I 世田谷村アイスランド紀行

石山修武 世田谷村・スタジオGAYA日報他連載

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開放系技術論 技術と人間 真昼の銀河鉄道第8章
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㉔渡真利島 わたくしの現場小屋
2012年1月 タテ580mm ヨコ380mm ペン

 世田谷村をすでに持つので、家はもういらない。でもせっかくの無人島の仕事だから、その建築の現場小屋は欲しい。島に渡る渡し船で暮らしても良いが、波枕とうそぶく肝玉は無い。台風接近で流されるのも嫌だ。それで小屋をデザインした。一人は寂しかろう。鳥や生物達も一緒できるのがイイ。並木さんのキャビンは渡真利さんの外洋ヨット同様に台湾で作って運ぼうと考えたから、荷上げ用の桟橋間近に使用。小屋は松浦武四郎の一畳敷きが絶品だが、アレは色々と考えがつまり過ぎてチョット重苦しい。0畳が望ましい。武四郎の差掛けは恐らく数寄屋の極だが、そんな知識も捨てたい。少なくとも捨てる気持は表明したい。誰に表明する当ても無いが、自分に言いきかせたい。
 それで時は流れて今である。並木さんは病いで居なくなった。だから計画もきれいさっぱり消えた。遺志を継ぐ人間も居ようが無い。もし現れても、わたくしはやらない。どうせ人工物は消えて亡くなる。でもそれぞれの記憶の光芒は残せば闇を照らすであろう。照らさなくても、ただ在ればそれで良い。消える時は皆消える。
 勿論、まだドローイングは続けている。毎日とは言はぬが、細々と続けている。努力では無い。そおせざるを得ないから続けている。呼吸みたいなものである。
 二十四点のドローイングに5枚づつ文字を書いてきた。全て過去のものである。力及ばず実物は作れなかった。だからこそ、何ものにも替えがたい。何故か?まだまだ生きるからだ。生き延びるためにはどおしても過去を振り返らねばならぬ。出来なかった事の内に行く先、生きる先が視える。二千二十年現在まだ最期では無いが、それに近いドローイングを描いている。インナーヒマラヤ、ツクチェ集落での計画のモノだ。ヒマラヤは遠い。そしてデッカイ。時に神様みたいだと想う。ネパール山岳少数民族カタリ族長の血を継ぐジェニーが居て、それで何とかなりそうである。気がつけば何時も誰か人間が居て、それで絵が描ける。絵、すなわち計画案である。建築からも自由になりたいと考えて、それで、そのようにしてそれらしき絵も描いてみた。でもやはり何かが不足していた。恐らくは自身の才覚がそれには不足している。何でも出来る筈もない。無駄を自覚して、それでも描き続けるしか無い。それがわたくしの小さな才覚なのである。では、才覚とは何か?どおやら自己愛の域はようやく脱した。時間の積み重なりによる身体の劣化にもよるだろう。執着は何とか通り過ぎた。外の世界への愛情であるようだ。自分の外で動くものへの関心の深まりである。物質をも含むのが、自分の個性である。水蒸気や空気の動き、つまりは生体である。土や岩石の内にもそれは在る。関心が高じて愛情となる。
 
 ジュニーとはヒマラヤ内院で石と土と水と風と、そして金属の混成した、又も、建築をつくろうとしている。そのためのドローイングも積み重ねた。振り返ると少数民族への強い関心が在るようだ。振り返るは老人の特権である。自分も又、少数民族に非ず、しかし少数派であるからだ。少数派は弱い。それを知るからこそ同族、あるいはすでに同病でもあろうかの存在には敏感にならざるを得ない。同病相憐むである。カタリ族はシャーマニズムの民でもある。それだからこそであろう。物流の現実に鋭い感覚を持ち続ける。古くはチベット、中国との塩の交易、宝石、貴金属の類い。勿論、一番重要の無い金(マネー)も含まれる。山のユダヤ人と呼ばれる由縁である。恐らくはアヘンも商品として扱ったろう。
 マテリアル、カラー、シェイプの集合、つまり物質の精霊(アニマ)=動めきへの深い関心アニミズムと呼ぶ。カタリのシャーマンは商人でもある。古来の塩の道の高地でのセンター、ステーション(駅)であるはジュニーの生家でもある。大きな石積みの大邸宅であり、今は廃墟である。そいつにもぐり込んで何者かを作る。物が先だ。何よりも、塩の道は強い馬の道でもあった。だから馬小屋は巨大なのが在る。その一部を使い廻して、作る。
 カリガンダキ(黒い河)の河原はビョウビョウと広い。八千メーターの巨峰に囲まれて、ヒューヒューと冬の風は冷たく強い。人を吹き倒す程である。であるからこのドローイングの小屋は駄目だ。死んぢまう。でも姿形は変えれば良いのである。とんでも無く重いモノにならざるを得ない。石の山になるであろう。石の山には洞穴をつくる。その洞穴にこいつを作る。どおしても作りたい。二十四のドローイング群のとりあえずは終いのモノである。

⑰満覚路上山庄、鳥人宅、茶館を望む
2014年5月 タテ540mm ヨコ380mm 墨、鉛筆、他

 左上部に鳥人の家が描かれている。遠くとも言えず。巡らせた低い壁の外に茶畑、金木犀。それらと関係づけようとした三階建、屋上庭付の茶館が在る。この茶館のデザインには熱中して多くのスケッチを残した。
 結局計画は挫折した。中国経済の屈曲に対面したからだ。クライアントには中国華南鉄鋼会社のオーナーがいて、先ずそれが脱落した。次に大不動産仲介業者が続き、美容院チェインのオーナーは生き残り建設を急ごうとしたが、日本で言うところの主幹産業社には気力が残っていなかった。広大な計画地はすでに政府からの使用権は得ていた。(基本的なことではあるが全ての土地は政府の所有になる)使用権がどれ程の金額でやり取りされたのかは不明であり、知り得ようがない。共産党政権の、租税にも勝るだろう権力の中枢である。
 スケッチに描いた地表に現れた部分の大半は人工地盤の上に乗っている。人工地盤の下は大駐車場、諸サービス機能。人工地盤のエリアに入るには厳重なセキュリティが要求された。周囲の諸生活とは隔絶されている。
 
