I
高地で、盆地で、海岸線での3つの道筋とする。
海岸線で、日々の日報を交える
ドローイング4は3の限界を意識しての脳内での構築案であり、少しばかり建築の形式が露出している。スワヤンブナート寺院は古代湖であった盆地の端の丘上に位置している。寺院のストゥーパは幸い倒壊をまぬがれた。
カトマンドゥ盆地に多い幾多のストゥーパは大小共に生き残った。本ん地中心の王宮間近のシヴァ神殿は巨大な五重塔であったが倒壊した。ストゥーパの形は土饅頭から生まれている。インド・デカン高原サンチーのアショカ王のストゥーパは表面を全て石で荘厳されていて、歴史的には最古であるとされる。アショカ王はネパールに巡幸した。現パタン市は、市街を4つの(東西南北)アショカ王のストゥーパで枠付けられている。4つのストゥーパが先ず配されて、同時にであろう南北東西の主要街路が造られた。中心がダーバースクエア、すなわち王宮である。街路の大半はレンガで舗装された。ヨーロッパ諸都市は歴史の古い都市にはシティウォールを持つ。石造あるいはレンガ造の分厚い壁で市城の中心が囲い込まれている。そして都市の歴史は立体的に積層され続けたのである。大半の主要都市は今も掘るとローマ時代の遺構が出現する。そして更にローマ時代の遺構を掘り進めると、エトルリアの遺構が埋まってもいるケースもあるようだ。
都市は生死が繰り返される場所である。権力(金力)を持つ人間程中心近くで暮し、そして死んだ。死んだら大聖堂の下に埋葬された。無名の人々は恐らくシティウォール外が墓であったろう。
シルクロードの小都市ヒヴァも堂々たるシティウォールを持つ。そのシティウォール内外に石棺が積まれてもいる。人間の死に東西の違いは少なく普遍である。ヨーロッパのシティウォールも又、普通の人々の墓場であったろう事も考えられ得る。死者も又、死後その都市を守る者として再生されたやも知れぬ。
隣国朝鮮半島の都市にはシティウォールは大小存在せぬ。日本列島同様に石材は豊富であるが、不思議である。身近ではあるのに朝鮮半島には多大な神秘が残されている。
4ドローイングは計画中のパタン市、マハブッダ地区の塔の下部を描いた。拙い絵ではあるが私には重要である。何故ならばドローイングに身近な未来を描きこんだからだ。レンガ壁にはめ込もうとするは「窓」と「装飾」である。
この場所には現在三階建の住居が在る。それを取り壊して新しく建築する。ただし木造部分は捨てるに惜しい入念な細工が施された部材、部品が少なくない。だから、それらの全ては若い列島人に一つ一つ丹念に実測してもらった。ネワール建築様式が少しでも残されている断片材は何とか全てに近くを再利用する考えだ。
スワヤンブナートの丘から長い長い石段を用心深く降りて市の中心部へと戻る途中の小道は40年程の昔は私が一番愛した路であった。歩くと生まれる前の大正期の匂いがあった。祖父祖母父母、皆大正時代、初期昭和の時代を良く生きた、その匂いである。
大正デモクラシーと呼ばれるは、恐らくは大正天皇の歴史としての記憶が実に薄いからである。天皇が歴史の表流に浮かぶ時代は一様に不安定である。その点において大正天皇の存在形式は象徴としても実に理想的であった。
スワヤンブナート寺院ストゥーパは日本列島で、例えればは困難だ。半球を伏せた白く塗られる丘状の頂部には図像学的に、列島各地散在する五重塔三重塔の形態の素ともされる王権の記号である日傘の形が意味そのものとして在る。
乾燥地帯、例えば砂漠での王の位置はその日傘によって象徴された。一本柱に傘を重ねる形態は、それを模倣したのである。
卒塔婆の語源はストゥーパである。土饅頭に一本の棒を立てたが始まりで、棒が次第に工夫されて板状ギザギザ装飾がつけられたのを、今も我々は墓供養に道具として供し続けている。あのギザギザは多層のヒサシの意であり、更には日傘である。
スワヤンブナートからの径は列島では参道である田畑の中の一本道だ。始まりのドローイング1の墓山への葬列の一本道である。
一本道はやがて都市に入りレンガ敷きになる。やがて街道の景色になり、道沿いに民家が現れる。民家のスタイルは貧しいけれど、皆同じである。
列島では江戸時代後期に木工技術が最頂期を迎えていた。(渡辺保忠「工業化の道」)
技術が成熟するとは、技術が平準化するである。つまり社会に偏在しないである。建築技術は様々に権力に偏在しやすい。古代王権は宗教のそれと近似であり、建築様式をそんな表現に多用した。巨大墳墓、王城宮殿であった、カトマンドゥ盆地は古来3つの王権が存在した。それぞれが三宮を構えたが、幸いな事に地政学的条件、根本としては食料他の生産力が総じて貧しく、集約力を欠いた。貧しさの特権と呼びたいが、今の時代には、より意味がある。大宮建設、宗教建築建設に振り向けられた技術と民家建設への技術にはそれ程に大きい差異が無かったのである。
王政時代のネパール首相には何度かお目にかかった。印象では列島での村長さんの風であり、私の賜物はディズニーのミッキーマウス・ウォッチであり、ともに平然としていた。これでは汚職など起きようがないと痛感した。
王権は暗殺により、倒されたが、暗殺の背後には隣国であり続ける中国の影が在るかは
カトマンドゥ市民の常識である。
ネパールの未来の価値は、その地政が中国、インドの両大国に等分に接するに在る。
スイスの地質学者トニー・ハーゲンの著作「ネパール」はヒマラヤの地質学的地理学のオーソドキシーを基に据えていることでも、極めて示唆的である。
地質学的変動、天候変動はともに人間の力、金の力が遠く及びようが無い故に人間の生活を深く規定している。将来更にその本質は学ばねばならぬであろう。自然に学ぶの具体はそれである。
2022年現在のスワヤンブナートからの理想の具体としての道は、すでに一変している。都市化のスプロール、すなわち人工の都市への集中は世界に普遍だが、例外は極めて少ない(王国ブータンなどの希少な例外はないではない)。
参道は郊外住宅街に埋没した。そのその風景は悪いのである。私の住み暮らす東京郊外の風景と通じる。
海の如くに密集した住宅街の風景は、自発的植民地様式群である。各戸に車は普及していないが、オートバイは持つ、TVは持ち、おそらく電気も持つ。時に停電する。敗戦から急速に立ち直り、各種電化製品を三種の神器として、手にした我々の歴史はここにも繰り返されている。首都カトマンドゥには自学自習はついに生まれえなかった。
建築生産技術は、私の学生時には木工大工の芸術および組織を意味した。今は仮定としても考えられない。
何故ならば専門職としての大工の姿が消えたからである。住宅建設の現場には江戸末に最頂期を迎えていた筈の大工職人の姿はもう視えぬ。労働するは全てが時間工の姿、形式からである。
1940年代に用意され、50年代に実効起動し、60年代池田内閣の高度経済成長(所得倍増計画と呼ばれた)政策により完成したのはアメリカ型の大量生産、大量消費の生活様式の規格化でもあった。
産業革命はイギリス・ランカシャーの紡績工場の機械による織物、布地の生産様式からであるが定説である。(グーテンベルクの印刷技術が起点であるの説もある。)
現在のフォルクス・ワーゲン社、トヨタ社などに代表されよう自動車生産様式の自動化はそれの完成を示している。
フォルクス・ワーゲン社工場を訪ねると、生産ラインの全ては自動化され、しかも工場内はほぼ無菌状態であり、白い防護服状のユニフォームを着けた人間が、わずかに居て生産ラインの監視をしている。全てがロボット化されて無音に近い、スイスに多いとされる惣菜会社、食品会社の自動生産ラインはまだ未実見であるが、それ以上の静寂の内に在るのだろう。
人の姿が無い清潔さの極でもある、それでも工場である生産様式が現代の生産の理想であるのだろう。
その様式に異を唱え、自身で一部を実行したのが、イギリスのウィリアム・モリスであった。(ウィリアム・モリス、1833-1896)
ウィリアム・モリスのレッドハウス(自邸)を近代建築の祖とするか、ドイツ・バウハウス(デッソー)校舎を祖とするかは建築史家間の意見が分かれよう。
分かれてしまうのには歴史の功罪とも呼ぶべきがある。すなわちアドルフ・ヒトラーの問題である。始まりのバウハウスはワイマールの地に生まれた。その校舎はアンデ・ヴェルデ設計であり、予算はアドルフ・ヒトラーの指導下で作られた。
近代史はまだ生き物である。その評価は生き物同然に揺れ動き続ける。
私はワルター・グロピウスの設計によるデッソウ・バウハウスを近代建築(俗に呼ぶモダニズム様式であるが、、この呼称は考え方(思想)と表現とが混濁して正確なモノではない)の雛型として学んだ。しかし建築史の教師であった渡辺保忠はデッソー・バウハウス校舎には異見を持っていた。窓割りのプロポーションが一向に機械的ではなく、一点からの視覚的遠近法がデフォルメされているであった。口伝であり文字としては残されていない。
ワイマールにはナチスの本部も在り、仕上げは石造風であったと記憶するが、窓割り、すなわち柱間距離(スパンと呼ぶ)は同一である。
ワルター・グロピウスは自身の手を動かして設計する人では無かった。その具体の事例はバウハウス(ワイマール)が位置する大きい森の中にあるグロピウス作の竜(ドラゴン)の形を持つ、アナキスト記念碑(立体彫刻)に残されている。この小さいモニュメントも実際には一人の女学生の手によるが実証されている。(バウハウス建築大学出版物による)
