I 世田谷村アイスランド紀行

石山修武 アイスランド紀行

世田谷村スタジオGAYA

2018年 4月

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世田谷村スタジオGAYA日記

世田谷村スタジオGAYA日記

古都の中心街のデザインと再生10

日本国内でのわたくしのささやかな仕事のなかでは、伊豆西海岸松崎町での仕事が、計画方法として今のパタン市での計画に近い。

松崎町の牛原山=うしろ山はパタン市における4つの大きなストゥーパであった。

決して少なくはない「物体」を実現させた。ドローイング中央に示した中庭型の街区計画は実現できなかったが良いアイデアであった。

今、それに場所を変えて再び取り組もうとしている。地球を人工衛星から観する広大な視野を想像力として今は味方にできる。

創造の喜びは地球上の距離(ネパール、日本の)を超えて今は現実として考えることが出来る。

石山修武

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古都の中心街のデザインと再生9

日本人は山の姿に古来特別な感情を持ち続けてきた。このドローイングでも山が風景づくりの主役である、構築物は脇役として考えられていた。

日本の山々の姿は小島烏水の日本風景論(箱庭論)に言われた通りで、今も在る。

ネパール・パタン市での計画は小さな風景の中に生き続ける人間として、ヒマラヤの大の価値をいかに都市で生活する人々に知らしめるかの問題でもある。

石山修武

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古都の中心街のデザインと再生8

「補足」

「耳の劇場」のスケッチ提示は少しばかり急ぎすぎたきらいがある。

70年代、60年代に建築デザインのラディカリズムの顕現として、ウィーンのハンス・ホライン等により「全ては建築である」の言説と共に先駆的なアイデアの提示があった。

あのアイデアは当時のウィーンには現代建築のデザインが実現し難いの現実があったからでもある。それは都市の建築群が多くの歴史性を帯びており、建築家たちの新しく、珍奇なモノへの好奇心が充分に満足させることが困難でもあったからだ。イタリアのスーパースタジオのアイデアもまた然り。比べるに、日本の都市の中心部は多くまだ木造建築が充満していた。磯崎新の「建築の解体」は、多くを西欧のそんな中でのラディカリズムを紹介したものであった。わたくしも含め、日本の若い建築家に影響を及ぼした。不燃防火の日本の都市の現実とは遠い概念ではあった。歴史のリアリズム、ヨーロッパの都市と日本の都市の違いに対する考えが薄かったと言わねばならない。

ここに示すアイデアは、そんなラディカリズムの影響があるにせよ、日本の都市にはいまだ別のアプローチから有効である。(Ex.世田谷区での世田谷式生活学校の実施参照のこと)

この、子供達の都心での生活に対する提案はそんな考えがなければ価値は薄い。この提案は、その意味を十二分に説明し得なければアナクロに見えかねぬ。

子供たちへの紙芝居やらのリアルなメディアなくしてはデザインとしての自立は考えられようがないのである。

世田谷式生活学校は江戸時代の「寺子屋」でもあった、と今にして思う。

明治維新なる革命ならざる、日本の近代化を成した基底の社会的エレメントではあった。

かくなる誇大を言うは大事だ。それこそ「物体」の新しさを求めて止まぬ者の真の目的ではないか。寺子屋の形式と共に、そこで何が読み書きの素として教えられていたのか。留意したい。

