I 世田谷村アイスランド紀行

石山修武 世田谷村・スタジオGAYA  開放系技術論

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高地で、盆地で、海岸線での3つの道筋とする。
海岸線で、日々の日報を交える

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「山の姿 」 表紙解説
第二の故郷である伊豆西海岸、松崎町での”なまこ壁通り”計画に想いを巡らせる内に、考えは飛んだ。松崎町では依田敬一元町長の許で町の景観作りんい取組みもした。依田敬一は北海道開拓の祖である依田勉三の意を継ごうの英才であった。その事は又、別に記す。
海と山の境界線に位置する松崎町は図に示す牛原山を”うしろ山”として持つ。人々の生活の背景としての”うしろ”である。
それ故に景観作りは牛原山の姿を、その背景に据えるを旨とした。

山の姿が人々の意識、無意識の基準に在ると考えざるを得なかった。
今、コロナ事変下で鎖国状況の最中である。アジアの竜骨であるヒマラヤ内院、ツクチェには出掛けられぬ。ツクチェの神の山、ブルギリと牛原山、そして大和三山(三輪山)の山の姿が一つながりに浮かび上がった。

7月7日
石山修武

岡本太郎「明日の神話」コロナ事変下で

WTCビル(NY)のイスラム原理主義者達による消失事件は当時のブッシュJr.大統領が「コレは戦争である」と述べたが、それに続く数々の大災害の連続、コレには福島第一原発の消失も含まれよう。コレもほぼ戦争に相似する。
今(2021年春)、渋谷駅コンコースに、メキシコから帰還した「明日の神話」は、大阪千里の太陽の塔と共に、人々が注視することは無いが、冷然として在り続ける。何がそう在らしめたのだろうか?
簡単な答えはあり得ようもないが、やはり子供達、わたくしの様な高齢者も包含する膨大な人々の無意識の集合がそうさせていると、考えるのが一番、それこそ明日の神話なのではあるまいか。希望はまだ在るのだ。

2021年春 石山修武

日報

日報

日報

山の姿と吉備津神社

作業の始めに

何故?神社を考えようとするか。「住宅」ではなく。又、「近代芸術」の類でも無い。毒にも薬にもなりそうにないそれでも実体であるモノを。

毒にも薬にもなりそうに無いと書いて、今更言うまでもないと更に気付いた。戦後天皇は毒にも薬にもならぬ空気の如くの存在である「神社」同様だ。小祠の類を算入すれば、計算不可能程に無数在る。「山」の数も算定できぬ程に無数であり、「川」の数も数える事が不可能である。小に名がないからだ。命名されずの数が巨大である。神社を考えるに「吉備津神社」から入ろうとしている。明らかに私の異形好みからである。しかし異形の数は少ない。少ないから異形なのである。77歳にもなって、これでは無駄死になる可能大である。自己満足だけは欲しいのである。しかし今更、自分の骨格を否定するまでの勇気はない。

何故「吉備津神社」から入ろうとしたか、から入り直したい。

何故に自身の家を「世田谷村」と名付けたかを、あいまいにしてきた。コレはツケが廻ってきたのである。物体としての「住宅」と「神社」の関係は必ず在る。辿り着けそうにない予感大であるが、試みる。

神社が日本列島に、死者の数程にとは言わぬが、巨大数として在るに近い状態は幸いにして知る。インドネシア、バリ島の住居であり、神社らしき、小祠群の異常、その無数に近くの状態として知るからだ。

今、インドネシアは人口三億ほど。いずれはGDPは日本を抜くのであろう。興味津々たる国家でもある。日本国と同様に群島からなり、大陸は持たぬ。

柳田國男の海上の道は特定不可能であるが想像するに、道の辿り着く先は南洋の島々である。まだ柳田國男は宗教学における原アニミズムであるマナを知らなかったろう。万葉古語研究者である小西進の言ではマナは日本語の「モノ」の語源であるようだ。マナの名を持つ物体あるいは宗教的存在はミクロネシアにとどまらずヒマラヤ山脈の西端に近い、インド領チベット、ラダック地方にも散在している。アジア圏内陸部の海の記憶であろうとしか、今は言えぬ。