グロピウスはアメリカへ渡り、ハーバード大学建築学科を創立した。ミース・ファンデル・ローエは良く手も動く職人型の建築家であり、グロピウスとは異なる種であるが、、アメリカ型文明の結晶である高層事務所ビルの名作シーグラム・ビルを作品として残した。
ドローイング4には、私の間近な未来、「窓」と「装飾」を描き込んだが、少し具体の説明が必要である。ドローイングに代えて小立体=彫刻の具体を示したい。
5図像は彫刻らしきの写真である。そして開放系技術圏に属する、木彫である。使用した木の材質(素材)は良くはわからない。何故ならば秋田県日本海沿岸の浜辺で収集した流木(漂流物)を使っているからだ。この彫刻は二つの部分からなっている。作者は私である。
作ったのは私だと表明するのは理由がある。工業製品である金属・ガラス、又はそれ等の組み合わせによる立体物は明らかに近代の産物だ。しかし木、石、土類を使用する彫刻は自然の産物の加工物であり、その意味では単純に、原始的加工物だとも呼べるだろう。
普通に彫刻と呼ぶは全て物質の加工品であり集合物である。
始まりの素材は土であったろう。やがて青銅による刃物が使われるようになり、土の造型は素材を石へと拡げ、木彫も又、刃物あっての物であり続けるは言うまでもない。
私の造形教育のはじまりは、まだあった小学「図画工作」および「家庭科」であった。私は保育園、幼稚園体験は全くない。家庭科は男女ともに習った。雑巾を縫ったり、パンツを縫ったりであった。振り返ってみれば1944年生れの私の物体愛好はアノ教育にあったのではないかと考える。小学校4年時の教育であり、残念ながら、それ以前からではない、つまり、私が「開放系技術」と殊更に言うは自身の内発からの思考ではないのだ。
教育の産物である、そして、あらゆる現代の芸術作品も又、そうである。芸術家らしきが生み出す品々も又、教育から生み出されている。内的想像力と呼ぶ仮空が芸術家の唯一の存在理由であり、他では無いが、コレハ嘘である。現代美術の祖はヨーロッパ・ルネサンスの人間中心主義(そう呼ばれた)である。それ以前は神や死者への装飾物であった。ラスコー、アルタミラの洞穴内壁画も又、儀式であったにちがいないのである。
産業革命による量産方式(繰り返し)がそれを崩したのである。ワルター・ベンヤミンの論「複製技術時代の芸術」は、その認識の一端を切り拓いた。ベンヤミンの論はハンス・ゼードルマイヤーの「中心の喪失」の上に積み重ねられていよう。
二千二十二年七月始め現在コロナウイルス感染は第七波が始まろうとしている、ウクライナ戦争も続いている。この天変地異と人為の入り混ぢった大きな変動は列島における平安時代末に酷似していよう。
当時の列島人(その内には私の祖先の人間も又、無名の民の一人として、いたと考えるが重要かと想う。誰もが平等に祖先を持つからだ)は、勿論、国家の枠を知らずにいた。それぞれの生活圏外を知らずにいたであろう。しかしながら全てがそうだったとは考えにくい。
何がしかの人間は、すでに朝鮮半島、中国大陸文明文化を断片として知っていた筈だ。
千二百十二年に記された鴨長明「方丈記」が在るがそれを示している。方丈記に示されているは典型的な列島人の都近くの住民の社会観念、精神である。天変地異の度々に、長明はその事件現場をのぞこうと出掛けている。
今の時代ではこの行動を批評と呼ぶ。長明は下級貴族に属したが、その官僚体制からはそれ程の恩恵を得ておらず、方丈記には坊主文化の影響があり、無常感の列島特有のセンチメンタリズム(短期に生まれ消滅する「死」に対する讃美に近い感性)が装飾もされているが、その根底はまぎれもなく、赤裸々な好奇心の形である。この裸形の批評の形は以降江戸時代末期近くの十返舎一九、鶴屋南北まで五百年程を歴史の伏流となり亡流として露はれる事がなかった。
平安時代末期の、都近くの住民は少なからずの坊主たちとの接触は日常に近くあったにちがいない。何故ならば死は万民に等しく訪れたし、坊主は死の儀礼らしきに等しく、礼の儀式として必要であったからで、これは今に変りは無いのである。
ドローイング①に示したのは祖父小田寿太の葬送の行列の記憶だ。岡山県吉井川沿いの小集落での光景である。一九五十年頃。列島では人は死ぬと土葬された。墓地法(埋葬法)が制定されたのが一九四八年であったから、まだ土葬は決して珍らしい風習ではなかった。樽棺内の祖父を墓山へと送る行列には私も交ぢっていた。大事にしてもらった祖父母であったから、田の畦道を行く葬列は強く記憶に残る。
葬列の先頭には白い布地ののぼりが立てられ大きく経文らしきが描かれていた。晩夏であった。風も無く音の記憶は無い。樽棺の内の祖父は屈葬の姿勢であった。生きて座すの姿勢である。人間生誕の胎児の姿をとらせて、再生を祈ったの説もある。
叔父二人が腰に荒縄を巻いた白装束に草鞋姿で棺をかついだ。
古代の古墳をそのままに村落共同体の墓地とした墓山の頂近くに掘られた穴に祖父は埋められた。何年かを経て遺体が完全に白骨化すると再び掘り出されて本葬された。
坊主の姿は一切無かったから、仏教伝来以前の葬祭儀礼の形も継承されていたにちがいない。
その光景を思い出しながらのドローイングは想いもかけずに枠外へと展開してしまった。比較的自由に枠外へと踏み出させたのは、自分の内に在ろうのアニミズムであると考えたい。アニミズムは古代人に在ったばかりではない。今を生きる現在進行途次でもある。そう考えるに至っているので、私の進行形途次であるアイデア「開放系技術(系)」の概要を示そうとする開放系技術圏の冒頭に絵図(ドローイング)として示した。
ドローイング②はネパール、カトマンドゥ盆地の光景である。ヒマラヤ山脈造山運動以降の地殻変動でカトマンドゥ盆地は出現した。日本列島に於ける最大級の地殻変動はフォッサマグナの出現として露われているが、その時期については細部は未知である。
動く巨大島であったインド亜大陸との衝突でヒマラヤ山脈は出現した。
ヒマラヤ山脈は勿論ヨーロッパ・アルプスをはるかに越える高度拡がりを所有するが、ゲーテが馬車でアルプスの一部を越えて、地中海すなわちヨーロッパ諸芸術の始原の地であるが、ゲーテはその旅(グランド・ツアーと呼ばれる)で初めて海の存在を知った。しかし、まだヒマラヤの在るを知らずにいた。ゲーテが住み暮したワイマールは盆地であり、その拡がり(地政学空間)はカトマンドゥ盆地に酷似する。
言う迄も無く、岡倉天心がヒマラヤ山脈の骨格を、東方の理想と呼んだ文化風土の骨格である。岡倉天心は地政学を基盤にする文化批評の先駆者であり、インド亜大陸では、ベンガル(インド東海岸)のタゴールの考えと地下水脈は通ぢていよう。タゴールはインド古来の細密画を愛したが、ベンガル・スクールの画家たちはむしろそれを避けた。抒情に富んだ朦朧体表現を良くする者がいた。岡倉天心が日本画界に持ち込もうとした朦朧体はその系である。
私のドローイングは、振り返れば極めて今風(日本の)に漫画的である。墓山、すなわちストゥーパが擬人化された塔を持ち、そこに描かれた目玉から光線が放射されている。
地中海諸都市の緯度は我々の体感を超えて高い。列島東北部北端と同じである。アジアモンスーン気候の高温湿潤が、その特異な抒情を強く構築させたのである。岡倉天心は良くその本質に接近していた。
ドローイング③はカトマンドゥ盆地最古とされるストゥパを持つ、スワヤンブナート寺院が大地震により、崩壊した現場のスケッチに手を加えたものだ。
ネパールに強い関心を持ち続けるは、都市部の集住体の姿形が、日本列島の大正期(一九一二年〜一九二六年)と酷似するからである。王宮殿も比較すれば(ヨーロッパ文化のそれ)貧しいモノで民家の姿形と違いは小さい。
スケッチは写生であり、そのままの現実を描いた。ヒンドゥー教仏教を問はず、ネパールの権力機構は小さい。山岳部には裸形の非近代が残存する。そしてヒマラヤ山脈の光輝がその貧しさを包み込み続ける。非近代の本質は貧しさの普遍である。その普遍は王宮や、権力の一端である宗教建築に投じられた金銭と民家の在り方が同質に近く露われることに在り、他では無い。ナチスドイツからの亡命者であったブルーノ・タウトがすでに指摘したところである。(日本の住宅)
亡命者は異常に覚めた眼を持たざるを得ない。その身の安全保障をいかなる国家も提供せぬからだ。四六時中の日常も、自身の身を自身で守らねばならぬ。ブルーノ・タウトが残した言説は今も強く日本列島住民に(特に知識人間に)残るが、その言説は亡命者のそれである事に留意せねばならぬ。
このスケッチにそれでも手はだいぶ加えた。当初スケッチは崩壊した文化遺産を復元する労働者の姿に感動して描いた。レジェの絵が好きだから、その影響の力もあったろう。しかし何かが不足していた。その不足を描き加えたが、描く力量が充分でなかった。専門職としての画家に非ずを痛感した。描く技術の不足を欠点としないは「開放系技術」の要めでもある。空間に溢れる風や、音や光の震えの実態が描き切れぬのだ。しかし、この限界こそが私そのものであると、観念して、他人に見てもらえる枠に納めようとの四苦八苦は重ねたのだから、仕方ないのである。私の描く技術の限界である。