石山修武

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古都の中心街のデザインと再生7

GAYAの若者達には今、建築や都市の世界よりも、より小さな世界でもあろう内部から再スタートしたらどおかとアドヴァイスしている。

先日のミーティングでの提案があまりにも専門の視野の狭さの不可能そのままであるように考えたから。

それで建築物の世界から、一度その不自由な枠を外してみたらと言った。

このドローイングは10年ほども昔のものである。

耳の劇場と題されていた。

いわゆるモダーンな家具のデザイン世界を脱けられたらの考えがあった。今も続いている。

都市の大を考えるに、外の大より入るよりも自身の小から考えをスタートさせるやり方もあろう。

*アニミズム紀行7、2018年4月4日参照。

石山修武

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古都の中心街のデザインと再生6

4で示した建築が共同体への力を持ち得ることを、5、6は示そうとしている。

東京、世田谷の公共広場で行った「世田谷式生活」へのデザインである。

7以降で示されよう、そのデザインの成果は、ようやく今になってパタン市に再び提示することになろう。

石山修武

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古都の中心街のデザインと再生5

カトマンドゥ盆地パタン市

1〜4までの考えから、もっと万人にわかりやすく導き出したのが5、6である。

5、6は東京、世田谷区で実際になした小さな祭りのデザインである。

この事例は建築家と呼び呼ばれる、それも良質な総合性を持ち得る存在の、あり得よう建築の可能性を示していると考えたい。

ハレとケの言説はすでに使い古されているが、祭りと日常生活をより太く結びつけるのが祭りに表現される、様々な「造形」であろう。

石山修武

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古都の中心街のデザインと再生4

都市と歴然たる集合体の密度の概念から考えるのではなく、単体=建築の側から都市を考える術はあるのだろうか。

パタン市の国立美術館に、パタンの、あるいはカトマンドゥ盆地の建築の象徴性を示す図形が展示されていた。

ネパール(ネワール)建築の一番の独自性はその開口部のデザインに表れている。

この図形には「開口部」のあり方が、天と地の関係性までを象徴することが可能であることを示している。

図形は唯物性を超える力が在るのを示していると考えたい。人間の想像力の可能性である。

石山修武

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古都の中心街のデザインと再生3

1、2で示したいのは、「シティーウォール」とは別形式の都市の境界を示す、あるいは非都市と区別する形式はないものか、のアイデアでもある。

1は大ストゥーパによる、壁に非ず、布石のごとくの方法であり、2は人間たちや生物たちの日常生活の足跡の濃淡がより自然に示す生活や活動が長い時間をかけて発生させるものである。

ここで示す「シティーウォール」はシルクロードの聖都市ヒヴァのものだ。ここのシティーウォールは単なる石材などではなく、驚くべきことに人々の墳墓ならぬ、石棺の集積でもあった。人間の生を護ろうとする壁が、死の印の集合でもある。ヨーロッパにかくなる事例があるのか、どおかは知らぬ。

石山修武

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古都の中心街のデザインと再生2

福島県猪苗代湖のほとりに計画、その一部を建設した「鬼沼計画」を実施しながら描いたドローイングである。

1のパタン市にある弱い力学と深いところで同様である。

どんな形であるにせよ「都市」に手を触れようとすれば、それは出来る限りの「弱さ」を自覚しなくてはなるまい。

パタン市の都市域が東西南北四つのストゥーパが打たれたことでゆるやかに決められたのと、このドローイングで様々な生き物のかすかな踏み跡が、次第に自然(森)を別種のものへと変えてゆく、きっかけになる。

我々がこれからなそうとするパタン市中心街のプロジェクトは、その始まりにこの二つのドローイングを置くことからすすめたいと、今朝皆に伝える。しかし、他からさらなるヴィジョンが示されれば、その限りではない。

石山修武

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古都の中心街のデザインと再生1

パタン市国立博物館に展示されていたこの都市の構造図である。

東西南北にほどほどの大きさのストゥーパが配布させている。

そのストゥーパ同士を結ぶ道路らしきが、都市の始まりの骨格である。北のストゥーパ近くに、今のパタン市のゲート、パタン・ゲートがある。

十字にクロスする道の交点に王宮、ダーバースクエアがある。

ヨーロッパに多く見るシティーウォールは無い。硬く強い壁ではなく、ストゥーパの「点」によって、都市のスケールが規定され、その点を結ぶ非幾何学のラインが、規定されたエリアの血脈になっている。エリア内には多くの小ストゥーパが血脈と関係しながら配布されている。自然発生的に見えなくもない。