この現実が、その波及力こそが神社の実体であろう。

インドネシア、バリ島へは日本における民族的人類学らしきの流行の尻馬に乗って出掛けた。偶然が重なり、バリ島文化の中心地の近くの集落にたどり着いた。ウブドである。隣りがブリアタン村。天の川の星の一つが落ちてきたの神話があり、でっかい銅製のドラ(太鼓)とも鏡ともつかぬ円形の平板が飾られてあった。もちろん、星で在るはずもない。しかし歴然たる視覚メディアであった。 ウブドはマンダラ翁の生家に宿泊した。しばらくして、チョコルダ・グデ・パルタの家に移った。往時のウブド領主チョコルダ・スガワティー一族だろう。2年ほど前にマンダラ翁は亡くなり、バリ島最大級の祭儀がなされたようであった。その写真は見た。息子の一人がバグース・マンダラ、バリ随一の踊り手(ダンサー)であった。何度か通ううちにマンダラがバリ島の踊り、楽器、楽曲を中心とする、いわばバリ民俗歌舞近代の総合的な変革者であり、天才的な組織者でもあった、を知ったのである。

近代のバリ観光の世界的波及は、いわばマンダラが組織した民俗的断片の再組織、つまりは近代化の産物でもある。マンダラの楽団及び歌舞団は1930年代のバリ万博を始まりにアメリカ国のデューク・エリントン楽団と同じくして世界を巡行したのであった。近代の産物でもあり、民族文化の再組織のそれは形であった。

日本知識人団(山口昌男、多木浩二、石川浩たち)はそれを知らずにバリへと出掛けたようである。多木浩二はしばらくして、近代天皇論として詳論を残しているは、流石である。バリ島の芸能及びより多くは集落を体験して、天皇小論へと飛び火したのであろう。明治天皇の座の位置高さからだけでは天皇の近代の問題へつながり得るはずもない。

ウブドのマンダラの民族芸能の近代化がバリ島観光の量的拡大の図であろうが、近代の再組織は古形の素がなくしては成立しない。

その古形の素の最大はアグン山を唯一の絶対象徴とする島の地形から生まれたと思われる。アグン山は小さな島の東北部にあり、富士山よりも少し低い。

熱帯下で降雪もあり得ず、キリマンジャロの雪下の虎(トラ)のファンタジーも生み得ない。日本列島は糸井川富士川のフォッサマグナラインでバキッとほぼ急角度(平面として)に曲がった火山列島である。長く帯状に火山が群居する。

比較するにバリ島は小さく点状であり休火山であるアグン山がほぼ独立して在る。それゆえに島の文化(生活)は方向性が強く、集約象徴性を帯びた。アグン山へのオリエンテーションを唯一の「聖」とし、他、つまり「海」の方向は全て「死」(ケガレ)である。

集落の入り、配列も全てがそれに従う。寺院と名乗る神社の階層、配置の形式の原則性は保持されやすく、驚くべきは個々の住居にまで貫徹されている。アグン山の方向に母屋というハウス・テンプル(先祖の墓)が配置され海側に俗な機能が配される。熱帯地方であるから住居は風を考慮して散在群体形式である。奥の大きさ、つまりは人口数であろうが、人口総数の近代化による爆発的増大はなかった。非常に多い魔術らしきの大半は男女間官能機微を巡るである。その占いにブラック、ホワイトと区分けされた占い師が生計を立てていた。そんなことに熱中しやすい人々であったのだ。七毛作があったとされ、多くが長命であり、寿命三百歳の存在の言い伝えさえある。色好みの老子がウヨウヨしたのである。芸能の基本はそれでもあるから、赤道直下の自然に、火山の熱がミックスしたのである。キングコングまがいの魔物バロンや魔女ランダが入り乱れるが近代芸能の基本である。街道沿いの基本は帯状の住戸配列、つまりパレード状であるがランダと呼ぶ魔女らしきが横切るらしき十字路まである。つまり儀礼儀式化された演劇集落なのでもある。

アグン山、一点集約型演劇島でもあるが、その見方自体が余りにヨーロッパ的形式の内にあるの批判もある。日本列島のそれと違うように見えるのは、その集約度の濃密であり、個々の住居の散逸的抽象度の高さである。

日本神話のイザナミ、イザナギの男女神の交接を象徴する国産みの神話らしきは無い。アグン山への方向が全て抽象化する。大王権力の集中なくして、島民の生活の安穏はあり得たのである。

