(今後新たに「週報 -GAYAの制作記録-」ページがはじまります。)
2015 年 7月
1、午前中、小岩金網KK高木康夫さん来所。
午後ダイキン、スタッフ来所。共にそれぞれの製品の特性について尋ねる。また、どのように個別解に対応出来るのかもうかがう。皆さん汗だくになって来所して下さり有り難いことだ。彼等抜きにしてGAYAの日々の創作活動はあり得ぬので、細密に色々とうかがう。それぞれ技術、営業畑の方々であるが。対応の仕方に歴然とした個性があるので、それが嬉しい。
2、全く我々と何変わりようがあろうか。
GAYAだって厚い鉄板の中で、汗ばみながら、面白いモノ作ろうと苦労しているのは変わりない。近いうちに工場へうかがってみたいと決めた。
千歳烏山「オーパ」はオーナーの著者が開高健の生き方に共鳴して、つまりは世界中を釣りをして旅していたらしきが好きで名付けられた店である。
長崎屋のノレンが紅(薄汚れた)に対して、ここはホワイトなのが良い対照である。マア、面白く考えてみれば紅の平家に対して、白の源氏か?紅のよどんだ大衆性に対して、武力無きミドルクラスの、つまりは古きサントリー文化が目指したホワイトカラーへの憧憬であろう。建築デザインと全く同じだ。
しばらくは源氏と平家の間をバットマンすることになる。
1、午後は一転、極めて抽象度の高い、しかしこれも仕事である柄谷行人宅訪問。
2、すぐに用件に入る。基本的にはNAMの、今再びの各論的継承、実践についてである。生やさしい相手ではないが、ハードな相手にハードな抽象論を仕掛けることは、これはわたくしには向いていないので個別な実践のアイデアらしきを述べ、用意したペーパーを渡した。
「良く解らんなコレワ」
との事であったが柄谷さんは先年のドイツ・ワイマールでの会話を良く覚えており、「多分そんな事であろうと思ってたよ」
わたくしの意志と、その個別的実行の考えは伝えられたので、長居は無用と引き上げることにした。柄谷さんからは柳田国男と山人の副題がついた「遊動論」をいただき、わたくしは初の著作であった「バラック浄土」をお渡しした。
「NAMは、自分が本を書くことで続行しているんだ」が彼の中心であり、自分はこれに書いた事を、今、展開したいと言う事であった。
結晶、純化を目指す理論家に対しては、わたくしはアメーバ状の実行家として対するしか無いのである。
かつて新宿のBARでのウィリアムもリス主義者を名乗っていた故・小野二郎と、『建築の世紀末』の行動する建築史家であった鈴木博之の激論を体験している身にとっては抽象と抽象がぶつかり合う不毛とも言うべきは身にしみている。
小林秀雄が『無私の精神』で描いていた実行家の姿には、わたくしなんぞは遠く及ばぬ。が、それを目指そうとする意志は今でもある。
柄谷行人と付き合うには、自分はそのスタイルを押し通すしかないのである。
実行と実行も又、資本主義社会においてはたちどころに競争となり、これ又、不毛なのである。理論と実行の組み合わせしかない。
「駅まで送ってくよ」と彼は御夫妻共々、改札まで見送ってくれた。
今日はこれまで、とする。良い一日であった。
1、8時世田谷村発。地下鉄を乗り継いで、10時前東銀座へ。朝からグラグラと暑い中を築地本願寺にて上山大竣先生にお目にかかる。
年末に予定している、京都、東京でのインド、ナーランダ大学展、他の打ち合わせ。この計画への参画はわたくしにとっても重要なので考えを尽くして進みたい。
2、じゃあ、お前さんのやっていることは何なのか。その言葉と実行の関係のことである。
3、厳しい暑さの中、午後になってようやく考えをまとめた。明日の柄谷行人との会談の目的の要約である。
1、吉祥寺駅前の喫茶店ルノアールで美術家の岡崎乾二郎さんに会う。三件程の用件を持って会ったが、岡崎さんあまり気乗りしないようであったので、一件だけに絞ることにした。有名な美術家と文化論なぞ交わしている無駄な時間の持ち合わせは無い。
この美術家は以前から少し計りの交流があった。わたくし奴とは全く異なる気質の持ち主であり、その一点のみにかろうじての関心があった。共通点、すなわち張られるべき糸、テンションはしかし視る事が出来ない。全く見えぬところだけが取り柄である。
2、柄谷さんとはいつか何事かを共にしたいと考えていて、それで会う。柄谷行人は、これも又早死にしたウィリアム・モリス主義者であった小野二郎に昔紹介されたのが縁である。ジェラルド・ツィンママーンが学長であったワイマールのバウハウス大学で開催されたコロキウムで、近代デザイン思想の原点は、ウィリアム・モリス、R・バックミンスター・フラー、そしてアレギザンダーであると言い放って、自分のところ、すなわちバウハウスがオリジネーターであるの自負を強く持つ、バウハウスの人々を白けさせたのであった。
柄谷行人の近代デザイン史とも考えられる歴史観は、はしょって言えばヒューマニズムの原理主義的ラディカリズムなのだというのが良くわかった。
アメリカ、NYでのANY会議での最終日は一緒のレクチャーをした。
柄谷行人とわたくしのレクチャーだけが他の人々(レム・コールハースも含めて)と異なっていた。
この人はデザインや美術などにはほとんど無関心なのだと知ったのである。
その点だけが、わたくしと柄谷行人との接点、糸である。
わたくしは、勿論デザインくらいはしてみせることが出来るが、これは工事と同じ如くの意味なのである。
小休していた世田谷式生活・学校を再開する。同時に「飾りのついた家組合通信」を発刊する。
表紙はほぼ出来つつある。第一回は「世田谷式手づくりオリンピック計画」
目次
1、かざりのついた家組合とは
2、2020年東京オリンピックへのわたくし達のスタンス、と行動指針
3、参加者(組合員)への呼びかけ
一部500円、初回発行部数500部。
1、今は黙して行かん、である。
18時に新宿味王で伊藤毅先生、GAYAのスタッフと会食。
やはり、鈴木博之先生不在の話となる。
一人の歴史家の不在の空白は巨大である。
10時世田谷区役所。自家製の企画書を区長室長にお渡しする。
1、昭道さんは、やはりと言えばやはり、ポツリ、ポツリと居なくなりつつある友人達の、居残り坊主である。
「よお、マア、70年やってきたモノだ」とポツリともらした一言に、オヤ、この男、枯れ始めたなと、一瞬いぶかしんだ。
2、皆、徳川時代に百姓一揆を恐れた徳川幕府の宗教界(仏教界)への施策である。それが今に続いての真栄寺の繁栄がある。それくらいの事は昭道さんは知る人間である。
だからこそ都市開教を実践した。つまり檀家無しの寺から、0(ゼロ)からこの寺をおこした。次の代、この寺はどうなりますか?
1、一昨日、建築士会連合会作品最終審査会の最中に安倍晋三首相が新国立競技場の計画を白紙撤回するとの表明をしたニュースが入ってきた。この迷走は更に続くのではないか。自身の内閣支持率の低下続きの歯止めになればとの苦し紛れの施策ではあるのは間違いない。つまり新安保条約の成立と引き換えに、そのデザインの価値はともかく、高価すぎると世評はかんばしくないザハ・ハディドの設計をキャンセルすることになったようだ。
まだ何が起こるのか誰も知らぬのだろうが、随分、建築本来の価値でもあるデザインという文化的側面がないがしろにされたものである。「建築」および「建築家」の存在形式がコケにされたと言って良い。
建築、および建築家にも一分の魂ありと、しかるべき人間が反論すべきであろう。
このマンマはいけない。
2、磯崎新建築論集の最終刊8を再読する。磯崎新によれば、この最終刊が2年程発刊が遅れたのは、どうやら新国立競技場のドタバタ騒ぎの続くのを見越して、最終章とも言うべきに今度の新国立競技場問題を付け加えたい、そして磯崎新の東京へのオリンピック招致の対抗案としての福岡オリンピック招致案を記録として残しておきたいの考えがあったからのようだ。
3、この磯崎新の最新論考集は、今まさに起きつつある新国立競技場事件とも呼ぶべきと連動して、強く再生してしまった。してしまったの言い方の中にはこれは深い驚きが入っている。
4、今度の論考集8での磯崎新の考えの働かせ方、および編集、形式、発言は考えに考えが尽くされている。
1、猛暑の夏は、全く宮沢賢治の「雨にもマケズ、、、」の詩のようにオロオロ、グデグデするしか無い現実ではあるけれど、わたくしも年をとったが、もう一踏ん張りしたいのでやってみる。それにつけても恐ろしい事に、身体の瞬発力、爆発力がいちじるしく欠けてきたように思われる。そう思う自分をだましてやらねばイケナイなコレワ。
1、昨日国会は特別委員会で新安保条約を強行採決した。採決した自公与党にも採決の高揚感は無いようだ。まして何を言っても現実的に非力なだけの野党にも無力感以外の何ものも残っていないだろう。
全ては前回衆院選での民主党の大敗北に因を発している事は明々白々である。その意味では一度は民主党を政権につけさせた我々民衆の長い眼で見る事ができぬ不見識の敗北でもある。実にこれは一番恐ろしい事なのだ。
民衆は、例えば東北地方の大災害等に際してはボランティア精神に代表される「友愛」らしきを表現するが、平時にはそれは眠りこけている。友愛は元民主党党首であり、総理大臣にも就任した鳩山由紀夫のキャッチフレーズであったが、元々はフランス革命において主役をギロチンにかけて、つまり血を流しての末の血なまぐさい内から発せられた、美しいとしか言い様のない精神なのだった。
日本では、いきなり言うが二・二六事件の青年将校達の純粋過ぎた精神の中に、それはあった。三島由紀夫の英霊の声も、それに遭遇しようとしたモノだ。二・二六事件の青年将校達はしかし、日本近代の大矛盾のひとつであろう「天皇」の声によって銃殺されてしまった。三島の自衛隊(市ヶ谷)乱入の果ての自決はそんな小さな歴史の末の出来事であった。
2、ただ見逃してはならぬほとんど唯一は60年の反安保闘争とは明らかに異なるであろう、若い人たちの、つまりはボランティア精神にも通じるやも知れぬでもや抗議集会へのか細いけれども、明らかに60年とは異なるニュアンスらしきではなかろうか。
1、保坂区長はあいさつの中で「新国立競技場の建設費2500億円相当は世田谷区の年間予算である。ぜひ見直しされたい」と述べた。かくなる意見が大方の世論ともいうべきになっているのを痛感する。市民参加を軸とするリベラルな政治家の一般通念であり、同時に限界でもあるが、地方自治体の長としてはこれ以上を望んでも仕方があるまい。本音を吐けば、将来のリベラルな政治家の代表になる可能性アリと考えている人物なので、もう少し国民文化の表象的な側面への見識くらいは持つべきかとも考えているのだけれど、それはわたくしの先走りである。
2、2020年の東京オリンピックに保坂区長は駒沢公園、馬事公苑を持つ世田谷区としては「馬車を走らせたい。子供たちも楽しめるし」と言っていたが、当初はこの区長は建築、土木行政は完全に0(ゼロ)区長だなとアキしたけれど、今日はアレはなかなかに面白い考えだと気付いた。