「故郷」と題したドローイングである。
20年程も昔、カンボジア・プノンペンのウナロム寺院境内、ひろしまハウスの現場宿舎で時に暮らした。深夜屋外テラスの木製寝台に蚊帳を吊って眠った。犬の遠吠えがメコン河からの突風に運ばれて、日本が夢現つに視えた。
日本が遠い植民地国家であると直覚し、それは今に続く。日本に居るとわからぬのである。
コロナウイルス感染は21世紀の普遍である。世界共時体験としての空間は2001年のWTCビル消失で、我々は共有した。体験は更なる戦争(ウクライナ)とウイルス感染でより明確になりつつある。
すでに、日本人の呼称を私は好まない。民衆は皆、一定の知性を本能的に持つ、が巨大な難点が有る。健忘症だ。賢い筈なのに、皆共有体験をアッと言う間に汗の如くに洗い落とすのである。
私はうまく忘れることができぬ。
それで「故郷」と題した一点のドローイングを描いた。先祖様とのDNAの連続故にであるが、幸い身体にそれ程のダメージは負っていないから、あと10年位は生きられよう。生きても仕方ないと考えることは無い。非健忘症ではあるが鈍感症なのであろう、皆と一緒にならずとも一向に平気なのだ。
「物体」に関心を持ち続けたのが、私の唯一の特性である。こうして文字を安物の筆で記していても、そう考えるに至った。
「開放系技術論」は遅々として一向に終わりが視えぬ。言語能力の不足を嘆いても、すでに遅い。かろうじて在る私のキャリアの70才迄は建築物を中心に雑念を巡らせてきた。70才を過ぎて、建築物は要するに立体であると考える面白さに気づいた。それでドローイングと小立体(彫刻と呼ぶのが普通である)に取り組んでいる。
近頃ツバメの姿が滅法減った。ツバメ は鶴と同じの渡り鳥である。中国大陸の異変故によるのであろう。ツバメは鶴ほどには高空を飛ぶ身体能力が小さい。南方からの飛来にヒマラヤ山脈は越えられぬ。しかし、人間よりも余程高度な方向感覚を持つから、ヒマラヤの谷間や、中国、南アジアの海岸線近くを巡り、日本列島には飛来し続けた。歴史としては渡来人たちが海を渡ったよりも余程古いのである。
敬意を評して、日本列島福島に小さな野鳥公園の計画を始めようとしているが、これが日本列島での、私の終わりの計画になる。
その前に、ネパールでの、これは人間たちへの物の計画であるを一段落させたい。ネパールのヒマラヤ間近の山の学校では、子どもたちとツバメは実に仲が良い。山の学校で子供たちはツバメ と話すのである。何語で話すかは知らぬが双方共に交感する力を持つ。
渡り鳥は巨大な自然体系への予知能力を持つ。中国大陸の異変は、日本より以上の高速な近代化によるが本質である。
満州事変を近代の始まりにして、日本列島東北地方は不可解な差別が繰り返された。満蒙開拓団は満州から再び国策により福島県長野県を中心に自営を旨とする農地開発に振り向けられた。福島第一原発事故(人災である)により再び福島の地を離れようとする人々も決して少なくない。全てが国策である。実利に敏感なのは人間の普遍であり、これを修正するは不可能である。
近代技術の本質はその平準化にあった。前近代の歴史、特に建築史は西洋宗教建築史であり、宗教が権力の象徴でもあったから、これは仕方無い合理でもあった。
貧しさの克服が技術の平準化の理念であり、それは今も何変わりない。
情報消費社会の本質は地球規模での、技術の平準化に尽きる。その為の小さな技術の体系化、すなわち平準化の道具としての意味を再考するが開放系術論である。示し始めようとする「開放系技術圏」の映像はその又、前段階の道具である。映像が時に文字よりも伝わりやすいの考えからでもある。はじまりのドローイングの解説とする。
2022年7月14日 石山修武
ダルマについて ー造形論
この小論は当初「ダルマについて」と題したキッチュ論として書き始めた。
しかしタイトルの座りがいかにも宜しくない。ダルマであるから座りは良いはずだが、わたくしの内の座りが悪い。
不安定は、ある種の理想として自分には在った。グラグラしているは不自由な安定よりも余程良いの、突き詰めれば無政府状態社会への、これは夢でしかあるまい。夢に、悪夢、良夢の仕分けは出来ない。夢は仕方なく見てしまうものだからである。
2019年にネパール、パタン市、マハブッダ地区、最古であるらしい古井戸の掃除作業をした。日本列島からは幾多りかの友人知己が参加してくれた。いずれ本論で紹介することになるだおる。一週間ほどの小集団の作業ではあったが、自分には重要な作業であった。
コロナ事変が世界で普遍としての力を露わす寸前の事ではあった。今はウクライナでの戦争渦中である。大事が無いと、人は愚かであるから、どうやら問題らしきの核心は視えぬものである。
パタン市の古井戸掃除にはもちろん、少人数ではあったがカトマンドゥ大学の教師、学生たちの参加も得た。また、カタリ族のジュニー・シェルチャンも現れた。マハブッダ地区での作業であり、マハブッダは沢山のブッダの意味である。地区は世界遺産と格付けされる文化財の密集地帯であり、同名の石造古建築(寺院)が在る。
カトマンドゥ盆地は日本列島全土に比して小建築群建設の法律である建築法規はあって無しの状態であるが、倫理として、寺院の尖塔よりも高度を越えてはならぬがあった。
しかしながら、マハブッダ寺院周辺の民家は、全て複合集合住宅である点では東京の戸建て小住散在の状態よりも、すぐれてはいる。が、(ネワール様式の都市住居は全て集住形式であることにより)その倫理はどうやら怪しいものになりつつある現実がある。人口の都市部への集中はここにも厳然としてあるからだ。
マハブッダテンプルの尖塔は、今はネワール様式集合住宅の高さと、かろうじて同等であり、それを越えようとする商業施設も出現している。
自分自身は仏教徒ではない。パスポートは唯一の国籍日本のものである。パスポートくらい不自由な所持品はないのは知るが、捨てるほどの度胸はないのである。生きる方便であり、国籍がないと年金支給も無いのである。スイスと呼ぶ得体の知れない国家があり、ヨーロッパアルプス域に属する風光明美であるが、その核はスイス銀行と呼ぶ二つの銀行だ。よく知られるごとくにマネーロンダリングの井戸である。プーチン、ロシア現大統領も個人資産はおそらくはスイス銀行であろう。
マハブッダ地区での古井戸掃除は複数民族でなした。宗教もキリスト教とを交え、ネパールのイスラム教徒モスクにも声を掛けたが、振り返るに、このことはよかった。
この造形論、ダルマについてはキッチュについて考えるを脱してのより、広くを目指すものとはしたい。
キッチュ、グロテスクはヨーロッパ人の造語であり、歴然とした差別観念が底にある。明治維新も150年の小史を経た。その格差社会文化にも飽きたのだ。飽きずにいる人々の多さは知る。でも戦後民主主義形式もいささか怪しいものになっている現実である。
マハブッダ地区での古井戸掃除作業はこれは、都市再生の具体を表現したものであった。パタン市の市民たちの少数も「わざわざ外国から来てくれて、実に恥ずかしい」があった。しかし、外まで出かけねば掃除もできぬ自分もまた、実に恥ずかしい者ではあったのだ、と今は知るのである。
その恥もまた、やってみて初めて知るのだ。そして、やってみるのに、自分にはネパールにまで出かける必要があったのだ。
それゆえに、ダルマ造形論は始まりの章をマハブッダ地区での古井戸掃除作業を振り返るものとする。すなわち都市再生論に通じると考えるからだ。
でも、都市再生の象徴言語は、始まりには捨てる。恥ずかしいからである。情報の絵空事でもある現実を我々はすでに知る。
しかしながら時間をつぶして考えるに足るは、どうやら絵空事と触れられる物体との表面の薄さに酷似した薄さの内にある。
だから、まずは順序として、手も足もない、だが人の似姿である形態から入りたい。
石の、石ころの重さにたどり着けるかは、五里霧中である。
この造形論は同時に進めている「開放系技術論」を補完するものである。
進めていく内に、どちらが主であり補完するの従になるかは知らない。進めてみなければわからない。
2022年3月21日
石山修武
宮沢賢治 愛用のハンマーのスケッチ解説
個人が愛用した道具は、特に道具の使用目的がその人間が探求心を集中したモノに関するは、独特なアニミズムの気配が在る。石っ子賢ちゃんと呼ばれた賢治の鉱物愛好は良く知られる。このハンマーの重量は小柄な賢治には過ぎていようが、どうじても賢治は手にしたかったにちがいない。恐らくは外国製のものだろう、良く調べて上京の折に特別な場所で入手したのである。千万言の賢治創作群よりも深く賢治の「物」に対する気持ちの動きのエネルギーを知るのだ。
この物体に対する気持ちの過剰さ、その内に入り込みたい如くをアニミズムと呼ぶ。ハンマーをふるう賢治の息遣いやら、恍惚までもが伝わってくる、「物」の力である。
3月24日 石山修武
活字と手文字
映画監督沖島勲が柄谷行人の初期からの著作をほぼ全て蔵書として所有した、それが何故か手許に移動してきたので全て読んだ。中上健次は読みやすかったし、分量も少なかったから読んだ。それでセリーヌも読んだ。
