I 世田谷村アイスランド紀行

石山修武 アイスランド紀行

世田谷村スタジオGAYA

2019年 8月

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世田谷村スタジオGAYA日記
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真昼の銀河鉄道 山の学校 2

 遠くへ飛ぶのを好むツバメの一族は山の学校でティーチャーに短い挨拶をした。
 ジョゼフはツバメの言葉も知る。まだヒマラヤ内院の山の学校は乾季の只中であった。
 「ジョゼフ、子供たちも良く喰べて育ったし、飛行術も学んだから、これから東の島へ移るよ。」
 「そうか、気をつけてな。」
 「君も。又、雨季明けには帰るから。」
 ツバメにも様々な一族がいる。ネパールと全く同じだ。大きな谷、大きな尾根を越えるとちがう言葉の、ちがう一族がいる。
 ヒマラヤ内院の、山の学校は沢山ある。ツバメが作る巣の数ほどではないが、それに近いだろう。
 ジョゼフはツクチェの山の学校の先生だ。いつから先生になったのかは、それ程に大事な事ではないので覚えてはいない。気がついたら、小さな山の学校で、子供たちを教えたり、一緒に遊んだりの生活であった。
 ここだけの先生ではない。カリガンダキ上流の寒村三ヶ所の先生をかけ持ちしている。一ヶ所二日づつ、とどまって子供たちと一緒する。週の残りの、たった一日は相変わらずの独人の日と決めている。
 今は、カトマンドゥからパブリックバスで三、四日でツクチェには辿り着く。歩いたら、そうだな、その3倍くらいの時間がかかるだろうな。
 山の学校は、それぞれの場所で少しづつ事情は異なるが、ヨゼフの給料は、一万五千ルピー、山国では大金である、ネパール政府地方局から、ほぼ定期的に支払われる。
 ヨゼフは生まれた時から英語を耳にしてきた。コルカタのマザーの家で、沢山の修道女たちに育てられたからだ。
 コルカタのマザーの家には修道女が、ほぼ百名いた。ヨーロッパ言語圏の人間が多かった。それで極く自然に英語を見につけた。ヨーロッパとは言え、狭いけれど多様な民族、言語であり、修道女たちの英語も、それぞれに皆、ちがった響きを持っていたけれど、ジョゼフはそれをよく吸収した。
 ジョゼフは男の子だったけれど、身の廻りは修道女ばかりの、やはり女言葉の世界だったが、いつの頃からかジョゼフは自分でその我身が負った異形を少しづつ修正した。

 マザーは小柄な人であった。多くの修道女たちを率べねばならず、それは並大抵のことではなかったから、マザーの言葉は次第に男の言葉に近くなった。むしろ軍人たちの士官風のリズムと歯切れを持つのを常とした。
 ジョゼフの母は早くに亡くなった。それから一人切りの生となったが、身の廻りには女性ばかりで独人になるヒマも無いくらいだった。
 ヨゼフの発する言葉の音の響きは、まごうことなく男性のものであり、言葉の形は女性のものと言う。男性女性が心の響きを合一する如くの音声が自然に作られたのであった。
 それぞれの山の学校には、ヨゼフと同様に父母を持たぬ子供たちが、決して少くはなかった。彼等は、形式としては社会主義化した政府の方針もあり、里親制のもとに育てられ、そして教育され、されつつもある。
 里親制とは十四才に成長する迄の全ての(建前としてはであるが)子供たちに、制度としての親を割り振り、その生を育くむゆるやかなシステムである。
 実質的に親の無い子供たちには毎年三年間一万ルピーが用意される。実体は政府支給額はただの八百ルピーであり、不足の極みである。それをアッパーミドルクラス、端的には生成しつつある市民ブルジョワジーに負担させようである。
 ネパールのみならず、これは政策の枠外で中国大陸南部の実質的に資本主義化しつつあるエリアでは、更に大きく実現されてもいる。一人、あるいは一家族の実業家(富裕層)が百数十名の子供たちの里親となるの現実もあるのだ。
 子供たちが十四才に成長すると、この制度、ゆるやかなシステムは打ち切られる。十四才からは、もう大人でもあるから自分の生は自分で切り拓くべきだの考えからである。
 ヨゼフは十才まではマザー・テレサの家で育てられ、幸運にも身近なスケールでの女性達による英語での教育を受けた。ほぼ、生れたての年令でもあったから、それは奇跡に近い形で身についたのだった。
 マザーの家、つまりは死を待つ人の家で育てられたから、ヨゼフは実に類稀れな能力を持つ人間として育った。
 両親を持たぬ時間が余りにも長かったので、ヨゼフは独人にも強い人間になったのである。
 更に人間には非ずの動物たちの声を聴き分ける才も育った。
 特に、鳥たちの声をよく聴き分けた。更に少年期を経て、大人になり、ツクチェでの育ての親でもあった、ティーチャーからも色々と学んだ。ティーチャーはヨゼフが良い耳を持つことを見抜いたシャーマンでもあった。ティーチャーも又奇妙な事に英語をしゃべるシャーマンであった。  ネパールで最初の、と呼ばれる本格的な知識人でもあった人物がヨゼフのツクチェでの里親になったのだった。
 大人になったヨゼフは、彼のそんな生を良く知らぬ人々からは、何処に在っても異邦人=単独者であった如くに目に映ったようである。
 日照りの乾期も、雨続きの雨期もデクの棒で、独人であり続けた。でも、山の学校の子供たち、そして、動物たちからは愛されたのだった。