しかし、配布された点と線によって刺激された点でもある。

石山修武

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「佐藤研吾のインドでの仕事 10」 石山修武

反哲学の哲学者・木田元は、哲学の役割について言う。
「それは一方向に進歩して止まぬ文明にブレーキをかけるに過ぎぬ」
木田の言うブレーキは無用の用の高みをも暗示する。あいまいな精神生活の愚を言うのではない。そこに身体を置いてこそ初めて深く、理解の入口に在ることが可能である。
少しばかり、あわてて言うが、ベンガルのスクールに身を置いてこそ、近代化の全体を体験できようと言う位のものである。そう彼は直観したのである。
おそらくは、そこにはすでにタゴールの身体は不在であるから、その思想の形骸をしか視ることは出来まい。
しかし身を置くは、何よりも大事なのである。
特に「物体」に深く関わろうとする者にとっては必然でもある。
モノが溢れ返った時代の只中にあるからこそである。そこに在ることを介して、「物体」を創ることをした。
写真を視る限りにおいて、佐藤研吾はモノの無い状態を可視化した。精確に言えば、その初歩を作り、手にしたのである。
この空間にはほとんど近代的商品が無いようである。
在るのは彼、および彼等の手になるオリジナルな非商品ばかりである。つまり脱商品化の世界の入口が呈示されている。
この状態は今、とても重要である。
次に彼のスケッチ群を眺めることにしたい。
つづく

世田谷村スタジオGAYA日記

「佐藤研吾のインドでの仕事 9」 石山修武

考えてみれば、わたくしの幼少時代(1944年生まれ)はまだ座式の生活であった。そして母親は貧しかったが普請道楽者であり、洋式の生活に憧れ続けていた。椅子、テーブルの生活は彼女にとってはそれなりの貧しさからの脱却、すなわち豊かさの象徴でもあったのだ。
そうして日本人はアッという間に座式の生活を捨てたのである。この変化は余りにも急であった。池田内閣による所得倍増計画、高度経済成長によって三種の神器と呼ばれた、電気冷蔵庫、 TV、電気洗濯機を手に入れ、日本の住宅はモノだらけになった。
そして、それは今の超消費生活へと連続している。
生活空間はすなわち電化表品で満ち溢れているのである。佐藤研吾は、すでに身の廻りにモノが溢れ返った時代に生まれ育ったのだ。
インド、ベンガル地方は西海岸、ムンバイ、ニューデリーとは異なる。西海岸のIT産業化は日本よりも余程激しい。超高層ビルが雨後の竹のこの如くに生い茂り、人々はスマホを使いまくる。
日本列島は余りにも小さいから、それこそアッという間に列島全域がモノだらけ、スマホだらけになった。
佐藤研吾がインド東海岸に生活らしきの拠点を構えたのは幸いだった 彼は高度経済成長以前の日本に身を置いたのである。 
そうしなければモノが溢れ返った生活空間から脱することが不可能であったと考えたい。
それ故に、この建築の本格的清新さは溢れ返るモノ、モノ以前が実現されてもいる。
つづく

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「佐藤研吾のインドでの仕事 8」 石山修武

写真を仲介しての印象ではあるが、実現した建築の内部空間の新鮮さは、その空間の重心というべきが見慣れた空間よりも微妙に低いことからくる。
小津安二郎の映画の映像が多くの外国人に新鮮に伝わるのと同様である。
この重心の低さは、当然のことながら日本の陳腐な住宅の近代的デザインの内部とは歴然として異なる。
開口部の位置もすべて見慣れたものより低いようだ。また置かれた家具自体の重心もすべて低い。クライアントは詩聖タゴールのベンガルのスクールの関係者であろうか。極めて良質な日本趣味であることを思わせる。
その日本趣味は小津映画のローアングルと同時に、単純に過ぎる西欧スタイル=モダンリビングとは異なるのである。
日本人が椅子の生活様式となりまだそれほどに時が経っているわけではない。そんなことを思わせる、内部空間の重心の低さの新鮮さがある。
ずいぶん根の深い新鮮さではある。
つづく

