2,3の歪んだ円形はフェンスの柵となっていた金網の一部である。そんな昔の部品の断片を繋ぎ合せて新たなものを作る、過去の時間のカタマリのようなものが増築棟の門扉・入口となる、という率直な論理もある。
2015年3月25日 佐藤 研吾
描いているのは長手を31.5Mとした細長い建築である。南南東と北北西に頭尾を向けており、浮かんだように長スパンで迫り出す人工地盤を支える、異なる勾配をもつ両側の斜面においてそれぞれ別種の庭を構想している。
それに応じて建築は偏心し、また地上から人間が中に入り上階へ向かう一つの流れが内部においても生まれている。斜面の構造と地面が接するポイントについては、以前の案の、大地より植物の如く生えて立つ柱のニュアンスを引き継ぎつつも、より尖鋭に検討すべき部分である。
浮かぶ人工地盤には草木の植栽とともに木造の小屋が建つ。ここでも地面と建築の関係、モノとモノのぶつかり方が問題になる。村野藤吾の谷村美術館において美術館本体棟にアプローチするまでの長い回廊があるが、その回廊の雑木の列柱の足元は大地と木造建築の関わりにおいて参照すべき、あるいは検討すべきものと考えている。
2015年2月18日 佐藤 研吾
2つの増床部分の天井仕上げについての指示図である。天井は1/10の勾配天井であり、それぞれの部屋に表しの梁がその天井の下に架かる。計画上、床上高さ1,000mm
付近までは既存のロッカーが壁付で配置されることになっており、室のデザインにおいて重要なのはやはり上部の空間となる。その天井仕上げにはカラマツの帯鋸の地のままのものを選んである。群馬の製材所から現場に直送される予定である。材自体も暴れがちなカラマツであるがその素質をそのままに表現するために、実(サネ)などでは納めずに目透かしをとって並べ(目透かしの幅は現場で決める)、また4列に1列程度、鉋掛けを施し滑らかな表面に仕上げた同材を挟むことでその素材感を際立たせようとしている。
そのザラリとした表面の下を180mm成の梁が横断するわけだが、その下で生活する活発な幼児クラスのこどもたちが、今日ではあまり見かけないその"自然"に近い(あるいは近づこうともしている)物質感をどのように感じ取るのか。非常に興味深いところであり、またこちらも想像力が掻き立てられる。
日本語には「すさぶ」という言葉があるが、「荒ぶ」と書けば「遊ぶ」とも書く。それは"遊び(あそび)"という行為の概念的広大さにも関わることでもあるが、当然現代の子供達の「遊び」と、彼等を取り囲む建築の「荒び」の双方の内実が関わりを持ち得ないかと考えている。いささか論理が飛躍気味ではあるが、題で掲げ続けている「小さな庭」とはそうした建築含む物体あるいは風景の「荒び(すさび)」の形式の探求でもあるやもしれない。
2015年2月16日 佐藤 研吾
増床部分の建方が来週より開始する。建方は大工・市根井さんに依頼しており、その内部には現しの2本の梁が独立柱にとりつく。画像はその納まり、特に楔を用いたときの仕口に関するものである。おそらく大工からすれば間違いだらけの図ではあるだろうが、小建築であるが故にこの部分の意匠が決定的なものになるのは間違いないのでこちらも必死にやっている。この部屋を使う子どもたちが頭上に広がる大きな大樹の枝振りのように視てくれることを願っている。そうした初期的なイメージがあり、同時にかの浄土寺浄土堂の架構表現のイメージを重ねて、それを流通材の中で実現させなければならない。この楔材の、構造・意匠双方の要素としての扱いがいささか重要になり得るかもしれない。
2015年1月28日 佐藤 研吾
1月27日、梅沢構造事務所との打ち合わせからこの建築の内部構造について知見を得ることができ、再度プロポーションの検討を行う。画像は長手を15.9Mから12.0Mに縮めた模型ボリューム模型であるが、これに足、あるいは植物の根本の如くの支えが下に生えることを考えると、地上の空間はいささか窮屈そうに感じられる。この建築のサイトには北あるいは北西から強い風が年中吹き付け、それを防ごうと周囲に防風のための雑木林を植樹する予定である。林が鬱蒼と茂る中に立つこの建築の地上の空間(そこは駐車スペースを兼ねる)は、周囲の林の木々の樹間よりもいささか長い距離で足(柱)を林立させ、上部ボリュームを宙に浮かせるように、正面の富士の景観に構えるべきであろう。そして、いまこの計画では、建築本体を中心として、その下、上、そして周囲の3つの空間を庭なるものとして考えようとしている。
