I 世田谷村アイスランド紀行

石山修武 アイスランド紀行

世田谷村スタジオGAYA

2018年 5月

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世田谷村スタジオGAYA日記
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九州宮崎市「現代っ子ギャラリー」に於ける展示会1

 

これからしばらくの間展覧会状を続けていく。きちんとした批評は望むべくもないので、それならば自分で自分たちの作品も含めて批評らしきを残しておきたい。

自分のモノも含めてのことになるから、本当に客観性を持つものになるかは定かではない。しかし、本当の客観性なぞは居るのやもしれぬ職業的批評家においてもありはしない。

であるから、不如意な形式だが出来るだけの身内褒めは避けながらやっていく。身内というは、展覧会の共同出展者たちのことである。

みなさんとは偶然に知り合ったのではなく、知るべくして知り合った。そんな事情も含めて始めたい。

堀尾貞治

木本一之

 

堀尾貞治と木本一之の作品について

 

子供達に見てもらいたい展示にした。何とかうまくいったと思う。

わたくしの印象の第一は、具体はの堀尾貞治さんの作品群と広島の工芸家木本一之さんのものとの対比だった。

堀尾貞治の作品は十二支の生物たちである。毎年の十二支、おなじみの生物たちの姿を自由に何のてらいも気負いもない、手のひらに乗るような造形物として表現している。表現なんて言うのも似合わない。友人への正月の贈り物として、楽しみながら作ったものだ。藤野忠利さんんが、それを12年ぶんきちんと保存していたのも見事である。画商としての本能だろう。

遊びは創造のはじまりであり、ゆきつく終点でもあろう。

堀尾貞治さんの手作り遊びの産物は、しかし作品として見て、触れても、本当に自由が溢れている。堀尾さんの、今は高額な作品群よりも実に「芸術」そのものだ。

贈り物として作っているので、売ろうなんてことはみじんも考えてないし、それがモノによく表れているのだ。つまり極めて深い芸術的行為である。

 

一方、木本一之さんのメタルの造形物は、やはり造形が大きく意識の片隅にある。そのぶん堀尾作品よりも不自由なような気がする。

もちろん、作品として作られた堀尾作品も実は同じような世界のものである。

これは芸術だと意識しないとその価値が薄いのである。であるから、わたくしはこの12匹の生物たちを具象したモノのシリーズは堀尾作品のうちでも傑作だろうと確信した。

でも、この造形は子供たちの遊びの産物とはかなり遠い世界でもある。

毎日のように、不断に造形作業を続けている堀尾貞治ならではの世界なのだ。

ほぼ無心の世界の中の、やはりどうしても表れてしまう造形力があるのだ。

紙状のモノを丸めて作ったモノだから、とても軽くて柔らかい。赤ん坊の顔のやわらかさを持つ。

 

一方の木本一之作品、これも又、生き物の形をしている。太古の三葉虫やらを想いおこさせる昆虫のごとくの姿である。鉄を叩き出しているから昆虫ではあるが重い。木本一之は金属造形家を自称しているし、これまでの作品の全ては鉄を素材としている。木本さんのこれまでの作品の系統とは少しばかり違うモノであるが、その造形の根本に変わりはない。実に律儀で固い。それは堀尾作品と比較すると歴然とする。

造形家と呼ぶよりも工芸家の枠の内の固さである。

工芸家としての教育をドイツで受けているからであろう。自分ひとりで鉄を叩き出し、ねじり、歪めの曲線局面を出そうとも、そこにはある種の正確さ、狂いの無さが求められようし、徒弟制のごとくにそれはしっかり木本さんの身体の内にもたたき込まれた。木本さんの造形の基本は正確さであり、それが固さに通じるのだ。

アールヌーボーの曲線、局面は植物を模しているが、もう少し不正確を目指すごとくの有機性を帯びていた。その造形もまた基本的に「工芸」の世界に属するが、その枠の内で良品はより自由であり、非対称性を帯びている。

