I 世田谷村アイスランド紀行

石山修武 アイスランド紀行

世田谷村スタジオGAYA

2019年 3月

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世田谷村スタジオGAYA日記

2019年1/15(火)~1/26(土)ギャラリーせいほう にて

石山修武展 ー真昼の銀河鉄道ー を開催します。

会期中、毎日夕方にギャラリートークを行います。

 

1、会場を地図に見立てて

この会場での前回、六角鬼丈さんとの2人展から2回目の本展の流れを話します。

・アフリカの大地溝帯からの人間の旅を銅版画に刻んだ

・2人展、四人展をやった

・一人展をやりたいと思った。

・年をとると一人になりたいものです

・ジュニー・シェルチャンのこと

・ネパールの二つのプロジェクトについて

・今回も「時」の流れ(断続的フラッシュ)が主題

2、類人猿について

2001年スペース・オデッセイ アーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリック

栄久庵憲司の道具論

3、アジアの旅

デニス・エル・コラール 技術と宗教について 補:イスラムのこと

4、ワイマールの旅 死者の国

5、中国の旅 佐藤健のこと

6、ギリシャの旅 マウント・アトスと

7、バリ島ウブドにて リサーチについて

8、シシリヤの旅 鈴木博之のこと 北極圏ラップランドからシチリアへ

9、アイスランドの旅 ウィリアム・モリスについて 小祠そして

10、日本の旅 日本の民家 二川幸夫

11、「ジャンピング・マチュプチュレ」について

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アニミズムギャラリー4

図版4 カトマンドゥ盆地パタンで曼荼羅のはじまりを視る

 

パタン市には6週間ほども滞在した。長く滞在していると、朝夕のヒマラヤの壮観は言うに及ばず、人々の暮らしの中に思わぬモノに出会い、そして発見する。

このスケッチはとある僧院の中庭で出くわして、驚いて描いた。

イスラムの僧院とも呼ぶべき神学校は森閑とした静寂の内にある。良質なものには、その中には人間たちの動きや影をさえ拒否するごとくの強さがある。強さとは、すなわち物体の構築が示し得る力学そのものである。建築空間としてそれは視えやすいものとなる。

韓国の河回村のスケッチ1に書いた「音」との続きでもある。

一律にアジアと呼ぶのは不可能である。ここでは普段住み暮らしている日本列島をも含む東アジアと呼ぶ。東アジアの建築物は中国を除いて、その重量が小さい。

ブルーノタウトは伊勢神宮に接して、東洋のパルテノン神殿だと持ち上げた。亡命生活の疲れがもたらす、センチメンタルな感情もあったのだろう。

が、この指摘は大きな誤りを含んでいる。パルテノン神殿はアクロポリスの丘の上に在る。アクロポリスの丘は全山、これ岩山である。巨大な岩の上に乗せられてパルテノン神殿は在る。あれは重量の塊である。アクロポリスの丘を含めればエジプトのピラミッドに同等であろう重量か。自分の手で持ち上げられぬ大きさに、人間は重量を感じることが少ない。

しかし、重量はモノの存在のひとつの根本である。

我々は地球の総重量を正しくは知らない。宇宙空間に球体は浮いている。浮いているから運動もする。全ての星々は運動している。恒星と呼ぶ星々であっても宇宙の総体(あるのか知らぬ)のうちでは驚くべき速度で動いているようだ。どおやら大宇宙は膨張を続けている。膨張の速力がどれほどであるのか、知りようがあるまい。人体同様に大宇宙を知らぬこともまた、無際限である。

(つづく)

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アニミズムギャラリー1

図版3 インド、アーメダバード フライデイモスク

 

イスラム建築の本格的なものは今じっくりと何日もかけて見て回ることは難しい。テロの危険が余りにも大きい。

40年ほども昔の初めてのアジア、ハイウェイの旅、それは一部シルクロードと交差しているが、今でも鮮明な記憶として目に焼き付いている。

目に残るばかりではなくイスラム建築、特にモスクは「耳」にこびりつく。

 

イスラム建築の最美なものはタージマハールであると少なからぬ人々が言う。視覚的にはそうである。が、タージマハールには「音」がない。

月夜にタージマハールを見ることが出来るようであったが、今は知らぬ。余りにも観光客が多すぎて、耳を澄ませるどころではあるまい。やはり名建築は独りで見る、そして音を聴くものなのだ。

 

まだ若かった磯崎新がイスラム建築について新聞に書いていたのを覚えている。

モスクのミナレットから流れるコーランの詠唱に鳥たちが反応している。と磯崎は書いた。若いころなのに確か大新聞の記事であった。あのひとは建築家として、出発時からすでに特権的エリートだったんだなと思ったりするが、それはここでは無関係である。

磯崎が聴いたモスクのコーランはアフガニスタンであったか、肉声のコーランではなく、スピーカーから空へと解き放たれたものだった。それでも鳥たちがそれに唱和するごとくに、さんざめいて合唱したと言うのである。 そお聴いた磯崎はアニミズムの人であった。

 

チベットの4000メートルを超える高地でも彼はパタパタと鋭く鳴るタルチョー(小旗)の音を、風に経文(梵字)を読ませているんだと言った。

こんな風に音が聴こえてしまうのは「詩人」としか言いようがないが、最良の「詩」はこれは「音(イン)」の内に在ろう。最良の「音楽」または「音楽家」の知覚に響く音でもある。

 

イランのイスファハーン、シャーのモスク(王のモスク)では、ミナレットからコーランは流れていなかったが、その内部は明るくかげりも無く、しかし、微細な音が溢れていた。自分が裸足で、ひっそりと歩く=動く、音が増幅されているのだった。

摺り足で歩く、音なき音をモスクのドームが拾って、底鳴りの如くに気持ちをふるわせる。

はるか遠くからの声の如くである。

目に見える形や色は、そんな声(音)を発しはしない。でも、それらは聴くことを助けるのだろう。特にイスラムのアラベスク模様はその数学的全体により体験する人間の五感・六感を洗い出す役割をする。すなわち、補足する働きをなす。

 

イスファハーンのフライデーモスクは巨大なバザールの迷路状をくぐった先にあった。ほとんど廃墟状で、背教からの音はない。あるのは深く懐かしむ、人間の気持ちだけである。フライデーモスクの廃墟からは真昼であったが、深い色の空に鋭い三日月がかかっていた。

鋭く、輪郭の余りにもハッキリした形ではあった。

サウジアラビアにはまだ行ったことがない。もう尋ねることも出来ないだろう。サウジアラビアはイランの大方とは異なる高原の微細ではあるが歴然とした高度差を持つようだ。

地中海の光がヨーロッパ世界の視覚芸術を創った。地上、海上の光は空気をかいくぐってくる。だから微細な地域差が歴然としてある。地中海、つまりギリシャの光とイスラム文化の光とは違うのだ。

 

更に、このスケッチのインド、アメーダバードのフライデーモスクの空気は異なる。光も異なる。

アメーダバードのモスクでは、初めてイスラム文字をゆっくりと観た。モスクの中庭には必ずと言って良いくらいに、井戸があり、水をたたえた池がある。寸法バランスの良い平面形を持つ。ここのモスクの中庭の池には東屋がかかり、その下に人々は休む。口をすすいだり、足を水につけたりもする。