世界各地で、実に多くの日本製映像を見た。「アルプスの少女ハイジ」「おしん」が双璧である。

たしか、ウブドでも「おしん」は見た。雪景色は別として「おしん」の物語背景の集落やら、生活道具やらはバリ島近代と似ていた。チョコルダも「いいドラマである」と分厚い藁屋根の家でTVを見ていた。描かれた母娘のドラマの背景、特に住居や集落の風景に安心感と共感を持ったのであろう。

「おしん」映像の原作者は、「コレは是非とも天皇に見てもらいたい」と言ったそうであるが、真偽は不明である。女性作家にしか言えぬ言である、と考えたが映像からの印象とその言らしきの距離は遠いのである。「おしん」の映像背景の貧しさの中の美は、アレはノスタルジーのあいまいさに酷似していたと考えるのが安心である。

我々が家や集落の姿に求めるのは「安心」であり、TV映像自体に電気釜の便利がそれを仲介するだけである。

「神社」を考えるに、バリ島の家、そして集落の断片を使うは、実はバリの近代らしきに日本のそれとは違う何者かを視ようとしているからである。

バリ島の今の現実はイスラム爆破テロ(バリ、デンパサール)に代表される如くに、わたくしが「コスモロジーの破壊」を視ようとした30年ほども昔とは大きく変化しているようだ。

ウブド間近の集落テガスにおける草葺き屋根がブリキ、トタン屋根に変わる有様のサーヴェイはついにまとめられずに終わった。再び試みる時間も残っていない。

バリ集落の藁屋根の連続にコスモロジーを視ようとし、それが破綻し近代のブリキ、トタンに代替されるは世界の何処にでもある普遍の近代である。

「女性がワコールの下着を着けるようになって、男もスポンジサンダルを履くようになり、どうやらバリの舞踏も芸能も駄目になったようですね」

多木浩二が言い残した印象的な言葉ではある。芸術的表現にコンピュータが、すなわち技術が正面から入り込むに似た状態に近く、前近代へのノスタルジーに由縁しよう。

再生、修理修繕が創作の重要な主題として表面化している。フィクションが現実を超えていた時代もたしかにあった。でも、それに近くに影の如くの別の小径がありはしないか?

今に残り続ける日本式の神社は何者かの裸形の、つまり裸体状ではない。

むしろ様々な意匠をまとった混交、すなわち、かつて近代主義者たちが忌み嫌っていた折衷への意欲が露出した結果としての、物体の表れではないか?

それがわかりやすく伝達できよう「神社」の現実であり、本質である。

そう考えぬと、この様式の強い持続力は説明できぬ。

以下、

1、吉備津神社

2、山の姿、各論集

3、道の姿、各論集

4、太陽の塔は何故重要文化財にならぬのか?

5、岡本太郎の「お化け都市」

と続ける予定だけれど、力及ばず変更もするだろう。が、しばらくは努力してみる。

日報

日報

日報

日報

日報

日報・制作ノート

日報・制作ノート

真昼の銀河鉄道3

現在進行中の窟院工事現場が万が一にも在れば、何を置いても駆けつけたい。例え、それがヒマラヤ奥地であったとしても。

デカン高原のエローラ窟院群を全て見て回るのは酷である。暗闇に入り込んだり、凄惨な外の陽光の中へ出たりを繰り返す。その温度差が体力を消耗させる。

我々、アジアモンスーン下の柔らかい気候下に暮らし続けた民族には想像不可である。「インドの旅」の堀田善衛はその冒頭でホテルの床掃除する人を描写しながら、カーストの非合理へと考えを進めた。床提示に技術と呼ぶ必要なかろうが、労働の持続だけは要する。小さな手ぼうきで床を掃き続ける繰り返し、これも意思であるは必要とされる。 デビット・リーンの「インドの旅」はインドの真昼の灼熱と、夕闇から深夜にかけての闇の始まりの愉楽とを描いたモノであった。映画では窟院状の洞穴で、目くるめく狂気に襲われ、外の陽光に飛び出る情景が撮られた。あれはヨーロッパ人のインド植民地支配、東インド会社の非合理の極みをきわめたヨーロッパ人のヨーロッパ近代そのものを作り出した大きな礎であるインド収奪の原罪から描かれただけのモノではない。アラビアのロレンスを撮った人間である。より深くヨーロッパ人のすなわち自身の内なる身体と想像力の関係について考えを巡らせたのである。長々と続く法廷場面はヨーロッパ文化の象徴として描かれた。法廷は内であり、現実は外であった。