アールヌーボーの系統であるとの説もあるスペインのアントニオ・ガウディの鉄の造形はカサミラの鉄細工を代表とするようにより生き物を想わせるごとくに、うごめいている。

木本作品には動くが如くがない。

マイスター制度の職人制のもとに鍛えられているから、どおしても姿形を変えてもその枠から抜け出せずにいる。

 

わたくしは木本一之は日本ではほとんど唯一に近い鉄の工芸家であると目星をつけている。彼の独りの作業はそれゆえに実に貴重なのだ。でも、今の彼の作品の本人の中の位置付けは自覚的ではない。アーチストとしての自分なのか社会性を帯びざるを得ない工芸家としての自分が在るのかが宙ぶらりんのままである。

アーチストとしてみれば、歴然として堀尾貞治のデタラメな自由さに敵うわけもない。デタラメ=自由は、これは具体派の専売特許でもあり、堀尾貞治はその派に属す出発を持ちながら、ズーッと作り続ける自身の生活の方法と創作の方法化、経験的統一をすでに成し遂げている。

今度の展示会で一番面白かったのは、その二人の製作者の対比的な成果であった。

 

つづく。

世田谷村スタジオGAYA日記
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アイスランド紀行 ウィリアム・モリス7

アイスランド紀行 ウィリアム・モリス7
日本に固有のとは言えないが、異常に多く見受けられる「祠」についてもう少し。
祠はそれが在る場所の由縁を物語る。由縁は極めて私的な歴史から、各種スケールの共同のそれ迄多種存在する。
梅原猛氏が各種述べるように、人間の祈りや、それに近い各種習慣にいたる迄、祈りは得てして、その場所が祝祭の晴れがましい、そして日常の生活の律動を励起させる如くの儀式であると、同じ位に、その場所の負の記憶を忌み嫌い、そのたたりの如くから避けようとする心情からも発生する。
その集団のスケールが大きくなればなる程にその儀式は権力者の力、威光を顕現させるものとして成されるけれど、そのスケールが人間個人個人の、身近で小さなスケールになればなる程に、むしろ恐怖に根差した、死や病に対する忌み、嫌い、逃げようとする気持ちが結晶化するケースも多いの説である。
むしろ、生の喜びの儀式でもあろう、祝祭のそれよりも、死への恐れにもつながる、物忌み、ケガレの除去への恐怖の方が、より個々人にとっては大きなものであるだろう。恐怖は喜びよりも、余程持続しやすい性格をも持つから。
例えばアノ「水祠」について。それは生と死の二面性の如くを併存させていよう。
水は人間の生命の源である、と同時に災いのもとでもある。水による死の記憶は根強いものがあろう。水死や水よる災害の記憶はより強いリアリティを持って人間達に受け継がれ易いのである。
水のアニミズムは、生命賛歌のおおらかさと同時に、それ故にこそ、死の恐れへの強さをも常に同居させ、あるいは両面を、対極の世界と併せ持つのである。