2015年1月28日 佐藤 研吾
狭山の建築の計画を進めている。敷地からは南西の彼方に富士山を望める。そのための場所を作りたい、というのがクライアントの願いであり、この計画の始まりである。画像はその建築の始まりの一歩らしきの模型を上から眺めたもので、屋上には富士を眺めるための小庭園を配する。楕円の環状に水が流れ、その上には木造の小建築が乗る(模型にはそれは反映していない)。その小建築の下で苔や低草などが生えてくれるのが良いと考えている。
計画の始まり、というよりも計画者(工作者)の気持ちの動き出しをまさに勉強したいと考えている。それには良い機会が訪れたのではないだろうか。
2015年1月25日 佐藤 研吾
星の子愛児園増築棟の二階各居室に天井から吊り下ろす竹照明のデザインに関して。ここで試みていることは同愛児園の北側の小さな庭でやろうとしていることと本質は同じであると考えている。従って表題は庭の3番目の投稿とした。
すでに市根井さんに制作を依頼しているものであるが、それに新たにもう一要素の追加を考えている。それが図中の3本の竹串であるが、先端はそれぞれ若干の加工を加え(あまり尖らせはしない)、中央の一本のみ両端をカッター等で割いて花弁のように広げて毛羽立たものを開口部の両端を結ぶ様に取り付ける。そこで生活をする子どもたちと保育士さんからはその姿はかなり小さくしか見えないが、竹内部の照明の光の拡散光が当ってその端部のみ微かにザワザワとした表情が現れるだろう。このような造形は、日本ではアイヌのヤナギを裂いて作る儀礼具に同様のものがある。彼らの造形が自然の何かを模し、それが動物なのか植物なのかあるいはその霊気・精霊なる自然世界を表象し、自然に囲まれた彼らにとっての儀式空間を構成したように、この竹照明の小さな造形も、自然の山からとってきた竹に開口を空けて出来た空洞=小さな空間を律するための重要な構成要素となる。ただしこの竹串は、使用上の不具合があってはならないので、火で炙って曲げるなどの細工がいくらか必要である。さらにはその横に竹釘を互い違いに打ち込んでその上にテグスを張らせている。自然物を加工して作り出した楽器の如くの姿がようやくこれによって現れてきつついる。
2015年1月22日 佐藤 研吾
前回の投稿と同じく星の子愛児園の北側にできる小さな庭についてのデザインを本格化させたいと思っている。
また、より微細なデザインと工夫が必要であるから、まずはやはり自分自身の手を動かしてみることにして、少しばかり時間をかけてスケッチを試みた。おそらくはこのスケッチに修正を重ねていってこの小庭の姿を定めていくことになるだろう。植栽と既存の竹垣は、もちろん実際の現場を視てなぞったものであるが、その姿をなぞる度に新たな発見がある。今まさに幾つか花を咲かしていたバラの樹は途中で竹垣に枝を絡ませ、また上の方へ昇っていくと段々と竹垣から離れていく。園の方あるいは植木屋さんによる時間をかけた工夫がこのような所に既に深く表されていたりもするのである。植物の生態学的な部分および作庭デザインは未だ不勉強極まりないが、この小庭の作業を通してそれら自然の姿の気質、すなわち何がしかのニュアンス=風景(=そのモノの群が作り出す風景の骨子)だけは感得したいと思っている。
2015年1月19日 佐藤 研吾
星の子愛児園の北側の道路に面した場所で、既存棟に一部差し掛かる形の小規模な木造建築が二棟道路に迫り出す。その外壁と道路との間は既存のコンクリートブロックとU字溝があるだけで、その隙間はわずか30cm程度である。また同じく道路に面する形で、二棟の間に、竹垣で囲われた幅0.7M長さ7Mのかなり細長い庭が出現する。
道路はかなり細い道幅であるが、JR稲田堤駅と京王稲田堤駅の間を結ぶ乗り換え通路となっており、人々の往来は絶えることがなく、特に朝夕は通勤通学のために毎日ほぼ同じ人々が同じ時間に通り過ぎる場所である。職場と自宅を往復し、時間と仕事に追われる人間にとってこの乗り換えのための移動は、ポカリと時間が空いてしまって何とも無駄なとも思える瞬間であろう。
その特に何もすることができない時間、つまり本当に小さな余暇(非活動時間)であるが、時間と活動が社会的に細分化され、ネガとポジの時間に明瞭に分かれる現代都市生活において、そのネガとなる余暇の瞬間がいささか重要なものとなっているやもしれないという直感がある。