堀田善衛はインドの窟院体験を、アジアの凹型の思想らしきとして描写した。その考えは若い自分のアジアへの旅の一因でもあった。

ようやく後期高齢者の今となり、コロナ事変のパンデミック渦中の、白昼の洞穴状への閉じこもり生活を続け、ソロソロ、アジアの凹型からは卒業できるかと考えるにいたり、それで再びの真昼の銀河鉄道となったのである。 二つの「インドの旅」は裏表であった。アラビアのロレンスの最期は主人公がBMWオートバイでイギリスの田園風景を駆け、人影と衝突、空中に放り出されるで終わった。

放り出されたロレンスはデービッド・リーン自身でもあったのだろう。「近代」の祖型はイギリス産業革命であった。日本への近代の至来は大きな時差があった。堀田善衛のインドの旅はその時差から生み出された。 一部の映像はよく文学を越えることがある。言葉(文字)で書き尽くせぬ部分は、宙に放り投げてしまえるからである。俗に呼ぶバーチャル・リアリティの大方を自分は信用しない。その立場に身を置くことだけは決めている。

真昼の銀河鉄道4

スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」はアーサー・C・クラークの原作を超えていた。でも、その映像は現実の2001年9月11日のN.Y.でも事件報道には届かず、WTCビル崩壊の噴煙の中に埋没している。あれから20年経った。同時多発テロはパンデミクスとなり、諸災害、事件の報道は途切れることなく連続している。

この連続は情報化時代(第二次産業革命)以前にも在ったのだろう。伝わらなかっただけだ。パンデミクスは数限りなく生まれ続ける人災の一つである。

窟院をそれでも書くは「時間」を考えたいからだ。

デイビッド・リーンも堀田善衛も、すなわち洋の東西を問わず、窟院の何か底鳴りの音を聴いたのである。それを彼等は伝えたかった。双方ともにインド窟院の廃墟を視、体験しての感慨を表現した。でも窟院を掘り上げるのには実に長い時間を要するのである。その長い時間は近代の時間とは不連続の時間でもある。

日報・制作ノート

真昼の銀河鉄道3

インド最古と言われる集落(文化)ラジギール間近の原始に近い窟院に線刻された図像である。とても全てとは言えぬが、多くの窟院を若い頃から訪ねて廻った。

窟院は岩山を掘って作られる。構築(コンストラクション)とは別系の、物体制作の原理を持つ。若い頃から度々訪ねているエローラ窟院群は西に開口を向けて掘られている。その中心はカイラーサ神殿だ。岩山を露天掘り状に掘鑿した。どうやら仏教窟院群であるアジャンタの其れ等と同様に、隊商ルートに間近で商人たちの巨大な寄進によって資金がまかなわれた。宗教心だけで巨大仕事がなし得よう筈はない。カイラーサは古代より「世界の中心の山」と伝えられ続けた。ヒマラヤ山脈西端の姿が美しい山である。高度は6000メートル級であるから、ヒマラヤ山群ではそれほど高くはない。その姿の美しさが象徴の力として畏敬され続けたのである。

エローラ窟院で、自分が一番心惹かれ続けたのは、しかし、カイラーサ神殿ばかりではない。多くの窟院群の一番外れに掘られた、恐らくは工人達(石彫工)の小さな洞穴であった。その大半は貧しく装飾も施されずに素貧である。でも岩の床に少し段差を設けて寝台(石の)も彫られている。

人間のギリギリの工夫である。入り口は小さく今は草々にまぎれている。

ラジギールのこの窟院もまた、工人とも隠者ともつかぬ人々が彫ったモノであろう。岩の内は寝るだけだった。飲み食い、そして排泄は外でした。岩肌に差掛け木材の構築跡が残されている。

内は暗がりの内で、異常な精妙さで「図像」が刻印されている。車輪と、食べ物を運ぶ人像がある。間近には世界遺産として指定される長い二条の轍状の跡があるが、その由縁は解明されていない様だ。ローマ街道の轍跡とは歴然と違うのだ。何処へ続くのやも知れぬ。西暦0年程に作られた窟院であり、図像刻印である。インド神話に近い図像ではないかと考えるが。その先はまだわからぬ。