アイスランドは北海の孤島である。世界中の「島」を訪ねる時間も意味もあるまいが、ウィリアム・モリスとの時代とは異なり、今はお手軽な大型ジェット機による世界旅行も比較的に容易である。そしてモリスの馬上の旅よりも安穏ではある。近代は安穏さを電気釜の発明のように追い求めてきたが、我々もまたその様にアイスランドから一時、飛び立ちたい。
バリ島は赤道直下の南の島である。バリ・ヒンドゥ文化の観光地としてよく知られる。バリ島へは一時期良く通った。芸能の豊かさが宣伝されたからである。
良く知られるようにバリ島も又、アイスランドと同様に火山の島である。アグン山の高峰を中心に四方を山に囲まれている。南の島はアイスランドとは異なり、気候が温暖である。極寒の冬も、水の世界も遠い。同じ地球上の島でありながら、こう迄違うのかと驚く位に。一年中、ほどんど裸に近くで過ごすことができる。伝説に近くでは年に七毛作の稲栽培で何不自由ない暮らしである。太陽エネルギーは巨大だから、ほとんど手をかける迄もなく、普通に三毛作が自然の恵みとしてある。
それ故に、稲作を中心とする農耕の大半は女性によってなされる。男はあんまり働くことなく、ブラリ、ゴロリとして、時に踊りやらにいそしむのである。だから、バリの芸能は男性を中心に営まれたのである。女性はよく働く。
バリの芸能の歴史はそれ程古いものではない。それが洗練されて世界に知られる迄になったのは一九五十年代であった。海岸からだいぶん遠い水面地帯にウブド村がある。そこの有力者であったマンダラ翁がある種の天才的プロデューサーでもあり、洗練以前の状態に停滞していた、歌舞、そして器楽による音楽の革新をなした。一九五〇年代はアメリカ大陸に於いてもモダーンジャズが盛期となり、「A列車で行こう」のデューク・エリントン楽団がビックバンドとして世界に有名になり始めていた。
モダーン・ジャズは、アフリカ大陸の黒人たちの太鼓のリズムをベースとした原始のサウンドが始まりである。それが奴隷制度により大量にアメリカ大陸へと渡り、哀歌・ブルースとなった。
アメリカ文化には映画、ミュージカル、モダーンジャズを除いて、これと言った独自なオリジンは決して多くはない。やがて、モダーンジャズは一九六十年代にジョン・コルトレーン等によって最盛期を迎え、その死と共に一気に衰退への径を歩み、今にいたるのである。ひとつの際立った文化領域の現代的盛衰の典型であろうか。
ともあれ天才プロデューサー・マンダラが率いるバリ島のビックバンドはデューク・エリントンのバンドと共に世界に躍り出た時期がある。そのことは記憶に残して然るべきであろう。
バリ島住民の生活様式は、巧みに仕組まれたものも含めて、芸能が重要な位置を占めていた。近代以前の、豊かな太陽エネルギーによる食料の余剰生産による。誠に余暇社会の未来を先取りしていたと言えよう。
バリ島の風土文化は実にシンプルな象徴性の産物であった。島のほぼ中央に位置する、アグン山を中心に全てのオリエンテーションが求心的に構築された。すなわち山=アグン山の方向が聖なる方向とされ、海の方向がケガレ=死をされたのである。
このオリエンテーションによる聖死の観念は、集落の構成のみならず、一戸の家宅に迄完遂された。家々のアグン山側は聖とされ海側は死(ケガレ)あるいは俗とされた。
家々には、それぞれの先祖の墓が確然として配布された。山側、聖なる方向に、主屋接する如くに墓場は設けられた。朝夕に日常生活の中に先祖に対する儀礼が織り込まれていた。屋敷は庭園住宅とも呼べる様に、幾つかの小家屋が集合する形式を持つ。家族形式の様に充分、即応し得る広がりと、それぞれの独立性をも所有している。
そして、古式の家々にはその中心に儀式の間とも呼ぶべき、日常の神殿らしきを持つのである。
それは広い高床のテラスを草屋根の広がりの下に持つ。供物が供されたりの他は日常の生活には供されぬことが多い。
時に舞踏の伝授に使われることもある。祭の日には、家々のこの場所は、多くの果物や花飾りによって埋め尽くされる。
これも又、祠かなと考えたりもした。バリ島の家々は多くの約束事によってゆるやかに規定されている。
水ガメの配布は、神々が降臨して、実際に水を飲んだり、手を洗ったりの如くに、その動作を想像することから生み出される。
テラスに置かれた階段の有様も又、然りである。右足、左足の所作までもが細かく、想像され、その足取りの如くが階段として生まれるのである。
全てがヒンドゥー神の舞踊であり、演技であり、その芸能の総体としての身の廻りが形作られようとする。
これは、人々にとってはひとつの、神々の劇場でもあるのだった。神々の動作、振舞いが精緻なスケールと尺度を与えられ物体化されている。
ヒンドゥー寺院もバリ島に於いては民家の尺度(大きさ)そのものである。殊更に大きな物体は作られていない。寺院の境内状に、再びそれらの舞台状の物体が集合している。
太陽エネルギーの巨大さは日本とは桁違いに大きな竹を育てる。境内には数十メーターもの竹が建てられ、竹には上空で様々な形状の穴が穿たれている。スナリと呼ばれる楽器である。
風の強弱でそして吹き渡る方面によって建てられた竹は垂直の竹笛となる。絶妙な楽器である。
私の年にはその音は遂には聞こえなかった。身体能力の欠如である。
チベット高原の峠や、風の通り径と覚しき処にはタルチョと呼ばれる五色の小旗が空に張りつめられている。
小旗には無数の経文が印されて、風にパタパタと吹き続けられている。
「アレは風に経文を詠ませているんだ」と教えた日本人の大建築家がいた。普段の様々を知るわたくしには「ハッ」とした。人物の本性らしきを垣間見た。のぞき込んだと思った。アレは四千メーターを超える高度の故であったのかは知らぬ。その一瞬の会話はチベットの旅で最も強く記憶に残されている。*磯崎新のこと。すでにその時にはバリ島のスナリは知っていた。血の巡りの悪さは人間本来の直感のスピードをそぐ。
世界が一瞬にして切り裂かれたのに、その言葉の重要さを知ることになったのはそれも又随分、時が経ってからの事であった。