そして、池の淵に作られた程よい段差によりかかる。

よりかかって、そうすると列柱のある廻廊が見渡せるのである。

廻廊の奥の壁には大きなイスラム文字が描かれている。わたくしには読めない。奥の壁、すなわち中庭の井戸からは30メートルほどの距離がある。廻廊は外の強い日差しとは別世界のほの暗さがつくり出されている。巨大なイスラム文字は、やはり目を凝らさぬと識別しにくい。それでどおしても細めたまぶたの内の眼球の絞りを最大限にしぼり込む。

日本の北海道、帯広(十勝)に「ヘレンケラー記念塔」をつくった時に北海道点字図書館長から盲目の人々の、実に興味深い話しを聞いた。

先天性の盲目者がそおであるのかは聞きそびれた。

「盲目と呼ばれる人の眼は、実は、何かを視てるんです。まぶたの裏に残像が焼き付いていて、それを鋭くかすかに視てるんですよ。」

まぶたは妙なものである。眼球を外光から遮ったり、また、開いたり。人間の身体で外気に触れるところでは最も激しく動き続けている。

その極微動の運動のうちに脳内光景を焼き付けているものらしい。

フライデーモスクの廻廊の薄暗い壁に描かれたイスラム文字は、スケッチをするわずかな時間のうちに、文字を凝視するわたくしの眼球のみならず、まぶたの裏に文字の形を焼き付けてしまった。

一瞬ではあったが天空に文字が浮かぶのを明らかに視た。

視覚的なイメージ、とあやふやに呼ばれるのは明らかにまぶたの裏に焼き付いた記憶らしきであろう。

人間は生まれた時の赤児の頃より、膨大な記憶をまぶたの裏に焼き付ける存在である。

それは文字の誕生とも結びついている。

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アニミズムギャラリー1

(つづき)

わたくしは壊れた遺跡に埋もれた仏頭のいくつかに手持ちの黄金の墨汁を塗りつけた。働く職人たちに黄金を附するのは、やり切れなかったのである。チャチな労働讃歌になりかねぬから。

 

ネパールはちょうど、この頃総選挙の只中であった。中国共産党毛派は少しばかり勢いを削がれ、ブッディスト・ソーシャリズム派がわずかに力を持つ結果となったようだ。(その内情は外からは簡単にはうかがい知れぬ。)

仏教的社会主義とは実に妙なネーミングである。大宇順を内在させる名でもある。北に中国、南にインドの地政学を赤裸々に反映した政治的イデオロギーの、まだとても内的発展(欧米の近代化とは異なる道)とは呼び得ぬが、中国とインドに北と南を挟まれた強くネガティブな現実が生み出しているネパールの光輝ある遅れの可能性をこそ視たいものだ。

光輝とあえてまたも性急に読んだけれど、その性急さは、あまりにも速く近代化=西欧化を成し遂げてしまった日本列島の住民としてのあまりにも単純な一直線振りに乗って育てられ成人してからは自生的に育ってきた自分の拠って立つ土台への疑問を捨てられぬ自分自身の危うさを自覚するからでもある。平板でもある先進国・消費の民の一人としての危うさを知るからである。

 

スワヤンブナートから望むカトマンドゥの姿は東京だけではなく日本の都市の変化のスピードが以上であることも考えさせられる。大ストゥーパがある丘と都市としてのカトマンドゥの間には、本当にまばたきする程の、それでも昔には、のんびりとした田園風景が広がっていた。牛や羊が生活と切り離されることなく共存していた。自然と呼ぶには人工的ではあるが、人間が主体として作った人工の自然があった。すでに人口増を停止したロンドンやパリの郊外の公園状の自然と似たようなものでもあった。

その都市とのクッションとも呼ぶべき人工の自然、生物たちが家畜としても野性としても共存していたエリアは、ビッシリと人間の住居で埋め尽くされている。つまりアジア最古のストゥーパであるスワヤンブナートは住宅の海で津波のごとくに覆い尽くされてしまった。

 

スワヤンブナートはもちろん世界遺産に古くより指定された、いわば「聖地」でもある。現代の特色の一つに全近代の信仰を集めた宗教施設の姿かたちが明晰に近代人の側から見れば時代錯誤、あるいは迷信としか考えれれぬ場所が観光地の聖地になるという逆説が歴然とあることがはっきりとしつつあることだろう。大型ジェット旅客機の技術的充実は地球上の距離の地形を塗り替えている。日本人にとって例えば東北地方の片田舎に出かけるよりも、台北や上海、香港ソウルに出かける方がかかる時間も費用も安価であるのは、多くの人が知ることになっている。

 

わたくしもまた、旅行者、観光客の一人としてよく旅に出る。自分でも奇妙なことだと感じるのは旅行に出ると、スケッチの量がその質はともかく格段に増加することである。

70歳も半ばにさしかかり、今のわたくしの日常は遊びと仕事が区別できぬ時間が急増している。

 

遊びと仕事が区別つかぬようにするに、最近はかなり意図的になっている。仕方なく、ひまつぶしの為の旅行は、時々あるが、ほとんどなきに等しい。

その生活のスタイルを変えようと始めている手段として、スケッチはとても大事である。

しかも四つ切りの大判画用紙と、その容器としての再版状の固紙のカバンを持ち歩く。それだけで自分の姿がほんの少し異形とも言うべきなのを知る。すれちがう人々がチラリと「ナニ、この人」と見るからだ。

同じような格好をして歩く人を見たこと、つまり出会ったことはない。スケッチやメモは多くの人がやるのだけれど、大判の紙に取り組む人間は稀有なのである。

大判の四つ切りの画用紙は一枚30円ほどで安価である。決して高値で特別な値段のものではない。だから現代に特有の品質が安定している。安かろう悪かろうではなくって値段なりに旅のスケッチには最適なものである。

この大きな紙入れを画板にして旅先でスケッチを始めると必ず人が好奇心で集まる。人をあんまりジロジロ見てはならないのエチケットらしきが教育されていない、あるいはそれが少ない国、場所では必ず集まる人々の視線の砲火を浴びることになる。

だからこのスケッチ群はすでに多くの路上の人々の眼にもさらされているのである。

 

そう考えてみると、リアルな場所がない。コンピュータ・ギャラリーも生暖かい血が通い始めるかも知れぬ。読者次第である。

真昼の銀河鉄道  二章と三章のあいだで。


 明るい化者が少しばかり顔をのぞかせ始める、このお化けと出会うのに、随分手間ヒマをかけたものである。
 この化け者は人為と自然の共生する状態である。決して一体となることはない。  
薄皮一枚ながら、それぞれが、それぞれの系統を持つ。
 
三章を終えると、又、遠くへ出掛ける準備に入る。文字を書きつなぐ時間と、そこから遠くへ行くの時間はどおにもまだ遠いのである。青臭く遠いとか書いてるが、遠いはモノを作るの世界である。
 