 ヨゼフにしばしの別れを告げたツバメ一族は東へと飛んだ。山の学校の子供たちの数と同じの少ない数であったから、隊列は組まずに飛んだ。
 ツバメは小さい身体であったから、高い高度は不得意であった。だから、五千メーターにも満たぬ、カリガンダキ上流のムスタンの峠をこえた。
 中国本土はツバメは近年若干飛行は困難であった。カスミ網やら何やらの大量仕掛けで低い処を飛ぶことが出来なかったからだ。そればかりではない、風に敏感なツバメは風の汚れにも鋭い感覚を持つからだ。中国ではむしろ寒村地帯よりも大都市近くが安全なのだった。農村エリアの空気は化学肥料により汚染が進んでいたし、食物の虫も少くなっていた。
 先ずは勝手知る、メコン源流の流れに移り、水の流れと連動する大気の流れに乗る。それから、揚子江に乗り移り、大河沿い、あるいは海沿いの都市を次々と渡った。都市に近附く程にゴミも多く、それ故に食料の虫も多かったのである。香港近くから台湾に渡る一族と、更に北へ飛ぶ一族とは別れた。韓半島の国境、南朝鮮と北朝鮮との国境は人間たちの不可侵な鳥や小動物にとってのパラダイスの細長いエリアが在り、そこを渡りの休息場にするのが、長距離の渡りにも、中距離の渡りにも共に流行であったんだね。
 台湾に渡る一族は風と海流を利用するに長けた一族であった。それに丁度良いくらいの位置に島々が点在してる。
 そして、ツクチェの山の学校を宿とする一族は、日本列島を東に飛び、途中の地形に合わせて北へと進路を変えた。

 二千十一年以降、大型の渡り鳥も、小型のそれも飛行ルートは変えざるを得なくなった。火山の爆破噴火、噴煙よりも余程深刻な風の流れの汚れが急速に進行したからである。
 渡り鳥がわかりやすい目印にしやすい巨大な河は無いけれども、海と陸地の境界である海岸線は、大河と同じく渡り鳥たちの眼と空気そのものへの感応力、方向感知力には得がたいラインであった。
 それが一切、役立たぬものになったのである。まだ、十分に飛行体験をつまぬ幼鳥には、親鳥たちからアノ、エリアには近付くなの警告が発せられ、広く共有された。
 空を自力で飛べぬ人間たちは危機に鈍かった。鳥たち、特に渡りの力を持つ種族は、それとは格段に鋭く反応した。渡り鳥たちの、渡りの本能そのものは子孫の保全繁栄に在る。その大目的のために大移動をなすのである。だから、移動をさまたげるものには、人間のつくり出したものであろうと、より大きな自然の力がそおさせたものであろうと、敏感きわまるのである。
 列島の東北部、その太平洋岸には、渡り鳥たちに巨大な警告が発しられ、すぐに共有された。  鳥たちの本能は、人間たちよりも余程深く野生の鋭さを持ち続けている。それ故に、人間たちよりも余程長く種を保存し続けたのだ。この大警告は深く鋭く鳥たちに伝えられた。我身だけに非ず、子供にも、孫たちにもその大気の危険さは及ぼし続けるのも伝わった。