馬事公苑は馬術会場になるようである。そこにエネルギー消費0の馬車は中々に良いではないか。馬車道を電気自動車道の整備へと進めるのは健全である。
こども達、老人達のプロジェクトとしても位置づけられるのではないか。
1、昨日から今朝にかけて『磯崎新建築論集8』を通読した。様々な考えが頭を駆け巡った。
どうしてもわたくしの場合、磯崎新のライフワークであるこの論考集と、盟友であった建築史家鈴木博之の早過ぎる死とを切り離して考えることが不可能である。
2、磯崎新らしい戦略であろうが、一回りも二回りも若い(若過ぎる)世代の人材にそれをゆだねてしまったキライがある。
これが、この建築論集に不必要な歪み、ねじれを生じさせていた。どんな歪みかと言えば、磯崎新の濃厚極まる身体性
を全く知らぬ(関心も無い)年端もゆかぬ、人間の複雑な精神のヒダもわからぬ者達の平坦な知性の動きに本の枠組みを任せてしまう大きなミスを犯してしまった。
堂々たる大伽藍が脆弱な基礎に乗る如くの形式が露出した。
3、歴史家と建築家のちがいである。
4、建築史家としての鈴木博之は敗者に対する眼差しと同じに、より大きく地主という存在に関心を寄せていた。その点においては建築家の実際家としての宿命(機能)と考えるの公図は類似していたのである。
そのあたりの事は彼の遺作とも言うべき、『庭師小川治兵衛とその仕事』に書き尽くされている。磯崎新の作事奉行小堀遠州への関心と酷似しているのである。実ワ。
1、梅木さん高木正三郎さん等、早稲田・バウハウス佐賀のOB連中を中心に「飾りのついた家組合」九州本部を設立することになった。
2、夕刻、外からスタジオに戻ったら、週刊文春記者、神田知子さんがスタジオで待ち伏せていて、捕まる。
「新国立競技場」の問題について色々と聞かれた。どうやらスタジオGAYAの日記を読んでの事であった。
3、晴れていて、蒸し暑い。
昨日、岩波書店より、待ちかねていた『磯崎新建築論集8』が届いた。
亡くなってハヤ2年になる鈴木博之の「磯崎新という多面体」と題された文章が挟み込まれている。
磯崎新はこの文章を手渡されたと論集の最後の「あとがき」に書き残している。多面体とあたりさわりの無い修辞の題がついてはいるが、実に内容はバッサリと磯崎新を切って捨てている。
「日本の(近代の)建築家たちが追い求め続けてきた課題を相対化し、無化した。」が結びの言葉である。
磯崎新があとがきで書いているように、この文章は鈴木博之の事実上の絶筆である。
4、それ以前には磯崎新論を「近代建築殺人事件」という題目で書きつなごうかと考えたりしていた。鈴木博之の絶筆の、その結びの一言、「無化」したとは、すなわち殺したに等しい。この当たりから、再び磯崎新論を書き継げるやもしれぬ。
1、夕刻会合があって千駄ヶ谷のビル10Fのレストランに出かけた。それが目的の会合ではなかったけれど、真下に新国立競技場の
敷地が一望の許であった。すでに旧国立競技場は取り壊されてガランと何もない。
初めて間近のしかも上から敷地を眺めた印象は以外に小さいな!であった。北京オリンピックの大スタジアムを同様にすぐ隣の
当時は北京モルガンセンターと呼ばれ、今は盛古大飯店という巨大ビルの上部から眺め下ろした事もあり、その印象も残っていたのだろう。
北京と比べれば実に小さな敷地なのだ。
2、恐らくはザハの案の上部開閉屋根も同じような運命をたどるのではないか。そんな風な未来になってしまうだろうの原因
は、辿り辿ればIOC(国際オリンピック委員会)のオリンピック開催へのビジョン(論理)がお粗末極まるものであるからだ。必然的
にその下部組織であるJOCも然りである。
3、マネーと同様に現代においてもっとも高価な商品であるメディア=電波=広告の異常振りを極度に推し進めるべきだろう。
4、それならば二本のアーチを広告のための入札にかければ良い。ソフトバンク・アーチとか、GMアーチ、あるいはBMWアーチとかね。今やオリンピック自体が商業主義化しているのは誰の目にも明らかなことであるから、それを明快にあからさまに示せば良いのである。
オリンピック競技会自体がそれ程のモノなのだと考えてしかるべきだろう。
1、生まれてこの方こんな光景は見た事がない。中世のヨーロッパでこんな光景を宇宙から視ることが出来たなら、恐らくは宗教裁判なぞが開かれ、異端をみなされる宗教(キリスト教)各派の指導者たちの少なからず火刑になったことであろう。
中国古代であれば巨大な儀式群がとりはかられ、これ又、生け贄の多くが天に供されたのではあるまいか。日本の古代後期ならこぢんまりした遷都(すなわち天皇の居城の移動)が企てられたであろう。
それ程に天気図は恐々しい。天変地異の如くが表象されている。しかも、三つの低気圧の中心が全て回転しているのだから、実に驚くべき図像が出現しているのだ。
現代の科学的であろう天気予報は古代の星占いから、人間本来の恐々しさに対する恐怖らしきをアッサリと取り除いたモノに過ぎない。あらゆる恐怖は人間自身の死に対する恐れを持つ。
2、昨日、芸術家・山口勝弘先生にお目にかかったが、先日はすでに各種低気圧やら、前線状態の世界地図からは離脱した精神の高み、すなわち、高気圧状態に達している。登りつつあるようで、まことにうらやましい限りであった。
3、それが、わたくしには驚きなのだけれど。単純に言い直せば、その点において(決して崇高ナゾの観念に言及せぬ点において)山口勝弘先生は芸術家としてはまさに純正モダニストであり、その枠を決して踏み外さないのである。
「昨夜、夢でクレオパトラに会いました。黒人でした。」なぞ言うのを聞けば、こんな境界線上の精神は近代科学の領土を踏み越えているのだが、それでも山口勝弘先生は純正なモダニストであることに違いは無い。
1、朝、中途で休ませている「作家論・磯崎新」「新西遊記」「開放系技術論」に関して、しばし熟考。いつまでも居ると思うな健康と生命であり、このマンマだとみっともない事になりそうなので、再び立て直しを企ててみる。
次から次へと廃屋に廃屋を積み重ねるような事をしたってダメな事はすでに知るのだが。コチラの能力の問題に尽きるのだが、今更、なかなか出来ませんでしたとも、これはタダタダ口惜しいから、とても言えない。
最後の空元気と見栄を振り絞ってみることにしたい。
2、先生は病院で見つけたという小粋なメガネをかけていて、相変わらず格好良いのであった。驚くべき頭脳の明晰さをもって話された。まことに頭が下がる人物である。今は京都での金閣寺に関する展覧会のことで頭が一杯のようであった。
アレコレと外野からも内野からもザワザワうるさいようだが、安藤さん結局は建築の尊厳を賭けて、いまだに諸調整を続けているようで、わたくし奴も雑言は控えたい。
1、10時半池袋第一生命ビルディング。竹中工務店設計部、桑原裕彰、花岡郁哉さん等と合流。外観を見ている間は何も感じなかったが、内部を巡り平面形を飲み込み始めて、オヤこの考え方には何処かで出会っているなと、思い出す。やがて東北・仙台での中型のオフィスビルの秀作を思い出した。どうやらあのチームらしきの東京での仕事のようである。
仙台での仕事がより巨大になったぶん原型性は欠けるキライはあるけれど、そのぶん大型のオフィスビルの内外により人間的尺度の技術的アプローチが組み込まれて中々に良いのである。
2、オフィスビルの設計・施工への技術的経験も含めてゼネコンの設計に蓄積させている力は分厚いものがある。それは日本の住宅設計に積み重なったモノの総体よりも、よほど近代の中枢をついているとも言えよう。よく更に考えてみたいものである。
1、世田谷村の南の垣根、その一部が切れて開いているところに、手作りの小さな神社もどきを作って置いてある。
2、予定より少し早目に世田谷村を発ち、東京駅へ。12時前の、のぞみで岡山へ向かう。
3、和気は小さな頃、東京から夜行の急行瀬戸にたった一人で放り込まれ、父がわたくしの座席の周囲の人たちに「この子を岡山の手前の和気でおろして下さい」と頼んで廻っていたのを思い出したりした。
4、備前矢田駅も井上鉄道も今は無い。
5、ホテルに一人、戻り、少し計り講話の準備をして休んだ。
6、10時、「アジアの中の閑谷学校」と題する講話を始める。11時半過終了。
1、講話のタイトルは「アジア文化の中の閑谷学校 -教育・学習の再生へのヒント-」である。大言壮語終わらぬように準備を進めたい。
2、昨日、2日午後、烏山南蛮茶館にて、T.AYA、佐藤研吾とスタジオGAYAの広報ビジュアルについての打ち合わせをした。
1、昨日6月30日の朝日新聞、リレーオピニオン、セブンティーズに一ノ関ベイシーの菅原正二が格好イイ写真入りで登場している。
2、上海の趙さんと朝打ち合わせて、年末の上海での展覧会の事など話し合い、昼食を近くの寿司屋でいただき、午後別れたのが昨日であった。
3、昨日、手直ししたプーラン族のための計画案の模型は、趙さんにより写真撮影されて、すぐに雲南省に送られたのではないか。まことに寸断なく情報が行き交う時代である。それに身を投じるか、ガラパゴス状に閉じこもるか、径はひとつしかあるまい。
1、今日は午前中、都内の小さな小住宅の審査。京王線、都営地下鉄新宿線、森下で乗り換え、新御徒町より歩く。
案の定、道に迷い約束の時間に遅れてしまった。皆さん、アイツはケイタイもアイポッドらしきも持たぬ、ガラパゴス人間だからさ、とそうなるであろうと、すでに設計者より説明を聞いておられた。
2、小さく始めて、連鎖させるのが要である。
1、夕刻世田谷区立武蔵丘小学校一階集会室で、第五回北烏山一丁目認可保育園の整備に関する説明会が開かれた。世田谷区役所子ども若者部、社会福祉法人厚生館福祉会、スタジオGAYAが出席した。会場は空席があったが初めての顔の人々も少なくはなく、活発に意見が交わされた。18時前終了。その後、知覚で更に地元の方の意見他を聞いた。
2、早朝、女子サッカーワールドカップのTV放送があったようだが、知らずにいた。
午後遅く、長崎屋に寄り、尋ねたら「女子は強いよ、キチンと1対0で勝った」と教えられた。TVのニュースで知るよりも、時に長崎屋ライブの方が、それを言う人間の考えが表現されていて面白いのである。
6月27日 土曜日
昨日26日にGAより『GA JAPAN 135』が届いた。スタジオGAYAのGAへのデビューともなる作品が掲載されていて、それで殊更に丹念に読んだ。勿論、写真も味読した。
わたくしはかなりGAにはマニアックな関心を持ち続けている。二川幸夫存命の頃からである。何故ならばGAは編集スタッフ、他マネージングを含めて、古い呼び方になってしまったが、まさにアトリエ流と呼ばれる、設計事務所とほぼ同じような組織力、スケールであるからだ。