再びモノを作る世界に入り込むのに、どおしても手続きが必要になっている。それをせぬと、ただただ流されてゆくのが視える。  
それがイヤで、こおして書いている。

真昼の銀河鉄道  2章 屋上で



冬の始まりの季節。日本の冬とは違い、ここネパールのカトマンドゥ盆地の古都パタンの気候は、朝夕そして夜は寒い。昼は19度ほどで過ごしやすい。真昼の直射日光は肌を焦がす程でTシャツと夏のズボンが丁度良い。裸足にブルーの軽いスニーカーでインドからずっと過ごしているが、それはここでも同じである。スポンジぞうり姿は流石に道の凸凹が激しいパタン市街では歩くに足裏を痛めそうで、それはやめた。後期高齢者である自分にはこの姿くらいがマアマアのところだ。
首都カトマンドゥ市はここから北方向でバグマティ河を挟んで隣接している。歩いて行ける程の近さだ。大地震で古い中心部の被害が大きいカトマンドゥ市を避けて過ごそうと考えた。ここはパタン市の中心であり、古い心臓でもあるダーバースクエア(正式にはダルマチャクラ、マンガルバザール)に程近いマハブッダテンプルに対面するゲストハウスである。一泊800ルピーの驚くべき安宿であるが、太陽光パネルによるホットシャワー、水洗洋式トイレ付きで、アジア式のしゃがみこみトイレ、そして左手で大便の後始末の尻拭きをしなくてはならぬトイレと比べたら近代的とも言えるか。東京を発って20日程になり、洋式便器に座っても大便は左手の水洗方式に自然になっている。
少し霞んで遠望できるヒマラヤ山脈と共に暮らしていると、せちがらく小さな自分でもチョッとばかりはまともに大きく考えても不思議ではない大まかさになっている。

朝食は時にゲストハウスの6階の屋上で食べる。屋上からはヒマラヤも、カトマンドゥ盆地を囲む低山も、そしてパタン市街もほぼ眺めわたせる。市街地は6階建程の心細いのコンクリートの骨組みにレンガ壁を積み上げた体のものである。カンボジヤ・プノンペンの「ひろしまハウス」と大体同じようなスタイルだ。アジアの近代的様式と呼んでよかろう。
15メーター程離れた隣と、その又隣りの建物の屋上はここより狭くて15平米程であろう。先ほどまでそこには4名の男女が集まって楽しそうに話していた。姿はその細部にいたるまで見えるけれど、話し声は聞こえない。15Mくらいの距離が屋上同士を近くて遠いものにしている。空間って呼ぶよりも空気そのものが程良い関係を作り出している。ベッタリと近過ぎず、それでもお互いの表情は見てとれるくらいの。
先ほどまでの男女は屋上から去り、今は4名の男女の職人さんがゆっくり仕事を始めている。コトコトと音が響いて届くけれど、決して騒音ではない。何処かで吠えている犬の鳴き声と同じようなものだ。4周のお隣りは3階、4階に屋上テラスを持つものがあり、その関係凸凹がまことに良い空気の広がりと、固い言葉になってしまうけれど多様性を作り出している。こんな恥ずかしい固い漢字言葉とアト、一週間もすれば忘れてしまえるような気分も生まれている。有難い。

朝夕の風は吹く方向は違っているけれど強くも無く実に柔らかい。
風は青白赤白のしま模様のやら黄白赤のカタルニヤの旗に似たようなものやら数種が、少なくはなく、たなびいている。良くはわからないが仏教各宗派の旗印なのだろう。
沢山な屋上群にはそれぞれに花が咲き乱れている。ブーゲンビリヤの真紅や桃色、名も知れぬ鮮やかな黄色の菊の花のようなもの。花の名を覚えられぬ我身が残念なくらいに。東京世田谷の我が家にもあるボッテリとした名を忘れた観葉植物も多い。皆、鉢植えである。
極彩色の干し物も、それぞれの家の旗印のように美しい。我家の屋上も、もっと楽しまなくてはいけないが、周りの家々の眼がうるさいから、ここほどにはのびやかにはゆかぬ。
旗なんか立てたら東京では不気味な奴と思われるだろうし、立てるとしたら「黒」か、どくろ印の奴なんかは中々によいのではあるまいか。
南隣りの屋上に可愛らしい少女が姿を現して椅子に腰掛けて、足を木箱かに投げ出して、ノートをつけ始めている。「ヨッ」と手を挙げたら、上品に顔を背けられた。

ヒマラヤは眼をこらさぬとハッキリとした姿を見せない。でっかいくせに、シャイに非ず、少しばかり見せ惜しみの嫌いがあるが、夕方になれば、又、晴れ姿の神々しさで現れるだろう。
ヒマラヤとパタンの間にスモッグで有名になってしまったカトマンドゥがあり、中国・北京程には凄い濃度のものではないけれど、やはりカトマンドゥの人々は黒い分厚いマスクを身につけている。オートバイの以上な程の多さは、黒マスクのライダー群である。
10年程も昔には多かった人力車の姿も全く影も形も無い。峠のあちら側のインド、ラジギールでは連日二輪馬車で農村を訪ねて廻ったのが、すでに遠い昔のようである。たった10日程だけしか時間がたっていないのに。


カトマンドゥ盆地の主要都市、ネパールの首都でもあるカトマンドゥ、パトナ、バクタプール。いずれの都市にも多くの井戸がある。階段状に天に大きく口を開けた独特なものである。美しい。おおよそ4,500年ほど昔に大地を掘ってつくられた。土地の人のなかには1400,500年も昔に造られたと豪語する人も居るけれど、それは自慢の白髪三千丈である。
人間は新しいものは作りたがり、古いものは誇りたがる矛盾の生物である。
日本の歴史に照らし、比較するならば、鎌倉時代の頃に相応する。日本にはこのようなランドスケープに通じる如くの造形物は無かった。インド亜大陸にはハイデラバードの壮大な地下宮殿の如くの階段状の井戸(泉)が有名である。アーメダバードの、これも巨大な階段型井戸は実見した。酷熟の季節を持つ地方の産物である。
カトマンドゥ盆地の地下階段形式の井戸はインドの地下宮殿状のものと比べれば、小振りでつつましい。そして、いかにも人間的尺度の産物である。人間達の日常生活に密着した大地の造形物だ。同時に密集した複層の都市住居群のなかに於いては、実に有効な空白(オープンスペース)をも産み出している。都市部の密集した重苦しい空間に、日差し、風通し共に良く働いている。
ところが5年ほどの昔に肝心の水がパッタリと途絶えた。2017年の今は、多くの階段式井戸はほこりがうずたかく積もったままになったのである。それ以前はこの都市の人工的凹部に朝、夕、多くの女性達が集まり、水を汲んだり、洗濯をしたりでにぎわっていた。女性達が集まるから、必然的に子供達も集まり、この人工凹地は前近代の産物と片付けるには余りにも惜しい明るい小ユートピア状を生み出していたのである。
なぜ水が涸れてほこりが積もり溜まったのか。
人口が多くなり、近代的な住居が建てられたからだ。住居の多くはコンクリート造りである。したがって深く基礎工事がなされ、それが地下水脈を分断してしまったのである。
パタン市とカトマンドゥ市を分けるバグマティ河の水位とパタンの住宅地の高度はそれ程には違っていない。丘とも呼べぬ程の高さに多くは位置している。住居地、すなわち地下階段式井戸の水を吐き出す泉は、だから微地形の地下を更にデリケートに流れ続けて、人々の日常生活に必要な水を供給し続けてきた。
それが平均すれば五層ほどのコンクリート柱床版構造レンガ積みの建築構造物によって地下水脈の微細な自然が破壊された。
基礎の形状に、より精緻な工夫がなされるべきであったし、これからはなずべきであろう。おそらく基礎工事を掘り進める深度を1M程にも浅くすれば地下水脈を分断することは防げたのであはるまいか。階段状の地下井戸の深さはものでわずか地表から数十センチメーター程のものもあり、深いものでも7メーター程である。その地下水脈の深度を人々は生活の必要上から先験的な本能とも呼ぶべきで探り当て井戸の深さを決めていたのである。先験的本能は生活の歴史に通じる。
それは人間の水脈に対する嗅覚と呼び得るだろう。そのアニミズムの集団的基盤を近代の余りにも一律な地表上の構造技術が破壊してしまった。
多くの階段状地下井戸は涸れて、女性達の働く姿はそこに今は少ない。まだ生きて水を吐き出す井戸は不思議な網の目状に残存してはいる。そこでは女性達の姿がまだ残り、美しい働く姿、水と共に居る姿を見せてはくれてはいる。観光客の通りすがりの感傷に過ぎぬと片付けてはいけない。
カトマンドゥ盆地の都市は多く世界遺産として指定され、観光は将来にわたり巨大な主幹産業でもある。
その多くの産業としての力は宮殿やら寺院の地表構造物ばかりではなく、地表からは凹部の人工物である世界にも稀な階段式地下井戸のランドスケープに依存しているのである。地表の構造物に意を集中するのは、実に時代遅れなのである。
パタン市にも少なからず近代的な建物が建ち始めている。夜になるとそれ等にはキラキラとイルミネーションまで飾られている。
全て地表状の構造物への人間たちの意識の集中がもたらせている。
地中の闇の内には水脈の地下の微地形とも呼ぶべきアニミズムが棲んでいる。その微地形の水のアニマ、すなわち「動き」への配慮と言う人間本来に必須な本能、しかも集団的なそれがパタンの余りにも貴重な階段式地下井戸群の凹型のランドスケープを生み出し続けてきたのである。
それは水のうごめきに対する人間たちの集団的本能、すなわちアニミズムによるランドスケープである。