ジョージ・オーウェルもヴァン・ヴォークトの「新しい人類スワン」はSF古典であり、双方共に今のコロナ・ウィルス事変の世界普遍を、すでに予言していた。それ故計りではあるまいが村上春樹は2、3かじったが読めなくなった。
図らずも予言と書いたが、どうしたって良かろう著作には全てシャーマンの呪文の如くが深く内に在る。その典型が岡本太郎である。岡本太郎はパリ時代に少なからずの知識人たちを直接体験した。それ以上に岡本太郎は書く速力が思考のそれに追いつかなかったから、パートナーの口述筆記に頼るを好んだのである。
つい最近までワーマールのエレファント・ホテルのバルコニーにはアドルフ・ヒトラーの演説する像が彫刻として残されていた。今は撤去されている。ヒトラーはホテル前の広場に集まった群衆を前にしての演説を好んだ。広場は一万人程がキャパシティである。彼の声は高く、良く飛んだからマイクを使わずとも行き渡ったのだろう。あれくらいのスケールがヒトラーには適していた。ハイデッガーが初期ナチズムに共感を寄せたのはそれ故であったと考えたいが、まだ解らぬ。あまりにも人を動員し過ぎた。
余りにも読まれ過ぎる著作も又、同様に怪しい。読者も又全て群をなすを好むからだ。
自分には教師時代が在り、当時の最大級の関心事は大学院ゼミの動員数であった。たった一人でもイイヤと悟ったのは退職時であった。教師も又、愚者であるから、集団をなす、他との競争から自由ではない。競争の眼に視えやすいは動員数である。つまり観客数を測るに同じであり、他ではない。
最近間近になってからではあるが日報を時に読み直す。自分で自分を値踏するのを知る、つまり批評している。それが積み重なると日報が日報らしからぬ体を帯びてくる。
粗悪に過ぎる記憶らしきは少しだけだが改良されているようだ。手文字にすると、どうしても読みやすい文字を心がけるは自然である。だからと言って全て手文字で乗り切ろうとも思わない。時に活字に直すの労を他にゆだねるは、これが最小限の読者であろうと考えるばかりではない。,
フロイスの日本史に書かれた人々の大半は読み書きの出来た侍階級であると批判した内村鑑三、新島襄等がいたようである。商人の多くは文字を解したろうし、百姓も同じだったやも知れぬ。文句つけるは批評であるが批評者にも階層性を帯びざるを得ぬのだ。
北京冬季オリンピックも又、東京オリンピック同様の無観客会場で開催されている。選手はコレも演技者である。芸人と何変わりはない。参加することに意義があると考える者は一人もいないだろう。少なからずの金がかけられて選手として育成されるからだ。すでに競争を経て選ばれている。スポーツは演戯でもある。演技と演戯は紙一重の境界線しか持ち得ない。健全な精神とやらは、昔も今も何処にも、誰にも持たぬのであり、コレ又、一種の競争のあらわれであろう。
活字と手文字をとり交ぜるのは、コレも又演戯である。毎日の一汁一菜では困るのである。禅坊主の、しかも高僧と呼び呼ばれる位怪しい者はいない。不立文字って何だ?文字は平面に描かれた姿形であり、それは量を描かねばわからないのである。
キュビズムの絵画も又、今、複製で体験するに実につまらぬモノである。近代絵画の歴史の一端を活字で読んで、それで初めて、そうであったかと知る。知らぬとわからんのである。
この3点のスケッチで重要だと自覚するは最初の大きい庭の計画案スケッチである。
何故ならば、現実の小村を庭の内に入れ込みたいと考えた事にある。
庭は庭として独立させては深い意味を得るは無い。山の姿を借景したりには、何の驚きもすでに無い。名作として「修学院離宮」があり、近代においては、イサム・ノグチの数々がある。駄作を付け加えるのは愚である。
それ故に庭の中に村の現実をそのママ置こうと考えた。日本列島では不可能であるが、中国大陸ではわずかではあろうが可能性が在る。
農村が都市を包囲するではなく、更に農村の現実を主役とする。庭園の核とし、心臓とする。この考えには中国共産党は同意せざるを得まい。これも又、幸いにして依頼主は土地の選定に苦労しているようである。美しい山水を借り(借景するのではなく、農村の現実をドキュメントすれば良い。)始まりのスケッチの大意である。
2022年1月25日 石山修武
「山の姿 」 表紙解説
第二の故郷である伊豆西海岸、松崎町での”なまこ壁通り”計画に想いを巡らせる内に、考えは飛んだ。松崎町では依田敬一元町長の許で町の景観作りんい取組みもした。依田敬一は北海道開拓の祖である依田勉三の意を継ごうの英才であった。その事は又、別に記す。
海と山の境界線に位置する松崎町は図に示す牛原山を”うしろ山”として持つ。人々の生活の背景としての”うしろ”である。
それ故に景観作りは牛原山の姿を、その背景に据えるを旨とした。
山の姿が人々の意識、無意識の基準に在ると考えざるを得なかった。
今、コロナ事変下で鎖国状況の最中である。アジアの竜骨であるヒマラヤ内院、ツクチェには出掛けられぬ。ツクチェの神の山、ブルギリと牛原山、そして大和三山(三輪山)の山の姿が一つながりに浮かび上がった。
7月7日
石山修武
岡本太郎「明日の神話」コロナ事変下で
WTCビル(NY)のイスラム原理主義者達による消失事件は当時のブッシュJr.大統領が「コレは戦争である」と述べたが、それに続く数々の大災害の連続、コレには福島第一原発の消失も含まれよう。コレもほぼ戦争に相似する。
今(2021年春)、渋谷駅コンコースに、メキシコから帰還した「明日の神話」は、大阪千里の太陽の塔と共に、人々が注視することは無いが、冷然として在り続ける。何がそう在らしめたのだろうか?
簡単な答えはあり得ようもないが、やはり子供達、わたくしの様な高齢者も包含する膨大な人々の無意識の集合がそうさせていると、考えるのが一番、それこそ明日の神話なのではあるまいか。希望はまだ在るのだ。
2021年春 石山修武
1995年の世田谷村計画について図版を添えて記しておく。
数少ないが実物として実現した物体として、開放系技術の一断面が世田谷村と名付けて在る。理論と実践の二分表現は嘘である。双方は不即不離であり、分けられようがない。
地震に即せば、書き文字とスケッチの一体化が開放系技術論であり、他ではあり得ぬのである。
文字がすでに手描き文字であるからには一瞬の表現である。一瞬は自己内と世界現実が交差する。それゆえに1995年に得たスケッチと2022年2月に得たスケッチは同類である。この二点のスケッチの距離の内に進行中の論は在る。距離は空間であり、時間でもある。
1995年のスケッチは現実に物体としてあらしめようを開放系技術と意識し始めた時のものであり、仮想である。2022年のスケッチは、すでにある森の一部である樹木を描いた写実であり、実相だ。すなわち27年の時間が内で経過した過程が現れている。
樹木を描いたが、その背景の造形物との重なりを面白いと考えたからだ。なぜに面白いと考えたかは、精確にはコレもほぼ同時期に書き始め、コンピューターに記憶させた日報(日記)を全て読み直せば手掛かりは得られようが、わからぬママであろう事だけがわかるのだ。
要するに視点の移動が得る実相であり、神秘としかいい得ようがない。神秘は自身の内の、たかが手文字群と、スケッチ群の内にもある。神秘を探るは専門職としての宗教家の本来の機能であり、労働の目的であるが覚つかぬ。専門職としても喰う必要があるからだ。世界人口の増大に伴い、当然ではあるが専門職人口も計測不能に増加した。
無数に近くの専門職人口があり、非専門職人口は減少する計りである。
非専門職はその本質を言うに困難である。
歴史の内では日本列島では百姓であるが、さらには近代の女性の本質近くでもあろう。日本列島は殊更に特殊極まる地政史の内にあるので世界普遍の尺度は得にくい。モノみな外から来た。人も外からの渡来者が古代より大半であった。
それゆえの第三章朝鮮半島演劇史探訪だが、二、三の糸口を得るに過ぎぬ。ただ演劇芸能の一部が開放系技術の一端重要部を構築するだろう事まではわかった。 他との協働作業を幾多りかのこれも又、道筋が必要で進めようとするが、行方は遠いの距離だけがわかり始めてはいる。
「絵本づくり」まで始めた。子供そして具体として産むの女性を考える糸口であり、入口に過ぎぬままに終わるのだが、それは仕方ないのである。誰かに委ねるしかない。スケッチも手描き文字も描き続けるが、いずれ手は動かぬも知る。これも仕方ないのである。この連結のための小断片は必要であるから描いている。他の手を借りて文字化するは、少しでも読みやすいからである。文字の平準化、すなわち俗な民主化である。仕方ない。
2022年3月2日
無題小文
左は再び書きたいと考えている磯崎新小論扉絵、右は作っても良いか、の木彫小品である。
人物小文は三遍を予定する。佐藤健、鈴木博之、磯崎新である。前二者は故人であり、他は今も在る。三名並べて、ようやくにして書けようと気付いた。
右図は木彫とする。口穴から飛び出ようのハエ、トンボは木では作れないのでカトマンドゥ盆地パタンの金属職人に依頼する。写真にしてコレも扉とする。2月28日に一人息子の佐藤論に会う算段するが、生原稿の一部は手渡したい。鈴木博之は建築史家であり実作物作品は少ない。が、伊豆半島西海岸松崎町近藤邸中庭に面しての、地区会所が在る。佐藤健とはその倉の一つを共有した時期があった。春には訪ねて、再び個人ギャラリーとして再生の手続きを始める。