そんな観点からすれば、本(雑誌)をマーケットに送り出すのも、建築を作り、それをメディアに送り出すのも、それ程の違いはないと考えているからだ。
だから、読み方もマニアなりの読み方をする。先ず、当然の事ながら、最終ページの「編集ノート」。短文だが、それぞれの編集者の興味の水準がてんでバラバラなのが良くわかる。少人数の出版社でもあるから、このバラバラさは貴重である。
135号は特集ビットモデリングである。編集者が全員建築ブツを好むなんて事は一切無い。むしろ、編集者になろうと考えるような人間は、大半が建築畑の学科卒業生であろうが、建築ブツに対してはおおいに冷めた眼と頭を持つ人間が大半なのではないか。そんな人間の仕事として特集を眺めるのも面白いだろう。要するに出版社の編集者として、印刷物自体のクオリティ及び制作過程を向けるの類である。でも私なぞにはオヤオヤの?しか持てない特集であった。
昔、二川幸夫が「うちの編集にはオペラ狂いがいてナア」と半端自慢、半端ワカランの感想をもらしていたが、GAの編集部の大半の人種は、建築に対しての姿勢は大部分、アウトサイダー的資質の持ち主であろう事は容易にうかがい知るのである。
ちなみに、二川幸夫、二川由夫親子共に日本の建築学科出身者ではない。次に「二川幸夫の眼」8内藤廣が面白かった。内藤廣とは同窓である。同窓は同窓を嫌う、とは磯崎新の名言であった。その通りでわたくしは内藤廣の建築も、発言等もあんまり好ましいモノとして写らなかった。
しかし、このインタビューは実に率直で、故人に対する正直な親密の情が溢れていて、ヘエ、こんな人間だったかの驚きがあった。
アトは、ズーッと飛ばして藤森照信とわたくしの対談となる。最近のGA編集部のインタビュー整理能力、つまりは編集力は著しく向上している。
それが、この対談の編集にも良く表れている。対談の当事者である、わたくしもヘエこんなんだったかナアと驚く程である。
GAは今秋ギャラリーにてフランク・O・ゲーリーそして妹島和世の展覧会を開催すると予告されている。
二川由夫のGAでの初仕事はたしか、『妹島和世読本』らしきであり、これは大ヒットした。
フランク・O・ゲーリーは二川由夫にとっては恐らく最も親近感を持つ建築家であり、話の端々にそれがしみ出るのがよくわかる。つまり、今秋のフランク・O・ゲーリー&妹島和世展は、二川由夫の、二川幸夫亡き後の本格的なそろい踏みなのだろう。
あんまり、展覧会そのものに関心が無い。悪いクセは修正して、出掛けてみようかと考えている。何が主題であり、どう表現されるかは、それ程の大問題ではない。良いモノ程密実な人間関係から生み出される事に変わりはない。
6月26日
昨日25日夕刻、中国上海より都市計画家・趙城埼氏夫妻、スタジオGAYA再訪。中国大陸での複数のプロジェクトについて、進行状況他をうかがう。
中国大陸は広く、多様でもある。一筋縄での多応、あるいは展開は到底望むべくもないが、その巨大なるが故の困難さは島国の日本とは別次元の深みと、可能性を持つのも確かな事ではある。その事を十二分に自覚しながら、趙氏夫妻とはこれからも親交を深めつつ、お互いの理想を追い求めていきたい。
簡潔な状況報告他をうかがい、すぐに食事会へ。
中国大陸での事はとても日本人だけでは展開する事は不可能なのは、この数年の体験で知り抜いた。これから先、長い長い付き合いになるであろう事を見越して、家族も同席させようと、家内、娘、若い佐藤もテーブルを囲むことにした。
一つの世代だけで終わってしまう問題ではない。次代、次々代へと引き継がれるべきでもあるからだ。
世田谷村には昔から、家内の意もありアジア、あるいは世界からの留学生、他が寄宿していた小史もある。その小史がわずかなりとも形にできるかなあと考えたりもして、私的な交友こそをベースにしっかり持つことを再びしっかり考えながら、ゆっくり、ゆっくり、それこそ時代の流れにも沿いながら、しかし埋没してしまう事もなく、事をすすめてゆきたいものである。
夜更けて散会。考えてみれば中国大陸との往来も、わたくしの小史においても、決してバカにならぬ程の積み重ねになってきている。
大事にしたい。
1、今日は10時に梅沢良三構造設計事務所がスタジオに来所。一時間程新しいプロジェクト二件について相談。
夕刻、外出し世田谷区での保育園事業に関しての打ち合わせとなる。区役所のスタッフも大変である。
GAYAの薄暗がりの内で、ボーッとアレコレ考えている。
2、22時過、少し疲れて世田谷村に戻った。
3、ほぼ毎日飲むようにしているプーラン茶は今日は生茶から黒茶に切り替えた。生茶は英語ではPure Tea.言葉は味覚を時に支配するので、わたくしのような頭の悪い、頭デッカチ(一番始末におえぬ種族であろう)つまり空頭族はなんとなくPure Teaの方が黒茶(Black Tea)より上等ではないかの幻想らしきを抱きやすい。
しかし、正直な味覚(知覚に近い)は、オヤ、黒茶イイナの実感がある。プーランの人々からは、それに黒茶はA、Bの二種類送ってきている。この種に恐らく自信を持つのであろう。
この関係は形容するに困難である。
いずれ言い表してみたいけれど、今は高地の森の香りとでも言おうか。霧が巻き、それが去ると涼し気な陽光が降りそそぐ。プーランの森は深過ぎず、何よりも風通しが良いのである。森の中の茶畑を登りつめて、ハアハアと息も絶え絶えに、柔らかい、美しい山径の感触がよみがえるのだ。
この朝のひとすすりは、先ずは極上に近いわたくしのゼイタクであろう。
1、今日は一日、岡山の閑谷学校に関する資料を読んで過ごした。資料は儒教、陽明学、朱子学、的精神がバックボーンにあり、父の影の如くを身近に感じさせるのであった。が、岡山は母の実家が在るところで、父方の影は薄い筈なのだが、父母のことであるから、そのあたりの事は考え過ぎぬようにしたい。
夕刻、世田谷美術館の学芸員、野田さんスタジオに来る。相談したい事があってワザワザ来ていただいた。
2、美術界も、建築界も今や、大変なネガティブ状況になるのはハッキリしている。つまり何も無いのです、の氷河の季節になる。人間は目前にその切実さが間近にならぬ限り、それをわかろうとしない生物であるから、こうしてハシゴ酒してしまうのである。
その、時代の流れには、小賢しい知恵や、工夫などは何の役にも立たぬ。
波に呑まれて、浮き沈みするしか無い。
1、わたくしはお庭掃除は苦行に近いので、丁度それが終わった頃に本堂に滑り込んだのだった。
講師は昨年に引き続き山崎龍明師。
「往生と成仏」が講題である。今年でこの「到高山真栄寺修道会」は5回を重ねる。
まことにかくの如くの会を続けて止まぬ、馬場昭道は中々の僧になっている。死んだ佐藤健が「アイツは長生きすれば名僧になるよ」と言ってはばからぬのを、わたくし奴もようやく感じ得るようになった。
人間、まずは長生きである。
2、本堂からは、東の空に朝の光が遠くに眺められ、雲の姿も神々しい。親鸞上人には「臨終の善し悪しは言わず」の名言があるようで、後半生は首から上の知識、と身体で(それを生きる)ことはちがうの凡庸だけれども深い認識への視座があった。
心は浄土に遊ぶとは、まさに今のこの東の天空を眺め、少し計り考えることと同じなのである。ただし、それは(その状態は)決して長く持続し得ない。
四講回の合間に「おかゆください」と申し出て、庫裏でおいしいイモガユをいただく。梅干し、タクアン他もうまく、二杯いただいた。四講回は流石に腹もくちくなり、眠気がおそってくる。
3、帰りは住職が天王台まで送ってくれた。
「寺のアトを息子に継がそうと思って」
「それで、アンタはどうするんだ?」
「それ、考えておいてな」
と、まことにおおらかである。
ムニャムニャラ、ポーンと言葉(真言)をつかんで空に投げたチベットの高僧を思い出す。
ともあれ、一足お先に死んだ佐藤健のぶんまで、考えてみたい。
1、上総湊へのバスに乗る。事故があったようで遅れて14時半頃バス停に迎えに出てくれた木下昌大さんに会う。あいにくの雨だが車で房総の山というよりも丘の森の中の「山の家」へ。広くポッカリと森の中に開いた良いサイトである。聞けば1400坪の広さがあると言う。建築家であれば奮い立つ土地だ。
2、住宅、ましてやセカンドハウスにアメリカ型の消費文化以外のモノを求めるのは無理があろうは凡庸な俗論に過ぎない。ましてや、建築家にとっては住宅(セカンドハウス)も又建築である。
小川に隣接しているから、水ハケも良い土地であろう。多少のランドスケープを考え、提案していたら、別の次元に入れたのにと、勝手に、自分だったらどうしただろうかの考えにふけった。
実に勝手な審査員ではある。
1、昼より、GAYAに富士ソーラーハウス、大林技研集合し、星の子愛児園新館メンテナンスについて協議。15時愛児園で理事長、園長、主任保育士の先生方と打ち合わせ。
17時了。渡邊、佐藤は世田谷北烏山の住民個別訪問へ。石山、富士ソーラーハウス専務大澤、大林技研代表は烏山で諸々の相談を続ける。
2、愛着があるわけではない。特に持ち物の類には無関心だが、タマタマ、このザックが頑丈で長持ちするモノであったからだろう。
我ながら着るモノ他にはほとんど関心が無い。そこらの店で買い求める安物や、もらいモノ等を常時着回している。その慣習を変えようとは考えぬが、もう少しだけ多種を着回すべきかとは思う。
ほとんど同じ服を着ているのでボロボロになってしまうのも早いからだ。人間と服は同じだなあ。
1、インドでのプロジェクトは日本人離れした時間のスケールを持たざるを得ないような気がする。日本的なスケールとは何者であるかとは事は簡単ではないけれど、今の我々の近代化の速力そのものに対する、表面(表流)としての疑わしさと言った?であろう。
インドや中国の少し計りのお付き合いを介しての、コレワ実感である。
2、インド、ヴァローダでの2016年のプロジェクトに参加希望の若者がいれば(勿論、老人だってかまわないが)、スタジオGAYAの「インドでの活動」のパートをクリックされたし。日々とは言えぬけれど、時々、最新の情報、考え等が開示される筈だ。
2015年のインド、日本からのセミナー参加学生達の成果は近々、このページ(インドでの活動)に公開するので、いずれ参考になるだろう。
1、車ですぐ近くの五浦の家に。どうやら漁師の家らしい。審査の過程で写真、図面でコレワ面白そうだと考えていたモノだ。かなりの傾斜の南斜面を切り拓き、アプローチ道路、等を設け、その斜面に丸太を林立させたピアを配している。それに横グリッドの強い水平分割の開口を持つ木の箱状を乗せている。
プランは変形Y字形で、平面がクロスするところに鉄製の階段が付けられている。
写真からは川俣正の木材ランダム構築を想わせたが、実物はその全体性は無い。人の生活する宙に浮いた箱は箱。それを支える橋脚らしきは橋脚として分離している。