地下井戸の水が涸れて、パタンの女性達の生活も近代化されたの考え方もあろう。水との生活を個人の家に閉じ込め、個々に処理するようになった。女性達の労働でもあった。井戸への水汲みや運搬の苦からは確かに解放されたのであろう。
女性達の生き生きと働く姿は個人の家空間に閉じられた。水汲みの動線という近代考えからは確かに一方向的に便利になっただろう。
しかし、カトマンドゥ盆地の都市は世界的な人類の遺産でもあり、より大きく考えれば、食いぶち、すなわち観光資源でもあるのは、あまりにも明々白々なのである。
話し方を逆転させてみよう。大事な結論、目的を第一においてみる。 1、まず凹段式井戸にうずたかく積もり積もった都市のほこりは払うべきである。汚らしくて誰の眼にも不快である。
2、それには最低限、階段式井戸に吐き出される「水」が必要である。
3、そこで今更、水汲みをせよ、洗濯をせよと言うのではない。それを前提にして生活の一部をデザインしたらよい。
4、例えば階段式井戸を造り、産み出したコミュニティの表現を、世界遺産に相応しく共に考えられたし。例えばコミュニティによる持ち番制による集団拭き掃除である。それを観光都市の集団的メンテナンスとして表現されたい。
それを始まりに、より高度で複雑な水のインフラを考えたら良い。世界遺産としてのパタンの都市風景に対する考え方をアニミズムのデザインと呼びたいものである。

今日は2017年12月7日。日本を発って一ヶ月と少しばかりである。ネパールは総選挙の投票日だ。街へ出たら、店は全て扉を閉じていた。街角の随所には投票の実行をチェックするのである、小机と住民リストの用紙が広げられてあり、人だかりがしている。
日本の総選挙とはちがい、おそらく投票率は高いのであろう。何しろネパールの今は政治の季節である。
中国政府の毛沢東派コミュニスト派とネワール民族派コミュニスト他が支持率を競い合っている最中だ。
ネパールは民族の博覧会場と呼ばれる程に多民族国家である。峠をこえると民族が異なる場所が展開し、近代化の真っ只中である。

ここ数日、パタン市も選挙運動の演説会場が各辻々に出現して、熱烈なる支持呼び掛けが展開されていた。毛沢東派軍隊による総選挙の民主的実施が破棄されぬだけよかった、は自分の実感である。が、しかし、最後までどうなるのかは予断を許さぬ。
選挙運動で目を見張ったのは、各民族の女性達が、それぞれ民族衣装を身につけてパレードに参加していた事。それにTV、ネット時代の選挙は異常な数のオートバイクの普及と共に、ここをも制覇していることである。
隣の首都カトマンドゥ市は猛烈な排気ガス、スモッグにより、ヒマラヤを遠望するどころか猛烈な車ボコリと排気ガスに今日も覆われている。その黒煙の下でどんな政治劇が繰り広げられているのかは、外国人の自分には知り得ようがない。それに比べて、パタンは小さく、わかりやすい。
ネパールの現実は地政学的に、これからの世界の近未来を占うことになり、現実として習近平中国共産党政府とインドの新興資本主義、高度経済成長主義者モディ首相の身を刺す如くの現実主義、実際主義者同士の政治力、経済力の衝突の場になりつつある。
チベットを含む、中国政府のこと更なる領土拡大主義dfの拡大は止むことを知らぬ。チベットの信仰の柱である、ダライ・ラマ法王は現在インド領カシミールに亡命中であり、活動も活発である。中国政府はそれに神経を研ぎ澄ませ続ける。
恐ろしいのは互いに領土(国境)を接する中国、インド、それにパキスタンが共に核保有国である事だ。インド、パキスタンの宗教的イデオローグの対立は根が深く、危険極まれりである。モディ首相はヒンドゥ原理主義者でもあると言われている。パキスタンはイスラム教国家であり、宗教的原理故にインドから分離、さらにバングラディシュと分断した。複雑な地政を持つ。
日本政府は無原理主義者の集団でもあり、国際政治感覚を持たぬ。新幹線と、おそらくは原子力発電所プラントの売り込みの口火である。
インドでは安倍晋三の名は一向に大衆には知られぬけれど、どうやら原子炉はいざ知らず、新幹線を売りに来てるセールスマンとして知られる。

ネパールでは安倍晋三の名は長期政権にもかかわらず全く知られていない。近い将来、ネパールは世界政治の坩堝となるであろう。岡倉天心覚三が「東洋の理想」で述べたごとくが、まさにヒマラヤ山脈という地球の背骨を挟む中国・インドの二大強大国、それに宗教的対立が絡み合う、まさに21世紀的紛争の場になるであろうに。かつて少しばかりはあった日本国への関心は、今や急速に低下し始めている。

ネパールの選挙運動用のポスター、チラシの類の宣伝メディアには、各党派共に新幹線が登場している。どうやら日本製のそれではなく、中国、インドの力を代理するモノとして象徴的に使われている。

ここでの自分の生活の場のほとんどは6階のトップ、ルーフテラスである。北にヒマラヤの巨峰群が見えたり、隠れたりの内で何やら、仕事らしきもしている。自炊ではないが、洗濯は自分でやる。電気洗濯機は普及していない。旧都「美しき街パタン」と呼ばれる街並みには自動車は全く不適切な商品だけれど、狭い、歴史的建造物で埋め尽くされた街並みをブーブー、ピャーピャーとうるさい限りの警笛を鳴らし続けて、溢れかえっている。バイクはもっと多い。なぜこんな処でバイクに乗りたがるのか知りたい位に、小型のものにうちまたがっている。迷路状の街にうごめき廻る、まるでネズミの如くである。街路を歩く自分の身体スレスレに、それでも速力は遅いけれど、走り過ぎる。
排気ガス問題を考えると、それにネパールは油田はないから、全てが輸入品の馬鹿げた近代的産物である。