左図の磯崎新は日本の花札の坊主である。山越えの落人なのか、空は紅い。途が一つ螺旋状に登るか、降りるかは見えない。入り口は背面に在るのか知らぬ。コレワ、実体を作れぬから絵として残す。
1月13日 石山修武
2021年の小立体作品である、人面らしきを角材に刻んだ。出来不出来はともかく、実に面白かった。角材の断片は前橋の一人大工市根井さんが世田谷村の諸処の木工事での残材を使用した。市根井さんは逃げ寸法を許さぬ大工で、それゆえであろう一人仕事を好んだ。今現在の日本の大工がどれ程に伝統と呼び得る技能所持者であるかはあやういだろう。ただ彼は一人大工特有の各種道具は完全に私有であり、新しい寸法、水準測定の電子器具の進歩らしきには敏感であった。つまり、自身の手の内に育てよう勘らしきにたよるは避ける嫌いがあった。工事残材断片にもそれは残されていた。
この小さい標準化の結晶体を壊すのが、彫るの楽しみでもあった。
一方の流木は姿形はあるけれど、潮流の決して小さくは無い時間での各種波の力による加工で、小断片と言えども一切の同一が無い。標準化からは完全に近く自由である。しかしながら裸形の自由に対面すると、その美に感動はしても、不安も同時に持つのである。大げさを言う勝手は年齢ゆえに、すでに自由である。製作者は鑑賞者だけに物足りぬ種族でもある。
それゆえに少しでも手を加えるのだ。手を加えるは何に向けての事であるか、と考えれば、コレは自身の美意識の不安定に同一の基準を視ようとするからである。
内的同一、つまりは標準化、更には連続を視たいゆえである。
標準化は工業化によるよりも深い尺度があると考えたい。
追悼 馬場璋造元新建築編集長
建築ジャーナリズムの意味するモノ、の小文が休刊を続ける国際建築の最終号に掲載されて久しい。建築史家渡辺保忠が寄稿していた。
論旨はジャーナリズムは寄稿者、読者、編集者の諸関係により成り立つであった。馬場璋造はジャーナリズム(建築メディア)を、広報、建築物、編集者と把握した。新建築の広報部門は強く、その力への嗅覚が馬場璋造の真骨頂であった。
川添登は村野藤吾評価を巡り、丹下健三を当時の軸とする日本近代建築の眼に視えやすい構造に接近した。川添登は少しばかり性急であったのだ。アレも又、ジャーナリズムの性格の一端であった。と、今は知る。
川添登の性急さを間近に視た馬場璋造はリアリストとして新建築編集の傾きを修正した。
「建築設計・施工の一体化を目指す」がその中枢である。アカデミーからは村松貞次郎がイデオローグ構築を試みた。
建築史家は理念を持たざるを得ない。村松貞次郎の言説は現実の力を読み解いたモノであり、如何にも日本的知識人の限界をも示していた。敢えて小さなと言うが巨大建築論争はその総編であった。
あの小論争は、あくまでオフィスビルを中心としたモノである。
今、現在を眺めるにオフィスビル建造の時代はすでに終焉した。2011年N.Y.・WTCオフィスビルが焼失したのが、その象徴でもあった。
馬場璋造は編集者として、産業構造の実体を良く視ていた。ジャーナリズムを観察者の射程内でほぼ正確に把握したのである。
問題はコレカラの未来であり、他では無い。今、現在ほどジャーナリズムの極小たるべき復権が望まれる時は無いのである。
2021年12月23日
石山修武
やはり冬になったな、と知るは待ち合い室の、特に女性の姿をスケッチして身近にわかる。東京駅の東北新幹線待ち合い室の人々は皆、灰黒の色の群れだ。女性はより空気に敏感だから、周りに融け込もうとするのだろう。冬の色模様が基調である。趣味の良い人はマスクを除いて、全て黒の色調のグラデーションである。髪の毛色や、まとめの形にも合わせているのだろう。その微妙な組み合わせが絶妙だ。勾玉の如くの、あるいは小馬の尾みたいな形は、芯を入れているのじゃないかと思うくらいに硬質である。
花巻駅では鮮やかに色めく老婆に出会った。正面近くでスケッチするのは実に勇気がいるが、老婆はスマホに夢中で、わたくしごときは眼中にない。それが幸いして色コンテで彩色までした。布地の
細部までは描ききれずにしまったが、動く絵画の如くであった。
良いモノに出会えたのである。
対極の二人。
何故?神社を考えようとするか。「住宅」ではなく。又、「近代芸術」の類でも無い。毒にも薬にもなりそうにないそれでも実体であるモノを。
毒にも薬にもなりそうに無いと書いて、今更言うまでもないと更に気付いた。戦後天皇は毒にも薬にもならぬ空気の如くの存在である「神社」同様だ。小祠の類を算入すれば、計算不可能程に無数在る。「山」の数も算定できぬ程に無数であり、「川」の数も数える事が不可能である。小に名がないからだ。命名されずの数が巨大である。神社を考えるに「吉備津神社」から入ろうとしている。明らかに私の異形好みからである。しかし異形の数は少ない。少ないから異形なのである。77歳にもなって、これでは無駄死になる可能大である。自己満足だけは欲しいのである。しかし今更、自分の骨格を否定するまでの勇気はない。
何故「吉備津神社」から入ろうとしたか、から入り直したい。
何故に自身の家を「世田谷村」と名付けたかを、あいまいにしてきた。コレはツケが廻ってきたのである。物体としての「住宅」と「神社」の関係は必ず在る。辿り着けそうにない予感大であるが、試みる。
神社が日本列島に、死者の数程にとは言わぬが、巨大数として在るに近い状態は幸いにして知る。インドネシア、バリ島の住居であり、神社らしき、小祠群の異常、その無数に近くの状態として知るからだ。
今、インドネシアは人口三億ほど。いずれはGDPは日本を抜くのであろう。興味津々たる国家でもある。日本国と同様に群島からなり、大陸は持たぬ。
柳田國男の海上の道は特定不可能であるが想像するに、道の辿り着く先は南洋の島々である。まだ柳田國男は宗教学における原アニミズムであるマナを知らなかったろう。万葉古語研究者である小西進の言ではマナは日本語の「モノ」の語源であるようだ。マナの名を持つ物体あるいは宗教的存在はミクロネシアにとどまらずヒマラヤ山脈の西端に近い、インド領チベット、ラダック地方にも散在している。アジア圏内陸部の海の記憶であろうとしか、今は言えぬ。
この現実が、その波及力こそが神社の実体であろう。
インドネシア、バリ島へは日本における民族的人類学らしきの流行の尻馬に乗って出掛けた。偶然が重なり、バリ島文化の中心地の近くの集落にたどり着いた。ウブドである。隣りがブリアタン村。天の川の星の一つが落ちてきたの神話があり、でっかい銅製のドラ(太鼓)とも鏡ともつかぬ円形の平板が飾られてあった。もちろん、星で在るはずもない。しかし歴然たる視覚メディアであった。 ウブドはマンダラ翁の生家に宿泊した。しばらくして、チョコルダ・グデ・パルタの家に移った。往時のウブド領主チョコルダ・スガワティー一族だろう。2年ほど前にマンダラ翁は亡くなり、バリ島最大級の祭儀がなされたようであった。その写真は見た。息子の一人がバグース・マンダラ、バリ随一の踊り手(ダンサー)であった。何度か通ううちにマンダラがバリ島の踊り、楽器、楽曲を中心とする、いわばバリ民俗歌舞近代の総合的な変革者であり、天才的な組織者でもあった、を知ったのである。
近代のバリ観光の世界的波及は、いわばマンダラが組織した民俗的断片の再組織、つまりは近代化の産物でもある。マンダラの楽団及び歌舞団は1930年代のバリ万博を始まりにアメリカ国のデューク・エリントン楽団と同じくして世界を巡行したのであった。近代の産物でもあり、民族文化の再組織のそれは形であった。
日本知識人団(山口昌男、多木浩二、石川浩たち)はそれを知らずにバリへと出掛けたようである。多木浩二はしばらくして、近代天皇論として詳論を残しているは、流石である。バリ島の芸能及びより多くは集落を体験して、天皇小論へと飛び火したのであろう。明治天皇の座の位置高さからだけでは天皇の近代の問題へつながり得るはずもない。
ウブドのマンダラの民族芸能の近代化がバリ島観光の量的拡大の図であろうが、近代の再組織は古形の素がなくしては成立しない。
その古形の素の最大はアグン山を唯一の絶対象徴とする島の地形から生まれたと思われる。アグン山は小さな島の東北部にあり、富士山よりも少し低い。
熱帯下で降雪もあり得ず、キリマンジャロの雪下の虎(トラ)のファンタジーも生み得ない。日本列島は糸井川富士川のフォッサマグナラインでバキッとほぼ急角度(平面として)に曲がった火山列島である。長く帯状に火山が群居する。
比較するにバリ島は小さく点状であり休火山であるアグン山がほぼ独立して在る。それゆえに島の文化(生活)は方向性が強く、集約象徴性を帯びた。アグン山へのオリエンテーションを唯一の「聖」とし、他、つまり「海」の方向は全て「死」(ケガレ)である。
