ドリトル先生動物病院倶楽部から正一位いきもの稲荷社へ

OSAMU ISHIYAMA LABORATORY

- NEWS -

2013.12.17
再びモヘンジョダロ近くの烏山神社1

はじまりの章1

 思い付いてホンの少し、ピクリ位に動いて、そのまんま立ち枯れてしまった計画がゴミの山程にあります。いちいち想い出していたらキリが無い。自分の無能振りをさらけ出しさらなる恥をさらすに終るでしょう。

 しかし時に時々、時間は妙なねじれをその中に持つようで、立ち枯れたモノがオヤッと身震いして、ブルブルッと身をゆすって姿を現わすことがある。偉そうな口振りで相すまぬが、創造らしきの楽しみの一つでしょうか。

 何年か昔に我ながら変テコリンな思い付きを得て、幾たりかの人々にお知らせまでしてしまい、ドリトル先生動物倶楽部を結成いたしました。結成とは大ゲサに過ぎますが、何度か会報らしきの紙片を送らせていただきました。この倶楽部は何処かにとても良かろうと思われる動物病院を建設したい、その為の準備会の趣きのモノでありました。すぐに例によって立ち枯れいたしました。当時の会員の皆さんには恥ずかしい気持ばかりを残す事になりました。その恥ずかしさだけは忘れないママに何処かに眠りこけていたのだと思います。  全く無為の日々を送っていたのかと自分を責めれば、グズグズと下を向くしか無いのですけれど、東日本大震災で壊滅的な状態になってしまった陸前高田には、隣町気仙沼市の臼井賢志さん共々出掛けて見たりはしたのです。ここに動物病院をつくりたいとか、動物達のための大農場、大牧場はどうだろうかとは内心思っていたのですが、陸前高田の何もかもが失くなってしまった現実を眺め、その海風に身をさらしてみて、今はそんな事をとても言い出してはいけないと、それだけは痛切に考えたのでした。それでもわたくしの地元世田谷区烏山を中心に色々と無い知恵をしぼりながら、思い付きは消さぬようにあたためてきました。その結果とも申すべきは、世田谷式・生活学校の活動の一端として、世田谷式複合保育園の提案などに形になってまとまりつつあります。が、径は遠い。

最近、地元世田谷に幾たりかの友人を得ました。その一人が石森章さんであり、志村喜久男さんです。お二人ともわたくし同様の老人です。老人は普通時間を持て余しています。本当は、今の若者こそ時間を、しかも無為の時間を持て余し過ぎてはいるのですけれど、それは今は申しますまい。追い追いブツクサと大声を上げたいと思います。

 石森の章さんは地元ではとても有名な人物であり、同時に猫でもあるのです。もしかしたら御本人より章さんの猫の方がはるかに有名かも知れません。この猫をわたくしはタマと勝手に呼んでいました。まさにたまたま、タマの名が応わしい程にタマらしき三毛猫です。

The shadow is about to enter the tower of hat

影、帽子の塔に入ろうとする。

November 9, 2011
Osamu Ishiyama

Drawing paper, ball point pen

Displayed at Gallery 1


はじまりの章2

 飼い猫や、飼い犬を仲にすると人間同士は普段は知らんぷりの仮面様の表面が少しゆるくのびるようです。広い、元日本住宅公団だったかの低層アパートが何時の間にやら競売だったのでしょうS社に払い下げられて、地元ではやっぱりS社は古くから世田谷区と何がしからぬ関係があるからなあ、とのヒソヒソ話しだって流布したのですが、それはさて置く事にいたしましょう。22棟94世帯もあった低層アパートは皆庭付きの2階建てで、駅から歩いて数分という立地からも、これは都内では有数の住宅団地であるぞと思い続けてきたのです。それが何年か前から取り壊しに入りました。そして広大な土地にはその住宅団地の基礎だけが風に吹かれて残る事になりました。S社は高層高級マンションを建てて、当然ながら儲けてやろうと考えたようです。が、東日本大震災の影響ばかりではなく、世間様にはお決まりの不況の風がヒューヒューと吹き始めてもう十年以上も経っており、デッカイ値の張るマンション建てれば猫も杓子も群れ集るなんて、建てる方もそれを買う方も共に愚かであった時代は足早に通り過ぎて背中も視えぬ有り様なのでした。