 彼等は世田谷村にもやってきた。
「この家には見栄がない」 手持ちの金が無いから、見栄のはりようがないのがわたくしの実のところだが、妙に気になった。例えばこの計画中の彼等の住宅の輪郭を右上に描いたが、この住宅とは呼べぬように、わたくしには考えられたモノの実体が、見栄の塊である様にも思えたからだった。夫人達のクローゼットの要求は馬鹿気たものであった。それだけでも日本の小住宅一軒程の面積を要求された。こんなに無尽蔵な服を所有してどおするのか。一生かかっても着尽くせぬだろうとあきれた。
 公私の別を問わず、宴会は彼等の生活の最重要部を占める。連日の宴会は女性(夫人)が主役でもあり、夫人達は宴席という小劇の衣装としての服飾が要である。ヨーロッパに於けるオペラを含む劇場文化はロビーが大事なようだ。純粋に音楽鑑賞、演劇を楽しむばかりでなく、むしろロビー他での夫人達のファッションショーの意味が大きいのである。ビートルズのション・レノンがライブの貴席に向けて「お偉い方々は(相手ばかりではなく)宝石をジャラジャラさせて下さい」と言ってのけたのは有名なエピソードであるが、観客は観劇するばかりではなく、ロビーで自身を観せる演者でもあったのだ。つまり、見栄である。宝飾の全てはそれに尽きるのである。
 我々だって教育によって教えられた謂わゆるモダーン・デザインとは別種の見栄の表現者でもある。金満を見せる代わりに教育の枠組みを見せるのである。ゴテゴテせぬシンプルな抽象性とはその核に自身の教育水準とも言うべきへの、そこはかとないが、ハッキリとした差別化が意識されている。集団としての意識である。
 中国南部の金満家たち(高額所得者層)の、コレクションを良く体験した。見事な位にモダーン・アートは含まれていない。全部が全部古道具である。古物だ。古い物は年代がはっきりしている物品には値段が、それに応じて、良く知識としても流通している。北京の大富豪の家で、唐代の樹皮に描かれた絵(巻き物)を見た事がある。一巻で巨大ビル一本に相当すると聞かされた。その持仏は日本最古とされる完全ではない飛鳥仏(飛鳥寺所蔵)の国宝よりも、はるかに古いモノであった。中国では今も、あるいは今だからこそ古物が美術マーケットの中心であり、他は無いに同然であるようだ。
 古物は筆、硯の文房具につながる世界である。であるから上海の文房具屋が映画館を数軒経営し、美術館、ギャラリーも運営する現実も生まれる。つまり、文化美術芸能のカテゴリーが歴然として西欧型に非ずなのだ。
 インドではそれが更に混沌とする。良くは知らぬが古物のマーケットはまだ無い。
 
 金が集まるところに芸術・文化も栄える。これはこれ迄のところまだ歴史の鉄則である。産油国王族、貴族(王家の親族)は日本の皇族とは異次元の金満家でもある。そこには実に呆然とする如くのアーチストを超えるコレクターが出現もする。日本の工芸世界はモダーンアートを越えよう伝統の力を持つが、いかんせんマーケットが小さく閉じている。伝来の仏教文化、美術も同様に閉じている。
 異形のコレクターを待つしかないかとも思う。神道神社文化はその容器自体に象徴価値が在るが、内には何も無いのである。これを悲観としてとらえるか、別の観方が出現するか残された楽しみの一つであろう。

⑬キルティプール計画
スフィンクスに変身しようとするストゥーパと建設小屋。
2012年、2020年わずかの加筆。タテ380mm ヨコ540mm

 ストゥーパはインド、サンチーの大ストゥーパを大型のものとしては原型とする。仏陀の遺体の一部を収めるものとされる。アジアの仏教圏に拡がった今風に言えば内部の無い物体である。日本列島にも少なからず建設されている。新しいものの多くは日蓮正宗教団によっている。アジア各地にその様式は伝播した。チベットにも多く在り、ラサ・ポタラ宮のモノは巨大な建築の内部に高僧達のミイラを安置する卵形の球体を組み込んだり、扶桑寺の如くに大きな曼荼羅平面形を持つ建築の重要な部分としてそれぞれが五大色に彩色されて配置されたりと多様に展開されている。ネパールにはアジア最大のボドナハテンプルのストゥーパが、それを取り巻く建築群の中心として在る。スワヤンブナートのストゥーパはネパール最古のものである。ネパールのものは頂部に塔状の四角平面を持つ立体が乗せられ、立体には眼球が描き込まれ仏体の化身状に表現されるのが少なくない。独自のスタイルと言うべきだろう。仏教徒が多く集合するカトマンドゥ盆地パタンでは近代的な集合住宅の屋上に小塔として乗せられたりもし続けている。
 カトマンドゥ盆地の西端に在る巨大な山岳状都市キルティプールは頂部の南北に長い屋根を北にヒンドゥ教徒、南を仏教徒集団が共生している。それぞれが象徴としてシヴァ神殿そしてストゥーパ群を持つ。キルティプールの代表的ストゥーパは大小五つが曼荼羅平面状に構成されていて独自である。それぞれが人面状の顔を持つ小塔を持つが、ストゥーパは白色である。
 
 わたくしは一時強くキルティプールに活動拠点を持ちたいと願った。その丘の頂部からの人の営みの集合としての都市とヒマラヤの白い峰々の眺望の共存に魅せられたからだ。強いノスタルジーを覚えた。
 友人ジェニー(カタリ族)の力を借りて、ネパール地方局のパーミッションを得る迄に入れ込んだ。ネパールの政治体制の激変により頓挫した。
 このドローイングはその想いの最中に描いた。右に描いたのは北のシヴァ神殿の五重之塔であり、当時ネパール地方局キルティプール支所オフィスが在る山稜からの参道状の記憶も描いている。この参道は踏み跡程度で始めるもので神殿下には小修道院つまりヒンドゥ教僧侶の住居跡があった。その小遺跡を修復を兼ねて住居らしきを作りたいとも考えたのだった。地方局オフィス近くが良いと考えたのは身の安全を考えたからだ。キルティプールの丘は下にあるトリヴヴァン大学と共に常にと言って良い位にその時々の政治体制(王権を含めて)にレジストしてきたことで知られる。国政選挙の際には隅々に無数の政治ポスターが貼り込まれ、旗が立てられ、風にひるがえった。地方局支所はその監視のためのものであったろう。
 中国毛派共産党の人民軍によって一時ネパールは制服されたが、その際にはキルティプール周辺道路は戦車が配され、高射砲陣地が構えられた。ネパールの女性兵士だったのか人民兵士だったのか区別もつかぬが彼等は荒っぽかった。無表情に人をどつき廻したのを強く記憶している。
 それでもここが好きだった。であるから、修道院(僧房)遺跡を住居にしようと決めていたから、当初は幕営地をベース・キャンプにすれば良かろうと考えたのであった。地方局には遺跡の修理を理由にした。水は僧房跡から引けば良い。地方局からの借り水でも良かろう。キルティプールは風の良い処でもあった。子供も大人でさえも良く凧を上げて遊んでいたものだ。自分は当時ひどく風力発電にこっていた。小型風車の装置まで所有していた位だった。であるから自給自足のエネルギー生活の実験場にもしようと考えた。それを画用紙の右に描いた。テントと風力発電。そして太陽光発電の装置である。真水に変換可能な浄化槽も描いた。
 左にはそれ程小さくは無いストゥーパ状を描いた。丘の上にストゥーパは無理だし(ヒンドゥー文化圏である)仏教なのかヒンドゥーなのかわからないモノしかないなと考えた。小さな内部も掘り込んで仕事場、ミュージアムにしようと。ストゥーパは建設中のもの、解体中のものを多く観察していたから、比較的容易に建設出来よう。工事費も大方の概算をなした。(日本工業大学の頭が下がるパタン市での修復作業報告書を参考にした。ストゥーパの土饅頭は別として)
 それでこんなスタイルのモノを描いたのである。まだ作りたいが、別の場所になるであろう。