バリ島付近にその発生源を持つ南海生まれの黒潮は世界最大級の太平洋を廻遊する巨大海流である。この黒々とした海流によって古来、様々な諸相、諸物が日本列島に運ばれて来た。南島諸島、沖縄にはよく知られるウタキ信仰がある。アグン山を中心とする諸々の巨大観念では海を不浄の場、死を意味すると人々は共同の幻想を持つが、日本列島への中途に位置する南島地域(海域)では海は神々の招来される場所として畏敬されている。太い海の幹につながる諸々の島々でも海には多様な巨大観念を生む処として異なる受け取り方がされているようだ。あらゆる宗教的観念の、アニミズムよりも古層であるとされるマナリズムは太平洋上ポリネシヤ諸島が発生の地とされている。

「磯崎新のこと」作家論磯崎新

唐突だが、磯崎新のことを書いておく。アイスランド紀行の骨組としてウィリアム・モリス小論を書いている。ウィリアム・モリスの全体を書くのはわたくしは適していない。モリスが関心を寄せた「サガ」について、しかもその場所らしきの自分の手でのスケッチを仲介にして書いている。自分に出来ることを限定するために、である。
そんなことを想定して、どれ程の意味があるのかは知らぬが、わたくしは制作者であり、批評家ではない。解説者でも勿論ない。わたくしの、自身による規定は少なくとも批評的姿勢は少なからず除去したいの気持があるからだ。総合的な制作者の仕事に、同じ制作者として立ち向かいたい。
わたくしが避けなければと今、考えている姿勢らしきを考えてみる。するとイヤな事に気づかざるを得ない。考えるにその批評的姿勢の最たるものが、磯崎新である。磯崎新の創作、およびその解説、そして批評的言説は、わたくしに色濃く影響を及ぼした。
磯崎新の考えを短く解説してしまえば、自身の創作論を分別無く、冷静な自己批評も無く開陳するのは愚かであるーー、である。
この磯崎新の基本的な考え方が何才くらいから芽生えたのかは良くわからない。まさか子供の頃か。
しかし、それが生まれついての資質からではなく、後年、おそらくは東京へ出て、東大丹下研究室に身を置き、大学院博士課程の、謂わば学生でありながら、丹下健三の極めて冷徹な右腕として、大阪万博の中心施設であった"お祭り広場"の設計を実質的にまとめ切った。その直後に、磯崎新に侵入して、その本来の「詩人」としての才質を犯したのだろうと、目星をつけ始めている。

この考えにたどり着く迄に、わたくしも随分な時間を費やしてしまった。

磯崎新を良く知る人は皆、磯崎新の頭脳の明晰さを言う。頭が良いのである。
頭が良いなんて事は実に人物評の類の中でも最低の水準ではある。何も指摘せずに等しい。
建築界では誰もが知る様に、磯崎新は東京大学出身である。生まれ故郷である大分から、全く受験勉強なんてせずに、スラリと今で言う現役で東大入試にパスした。つまり頭がよろしいのである。師であった丹下健三は三度も入試に失敗している。
その頭の良さの内実は、中国の科挙制度の試験の仕組みがそうであったのと同じに、基本的には記憶力の性能の良さに基づく。
創造力、あるいは創造的な性格を帯びぬ、あるいは決して求めぬシステムである。