映画「北北西に進路をとれ」に有名なR・B・フラーのドームとフランクロイドライトの有機性が合体した住宅が出てきて、建築への夢を膨らませてくれるが、この家は膨らみかけた建築への夢がパチンとハジける、つまり壊れてしまう風があり、残念であった。惜しい。
住宅の裏手の漁師の作業所は海風も、山風も吹き流れ、とても良い空間であった。このリアリティがもっと横溢すべきであった。
1、今日は少なからぬ審査員の皆さんと昼過ぎの汽車で茨城大津港に出かける。
2、「忙しかったんですか」と若先生は先ず尋ねた。
「ハア、申し訳ありません、出たり入ったりが多くって、来れませんでした」
「相変わらず、インドやベトナムですか」
で、どうやら先生にはアジアは病の巣窟らしきのイメージがあるようである。
3、「東京オリンピックの新国立競技場では、何と名を言いましたかね、年寄りの建築家の方が色々と反対していますよね」
と、若先生。先生はわたくしが建築関係の者であるのを知っている。
又、その口振りから、その名前を知らぬ年寄りの建築家に、つまり槇文彦に、ほのかな共感を持っているのもすぐに知れた。
これはイカンと、
「イヤ、あの人の言っていることも実にオカシイんですよ」
と静かに反論する。
しかし、かくかくしかじかで、いわゆる世論と言うか、世の人々の間では、老建築家槇文彦はどうやら、正しい人らしきのイメージが形成されてしまっているのを知る。
吉良上野介らしきが、大石内蔵助の後割として世間にはどうやら写っているのだ。
本当は吉良なのに、世間には山鹿流陣大討を打ち鳴らし、吉良邸に討ち入った大石内蔵助として、すり替わって写って見えている。
これはオカシイことであるけれど、今言っても仕方ない事である。
1、心身ともに反発力、すなわちバネがゆるんでくると、自然に読む本もゆるんでくるようだ。世田谷村にはわたくしの知らない本が沢山ある。子供達が暮らしていたので、その名残りなんだろう。そこらに落ちていた本二冊を昨日は読んだ。
2、全ては皆、忘れ去られる現実がある。ただし、図書館に奥深く収蔵される本の数々を除いて。ボルヘスは図書館に秘教世界の宇宙を視た。無数の本のインデックスを深く残し続けた。凄い人間がいるモノである。
1、6月13日 土曜日 朝、中国雲南省からの、生茶と共に送られてきたBLACK TEAを飲んでみる。これも又、実に香ばしい。
2、遠く、中国雲南省少数山岳民族プーランからの、今日は黒茶を飲みながら、思いつくままに。
1、4月26日に結果が出た世田谷区長選挙の報告と二期目の抱負などが区長より語られた。
ジャーナリスト早野透、社会学者宮台真司らの話もあった。
ダブルスコアー以上の差をつけて区民の得票を得たことの分析が興味深かった。無所属で出馬
したが、結果として自民、公明、共産各組織票もほぼ同じに流れ込んだようである。
区民党を名乗った効が実ったのと、保坂のぶと区長の日々の活動が評価されたので
あろう。全国的に見渡しても、分権自治に軸足を据えた政治家はあまり見当たらない。
二期目をキチンとまっとうすれば、保坂区長は一方の旗頭にもなり得る形質を持つので、
実に楽しみではある。
2、聞けば世田谷区には外国人が15,000人ほども在住しているそうだ。また学校、自動館
他の公共施設は(場所と言っていた)700カ所にも及んでいるらしい。
1、6月11日今日は夕方、世田谷区長保坂展人の会が三軒茶屋で開催される。マア
これも昨日の烏山地区での親ボク会と似たようなモノだが、保坂展人が思わぬ大差で区長再選を果たしたので、多くの人間が参集するのではないか。皆さん思惑という程のモノも無く、ボンヤリとカヤの外にいたくない程度の不安からだろう。
カヤの内、外という事で言えば、新国立競技場のジタバタ騒ぎが新聞、TV等で報道されている。新国立競技場国際設計競技の審査委員長であった安藤忠雄事務所に対する小さな批判も、いかにも週刊誌的に報道されているようだ。
旧国立競技場はすでに解体されて、すでに新競技場建設への工程はカヤの外からも着々と進行しているやに見える。
ただ、新国立競技場、ザッハ・ハディド案に反対を表明していた槇文彦、大野秀敏(彼等は師弟関係である)が今度は1650億円で建設可能だという代替案を提示している。彼等は旧国立競技場の、たしかリノベーション案を唱えてもいたような記憶があるが、その案と、今度の案の関係の整合性は全く感得できぬ。旧競技場の廃材(ゴミ)利用などの新しいヴィジョンらしきのカケラも見当たらない。彼等が提示する代替案はただの二流、三流のそれこそ凡庸なる巨大ゴミなのである。
それくらいの事はカヤの外に居るわたくしにだってわかる。
2、1964年の東京オリンピックは上り坂の経済、人口増加を踏まえて名建築、丹下健三設計の国立室内競技場を生んだ。
戦後の日本近代建築の頂点となった。
おそらく
ザハ・ハディドの新国立競技場案はこの丹下健三の国立室内競技場デザインを強く意識していたものである。地理的にも神宮の森を挟んでそれは対峙している。
それは日本の近代史のみならず近代建築史の流れの構図としても重要である。
槇らの代替案らしきにはその様な歴史認識、すなわち近代建築家としての矜持の断片すらも感じられない。確かに、日本経済の将来は明るくないだろう。しかし、下り坂の時代には下り坂の時代の結晶、すなわち文化の側面が浮上するであろうことも確かではないか。そうあってもらいたい。
昨今の新国立競技場のジタバタをカヤの外から眺めていて、特に建築家達の対応の、よくよく見ればシェイクスピアの笑劇にも遠く及ばぬ猿芝居めいた振る舞いに驚いている。この猿芝居まがいはカヤの内外の境界線上に在る者たちが演じている一種の権力闘争である。極めて小政治的な芝居でもある。その事はキチンと見てゆかなかればならぬ。建築家はこの様な国家を代表すべきプロジェクトに対面せざるを得なくなると、時に赤裸々は本性を露出する。正義面の仮面の下には、ただのジェラシーであったり、したたかな保身であったりするものである。
私はザッハ・ハティドの案が選出される過程で審査委員長安藤忠雄と共に審査委員としてザッハを推した故・鈴木博之から、その後の経過のゴタゴタの断片をもれ聞いた事もあった。とれとは別に槇文彦等の執拗なイチャモンの付け方はいささか異常である。自案の代替案を持ち出すのは、もっての外である。この正義面した妙チクリンな振る舞いの意に何が隠されているのか?
3、山口勝弘氏から星の印が彫り込まれた瓦が送られてきた。デザイン・山口勝弘、制作・山田脩二の見事なモノである。純粋な、商売気抜きの芸術家なんてあり得ようが無い者でしかない。しかし山口勝弘は今や、実にリアルな仙人状態に突入している。その行動に隠された商売気は99%に無い。1%くらいは残しておかぬと生きるに良くはない。
この瓦を雲南省山岳高地少数民族プーラン族の第1期モデル空間の屋根に使ってみたいと考えている。この淡路瓦を作ってもらい、その一部にこの星瓦を使いたい。天に近い集落の屋根に、星瓦があっても良いのでは。
1、インド・VADODARA DESIGN ACADEMYより今春の国際ワークショップのカタログ草稿が送られてくる。異文化間の相互作用 Cross Culture Interactionと題された、なかなか堂々たるものである。「DOS SIER」のシンボルワードが付されている。
STUDIO GAYA - VADODARA DESIGN ACADEMYとの共催ワークショップであり、来春も続けていくので、近々、このカタログは公開する。
2、今日は久しぶりに芳賀言太郎が地元の会に来るそうで、どれ程成長したか、あるいは全くしていないかを視るのが楽しみである。
1、まったく、久し振りの山田宅訪問である。娘夫婦と孫二人が同居していて、適度ににぎやかであり、良い。家もそんな状態を反映していて変化している。遠くの内海の姿が良い。その夜は旨い魚と野菜、デザートに手作り水ヨーカンまでいただき、丁度良く酔い、騒がず、11時頃には眠った。よく眠った。
2、何日分かの世田谷村日記を書き、いささか疲れて、今、正午である。今日はジタバタせずに休息したい。
1、8時過東京駅から新幹線で浜松へ。櫻井氏と車中で談笑。櫻井さんとゆっくりお話しするのは、考えてみれば初めてであり興味深かった。審査の旅の役得である。
2、設計者の小堀哲夫さんは40そこそこの若さである。数日前のダイキンの研究所の設計者も竹中工務店の同じ年頃の若者であった。二人とも、タフそうなメゲないタイプの人間のようなのが面白い。聞けば陣内研究室の卒業との事。法政には勿論、丹下健三同級生でもあった大江宏が中心に居たのだが、大江宏の細妙なデリカシー、流麗な美学とは違う世界だなと直観する。
建築は実にしっかり、総合的に考えられていて40才そこそこの若さの結実とも思えぬ。組織事務所でキャリアを積まれたそうだ。
天竜川を望む丘を切り崩して、人工の床スラブを段状に架けている。その人工の床に独特な人工的曲率を持つシェルターをかぶせている。すでに世界では多くの先行事例があり、既視感の中の作品ではあるが、それでも上手にそれを日本的に消化しているのが良い。そんな意味も含めて、いかにも日本的な作品である。実物も内部の質感、色、天井の光と材質など実に日本風(和風)である。
3、これは堂々たる和風建築である。地下二層、地上は平屋の瓦屋根が乗る。新幹線駅舎に隣接しているので、2020年の東京オリンピック時には外国人観光客、特に世界の建築関係者への小さなメッカとして位置付けられるようにすべき建築である。日本の伝統というべきか、大工職人技術を切り口として分かりやすく展示されていて見あきない。
建築は鉄骨のダブルアーチと竹中が呼ぶ扁平に寝かせたアーチを合わせた構造が見どころだ。見どころを見せぬように意を配るところがいかにも竹中流である。
要するに、スケールは全く異なるがザハ・ハディドの新国立競技場のダブル竜骨をより、密やかに隠した構造のアイデアである。四隅に大きな荷重がかかるのを、200mmのムクの鉄柱で支えている。
その現代的な構造のアイデアを見せるか、屋根で隠すかの違いなのである。
4、一人淡路へ向かう。
竹中大工道具館では良い茶室も見て、こういうところに移設された故事ある茶室は、いかにも現代を感じさせ、いいもんだなあと鈴木博之だったら、何と言うかなと考えたりで楽しかったのである。死者は時に生き返るな、淡路島の山田脩二から、何しろガラガラのバスだから、終点まで乗ってくれと言われたので、いう通りにした。
5、山田脩二がドシャ降りの中、迎えてくれた。
1、9時、GA JAPAN135のためのインデックス、その3を書き終えた。
