I 世田谷村アイスランド紀行

石山修武 世田谷村・スタジオGAYA  開放系技術論

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高地で、盆地で、海岸線での3つの道筋とする。
海岸線で、日々の日報を交える

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表紙解説

2008年に描いたスケッチが、まさか2018年のヒマラヤ内院、塩の道の家に通じていたかと驚いた。2023年の1月末にスケッチを整理しようと手作業していて気づいた。大方10年ごとにアイデアは階段を登るごとくに更新される。人によってはズーッと平坦をゆく者もいるようだ。更新は暫時ゆるやかには成されぬ。ガクリガタンと急変するようだ。画用紙に描くスケッチは捨てられずに、今も積み重ねられている。高さは腰くらいにまでなった。

つまらぬ本は捨てられるが、スケッチは捨てにくい。もうキャビネットには入り切らないから山積みだが、その山も増えるやも知れぬ。捨てられぬ弱気は我ながら怪しい。それで大判スケッチの一部コレワ余計だろうと思う部分を切り取ってみた。そしたら、その切り取った部分が妙に面白い。その捨てられぬ結末がこうなった。恐らくは、このやり方でしばらくは遊べるかなと嬉しい。

15年の歳月が入り組んだスケッチの再生だ。

ヒマラヤ計画

ヒマラヤ計画は2023年1月現在2つの芯を持つ高地での計画と平地に近い都市でのものだ。インド巨大陸は二つの大河を持つインダス河とガンジス河だ。幸運にも双方ともにほぼ源流域まで遡行した。もちろんポツリポツリの不連続である。インド領ラダック、アルチ村には大きなダムがある。発電機は4機を想定されているが、二台だけが稼働している。ラダックの主要都市レイに程近いマトー村には大僧院があり、そこからは僧玄奘が中国長安(現西安)からインド大学都市(大僧院)ナーランダへの大きな旅の街道が遠望できる。玄奘は僧院に寄ったであろう。マトー村にはアルチ村のダムから送電線が引かれている。送電柱は低く小さい。良く停電する。チベット文化を良く継承するとされる。中国との国境間近である。領土を巡っての紛争が絶えぬ。良く知られるようにインドとパキスタンはヒンドゥー教とイスラム教の最大のイデオロギーの違いがある。そして双方ともに核を持つ。地球上で最も根深い精神文化の対立を抱え込む。対立は同一の近似から生まれやすい。その同一は一神教である。イスラム教祖と考えられるムハンマドは砂漠の民が作り出した都市の商人でもあったから、説く処は商人の心得に近い。人と人との交点は商いに集約されるはプロテスタント、カソリックを問わず、キリスト教の人道主義的傾向よりもよほど明快である。*1井筒俊彦著イスラム(岩波文庫)を参照されたい。イスラム法によるイスラム銀行の利子の在り方と、キリスト教国でもある資本主義諸国銀行の金の貸借に伴う利子の在り方を考えればわかりやすい。

私の専門領域でもあった建築を介して考えてみても、どうやら古いイスラム建築様式はキリスト教聖堂様式の到達点であったゴシック建築様式よりも「美」の問題に固執しなければ、考えれば考えるほどにすぐれているようだ。美への固執とは習慣回帰に同じである。習慣は風土に根を持ち、自然な微差を持つ。一様に非ずだ。「美」と呼ぶ観念の一種ほど、生活習慣、すなわち身近な体験の積み重ねから、その重量とも呼ぶべき計測不能な内外の尺度により成されるはない。

シルクロードの交易都市サマルカンドのレギスタン広場のモスク群はイラン、イスファハンの王のモスクよりも良い。チグリス・ユーフラテス川畔で、河の水量は巨大である。川幅は内陸なのでそれほどではない。水深が深い、地響きが聴こえる程のエネルギーの移動だ。巨大な回廊内庭園の中心は噴水である。水辺にありながら、長さ500メーター、幅170メーターの広場にはさらに噴水を持つ幾何学図形の小さい池が造られた。河がほぼ水平に動くのに対し、水を高く垂直に噴き上げるが求められた。発注者のアッバース一世の権力の示現欲ばかりではない。水に水自体が持つ力を集団として視た。そして建築化しようと欲したのだ。

イスラム建築様式はモスクに典型があり、モスクはドームとミナレット(光塔)の対が特徴だ。インド・デリーのタージマハールは霊廟であり、ミナレットは形式美のためにだけ造られた。美のための美である。四本が独立している。遠近距離から共に資格が際立ち、音に対する配慮はない。色彩は白い大理石により、無彩色である。水は外部アプローチに極度に細長い錐形プールとして平面として装飾された。

イスファハンの王のモスクは極彩色に近くに表面が彩色タイルで被覆されている。アラビア半島では石材が得にくく、土を焼いた煉瓦造りに形象作りを頼らざるを得なかった。それゆえにこそ彩色タイルは異様なほどに複雑な進化を遂げた。乱雑さに陥り易い彩色は水の色と緑の色を中心に系統付けられた。砂漠のオアシスが象徴された。 日本列島では、建築物の色彩多様は江戸期に開花した。その代表例が日光東照宮である。日光東照宮では廟建築の色彩は豊かだが、ただの乱れではない。五大色に基づく七元素の色により秩序付けられていた。イスラム建築も同じである。織豊時代(安土桃山時代)に用意された城郭内部の色彩の多様は紙、板に塗装された。主に平面絵師によったが、江戸期にはそれが立体化された彫刻にもなった。そして各種職工が参加し得る場も提供した。江戸中期以降に顕著である。戦乱の時代を経て、武力は余剰となり、貯積された財が武力の装飾と化し始めたとも言えよう。その典型が徳川家代々の廟建築である。