無精者の自分でさえ、洗濯は二日に一度はする。何しろパタンはカトマンドゥ程でないにせよ、都市(街)がほこりだらけだ。もうもうたる土がうずたかく街全体に堆積している。これは大地震のせいばかりではあるまいが、数百年の歴史の埃が堆積してる感がある。雨季があるにせよ、街の全ての埃を洗い流せる程の雨量ではない。乾季のカラリと乾燥した空気がありとあらゆる土煙を至る処に撒き散らせ積み上げる。日本のように雨が多く、水気が充満している大気の状態ではない。日本人はその水気に気持ちまで洗い流すのが好きで、罰も恥もアッと言う間に、水で洗い流すのも得意だ。だから、文化の深度もいつも洗い出され、土煙の如くに堆積しない嫌いがある。

巨大なカトマンドゥ盆地で周囲はぐるリと3000メーター級の低山で囲まれている。しかし風は良く吹き流れて、空気は澱むことはない。だから洗濯物は実に良く乾いてくれる。ひるがえる仏教旗やらチョルテンのひるがえるが如くである。
洗濯物が多く、風に飛びやすかろう、と洗濯バサミを買いに街に出た。雑貨店は多く、価格も安い。カトマンドゥ盆地で高額なのは、いずれも数多い国大的な観光客向けの商品だけである。リキシャの姿はもうほとんど見られないが、TAXiの料金は、これは明らかに、観光客向けの料金と地元の人々の料金は多分、五倍以上で、明らかな二重価格である。これは国際観光で生き残ろうとする国の正当な特権でもあり、むしろブータン王国の如くに国法として制度化してしかるべきだろう。
ここの女性達の洗濯は、あんまり洗剤は使わぬようである。いつも屋上階で間近に洗濯は眺めていたから、間違いはない。

グレコの名画「受胎告知」が在ることで、有名なイタリアの都市トレドはグルリと姿の良い美しい河で囲まれた、歴史都市であった。がしかし、その河が洗濯の洗剤でアブクだらけになった。
小都市が洗濯石鹸の泡で、プカリプカリと浮いてしまった。それであわてた市当局は洗濯石鹸に対して対応策を講じたと聞く。
受胎告知の処女マリアは、まだキリストのおしめも洗わぬ生娘だったのだろうから、そんな洗濯の古代でさえあったろう現実にも無知であったにちがいない。
パタンの屋上群は、それこそ洗濯物の満艦色である。パブロ・ピカソの色彩感覚は故郷カタロニアの鮮明極まる空の色に対応した、いわゆる諸芸術の母である地中海の光と影の産物であるやも知れぬ。それは正論であり、それでしか無い。
あの画家としての色使いは、むしろパリ時代のはじまりに生活したとされる、セーヌ河に浮かんだ「洗濯船」の洗濯物の満艦色の再現ではなかろうか。
少しばかり、近代都市の埃とアカに汚れて、くすみを帯びている。青の時代のメランコリーに満ちた色は、あれは近代都市の洗濯物を、それでも外気にさらさなければならぬ者達の悲哀の満艦色である。と、これは明らかな異論である。
パタンの屋上の洗濯物を注意を凝らして眺めれば、女性の下着や赤児のおしめやらは外には干されてはいない。
見渡す限り、そうなんである。
女性の下着や、赤児のおしめはやはり、室内の他人目にさらされぬ場所での陰干しなのであろうか。しかしながら、この疑問ばかりは宿の女主人にも尋ねられぬ。せっかく些細な気持ちが通じるようになったのを、このジジイ、変態老人かと疑われるような事は避けたい。
女性達は洗濯のついでに、自分の体も、一般的に長い髪も洗濯するようである。サリーほどの原色ではなく、品の良い濃いグリーンやらの独特な色合いのバスローブみたいなのを身につけて、屋上で全身の肌は隠しながら、しかし、実は半裸体で水浴し、髪も洗う。

断っておくが、女性の下着やら、その姿にこと更なる興味があるわけではない。
昔、アメリカ西海岸へ、材木商まがいを始めた時、乗ったノースウェスト航空が、ハワイ間近でエンジン・トラブルをおこした。自分がまだ飛行機怖い(正直に言えば飛行機恐怖症であった)、日付変更線を越えても、まだ眠れずに、見栄もせぬ飛行の空を見続けていた。だからエンジンの以上に気づいたのだった。エンジンの1つが赤い火を吐き始めた。これはヤバイと緊張した。すぐにスチュワーデスが飛行機の窓を外が見えぬように、パシャ、パシャと閉じ始めた。乗客の大半はそれでもまだ眠り続けていた。
眠れぬ自分は、こっそり閉じられた小窓の小扉をあけてみた。怖いもの見たさである。と今や片翼のエンジンが2基ともに火を噴いていた。これは本当にヤバカッタのである。飛行機の運転は自分はできない。車さえ運転しないのだから、成層圏を飛ぶ大型旅客機の運転なぞ出来よう筈もない。
でも、基本的なそのメカニズムの原理やらは知っていた。やさしく説きほぐせる能力を持つ物理を体得した師を持ったからだ。(※川合健二)
「内燃機関の要は、タービンであれ、ピストンであれ、その燃料を爆発させてエネルギーを作り出す部分を冷却し続けねばならんことなんだ。だから大型旅客機はそのエンジンを冷却するために成層圏を飛ぶ必要がある。成層圏の気温はマイナス50度でエンジン冷却には一番向いているんだよ。」
そして、技術には完全はあり得ぬから、大型旅客機のエンジンは全部独立してる機構になってるので、一基くらいエンジン(タービン)が故障しても、それは全体から切り離せるようにしている。と、これは技術の話で、当たり前のことだと、師はヒヒヒと笑ったものであった。
「実ワ、ジェット・タービン・エンジンはほとんど手作り状なんだよ。だから大量生産される自動車のエンジンの方が、それだけを視れば、完成度は高いんだよ。」
後年、ジェットエンジンのメンテナンスの現場をK重工で視る機会があった。多分、パートのおばさん職工達がG・E社のジェットエンジンのターボの羽のメンテナンスに従事していた。おばさん職工達はハアー、ハアーと息を吹きかけたりはしていなかったけれど、まるでそんな風にジェット・タービンの羽一枚一枚をチェックして汚れだろうかを落としていた。つまり、洗濯していた。
今のM重工やH社の国際線に非ずの個人用ジェット機のエンジンはそんなことは、あるまいが、それに近いことは必ずあるだろう。
宇宙へ飛ぶロケットだって、その断熱部の材はひとつ、ひとつ手で詰め込んでるし、ジェット機の機体だって、日本はようやく、その主要部分の部分生産を任せられるようになったけれど、操縦部分、つまり機体のヘッド部分の生産機密は外国資本に独占されたままである。ジェット機体のボディは実に微細な雨漏りならぬ水漏れがある。だから円型の連続断面をしたボディ部分はその外皮の内側に内ドヨならぬかすかな水の流れ筋だって用意されている。
高度な技術の結晶とイメージされがちな、物理世界の「胴体」こそ、人体そのものに近似して、不完全な、一品生産物なのである。
これも又、別種のよく働かぬ現代的アニミズムなのである。
それはさておく。
問題は「洗濯」である。ジェット・タービンの一枚一枚もおばさん職工達に洗濯されている現実と共に、パタンの洗濯のその先の「洗濯挾み」についてである。
パタンの屋上部にはほとんどいつも風が在る。それで洗濯物は空によく乾く。
それを、洗濯ヒモにかける。洗濯バサミは、常に膨大な畳が要であろう。天文学的数量である。
街に出て、洗濯挟みを求め、数点巡廻した。大量にある外国人観光客向けの、お土産、金属仏像の類とは異なる。これは地元の人々の日常生活に必須なモノ(商品)でもある。自分で作るには時間、ヒマがかかりすぎる。
であるから、パタンの金属工芸の妙が尽くされている筈のものが在るにちがいあるまいと睨んだのである。我ながら、良い処に眼をつけたと、誰も見てないのに小鼻だってピクピクだったやも知れぬ。
アッタ、これは金物だし、プラスチック製ではない。プラスチックは紫外線に弱いからカトマンドゥ盆地においてはむいていない。すぐにゴミになるばかりである。これ以上のゴミを出すわけにはゆかぬ。アジアではゴミの問題は最大級の難問中の難問なのである。
難問のキングコブラである。