2、11時新宿あずさ13号に乗る。車内で村松映一氏と談笑。13時過茅野着。改札口で設計者に迎えていただき、車でダイキン・オー・ド・シェル蓼科セミナーハウスへ。オフィスビルや工場とは別に個別機能にゼネコンの人材がどう対応しているのかを見たかった。クライアントに弱いのは設計事務所もゼネコンも同様なのを知って、何故かホロ苦い。若い設計者も大変であったろう。わたくしだって中々苦労しているので他人事ではない。16時過ぎに再び茅野より新宿へ。車中、村松氏よりゼネコン設計部の担当者決定のシステム等うかがい興味深かった。
3、千歳烏山に帰り、閉まっていた長崎屋に潜り込み、ホッと一服する。久し振りにオヤジと話し込み、これも又勉強となった。日々、勉強だな。
GA JAPAN135のためのINDEX3
二川由夫がどんな写真家になるのか興味を持っている。二川幸夫は篠原一男が「野生の天皇」と読んだ如くに、本能的な嗅覚を持ち建築に近づいた。恐らくそんな父親の、特に建築に接近する姿を間近に見続けて、二川由夫は父を視る経験の中から、自分流を組み立てているのだろう。二川由夫は高度な建築教育をアメリカで受けている。「由夫には銭かかってんだから」と父親も言っていた。ただし建築設計の径には進まなかった。ハナからGAの二代目が決まっていたからだ。「やりゃあ、設計くらいお茶の子さいさいよ」と、これも父親が自慢していた。
二川幸夫の大きかったのは、名カメラマンであったばかりではなく、何を撮って、それを出版事業として育てるかに腐心したことだ。恐らくは二代目二川由夫は
そんなことを中心に頭を巡らせているのではないか。
余計なお世話ではあるけど。
生前の二川幸夫には「李相原の建築を中国語圏でやったら、当たると思うんだけれど」と言ったこともあり、たしか二川幸夫は北京オリンピック・メインスタジアムを撮る。ロケハンで、李祖原の、当時北京モルガンセンターと呼ばれていた巨大複合建築を訪れているはずである。
しかし、二川親子は共々に李祖原の建築(※1)を認めなかった、というよりも、接近しようとはしなかった。二人共にアメリカ型の文明に深く傾倒していたからだ。二川父子の骨格の一つでもあろう。ビジネス感覚は実にアメリカンなのである。明らかにヨーロッパ中心に発達した近代建築様式は、遂に結果としてアメリカには根をおろすことが出来なかった。(※1李祖原の代表作は今の所台北101である。)
グローバリゼーションはアメリカナイゼーションであり、わかりやすく言えばコマーシャリズムを中心とした文化の階層性具現の金の力でもある。
スタジオGAYA、すなわち今のところイシヤマの中国での展覧会が、今年末に上海で開催される。されるではなくって、する。本人がそう言うのだから間違いなく、飛び切り良い展覧会になる。オープニングには李祖原はもちろん、二川由夫にも声をかけるつもりだ。色々なことが、あった。又、これからもあるだろう。
今、中国雲南省山岳高地少数民族のクライアントから、はるばる送られてきた、をいただいている。旨い。
1、11時半星の子愛児園新館に藤森照信、二川由夫来る。しばし見学。代々木のGAへ。藤森照信との対談。14時過まで。この間の事は6月25日発行のGA JAPANに掲載されるので、買って読んでもらいたい。
もらいたいなんてずいぶん下手に出ているけれど、この日記の読者諸賢は、これ迄恐らくは20年近くも、さんざんパラ(造語である。さんざんと原っぱを合成しているつもり)タダの立ち読み状態を続けて来たんだから、一度くらい銭払って本くらい買え!と言いたい。
2、ぼしめいは、墓誌銘である。
小林さんは東京杉並あたりの、アパート一人暮らしである。訪ねたことは無い。
驚いたことに、この『ぼしめい』が実に良いのであった。何が良いったって、なにしろ品格である。
小林さんは元左官教室(黒潮社)の名編集長であった。青空秘密結社なる、おどろおどろしい、しかし当然バカげた、たった一人の結社らしきを名乗り、貧乏暮しの合間、合間にポツリ、ポツンと私家版の詩集らしきを送ってくるのであった。
淡路島の酒仙山田修二も老いて、イヨイヨ品格が深まっている。品格てえのは銭では買えぬモノである。
この小林澄夫さんの『ぼしめい』は多分、絶対に入手不可能なモノである。本屋なぞにはもちろん並んではいない。
でも、余りの品格振りに驚き、人にも入手をすすめたくなってしまった。
一冊、一冊が恐らくは、小林さんの手作りである。
で、欲しい人が万が一でも居るようであれば、いきなり、〒168-0063杉並区和泉4-21-19-101 小林澄夫さんアテに、現金五千円同封して、譲って欲しい旨の手紙を書くように。
もしも、小林さんの手許に、まだ余分な本があるようだったら、送ってくれるかも知れないし、なければ、それ迄のことである。
五千円捨てたと思って、忘れるしかない。
1、11時岡山県立美術館で木本一之さんと会う。すぐに相談を始める。14時美術館でのわたくしの話を始め、15時半終了。
7月に岡山県閑谷学校で話をする予定があり、それは中国上海での、わたくしの展覧会と密接な関係を持つことになる筈である。その関係についてもすこしばかり話した。
2、20時半頃、どうやらマグニチュード8.5という大きな地震が関東地方、父島あたりで起きたようだ。鹿児島の火山の噴火といい、やはり大きな厄災が身近に近づいているのだろうか。
3、一見すぐに不思議な感慨を得るが、これは明日のGAでの藤森照信・二川由夫との対談で話すことにするので、記さぬ。藤森照信の謎とでも言うべきであるが、それが解けた。9時に開館とて、大勢の来館者の行列に混じって入館。
4、東京着昼過ぎ。車中で建築の印象を振り返るが、いきなり得た思いつきの前に、皆、吹っ飛んでしまうのであった。
米原駅のプラットホームの風が心地よかった。
5、カンボジア・プノンペンのウナロム寺院に建てた「ひろしまハウス」以来、何が起きても、それ程驚かなくなっているが、用心するにこした事はあるまい。
1、5月29日 早朝福山城を散歩する。天守閣が良い。
2、昨日28日朝、羽田より村松映一氏と共に九州に飛び、午後筑前大分にて古森弘さんの納骨堂を見学。JR福北ゆたか線車中で韓国よりの夫婦に会う。特攻隊姿の兄弟?の写真を見せられて、何故か痛く感じ入った。全く戦争の爪跡は消すに消えぬなあ。
3、再び本日29日 9時過の山陽本線で福山より東尾道に移動。改札口で濱田昌範さんに迎えられる。車でご自宅へ。小住宅であるが、住宅らしからぬプロポーションを持つ。すなわち建築である。1950年代の、いわゆる日本近代建築の初心を感じさせる作品である。設計者の建築への想い止み難しと言った風が感じられる。
4、お別れして、11時汽車(電車)で村松氏は福山で、新幹線に乗り換え東京へ。わたくしはそのまま岡山へ。13時前岡山。強い陽射しの中をテクテク歩き、岡山城直近のホテルへ。
夕方世田谷区役所訪問。子ども・若者部の人事が一変したようで、部長・課長に挨拶する。せっかく区役所に来たのだからと保坂展人区長にも会った。霜村亮区長室長に紹介された。
行き帰りの交通機関、他を利用してクール・オブ・ジャパン・バンのスケッチをすすめ、アイデアらしきを得た。
昨夜から今朝にかけて、インドのネール元首相の『自由と平和への道 アメリカを訪ねて-』(1952年)を再読した。
アメリカを訪ねて、主に新聞社記者クラブ、大学、国会などで数多くのスピーチを残した。それをまとめたものである。
異様な感動を覚えた。以前読んだ時にもこんなに感動したんだろうかといぶかしむ位であった。
感動の素は、こんな深い思想を持つ政治家がいたのだ。につきる。特に我が国では現首相を含めて、しばらく、誰が考えても思想どころか、教養も足りぬ政治家に国民がなれてしまった。政治家というのは集金力に長けて、二枚舌で無教養の典型だと、実にわたくしも考えるようになっている。
ネールの著作は他にも少なくはない。インドの近代化に対する諦念と裏切に満ちたもの、が印象的であった。このアメリカでのスピーチ集はすでに半世紀以上も時が経つものである。本も古くなって茶色に古びている。しかし読むにその内容は十二分に今に通じるのである。示唆するモノも相変わらずである。
早朝スタジオGAYA二階の仕事机で過ごす。眼前の樹々の緑が目にしみる。
「プーラン族の集落計画5」を書き継ぐ。今日も現場の仕上げに出かける予定である。
星の子愛児園新館 第2のインデックス
(第1のインデックスは日記410参照)
午前中は左官職の宮崎貴夫さんの仕事につききりでその仕事を見た。良い職人は呑み込みが早いので、すでに彼はわたくしの言うことをたちどころに理解する。そして、やってみせる。
この現場は新旧の建築が接合されている。それで随所にその衝突の矛盾が吹き出てしまう。新しいモノを作る為にやむなく古いモノを切開せねばならなかったり、ディテールが随所で歯こぼれを見せてしまったりである。特に金属を切開してしまったところは人間が触れるには痛々しい感じがしてしまう。特にこの建築は小さな子供たちのためのモノでもある。その痛々しさは決して許されない。
それで新館旧館が衝突する部分には柔らかい材料を扱える左官職の手を多用することにした。わかりやすく言えば金属やコンクリートの切り口や、角を左官の手で柔らかく、くるんでやる必要があった。
その典型が新館入り口の階段まわり、旧館の外部踊り場まわりに多くある。今朝はその多くあるなかの二カ所ほどの仕上げを宮崎貴夫さんにやっていただいた。金属をくるむ(包み込む部分)が多いので、どうしても人間の手による曲面が多く出る。子供の身体への対応としても必要である。そんな作業を数日やって過ごしたのだが、どうもわたくし自身が納得できぬところもあった。眼に焼き付いてしまっている、カタロニアのアントニオ・ガウディのコロニアルグエル地下礼拝堂のあるディテールまがいにしか見えぬのであった。コロニアル・グエル地下礼拝堂まがいなら立派なモノじゃないか、と想わぬでもないけれど、それはそれ、やっぱりイヤなんですなあ。自分で自分を許せない。そんな事、誰もわかりやしないの声も聴こえる。遠くから聴こえる。
それで、これが最期の試みだと、宮崎さんとの二人の作業となった。これでダメならガウディまがいで諦めるしかない。結果、なかなか良いモノに仕上がりつつある。特に子供達には好かれるんじゃないかのモノに仕上がるだろう。子供たちの柔らかい手も決して傷つけることはないだろう。
この部分の造形は、そして材質の組み合わせは大きく展開させてみたい。
ガウディ、ブリューゲル、水木しげるがミックスした如くの造形である。なによりも、笑いがある。おかしいのである。
余程の目利きでないと、勿論見逃してしまうとも思われるが、この新館の見どころ、そして触りどころの一つである。この建築は眼で見るばかりではなく、やはり随所に触れてもらいたい。触覚的建築でもある。
1、昨日は昼間現場で関西の屋上緑化専門業者と理事長を交え今後の件を討議した。自然の中の緑化事業と都市内でのそれとの問題のあり方の相違を再び実感させられたが、対応してゆきたい。