ロンドンのヴィクトリア・ミュージアムには徳川家代々将軍の鎧兜がウィリアム・モリスの工芸運動の成果群と同じフロアーに展示されてあるが、ヨーロッパの島国から眺めれば、その仕分けも不思議ではなかろう。武力は余剰になると、その道具武器までに装飾を欲するのだ。 日本列島における近代教育の一端としての建築史において、日本建築史と西洋建築史が分化するのはやむを得ぬだろうけれど、西洋建築史のイスラム建築領域の質量ともに手薄なのは意識されてしかるべきであろう。日本近代建築史の始原には、その種もあったのだ。

日報

日報

「記録二題」

解説ー医師・吉元勝彦撮影「家路」

最も好きな写真だ。無理を言って譲ってもらった。自分のドローイング一点と交換した。

次の一点は年末の紀伊半島那智でのスケッチだ。家路とは極度の対照にある。

この双方を行き来しながら今年から歩きたい。双方の矛盾は遠いが、矛盾は小さくなりつつある。

日「ベイシー・SSS氏像」解説

この木彫は昨年の旧作を改作、再生した。旧作は記録していないので数少ない人だけが知る。旧作は図太い骨状の上部と岩礁に似た下部の支えの二つから成っていた。骨に似た木片の漂流物を、面白いなと思ったのが始まりである。世田谷村には少なからずの漂流物、更には浜辺で採取した奇妙な岩片が多く在る。人工の額縁の古物もたくさんん在る。これらの組み合わせが造型の根本だ。この組み合わせの始まりは、旧バウハウス建築大学ルーフライトギャラリーへの出展が始まりだ。(写真2)日本ではギャラリーせいほうでの六角鬼丈との二人展に出展した。自分には同じである。十分な記録は残さなかった。
この2点は2023年に試みたい東北一関ベイシーでの菅原正二との二人展を記録として残す予定であるが、菅原にはまだ話していない。カウント・ベイシーは菅原をスウィフティと呼んだ。すばしっこい奴の意だ。ジャズ喫茶ベイシーはすでに半世紀の歴史を持つ。自分の建築家のキャリアと同じである。同期の桜ならぬ、同じ時代を実に酷似して生きた。菅原の作品は「ベイシー」であり、そこで再生される音である。菅原は何点かのオリジナル・レーベルでのレコード盤があるが、これは自分の線刻銅版に同じである。プラスチックを線刻するか銅板を刻むかのちがいだけだ。自分は耳に障害を持ち、難聴者であるから、菅原のジャズ喫茶ベイシーでの音の特異を知るかは自信がない。でも音らしきには心音らしきが在るのは知る。今は菅原の心音らしきを刻一刻と聴くのだ。であるから、彼との二人展は、自分が刻んだ物体であるに過ぎぬモノと、菅原の半世紀にわたる心音との組み合わせにしたい。わかろうとする人にしかわかるまいが、それで良い、自分の最新作木彫には一点だけ新しい小片を加えて、骨状の漂流物断片に差し込んだ。カウントベイシーが呼んだスウィフティの名の自由な、風の如くになったか、どうかはわからない。菅原正二の自由自在の特異を、物に置き換えただけである。時は流れるが、それだけではあるまい。
12月18日 石山修武

日報12月12日〜12月19日

開放系技術系職人(パタン市洋裁再生工)

「演劇の死」

今は昔である。飛騨高山数河峠の廃校木造校舎に小野二郎が現れて、津野海太郎の「ペストと劇場」について語った。草原に一本の杭が打たれ、ピンクの布切れが巻かれる、が劇場である。そしてヨーロッパにおいての近代都市の生誕と衰退は疫病ペストの波及と関連するが骨子だと記憶する。今、コロナウィルス下でガス輸出交易で栄えるカタールでサッカー競技が為され、巨大なスタジアムが複数つくられ、沢山の人間を集めた。ペストとコロナの病原菌の違いはあるが、熱狂と死は紙一重であると知る。サッカー競技に世界が沸くは一瞬であり、ガス産出の金で造られたスタジアムは今日は無用の長物だ。長野冬季オリンピック後の跡に吹く風と同じだ。更には福島第一原発の跡地の風景もまた然りだ。どうやら資本主義も共産主義も熱狂へ向けての産物やも知れぬ。いずれ風の如くに通り過ぎるのだろう。何百億光年も遠くの異星人がこの有り様をのぞくも無いわけではない。きっとアイツ等、まだやってるのか、と考えるに違いない。その星は水の惑星で全てが死者である。

石山修武

深沢軍治・作 「無題」

解説

色や形はともかく、この絵描きの作品群は自分に似る。そう考えて来年「視線の先」と題した二人展を話し合ってやることに決めた。画家との展覧会は初めてである。70歳を境に建築は続けるが、建築家村からは脱けると決めた。先はそれ程に長くはないが、経験から10年あれば程々の事は出来るだとう。その程々の内が問題だ。金は得ると嬉しいが、使う方がもっと嬉しい。もうあんまりやりたくない事はやらない。年末の中里和人との二人展に引き続きの二人展であり、恐らくは自分は深沢の絵を介して、今の絵画のつまらなさを批評する作品を出展するだろうが、まだわからぬ。深沢の絵は充分に批評に足る「アニマ」の深度(質)を持つ。この深度は実に年を経て、キャリアを積まねば得られぬ類の技術にもより、それを自分は開放系と呼びたい。絵画にも、と言うよりも平面芸術界にこそ、より端的に誰でもが潜在能力として所有する力である。そう考えて年末の目録の冒頭に置いた。