磯崎新は当時を振り返って言う。
珍しく会話中でヨーロッパの芸術家の名前がすぐに思い出せずに、「ウーン」と間を置いたことがあった。わたくしは、たまたまその週の直前に西欧の版画家であった巨匠デューラーの事を読んだばかりであった。
「デューラーじゃないですか」
ジロリの間があって、
「そうだ、デューラーだ」
磯崎新はわたくしの頭は大したモノじゃないと値踏みしていたので、目星が外れたようなところがあった、それ故のジロリだった。
決して少なくはない会話中に度々、不用意にこんな本がとても面白かった等と言おうものなら必ずと言っても良い程に、
「その本を要約してみろ」
があった。大方、わたくしは上手に系統立って要約できずにいた。
友人の鈴木博之(建築史家、東大名誉教授、死去)なぞは、そんな際には見事に要約して話すことができた。
わたくしは、この人達の頭はどうなってるんだろうと驚くばかりだった。一冊の本を要約してみせるのは記憶力の産物だけではない。その人間の関心の在り処も又、含まれての事でもあろうが、根本は科挙試験と同様に暗記力である。
磯崎はこうも言った事がある。何かの打ち合わせのスケジュールの相談であった。
「ウーン、二週間先のことだな、チョット待ってくれ、・・・万博の頃はそれ位の事はみんな頭に入ってたんだが・・・」
驚くべき発言である。
大阪万博博覧会のお祭り広場、すなわち基幹会場の設計を丹下健三は磯崎新に任せた。広場をおおう大屋根に関しては、これは丹下健三自身が自らの手でやりたかったろうから、直接自分で全てを統括したのであろう。
それで丹下健三の頭脳はキャパシティ一杯だった。
下のお祭り広場は天皇来賓をはじめとして無数のセレモニーが会期中にギッシリで、その全てに目を通さねばならない。造形物も多数手掛けなければならぬ。

真昼の銀河鉄道1


石山修武
真昼の銀河鉄道は、地球上の現実になす土木工事である。

その事は何よりもまず、はじめに言っておく必要がある。
芸術ではない。
時に芸術らしきを演じねばならぬこともあるけれど、それは手段であって目的に非らず。

銀河鉄道を名乗れば、日本人であれば誰もが東北の宮沢賢治を思い起こそう。(*1933年死去)おそらくはモーリス・メーテルリンクの『青い鳥』(*1908年発表)を下敷きにした色濃く仏教的諦念の産物である。
その魅力を知らぬのわけではない。
しかし、今、あの夜の銀河鉄道に乗り込むわけにはゆかぬ。

真昼である。連日西日本は35℃をこえようかの酷暑だ。日本列島のド真中を自負している岐阜は40℃を遂に超えてしまった。アツイ。東京は呑気にしてて、自民党議員が赤坂に集まって災害地の辛い事情をほおかむりの宴会で、又も正体を暴露している。が、何しろ真昼の蜃気楼上の日本国であるから、それ位の事はどう言う方がオカシイのやも知れぬ。そんな事はあり得ぬが、あり得ぬ事が、どうやら連続して起きてるのが、今の日本列島である。国会議員諸君の頭脳の中の光景である。まったく野党もひっくるめて国会議員の知性、品性、共に崩壊してしまっている。
国会議員の頭脳内風景は完全に廃墟である。でも、それを選挙で選んでいるのは我々なんだから、奴等の頭脳内風景は実ワ我々の脳内の写し鏡である。国会議員が間抜けなら、我々も又、阿呆なのである。
阿呆が間抜けを選ばざるを得ぬのが民主主義であるのならば、選挙としうその根幹のシステム自体がやはりオカシイのであろう。