集落の入り、配列も全てがそれに従う。寺院と名乗る神社の階層、配置の形式の原則性は保持されやすく、驚くべきは個々の住居にまで貫徹されている。アグン山の方向に母屋というハウス・テンプル(先祖の墓)が配置され海側に俗な機能が配される。熱帯地方であるから住居は風を考慮して散在群体形式である。奥の大きさ、つまりは人口数であろうが、人口総数の近代化による爆発的増大はなかった。非常に多い魔術らしきの大半は男女間官能機微を巡るである。その占いにブラック、ホワイトと区分けされた占い師が生計を立てていた。そんなことに熱中しやすい人々であったのだ。七毛作があったとされ、多くが長命であり、寿命三百歳の存在の言い伝えさえある。色好みの老子がウヨウヨしたのである。芸能の基本はそれでもあるから、赤道直下の自然に、火山の熱がミックスしたのである。キングコングまがいの魔物バロンや魔女ランダが入り乱れるが近代芸能の基本である。街道沿いの基本は帯状の住戸配列、つまりパレード状であるがランダと呼ぶ魔女らしきが横切るらしき十字路まである。つまり儀礼儀式化された演劇集落なのでもある。
アグン山、一点集約型演劇島でもあるが、その見方自体が余りにヨーロッパ的形式の内にあるの批判もある。日本列島のそれと違うように見えるのは、その集約度の濃密であり、個々の住居の散逸的抽象度の高さである。
日本神話のイザナミ、イザナギの男女神の交接を象徴する国産みの神話らしきは無い。アグン山への方向が全て抽象化する。大王権力の集中なくして、島民の生活の安穏はあり得たのである。
世界各地で、実に多くの日本製映像を見た。「アルプスの少女ハイジ」「おしん」が双璧である。
たしか、ウブドでも「おしん」は見た。雪景色は別として「おしん」の物語背景の集落やら、生活道具やらはバリ島近代と似ていた。チョコルダも「いいドラマである」と分厚い藁屋根の家でTVを見ていた。描かれた母娘のドラマの背景、特に住居や集落の風景に安心感と共感を持ったのであろう。
「おしん」映像の原作者は、「コレは是非とも天皇に見てもらいたい」と言ったそうであるが、真偽は不明である。女性作家にしか言えぬ言である、と考えたが映像からの印象とその言らしきの距離は遠いのである。「おしん」の映像背景の貧しさの中の美は、アレはノスタルジーのあいまいさに酷似していたと考えるのが安心である。
我々が家や集落の姿に求めるのは「安心」であり、TV映像自体に電気釜の便利がそれを仲介するだけである。
「神社」を考えるに、バリ島の家、そして集落の断片を使うは、実はバリの近代らしきに日本のそれとは違う何者かを視ようとしているからである。
バリ島の今の現実はイスラム爆破テロ(バリ、デンパサール)に代表される如くに、わたくしが「コスモロジーの破壊」を視ようとした30年ほども昔とは大きく変化しているようだ。
ウブド間近の集落テガスにおける草葺き屋根がブリキ、トタン屋根に変わる有様のサーヴェイはついにまとめられずに終わった。再び試みる時間も残っていない。
バリ集落の藁屋根の連続にコスモロジーを視ようとし、それが破綻し近代のブリキ、トタンに代替されるは世界の何処にでもある普遍の近代である。
「女性がワコールの下着を着けるようになって、男もスポンジサンダルを履くようになり、どうやらバリの舞踏も芸能も駄目になったようですね」
多木浩二が言い残した印象的な言葉ではある。芸術的表現にコンピュータが、すなわち技術が正面から入り込むに似た状態に近く、前近代へのノスタルジーに由縁しよう。
再生、修理修繕が創作の重要な主題として表面化している。フィクションが現実を超えていた時代もたしかにあった。でも、それに近くに影の如くの別の小径がありはしないか?
今に残り続ける日本式の神社は何者かの裸形の、つまり裸体状ではない。
むしろ様々な意匠をまとった混交、すなわち、かつて近代主義者たちが忌み嫌っていた折衷への意欲が露出した結果としての、物体の表れではないか?
それがわかりやすく伝達できよう「神社」の現実であり、本質である。
そう考えぬと、この様式の強い持続力は説明できぬ。
以下、
1、吉備津神社
2、山の姿、各論集
3、道の姿、各論集
4、太陽の塔は何故重要文化財にならぬのか?
5、岡本太郎の「お化け都市」
と続ける予定だけれど、力及ばず変更もするだろう。が、しばらくは努力してみる。
現在進行中の窟院工事現場が万が一にも在れば、何を置いても駆けつけたい。例え、それがヒマラヤ奥地であったとしても。
デカン高原のエローラ窟院群を全て見て回るのは酷である。暗闇に入り込んだり、凄惨な外の陽光の中へ出たりを繰り返す。その温度差が体力を消耗させる。
我々、アジアモンスーン下の柔らかい気候下に暮らし続けた民族には想像不可である。「インドの旅」の堀田善衛はその冒頭でホテルの床掃除する人を描写しながら、カーストの非合理へと考えを進めた。床提示に技術と呼ぶ必要なかろうが、労働の持続だけは要する。小さな手ぼうきで床を掃き続ける繰り返し、これも意思であるは必要とされる。 デビット・リーンの「インドの旅」はインドの真昼の灼熱と、夕闇から深夜にかけての闇の始まりの愉楽とを描いたモノであった。映画では窟院状の洞穴で、目くるめく狂気に襲われ、外の陽光に飛び出る情景が撮られた。あれはヨーロッパ人のインド植民地支配、東インド会社の非合理の極みをきわめたヨーロッパ人のヨーロッパ近代そのものを作り出した大きな礎であるインド収奪の原罪から描かれただけのモノではない。アラビアのロレンスを撮った人間である。より深くヨーロッパ人のすなわち自身の内なる身体と想像力の関係について考えを巡らせたのである。長々と続く法廷場面はヨーロッパ文化の象徴として描かれた。法廷は内であり、現実は外であった。
堀田善衛はインドの窟院体験を、アジアの凹型の思想らしきとして描写した。その考えは若い自分のアジアへの旅の一因でもあった。
ようやく後期高齢者の今となり、コロナ事変のパンデミック渦中の、白昼の洞穴状への閉じこもり生活を続け、ソロソロ、アジアの凹型からは卒業できるかと考えるにいたり、それで再びの真昼の銀河鉄道となったのである。 二つの「インドの旅」は裏表であった。アラビアのロレンスの最期は主人公がBMWオートバイでイギリスの田園風景を駆け、人影と衝突、空中に放り出されるで終わった。
放り出されたロレンスはデービッド・リーン自身でもあったのだろう。「近代」の祖型はイギリス産業革命であった。日本への近代の至来は大きな時差があった。堀田善衛のインドの旅はその時差から生み出された。 一部の映像はよく文学を越えることがある。言葉(文字)で書き尽くせぬ部分は、宙に放り投げてしまえるからである。俗に呼ぶバーチャル・リアリティの大方を自分は信用しない。その立場に身を置くことだけは決めている。
スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」はアーサー・C・クラークの原作を超えていた。でも、その映像は現実の2001年9月11日のN.Y.でも事件報道には届かず、WTCビル崩壊の噴煙の中に埋没している。あれから20年経った。同時多発テロはパンデミクスとなり、諸災害、事件の報道は途切れることなく連続している。
この連続は情報化時代(第二次産業革命)以前にも在ったのだろう。伝わらなかっただけだ。パンデミクスは数限りなく生まれ続ける人災の一つである。
窟院をそれでも書くは「時間」を考えたいからだ。
デイビッド・リーンも堀田善衛も、すなわち洋の東西を問わず、窟院の何か底鳴りの音を聴いたのである。それを彼等は伝えたかった。双方ともにインド窟院の廃墟を視、体験しての感慨を表現した。でも窟院を掘り上げるのには実に長い時間を要するのである。その長い時間は近代の時間とは不連続の時間でもある。
インド最古と言われる集落(文化)ラジギール間近の原始に近い窟院に線刻された図像である。とても全てとは言えぬが、多くの窟院を若い頃から訪ねて廻った。
窟院は岩山を掘って作られる。構築(コンストラクション)とは別系の、物体制作の原理を持つ。若い頃から度々訪ねているエローラ窟院群は西に開口を向けて掘られている。その中心はカイラーサ神殿だ。岩山を露天掘り状に掘鑿した。どうやら仏教窟院群であるアジャンタの其れ等と同様に、隊商ルートに間近で商人たちの巨大な寄進によって資金がまかなわれた。宗教心だけで巨大仕事がなし得よう筈はない。カイラーサは古代より「世界の中心の山」と伝えられ続けた。ヒマラヤ山脈西端の姿が美しい山である。高度は6000メートル級であるから、ヒマラヤ山群ではそれほど高くはない。その姿の美しさが象徴の力として畏敬され続けたのである。
エローラ窟院で、自分が一番心惹かれ続けたのは、しかし、カイラーサ神殿ばかりではない。多くの窟院群の一番外れに掘られた、恐らくは工人達(石彫工)の小さな洞穴であった。その大半は貧しく装飾も施されずに素貧である。でも岩の床に少し段差を設けて寝台(石の)も彫られている。
人間のギリギリの工夫である。入り口は小さく今は草々にまぎれている。
ラジギールのこの窟院もまた、工人とも隠者ともつかぬ人々が彫ったモノであろう。岩の内は寝るだけだった。飲み食い、そして排泄は外でした。岩肌に差掛け木材の構築跡が残されている。
内は暗がりの内で、異常な精妙さで「図像」が刻印されている。車輪と、食べ物を運ぶ人像がある。間近には世界遺産として指定される長い二条の轍状の跡があるが、その由縁は解明されていない様だ。ローマ街道の轍跡とは歴然と違うのだ。何処へ続くのやも知れぬ。西暦0年程に作られた窟院であり、図像刻印である。インド神話に近い図像ではないかと考えるが。その先はまだわからぬ。