2、高平哲郎のクール・オブ・ジャパン構想への準備を少しずつ進めているが、彼の演劇シナリオのスピード感に対応するには先ず何よりも劇場舞台機構を良く知る必要がどうしてもある。高平哲郎が想定している四国金比羅大芝居劇場にも廻り舞台、迫り、吊り物、から井戸他の仕掛けが多く、また、上手下手の舞台があり、地下通路で役者が通り抜け掛け合いが可能となっている。仮設の劇場でそれ等がどこ迄可能なものなのかもリアルに把握したいものだ。
1、 龍谷大学より京都におけるナーランダ大学展について連絡あり。アーメダバードにその旨伝える。インドバローダのデザインアカデミーより今年のワークショップに関する記録他について連絡あり。
2、今日は10時よりスタジオで高平哲郎のクール・オブ・ジャパン・バンの身内での打ち合わせの予定。2020年東京オリンピック開催に合わせた企画なのが面白いのだが、さてどうなりますか。新国立競技場は相も変わらずゴタゴタ続きである。鈴木博之は天上からどう視ているか、知りたいところだ。
わたくし奴は登山家(ヨーロッパスタイルの)は建築家の在り方(スタイル)と実に酷似していると考え続けていたが、それはたかだか5000メートルクラスの山岳においてつちかわれてきた概念でもあった。世界の山岳は登山家にとってアジア・ヒマラヤに目標が定められてすでに久しい。が、建築家の世界は、未だにヨーロッパアルプスの高度、大きさの世界の中に在る。
ヨーロッパアルプスの高度の世界は、ヒマラヤにとっては、アルプスの少女ハイジの世界ならぬ、裸足の羊飼いの少年少女の世界なのである。
かつて本多勝一(※1)はエベレスト(現チョモランマ)が登頂されて以降、登山は終わったと言明したけれど、同意する。我々、建築家の世界も実に終わっているのだ。で、どうするかの今なのである。
※1 朝日新聞記者、京大卒。ルポルタージュを中心にニュージャーナリズムの旗手であった。
GAより連絡あり、星の子愛児園新館(増築棟)のGA JAPAN掲載をJAPAN135にできぬかとの事。藤森照信の最新作ラ・コリーナ近江八幡と同時掲載となるようなので対談もせよとの事である。
しばし想いを巡らせた。「建築と自然の共生における不可能性・可能性」をテーマにしたらどうかと考えているとの事である。
異存は無いけれど、チョっとパンチが弱いなと感じた。まだ二川由夫に相談はしていないけれど、私奴としたら折角GAに掲載してもらうのだったら、このウェブサイトとペーパー(雑誌)との新しい関係を模索したいとも考えていた。それ故にサイトには写真らしきは一切ONしてこなかった。
映画館で見る映画とコンピューターで見る映画とではまるで別世界である。映画館の暗闇で見る映画は映画館の空間があり、やはり他の観客との共時間とも言うべきが共有されている。時間の空間がそれを共有させる。コンピューターで一人見る画面とは異なるのだ。
雑誌も又、そんな共時間とも言うべきを潜在的に持つ。それを編集者もまだうまく表現できていない。読者もそれに対するツールが希薄なので、それを体験できぬ。で、そんな事を自覚していたので、一度やってみたいと考えていた。だから、自分なりにひっそりとやってみたい。
ウェブサイトの強みはスピードと超安価であることだ。読者は金を支払わずに何がしらの情報を得ることができる。
弱点は格式らしきの枠を持つ記録性である。表現者としての建築家は、何よりも他人に知ってもらいたいからこそ表現している。当たり前だ。コンピューターへの垂れ流しであろうがGAへの掲載であろうが同様である。しかし、コンピューターメディアはいかにも軽い。単純にペーパーの重量(質感)を持たぬ。だから垂れ流しと同じに忘れ去られる。
建築はそれに比べると、いかにも重い。デンと大地に接着して動くことが無い。だから建築の大半は世の人々に知られることが全く無い。そして建築物に関する情報も実ワ、同様である。人々の圧倒的な無関心の中にあり続ける。
それで、結論らしきを言うと、スタジオGAYAの最新作(デビュー作とも言える)を発表するに際しては6月25日発刊のGA JAPANの前触れとして、ウェブサイトを駆使することを試みたい。
編集人としたら、こしゃくな藤森照信奴の最新作とGAYAの最新作をブチ当てて、読者の関心を引こうとの考えであろう。
幸いペーパーは重く、高価である。対するウェブは軽く、安価である。
それで、ここはひとつペーパーに軸足を傾けてみることにしたい。すなわち、この間のウェブの一部は6月25日に向けて、 本編の索引情報に断片化したい。すなわちインデックスとする。
第一のインデックスはこの日記の403である。六耀社からの『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』への、書評ならぬ感想文をいささか長く記した。この感想文は極小の藤森照信論にもなっている。振り返って一読されたい。編集人からは「建築と自然の共生における不可能性・可能性」なるパンチの弱いリングが今のところ与えられてはいるが、わたくし奴は、これはわたくしと藤森照信との「原っぱ対決」である。自然なんてコシャクな枠ではない。都市の内外にかろうじて残っている狭間でもある「原っぱ」に対する考えの対決なのである。
明日は早朝スタジオGAYAの二階で先ずは高平哲郎の「クール・ジャパン・バラエティ・バン」台本を読み通してみる。大きさのあたりをそろそろつけたい。
次に現場に出て今日の仕事を仕上げたい。午後にはGAYAに戻り、世田谷式保育園の基本方針の自己確認をすませる。余力があれば、中国プーラン族の集落計画の第一ステップのデザイン及び年末の上海での展覧会のプランを考えてみたい。世田谷村の第三期工事の小さな部分くらいはアイデアをひねり出したいものだが、出来るかどうかはわからない。
スケッチは取っ掛かりで、職人の動きを見ているうちに次々とアイデアが整理された。次々とアイデアが生まれるではなく整理され単純化される
ようになったのが、年をとっての経験である。左官職人は究極の生身の手の職人であり、本来的に手の自由、不自由そのものを生かすに極意がある。
それ故作ってもらった部分は少しばかりのゆらぎがある。そのゆらぎを更に生かすために、波板を小道具にして、つまり型にして乾く前の一瞬に押し付けてもらった。ここは言葉ではうまく伝えられない。触れていただくしかないだろう。この部分は視覚+触覚を意識した部分である。
新館と旧館がぶつかる部分は、工事の必要から一部壊したり、切断した部分が少なからずあり、その部分をどうまとめるかは新築には無い頭の使い方をしなくてはならなかった。昨日の作業はその典型である。
GAYAの二階に上り、自分の居場所の廻りを片付ける。仕事机の引き出し
を開けたら、鈴木博之からの葉書や、ネパールのBHAKTAPUR=CHANGUNARAYANの
小資料などが出てきた。一瞬感慨にふける。二時間程で片付けをとりあえず
終了。片付けは自分の歴史を振り返ることに通じるな。
芳賀言太郎は今、キリスト教の牧師になるための勉強を大学に入りなおして
始めている。
現場では左官の仕事につききりである。一階土間部分の仕上げ、及び折り返しての二階への踊り場部分の仕上げに張り付く。土間部分の仕上げには指示通り昨日の休日にオリジナルの波板作りの道具を作ってもらった。左官の道具は時に職人が作るものなのは伊豆の長八美術館の現場で学んだことだ。
六耀社からの『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』読了。中国雲南省山岳少数民族プーラン族の茶畑を訪ね、茶三昧とも思われる数日を過ごしたばかりであったので、両氏の茶席を巡る討議は興味深かった。流石だなと考えたのは両氏ともにあとがきにかえて、の対談余録 を設けて、それぞれが「茶室とは何か」磯崎新、「茶の道は神仙に通じる」藤森照信を書き残していることである。
恐らく良質な日本建築史家、あるいは中村昌生などの茶室研究家が読めば、この対談は真赤に赤が加えられるのではないか。わたくし奴には丹念に読後の書評らしきを書き述べる勇気も教養も不足している。
都市史家伊藤毅がいつだったか「磯崎さんの書く本はうらやましい。何の実証も抜きにして自由だから」と洩らしたことがある。わたくし奴も師であった渡辺保忠が『伊勢と出雲』を書いている時の眼を光らせて青白い顔の迫力を知っているので、この二人自由で気楽だなと思ったりもする(ちなみに磯崎新の最良のエッセイとも考えられる伊勢に関するモノは。それ以前に渡辺保忠が指摘していた事、つまりはその創建の時期の虚構の存在についてが根本に在るので、エッセイとは言え、先行思考例くらいは注釈として入れるべきであろう。と、永長考え続けてきた文句をつけたい。伊藤ていじの著作に対する日本建築史家太田博太郎の、伊藤ていじよ自重せよの大書評(『国際建築』)を知る故に、学問の道はそれなりの厳しさがあるのは知るし、渡辺保忠からタタキ込まれたのは、キミ学問をなめたらイカンゾと言う事だけでもあった。)つまり歴史学は諸学の王であり、しかも身入りが少ないので俗世で報われることも無い。
つまり何を言いたいのかと言えば、磯崎新と藤森照信の、この対談本はそのあとがきに代えての、二本の短い書物が最も大事で、面白いと言う事である。
磯崎新はどうやら最晩年を文人建築家として迎えようとしているようで、これからはアンビルトの絵や、夢想三昧の境地に遊ぶつまりは建築千人の雲上人になりつつある。だから、もう何やっても、何言っても実社会からは逸脱しているから良いのである。
それ故にあと書きにかえての、あとがきの更に一番あと、つまり尾てい骨の部分に「藤森さんと長々と語り合ってきて、やっとこんな傲慢を記せました感謝!」と書き残している。自作の「有時庵」の、自賛の恥じらいからである。この、こんな傲慢には、渾々たる歴史(時間)に対する自己批評が入っているのは間違いなかろう。
又、対談相手の藤森の天衣無縫とも呼ぶべき大胆さへ、次節の開陳に対する怜悧な批判も交じっていよう。それに、少しばかり、というよりも大きく日本建築史の流れの大道を、意図的に外し、外れてきた道を歩いていた自身へのホロ苦さもあるだろう。このホロ苦さは日本列島に生をうけた、そして近代建築家になった人間には、それこそ普遍的にある苦さである筈だが、現実にはどうなんだろうか。
ともかく、この長い対談は磯崎新が珍しく相手の懐に入ってなされた対談である。磯崎新は自身を大矛盾の内に置かせている。茶室なぞには眼も向けぬと言う近代建築家としての自分と、その近代建築家としての自身が、日本の近代建築家としては故郷を失っていることの矛盾である。
藤森照信のあとがきにかえて「茶の道は神仙に通じる」は大変に面白い。