制作ノート

日報

制作ノート

真昼の銀河鉄道 2

日報・真昼の銀河鉄道

真昼の銀河鉄道

このドローイングを真昼の銀河鉄道のタイトルを付ける日付の区切りとする。2003年の9月22日の日付がある。

実は、ネパール、カトマンドゥ盆地のパタン市の裏通りの文房具屋で、中国製の子供達への美術工芸教育の道具としての小ワッペン群を発見して、驚いた。それを使ったドローイング(大きいのはM氏蔵)が手許にあるので探したが多くに埋もれて発掘できなかった。

ママヨ説明抜きでズルズルとやり過ごすかとも考えたけれど、我ながらそれが出来ず、この小ドローイングを再発見したのである。二の次の発見かとも考えたが、良く良く想えば、この小ドローイングの方が適しているようだ。子供の文房具で絵をやる、の固苦しい「開放系技術」思考からも自由にドロップアウトしている。マアあの子供のワッペン仕様の奴の方がわたくしなりの原理には近いが、アレをさらに探す時間は惜しいのである。この惜しさは77歳の役得である。コレは手放さぬが、6月6日からの世田谷、土間ギャラリー展に出す。

日報

制作ノート

日報

日報

日報

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日報

日報

日報

日報

日報

日報

日報

日報

スケッチ2点の解説ー2

日報

番外日録

表紙解説
世田谷村2021年9月の、屋上カヤぶき小屋スケッチ1

コロナウイルス感染の世界普遍は、2011年9月のNY・WTCビル消滅に比すべき大異変であり、しかも更に巨大でゆるやかに世界を変化させるであろう。
大型ジェット旅客機による大量旅客時代も先が視えぬ。
わたくしのアジア地域での試みも停滞せざるを得ない。ジタバタしても仕方ないのである。
こんな時には身近なところに戻り、とどまるしかないし、それがベストである。それで、屋上に小屋を作ろうとしている。20年程も昔の世田谷村屋上は草ボーボーの原っぱ状態である。おばQに似せた人型の温室フレームも錆びて、強風で歪んだ。歪みがなかなかに良い。そのフレームにボーボーのカヤを刈り取って小屋掛をする。
「開放系技術論」は2章に入った。10年位はかかるであろうは覚悟している。

アジア地域での試みと書いたけれど、アジアの呼び方も変えねばならないのである。この名は極論すれば明治時代以来の和魂洋才に通ずる。然りであるが和魂の内実が実に怪しい。自分の中にそれがあるやと問えば、ゼロに近いのである。
旅に例えれば空港待合室、つまりトランジット状である。
屋上のボーボーのアシを刈り取り、それに寝そべってると草息切の内になる。
しばらくは、生ゴミによる土作りにはげむことにしたい。
果報は寝て待つに限る。良く眠るが肝要である。
2021年9月19日
石山修武

山の姿6

1図は、宮内庁書陵部蔵、年代未詳とされる大嘗祭の図。右手前に悠紀の標山。左手前に主基の標山。初源に近いであろう大嘗祭儀礼が対称形の二つの場所、二つの人工の動かぬ山の姿であったのが示されている。

2図は上杉家蔵「洛中洛外図」部分。
ほぼ800年の大嘗祭中期に大嘗祭の悠紀、主基は原形をとどめぬ「山車」として変化した。先年なされた平成→令和の天皇交替儀式は、むしろ近代化された儀式様式である。
現皇居(旧江戸城本丸近くの小広場)に造営された。一般公開されて見学可で、わたくしも行列をなして見た。全体工事は大手ゼネコンによる。設計は宮内庁営繕であるから、当然その現象は宮内庁の言葉、文字資料の指示はあったろうが、全て寸法、プロポーションの外形は実にモダーンであった。上野博物館で「高御座」も公開されたので見た。屋根の勾配、及びその末端の渦巻状の装飾他、エキゾチックであった。
外からの印象と内の感想(内には入れぬ)とのギャップが問題をはらむと感じた。