⑥つくりたいもの2
2013年 1月1日 タテ310mmヨコ440mm インク、水彩絵具、色鉛筆

 ⑤より十年経過した二千十三年一月のドローイングである。一月の元旦のスケッチだけれど、何変わりない筈の生活の日常とは別系の大災害の年であった二千十一年の三月十一日が間に突き入っていたのは忘れてはならぬ。②世田谷村の展開案ドローイングは二千十一年であるが、三・一一の大津波以前の、すでに一九九五年の阪神淡路大震災、オーム真理教事件の体験により、揺れ動き始めた自身の、時代の受容感覚とでも言うべきは、二千〇一年九・一一のNY、 WTCビルテロリズムまで経ているので、大変な激震に出会っていたのである。
 戦争とは言えぬが、それに酷似した叙事詩的事件の前と後とでは、何者かが壊滅近くになり、何者かが生まれようとする準備にかかっている筈だ。毎日記している日記には、不思議にもその変化は表現されにくい。恐らくは、毎日の、ほとんど肉体的に義務化され習慣になって仕舞った、時間への対応力が鈍化し、磨耗したものしか文字化されぬからである。
 中央に横に長く、七本の円筒状の塔が並んでいる。この形状は歴然と、ベトナム、ダナンの装飾美術館で視た七つの円筒タワーが連続した、アレは模型ではない土で作った小祭壇であるのかの強烈な印象が、わたくしの建築の基盤になったものである。記憶が想像の骨格になっている。無からは何も産まれはしない。どんなに自由で新奇な形態であろうと、それは必ず何かの模倣である。と言うのがわたくしの辿り着いた大まか過ぎる結論なのだが、このドローイングはその考えが直截に表現されているのである。
 ダナンで視た七つの土の塔には七通りの星座らしきが描かれていた。だからアレは古代ベトナムの天文台であったのかも知れない。朝鮮半島慶州には瞻星台と名付けられた古代天文台が遺跡として残っている。高さが五メーター程。これも円筒状で、円筒の柱は三メーター半程であろうか。円筒の内には入れないが、空洞であり、内にはその底に多分、天空を写し出す鏡板状の石か、あるいは水板がしつらえていたのではあるまいか。
 古代においては地球上何処の場所に於いても人間の集団生活において、その集団 を律するは「時」であり、つまりは星空(天体の)の運行であった。
 
 中国王朝の視覚の力の表象として北京の天壇は造営されたろう。天壇の中心には内に外に皇帝が南面して在った。円形の屋根を持つ建築も、方形の石造の巨大な台盤も、いずれも皇帝(王)がその中心に居て、それが在ることで力を持ったのである。
 王がそこに在るは突きつめれば、王が立つ、あるいは座すに同義である。
 インダス文明の絶品のひとつがモヘンジョダロと呼ばれる都市である。モヘンジョダロの中心近くにあったのも円筒状の土盛り(日干しレンガ)である。アショカ王のはるか昔の産であるからストゥーパではない。
 円筒状、あるいは方形状は王その者の身体の転写なのではあるまいか。形態(形)の象徴性なぞは、その発生時にあるわけが無い。人間がではなく、王が生まれて、あるいは造り出されて、初めて力(チカラ)の概念が生まれたのである。そして、それは変わらぬ天空の動きの法則性に見立てられた。円筒状、方形状はつまり、王の身体、そこに在ることの写しであったのではないか。
 大和民族にとっての王、すなわち天皇は、それでは何によって物体(変わらぬモノ)として見立てられようとしたか。円筒状の小さなモノ、柱ではなかったか?
 伊勢神宮の棟持柱は大和民族に独特なものではない。アレは例えばネパールの山岳民族の倉庫=住宅には、その王とは関係なく、ありふれた建築様式である。問題は蔵にちがいない高床建築(木造である)の床下に隠れた心の御柱と呼ばれる物体である。あの物体は隠されつつ、実は顕示されたモノなのではないか。
 天武・持統の両帝は勿論当時の大和朝廷文化(歴史)が著しく中国大陸の文化文明の傘下に在るのはすでに知っていた。特に女帝持統は強い(日本人には稀な)意思の持主であったから、天皇の在様に関してはすこぶる意識的であった。それで当時、中国文化の移入の象徴でもあったろう伝来の仏教文化に抗するが如く人工的な造作物の集合としての伊勢神宮を様式として(つまりメディアとして)構えようとしたので在る。伊勢大社の造営時期も出来るだけ法隆寺のそれよりも古きに近くをねつ造しようと、ねつ造した。それが日本書紀の本来の目的であり、機能であった。(渡辺保忠『伊勢と出雲』平凡社))

⑤つりたいもの
2003年11月 タテ270mmヨコ380mm インク、色鉛筆

 場所も、協同者もはっきりとしないままの混沌の中で描いたスケッチである。人間のスケールが描きこまれているから、建築的スケールを想定したものである。  この念入りとは言いかねぬドローイングを通しても記録としておきたいと考えたのは、このドローイングには二千二十年現在、いまだに作ってみたいものの世界に在るからだ。今度の個展で発表と言おうか、展示したいものの中に小さな石彫がある。ネパール、カトマンドゥ盆地パタン市の石彫職人アルジュンの手を借りて共に作った石彫七点と、はっきりとした連関があるからだ。

 石彫作品はいづれも、何処の河原でも拾えるような石コロの大きさの単位とするに意識的なものである。作る具体物の最小単位を河原の石コロ状にしたい。地球上に河原は普遍である。地殻のマントルが隆起して岩山となる。それが水や氷によって侵食され、断片化した石ころとなる。ありとあらゆる石コロは何億年の歴史を持つのである。すべての物質は勿論地球史と深い関係を持つ。近代の工業製品としての物質でも同じである。地球上に無数に存在する川、及び川水が作り出すものである石コロはその典型である。
 地球上の河原の典型はヒマラヤ内院のカリガンダキ峡谷の河原である。ヒマラヤ造山運動により地表に隆起し、雨水にに打たれ傾斜を転がり続け丸みを帯びたものになった。何億年、何十億年の時間がなした(作った)ものである。人間たちがヒマラヤ内院に旅して、一部がそこに住み着くことになった。人間たちの多くはそんな石コロに無意識ではあるが、自分たちの生とは比較にならぬ遠大さが内包されているのに気付き続けた。やがて、その石コロを積み上げる造形そのものに深い関心をもった。石積みは各所に膨大に作られた。一部は集落の壁となり、一部は石積みの家となった。実利を持たぬ印としても作り続けた。石を積む職人がやがて生まれ、マニ石の模様やマニ文字を印して、それを積み上げたりした。
 石を積み上げるは、ヒマラヤ山域では普通の行為のはじまりでもあり、人間たちの子供を含む遊びに近い行いであったのだ。