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「佐藤研吾のインドでの仕事 7」 石山修武

安藤忠雄のコンクリートの仕事を多くの人々が愛するのは、柱、梁の多過ぎる線的要素を消したこと、そしてそれで得られた壁と版による単純さである。
打放しの表情の美しさだけによるのではない。
佐藤研吾のこの仕事は造形的には、タテ、ヨコの線の組み合わせである。木の家具、装置も直線による部分の集積である。
それ故に内部において、余りにも多くの「線」が出現している。
型枠大工の手間代とコンクリート量の増加とは、実は相反する。安藤はその現実を、直観的に計算して視える直線の数を大胆に減らした。
そこに彼のコンクリートの成功の因がある。
人々もその往時の大工、棟梁の伝統の正系を視た。そして支持したのだ。
少し、話が専門の狭路に入り込み始めた。
次に、佐藤のスケッチ群を見ることにしたい。
つづく

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「佐藤研吾のインドでの仕事 6」 石山修武

実物を視るはいない。この仕事を得た経路の詳細もわからない。写真と何がしかのスケッチから憶測するしかない。だから人間論めいた事から書いている訳ではない。
今の日本の建築家の手になる近代建築のつまらなさは、これは建築家自身が招き寄せたものである。
建築家たちの、それでもわずかなりとも在る言説があまりにも小さな専門分野に閉じこもり過ぎている。行動も然りである。それ故に広く人々が関心を持ち得ない。「創造」への人々の関心は一向に「建築」へと向いてはいない。グローバリズムによる消費生活の一律に埋没している。
佐藤研吾の新鮮さは、繰り返すが、その井の中の蛙状態から自身の在る場所を変えたところから来る。
作品に即して言えば、これは鉄筋コンクリートのプリミティブな構法と日本の初歩的な大工技術とが並存したものだ。鉄筋コンクリートは安藤忠雄の消去法的洗練以前のものである。
それ故に写真で見る限り、柱、梁が内部に露出して線状の構造が少しばかりうるさい。
日本的大工の線状形態の家具や、装置群とハレーションをおこしている。
安藤忠雄のコンクリートは柱、梁の線をすべて壁や床に埋め込んだところが特色である。佐藤研吾はまだそのコンクリートの状態を充分に身体化していない。すでに安藤のボキャブラリーは共有財産であるから、学んだ方が良い。
つづく

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「佐藤研吾のインドでの仕事 5」 石山修武

インドでの生活、仕事は年月を終えれば新鮮さを失われるだろう。誰もが日々の新鮮さを持続できるわけもない。その時に、建築とは言わず「物体」を作り続けることが自身の新鮮さを保ち続ける助けになる。
「物体」を作ることは先ず自身の日々の新陳代謝そのものである。
社会や世界を意識する以前に自身の内が日々新であることが大事である。
佐藤のインドでの仕事は何よりも創造の喜びが満ち溢れていて、それが他に伝わってくるのが良い。
つづく

世田谷村スタジオGAYA日記

「佐藤研吾のインドでの仕事 4」 石山修武

人は皆、男女を問わず大小の打算の連続を生きる。器の大きな人間は大きな打算をする。小さな人間は小さくほぼ日常の枠内の打算に生きる。打算は構想力とも呼ぶ。
若くして日本を出て、インド東海岸で仕事をするの構想は良い。建築家とケチな専門を言わず、人間として大きい。
つづく

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「佐藤研吾のインドでの仕事 3」 石山修武

日本の今を生きるに有利なのは、長命を前提にし得ることだ。
人間50年にあらず、人間100年の可能性がある。それを考えると二度はダメだが、一度は失敗しても、もう一度はより良く生きるチャンスがあるってことだ。
優れた人間はそれを打算にあらず、本能として知る。人間を考えずに、創作を考えることはできない。 つづく

世田谷村スタジオGAYA日記

「佐藤研吾のインドでの仕事 2」 石山修武

佐藤研吾の仕事は清新であると書いた。補足したい。
その清新さはモノの姿形から来るのではない。更に、そのデザインの概念性の新しきから来るのでもない。
知性は人間の身体に属する。そして、ありとある図形の如くは人間の身体により表現されている。
佐藤の仕事の清新さは、それが実に明快に表現されている。
つづく