 鳥たちの、空を飛ぶことの神秘、そして、渡り鳥たちの地球感覚とも呼びたい自己の位置把握力、感知能力の神秘はいまだに充分に解明されてはいない。

 二千十一年以降、一五羽程の少数ツバメ一族は海岸沿いの気流に乗り続ける渡りの道を変更した。巨大な排気塔十数基が、そして鉄塔も目印にはなっていたが、大昔の自然の形を再び目印にすることにしたのである。
 山頂が大きく噴火によってなのであろう。破壊された特徴のある山と広い湖が印となった。ツバメ達と人間達と、どちらがより早くこの広い湖近くで暮らすようになったのかは知らぬ。ツバメは巣づくりと、子育てに上手に人間達の生活を利用する習性があったから、ほぼ同時に、その共生を始めたのであろう

 湖の西岸、大きく破壊された山の裾野には多彩な色をした小沼群があった。人間たちは五色沼と呼んだ。ツバメや水鳥たちには避けられたようだ。黄やコバルト、そして朱色の水銀素の色をした水は鳥にとっては危険信号なのだった。
 湖の東岸、南近くに、とても古い小さな沼があり、湖畔は浅瀬でヨシが広く生い茂り、魚も多く、それを食する鳥たちも多く暮した。地形からして、古くから人間達が、それ程多くはなく暮し続けたようである。古い生活用具である石器や、土器がそこには残されて在った。
 人間達はこの沼を鬼沼と呼んだ。この列島の北部に多くある、人に非ず、生霊の仲間である鬼の名がつけられたのだった。名をつけたのは後から来た別の民族であった。この弓なりに曲った列島には古くから住み着いた人間達がいて、アイヌと呼ばれた。熊を神としてあがめてもいたから、北方アリューシャン列島を伝って大陸から移動してきた種族なのであろう。
 鬼沼には、その実に小さな地形なりに、先住民としてのアイヌの人間達は連続して住み暮し続けた。
 アイヌは狩の民であった。生物を狩り、それをうやまう人たちであった。
 やがてアイヌの人たちは南方諸島、あるいは大陸、半島を経由した、これも又、ワタリの民族に追はれて北へ、北へと潮の如くに引いたのだった。

 鬼沼の当りが、アイヌの人達による生活圏の、謂はば列島に於ける南限であった。
 この弓状に折れ曲り、しなった弧状列島の北方からの先住民たちであった。

 ツバメの種族は太古からの本能故に、先住民と呼び呼ばれる人間の種族を異様に好んだ。生物たちとの共生の術に長けた種族であったからだ。
 ネパール全土とは言はぬ。大体ネパールの名をツバメは知らぬ。人間たちが便宜上付与している国家という妙な集合体の名でしかない。ツバメもツルもカランコロンも国境は無い。
 ヒマラヤ内院ツクチェの山の学校で乾期を過していた一族は、ベトナム、中国大陸、朝鮮半島、あるいは台湾から南島諸島を渡り、猪苗代湖畔の奥沼で雨期を過し、ヒナを育てた。
 渡り鳥特有の血そして心臓の鼓動の細妙、脳細胞の動めき、それをシャーマン達は霊性と呼び、文字を持たぬアイヌたちは単調極る、律動(リズム)を一切欠いた、メロディーのうねりとして唄い継いだ。
 ヒマラヤ内院に限らず、後にそう呼ばれたネパールの深い谷、あるいは高い山岳民族は、その多様さに於いて世界に類を視ぬが、その大半が、謂ばほぼ全て、先住民族であった。その地球上の特異性を彼等は少しづつ自覚し始めている。

真昼の銀河鉄道 第6章 これより本章 山の学校

 ヨゼフは今、四十二才。皆からティーチャーと呼ばれる。本名を知る者は少いのであろう。九才までコルカタ(カルカッタ)に居た。
 三年程を、母親がいたマザーの家で過した。母親は重い結核患者で、半ば患者としてマザーの家で暮らしていた。
 その名の通り、マザーの家は死を待つしかない困窮の極みの人々が集まり、病院の形式を持つにせよ、生きる見込の無い人々が、老若男女問はず、集団で暮らしているのだった。
 十才の頃、雨期明けに、三年に一度、ベンガル地方で組織される、国境を越えての巡礼旅団に預けられて、ヒマラヤ内院へと旅立った。