このドローイングを真昼の銀河鉄道のタイトルを付ける日付の区切りとする。2003年の9月22日の日付がある。
実は、ネパール、カトマンドゥ盆地のパタン市の裏通りの文房具屋で、中国製の子供達への美術工芸教育の道具としての小ワッペン群を発見して、驚いた。それを使ったドローイング(大きいのはM氏蔵)が手許にあるので探したが多くに埋もれて発掘できなかった。
ママヨ説明抜きでズルズルとやり過ごすかとも考えたけれど、我ながらそれが出来ず、この小ドローイングを再発見したのである。二の次の発見かとも考えたが、良く良く想えば、この小ドローイングの方が適しているようだ。子供の文房具で絵をやる、の固苦しい「開放系技術」思考からも自由にドロップアウトしている。マアあの子供のワッペン仕様の奴の方がわたくしなりの原理には近いが、アレをさらに探す時間は惜しいのである。この惜しさは77歳の役得である。コレは手放さぬが、6月6日からの世田谷、土間ギャラリー展に出す。
山の姿9-1
山の姿8
ようやくにして、私の全体の予定テーブル(時間割)と、グチャグチャ入り組んでもいた現実下の考えとに連結の径が視えてきた。実にささいな事からであった。
この事を記して、福島他の計画をすすめる。ネパールでの開放系技術圏の仕事は、ヒマラヤ内院での計画は先に送らざるを得ぬは、すでに数ヶ月前に決めた。コロナ事変の3年間の時間経過がそうさせた。
カトマンドゥ盆地のパタン市、マハブッダ地区での仕事を第一に、それ故に着手する。
この仕事は俗に呼ぶA棟B棟C棟のブロックに分かれたモノである。全て、わかりやすく言えば屋上の計画である。5階建のネワール様式を持つ。それでも初期近代建築の、複雑に入り組んだネワール様式都市の数ブロックを連結して、都市の一部を再生させる仕事だ。
私のキャリアで「開放系技術圏」と呼び得るのは2系列、それでも存在する「開拓者の家」「幻庵」等の小住宅の仕事であり、この系は、今コレを書く「世田谷村
」に連結する、一方に「松崎町」「唐桑」「気仙沼」等二系列は分離していた。
その分離は私にとっては問題であった。この問題は私の体験中に在り、解かねば意味が生まれようが無い。少数ではあっても共有可能を望むからだ。
「都市」と呼ぶ。それでも人間の生態系の、コレも又、一個の問題である。この問題をキチンと考えようとするワ、実に少ない、が存在している。建築史家と呼び得る人達である。希少であるが、姿形を表しつつある、いずれ論として結晶するであろうが、私の任では無い。私はどうしても物体として、その断片を示したい。
開放系技術圏として、小さな枠内においいて示したい、人間には普遍として寿命と呼ぶ、有限がある。この有限はありがたいモノであり、無ければ疲れ果てる計りである。
「開放系技術圏」については、図像として、そして小物体としても、本年秋の小さな個展として示す。
カトマンドゥ盆地パタン市、マハ・ブッダ地区での計画は3つの棟の連結である。すでに現実の都市として在る。それ故に再生計画である。
コロナ事変以前には、ネワール様式を残す街区の一つに、小さい塔状を入れ込もうを先ず第一に考えた。
しかし、3年が過ぎてしまった。この3年の時間は大きいが、グズグズと述べるを略す。
私の能力は小さい。計画の細部を検討するに、その建設の順序を変更したいの結論を得た。
小塔をネワール近代都市住居群が持つ、光庭(中庭)から、手掛け始めずに、五階建の屋上造形物の製作から始めようと決めた。私はその棟の5階の一室で過ごすことが多かった。屋上も日々洗濯モノを干したりで知尽する。
世田谷村の地上5メーター程の二階には、大きい金属小物体が在る。我ながら奇妙な小物体だが、大きいのでもある。
真鍮の八車輪を台として、中空に魚が泳ぐを造型した。カトマンドゥ盆地の神の山、マチャプチュレ(魚の尾)を山車として、想い描いた、それでも手で触れる実物である。
自分でもワケの分からんモノっ作ったナアの?があった。何年か前の初個展(世田谷美術館での展示を除く)に出展して、案の定、売れ残った。
何故、コンナもの作ったのかは自分でも良くわからないママであった。それが、どうやら復活したのである。マハブッダの既存5階の屋上物体としてである。
世田谷村の2階で、常日頃見続けていたからであろう、それに気付く時にはゾクっとする嬉しさがある。又、バカをやったかの、バカに、どうやら連続が視えたからだ。バカはもう仕方ない、直しようが無い、直す時間も無い。
それで、本日はこの妙な物体を、更につめてみたい。
何故にネパールなのかは自分は明快に了解している。
世田谷村から眺める街並みは良くない。実に悪い。ネワール様式の五階建近代様式と比較すると、惨めである。かろうじて、世田谷村の屋上は土が在り、植物が自生を始める。この人工物への添加は有機的な緩衝帯として街並への連続の力として働き始めている。そう確信するのに20年の月日を要した。
縄文の古代より、集住形式は集落の形として在った。律令制による奈良平城京は人口及びその集中は過度では無く、中国都市の格子状平面をそのまま移入すれば、前都市の状態は達成し得た。徳川政権による全国規模の城下町の誕生が、列島独自の都市形態の始まりであり、明治維新が、本来無用でもあった仮想の戦争を象徴した「城」を無用のモノとした、以来たかだか150年の列島近代である。世田谷村から眺める街並みはその集約として在る。それ故のネパール・パタンである。
山の姿7 解説文
まだ視るを得ぬカイラーサ山のドローイングである。カイラーサは東西に連続するヒマラヤ山脈の西の外れに位置する。ヒマラヤ山群では高度は7000メーターにも届かない。むしろ凡庸な山の一つに過ぎぬ。※6638メーター。
しかし、岡倉天心が東洋の理想と述べた、その理想を物体として結晶させたモノとして在る。理想は決して眼で視る事が出来ぬ。
言葉でまさぐるのである。岡倉天心は複数言語をよく知り、使い得た。しかし、アラビア語を良くは知らずにいた。我々はそれを井筒俊彦の努力まで待たねばならなかった。井筒俊彦により、アジア(東洋)はユーラシアへと拡張されたのだ。
ユーラシアの地理学は、世界の現実では現中国政府の西方一路政策により政治下のモノとなり、実に解りやすい。
このドローイングの始まりは2009年であり、失敗した。描くの専門教育をくぐっていないので失敗は常である。ただ、失敗してるだけは解ったのだ。それが理想らしきの実体の一部である。やってみないと解らぬのだ。
失敗を重ねて、その都度、山の姿を描いたものに塗りを重ねた。自分には珍しく執心したのだ。色々な画材を使い、遂にはペンキ屋のエナメルまで使ってみた。このエナメル使いは北米大陸の素朴画家と呼ばれる人間の材料の使い方を真似た。学習したのである。それで一応はコレで良いか、仕方ないだろうとなった。2018年は塗り重ねを停止した。
ドローイングは世田谷村の階段室に吊るした。日々、登り降りの繰り返しに真近に眺めている。
カイラーサはその姿の美によって、アジアの山岳神話の偶像になった、が今、現在のわたくしの仮説である。少なくともインド亜大陸からの巡礼者も在る。インド南北に点在する石造大寺院の数々は、その姿形をカイラーサに真似ているのである。インド最大の窟院はエローラに在り。名をカイラーサ神殿と呼ぶ。
日本人の良く知るアンコールワットの石造寺院の又、カイラーサの姿を模倣したものである。その模倣は大きな平面の廻廊部、基壇部を含めての立体であり、更に言えば、その重量であり、重力そのモノでもある。建造の叙事の中枢だ。すなはち建築と呼ぶ問題の芯である。
中国大陸の天壇も又、然り。その巨大な平面図型を含めて、基壇が礎である。
パルテノン神殿も又、アクロポリスの巨大な岩の基壇上に在る仮象であろう
日本列島の古代建築は稀少であるが、全ての木造建築の底は基壇である。平面図像様式そのものが、いささか立体への志向が弱いままに、俯瞰として結晶したのである。中世の曼陀羅図像は良くその過程を示している。
建造への集団の意志は、どうしても偶像とは言わずとも具体の手掛かりを必要とする。
古来、カイラーサの山の姿が、その具体の中心であった。世界の中心の山に非ず。人間の想像力の求心の方向を示し続けたのである。
2022年1月2日 石山修武
表紙解説
世田谷村2021年9月の、屋上カヤぶき小屋スケッチ1
コロナウイルス感染の世界普遍は、2011年9月のNY・WTCビル消滅に比すべき大異変であり、しかも更に巨大でゆるやかに世界を変化させるであろう。
大型ジェット旅客機による大量旅客時代も先が視えぬ。
わたくしのアジア地域での試みも停滞せざるを得ない。ジタバタしても仕方ないのである。
こんな時には身近なところに戻り、とどまるしかないし、それがベストである。それで、屋上に小屋を作ろうとしている。20年程も昔の世田谷村屋上は草ボーボーの原っぱ状態である。おばQに似せた人型の温室フレームも錆びて、強風で歪んだ。歪みがなかなかに良い。そのフレームにボーボーのカヤを刈り取って小屋掛をする。
「開放系技術論」は2章に入った。10年位はかかるであろうは覚悟している。