発見して買った洗濯ばさみは、流石パタン、金属、しかも水に強いアルマイト製である。
デザインも仲々に良い。
これぞ現代陶芸の粋である、と感動した。
持ち帰って、良く良く調べたら、調べるまでもなくが本当のところなんだけれど、これが「メイド・イン・チャイナ」ものであった。
やっぱり量産できる工芸品は、ウィリアム・モリスの商会以来、問中のキングコブラなのだった。


ネパール総選挙の投票はさしたる混乱もなく終わった。ここ、マハブッダ・ゲストハウスの支配人は家族共々、ネワールコミュニストであり 至極当然の如くに、そのパーティに投票したようである。
開票は驚くなかれ、即日開票だ。日本と同じにTV各局はフットボールや、クリケットやらのスポーツ番組や、理解に苦しむ恋愛、活劇、ミュージカル様の人気番組をのけて、TVの報道特集の如くを組んで、開票の刻々を報道している。キャスターがどんな経歴、偏見の持主かは知ることもできぬ。

じつはゲストハウスの支配人は大家族の一員である。全体は知ることが出来ぬと、根掘り、葉堀りは失礼だろう。弟が最低2人は居る。1人はゲストハウスのストリートを挟んで、真ん前にマハブッダ・クラフト・センターを開店している。要するに、金属工芸による仏教関係への像やらの製作販売である。
もう1人の弟は少しばかり人見知りするタイプの、これはまさに職人である。このゲストハウスから数軒隣りの、アパートの4階の小さな部屋に工房を持つ。弟子が複数居るようで、小空間に膝を付き合わせるように、アグラを組み、コツコツコツと彫金に勤しんでいる。床は木製で、その上に粗目の俵状のゴザが敷いてあった。
狭く、くねり上がる暗い階段を登り切ったところに、ここだけは北側の窓の光が安定した光を送り込んでいる。
窓の外は、自分が勝手に仕事場にしてしまった、ゲストハウスの屋上からの光景よりも、生活臭が薄く、名も知らぬ大きな葉の陰があったりで、うまく、彼の仕事の性格や、それにも増して、自身のシャイな、引きこもりへ、内へ内へと向きたがる性格にピッタリと納まっている風がある。
謂わば、屋根裏の隠者であり、その仕事場である。
工房には程々の大きさの、つまりは人体よりも一回り程小振りな、仏顔やら、胴体、そしてその座の部分やらが一見無秩序の如くに並べ立てられている。
良く、良く注視すれば、すべての乱雑に放置されている如くの、それ等は小さな部屋を好んでいるのだろう事と同じに、彼の眼と身体感覚でコントロールされているのが分かる。
どこまで仏像製作などの全体に関与しているのかは知らない。極めて複雑な分業方式により、仏像の全体が製作されているのであろう。しかしながら彼の立ち振る舞い、眼の配り方、観察者である自分への強い無関心振りの振る舞いからも、彼がその全てを把握していて、時にコントロールする立場にもあることを示している。謂わば製作全体への差配の自身とも言うべきである。
かくなる職人の種族は、日本からは消え去っている。
この職人の強い矜持とも言うべきを支えているのはパタン全体の仏像、仏具の生産量の異常な多さ、すなわち市場の巨大さがあるからだ。パタン市全体での仏像仏具の生産量をまだ知ることは出来ない。おそらくは、想像するに誰も把握していないのではあるまいか。

真昼の銀河鉄道

1章と2章のあいだで。

行間を読むなんて事はわたくしには出来ない。だから、他人にも求めたりしない。
でも、章毎の狭間にはいささかのギャップを設けている。
行間の一行の文字数は20文字程である。20文字で何かを言ったり、ほのめかしたりする言葉の才能は無い。一語一文字は自分ながら凡庸極めりを自覚している。
原稿用紙で20枚から30枚程度のボリュームでひと群れの固まり状としている。いまのところ充分に速力が伴っていない。それで、それ位の文字量でどうしても息継ぎを入れなくてはならない。わたくしの言語能力はそれ位に平凡なのだ。そうすると、章の固まりと固まりの間にどうしても充分に計算できぬ、すき間、が生まれてしまう。
しかし、そのスキ間は自分にとっては天の恵みである。そこに凡庸極まる章毎の固まりとは異質な文字群を入れ込むことにする。
そうしないと自分の気持ちらしきが生に表現できぬからだ。
何処まで、続けることができるかは、まだ視えていない。でも、そうせざるを得ないのである。
自分の気持ちらしきも又、動く。振れはせぬが動き回る。動きの実相は自分には神秘に近い。
だから、それを少しの時間をかけて固定したい。動かぬモノとして捕獲したい。
その希求は創作につながる程である。

真昼の銀河鉄道

真昼の銀河鉄道 第1章
1、ジュニーを尋ねて

ジュニー・シェルチャンを尋ねて、インドからネパールへの国境をこえた。国境は1kmになんなんとする大型トラックの隊列が手続きのために待ち続けていた。大量の物資がインドからネパールへと流入しているのをマザマザと視た。
なかには十輪車、十二輪車の軍隊車両まがいも多く、検閲も大変なのであろう。この重量がネパール各地に走り回るのだから、簡易舗装の道路が巨大な凹凸の連続になるのは当たり前である。
近年まで鎖国制を敷いていた、北方の中国との国境間近の、ムスタン王国は鎖国を解き、今は中国が陸路での交易を急激に進めようとしている。
ネパールは8000メーター級のヒマラヤ連山を背骨として東西の軸として持つ。先年、チベットまで隊列を組んでの四輪駆動車で、中国領を走った。今、思い返せば命ガケと言ってもよい旅であった。
中国領の高地は道路を整備するのは困難である。けれども中国政府はその困難な壁はものともせずにそれを実遂するであろう。
新シルクロード計画のマスタープランの許に西進、南進は確実に進められよう。中国15億の民の食料、水、エネルギーにとってそれは近代の必然である。
モディ首相のヒンディー原理主義的政策も又、ネパールの水、(水力を含む)を必要とする。中国程の強引さを持たぬが、これはネパールが広くヒンドゥーの民を住む暮らす、の文化的現実を見据えての自然に近い安心感があっての事である。
ネパールはヒマラヤを主座とする巨大な山国である。峡谷は深く、峰々は急峻である。峰々を越え、峠を越えて峡谷のひとつ筋ちがいは、他民族である。世界の民族の博覧会場と、トニー・ハーゲンが言う如くに、ネパールには130になんなんとする民族が並存している。言語も異なる。
この多民族並存国家こそがネパールの現実であり、同時に巨大な可能性である。