世田谷村スタジオGAYA日記

「佐藤研吾のインドでの仕事」

佐藤の仕事振りがインドのヒンドゥスタン・タイムス(全国紙)に紹介されている。かねてより西ベンガルのタゴール・スクールで教職を務める佐藤が力を入れていた小住宅がほぼ完成した。今の日本の現状ではとても成し得ぬ様々が実現されていて眼を見張るようだ。これから、しばらくその内容をわたくしなりに伝えてゆきたい。

音について3 アニミズム紀行16

台北故宮博物館に在る「楽器」である。
商晩期とあるから紀元前13C-11Cのものだ。日本の縄文期の銅鐸の原型でもあるやもしれぬ。
銅鐸が、どうやら木に吊るされた楽器であったのが解明されたのは最近の事である。考古学的歴史学も又、進歩を続けている。青銅器の造型、そしてその装飾に関心がある。制作当時最も高価な材料によって作られたと考えられるからだ。
各種宝石、(曲玉も含む)金、銀が最も高価であり続けるのは昔も今も変わりはない。でも、それらは容器の形を持ち得ない。
容器はその中が「空」うつろ、である。酒や、食べ物、水、すなわち人間の生命と直接結びついた「モノ」が容れられた。

偶然への期待2 アニミズム紀行15

この小さな「物体」は意識と無意識が配合されたものだ。全体の大きさは飛行機で持ち運べる計算から割り出された。又、パタンに多い真鍮板の規格からも規定されている。一枚の板から無駄が出ないように切り出し、それを東京で組み立てる。一筆描きの如くの偶然の如くのライン状の材はインドのラジギールの鍛冶屋で得た。実に柔らかく、自由に曲げることが出来る。まだ最終的なラインは決めていない。所有者の思いつきが取り入れられれば面白いだろう。日毎、週毎、月毎に変化しても更に良かろう。小ささ故の可能性である。偶然とは他者との、これも又無限に近い遭遇の一瞬の可能性である。

偶然への期待1 アニミズム紀行14

和筆=毛筆の面白さはつきつめれば、それが偶然の面白さを引き起こすからだ。かすれや、筆の勢い=スピードも同類である。コンピューターが描く線を考えれば、それは一目瞭然である。無意識は意識の下位にあるばかりではない。筆ばかりではなく、墨も又、その意識下のコントロールの、時に外にある自由ではないか。墨の色の濃さ薄さは人間の按配による。

小さなモノへのアニミズム2 アニミズム紀行13

1で考えようとしたアイデアの次に考えようとしたのが影を主とした、この考えだ。
鏡に写る諸像と物体の「影」は同属である。

が、しかし鏡の方がより深い。何に対してより深いかと言えば、より人間の生の瞬間に肉薄できようからである。

影を主とした表現は少なくはない。日本の近代では高松次郎の連作が有名である。
しかしながら高松の影は、影を平面上に表現した以上のモノではなかった。最も知的であったろう実験工房のアーティスト達は、詩人瀧口修造の言説(詩)の基に、例えば、山口勝弘の代表作ヴィトリーヌ(飾り窓、命名は瀧口修造)は、人間の視点の移動によって「物体」に写り込む映像が変化するを、連作によって表現したことで歴史上の名作である
「影」のアプローチであった。

小さなモノへのアニミズム1 アニミズム紀行12

鏡のアニミズム
鏡は小ささの内に極大を含む。
東北一ノ関ベイシーのために試みたアイデアである。
鏡は最も良くアニミズムをそれ自体の内に含む。そのモノ自体の姿や色が主ではなく、それに写る他のうつろいを視たいと想うための「物体」であるから。
この段階から、アイデアをまだ進めることができないでいた。
しかし、アニミズム紀行を書くことを続けることの内で、それを少し計り意識化できるようになったから、まだチャンスはある。