石山修武

日報12月2日〜12月11日

日報11月24日〜12月1日

宮沢賢治小論2

2022年12月24日よりの展示物一覧

開放系技術圏

ドローイング4は3の限界を意識しての脳内での構築案であり、少しばかり建築の形式が露出している。スワヤンブナート寺院は古代湖であった盆地の端の丘上に位置している。寺院のストゥーパは幸い倒壊をまぬがれた。
カトマンドゥ盆地に多い幾多のストゥーパは大小共に生き残った。本ん地中心の王宮間近のシヴァ神殿は巨大な五重塔であったが倒壊した。ストゥーパの形は土饅頭から生まれている。インド・デカン高原サンチーのアショカ王のストゥーパは表面を全て石で荘厳されていて、歴史的には最古であるとされる。アショカ王はネパールに巡幸した。現パタン市は、市街を4つの(東西南北)アショカ王のストゥーパで枠付けられている。4つのストゥーパが先ず配されて、同時にであろう南北東西の主要街路が造られた。中心がダーバースクエア、すなわち王宮である。街路の大半はレンガで舗装された。ヨーロッパ諸都市は歴史の古い都市にはシティウォールを持つ。石造あるいはレンガ造の分厚い壁で市城の中心が囲い込まれている。そして都市の歴史は立体的に積層され続けたのである。大半の主要都市は今も掘るとローマ時代の遺構が出現する。そして更にローマ時代の遺構を掘り進めると、エトルリアの遺構が埋まってもいるケースもあるようだ。
都市は生死が繰り返される場所である。権力(金力)を持つ人間程中心近くで暮し、そして死んだ。死んだら大聖堂の下に埋葬された。無名の人々は恐らくシティウォール外が墓であったろう。
シルクロードの小都市ヒヴァも堂々たるシティウォールを持つ。そのシティウォール内外に石棺が積まれてもいる。人間の死に東西の違いは少なく普遍である。ヨーロッパのシティウォールも又、普通の人々の墓場であったろう事も考えられ得る。死者も又、死後その都市を守る者として再生されたやも知れぬ。
隣国朝鮮半島の都市にはシティウォールは大小存在せぬ。日本列島同様に石材は豊富であるが、不思議である。身近ではあるのに朝鮮半島には多大な神秘が残されている。
4ドローイングは計画中のパタン市、マハブッダ地区の塔の下部を描いた。拙い絵ではあるが私には重要である。何故ならばドローイングに身近な未来を描きこんだからだ。レンガ壁にはめ込もうとするは「窓」と「装飾」である。
この場所には現在三階建の住居が在る。それを取り壊して新しく建築する。ただし木造部分は捨てるに惜しい入念な細工が施された部材、部品が少なくない。だから、それらの全ては若い列島人に一つ一つ丹念に実測してもらった。ネワール建築様式が少しでも残されている断片材は何とか全てに近くを再利用する考えだ。