この小さな計画はそうした道行く人々のためのものでもある。建築の外壁はパーライトモルタルの吹付によって、近距離を通る人にとってはかなり荒く強い表情を持つ。一方の足元は基礎上で角材を横に当てつけて下地に膨らみを出し、仕上がり面を迫り出させることで、地面から少しだけ浮遊したかの造作を試みようとしている。その下には建築と地面の間を繋ぐように鉢に入った植栽を配する。
片流れ屋根の雨水をうけるそれぞれの樋は間の細長い庭に落とし、その樋を一部隠すパネル造形物を外壁の横から飛び出させている。このパネルは農業用苗トレーにリシンの吹付塗装を施す予定のものであるが、現在工務店にその試作を依頼している。この造形をまずは起点として左右の両側から庭のデザインを進めていこうとしている。既に在る竹垣には新たに100mmΦ程度の孟宗竹を半割りして固定し、その横の中央部には木本一之さん制作のザクロの照明を移設することを考えている。(この照明は現在園の入口部にある)
非常に小さな庭と建築であるが、この庭によって通行する人が何かフッと感じることがあれば良い。その為には細部の検討がまず必要で、またどんな植物があり、どんな匂いがしてどのような虫や鳥が来るのか、までも考え込んでみたい。
2015年1月17日 佐藤 研吾
2014年12月20日土曜日、東京・世田谷の南烏山コミュニティカフェななつのこ前広場にて「世田谷式国際屋台お祭り」を開催した。当日は日本全土に大陸から大低気圧と寒波が到来し小雨もパラつくなか、およそ1,200名程度の方に来場いただいた。会場は比較的小さな場所だったので、一日を通じてなかなかの人の密度であったように思う。訪れたお客さんの世代もベビーカーに乗った赤ん坊とその若いお母さんから、フラリと散歩にやってきたお年寄りまで幅広いものだった。
このお祭りは、われわれ世田谷区民のライフスタイルを考える会(世田谷式生活・学校)が主催する催事としては第三回目となる。一昨年の「年末もちつき・かみしばい大会」は会場が駅前の広場という好立地であったこともあり約5,000人が参加した。第二回目は同じく南烏山のある住宅地の路地の家の塀で2日間限定で芸術作品を展示した「ヘイ・ギャラリー」を開いた。「ヘイ・ギャラリー」には路地を通り抜ける通行人も含めて約800人がその様子を目撃しただろうと記憶している。今回の屋台お祭りは会場の場所柄も、そして参加人数の規模も、第一回、第二回の催事のほぼ中間くらいのものである。こうしたことを三回程続けてきたこともあって、段々と我々のこの小さな活動もようやく町の中で微かに知られ始め、また主体的に協力してくれる地域の方々も格段に増えてきている。
今回のお祭りには全部で9店の屋台が出店した。地元の砧飲食業組合、メール街青年部、南烏山の一部のお年寄りの憩いの場である「長崎屋」、平均年齢70歳の全世田谷野球倶楽部、同じく地元烏山で営業するタイ料理屋、ネパール料理屋、台湾料理屋(こちらは新宿からの出店である)、地方特産物を売る野菜屋、朝日新聞烏山中央店、そして我々GAYAの屋台。以上、名前を挙げただけでも有象無象の多彩な人々が集まった。関係者だけでも40人はいたのではないだろうか。それぞれの店の雰囲気ももちろん様々で、煮たり焼いたりで湯気と煙が立ちこめ、ザワザワといくつか異なる言語も飛び交っていた。
彼等は普段、同じ町に暮らしていてもほとんど出会うことの無い人たちである。タイ料理屋、ネパール料理屋は烏山で店を始めて決して短くは無いのだが、特に地元の商店街の組合等には所属しておらず、毎年行われる地元の祭には店を出したりもしていないのである。代わりに大学の学園祭や、代々木公園などの大きなイベントには出店しているらしい。普段それらの店に来る常連は若い女性が特に多く、最近この地域に越して来た人も中にはいるようだ。一方、砧飲食業組合や長崎屋などは、まさに地元代表といった顔ぶれである。もう何十年も烏山に住み、地元の事に精通した人たちだ。それぞれの結束力も強い。けれどもそんな彼等も同じ烏山で飲食店を出しているタイ料理屋などについては、その存在すら知らないのである。出店者間の調整に走り回っていた私は、こうした単なる世代の違いというものでもなく一つの町の中で何やら異なる世界が別々に動き、異種の人々が同居している状況に改めて気づかされたのであった。