 マザーはコルカタに三ヶ所の、病院とも安息所とも分かちがたい場所を運営していた。ネパールにも数ヶ所、マザーの家はあった。カトマンドゥ盆地のパシュパティナート、ヒンドゥ寺院の聖地に接して、その一つのマザーの家はあった。二千十五年頃にネパール政府とのいざこざ、があり、撤収を命じられたとされる。ヒンドゥ教徒、あるいはその政治的パーティとの軋轢か。当時勢力をふるっていた中国共産党毛派との争いであったのかは、誰も口を閉ざしたままである。

 ヨゼフの母親は、誰もが予測した如くに死を迎えたが、コルカタで亡くなる寸前に、そこから送り帰されたパシュパティナートのマザーの家が、どんなに楽園であったかを、ヨゼフに良く話したものだった。

 「ヨゼフ、あそこには庭があったんだよ。広い庭だった。赤いメリーゴールドや、コスモス、それにヒナギクの黄色が入り乱れて、それは、それは美しかった。空気もここよりはズーッと良かった。ズーッと澄んでいたよ。空だって青かった。
 幸い朝を迎えられた者は、皆、朝の光と庭の花が本当に楽しみだったよ。歩けるものは杖にすがって庭に出た。歩けぬ者も、地をいざって、はい出たものさ。
 朝の光を顔いっぱいに浴びて、その温もりが本当にありがたかった。それだけで、ここに居るのが充分だったのよ。
 広い中庭だったし、そこに居るのは死を待つ人間ばかりだった。でも、安らぎがあったよ。考えてもごらん死を待つのも、たっぷりゴハンを喰べて、そして死ねたのも、皆同じなんだくらいは、とおの昔に皆知ってる者どおしだったからね。
 そんな事をしゃべったりはしなかったけど、皆、知ってたの。
 明日は事切れようかの人が、ヘイのレンガの汚れを、それでも愛しそうに撫ぜていたし、花びらに手を触れたりしてた。そんな事は誰も、元気に動いたりしてた頃は、誰一人として、していなかったクセにだよ。生きて動いているモノは蟻でも、虫でも愛しかった。
 隣りには身体がとけて、ただれる重病者だけの処があった。母さんは怖くて行かなかったよ。臭いも凄いんだと、そんな人達はチョッと運の悪さからなんだろう。生きるってのは様々で上も下もとめども無いんだから。」
 ヨゼフの母親はそお話していた。それを何処で聞いたのかは思い出せない。コルカタでの事だったのだろう。
 ヨゼフにはその話し以外にはネパールの記憶は無かったからだ。
 誰からそんな話しを、澄んだ空気や、光り輝やく陽光や、色とりどりの花々の有様を聞いたのだろう? それでなければこんなに鮮やかに母親の話しを思い出せる筈もない。

 ツバメからなのか?
 母親はとおに死を覚悟していたから。いつも乾いた笑いを浮かべていた。その声にもならぬ笑いは、だからヨゼフに乗り移っていたんだろう。
 ヨゼフは一人が好きな子であった。だんだんそおなったのでもなく、どおやら、生まれた時から、そおだったんだろう。

 そして、誰もが、そお感じるのに不思議を感じないような、そんな子であった。二千二十年現在のパシュパティナートには、マザーの家には誰も居ないし、誰も内へ入ることも出来ぬ。鉄の金網で囲はれている。
 歩いてすぐの処にはガンジスの小さな支流バグマティ川の小さな谷にかかる石橋があり、そこからは死人を焼くガートが見渡せる。ここのヒンドゥ寺院は聖地として知られるから、ネパールのヒンドゥ教徒は勿論、国境を越えてインド各地からも実に多くの人々が集まる。
 ガート(焼き場)は正式なのは七ヶ処ある。石橋を境にして上流の三台程はカーストの高い富裕者達。老若男女を問はぬ。下流は貧しい人々が焼かれる。四台程ある。死んでも貧富の差は歴然としていて境界があるのだ。それを知るのは生きてる人たちだけ。
 上流のガートの右岸はヒンドゥ寺院であり、その境内には異教徒は入ることが出来ぬ。左岸の段状の谷には、それこそ無数のシワのシンボル男根と女陰の石の造形物が林立している。シワ神は語らずして、死者達が焼かれて、その白紫の煙が天に昇るのを見守る。石のリンガは皆、富んだ者が喜捨したものだ。燃えつきた人体の灰はドサリと河に投げ込まれる。
 石橋の下流にはそれを見守るシワ神もほとんど無い。ダラリと山裾が平地に消える。河も峡谷から、だだっ広い河原へと拡がる。河原には少しばかりの草の群とカラスの影が。焼け残りの、何がしかを拾い集める人間の姿もある。
 四十年程の昔には、石橋の上から、子供たちが下の河の流れに、ドボン、ドボンと飛び降りて、日がな一日遊んでいたものだが、今は河の水量が減ってしまい、そおして遊ぶ子供の姿も無い。