山の姿4
「飾りのついた家」組合3

剣持昤が提示した「規格構成材方式」は「開口部」論には欠かせぬ理論であったが、2021年の今を取り巻く、住宅生産及び量産体制化にある部材、部品群の現在を視るに、すでに理論としての価値は決して大きくは無い。
何故ならば、理論の価値が大きく現実に超えられた、そんな現実を我々が生きているからだ。(表紙、岡本太郎、明日の神話 参照)
乱暴だが、中途を全て省く。剣持の開口部論は量産を旨とした工業化時代の最良の理論だったが、今は大量に作るの前提が崩れ始めているからだ。量に対する想像力の形式は、今は繰り返すが、大量のゴミの生産に同じである。
量産は”民家”ひいては民主主義の平準化を旨とした幸福な時代もあったけれど、今は過去である。
それ故に「飾りのついた家」組合は清冽な文化の産物としての、極度に個別を目指そうとする。
2021年7月14日 石山修武

「飾りのついた家」組合2


「飾りのついた家」組合1



世田谷村地面階の工房部である。ここを拠点に、飾りのついた家組合の活動を再開する。西側道路に面した壁面に附した家型の飾りは時々、小表示物を並べたてる枠組でもある。デッキプレート の表面型は群馬県左官協同組合(故森田寅次会長)の方々が黒硝煙混合のモルタルで仕上げた。森田さんは当時日本左官業組合会長でもあり、伊豆の長八美術館の左官工事の技術面での責任者でもあった。この壁は工業化された鉄製品と、伝統の左官技能との混成品である。
更に壁に取り付けた温室用の工業化製品を使用した装飾でもある「家」のマークは小さなメディアでもあった。すなわち「飾りのついた家」である。
世田谷での「土間ギャラリー」展、それに連続させた銀座「ギャラリーせいほう」での個展は私に「飾りのついた家」組合活動の大事さを励起させた。
202年7月4日 石山修武

「ギャラリーせいほう」展について
掘る、彫る、刻むーーは自分の性に合っているな、と考えるに至った。描く、塗る、と比較すれば、である。
昨年、石を彫った。ネパールの石工アルジュンの助けを借りた。面白かった。でも物足りなさも残った。こんなに面白いのは独人でやるに限ると考えた。いささか長く建築設計してきた。設計で大きいのは独人では全ては出来ぬ。種々の技術者達との協働である。何よりも実物と呼ぶ物体を作るはゼネコン他の大小組織の力を借りねばならぬ。
独人で「立体」を作り尽くそうと考えた由縁である。
独人で山にゆき、海辺を歩き、材料を先ず拾い集めた。伊良湖半島老澤町伴野一六(※)を倣ったのである。
一六さんにはまだ遠く及ばぬが、彼の「生」の中枢の喜びは少しばかり知った。老いたけれど長生きして、作り続ける。
2021年6月4日 石山修武

「伴野一六邸異聞」(『異形建築巡礼』国書刊行会、所収)

舟越直木 の作品の一部の感想10結 

終わりに蛇足を附す。
作りたい人はどうしても模倣から自由ではあり得ない。しかも同時代の創作者たちの膨大な諸表現群を模倣、あるいは深く影響される事からの不自由である。
視覚を主とする芸術は特にそれが顕著である。どう影響され、しかも影響しているかは赤裸々にわかるものなのだ。近代芸術の広く強い特性だ。
自然を学び得る創作者は、批評家の言説の中にだけ在り、現実には在り得ようがない。批評家は仮説としての天才を想定しやすいから、自然を学ぶと言う。創作家は、他の創作家、そして歴史的産物群から学び、模倣するのである。近代芸術の宿命である。
観想と呼ばれる禅画らしきの○を考えるとわかりやすい。情性の表れとしての○が追求されるは嘘だ。○は描きやすいから描く対象として設定されるのだ。抽象と具象の区別などは無い。そう区分けして呼ぶのが容易に過ぎぬだけである。模倣の模式である。意味は無い。
船越直木の全体はいずれ解明されるだろうし、解明したいとかんがえる人間も多くなるであろう。今の自分にはコレで精一杯である。