スワヤンブナートの丘から長い長い石段を用心深く降りて市の中心部へと戻る途中の小道は40年程の昔は私が一番愛した路であった。歩くと生まれる前の大正期の匂いがあった。祖父祖母父母、皆大正時代、初期昭和の時代を良く生きた、その匂いである。
大正デモクラシーと呼ばれるは、恐らくは大正天皇の歴史としての記憶が実に薄いからである。天皇が歴史の表流に浮かぶ時代は一様に不安定である。その点において大正天皇の存在形式は象徴としても実に理想的であった。
スワヤンブナート寺院ストゥーパは日本列島で、例えればは困難だ。半球を伏せた白く塗られる丘状の頂部には図像学的に、列島各地散在する五重塔三重塔の形態の素ともされる王権の記号である日傘の形が意味そのものとして在る。
乾燥地帯、例えば砂漠での王の位置はその日傘によって象徴された。一本柱に傘を重ねる形態は、それを模倣したのである。
卒塔婆の語源はストゥーパである。土饅頭に一本の棒を立てたが始まりで、棒が次第に工夫されて板状ギザギザ装飾がつけられたのを、今も我々は墓供養に道具として供し続けている。あのギザギザは多層のヒサシの意であり、更には日傘である。
スワヤンブナートからの径は列島では参道である田畑の中の一本道だ。始まりのドローイング1の墓山への葬列の一本道である。
一本道はやがて都市に入りレンガ敷きになる。やがて街道の景色になり、道沿いに民家が現れる。民家のスタイルは貧しいけれど、皆同じである。
列島では江戸時代後期に木工技術が最頂期を迎えていた。(渡辺保忠「工業化の道」)
技術が成熟するとは、技術が平準化するである。つまり社会に偏在しないである。建築技術は様々に権力に偏在しやすい。古代王権は宗教のそれと近似であり、建築様式をそんな表現に多用した。巨大墳墓、王城宮殿であった、カトマンドゥ盆地は古来3つの王権が存在した。それぞれが三宮を構えたが、幸いな事に地政学的条件、根本としては食料他の生産力が総じて貧しく、集約力を欠いた。貧しさの特権と呼びたいが、今の時代には、より意味がある。大宮建設、宗教建築建設に振り向けられた技術と民家建設への技術にはそれ程に大きい差異が無かったのである。
王政時代のネパール首相には何度かお目にかかった。印象では列島での村長さんの風であり、私の賜物はディズニーのミッキーマウス・ウォッチであり、ともに平然としていた。これでは汚職など起きようがないと痛感した。
王権は暗殺により、倒されたが、暗殺の背後には隣国であり続ける中国の影が在るかは カトマンドゥ市民の常識である。
ネパールの未来の価値は、その地政が中国、インドの両大国に等分に接するに在る。
スイスの地質学者トニー・ハーゲンの著作「ネパール」はヒマラヤの地質学的地理学のオーソドキシーを基に据えていることでも、極めて示唆的である。
地質学的変動、天候変動はともに人間の力、金の力が遠く及びようが無い故に人間の生活を深く規定している。将来更にその本質は学ばねばならぬであろう。自然に学ぶの具体はそれである。
2022年現在のスワヤンブナートからの理想の具体としての道は、すでに一変している。都市化のスプロール、すなわち人工の都市への集中は世界に普遍だが、例外は極めて少ない(王国ブータンなどの希少な例外はないではない)。
参道は郊外住宅街に埋没した。そのその風景は悪いのである。私の住み暮らす東京郊外の風景と通じる。
海の如くに密集した住宅街の風景は、自発的植民地様式群である。各戸に車は普及していないが、オートバイは持つ、TVは持ち、おそらく電気も持つ。時に停電する。敗戦から急速に立ち直り、各種電化製品を三種の神器として、手にした我々の歴史はここにも繰り返されている。首都カトマンドゥには自学自習はついに生まれえなかった。
建築生産技術は、私の学生時には木工大工の芸術および組織を意味した。今は仮定としても考えられない。
何故ならば専門職としての大工の姿が消えたからである。住宅建設の現場には江戸末に最頂期を迎えていた筈の大工職人の姿はもう視えぬ。労働するは全てが時間工の姿、形式からである。
1940年代に用意され、50年代に実効起動し、60年代池田内閣の高度経済成長(所得倍増計画と呼ばれた)政策により完成したのはアメリカ型の大量生産、大量消費の生活様式の規格化でもあった。
産業革命はイギリス・ランカシャーの紡績工場の機械による織物、布地の生産様式からであるが定説である。(グーテンベルクの印刷技術が起点であるの説もある。)
現在のフォルクス・ワーゲン社、トヨタ社などに代表されよう自動車生産様式の自動化はそれの完成を示している。
フォルクス・ワーゲン社工場を訪ねると、生産ラインの全ては自動化され、しかも工場内はほぼ無菌状態であり、白い防護服状のユニフォームを着けた人間が、わずかに居て生産ラインの監視をしている。全てがロボット化されて無音に近い、スイスに多いとされる惣菜会社、食品会社の自動生産ラインはまだ未実見であるが、それ以上の静寂の内に在るのだろう。
人の姿が無い清潔さの極でもある、それでも工場である生産様式が現代の生産の理想であるのだろう。
その様式に異を唱え、自身で一部を実行したのが、イギリスのウィリアム・モリスであった。(ウィリアム・モリス、1833-1896)
ウィリアム・モリスのレッドハウス(自邸)を近代建築の祖とするか、ドイツ・バウハウス(デッソー)校舎を祖とするかは建築史家間の意見が分かれよう。
分かれてしまうのには歴史の功罪とも呼ぶべきがある。すなわちアドルフ・ヒトラーの問題である。始まりのバウハウスはワイマールの地に生まれた。その校舎はアンデ・ヴェルデ設計であり、予算はアドルフ・ヒトラーの指導下で作られた。
近代史はまだ生き物である。その評価は生き物同然に揺れ動き続ける。
私はワルター・グロピウスの設計によるデッソウ・バウハウスを近代建築(俗に呼ぶモダニズム様式であるが、、この呼称は考え方(思想)と表現とが混濁して正確なモノではない)の雛型として学んだ。しかし建築史の教師であった渡辺保忠はデッソー・バウハウス校舎には異見を持っていた。窓割りのプロポーションが一向に機械的ではなく、一点からの視覚的遠近法がデフォルメされているであった。口伝であり文字としては残されていない。
ワイマールにはナチスの本部も在り、仕上げは石造風であったと記憶するが、窓割り、すなわち柱間距離(スパンと呼ぶ)は同一である。
ワルター・グロピウスは自身の手を動かして設計する人では無かった。その具体の事例はバウハウス(ワイマール)が位置する大きい森の中にあるグロピウス作の竜(ドラゴン)の形を持つ、アナキスト記念碑(立体彫刻)に残されている。この小さいモニュメントも実際には一人の女学生の手によるが実証されている。(バウハウス建築大学出版物による)
グロピウスはアメリカへ渡り、ハーバード大学建築学科を創立した。ミース・ファンデル・ローエは良く手も動く職人型の建築家であり、グロピウスとは異なる種であるが、、アメリカ型文明の結晶である高層事務所ビルの名作シーグラム・ビルを作品として残した。