アジア地域での試みと書いたけれど、アジアの呼び方も変えねばならないのである。この名は極論すれば明治時代以来の和魂洋才に通ずる。然りであるが和魂の内実が実に怪しい。自分の中にそれがあるやと問えば、ゼロに近いのである。
旅に例えれば空港待合室、つまりトランジット状である。
屋上のボーボーのアシを刈り取り、それに寝そべってると草息切の内になる。
しばらくは、生ゴミによる土作りにはげむことにしたい。
果報は寝て待つに限る。良く眠るが肝要である。
2021年9月19日
石山修武
1図は、宮内庁書陵部蔵、年代未詳とされる大嘗祭の図。右手前に悠紀の標山。左手前に主基の標山。初源に近いであろう大嘗祭儀礼が対称形の二つの場所、二つの人工の動かぬ山の姿であったのが示されている。
2図は上杉家蔵「洛中洛外図」部分。
ほぼ800年の大嘗祭中期に大嘗祭の悠紀、主基は原形をとどめぬ「山車」として変化した。先年なされた平成→令和の天皇交替儀式は、むしろ近代化された儀式様式である。
現皇居(旧江戸城本丸近くの小広場)に造営された。一般公開されて見学可で、わたくしも行列をなして見た。全体工事は大手ゼネコンによる。設計は宮内庁営繕であるから、当然その現象は宮内庁の言葉、文字資料の指示はあったろうが、全て寸法、プロポーションの外形は実にモダーンであった。上野博物館で「高御座」も公開されたので見た。屋根の勾配、及びその末端の渦巻状の装飾他、エキゾチックであった。
外からの印象と内の感想(内には入れぬ)とのギャップが問題をはらむと感じた。
剣持昤が提示した「規格構成材方式」は「開口部」論には欠かせぬ理論であったが、2021年の今を取り巻く、住宅生産及び量産体制化にある部材、部品群の現在を視るに、すでに理論としての価値は決して大きくは無い。
何故ならば、理論の価値が大きく現実に超えられた、そんな現実を我々が生きているからだ。(表紙、岡本太郎、明日の神話 参照)
乱暴だが、中途を全て省く。剣持の開口部論は量産を旨とした工業化時代の最良の理論だったが、今は大量に作るの前提が崩れ始めているからだ。量に対する想像力の形式は、今は繰り返すが、大量のゴミの生産に同じである。
量産は”民家”ひいては民主主義の平準化を旨とした幸福な時代もあったけれど、今は過去である。
それ故に「飾りのついた家」組合は清冽な文化の産物としての、極度に個別を目指そうとする。
2021年7月14日 石山修武
世田谷村地面階の工房部である。ここを拠点に、飾りのついた家組合の活動を再開する。西側道路に面した壁面に附した家型の飾りは時々、小表示物を並べたてる枠組でもある。デッキプレート の表面型は群馬県左官協同組合(故森田寅次会長)の方々が黒硝煙混合のモルタルで仕上げた。森田さんは当時日本左官業組合会長でもあり、伊豆の長八美術館の左官工事の技術面での責任者でもあった。この壁は工業化された鉄製品と、伝統の左官技能との混成品である。
更に壁に取り付けた温室用の工業化製品を使用した装飾でもある「家」のマークは小さなメディアでもあった。すなわち「飾りのついた家」である。
世田谷での「土間ギャラリー」展、それに連続させた銀座「ギャラリーせいほう」での個展は私に「飾りのついた家」組合活動の大事さを励起させた。
202年7月4日 石山修武
「ギャラリーせいほう」展について
掘る、彫る、刻むーーは自分の性に合っているな、と考えるに至った。描く、塗る、と比較すれば、である。
昨年、石を彫った。ネパールの石工アルジュンの助けを借りた。面白かった。でも物足りなさも残った。こんなに面白いのは独人でやるに限ると考えた。いささか長く建築設計してきた。設計で大きいのは独人では全ては出来ぬ。種々の技術者達との協働である。何よりも実物と呼ぶ物体を作るはゼネコン他の大小組織の力を借りねばならぬ。
独人で「立体」を作り尽くそうと考えた由縁である。
独人で山にゆき、海辺を歩き、材料を先ず拾い集めた。伊良湖半島老澤町伴野一六(※)を倣ったのである。
一六さんにはまだ遠く及ばぬが、彼の「生」の中枢の喜びは少しばかり知った。老いたけれど長生きして、作り続ける。
2021年6月4日 石山修武
「伴野一六邸異聞」(『異形建築巡礼』国書刊行会、所収)
終わりに蛇足を附す。
作りたい人はどうしても模倣から自由ではあり得ない。しかも同時代の創作者たちの膨大な諸表現群を模倣、あるいは深く影響される事からの不自由である。
視覚を主とする芸術は特にそれが顕著である。どう影響され、しかも影響しているかは赤裸々にわかるものなのだ。近代芸術の広く強い特性だ。
自然を学び得る創作者は、批評家の言説の中にだけ在り、現実には在り得ようがない。批評家は仮説としての天才を想定しやすいから、自然を学ぶと言う。創作家は、他の創作家、そして歴史的産物群から学び、模倣するのである。近代芸術の宿命である。
観想と呼ばれる禅画らしきの○を考えるとわかりやすい。情性の表れとしての○が追求されるは嘘だ。○は描きやすいから描く対象として設定されるのだ。抽象と具象の区別などは無い。そう区分けして呼ぶのが容易に過ぎぬだけである。模倣の模式である。意味は無い。
船越直木の全体はいずれ解明されるだろうし、解明したいとかんがえる人間も多くなるであろう。今の自分にはコレで精一杯である。
最も言説が世界に流通している日本人の一人に鈴木大拙がいる。キリスト教異端のエックハルトの神秘主義に影響され(関心を持ち)最期には日本的霊性に迄辿り着いた。万物とは言えぬが、諸物に神性を視ようとしたアニミズムである。
鈴木大拙はその行き先に余市の念仏に行き着いてしまった。日本最大の信徒数を持つ浄土真宗の南無阿弥陀仏である。決して井の中の蛙とは呼べぬ大拙にして、この到達点であり、奇妙なナショナリズムの変種ではなかろうか。
あるいは俗な徳川政権下の為政産物である、専門職としての僧職の肯定に過ぎない。
宮沢賢治は日蓮宗法華経に始まり、実に多くの言語に訳されたコスモポリタンとしての創作に辿り着いた。その創作は歴然として、大拙の日本的霊性を超えていた。霊性(アニミズム)は民族性を超えるや否やは不分明だが、日本的と冠がつくのは怪しいではないか?
船越直木は家族全員がカソリック信徒とおぼしき、日本では特異さの内に生まれ育ったようである。G・K・チェスタートンの言う正統(オーソドキシー)からは正常であるが、日本の風土、そして近代史の浅薄さからは明らかに異常である。天性の芸術家はチェスタートンのよく広く知られた小説類に登場する”詩人”の類であろう。そして詩人はチェスタートンが表現した如くに狂人らしきに薄皮一枚の存在である。あるいは狂人を演ずる自意識のかたまりでもある
船越直木が描き続けた人物像ドローイングの人影らしきは何者か?自身であろうと推測せざるを得ぬが、神でもあったやも知れぬ。天性の芸術家の近代の不可能に近いであろう。
彫刻(小立体)とドローイングとの境界は明白に在る。相互流通は無意識になされようが、意識下ではあり得ぬ。物質は人体(指先)と触れ合うにしても決して混合溶触する事は無い。船越直木の彫刻は未知の領域に踏み込みつつあったけれど自己運動の途上にあったろう。
2021年5月28日 石山修武
舟越直木 の作品の一部の感想2
はじめで述べた作品の細部である。才能ある画家の創作物は、時にその全体よりも微細極まる細部にその中枢を露出することがある。おそらくは創作者も気付かぬままに。ほとんど無意識な筆のふるえ、走りが作者の本能と呼ぶべっきを吐露してしまうからである。筋肉の充分にはコントロール不可能な動きでもある。
偶然、あるいは間違いに同じである。
人間の身体を楽器に例えれば、三味線の音の出し方と洋楽器であるバイオリンの差異につながる。船越直木は知られる如くに一家の全てが芸術家、しかもヨーロッパ的教養に包まれて育った小歴史を持つ。しかし、この作品の細部に露出しているのは、中国風山水画の筆運びである。創作家と呼び得る才能は、その本来の教養にも似た枠を踏み出すのである。宋の山水画、ひいては文人画の流れは日本近代絵画においては枠外であった。船越直木は無意識において、その枠外を露わにしている。
求龍堂の「舟越直木」の冒頭作品群は重要である。山景木版5点(ギャラリー展示は4点)山の形を想わせるフォルムが神秘的な重量感で壁に宙吊りされている。宙吊りは写真では感得不能、実物を体験する他はない。
何故、重要であるかは、この山景木版は彫刻、および絵画と呼んでいる物体が建築から分離してしまった歴史をも示しているからだ。勇気を持って言えばロマネスク彫刻を持つ修道院の大扉と同類だからだ。それ程の重量感が在る。4.5cmの厚さの木版かと思いきや、裏をのぞかせてもらえば舞台セットの造り込み状の木工細工の工夫による。舟越直木はどうしても重量(重力かも知れぬ)が欲しくて、そうした。
建築から彫刻絵画が分離したのは近代でしかない。それ故にこの作品群は。分離のキシミを表現しているのである。
神秘的と書かざるを得ぬ、その神秘は例えば日本的霊性に非ず。より即物として芸術家(近代)の手で露出している。
この作家のオーソドキシー(正統性)は彫刻絵画の近代の(日本の近代ではない)悲劇性に届いてしまっている。
2021年4月22日 石山修武