 石彫り職人アルジュンは三代目の石彫りである。自分の小さな石切場も持っている。そのストックされた石の手頃なものを選び、彫った。1つの大きさの単位は20kg弱である。手軽ではないが持ち運びも容易である。アルジュンの石掘り工房に付き切りで、七点程を完成させた。最大三つの石コロを積み上げた大きさとし、二つ、一つのモノも作った。大変に面白かった。
 その作業のために、つまりは石彫り職人アルジュンにオペレイションする手だてとしてスケッチが必要であった。
 それが実にこの十七年程の昔のスケッチに酷似していたのである。積み重ねて埋もれていた紙の中から、このスケッチを掘り当てて、チョッピリ感動した。人間はそれ程に変わらぬ処もあるなと思った。
 こんな時には、つまり個展をやろうの時にはこれは力になるのである。この石の積み上げの立体は、どおやら思いつきではなさそうだの自覚になる。自覚は方法と言う、近代の芸術論の石杖に近いが、それだけに非ず。最低限の自身への信頼である。創作と言うは実に些細極微の集合である。
 
 自身の身体能力、知力、感応力の全てをつかさどるのも又、自分自身である。が、しかし外部世界の余りの巨大な複雑さに対して、余りの卑小さにおののく者でもある。自身の世界の極小を知るのが近代でもあったろう。そして微弱に変化して決して止まぬの、自覚でもある。
 この不安の極みに対するに、やはりどおしても変動して止まぬ部分に対する、それを測鉛する定点が必要である。定点は内にあるわけが無いの考えもあろうが、それは制作者のそれでは無い。作るとは自分の外部への放出である。その放出がかろうじて、自己内と外部を繋ぐ接点である。その接点を得ようが、創作の方法であると考えた。が、しかし、それは内的世界の偏向姿勢にしかあるまい。外部世界は自覚し得る狭小さを持たぬ。
 そんな事に気付くと、それだからこそ、自身のうちの不変、定点はとても大事なのである。

④ベトナム ダナン五行山計画
2012年 タテ420mm ヨコ590mm インク、色鉛筆、墨、ボールペン

 南北に細長いベトナムの、中程に位置するダナンに計画した。ダナンはベトナム戦争を知る世代には良く知られている。アメリカ合衆国が生誕して、まだ若いが、初めて戦争に負けた処だ。ダナン空港にはアメリカ軍がベトコンの侵攻にあい敗走した遺跡としての軍事基地がまだ残っていた。
 五行山は水金地火木の五大(仙人思想)がそのまま地形として見事に表現された場所である。五つの巨大な岩山が海岸から屹立している。そこに程々に大きな寺院がある。その住職からの依頼であった。宗教関係者は仏教、キリスト教、イスラム教を問わず、経済、つまり金のことは良く知るが、実は二の次であり、どうにかなると考える者達である。それでなくては宗教家とは言えまい。五行山寺院の住職は巨大なコンクリート製の寺院を建立中であり、その延長戦で博物館やら、美術館、宿泊施設等を計画しようとしていた。仲介する人が居て、会い、それなら絵を描きましょうとなった。絵というのは計画案のことである。ここはまことに異形の地形であり、古来様々な伝統があった。我々の良く知るところでは浦島太郎の「龍宮城説話」がある。龍宮城は海洋を含めてこの辺りにあったそうだ。
 又、リアルな歴史としてはここに在る河には日本からの遣唐使船の船着場があったようである。空海もその一人であったが、遣唐使船に乗った人々の多くは唐より南の今のベトナム領に迄風で流され辿り着くことがあった。五つの岩山は太古、海に浮いた、それぞれが島であった。海底が隆起して今の風景になったのである。
 住職には招待されて、友人の馬場昭道と共に出掛けた。十万人程の参加者がある仏教の法会があった。全体としてはアジア各地から百万人の参加者であった。そこで昭道は日本を代表して経を詠じた。「皆の合唱する経は何経だったか?」と尋ねたら、「観音経だった」との事であった。ちなみに馬場昭道は日本最大の浄土真宗であるが、アジア全域では少数派だ。百万人の人を集める場所の核を作りたいとの事だった。
 観音菩薩は恐らくアジア最大級の信者を持つ(馬祖を含む)ヨーロッパに於けるマリア信仰と通じようが、まだ考えようが無い。  
 ベトナムは共産主義国家である。現在の(計画当初時の)計画地には少なからずの住民が暮している。「あの人々の茅つまり多くの民家はどお考えれば良いのか?」と尋ねたら、共産党幹部から、「アッという間に立ち退かせるから、問題ない。」との答えであった。広域にまたがる計画の実現性は共産主義国家にしかあり得ぬのを知った。ユートピア的志向を持たざるを得ぬ都市計画も又、然りである。
 そんな事よりも、何よりも共産主義国家に於ける宗教の、特に金の流れ位ミステリアスなものは無いのは痛切に知るが、現、中国大陸を含め、ユートピア思想と実現し得る地域思想、都市思考の未来も、そこにしか無いのである。
 共産主義下での観音経の都市、及び建築は実に可能性を持つが、別の機会に述べたい。
 音を主題とした計画である。
 このドローイングにある鐘楼は、五行山全域の音の世界を秩序づける。
 鐘楼のみならず鐘もデザインしたいと考えある程度までつめた。二メーター程の丈を持つ鐘は日本では高値すぎるのでベトナムで経験のある鐘づくりより見積りを得た。
 鐘に刻む言葉をどおしようとなり、昭道の知り合いであった俳人金子兜太氏の句と文字を得た。
 この鐘楼さえ出来れば、後は時間に任せておけば自然に成るであろうと考えたのであった。その時点で計画は休止した。ベトナム政府の意図であったのか、五行山寺院の経済力に問題があったのかは不明である。
 鐘楼の下部にある円墳状の土盛りは、掩体壕の建築手法によるもので、これは小さく、北海道音更町で実現した。
 ダナンは亜熱帯地域である。太古海底であった盆地状の土地の民家にはブーゲンビリアの花咲き乱れ、残る小祠には竜宮を想はせる装飾文様が多い。  観音はとても現代的な神である。音と呼ぶ無形の者を観るのであるから。その意味で愛着(執着ではない。)のある計画であり、実現してみたいが、地球上の何処でもイイヤと、投げやりではなく考えている。
 かたわらの樹は菩薩樹の巨木である。ガジュマルでも良いのだが、建設開始時に植樹すれば百年もたたぬうちにドローイング状には育つであろう。
2019年 12月30日