ドローイング4には、私の間近な未来、「窓」と「装飾」を描き込んだが、少し具体の説明が必要である。ドローイングに代えて小立体=彫刻の具体を示したい。
5図像は彫刻らしきの写真である。そして開放系技術圏に属する、木彫である。使用した木の材質(素材)は良くはわからない。何故ならば秋田県日本海沿岸の浜辺で収集した流木(漂流物)を使っているからだ。この彫刻は二つの部分からなっている。作者は私である。
作ったのは私だと表明するのは理由がある。工業製品である金属・ガラス、又はそれ等の組み合わせによる立体物は明らかに近代の産物だ。しかし木、石、土類を使用する彫刻は自然の産物の加工物であり、その意味では単純に、原始的加工物だとも呼べるだろう。
普通に彫刻と呼ぶは全て物質の加工品であり集合物である。
始まりの素材は土であったろう。やがて青銅による刃物が使われるようになり、土の造型は素材を石へと拡げ、木彫も又、刃物あっての物であり続けるは言うまでもない。
私の造形教育のはじまりは、まだあった小学「図画工作」および「家庭科」であった。私は保育園、幼稚園体験は全くない。家庭科は男女ともに習った。雑巾を縫ったり、パンツを縫ったりであった。振り返ってみれば1944年生れの私の物体愛好はアノ教育にあったのではないかと考える。小学校4年時の教育であり、残念ながら、それ以前からではない、つまり、私が「開放系技術」と殊更に言うは自身の内発からの思考ではないのだ。
教育の産物である、そして、あらゆる現代の芸術作品も又、そうである。芸術家らしきが生み出す品々も又、教育から生み出されている。内的想像力と呼ぶ仮空が芸術家の唯一の存在理由であり、他では無いが、コレハ嘘である。現代美術の祖はヨーロッパ・ルネサンスの人間中心主義(そう呼ばれた)である。それ以前は神や死者への装飾物であった。ラスコー、アルタミラの洞穴内壁画も又、儀式であったにちがいないのである。
産業革命による量産方式(繰り返し)がそれを崩したのである。ワルター・ベンヤミンの論「複製技術時代の芸術」は、その認識の一端を切り拓いた。ベンヤミンの論はハンス・ゼードルマイヤーの「中心の喪失」の上に積み重ねられていよう。

開放系技術圏

二千二十二年七月始め現在コロナウイルス感染は第七波が始まろうとしている、ウクライナ戦争も続いている。この天変地異と人為の入り混ぢった大きな変動は列島における平安時代末に酷似していよう。
当時の列島人(その内には私の祖先の人間も又、無名の民の一人として、いたと考えるが重要かと想う。誰もが平等に祖先を持つからだ)は、勿論、国家の枠を知らずにいた。それぞれの生活圏外を知らずにいたであろう。しかしながら全てがそうだったとは考えにくい。
何がしかの人間は、すでに朝鮮半島、中国大陸文明文化を断片として知っていた筈だ。
千二百十二年に記された鴨長明「方丈記」が在るがそれを示している。方丈記に示されているは典型的な列島人の都近くの住民の社会観念、精神である。天変地異の度々に、長明はその事件現場をのぞこうと出掛けている。 今の時代ではこの行動を批評と呼ぶ。長明は下級貴族に属したが、その官僚体制からはそれ程の恩恵を得ておらず、方丈記には坊主文化の影響があり、無常感の列島特有のセンチメンタリズム(短期に生まれ消滅する「死」に対する讃美に近い感性)が装飾もされているが、その根底はまぎれもなく、赤裸々な好奇心の形である。この裸形の批評の形は以降江戸時代末期近くの十返舎一九、鶴屋南北まで五百年程を歴史の伏流となり亡流として露はれる事がなかった。
平安時代末期の、都近くの住民は少なからずの坊主たちとの接触は日常に近くあったにちがいない。何故ならば死は万民に等しく訪れたし、坊主は死の儀礼らしきに等しく、礼の儀式として必要であったからで、これは今に変りは無いのである。
ドローイング①に示したのは祖父小田寿太の葬送の行列の記憶だ。岡山県吉井川沿いの小集落での光景である。一九五十年頃。列島では人は死ぬと土葬された。墓地法(埋葬法)が制定されたのが一九四八年であったから、まだ土葬は決して珍らしい風習ではなかった。樽棺内の祖父を墓山へと送る行列には私も交ぢっていた。大事にしてもらった祖父母であったから、田の畦道を行く葬列は強く記憶に残る。
葬列の先頭には白い布地ののぼりが立てられ大きく経文らしきが描かれていた。晩夏であった。風も無く音の記憶は無い。樽棺の内の祖父は屈葬の姿勢であった。生きて座すの姿勢である。人間生誕の胎児の姿をとらせて、再生を祈ったの説もある。
叔父二人が腰に荒縄を巻いた白装束に草鞋姿で棺をかついだ。
古代の古墳をそのままに村落共同体の墓地とした墓山の頂近くに掘られた穴に祖父は埋められた。何年かを経て遺体が完全に白骨化すると再び掘り出されて本葬された。
坊主の姿は一切無かったから、仏教伝来以前の葬祭儀礼の形も継承されていたにちがいない。
その光景を思い出しながらのドローイングは想いもかけずに枠外へと展開してしまった。比較的自由に枠外へと踏み出させたのは、自分の内に在ろうのアニミズムであると考えたい。アニミズムは古代人に在ったばかりではない。今を生きる現在進行途次でもある。そう考えるに至っているので、私の進行形途次であるアイデア「開放系技術(系)」の概要を示そうとする開放系技術圏の冒頭に絵図(ドローイング)として示した。