今は、磯崎新よりも余程先に、文人建築家になっている藤森は、実ワ、建築史家の王道を外れて作家(文人建築家)に脱落した人間である。
つい先だって亡くなった建築史家鈴木博之によれば「藤森さんの最良の著作は『たんぽぽの綿毛』だよ」だった。恥ずかしながらわたくし奴もそう考えていた。藤森照信の生まれながらの仙人振り、あるいは確信犯的なそれへの志向が充満していた本である。
藤森の仙人志向は実ワ、それ程簡単な径ではない。彼の数多い自慢の一つは「オレの家郷は天皇家より古いんだ。諏訪は出雲の系列だからな」である。烈々たる自負なのだ。藤森照信が縄文人を名乗りたがるのはその歴史意識が底にある。磯崎新の如くの意識的ではあってもつまるところは故郷喪失者とは異なるのである。
つまり藤森には自分の出自に対するたんぽぽの綿毛、すなわちノスタルジーが歴史観と直結している強み、が歴然として在る。
藤森の父親は息子自慢の武骨な、仙人みたいな男であった。藤森もいずれああなるのだ。なってもらいたい。
又、この保育園にはそれに対する膨大な知識(経験)が積み重ねられている。保育士主任の先生から「ここはこう変えたり、大きな家具のレイアウトはわたしたちがやってよいですか?」と声をかけてもらったが、保育に対する体験の濃度が、わたくし奴と先生とは別物の質の違いがあるのを、すでに知るので「どうぞ、お考えの通りに使ってください」と申し上げた。
その瞬間にも、各種道具には子供たち向けのシールが貼られたり、先生方の手書きのメッセージが付け加えられたりで、昨日の作品としての空虚さはドンドン変化していく。
そのエネルギーは本当に良いモノだなあと考える。
消防検査の前後を通して大きな部屋(空間)のささいな狂い他を修正させる。竹筒に電気器具が入り点灯、午後3時過GA二川由夫がオヤジゆずりのポルシェでやってくる。すぐに撮影を始める。今日は大きな内部のみの撮影である。
ほおっておいた方が良いのを知るので、わたくしは左官の仕事に張り付いた。旧館の一部をやむなく壊して、そこに新館をすべり込ませているので、どうしても場当たり的な破れと接合の場所が多く発生している。そこはつききりで原寸の指示が欠かせない。
白筆(チョーク)でコンクリート土間に原寸の図を描いて外構部分の納まりの伝達したり、これが設計の一番の伝達手段だが、
今の建設のシステムは中々それ(そんな事)を許さぬ方向へと進むばかりである。
左官職の集まりの技が際立っている。段取りも、各種対応の速力、そしてわたくしの考えの呑み込みも速く、的確だ。調布市深大寺
の伊藤左官工業である。若い親方(主任)は宮崎貴夫。この親方とは必ずもう一度あいまみえたい。左官職の中には群馬の森田兼次さんのところにいた者もいて、挨拶された。森田さんは伊豆の長八美術館の左官仕上げの現場を仕切った男で、以降、わたくしは大変お世話になった。日本左官業組合連合会の会長として職人気質を持つ人物として最後の人間であった。
左官は速力が勝負である。ここの集まりは速力、技、気質共に良くしつけられている。日本で抜きん出る集団になるだろう。
それ故、最終の仕上げのポイント、ポイントは左官職人を多用することとする。
夕方、千歳烏山でシンちゃんに会った。ネパール大地震復興支援をネパール、インド料理屋KC・ヒマールを拠点として繰り広げたいと決めたので、その相談である。
世田谷村の第3期工事を始めることになって、昨日それぞれの担当を若い者に伝えた。ウチの屋根も立派な草屋根であるが、稲田堤の草屋根と 比べるといささか時代遅れの感が否めない。最新型ってのは自動車同様にいかがわしいが、すこし遅れの型くらいに手直ししたい。せっかくの 屋上なんだが常日頃、屋根に登る生活をしていない。何故なら登りにくいからだ。それで直すことにする。
10時現場でアレコレするうちにGAの二川由夫、他が来る。まだ不充分な状態ではあったけれど、不充分な状態で見せるのも良いかとも考えた。
二川幸夫には未完のモノを見せて「アイツはオレに工事中のモノをとらせおった」とつぶやかせた事がある。
二川由夫には久しぶりに建築を見てもらった。親子共々、すぐに印象を述べる程に柔ではないが、「もし写真を撮ってくれるとすれば誰が撮ってく
れるのか?」「コレはわたししか撮れません」となった。親父に似てきたなあと思う。
さて、どのように料理してくれるのか楽しみである。小さい建築だけれど、小さいなりに力を尽くしたし、新館旧館と合わせて一本だの、つまり作品
として残したいの気持もある。ペーパーメディアへの発表はすべて二川由夫に任せた。時期、形式共に。
生前の二川幸夫には「オマエ、コンピューターで妙なことやってるらしいが、アレは品が無いから止めた方が良い。」と言われていた。つまり、今、
こうして書いているホームページの日記などを含めたプライヴェート、要するに極めて私的な情報を垂れ流すことを、止せと言われた。二川幸夫はいつもとは言わぬ
けれど、ほぼ正しい事を吐きつづけた人だったし、たしかに恥をしのんで垂れ流す体は事実なので、グサリと来た。けれど面と向かって止せと
言われて止めるわけにはいかなかった。マア、そんな事があった。
朝一番でイソイソと現場に出かける。すでに草屋根ブキのオヤジ一家が屋根に登っている。すぐにわたくしも登る。オヤジは当然一家言を持っている。草植えのひとつひとつに意見が合わぬこともある。近江八幡から持ち込んだアヤメ、稲他を屋根上にアレンジする。勿論道行く人々や、園庭で遊ぶ子供たちの眼を意識して。華やかな洋モノの花々は園庭側にまとめ、すでに白い花をつけている通称鉄道草はエントランスの上に、内外区別のつけにくい内部の外部から見上げられるようにも配慮した。そのアレンジの大方を指示し、余白は芝とクローバーとした。余白といっても大半の面積は芝としたが、すぐにクローバーがおおうだろうとの事。
三鷹にスタジオ・ジブリの小さな社屋があり、その屋根が豊かな緑草に覆われているのを見て数年はキチンと育っているかを観察していた。又、新しい様々な緑化技術の情報も仕入れていた。いろいろなやり取りの中で、やっぱり職人の気質を残しているところが良かろうと、関西からオヤジ一家を呼んだのだった。なにしろ、オヤジは口が立ち、スキを見せるとベラベラしゃべるのが玉に傷であるが、腕は確かそうである。何より代表者本人が屋根に上がり、土にまみれるのが良かった。
中国雲南省山岳少数民俗プーラン族の家の屋根にも棟飾りのようなランの花が植え込まれている。聞けば植え込まれたランの花は薬草であるそうだ。それを良いなとも考えたりもしたが、やはり日本の自然には合わない。と言うより気候には合いそうになく、やはりアヤメ、稲等を主体とした。
アヤメは紫、白の花を咲かせる二種を玄関飾り代わりに、左右の屋根に据えた。
今日は5月4日だ。昨夜も早く寝たので又も5時前に目覚め、そして床を離れた。
建築のページ・制作ノート31「プーラン族の集落のためのいくつかの建築計画3」を書く。7枚書いて、14頁までたどり着いた。多くの失敗を重ねてきた、ウェブサイトへの連載では。今度はうまくゆくかも知れぬと考え始めた。
10時、高平哲郎から送られてきた、「クール・ジャパン・バラエティ・バン」台本原稿no.2を読み直す。すごいスピードで舞台が展開するので、可変性の速力が舞台美術としては要になるな。
鉄骨の屋根に土と草を上げ始めている。草ブキ職人と鉄職人の折り合いはどうやらそれ程スムーズではない。草と鉄だからな。草屋根屋はなかなかの大阪商人でもある。
旧館と本館が狭い敷地の中でギシギシとブチ当たるところがある。そこの処理をどうするかが最後の課題である。室内室外共に細い乱れが生じているが、その乱れを生かすか、殺すかが腕の見せ処になる。
実物が動いてくれると、我々の制作ノートの意味もより明快になるなと実感した。
制作ノート、建築のページ他は出来上がる建築のインデックスである。いずれペーパーメディアに作品としての建築は発表したい。
そしてコンピューターによるサイトの各断片はその作品としての建築メディアの分厚い情報となるだろう。
昼前に現場に行く。
朝、三階のテラスで猫と一緒にウトウトした。やわらかい風に吹かれて心地良かった。現場は今日も多くの職人が
入り乱れ、追い込みの活気に満ち溢れている。クライアントには申し訳ないけれど、いつまでもこんな状態が続いたらどんなに
幸せだろうかと、あり得ぬ夢であるが・・・。
エントランスにグニャリと突き出した鉄の屋根には草がくるのだが、一番長く陽光が当たる部分に超小型のソーラーセルを
セットした。すでに佐藤研吾の工作ノート04/06 21に提示したアイデアを一気に具体的な形にした。全て現場の余りモノ部品で構成
したが、良い造形に仕上がったように思う。
午後は地上階にポッカリ残った旧館のコンクリートの穴に造形物を貼り込む作業、および旧館の重い門扉を工夫して再生させる
作業にいそしむ。いつもはキチリと精確な寸法に追われ続ける鉄骨職人に、「もっと自由に、デタラメにやれ」と指示。
わたくしだけが身勝手に楽しむ創造なんてのはインチキ極まる。それを実際に作る職人だって少しは楽しんでほしいのだ。でも、少しばかり
実物で示してやると、一瞬のうちに呑み込んであとは流れる如くに作り続けることができる。職人の持つ潜在的能力はすごいものがある。
音楽家の高橋悠治から、キチンと標準化されて統制されたリズムやハーモニー作り、およびそれへのトレーニングよりも、統制されずにバラバラな個人の表現
を作り出すことの方が余程高度なモノだと教えられた。ヤニス・クセナキスの直弟子であるから実に硬骨な作家であり、舌を巻くことが
多い人物であるが彼の言うこと、言ったことは不思議に耳に残るのだ。
門扉の制作は、これも又、すでにサイトにONしてある「GAYAの制作記録。建築のページ26」の、スケッチおよび考え方をベースにして、現場
で短時間で実物に作図して(描きこんで)たちどころに職人に制作してもらった。現場は今、時間と金に追われている
から、当然それを配慮しつつ一瞬のうちに物ゴトの作り方を決めなければならない。それ故に厚い現実の壁をすぐに乗り越え
なければならぬ。だから絵に描いたモチをたちどころに修正、又、破棄せねばならぬ。この現実のせめぎ合いが実に面白く、
スリルなのだ。
ともあれ5月2日は実に面白かった。
昼前に稲田堤の現場に入ったら、女性の若い左官職に会った。チベットでは女性の左官職は大事な役割をしているようだが、
日本もチベットなみになるのかな。しかし驚いた。左官は大工よりも体力がいるのでハンデはあるだろうが塗り壁のデリカシーには
向いているのかもしれない。
午後再び北烏山の住民説明会へ。10名程の人が集まってアパートの集会室で対話が行われた。話題の大半は子供達の発する音
に集中した。子供達の声や走り回る音を騒音とするか否かは論じても、今は仕方がない。国なり東京都の見解がより広く公表され、