 焼かれる人間の数は、むしろ昔よりも今の方が多い。
 四十年程の昔に焼かれていた人間の灰の流れに飛び込んでいた子供たち。あの子たちは、何が面白くって繰り返し、繰り返し、人体の燃えかすの灰が混じった水と遊んでいたのだろうか。
 多くのパシュパティナートへの、世界中からの観光客は膨大な数である。石橋は人で溢れ返る。そんな観光客たちからの小銭欲しさの落下ではなかった。七、八名の子供の一人として「マネー、マネー」と観光客に金をねだる子はいなかった。
 子供たちは、ただただ水へ飛び込むのではない。高見から落下するのが面白くて、それを続けていた。小さな身体を一直線に棒状にして、石の欄干を乗り越えて、水面へ落下する。ズブ濡れになって、人体を焼いている最中のガートにはい上る。ボタボタと水のしづくを垂れ流し、汚れたパンツや、下着を水で一杯にはらませて、ガートからはい上がり、石段を登り、又、棒のように身体を固めて、飛び下りる。それを繰り返したのだった。
 あの棒状に固めた少年たちの姿は、そお言えば、まるでシヴァ神のリンガの如くであった。
 あの子供たちの姿は今は姿を消した。あれは落下を繰り返す翼のない鳥の群でもあったな。

 二千年になってから、パシュパティナートの表通りには、いかにも場ちがいな濃茶のレンガタイル貼りの豪華なアパートが林立し始めた。インドの東海岸ムンバイにキノコの如く乱立した超高層アパートのスタイルとは全くちがったモノだった。突然にである。この唐突さは中国大陸風でもあったが、更にはいかにもな現代日本風な様式も備えていた。
 大金持のヒンドゥ教徒達が持主である。大金持であろうと、なかろうと死は万人に訪れる。国境を越えたインドの超富裕層も、同じである。ガンジス河中流のベナレス(バナラン)はガート群がある事で、余りにも有名である。しかし、インドの人口増加は今もまだただならぬものがある。アジア大陸の総人口の現実はいまだに把握され切ってはいない。知るのが皆恐ろしいからであろう。
 共産党政権の一人っ児政策で、中国大陸の総人口は少しばかり抑制され、のび止まりに達したともされる。政策の一帯一路(新シルクロード計画と呼ばれる)政策は、総人口の西への際限無き移動計画でもあろう。いまだに人口が増え続けるインドでは、又、困ったことにモディ政権の、明らかな日本のそれを模倣したであろう、先行きの視えぬままの近代化政策が急速に始まったばかりである。ありとあらゆる近代化は経済成長、すなわち異常な人口増加を伴うのである。この対の足カセは地球上何処の地域も、それから逃れることは不可能である。
 生者が増えれば、同じだけ死者の数も増加する。その数量の変ること無いバランス(対称)は永遠である。人間はそう呼ばれる生物である限り、とどまることの無い、これこそ自動回転の総体であり永久運動の端子なのである。
 であるから、インドに於ける人口増加は、インドにおける死者の増加に全く寸分の狂い無く同じなのである。
 優れた人類学者(注 クロード・レヴィ=ストロース)はインドのカースト制は新たな双頭の平等制への実験であったと指摘する。そして、それは失敗したとも。新たな平等制、あるいは、これも又、近代的思想としてのヴィジョンではあるが、ある地域すなわち様々に不平等な位置と拡がりを持つエリアの想定はそのまま国家を前提とするのだが、そのエリアでの格差無き平等らしきは、これは人口増加の状態ではあり得ない。むしろ、人口減少を基盤とせざるを得ない。極めつけのヨーロッパ・エリア特有の現象なのだ。
 つまり、インド固有の問題である。インドに於ける死者の増加は、シンプルに言えばベナレスの、ガンジス河のガートの飽和的爆発を意味するのだ。ベナレスでのガンガ、ガートでの死体焼却は、コレワ、ヒンドゥーの儀式でもある。自己欲望の肯定の儀式である処に、とどめようのない集団の巨大な死への落下願望をさえ視てしまう類のものである。
 ベナレスでの死体の焼却が破裂に近い状態になった故の、国境を越えてのパシュパティナートではあるまい。
 しかし、パシュパティナートの広大な駐車場に溢れ返るばかりの数百台の巡礼者バスの有様、そして、死ならぬ焼却を待つ人の順番待ちとしての日本式豪華アパート分譲の群立、更には、マザーの家のシャット・アウトの全てはヒンドゥ文化の中枢の、グローバライゼーションへのただただの降下を表わしているのではあろうか。  
シワのリンガ(男女の性の象徴)はやはり、ただの石の棒と、石の凹部に過ぎず、これも又、落下するただの物体か。