音について2 アニミズム紀行11

カンボジアの首都プノンペン・ウナロム寺院境内につくった「ひろしまハウス」には風鈴をデザインした。
いつか、別の場所で実現したい。
日本の伝統的なと考えられている梵鐘の音は、少しばかり陽気に過ぎるのかと考える。なぜそんな音であるのかを考えてみたい。
日本の寺院の梵鐘の音がわたくしにとって違和感がある。
何故なのか?そしてこの音はどのようにして作られたのだろうか。
各種、例えば五重塔、三重塔に附されている風鈴状の楽器とは歴然と異なる。

音について1 アニミズム紀行10

ベトナム・ダナン五行山の計画では梵鐘のデザインまでやろうとした。繰り返すが、俳人金子兜太にその巨大な梵鐘に鋳込む、俳句の書まで書いていただいた。
視覚は音と比べると遠くにまでは届きにくい事に、ようやく気付いたのは後の事である。わたくし自身は聴覚に難アリ人間である。
であるから、やはり視覚に頼り過ぎるきらいがある。この梵鐘のデザインは渡邊大志による。やはり、彼も視覚人間であり過ぎたなあと、今にして振り返るのである。

計画は実現されなかったが、次の世代に可能性が在りとすれば、五感と「物体」との感受の総合性にあるだろうと思う。
「物体」の可能性は巨大であるーーと膨大な無駄にも思える努力を眺め返して想う。

音のデザイン アニミズム紀行9

4月4日
俳人金子兜太先生にはベトナム・ダナンに計画した「日本寺」の鐘に鋳込む兜太俳句の文字を書として作成していただいた。
兜太俳句に貫徹する論理が、無形の音となりベトナムにひびき渡る筈であった。
わたくしの非力でこの計画は挫折している。兜太先生はつい先日亡くなられた。申し訳なく思っている。

ベトナムの山野にゴーンと兜太俳句が響き渡れば、アニミズムそのままであったろうに。
しかし、わたくしの気持の中で、時にその音はひびくのである。

座る、と、あぐらをかくのちがい アニミズム紀行8

椅子は地面から身体を浮かせる道具でもある。
アジアの街角では、直接地面にあぐらをかいて座る人の姿を多く視る。
自然でイイものだなあと感心する。
人体の尻と地面の間には、薄い紙片や布切れが、衣服の汚れを防ぐために挟み込まれることもある。
座布団は屋内で使用される、日本的な椅子と解釈すべきなのか。折りたたむと枕にもなるから、多用の用をなす、より広い世界の産物なのだろうか。
畳の上に椅子を置く奇妙な風景があった。剣持勇の藤椅子はその折衷的生活の産物であったのか。

アニミズム内の椅子 アニミズム紀行7

椅子のデザインはとても難しいと言われる。わたくしが座ってみて、これは実に心地良いなと思ったモノは二つある。
1、秋田藤里の木造校舎に忘れて置かれていた小学校の木製家具。
これは秋田県木工試験所製作のものであった。最小限の木材を木釘で留めたものだ。
2、ベトナムのダナンの街角の茶店にあった小さな腰掛け椅子。これは実に身体に良く馴染んだのでスケッチして寸法をとった。

人形・ぬいぐるみ・マスコットの人気 アニミズム紀行6

モダーン・デザインの家具の人気はあらゆる人形・ぬいぐるみ・ゆるキャラと呼び、呼ばれる諸物の人気に遠く及ばない。
このスケッチは世田谷式生活学校の祭りのシンボルとして考えられた。

北京の巨大人形 アニミズム紀行5

「首都の巨大人形 」

高さ100m程の人形である。
大阪万博に登場した「太陽の塔」は2018年春に、その内部に登場できるようになった。
大阪に 出現した太陽の塔はその巨大さも含めて現代のアニミズムそのものである。
丹下健三設計のコンラッド・ワックスマンの水平限フレームの原理が丹下健三によって具現化された大屋根を突き破ったものだ。オランダのバケマの空中都市フレームがより卑近な参照元であった。
岡本太郎の太陽の塔は重いコンクリートである。しかしコンクリートの可塑性を良く使った造形だ。岡本太郎の徹底した非日本的美学は余り人々に好まれたとは考えられぬが、その直截な言説は人気があった。大阪万博時の多くのパビリオン群や、大屋根よりも人気があった。何故ならアレは巨大な人形であったからだ。