更には法令化に近付けてゆかねば際限の無い空論の対立になるだろう。
「自分のところ(家)から遠くの保育園建設には反対せぬが、いざ自分の隣りに保育園が来るとなると、それはやっぱりイヤだ」が
大方の人々の本音であるだろう。わたくしだって自分の世田谷村の南隣りの比較的大きな空地に、ある日突然保育園の計画が生まれ見知らぬ
設計屋が説明にきたりしたら、モグモグと口ごもるのではないか。
4月30日 昼、少しはスッキリした現場に新しく出現した内外、新旧ハイブリッドの妙な空間でしばしの昼寝を決め込む。午前中の竣工検査は何とかクリアーした。職人たちは深夜までの仕事だったので皆少しばかり眠たそうだ。
夕刻おそく現場を抜けて世田谷の新設保育園の周辺住民への説明に出かける。基本的に保育園建設は社会的に大きな意味があると、考えなければやってられないことである。個々の住民の方々にとってはそれなりに
正当な考えであり、話を聞いているうちになぜか設計者が悪人のような気にもなってしまう。が、しかし、やっぱり話を聞き続けながらも保育園建設は実現せねばとの考えも益々強くなる。
二軒のお宅にうかがって説明し、疲れた。区役所の方、園の方と別れて渡邊と烏山までかなりの距離を歩く。
再び言うが、幻庵、開拓者の家の作品系列を40の歳月を経て踏襲し、さらに展開することができた。基本的に金属建築である。サルヴァドール・ダリがガウディ建築を批評し、「未来の建築は毛深いものになるだろう」
と述べ、ル・コルビュジェのモダニズムの平明さをほぼ否定したが、その枠内に在る建築である。工事が進行するにつれ余計な猥雑物を除去したので、基本的な思考の骨格がよりクリアーになった。
佐藤に「格好いいな」と言ったら「そう思います」だって。もう少し子供みたいに喜んだらいいのに。でも今のガキには初めての仕事らしい仕事であるから稀有な出発ともなっただろう。内部の高い天井がうねっている金属のあらわしになるので、その宙空に竹筒やフルーツ・パレットを漂わせた。その位置出しが中々困難なので、これは設計者がやらねば面倒だと、佐藤が高い足場に登ってスミ出しをやっている。「落ちるなよ」と声を掛けて
現場を去った。色の使い方もわたくし奴にも新境地を拓かせてくれたのではあるまいか。
昨28日は午後世田谷区役所烏山区民センターで役所の方々、厚生館福祉会の方々と待ち合わせ、北烏山の世田谷式保育園計画の周辺住民の方々への説明に回った。
2軒の家の方々に説明させていただいた。保育園建設は社会的には大事な急務とも考えられるが、建てられる周辺住民にとってはやっぱり様々な考え、対応があってしかるべきで、ていねいな説明努力は欠かせない。
また、周辺住民の方々を考えを聴くことは必須でもある。暑い中をテクテク歩いて、決して楽なことは無かったけれど、やらなければいけない事はやらなくてはいけない。
GA JAPAN134が送付されてきて、めずらしく読んだ。石山友美のインタビューがONされていて、これは清新であった。今のガキには無いフテブテしさがある。娘であるなと笑った。
表向きは今の若手の歴史家に対する批判の形をとってはいるが、彼女が指摘しているのは実ワ、建築アカデミー批判である。これはハッキリとしている。
建築史家だって人間であるから喰ってゆかねばならない。歴史、批評で食える人間は全く居ないと断言できる。だから、どうしてもアカデミーに寄宿することになる。それ故に身の置き処のしがらみにしばられることにもなる。時が経てば皆、セコくなる。セコくなるのは世間のしがらみからである。
そのしがらみの恐さを、最強であった建築史家・鈴木博之は良く知っていた。鈴木が居なくなって、そして、誰も居なくなったのである。その辺りの事をバカ娘ながら石山友美は良く見ている。マア、面白い記事だから読むべきであろう。たまには自腹で本を買うのも良いものです。
今日は1日中外回りで疲れそうだ。まだ4月なのに熱中症に注意せよとTVが叫んでいる。TVと冷蔵庫は口をきくなと言いたい。
4月27日
保坂展人世田谷区長選に当選。圧勝であった。これほどの大差をつけるとは、これは予想していなかった。
しかし、政治家というのは選挙に勝つほどにオーラが身につくようである。保坂展人とオーラという個人的、不思議なる力とは無縁のようにも思えるが、それはそれ、自民党、公明党の組織票を見事に打ち破ったのだから
やはり凄いことではあった。
4月26日 日曜日
今日は久し振りに休みたい。
朝方、心機一転書き始めたいと考えていた、建築のページ、制作ノートを書き始めた。
中国雲南省山岳少数民族プーラン族の集落計画に関するノートでもある。スケッチ他を少なからず得てきたので、それを使いながら進めてゆくことにする。
14時過、建築のページ引、5頁ほどの原稿を書き終える。我ながら面白くってついつい長くなった。プーラン族の建築についてが、自然に俊乗坊重源の大仏様につながってしまうところがキチンと面白いのである。
昼過稲田堤現場。現場事務所で中国雲南省プロジェクト構想をまとめる。明日上海に送付できれば良い。面白い計画なのでなんとか実現させねばならない。
4月25日 明日は世田谷区区長選の投票、開票日である。夜遅くには結果が判明するだろう。世田谷区の良識を信じたい。
夜、烏山区民センターでの世田谷区区長保坂展人の個人演説会に出掛ける。
多くの人が集まっていた。
保坂展人(のぶと)の話は大変に良かった。身びいき分を抜いても立派な話であった。社会福祉政策に於いて保坂のぶとは基本的に弱者の側にスタンスを置くと言明。弱者とは子供、老人を典型とする。子供は選挙権を持たぬが、それ故にこそ、つまり声なき人々でもあるので大事にしたいと述べた。又、世田谷区の一人暮らしの老人達の数の多さを具体的に説明した。三週間も他人と口もきけぬ人の多さを、わたくしも初めて知った。
限界集落は地方の寒村にあるだけでなく、高齢者も大都市においてそうなのだと述べた。その為の新しいコミュニティづくりを自分はやりたいし、一期目の区長時代手掛けようとしてきた。それを持続させて更に実のある都市内コミュニティづくりを目指したいとの事であった。わたくし奴も、ささやかながら「ワークforマイノリティ」のプロジェクトを続けているので、成る程なあと了解できた。
演説会には15年程前の、あまりにも有名な世田谷一家皆殺し事件の隣家の親族の方も、出席されており、保坂のぶとに自分の悲しさ、苦しさの話をジックリ聞いてもらい、とても助けられたと述べた。
人間社会は恐ろしい側面を持つ。かくなる被害者とも呼ぶべき人々をも差別しようとするところがあるようなのを知った。保坂のぶとの、そんな境遇にある人々の話の聞き上手を言いたかったようだ。隣に並んで座って聴いていた小川くんも、うなずきながら聴いていた。
わたくし奴も区長選に於いて保坂のぶとと支持を決めて、良かったなあと誇りに思ったりもした。良い演説会であった。
夕方、ほぼ鉄の曲面屋根が出来上がったので登った。新館の屋根の上からは旧館の、これも又、うねる連続ドームの全景が眺められる。旧館は「リアスアーク美術館」で使った造船技術による曲面づくりの面白さにひかれて、それを続行した。しかし、連続ドームが乗る箱状のモダニズム建築とのギャップをついに狭めることができなかった。もう随分昔のことのように思い出す。
苦し紛れに、ドームの土台にした二階建てのモダニズムスタイルを棺に例え、連続ドームの形状を棺としての、つまり、何かを封じようとする箱に例え、その箱の上にニョキリと出現させた連続曲面体を、棺に封じられたタブーである。なんて説明しようともした。まわりくどい考え方をした。
どうもわたくし奴の場合、説明しなくても良いことを、七面倒くさく試みようとする悪いクセがあって、それが足をしばったりもしてきた。
新館のうねる屋根に登って、新旧の建築双方を風に吹かれながら眺めて、これは双方共にわたくし、あるいはわたくし達の作品であるが、まるで異なる種族の建築に属するのを直観した。
自分で考えて、つくったモノであるがそれを客観視するには、やはりある程度の時が必要なのだ。
何故ならば我々は物質を介して考え方を表現しているから。物質の多くは語ることをしない。しかしながら時に精魂を傾けて作ったモノは知らず知らずに語ることがある。
この新館もそうだ。
そして、それは旧館と隣り合わせの位置に建てられたので、その双方の時間差の如くをも自然に表現させてもらった。その事からも得られる直覚であろう。
設計者に喜びがあるとすれば(あるから生きているのだけれど)時と共に、ゆっくりと自信が変化する、自分の能力も動いていることを自覚できた時、その瞬間の積み重ねの質量に触れたと感知するにつきよう。
今夕、自作の屋根に登って、それに近いことを感じ得たのである。
この事はもう少しゆっくり時間をかけて考えてみよう。
鉄骨工は総じて高齢者が多く、若い職人は居ない。扱う材料の重量が重いのと、使用する道具の値段が決して安くはないので、身一つで簡単にトレーニングするというわけにはいなぬからだろう。それに若い人には
鉄骨工という名よりは大工という響きの方が、何処か嬉しいという事もあろう。
それに鉄骨工は自分の工場を持たねば加工も出来ぬという近代性の壁もある。
7時半烏山駅前に現世田谷区長保坂展人が立つとの事で、家内共々出かける。そのついでに選挙ポスターを貼り込む。世田谷村にも勿論ポスターを貼る。
こういうのは決して嫌いではない。
田代巧業の森の中の作業場へ行く。丘の上の広々としたグランドで弁当を広げていただく。空気が良くって何よりだ。いささかの鉄細工のお手伝いする。
帰りにフキノトウやら、タラノメ、そしてタケノコをいただく。田代さんは鹿児島生まれの鉄骨業の前は百姓をやっていたとの事。
稲田堤の現場は鉄職人と木工職人が入り混じって協働することもあり、面白いですと、言っていただく。普段の現場では他職とあんまり話することも無いので、新鮮だとの事であった。
現場の職人だって、我々設計職と同じで、やはり働く喜びってモノが第一なんだなあと思った。つまらなきゃあ、やってられない職業である。お互いに。
昨日の稲田堤の打ち合わせで世田谷区の保育園計画の基本がほぼ了承された。中国山岳少数民族のための計画と同時進行で進めることになる。
日本の工業化建築の実体を考え直す、わたくしには良いチャンスになるだろう。又、そうしたいと考える。
稲田堤の「星の子愛児園新館」の設計テーマのひとつは屋根の緑化である。これについてはプーラン族のスレートぶきの屋根の草の装飾を実見することができたので、これを更に生かしたい。入り口屋根の日本の
民家の伝統のひとつでもある芝棟をさらに進めて、入り口と園庭側の際にアヤメを植え込むことにした。昨日概略を佐藤研吾に指示した。内部の竹の造作、果物パレットの使用も自信をもって進めることにしたい。
「マンメイドネーチャー」の良いモデルになるだろう。