ひと昔前、わたくしの文章作りの師匠筋でもあった山本夏彦翁(*年を経たワニの話・レオポール・ショーヴォ)は、女性に選挙権を与えてはならぬと述べて一部に顰蹙をかった。
でも、翁の意見も又、誤りであった。
むしろ昨今の社会を観察するに、むしろ男性諸君に選挙権を与えては、もう、どうにもならぬのである。今は異界の住人である翁にそう伝えたいくらいだ。

暑さにかまけて一気に言うが、そんなドロ船状態の日本国であるから、そこから脱出する方法を考えるのが一番ではないか。

真昼の銀河鉄道は、そのための導線である。

暑さにかまけて更に急ぐが、鉄道と言ってもJRや各種私鉄の所有する如くの、レールがあるわけではない。
さりとて、賢治が幻想した、夜中の銀河鉄道でもあり得ない。
幻想へと逃げるのは、あまりにも容易すぎて間違いを犯す。
それくらいの事はすでに知らざるを得ない。

「真昼の銀河鉄道」は実際の荒地に小さく建設する土木工事である。

あまりにも暑いので、今日はこれ位にしておく。
2018年7月21日

アイスランド紀行 ウィリアム・モリス6

「家屋」および「家屋のつながり」について考え始めたい。
わたくし自身は「家屋」の設計、および建設は自身の「家屋」である「世田谷村」の建設でそのキャリアには終止符を打った。もお手を染める気持ちはない。
それでも決して短くはない時間をそれに費やしてはきた。
アイスランドの旅を振り返ることで一度その事もまとめてみたい。それに足る、つまりはもうこれで止めてよかったと振り返る「物」に出会ったからである。
遠い氷島で、どおやら普段の日々を暮らさざるを得ぬ日本列島の、しかも伝統らしきを考えざるを得ぬことにもなった。

ここに図版として示す「家屋」らしきの姿は人間が住み暮らす物体としての機能を持たぬ。これは水を産み出す、恐らくは「水の家屋」なのである。「水の祠」と呼ぶのが我々には身近でもある。
日本列島には神社の数以上に無数に近くの祠が在る。それは神社の在方程には政治社会との関係も薄く、しかる故に個々の日本人にはより深い関係を持つとも考えたい。
世田谷村には残念ながら人間の墓場はない。けれども少なからぬ生物たちの記憶の銘としての印は散在している。死んだウサギは梅の樹の根元に埋めたから、毎年咲く梅の花の繰り返しの度に、薄幸であったウサギを思いおこす。家に紛れ込み、命を失った小鳥の墓もある。
隣の烏山神社の境内にも少なからずの祠がある。それらは皆、立派な本殿よりも余程、由縁がはっきりしているようだ。
年なりに少なからず、特別な光景を見た積み重ねがある。幾らガラクタばかりの近代の産物の光景をは言え、やはりそれが自分の記憶の中で、時の経過と共に無意識のうちに編集されるのであろう。何を編集しているのかと言えば自身の眼球の網膜に意識下の選別能力らしきものだ。その能力は誰にでも備わっているもので、つまりは体験の歴史そのものではある。体験の歴史を持たぬ人間なぞは居やしない。それを意識的に積み重ねている人なぞもいない。自然のうちにそれは成される。それとは別の系に属するだろう日記と言う万人の自由な記録の形式がある。人それぞれに、それぞれの才質なりの記録欲の表れである。これもまたほとんど無意識のうちになしている。眼球も又身体の巨大な網の目状の諸神経の系統下にある。それ故ここで言う才質は二つとして同質なものは無い。人間の数程に非均質である。
コンピューターはすでに万物の事象の如くが発信する記号化された情報を、無限に近く記憶する能力を持つ。
しかし、その記憶し得る単位は記号であり、それ以上のものではない。それ以上のものとは個人としての人間の個々が又、生命体として備えている象徴化の力である。象徴化はそして個々の個体の身体能力の差異によって作り出される。
人は良く記憶する部分と、記憶を嫌う部分とを持つ。その選別方法や量的相違は良く言われる個性として表れやすい。個性の中核は記憶の組織化である。記憶の形式こそが個性であるとも言えよう。近年良く言われる如くの、デジタル人間、アナログ人間の通俗的な区分けにもそれは通じるのである。