ドローイング②はネパール、カトマンドゥ盆地の光景である。ヒマラヤ山脈造山運動以降の地殻変動でカトマンドゥ盆地は出現した。日本列島に於ける最大級の地殻変動はフォッサマグナの出現として露われているが、その時期については細部は未知である。
動く巨大島であったインド亜大陸との衝突でヒマラヤ山脈は出現した。
ヒマラヤ山脈は勿論ヨーロッパ・アルプスをはるかに越える高度拡がりを所有するが、ゲーテが馬車でアルプスの一部を越えて、地中海すなわちヨーロッパ諸芸術の始原の地であるが、ゲーテはその旅(グランド・ツアーと呼ばれる)で初めて海の存在を知った。しかし、まだヒマラヤの在るを知らずにいた。ゲーテが住み暮したワイマールは盆地であり、その拡がり(地政学空間)はカトマンドゥ盆地に酷似する。
言う迄も無く、岡倉天心がヒマラヤ山脈の骨格を、東方の理想と呼んだ文化風土の骨格である。岡倉天心は地政学を基盤にする文化批評の先駆者であり、インド亜大陸では、ベンガル(インド東海岸)のタゴールの考えと地下水脈は通ぢていよう。タゴールはインド古来の細密画を愛したが、ベンガル・スクールの画家たちはむしろそれを避けた。抒情に富んだ朦朧体表現を良くする者がいた。岡倉天心が日本画界に持ち込もうとした朦朧体はその系である。 私のドローイングは、振り返れば極めて今風(日本の)に漫画的である。墓山、すなわちストゥーパが擬人化された塔を持ち、そこに描かれた目玉から光線が放射されている。 地中海諸都市の緯度は我々の体感を超えて高い。列島東北部北端と同じである。アジアモンスーン気候の高温湿潤が、その特異な抒情を強く構築させたのである。岡倉天心は良くその本質に接近していた。

ドローイング③はカトマンドゥ盆地最古とされるストゥパを持つ、スワヤンブナート寺院が大地震により、崩壊した現場のスケッチに手を加えたものだ。
ネパールに強い関心を持ち続けるは、都市部の集住体の姿形が、日本列島の大正期(一九一二年〜一九二六年)と酷似するからである。王宮殿も比較すれば(ヨーロッパ文化のそれ)貧しいモノで民家の姿形と違いは小さい。
スケッチは写生であり、そのままの現実を描いた。ヒンドゥー教仏教を問はず、ネパールの権力機構は小さい。山岳部には裸形の非近代が残存する。そしてヒマラヤ山脈の光輝がその貧しさを包み込み続ける。非近代の本質は貧しさの普遍である。その普遍は王宮や、権力の一端である宗教建築に投じられた金銭と民家の在り方が同質に近く露われることに在り、他では無い。ナチスドイツからの亡命者であったブルーノ・タウトがすでに指摘したところである。(日本の住宅)
亡命者は異常に覚めた眼を持たざるを得ない。その身の安全保障をいかなる国家も提供せぬからだ。四六時中の日常も、自身の身を自身で守らねばならぬ。ブルーノ・タウトが残した言説は今も強く日本列島住民に(特に知識人間に)残るが、その言説は亡命者のそれである事に留意せねばならぬ。
このスケッチにそれでも手はだいぶ加えた。当初スケッチは崩壊した文化遺産を復元する労働者の姿に感動して描いた。レジェの絵が好きだから、その影響の力もあったろう。しかし何かが不足していた。その不足を描き加えたが、描く力量が充分でなかった。専門職としての画家に非ずを痛感した。描く技術の不足を欠点としないは「開放系技術」の要めでもある。空間に溢れる風や、音や光の震えの実態が描き切れぬのだ。しかし、この限界こそが私そのものであると、観念して、他人に見てもらえる枠に納めようとの四苦八苦は重ねたのだから、仕方ないのである。私の描く技術の限界である。

FUKUSHIMA計画


日本石棺列島図、列島葬送図、共に2017年に描いた。中央に描いたのは磐梯山だ。磐梯山大爆発で出来た猪苗代湖は何万年もの地殻変動でゆるやかに形成された。東南部んい鬼沼があり、湖沼と山際一帯の境界地に計画を作ったことがある。「時間の倉庫」と名付けた異形の箱状は作った。何年も通った。「前進基地」と名付けた鉄パイプ2本の上に人工の畑も作った。いくつかの理由で計画は中断された。鬼沼には縄文時代の遺物があったようだ。
間近の集落は牛馬を飼育して、同居のようであったのを強く記憶している。止むなく中断した計画と、この、自分の恐らく最期の計画とが結びつくのか、どうかはまだわからぬ。この計画は、原子力発電には憶気的であるドイツ・フィンランドの国立大学下学長、バウハウス大学のジェラルド・ツィンマーマン教授、フィンランド工芸大学ダクマ学長、ベルリン工科大学のY・グライター教授等の賛同を得て、更に国際化を含めて進める。日本では広島市元市長平岡敬を代表とする。
2023年2月1日 佐藤研吾