③大阪、吉本興業劇場計画案
2015年 タテ530mmヨコ380mm 墨汁、水彩絵具、インク、色鉛筆

 知り合いの演出家高平哲郎から声を掛けられ、作った案のエスキススケッチである。
 高平哲郎は小野二郎(ウィリアム・モリス主義者)の義理の弟である。
 「笑う」を主題にした何やらを作ろうと考えて久しい。本も一冊「笑う住宅」てのを書いたが、あんまり笑えるモノではなかった。
 これは根深いクセなのだが、哄笑、うすら笑い、嘲笑する、冷笑の類いではなく、心の底から笑ってみせようを一度はやってみたいと、今も考えてはいる。
 和気合い合いと笑うの水準でもなく、虚無にたどり着くでもない、非ず非ずの笑いである。ニーチェの悲劇の誕生を読んでみると、演劇が女性中心とした合唱らしきを始まりとして、その合唱をする場所を劇場化しながら生まれたとされる。
その劇場は自然の中に、山の尾根と尾根の狭間の凹み(谷状)に自然の傾斜を使ったステージとして生まれたとされる。
 ギリシャの古代円形劇場のはじまりであった。劇場と演劇がほぼ同時に生まれたのであろう。
 ニーチェはその初期の思考を音楽世界に求めようとしていた。ワーグナーに心服したりであったが、後に別れた。
 有名なバイロイトの音楽劇場は観客等を想定しない。楽器の拡張としての機能だけが考えられた者であった。
 であるからロビー等は想定もされておらず、ロビーは貴婦人達の社交の場、ファッションショーらしき、そして宝飾の見せ合い、競べの場所でしか無いと考えられたのである。器楽器の発達もあり、音楽の「音」としての演劇性の追及は純粋芸術であるが故に進化の速度も遅かった。
 ワーグナーの音楽は楽劇と呼ばれ、呼んだ如くに極めて演劇性(色)の強いものであった。
 古代ギリシャの円型劇場で合唱された歌はディオニソス賛歌、又は酒の神バッカスにまつわるものであったろう。
 アジア最古の神の一人はヒンドゥー教の演芸の神と呼ばれるクリシュナ神である。器楽笛をなし、舞踏もなす。古代ギリシャの如くの自然の地形を利用した階段式劇場は持たぬが、やはり場所によっては円型の仮設劇場を持つ。芸能の始まりと宗教的儀式の形式とは酷似したのであろう。
 日本列島の芸能の始まりも又、その形式化の始まりは収穫儀礼(祭式)とは別の楽しみ、集りてなす共有の芸能としての狂言あるいは仮面劇の如くであったろう。狂言は祝楽と呼ばれるように動物の仕草に、人間を視る類の、つまりはその仕草を笑うが(共に)始まりであったろう。笑いも又、ギリシャ古代の芸能と同様にディオニソス(バッカス)同様の神の仕草であったのだ。
 類人猿の類からの進化(突然変異のはて?)あるいは、哄笑の如くの飛躍(ジャンプ)から人類種が生まれた記憶へとつながる、それは類似の者を笑うに問題なのであろう。
 高平哲郎はマスメディアを含む、現代の笑い、文化の一端を荷う人物である。“笑い”を言葉として追及する大矛盾を避けて、笑うことを舞台で体現させようの困難に取り組み続けている。現代日本のお笑い文化を、恥ぢつつ、なすのスタイル(ex. タモリの笑っていいとも、他、宝塚の異形の女性演者だけのオペラを含み、シャンソン等の伝来者真似文化も含み、その胃袋のキャパシティは大きい。
 その恥じながらの知性が吉本興業と何ができるのか興味津々ではある。吉本興業の今現在のお笑いが、江戸風の落語迄、小ぢんまりとでも結晶化するのかは大問題でもあり、ただのTV文化の消費力自体の波に溺れ死ぬ可能性も大であるが、笑い、そのものの考究、さらに演じさせて見せるに一筋の光があるしか無いのも確かな事である。
 建築的表現に“笑い”を摺り込ませは不可能に近いことだ。
 でも笑うしかない程に極めつけの面白さもあろう。
 その事だけを思いついて絵にしたドローイングである。
2019年12月30日

②世田谷での”世田谷村の展開案
2001年 タテ310mmヨコ440mm インク、水彩絵具、色鉛筆

 繰り返し書くが、自宅である「世田谷村」の考えを、広く世田谷でやったらどうかのアイデアである。世田谷村以降住宅作りの仕事はやっていないが、かろうじて、やっては見るかの意欲はあったのだろう。
 スタイルと呼ぶにはおこがましいが、このドローイングは小さい画用紙に細密に描いている。どお考えてみても現在の日本国に於いての小住宅設計にはそれ程の価値は無い。時間とエネルギーを費やして取り組むべき対象では無いと考えて久しい。言うは易く、なすは困難である。何もしないの覚悟を貫くのは、これも又辛どいのだ。
 小住宅設計で設計料の日銭をかせぐ。あるいはかせがねばならぬ人達が居るのも、解らぬではない。が、しかし、より近代的な合理性を求めるならば、小住宅の設計くらい割の合わぬ仕事は無いのである。日銭かせぎには実に効率が悪い。この辺りのことも、すでに「笑う住宅「」住宅道楽」に書きのべてきたので繰り返さない。
 その続編らしきは、住宅設計家になるよりも住宅建設の、謂わば工務店経営に取り組んだ方が良い、であった。
 今は昔、東大生産研教授であった村松貞次郎が設計施工を推す旨の評論をほぼキケンと書き、述べていた、新建築と言う商業雑誌の編集長であった馬場璋造の、それは持論でもあった。当時の建築ジャーナリズムは隆盛時でもあり、力があった。
 「建築家」と言う、日本に独特な職能の呼称も、ジャーナリズムあってのものではあった位にである。この辺りの事は最重要な事なのであるが、別に述べたい。要は工務店、ゼネコンと呼び呼ばれる建設業にとっても、専業設計者たちにとっても、生きるに宣伝は非常に大事な事であった。建築ジャーナリズムの経営自体は、その規模が家内零細企業(手工業)の域を抜けて、より近代化された組織になるに従い、その経営はサブコンを呼ばれた工業化製品としての建築部品の販売のための広告収入に頼らざるを得なかったのである。産業構造の近代化と呼ぶよりも必然的な事業規模の拡大による。
 ドローイングに話を戻す。このドローイングには世田谷村以降に成すべき設計の道筋らしきが示されている。わたくしが言行一致と言うか、考えていたデザイン、設計の自立よりは、むしろ設計、施工のあり方の方が、日本に於いては合理的であったのではないかの、考えによる設計・施工方式であれば、こおなるだろうの図なのである。