町に同居する別種の人々の活動をガチャリと直接にぶつけて一つの場所を作り出そう、というのが今回のお祭りの主眼の一つである。祭りのタイトルが表すように、「世田谷」での「国際」性の表現とは、そうした東京郊外の町が持つ、さらにはグローバリゼーションがもはや意識もされない現代という時代状況の複雑さを前提にしているのである。
当日は朝8時前よりスタッフが集まり、広場に順々にテントを立て始め、そこに各出店者が集まってきて各々開店の準備を開始した。テントは区からの借り物であるが、そのテントが一斉に建ち上がる風景は日常では得難いスピード感があり毎回とても良いものである。幻のように何かがその場所に一時だけ立ち現れるだけで人はワアっと驚き心動かされるものである。市が立つ、という表現が日本にはあるが、中世都市以来、市場(ヨーロッパではマルシェを指すのか)が現れたのが都市の隙間のような空き地であり、寺社仏閣の門前やはたまた神社の縁の際であったりのかなり曖昧な場所であったことも、そのうたかたの出来事がある種の儀式性を備え、日常から一歩越え出た聖俗入り交じった状況であったことを下支えしているのではないか。今回のお祭りの場所は人通りも少なく町の人もあまり知らない場所であったので、そういう意味ではまさにお祭りに相応しい場所ではあったようである。テントが立ち始めると、お客さんがポツポツと現れ始めた。近所に済む人たちは、オヤオヤ、どうしたとベランダから顔を出したりもしていた。モノがまず出現し、何やら始まるぞの気配が漂って、人々が集まり出す。お祭りの主催の側に立つ私にとってはこの5分か10分程度の時間がお祭りのクライマックスであった。その場所には様々な人間のエネルギーが立ち込めたのである。12過ぎには世田谷区長保坂展人氏が到着し少々のスピーチを行った。その頃には早くも売り切れの店も現れ、最終的にはほとんどの店で売切御礼となったのであった。ありがたい限りである。
お客さんが集まるのと並行して、各屋台の飾り付けが進められた。GAYAおよび世田谷区民のライフスタイルを考える会は当日はもっぱら飾り付け担当である。今回も太陽光パネルを持ったドイツ生まれのソーラーおばあちゃんの人形を筆頭に、多彩な摩訶不思議なキャラクター(アイコン)で会場を埋め尽くした。皆ダンボールに絵の具で絵を描いただけの粗野なものであるが、この素朴さは特に東京人にとっては荒々しく強烈なのである。プレーンで真っ白を何の考えもなく良いとする巷の生活への無頓着ぶりに対して、大袈裟であるが一日限りの徹底した抗戦を挑んでもいるのである。また、これまでに約2万枚をバラまいたお祭りのチラシにおいても、その抗戦の種くらいの表現を意識したメディア戦を仕掛けもしたのであった。それはまたもちろんその素朴さのほうが人の興味を引くだろうの単純な実利性を見込んでもいた。
やはり文明批評などといって御託を並べるだけでは駄目で、戦後最大の民衆芸術家・岡本太郎然りの対極主義的な世界構成を企て、自らその中に打ちいってみなければ分からない事もある。岡本太郎は大阪万博のお祭り広場でそれを試みた。対するこちらは世田谷の小さなお祭りである。万博の後、岡本太郎の太陽の塔は今整備された公園の中に独り立ち尽くしており、当時日本全国が経済成長を背景にして湧いたその熱狂の空気はその場所から忽然と消滅した。それではやはり足りないのである。我々のお祭りは単発ではない、町での継続性と活動の今後の展開が鍵なのである。祭りをきっかけにして、町を変えていく努力は必要であると考えている。この事はまた追って報告の機会持ちたい。
何故このようなお祭りをやるのか。お祭りをやって何が得られるのか。そんなことを時々、会う人に聞かれることがある。
それは、当然うまく説明できようもないのであるが、一つ言える事は、地域の人々のエネルギー、あるいは場所のエネルギーを信じているのである。たとえ東京の世田谷であっても、そんな力は必ず残っているのだろうと思っている。そして、人々の熱気がつくりだす泡沫の風景と時間の中に、さらに自分達の手による表現とそのシナリオのような局面を散りばめていくことが自分たちの今回の役割であったのではないだろうか、というのが祭りをひとまず終えた今の心境である。何はともあれ、次の我々の展開も眺め見て頂きたい。
2014年12月27日 佐藤 研吾