地球の地形自体が作り出した多様性が民族の地までに及んでいるのである。
今のネパールの民々は皆、スマホ、モバイルを子供にいたる迄所有し、駆使している。
それを持たずのわたくし等は、それこそアンモナイト状の化石である。ここに来てもすでにズレ切っているのである。
電波はここでは、その地形故にインフラストラクチャーなのである。
であるから、ヒマラヤの国、ネパールは大きな可能性を持ち得よう。道路や高原列車を走らせずに、確固たる多民族国家を地球上に実現する可能性が在る。
もちろん、これは今のママのネパールでは不可能に近い。すでに物流としての近代が入り込み席巻してもいるから。しかし、次世代としての子供たちの可能性は巨大である。日本よりもはるかに大きいのだ。多宗教を軸とした固有の文化が生きているから。

3003メーターのダマン峠には雪があった。
40年程も昔、やはりこの峠を越えた。まだ若い頃であった。
カルカッタの旧ダムダム国際空港から、ハウラー中央ステーションへどう行ったのかは記憶が消えている。大体カルカッタの都市の名すら消えた。当時はアジア各国の国際空港には凄腕の雲助TAXiドライバーがたむろしていた。初期の『地球を歩く』はガイドブックにしてさに非ず、アジアを旅する人間にとっては身を守るバイブルでもあった。
TAXiドライバーは金のふんだくりから売春斡旋まで、何でもした。
最初に対面しなくてはならぬ異人さんでもあった。空港の大方は都市の中心から離れていたから、くぐり抜けねばならぬ関所であった。
雲助ドライバーの群れにとても太刀打ちできず、スゴスゴと最初の夜は空港で仮眠した。
トイレのドアの前にもデッカイ、インド人がいて金をよこせ、であった。小便くらいタダでさせろと、これは振り切って便器に向かったら、小便器の高さがつま先立ちせねばならぬ程高かった。インドの男たちのチンポコの位置はどうなってるんだといぶかしんだものだ。
そういえば、当時の日本では見慣れた風景ではあった男性諸君の立ち小便の姿はインドでは全く見られなかった。イギリス流のエチケットに非ず。彼等は座り込み、路端で停車場のレールキワで座り小便してた。白い民族衣装がそういう仕組みにできていた。
便器はアメリカン・スタンダード社のものであった。これも当時世界最大の米国の便器メーカーのもので、今は会社が消えている。 
『地球の歩き方』は原本と呼ぶべきだろう。まさに地球を這う如くに歩こうとした若い旅人さん向けに作られていた。高所得者達や高齢者達に向けてのものでは一切無かった。
むしろ、そこからはみ出した人間へ向けられていた。

旅にして、旅に非ず。
登山にも歴然とした階層が存在する。ヒマラヤ登山を含むアルピニストの世界、とハイキングにも通じる如くの低山逍遥の世界である。
日本のあらゆる山岳に歴然とした謂わゆる未踏峰の山岳は存在しなかった。日本最高峰の富士山も3776メーターの高度であるが、誰がいつ初登頂したか等にはだれも関心を持とうともせぬ。老若男女を問わず、重度身体障害者は別としても、今では夏季には保育園児たちまでが登り、楽しむことができる。
日本アルプスと呼び慣らす、北アルプス、南アルプスも又然り。初登頂者なぞは記録にない。槍ヶ岳、穂高、そして日本第二の高度を持つ南アルプス北岳だって3116メーターの高度であるが、昔は山岳修験者達がワラジがけで飛び歩いていた。又、マタギを含む狩猟者達も容易に山頂を踏み越えていた。
日本のある程度の高さのある山群の呼称アルプスのオリジナル・アルプス、すなわちヨーロッパアルプスもかつて程の山岳としての輝きは失せてしまった。アルピニズム、その実践者としてのアルピニストは、今やスポーツ登山の最高峰はヒマラヤ山脈にありと、熟知している。
ヨーロッパアルプスはスポーツ登山の対象としては二流の山岳群になったのである。
『地球の歩き方』が今や多くの海外旅行者のガイドブックであるように、登山の世界にも各種ガイドブックがある。
京都大学山岳部出身で、後に朝日新聞社の名記者となった本田勝一は山岳界には稀な理論家でもあった。新聞記者としての本田勝一は新聞に冒険民俗学的ルポルタージュ、カナダエスキモーの世界等を世に良く知らしめた。
登山家でもあったその本田勝一に、決定的な名言がある。
「ヒマラヤの最高峰であるエベレストがエドモンド・ヒラリー・シェルパのテムジンによって初登頂された時に、登山すなわちアルピニズムは終わった」の言である。
ウーンと若い時にこの言を、たしか「岩と雪」であったかの、日本の山岳ガイドブックであった雑誌で読んで、自分は感動した。もの皆、ありとある世界には終わりがあるのだと膝を打ったのである。

自分も若い頃に登山に明け暮れていた。体力も才能も無いのに、低い山歩きは嫌だった。あんなものは誰でもができる事だと考えていた。ただただ、誰にもできる事は嫌だと言う性分だけから岩登り、沢登りの世界へと没頭した。身体も小さく、耐久力には自信がなかったから、重い荷を背負って歩くだけの山岳世界は避けたのだった。
しかしながら岩登りの世界にも階層性が歴然としてあった。不思議な階層性であった。
1960年代頃にはすでにそれ迄登山界を引っ張ってきた勢力でもあった大学山岳部は、皆と言って良い程に二流の域に堕した。
慶應大学山岳部出身であった大森氏の有名な「穂高の岩小屋のある夜のこと」の金持ちのボンボンのロマンチシズム、言うならばセンチメンタリズムの時代は終わりかかっていた。
終わらせたのは社会人山岳部ならぬ工員達であった。彼等は穂高岳や剣岳に登る時間のゆとりも、金のゆとりもない人々が多かった。全てではあるまいが東京下町の油まみれの下請け工場の工員が何故か多かったのである。
だから彼等は夜行日帰りの上越谷川岳を岩登りのトレーニング場とした。岩登りに必要な岩釘(ハーケンと呼ぶ)は自分達の工場で自作した者もいた。
谷川岳は2000メーターにも満たぬ低山である。冬を除き山頂にいたる尾根筋は低山歩きのハイカーが列を作っている。尾根歩きは容易だが、しかし恐るべき岩壁を、その側面に持っていた。一の倉沢等の沢のゆきづまりの巨大な岩壁である。沢の延長でもあるから多くの岩壁のルートは水に濡れていた。本格的な登山靴なぞは滑りやすくて不向きでもあった。彼等はワラジばきでそれに挑んだのである。夜行日帰りの日程であり、穂高を終えた次の朝には工場で働かねばならなかった。
ワラジばきの変則ではあったけれど、それで異常とも考えられるスピードを旨とした登行技術が磨かれ、彼らのうちに蓄積された。彼らには「人間は何故山に登るのか」のセンチメンタルな会話なぞは無かった。ただただ、ひたすらに速く岩壁を登り切るの、余計がそぎ落とされた明快さがあったのである。
ヒマに任せた大学山岳部の連中とは異なる裸形の情熱だけ、そして技術が育ったのである。
やがて彼等を軸とした社会人登山家が育った。そして日本の山岳界の中心となったのであった。