 塔状に細い、屋上階を含めば四階建、地下一階の塔状物体が、八軒並んでいる。それぞれの塔状に隣家の空間が突き込まれている。だから、これは集合住宅と呼ぶべきか?
 しかし、日本の公団型が強く原型になってしまったアパート(nLDK)は、これは西山夘三的マルクス表現唯物論の産物であり、とても生活の自立自由の風が吹いているとは想えない。要するに独自な(日本的と呼んでも良いであろう)工夫=デザインが見られない。
 このドローイングで示そうとしたのは、あくまでも日本人の土地の私有欲をも含めた戸建住宅と立体アパート様式の複合体なのである。
 つまり、それぞれの住み手(核家族的中心を持つが)が、それぞれに固有の土地=庭を持とうとする欲望はそのままに、その空中での独立性を獲得しつつ、空間は一部共有化したら良いの考えに基づいている。
 当時、東北の結城登美雄と共に東北の農村計画に手をそめていたから、その計画の骨子も組み込まれている。その骨子は十一軒の何がしかの共同化が得られれば、より広義な意味での独白は、ただただ消費生活に非ざる。実質的にも利便性を伴う生活の在り方が望めるのではないかである。
 結城登美雄とは一家族の家は一千五百万円を上限とすべしの考えを持つにいたった。(勿論、これは東北の放棄農地状を前提にしていた)東京、世田谷区での土地価格を考えればこれはあり得ない。
 小住宅は価格が全てであり、他ではない、は持論であり続けている。
 結城登美雄によれば、東北で一軒の農家が充足した自活生活するのには、三十軒の顧客家族を持てば、それで充分だと言う。
 その考え方を逆転してみる。かくなる風に。9軒の家が欲しい人が共同で計画すれば、かくの如くの独立集合住宅が得られるだろうと。
 それで、このドローイングの将来である。わたくしの次の世代(ガキ共)は、この地下室だけ残し、地上は柱四本の鉄柱と、船の形をした空中の梁状だけを残して、他はとり敢えず撤去して更地同様にしてしまうのが良いであろう。
 そして、地下でワサビ他を栽培する。他でも良ろしい。何しろ野菜工場らしきを地下として残すべしである。
 その農業施設の内に人間も住めば良いのだ。取れた貴重な野草の類は、ビッシリ埋まり始めて、もお飽和状になってる近所の超高齢者の皆さんに買ってもらえば良ろしい。
 そおして、ここを農家として認めさせる。ガランとした土地は保存緑地として、税金は免除していただくのである。
 上の吹きさらしの鉄の造形物は免税対象の努力の結晶として、記念に残せば良かろう。
2019年12月31日


①世田谷村地下室増築案
2004年 タテ380mmヨコ270mm インク 色鉛筆 薄墨

 現世田谷村の地下をどのようにまとめるかのスケッチである。大方はすでに実現して、今、在る。
 実現するは、わたくしにとって、とりわけのものではない。実現してしまったモノは実現を望んで描いたスケッチには届かぬのが多い。自分の家を考えるは自身の経済力そして家に対する期待によるだろう。わたくしは自分の家の形や色とかに全くと言う程に関心が無かった。
 世田谷村の設計は「アナタ当然やるんでしょう。」と言われなければ、やったかどうか。築五十年を過ぎた、平家の瓦屋根の家がすでに在ったから。何故、あの平家の伝統家屋を取り壊してしまったのかと、今は考えぬでもないのである。
 その家には茶の間があり、茶の間には掘りごたつがあった。掘りごたつが、今年は妙に寒いなの会話があった。ガキが床下にもぐり込んで調べたら、掘りゴタツとおぼしき処に皆の足がニョロリと並んでいたの驚きとなった。青森ヒバの良材と大工は言ったらしいが、普通の、それでもヒバは多用されていた家を取り壊した要因であった。コタツだけ直せば良かったのかも知れぬと、今は考えている。
 それで、平屋の屋根の頂部だけを少しけずり取って、他は残すの、おかぐら形式で世田谷村の初期は出来上がった。
 地下室を屋上を作らずして、何の住宅づくりの意味もあるまいと考えたので、母屋の廻りをグルリと取り囲む形で地下室を作った。三十数坪の広さの地下で、充分地下室だけで住宅になったのになと、今は残念きわまるのである。
 地下室だけでは法規的に人が住める住宅にはならぬが、それはそれで、いくらでも法律を外すくらいのことは出来るのである。
 全く、さてもって、百三十坪程の庭と、玄関だけが地上にあって、あとは全て姿をうずめた方がよろしかったなあと、考え込む。
 チョット昔、地下に水がたまったことがある。それで水中ポンプで水を外に汲み出した。通行人に「お宅様は地下室で、ワサビ、ウドの栽培してるんぢゃないか。それで時々、地下水を汲み上げてるにちがいない」と言はれた。ほお、それは良いアイデアであるなと、今は知る。
 後期高齢者の今、まだ執念深く考え続けるは今更より良くしようとの妄念ではない。むしろ、後始末についてだ。極端にわたくし向きに作った家だから、どお考えても他人が健全に暮らせるわけもない。であるから、住み込める場所はきれいさっぱり無くしてしまうのが一番である。人工の土地状を目指していたから床だけは残しても良いかとも考えるが、そおすると面積と呼ぶしきたりが浮いてくる。床面積はどれ程かは今の世の商取引の俗な仲介道具である。だから、床面積は0にしてしまうのが良い。屋根は土盛りをした庭になっているので、これは予定通り野菜畑として残す。つまり建築の一構成要素ではなく、農地とする。
 川合健二はドラムカン住宅をつくり、砂利の山に乗せた。それで役人たちと、これは建築であるかどうかと問題になった。何故なら、建築は基礎によって大地と結びついていなければならぬからだ。かなり下位の法律でそお定められている。巨大なドラムカンに棲みついてはならん、の法律は無い。棲むは人間が表現の一部だと言い張れば、これはズーッと上位の国法により、表現の自由の域の問題となる。わたくしはすでに建築と認められてしまったモノを作ってしまっている。残念だ言う他はないと今にして考えるが、わたくしは師程の肝玉が無かったので、これは仕方ないのである。
 建築は建ててしまった。法律も守った。その上でこの建築を0にする方法は無いのかと仕切りに考える。結論は床面積を0にしてしまう、である。頑丈な骨組だけ残して、あとは風が吹き抜けるにしてしまう。つまり、建築ではあるけど床面積は無である状態にすれば良い。
 これは建築ではなくって巨大な彫刻である。つまりアートだと言い張るも良いが、わたくしの性分では無い。青臭い表現の自由、不自由の域に堕す。あくまでも非不動産に徹したい。