中国・杭州満覚路上山庄計画の中央に配置する水盤とその周辺の庭園の検討を行ったスケッチである。描き始めは当然に水盤の円形からであり、その次にその周囲を囲む仏教の八輪から着想を得た方位を基軸とする8個の造形を描き入れた。勿論実際の寸法を絵の中に反映させているので、自ずとそれらの造形は人間の身体スケールに即した大きさになっている。ここでは、ドローイングを水盤を中心に据えて放射状に展開させていった訳だが、それは実は描き主としてはなかなかに面白い。全体の構造をまず頭に思い浮かべて描き出すのではなく、逆に微小な部分の詳細からその形を構想していくのとも少し異なった感覚を要する、いわゆる全体と部分との中庸を突つかのような頭の使い方をするのである。
ともあれ、描き進めてみれば、いささか無駄な造形が転がっているのに気づく。工作ノート5で自ら指摘したデレデレと造形が進んでしまう症候群の現れである。それの防止のために、普段はあまり使わない2Hの固めの鉛筆を使ってみたのだが、その筆圧の加減にも慣れてしまったために特に画面下の簡易なパースではかなり無駄な労力を絵の中に割いている。ドローイングの大きさは作業が進むにつれて拡大し、4切画用紙2枚を横断することになったわけだが、拡散すればするほどにその線に根気、根っこのような、造形の核心たるものが不足してくるのであった。次に描くべきは、少々意図的に固めのドローイングであろう。
これはまた同様の構造を持ち得る茶館の設計の展開についても同じことが言える。
上のスケッチは、中国・杭州の茶館計画について、建築の地上入口から内部までを描いたものである。自分がこの計画の中身を改めて把握し、整理し直すために描いた。おかげでようやくどこから手をつけてみようか、みるべきかを識別するところまで自分がたどり着いた。そのスケッチの中で、幾つかのスケールを横断した共通の造形概念のような未だ抽象的な形態が出て来ている。その考えが東京での計画に飛火、ドッキングしたのが下の図である。東京の街中であるから、円筒ではなく角筒だろうと、それは小規模に複数を林立させている。両者のスケッチを見比べてみると、中国の茶館の方の光と風を取り込むための円筒の空間は周囲に配される造形群の錯綜によって単なる幾何学的な造形物として固定化されない空間の余幅を帯びている。それに対し、東京の計画の方は周囲の造形が生まれておらず、未だ角筒が角筒として自律してしまっているために、そのスケッチはダイアグラムの域を抜け出ていないのである。
作業は細部のデザインの決定にさらに突入している。ハッキリ言えば自分にとって未知の領域であるから、こうして意地でもスケッチを描いて物体を紙の上で建ち上がらせてみなければ思考するきっかけすらつかみ取れないのである。このスケッチはエントランス付近を描こうとしたものだが、描くにあたってまず写真を画用紙に貼付けてみた。写真には今現場にある門扉が写っており、またその門扉は少々移動させて建築完成後も再び使うものである。その門扉の画像を真っ白な紙に貼ってそこを起点として建ち上がる建築のスケッチを試みた。あれでもない、こうでもないと幾度かの修正をしながらの作業だったのでところどころ画用紙を貼り直したりと継ぎ接ぎしている。これはおそらく作業主のわたしにしか分からないだろうが、この継ぎ接ぎだらけの紙によって微妙に線に断絶が生じ、また下地の違いから塗った色にも微差が生まれているのである。デービッド・ホックニーのあの視覚を断片化させた絵画のような絵の中の揺らぎがこのスケッチにも含まれているのかもしれないとも感じられるが、こちらは計画の意志、つまりは今あるモノと場所に新しき何かを付け加えようという意図があるので、このスケッチ作業は善し悪しは別にホックニーの視覚の探求よりもさらに複眼的に化けるやもしれない。
そして、スケッチ作業の終末部では左右の門扉の間に挟み込む新しい部材のデザインを考えようとした。(それを考えたかったために門扉の写真を二つに割ってすこし離して画用紙に貼付けた。)ただしこのパーツのデザインが未だ良くない。拡大の図が右上のものであるが、画面全体の風景から感じ取れもする物体・部材間の呼び合いのような造形的連動を意識してはいたが、その物体の揺らぎといったものをあまりにもそのままにフォルムのみで表現しようとしてしまっているからである。一つ残り得るものがあるとすれば、二つの物体によってパイプ材を上下で挟んだその構成関係だけであろう。柔らかい鉛筆による描画は特に考えずとも線がデレデレと進んでしまうが、その線束が描き出す物体の姿は注意していないと恐ろしいものになってしまうのである。
星の子愛児園増築部の内部における照明器具のスケッチについて。