最も言説が世界に流通している日本人の一人に鈴木大拙がいる。キリスト教異端のエックハルトの神秘主義に影響され(関心を持ち)最期には日本的霊性に迄辿り着いた。万物とは言えぬが、諸物に神性を視ようとしたアニミズムである。
鈴木大拙はその行き先に余市の念仏に行き着いてしまった。日本最大の信徒数を持つ浄土真宗の南無阿弥陀仏である。決して井の中の蛙とは呼べぬ大拙にして、この到達点であり、奇妙なナショナリズムの変種ではなかろうか。
あるいは俗な徳川政権下の為政産物である、専門職としての僧職の肯定に過ぎない。
宮沢賢治は日蓮宗法華経に始まり、実に多くの言語に訳されたコスモポリタンとしての創作に辿り着いた。その創作は歴然として、大拙の日本的霊性を超えていた。霊性(アニミズム)は民族性を超えるや否やは不分明だが、日本的と冠がつくのは怪しいではないか?
船越直木は家族全員がカソリック信徒とおぼしき、日本では特異さの内に生まれ育ったようである。G・K・チェスタートンの言う正統(オーソドキシー)からは正常であるが、日本の風土、そして近代史の浅薄さからは明らかに異常である。天性の芸術家はチェスタートンのよく広く知られた小説類に登場する”詩人”の類であろう。そして詩人はチェスタートンが表現した如くに狂人らしきに薄皮一枚の存在である。あるいは狂人を演ずる自意識のかたまりでもある
船越直木が描き続けた人物像ドローイングの人影らしきは何者か?自身であろうと推測せざるを得ぬが、神でもあったやも知れぬ。天性の芸術家の近代の不可能に近いであろう。

彫刻(小立体)とドローイングとの境界は明白に在る。相互流通は無意識になされようが、意識下ではあり得ぬ。物質は人体(指先)と触れ合うにしても決して混合溶触する事は無い。船越直木の彫刻は未知の領域に踏み込みつつあったけれど自己運動の途上にあったろう。
2021年5月28日 石山修武

舟越直木 の作品の一部の感想9 

舟越直木 の作品の一部の感想8 

舟越直木 の作品の一部の感想7 

舟越直木 の作品の一部の感想6 

舟越直木 の作品の一部の感想5 

舟越直木 の作品の一部の感想4 

舟越直木 の作品の一部の感想3 

舟越直木 の作品の一部の感想2 

舟越直木 の作品の一部の感想2
はじめで述べた作品の細部である。才能ある画家の創作物は、時にその全体よりも微細極まる細部にその中枢を露出することがある。おそらくは創作者も気付かぬままに。ほとんど無意識な筆のふるえ、走りが作者の本能と呼ぶべっきを吐露してしまうからである。筋肉の充分にはコントロール不可能な動きでもある。
偶然、あるいは間違いに同じである。
人間の身体を楽器に例えれば、三味線の音の出し方と洋楽器であるバイオリンの差異につながる。船越直木は知られる如くに一家の全てが芸術家、しかもヨーロッパ的教養に包まれて育った小歴史を持つ。しかし、この作品の細部に露出しているのは、中国風山水画の筆運びである。創作家と呼び得る才能は、その本来の教養にも似た枠を踏み出すのである。宋の山水画、ひいては文人画の流れは日本近代絵画においては枠外であった。船越直木は無意識において、その枠外を露わにしている。

舟越直木 の作品の一部の感想1 


求龍堂の「舟越直木」の冒頭作品群は重要である。山景木版5点(ギャラリー展示は4点)山の形を想わせるフォルムが神秘的な重量感で壁に宙吊りされている。宙吊りは写真では感得不能、実物を体験する他はない。
何故、重要であるかは、この山景木版は彫刻、および絵画と呼んでいる物体が建築から分離してしまった歴史をも示しているからだ。勇気を持って言えばロマネスク彫刻を持つ修道院の大扉と同類だからだ。それ程の重量感が在る。4.5cmの厚さの木版かと思いきや、裏をのぞかせてもらえば舞台セットの造り込み状の木工細工の工夫による。舟越直木はどうしても重量(重力かも知れぬ)が欲しくて、そうした。
建築から彫刻絵画が分離したのは近代でしかない。それ故にこの作品群は。分離のキシミを表現しているのである。
神秘的と書かざるを得ぬ、その神秘は例えば日本的霊性に非ず。より即物として芸術家(近代)の手で露出している。
この作家のオーソドキシー(正統性)は彫刻絵画の近代の(日本の近代ではない)悲劇性に届いてしまっている。

2021年4月22日 石山修武

開放系技術論 製作論について1 

開放系技術類スケッチ4 

開放系技術類スケッチ3 

開放系技術類スケッチ2 

開放系技術類スケッチ