真昼の銀河鉄道
真昼の銀河鉄道
真昼の銀河鉄道
真昼の銀河鉄道 第六章「山の学校」へ進む前に 章と章の間に 3 資料として


 時系列を基準に選んだスケッチ群だけではどおしても、わたくしなりのまとまりがつかぬ。それで二千十三年の日付があるアルチ村でのスケッチを最後に附け加えようと考えた。だが、スケッチを机上に並べてみると、やはりどおやら唐突過ぎる。シュール・レアリズムは嫌いではない。むしろ凡庸な日本画の数々(例えばシルクロードの平山郁夫)と比較すれば心ひかれる。でも平山郁夫の画の平板な感傷よりも、一般的には俗悪とされるキッチュの類の東郷青児や伊東深水、あるいはそれよりも更に俗悪であるらしき風俗画(日本の)などにはシュール・レアリズムを感得してしまう。わたくしの美術品らしきへの選択眼にはどおやらそんな傾向がある。この傾向は今更変えられぬであろう。下劣も俗悪も模倣してた方が良いのである。であるから一番の好みはプリミティーフすなわち素朴画家と呼び呼ばれる類の一族である。まだ暴論の域ではあるが岡本太郎のモノはプリミティーフに属するであろう。岡本一平と岡本かの子の間に生まれた才質である。パリ時代に良からぬ知識人たちと交じり、妙なクセ=思想らしきをを身につけたけど、「太陽の塔」は実にプリミティーフではあるまいか。そんな実に素朴きわまる本音をもって、資料の選択を振り返ってみる。
 もっと素朴に、つまり正直にやった方が良いとなった。正直を続けるとバカと呼ばれよう。模倣でもバカでも良いけれど、やはり時にはバカな現実から浮いてみたい。
 それで結局三点を選んでみた。 以下に簡略に述べる。時系列の基準を外したら地理系列らしきが出現した。歴史と地理である。

一、パタン市ネパール国立ギャラリー(博物館)でのスケッチ。二千十七年十一月  このスケッチの下部に、恐らくヒンディー神話中の船が現われている。パタン市内には船(木造大型船)の形をファサード(正面)に持つ寺院もある。

二、西表島の海辺での「枯木」ならぬ荒れたジャングルのスケッチ。  南島はうたきと呼ぶ空虚な場所に関心がある。昔は南島は日本列島よりも中国大陸に歴史的にも近かったから。荘老思想も早くから流れ込んだのではあるまいか。海に間近なジャングルは猛烈なエネルギーと、それこそ死の静が入り混じっている。二千十五年。

三、アルチ村、アルチ寺院の枯木  二千十三年の日付がある。  このスケッチを五章と六章の間に挟み込む終りの一点とする。

 アルチ村はインド領ラダックの小村である。チベット文化がチベットに於いて中国政府により破壊されつつある。そんな時局(勢)の中でインド領ラダックは最もチベット文化が保存されている地域だ。なかでも、このスケッチのアルチ寺院は場所も文化の象徴としての寺院建築も良い。  余りにも著名な三層堂が画面中央遠くに描かれている。この三層堂は巨大な仏像を持ちその頭部が二階の床をブチ抜いているのがシュールレアリズムである。岡本太郎の太陽の塔は丹下健三の巨大な平屋根をブチ抜いたのが素晴らしいが、今は屋根は失く塔だけが所在無気である。  三層堂の遠くには、恐らくこの寺院の健立の一番の根拠でもあったろう巨大な岩壁が圧倒的に在る。岩壁はインダス河に面している。手前の枯木が実に象徴力の極みである。雷で焼かれたようだ。梅の樹の老いたモノだが、黒く枯れて一層の生命力が横溢している。