「現代の住宅=金魚鉢論」③


 どおやらタイトル少し変えねばならぬが、まだ今のままで良い。現代の住宅の在り方の個々を批判しようとするものではない。今は昔、「現代住宅の保守的側面」のタイトルで始まりはすでに書いている。生産され、消費者の許に届けられる住宅の特に流通の在方を批判した。それを書き直す必要は無い。日本の商品としての住宅の管理価格的側面を指摘したものである。
 日本の住宅について論じようとすれば、留意すべきブルーノ・タウトの論をはじめ、少なからずがある。その全てを踏まえる用意はわたくしには無い。それは建築史家、批評家の仕事に属しよう。論を論ずるの枠組である。

 わたくしの立場は卑小ながら実行者のそれである。

 「世田谷村」を自邸として実現してから、わたくしには以降小住宅作品が無い。世田谷村の実現に全てとはとても言えぬが、大方の考えは実践した。わたくしの力ではそれ以上のモノは出来ぬと、考えてのことであり、それは今も変わりはない。まだ論としてまとまりを見せてはいないが「解放系技術論」の初期概論として、わたくしは世田谷村をなした。
 だからタイトルは「解放系技術論」としても良いかと考えてもいるのだが、いささかの年を経て、肩の力を抜かなくちゃ行くところ迄たどり着けぬと、神妙になってもいるのである。迷いつつ進めたい。

 河西善蔵をはじめとする日本の私小説作家の仕事について、あの仄暗い住宅地の、しかも路地裏にも屋台のリヤカーに引かれた、めくるめく金魚鉢群は登場していた筈である。何故に、河西を代表先端とする日本の(・・・)私小説家に触れるか。それはその視線あるいは視界に一切の外部が入らぬからだ。ここで言う一切の外部は厳然として有り続ける物質風景である。物質風景を説明するに、今はその真反対の例を引き出さざるを得ない。物質風景と呼ぼうとするだけで、それが深くアニムズムと連続せざるを得ぬを述べねばならぬからだ。
 日本の私小説世界、河西善蔵、中原中也等の古めかしくもあるコア、現代では古井由吉。それと対極世界である堀田善衛、小田実等の未完世界への拡張作家世界。この二つの世界には何の脈絡も視えぬ。岡本太郎の対極主義が小歴史として具体化している。こう断じるのは文学作品と呼び得るものには歴然とした境界があった。それぞれがここは自分の領地でありたいのフェンス状が立っていた。それを建てるためにこそ    とした表現がなされたのである。
しかしながら、日本経済のバブル崩壊後の二千一年のWTC破壊テロ、日本では一九九五年の阪神淡路大震災から二千十一年三月十一日の東北大震災・大津波をボーダーとして、ありとあらゆるフィクションが成立困難になった。ノンフィクション(創作)がフィクションを完全に乗り越えてしまったのだ。つまり日本文学世界が営々として築いてきた個々の作家達のフェンスは視えなくなった。現実の歴史の内に埋没した。そんな風に解した方が、今は、良かろう。  内への探求力も、外への拡張力も、掘り尽され拡張し尽されたと視る事もできよう。

大まかに考えれば文学世界の拡張力はスペースオペラ、演劇等の大衆巨大表現分野に吸収されつつあり、その領域は資本主義による商品化世界とも言えよう。大衆表現分野と書いたが、少し計りつけ加えたい。
 内への探求力の日本における典型は宮沢賢治の仕事である。彼は生前貧しい一冊の自家本をしか世に残さなかった。建築世界では米国のフランク・ロイド・ライトが宮城前に帝国ホテルを設計中であり、度々、岩手県から上京していた賢治は東京のワンポイント東京駅前周辺でライトとすれ違っていたやも知れぬ。
 つば広のカウボーイハットのフランク・ロイド・ライトとモダンボーイでもあった農民芸術論の賢治の山高帽は、まだそれ程の人口密度の集中を見せていなかった東京駅前広場ですれ違っていた可能性がある。アメリカ中西部シカゴ辺りの、一番アメリカ大陸的気質の持主であったライトと岩手花巻の賢治の資質は共に、ある意味ではそれぞれにピュアーであり結晶体とも呼べようものでもあった。カウボーイハットと山高帽の出会いであったから、コミュニケーションと呼ばれるものなぞ発生するわけがない。ただ時間と場所の交差がそれを暗示するだけなのである。

 アメリカがアメリカであった時代、つまり草創期の草原文化時代の力を充分に持っていた時代の才質としてフランク・ロイド・ライトは屹立した存在である。現代ではそのアメリカンデザインの具体は、唯一フランク・O・ゲーリーの資質とキャリアによって継承されている。
 童話の創作を含めた賢治世界は、と言えば、これは例えるのに困難ではあるが敢えて考えれば日本に於ける独自な文化創生でもあるアニメーションの世界にかろうじて引き継がれているとも考えられる。
宮崎駿の千と千尋の神隠し等の世界である。アニメーションは画が動く事であり、聖霊=アニマの意をうまくとらえた造語であると思われるが、蛇足である。
 橫径にそれかかる話しを元に戻そう。
 でも、この蛇足はこの論の行末にとっては暗示的なものやも知れぬ。まだわからない。

 堀田善衛の仕事は、そのゴヤ論を含めた批評的言辞の多様さ、世界性にも独自な特色があろう。
 石川淳の狂風記は一つの作品としての結晶は巨大であり、視覚芸術としてのアンドレ・ブルトン等によるシュールレアリズム運動の日本的結晶の一つである。
 フランク・ロイド・ライトのカウボーイハットと宮沢賢治の山高帽の出会いは、ミシンとこおもり傘の手術台上での出会いにも近いものであるが、蛇足と蛇足の出会とは言えぬ。論の合間ではあるが付け加えておく。

 「日本の(・・・)現代住宅」と、日本の(・・・)、と限定したタイトルを附しているので、その事について書きたい。
日本の(・・・)と附された論の代表として、藤井厚二の「日本の住宅」とブルーノ・タウトの同名の論を敬意と共に記しておきたい。
 藤井厚二は京都大学建築学科出身で、後に竹中工務店設計部のキャリアを持つ。「日本の住宅」は日本の住宅原論的意味合いを持つ。日本の気候風土と、特に住宅の在り方の初歩を築いた。その論は藤井のよく知られてはおらぬが、関西地区での、謂わば建売住宅、複数の実際の設計、および施工管理の実践により、作品としての価値よりも行動のスタイル(無意識ではあったろうが)、そして作品としての教徒大山崎の聴竹居によって具体化されている。
ブルーノ・タウトは良く知られるように、ナチス下のドイツより 米国への亡命の途次に日本に寄り、敦賀より関西へ、日本人建築家の手引きにより桂離宮等を見学、海路横浜に廻り、車で群馬県高崎の井上家の小さな住宅に身を寄せた。ドイツではハウジング、集合住宅を現実に多く計画・立案に関わっていた。それ故にその建設経済に関しては経験にもとづいた識見を正しく備えていたろう。
それ故に横浜から高崎に移動する小さな車による旅の道すがら、現実の日本の住宅群、それはまさに大量に作られ始めていた、大工棟梁による日本の大衆住宅群の有り様であったが、その今で言うところの経済的構造を良く視据えたのであった。当時の日本人の平均的年収と個々に建設されている住宅の総建設費に対する考察・記述などは、ブルーノ・タウトでしか出来よう筈のものではなかったのである。