天井の鉄のスラブプレートから吊り下げるものであるが、その竹と鉄の異色の組み合わせにはかなり精緻な感覚が必要であることは間違いない。特に、嫌らしくこびり付いている竹の「和風」、あるいは東洋のオリエンタルなイメージを押さえ込み、また一方で、局部のみにその意匠を濃縮させてやるかをしなければ、鉄というハードな素材との共存はかなり難しいようである。おそらくそれは、わたし自身の身の回りで溢れ返る、とてつもなく安っぽい「和風」を称した商業主義的な疑似自然に対する嫌悪の念から来ているやもしれない。
今回のスケッチの中では竹にいくらかの幾何学を持ち込もうとした。あるいは直線をメインとした構成形式を検討している。改めて、スケッチから読み取れてしまうのは自らのプレモダーンの意匠への嗜好であろうか。素材と造形デザインの関係からすれば、方向として明らかな間違いではないが、ここではどうにも物足りない。過去を頼みとするならば更に時代の遡行が必須だろう。その竹照明が吊られる場所は極めて複雑な鉄の建築の中である。プレモダーンが何事もなく馴染むような柔な空間ではない。
実は、スケッチをしているわたし自身の居る場所、GAYAの事務所もそうした異種の素材、全く異なるもの同士がまさにぶつかっている。ここでは鉄のデッキプレートに四方囲まれた枠内に、製材された木の造作物がはめ込まれている形であるが、その木の造作は特殊な仕口でピタリと納めはせず、部材と部材をそのままぶつけて押し込んだ如くに、物体のエネルギーらしきものが完成後もそこに漂っているようである。今回のスケッチでは、一番下のスケッチにおいてはそうした生きものとしての素材の荒々しさがいくらか感じられる。先に書いたようにこの野暮ったさを次はどう意図的に押し込めていくかであろう。
塀と門扉の歴史は、それは建築と共に果てなく古い。境界を作ることで所有が生まれ、またその人々が住み暮らすために囲んだ場所は村となり、そして都市が生まれた。そんな都市のはじまり、あるいは社会のはじまりとしての形を、境界を作り出す造形から考えようとしている。
そしていざこのような短文を書いてみると、作った模型に足りないもの、間違っているものが見えてくる。
四周を取り囲む高さの異なる塀の造形はだいぶ心許ない。塀と塀の間に挟まれた隙間を緩衝帯、すなわち内と外を隔てる境域として意識化させようという意図はある(実際には草木がそこに生えるだろう)のだが、模型全体がそうした図式的抽象性の範疇に収まってしまっているのが問題なようにも見える。上下からの凹と凸を繰り返す造形は森の中をイメージしたものでもあるが、森の中が森羅万象の様々な生きものがうごめいているような息づかいがここでは全く捨象されてしまっている。
建築の内部より屋根の上にまで複数突き出ているのは風、あるいは光の塔である。パキスタンのバッド・ギアの集落の形式がそのまま出て来てしまっているが、それらの塔は塀の造形を含めた群造形の心棒としてそこに組み入れようとした。塀と塀(壁)に挟まれた隙間、そして風と光の通り道。近現代建築が追求した「空間性」という価値とはいささか位相の異なる、ボテッと出来てしまった隙間のような部分がこの建築の主たる核となるやもしれない。
星の子愛児園増築計画における地上階の床土間と、天井となるデッキプレート裏のデザインに関する模型である。(左が床、右が天井)
Model of ground floor and ceiling of the extention building in Hoshinoko Kendergurten.
Forms of the new gate are spread to both the ceiling and the ground floor .
星の子愛児園増築計画について。
今ある門扉に新たな要素を付け加えることを前提に、新たな門扉のデザインを考えている。
門が機能として備えるべき、外界への遮断性と多少の象徴性を小量のデザインによって付け加えてみたい。
既存のどっしりとした四角い門扉に対して、その隙間にフッと入り込んでいく二種のツガイのような有機体を描いてもいる。
金属造形家の木本一之氏にこのような造形の可能性について意見を早めに伺わなければならない。
Drawing of the new gete in Hoshi-no-ko Kendergarten, Japan.
I conbine new paired organic forms to the existing gate.