北京に設計したアニミズム紀行4

「首都の巨大人形像」

北京オリンピックに登場しそこなったアニミズムの巨大像である。
当時、M・K像の所有物であった長さ400m高さ250mの万里の長城をコンセプトにした巨大ビルの南端に、巨大人形をデザインした。

石山修武アイスランド紀行→アニミズム紀行3

「首都のプラスチック像」

もう終わった北京オリンピックの巨大催事として作ったプランである。

このプラスチック製の毛沢東像は実在する。M・K氏の極私的会長室に置かれている。等身大より少しばかり大きい。
毛沢東像のあちらに視えているのは、日本風に呼べば阿弥陀像である。つまり、ここでは中国の大企業家と仏像が一体化はしていないが同居していた。
M・K氏は中国有数の金満家であった。日々この像に桁外れに巨大な金を手に入れることを祈るのである。
すぐ近くには大きな黒石製の竜の像が、水盤上にとぐろを巻いていた。朝に夕に、その竜に水をかける。竜は水を飲む。水はマネーを意味するのだ。
石山修武

石山修武アイスランド紀行→アニミズム紀行2

「首都の木像」

都市史の伊藤毅先生とその研究室の面々に連れてこられての旅であった。伊藤毅さんは、今、その研究を都市史から領域史へと拡張しようとしている。この研究領域の拡張は、謂わば都市史という学問の土台をほぼ確立できたので、それをより抽象化させて普遍化させたいの意欲であると、わたくしは考える。
アイルランドの港を望む、レイキャビックの丘から歩いて国立博物館に出かけた。博物館の中心に置かれていたのがこのキリストの木像であった。キリスト教装飾美術群が博物館の中心にあった。木像はその象徴として置かれたのであろう。
都市史から領域史への更なる普遍化は諸物の中心をあぶり出すことにつながるのか。
4・1石山修武

石山修武アイスランド紀行→アニミズム紀行1

「首都の銅像」

アイスランドの首都レイキャビックの中心の丘の上に立つ武人像である。
日本の首都東京には、その中心に銅像は無い。
徳川一族の居城江戸城の跡に、京都にいた天皇が今は居る。
天皇は銅像になり得ぬ。しかし、中心がいつ迄も空白のままは、やはり極めつきの不可解さの連続ではないか、が現実だ。
4・1石山修武

石山修武アニミズム紀行

「2012年 キルティプールよりのカトマンドゥ寺」

2012年のスケッチ。キルティプールよりのカトマンドゥ盆地を描いた。カトマンドゥ盆地は、巨大な立体だなと直感した。

石山修武アニミズム紀行

「2012 スケッチ」

2012年の、こんなモノ作れたら良いなのスケッチ。もう出来ないだろうが、マ、仕方ない。

石山修武アニミズム紀行

「ブータンテンプル 2017」

インド、ブッダガヤのブータンテンプルは清々しかった。隣の日本寺はみじめなものだった。

石山修武アニミズム紀行

「ブリクナーシュ寺院 2014」

オリッサ州のブリクナーシュ寺院のスケッチ(2014)。ある種の固定してしまった立体は、うごめく儀式が凍結したものだ。

石山修武アニミズム紀行

「ラジギール 2017」

農家の多くは時を経て、自然にゆがみ、かたむくのだった。家は人間の生の時間と共にある。それくらいでまさに良い。

石山修武アニミズム紀行

「ラジギール 2017」

ラジギールでの農村巡りは二輪馬車での旅であった。酷暑の中を歩いたら辛すぎる。車で動いたら何も見ないのと同じだ。丁度よかったのである。馬車の速力が。