故・二川幸夫から、「イシヤマは初めに考えた通りをヤレばいいんだ」と言われ続けた。その意味はおぼろにわかり、しかしはっきりとした形としては、わからずにいた。二川幸夫は天性の写真家であった。写真家は企画力の根幹が本分である。美しく撮らせる何者かが在りや、である。「日本の民家」は最初期の代表作である。一冊の写真集を作るに、美術出版社の経営を傾けさせる程に、金を蕩尽させた。解説を建築史家・伊藤ていぢに書かせた。伊藤は脚力に難があり「見ないでも書ける」とうそぶいた。「ダメだキチンと視て書け」と旅へと引きずり出した。伊藤ていぢにはそんな処があったようで、後年、日本建築史の太田博太郎から「伊藤ていぢ自重せよ」の書評を喰らった。それで伊藤ていぢは「重源」を書いた。太田博太郎が日本建築史において、恐らくは一番に近く関心を寄せたと想像する「重源様式」とまで呼んだ大仏様の列島における創出者である。伊藤の「重源」はその描写において平安朝時代の風俗細部が入念に描かれたのは太田博太郎の批評への返答たらんとした解答であった。しかしながら細部が多く描かれ過ぎて、建築の骨格は書かれなかった。やはり大仏様式の故郷であろう、南詔雲南省にまで出掛けて、生地を確かめる体力に欠けたのだ。
二川幸夫はそれ程の長生きはしなかったが体力は秀でていた。つまり身体の骨格に自身を持っていた。「ポルシェでバァーと二千キロ走るは楽だ。」との白髪三千丈気味は在ったがその眼は確かだった。「オマエには煮え湯を呑まされ続ける」が常であった。最後に建築を見てもらったのはプノンペンの「ヒロシマハウス」だった。
「どうせダメだと思ってきたが、オマエ、根性ある。涙でるぜ一生懸命撮るからな」と言った。嬉しかったというよりもホッとした。昨日の如くに憶えている。だからヒロシマハウスと世田谷村を、何とかして乗りこえたい、できれば蹴散らしたいが、今の目標だ。自宅を蹴散らせては生きるに困る。 家(ハウス)はそんなモノである。社会的産物でもあるが、それ以上の何者かでもある。自然の如くに南島でみせた磯崎新は終生、家を持たずであった。又、大仏様はむしろ天竺様のエキゾチシズムの名がおり似合うと喝破した。二川幸夫は筑波センタービルを含めて、近々の磯崎が設計したモノに不満だった。ポストモダーンの命名は怪しさそのものである。ましてや今の、いかにもな当世学生気質そのマンマのモノへの不満は予想するに極まれりである。涙一滴出やしない。二代目・二川由夫はつい先日、「10年はこんなでしょう」ともらしたが、生きている間に建築の死を脱けるかどうかは覚束ぬであろう。
つい先日、電車で那智の補陀落渡海船を視た。良い時に視たなと考えた。簡単に物事の現実を振り切れるワケもない。アレに乗り込んで死出の旅に出た坊主たちのナルシズム演技まがいの舞台セットでもあった。あんなに多くの国を意識した事するんなら、陸地に自作自営の畑でも耕して、これも又、演技で良いから食物の一部でも得ようとしたら良かったろう。一人での自作自営にはおのずからなる限界がある。他社の力なくしては生は覚つかぬを、更に知るが良かった。あんな一人芝居は無意味だ。
石山修武

表紙解説


日本石棺列島図、列島葬送図、共に2017年に描いた。中央に描いたのは磐梯山だ。磐梯山大爆発で出来た猪苗代湖は何万年もの地殻変動でゆるやかに形成された。東南部んい鬼沼があり、湖沼と山際一帯の境界地に計画を作ったことがある。「時間の倉庫」と名付けた異形の箱状は作った。何年も通った。「前進基地」と名付けた鉄パイプ2本の上に人工の畑も作った。いくつかの理由で計画は中断された。鬼沼には縄文時代の遺物があったようだ。
間近の集落は牛馬を飼育して、同居のようであったのを強く記憶している。止むなく中断した計画と、この、自分の恐らく最期の計画とが結びつくのか、どうかはまだわからぬ。この計画は、原子力発電には憶気的であるドイツ・フィンランドの国立大学下学長、バウハウス大学のジェラルド・ツィンマーマン教授、フィンランド工芸大学ダクマ学長、ベルリン工科大学のY・グライター教授等の賛同を得て、更に国際化を含めて進める。日本では広島市元市長平岡敬を代表とする。
2023年2月1日 佐藤研吾

山の姿11

車輪3点

ことさらな儀式は行われなかった。円環の炎と高く昇る煙を我々が眺め続けただけだ。親子二代の鍛冶屋と、馬車の御者とが見続けた。それぞれが何を想ったのかはわからない。でもラジギールの御者町中に、円環の煙が立ち昇ったのである。煙は空高くに消えた。
インド領チベット、アルチ村アルチ寺院には妙な灯明小屋があった。坊主が油を小さく炊いて、その煙が小煙突を通して空に登るのだ。今の我々に普遍がある火葬場の煙突に同じである。
視えない都市のもう一つの現実である。情報は今、電子化されて映像としての記号となる。必ず消滅する。記憶から失せる。
人間の眼には、しかし諸記号はコンピュータ・スクリーンを介して伝達される。スイッチを切ればなくなるし、電気が失くなれば消える。それにスクリーンには必ず材(フレーム)がある。フレームは現実の極小点でもあり、生な現実ではない、極めつけに怪しいのだ。
その先はまだわからない。

磯崎新の思い出
磯崎新は旅を好んだ。旅は国外へが少なくなかった。何度も同行させてもらった。彼はいつも、ファーストクラスのキャビンで同席は無かった。私にはファーストクラスは似合わぬを知っていた。機内のキャビンを訪ねると、ボーッとパッチ(モモヒキ)姿で仁王立ちの姿であった。腰を少々痛めていたから、そうしていた。短距離の上海へはファーストクラスキャビンが無かったのでビジネスクラスに同席だった。文庫本を数冊、彼は読み切り、読み終わったのを無造作に私に、次々に渡した。「コレ読んでおけ」であった。事程左様に彼は私を教育した。他にも国内外での設計料(金である)の事等も教育した。残念ながら、私にはそんな機会は訪れなかったが、そんなモノなのだは知った。私個人の旅は設計料とは無縁の地域ばかりだったのだが、建築家とはそのような者であるのかは知った。教えられたのは膨大であった。
上海からはチベットの旅であった。ジープ数台のキャラバンで、命からがらの旅であった。よく、メコン河源流の谷底に落ちずにいたと想うばかりの旅であった。
東京のアトリエで何かの打ち合わせの後、磯崎は一枚の写真を見せた。砂漠で屈強な男達と一緒の姿であった。
「どうやらここにノアの方舟が埋まっているんだ」と言った。「アトリエの連中は誰も、僕がこんな事してるのは知らないんだ。」と言った。シリア砂漠であったか、男達はクルド族の者達で、皆銃を持っていた。写真からでも危ない空気は伝わってきた。ノアの方舟を掘り出して、何やらの計画を考えてる者がいるらしかった。
レオナルド・ダ・ヴィンチの人力飛行船の話も忘れられぬ。何処かイタリアの岩山の下で、人骨他が発見された。「アノ人骨はダヴィンチの人力飛行機の操縦士にちがいないんだ。ダヴィンチはこうやって彼の背中を押したんだ」と身振りまでして見せた。最初期のアトリエスタッフであった六角鬼丈に「昔もああだったのか?」と尋ねたら、「そうなんだ、昔からだよ」だった。怜悧きわまる磯崎新とは別の人間であった。
そんな磯崎新を自分は好きだった。