日本の山岳界でヒマラヤの8000メーター級の初登頂はマナスル登頂の日本山岳会であり、隊長は槇有恒慶應大学山岳部出身者であった。イギリス方式を真似た堂々たる遅さ極まれりの登高方式によった。大集団が編成され、物質の補給基地としてのベースキャンプが据えられ、順次第一キャンプ、第二キャンプ、第三第四キャンプと順に高度を上げ、最後に選ばれた登頂者が決められたのである。巨大な金も必要とされた。登山家達も裕福な層の出身者が多く、各経済界からの協力も得られねばならなかった。

今のヒマラヤ登山の最前衛は低山谷川岳の剣呑な岩場からの異形の登高者達に似た、ヨーロッパの異能者であるメスナー等の夜行日帰りならぬ、酸素ボンベ等の重装備無しの無酸素軽装備で異常なスピードによる単独登山の形式である。
どんな世界も組織化された集団による営為が主流を占め、世界はまさにグローバライゼーション世界だ。
登山の世界はそれとは逆行した単独者による、これも又、世界が、もう一つの別体形が開始されようとしている。
※2018年現在、ネパール政府はヒマラヤでの超高山単独行を禁じている。危険なのと入山料の問題であろう。
少しばかり強引な理屈だと自覚はしているが、オリジナル「地球の歩き方」の世界と似ているような気がしてならぬ。初期(オリジナル地球の歩き方)時代の、特にアジアの旅は若い世代の、本来、困難極まる単独者達のアジアの旅のガイドブックでもあった。その礎はガイドブック無しの旅を求めた者達の、旅と呼ぶにはあまりにもの困難さへの驚きから、後に続こうとする者達への最小限にして、必須な情報が集められ、編集されたのであった。アジア各地の安宿情報の細部が、克明にあった。
旅の経験者達の裸形な情報が集められ、編集者達も又、新しい世界を切り拓こうとする意気込みがあった。「この宿には泊まらぬ方が良い」「スリが多い」「危険だ」の情報も多くあった。
アジアの旅の武芸帖の如くだったのである。

ジュニー・シェルチャンはネパールのタカリ族である。タカリ族の族長の血を引き継ぐ。
出身地はネパール山岳地帯ヒマラヤ圏(インナーヒマラヤ)と呼ばれるカリガンダキ河沿いのツクチェ。
カリガンダキは黒い河を意味する。近年まで鎖国を続けていたムスタン王国に水源を持ち大きな泉の群を持つムクチナートの水も流れ込んでいる。ムクチナートはヒンドゥー教の聖地で、遠くインドからの巡礼者も多い。
ジュニーはドス黒い河で産湯を使ったのに、滅法いい男である。若い頃は本当に水がしたたる程のいい男であった。
ジュニーの生き方に大きな転換を持たせたのはポカラであった。ポカラはカトマンドゥとは少しばかり離れた、ネパールのスイスみたいな処で、伝統的文化には薄いが、自然は飛び切りなものである。なにしろ世界随一のヒマラヤの山並みを間近に背景とする。

ジュニーはある日、ポカラの湖で泳いで遊んでいた。そして水から上がったジュニーの姿形を視て驚き仰天した写真家がいた。
なにしろ、水もしたたる良い男が本当に水をしたたせて湖から立ち上がったのである。
ファッション界に通じた写真家であった。写真家はジュニーのホンマに水のしたたった姿を写真に収めた。中途は省くけれど、それで一躍ジュニーはいきなり世界のファッション界の男性モデルとして、有色人種の大スターとして躍り出たのだ。
ファッションとしてのオリエンタルブームのはしりであった。
その頃の写真やらはジュニーはなぜか恥じて余り人に見せたりはしない。が、しかしその世界にあんまり関心が無い自分が、当時の写真を無理矢理に覗き視ても、オーッという程の男前であった。彫りの深い顔立ちと大柄な薄黒の体験を合わせ持ち、おそらくは白人文化の資格世界には驚きをもって迎えられたのであろう。
そうして、かくかくしかじか、時は流れた。ジュニーはヨーロッパ、アメリカで世界のトップモデルとして活躍した。

真昼の銀河鉄道

真昼の銀河鉄道

ジュニーを尋ねて、で始まる。恐らくは、長い、とめどもなく終わりそうにない話を続けようか。
世田谷村での生活は神隠しの連続だ。
眼鏡屋で買ったばかりの補聴器は何処かへ消えた。九州の松浦鉄道に置き忘れた大事な黒い画用紙入レ画板を始まりに、失くしものが続いている。脳が劣化してるのは確実だ。沢山な大判スケッチだって、何処に仕舞い込んだのやら。画用紙は積み重ねると、とても思い。掘り起こすの風がある。発掘作業はなかなかの労働になってしまう。
ドローイングと称して描き続けている絵画らしきもサイズが次第に大きくなり始めている。屋上の生ゴミ埋め続けている庭らしきの下の小さな仕事部屋も、ますます手狭になってきた。屋根裏ならぬ、庭下の老人である。
だから、売れるものは手放している。でも置く場所が無くなったら、やはり誰かの許に行くのだろう。その誰かだけを記録しておけば、それで良かろう。それくらいの未練でしかない。

振り返るのは、そんなに好きじゃあない。先を見続けたい。でも先はそんなに長くはあるまい。昔の方が長いのだ。それを歴史と呼ぶ程のおこがましさは無い。
好ましかった友もほとんど死んでしまった。

死人に口無し、は嘘だ。失くなった者くらい良く語るのだ。
人に非ず、モノ達だって同じだ。
失ったモノはよく語る。
自分が失ったケチなモノ達ばかりではない。使い途が失せた残骸、廃墟、ゴミの類もよくしゃべる。
地平線の無い国で生きてきた。
際限の無い風景にあこがれる時もある。でも身体が馴染むことは決してない。
天空の有様と図像や文字の誕生とは無関係ではないを知ったのはチベット高原であった。崇高、永遠、絶体は縁遠い。
シルクロードの砂漠を走り続けた時には地上の涯ない単調さとは別世界の異形の天空を視た。その光は巨大な立体であり、天と地を結ぶメッセージじゃないかとも一瞬考えたりもした、ホンの一瞬の時間であった。

劇的な光景ばかりではない。
南インドのつまらぬ安宿の、どうと言うこともない光景だって眼に焼きついている。
何故と考えても無駄である。作り続けたいと思い続ける不思議さ、気持ちの奥深いところに在る何者かが、そう呼びかけるのだ。
以下、「真昼の銀河鉄道」目次を示す。

真昼の銀河鉄道

真昼の銀河鉄道


第1章 ジュニーをたずねて

第2章 空飛ぶ三輪車

第3章 郵便局

第4章 屋上で

第5章 総選挙


いつ完成するのかわかりません。しかし、途中まででもHPに出そうと決心した。
この先はまだ視えていない。