わたくしは意図的にアナログ人間の道を選んでおり、現在進行形でもある。アナログは端的に言えば歴然として時代遅れである。恐らくは将来(それがもしあるとするならば)は数的には絶滅種の径を歩むことになる。
しかし、人間の生命力の中核とも呼びたい表現欲とは、これも又記憶がなせるものだが、人間は皆、性能としては同じであるとする考え方とは、極北に位置している。
記号化とは象徴化の因子の散乱である。
デジタル思考の極みは電子写真である。今現在、人は極めて容易に記録として写真を取り得る。メモすることは不要で、それは手撮りの写真に置換されている。
しかし、ほどんど無数に得られていよう、電子写真のそれぞれはどのように人類の記憶の内に編集させているのだろうか。それ等は無限に消費のアナーキズムの内に散乱する断片にとどまるだけなのではあるまいか。何の「物語り」シナリオへのベクトルを持ち得ぬ。
つまり、言いたいことはこうなのだ。

ありとある記憶の編集(再構築)にはシナリオが不可欠であり、記号化の方向にはそのシナリオがないのである。シナリオとは物語である。物語とは、ウィリアム・モリスが、すでに近代都市ロンドンに「荒地」を視た。幻視とは異なる類の「社会」そのものへの構想力である。視ることは考えるに通じ、しかる故に誰もが常に構想力の断片を持つのである。象徴化は特権的な力ではない。万人が持つものである。
ウィリアム・モリスの「ユートピア」は、すでにあり得ぬ革命の裏窓の如くで会った。その裏窓から視えるモノ(光景)は極めつけに少ない。
そして、その極めつけに少ないモノの内の一つが「祠」なのである。
祠は社会から独立した、極めて個人の小さな記憶にそのルーツを持つモノである。
そして、その小さく独立した個人の記憶がされど、かろうじて「物体」としての存在形式をその集団化へのベクトルを持ち得ていることに着目したい。
大きな変革は望み得ないのである。それはウィリアム・モリスの挫折の歴史そのものでもある。
でも希望はまだ無くはない。徹底的な小さな変革=微細な革命とも呼びたい世界の呈示は、今こそ、必迫したリアリティを持つのである。

ウィリアム・モリスが「氷島」で視ようとしたのは何か、それをモリスは充分にリアリズムの内に記録することは遂に無かった。
「サガ」とはなんであるかと考える方法よりも、モリスは「サガ」に何を視ようとしていて、遂に果たせなかったかを考える方が可能性があると考えたい。
そして、その入り口は極めて具体的にこの「サガ」の光景である。
モリスはこの場所に立った。何故なら「サガ」に大きな関心を寄せていたからだ。
その時に、この小さな祠状があったのかどうなのかは触りようがない。モリスのアイスランド紀行には、この光景は記されてはいない。
しかしながら、モリスの紀行を読み重ねるうちに、一つの事に気付かざるを得ない。
モリスの極北の旅とも呼ぶべきに秘む、水とその旅の関連である。
モリスのアイスランドの旅は河をを繰り返し、横断し、そして時にそれを小刻みに遡行する旅でもあった。遡行を続ければ氷河に到達しよう。氷河、すなわち氷の河である。
そして伊藤毅研究室の調査団の一員として、アイスランドに於いて、初めて訪ねたのも又、深く「水」と関連していた。
それは、どおやら「サガ」とも深く関連しており、「サガ」を象徴する場所でもあった。
それは今では海底に在り、地上から深く掘り込まれたアイスランド国立劇場の地下深くに秘匿されてあった。
恐らくは大きな、作り出された「物語」の体系であろう「サガ」の最も象徴的な場所は海底にあった。そして、その上に「サガ」を象徴するのであろう国立劇場が建造されていたのである。
人間は知らず、知らずのうちに、集団の直感として近代に於いてさえ重要なことを成している者達ではある。