 短く各人が持たざるを得ぬ専門領域の壁を泳ぎわたってみたわけだが、綱わたりはともかくとして、日本の(・・・)と言うくくりについて考えてみたい。

 幸いな事に先日、東京皇居内の大嘗宮を多くの人々と共に視ることができた。ことさらに日本の(・・・)を考えようとするのに、短絡して走れば天皇制について触れるしかない。わたくしの国籍は日本であるし、出入国に際してはパスポートチェックが義務づけられている。パスポートは日本国外務大臣発行と記されている。菊の紋章が大きく印刷されていて、これは天皇家の流布されている紋章である。日ノ丸の国旗ではない。他国のパスポートを入念に調べた事は無いので、あやふやだがパスポートは所有する人間の所属する国家一国のものばかりではない。華僑系中国人はアメリカと台湾の二国のパスポートを所有して、うらやましい限りである。彼等はその出入国の目的に応じて使い分ける。国籍はそれ位のものだと、わたくしも考えるが、日本に居ると日本人であるのからはそれ程自由ではないのが現実だ。
 それで皇居に入るのにわたくしは万が一のアイデンティティーチェックありや無しやと、用心深く考えて、持参した。けれど大嘗宮参観には少なからずの外国人の姿もあり、ボディーチェックも無く平穏なものであった。
 参観は勿論、日本国天皇が憲法で定めるところの日本国の象徴として、日本人の一番古い歴史を持つであろう家系の長として、国内外にその象徴としての位置を明示するための大嘗祭と呼ぶ儀式の場が、機能を終えて内外一般の人々に公開されたのであった。
 つまり憲法で定められた日本国の象徴の、誕生の場の生々しい遺構である。
 わたくしは何故か国歌君が代を聴いても、国旗日ノ丸を眺めても象徴らしきを感じる、ましてや理解し得るものでは無かった。記号または暗号に類するものでしかなかったのである。わたくしには。

 資質はともかく、それ程に短くは無い時間を「建築」と呼ばれる分野、つまり職業としての専門領域で過してきた。工学としては狭小な分野であり、設計・デザインを職の中心として、それで食べてもきた。自身では芸術らしきの外縁に身を置いてきたの実感に辿り着きつつある。
 堅苦しく言えば「建築」分野は芸術と工学の併存する領域であるとされる。建築(建設でもある)を職業として体現する類の人間を建築家と呼ぶ。ヨーロッパ・ルネサンス期に神の周辺を表現し続けた絵画、彫刻、音楽から越境して人間の現実界の道具としての建築を大聖堂を含めて実現してきた職業人である。宗教画、小立体としての彫刻、工芸の枠内ではあったが超越(宗教)的な存在としての神を人間の現実に、言はば足を地につけたのである。大聖堂、およびそれに属する建築物を建てる者を建築家と呼んだのである。
 歴然としてヨーロッパ世界の、更に言うならばキリスト教世界の産物であった。
 わたくしはその歴史の意識外で異邦人として暮し、なおかつ食べてきた。すでにこれも小史を持って久しい。マア、妙な職業人ではある。であるから、その歴史の外で自分を一度眺め返したいと考えるのは、むしろ自然なことではあろう。根無し草とセンチメンタルに詠嘆するのではない。ヨーロッパ・ルネサンスの外に生れ育ち、身近な祖先をも持つ人間としても、そお考えざるを得ない。
 列島の住人であり、その地理、歴史からも様々に考えざるを得ぬ人間であるから。

 見学した大嘗宮建築は、これは歴然とした建築ではあった。建築を意図された様式(スタイル)で構築された場所でもある、とするならばである。
 大嘗宮建築は極めて非ヨーロッパ的様式ではあったけれど、ヨーロッパ中世の教会建築様式、すなわち古様のロマネスク建築様式よりもよほど構築的な様式であった。ヨーロッパの歴史的建造物があく迄も立体を旨としたタテ方向を含む様式的思考の産物であるに比して、それは実に極まって平面的であったに過ぎぬとしてでもある。
日本の伝統に属する建築物の、ほとんど外縁近くに”数寄屋”建築がある。堀口捨巳が賢明にも田園建築様式らしく呼ぼうとした。それでも厳然とした様式である。堀口捨巳は直覚的にも良くヨーロッパ建築史を把握していた。であるからヨーロッパ発の近代建築様式を都市的なモノとして理解していた。都市の理念的立体として、あるいはそれとの関係が余りにも濃密なもの(・・)として近代建築を考えようとしていた。その外に存在せざるを得ぬ自身の位置を良く知っていたからだ。都市的に非ざる、田園的な産物として、我国の造形立体物を考え、位置付けようとした。
 その堀口捨巳の終生の著作の中心は茶庭であり、数寄屋と呼び、呼ばれる東洋的にして非ず、極めて日本的である。しかも構築物の研究であり、それに触発された「紫烟荘」等の代表作建築でもある。
 大嘗宮建築を視て、内には入る事は出来なかったけれど、大嘗宮はもともと入るべき内の無い建築であるので理解はできた。それは内も外もの類いの、そもそも内部空間の類が一切無い、それでも極めて構築的、より精確に言えば構成的世界の産物であった。
 堀口捨巳が非都市性と呼ぼうとした明晰な概念に近い、しかも実体であった。
 内部はあるにせよ、それは秘匿を象徴するべく観念の装置としての機構であり、実在する空間とは別の世界である。
 大嘗宮が考案されたのは古代(奈良時代)であったが、今のような建築様式として結実、結晶したのは平安時代であった。実物の如くのある種の装置(存在そのものが模型なのである)として出現したのは平安期とされる。ほぼ同時期のヨーロッパ建築の流れに当て嵌めてみればロマネスク建築様式の時代? 無理矢理ヨーロッパ時間に当て嵌めてみるまでもなく、ヨーロッパ的実在の石による重量世界と比較して考えてみれば、非物質世界、あるいは非重量世界と呼ぶにふさわしい、非重量、つまりは記号世界なのである。
より端的に呼べば象徴そのものを秘匿する記号群の世界である。