石山修武

開放系技術圏

山の姿9-1

山の姿8

ようやくにして、私の全体の予定テーブル(時間割)と、グチャグチャ入り組んでもいた現実下の考えとに連結の径が視えてきた。実にささいな事からであった。
この事を記して、福島他の計画をすすめる。ネパールでの開放系技術圏の仕事は、ヒマラヤ内院での計画は先に送らざるを得ぬは、すでに数ヶ月前に決めた。コロナ事変の3年間の時間経過がそうさせた。
カトマンドゥ盆地のパタン市、マハブッダ地区での仕事を第一に、それ故に着手する。
この仕事は俗に呼ぶA棟B棟C棟のブロックに分かれたモノである。全て、わかりやすく言えば屋上の計画である。5階建のネワール様式を持つ。それでも初期近代建築の、複雑に入り組んだネワール様式都市の数ブロックを連結して、都市の一部を再生させる仕事だ。
私のキャリアで「開放系技術圏」と呼び得るのは2系列、それでも存在する「開拓者の家」「幻庵」等の小住宅の仕事であり、この系は、今コレを書く「世田谷村 」に連結する、一方に「松崎町」「唐桑」「気仙沼」等二系列は分離していた。
その分離は私にとっては問題であった。この問題は私の体験中に在り、解かねば意味が生まれようが無い。少数ではあっても共有可能を望むからだ。
「都市」と呼ぶ。それでも人間の生態系の、コレも又、一個の問題である。この問題をキチンと考えようとするワ、実に少ない、が存在している。建築史家と呼び得る人達である。希少であるが、姿形を表しつつある、いずれ論として結晶するであろうが、私の任では無い。私はどうしても物体として、その断片を示したい。
開放系技術圏として、小さな枠内においいて示したい、人間には普遍として寿命と呼ぶ、有限がある。この有限はありがたいモノであり、無ければ疲れ果てる計りである。
「開放系技術圏」については、図像として、そして小物体としても、本年秋の小さな個展として示す。
カトマンドゥ盆地パタン市、マハ・ブッダ地区での計画は3つの棟の連結である。すでに現実の都市として在る。それ故に再生計画である。
コロナ事変以前には、ネワール様式を残す街区の一つに、小さい塔状を入れ込もうを先ず第一に考えた。
しかし、3年が過ぎてしまった。この3年の時間は大きいが、グズグズと述べるを略す。
私の能力は小さい。計画の細部を検討するに、その建設の順序を変更したいの結論を得た。
小塔をネワール近代都市住居群が持つ、光庭(中庭)から、手掛け始めずに、五階建の屋上造形物の製作から始めようと決めた。私はその棟の5階の一室で過ごすことが多かった。屋上も日々洗濯モノを干したりで知尽する。

世田谷村の地上5メーター程の二階には、大きい金属小物体が在る。我ながら奇妙な小物体だが、大きいのでもある。
真鍮の八車輪を台として、中空に魚が泳ぐを造型した。カトマンドゥ盆地の神の山、マチャプチュレ(魚の尾)を山車として、想い描いた、それでも手で触れる実物である。
自分でもワケの分からんモノっ作ったナアの?があった。何年か前の初個展(世田谷美術館での展示を除く)に出展して、案の定、売れ残った。
何故、コンナもの作ったのかは自分でも良くわからないママであった。それが、どうやら復活したのである。マハブッダの既存5階の屋上物体としてである。
世田谷村の2階で、常日頃見続けていたからであろう、それに気付く時にはゾクっとする嬉しさがある。又、バカをやったかの、バカに、どうやら連続が視えたからだ。バカはもう仕方ない、直しようが無い、直す時間も無い。
それで、本日はこの妙な物体を、更につめてみたい。
何故にネパールなのかは自分は明快に了解している。
世田谷村から眺める街並みは良くない。実に悪い。ネワール様式の五階建近代様式と比較すると、惨めである。かろうじて、世田谷村の屋上は土が在り、植物が自生を始める。この人工物への添加は有機的な緩衝帯として街並への連続の力として働き始めている。そう確信するのに20年の月日を要した。
縄文の古代より、集住形式は集落の形として在った。律令制による奈良平城京は人口及びその集中は過度では無く、中国都市の格子状平面をそのまま移入すれば、前都市の状態は達成し得た。徳川政権による全国規模の城下町の誕生が、列島独自の都市形態の始まりであり、明治維新が、本来無用でもあった仮想の戦争を象徴した「城」を無用のモノとした、以来たかだか150年の列島近代である。世田谷村から眺める街並みはその集約として在る。それ故のネパール・パタンである。