 喜んだのは人間達じゃなかった。人間様の大方は欲に眼がくらんで空地を見ればそれが紙幣に視えてしまうようになっていました。犬や猫、そして鳥や雀、鳩、虫の類はソロバンが弾けません。もちろんコンピューターのキーボードとも縁がありません。だから、喜んだの何の。だって、こんな幸運は滅多にある事ではありませんから。何しろ目一杯走り廻って遊べる場所が突然出現したのですから。

 人間と犬猫の通り抜けお断り、のけったい極まる看板が立てられたのにも知らんぷり。だって人間の字なんて読まない種族なんですから。それで、この広い広い都市の中には珍しい原っぱが出現して、ここは“いきもの”達のユートピアになり始めているのでした。

 わたくしはこの原っぱを勝手にモヘンジョダロなんて呼んで、朝夕通り抜けては音のする程に大きく「ホーッ」と嬉しさのあまりのため息だってもらしていたのです。この広い広い都市の中の原っぱを歩くと、それはそれは果てしの無いくらいの懐かしさが襲って来るのを感じ続けておりました。

 モヘンジョダロはパキスタンも流れるインダス河流域の大遺跡の名前です。他にハラッパという名前がついた大遺跡もあるのですが、そこには出掛けていません。マア、モヘンジョダロでは様々に考えさせられました。50度Cの猛暑で、外の、それこそ日干しレンガの都市の形も全て崩れた場所は、月並みですけれど人間の小ささをイヤと言う程に感じさせてくれるのでした。もの凄い暑さの中で、とても考えたりは出来ません。水分をとらなければ、アッという間に人間燻製、ミイラ状になってしまうような処でした。

「人間日時計」

 ここでわたくしは実に不思議な光景に出会いました。それは忘れようにも忘れられないモノでありました。

 東京の真只中に出現したハラッパならぬ、モヘンジョダロと勝手に名付けた、その事からこの小さな物語りは出発しているのが、どうやらハッキリしてきたように最近ようやく思い付くにいたったからです。折角老人になる迄生かせてもらったので、それでこんな気持を書けるようになりました。

 遠いモヘンジョダロの遺跡には一軒のゲストハウスがありました。そこはしょっちゅう停電ばかりでしたが、電灯がつき、扇風機だってゆるうくブルブルと廻ってくれたりもしたのです。何処からか電気が送られてきていたのでしょう。

 ゲストハウスでは冷たいビールは飲めませんでした。パキスタンは禁酒の国ですから。あんなに暑い中で酒を飲んだら人間は何をやらかしてしまうかは、これはわからないな。



はじまりの章3

だから仕方ないやとボーッと天井で廻ってくれるプロペラを見上げて考えたのを覚えています。

天井でプロペラが廻るんですから、やはり何処からか電気は来ていたのでしょう。電気が来るんですから当然電信柱も立っていたにちがいありません。昼寝をたっぷりすると近くのモヘンジョダロ博物館に出かけたりしました。日干しレンガが大きな丘になって延々と拡がる遺跡は歩き廻るには覚悟が要りました。ギラリギラリと情け容赦のない太陽が照りつけて棍棒でなぐりつけられるようだからです。キット今でもそうなのでしょう。あそこは何万年も何変わりようがない、変わり得ないのを知る処でもありました。サンダルをはいていても大地の熱が直接伝わってくる、それもグイグイと足裏から入り込んでくるような道でした。車なんて一台も通りません。ここに来た時は早朝牛車にのせてもらってやってきました。博物館への道は電信柱がポツリポツリと立ち尽しています。その影が道ばたに伸びていました。その電信柱の影を目指してアッチチとつぶやきながら走り込むのです。悠久の大地にある陽陰といったら電信柱の影だけなんですから。ところがか細い線状の影に辿り着いてみると、何とそこには先客がすでに占拠していた。人間です。人間が昼寝のために細い電信柱の影にゴロリンとこれも又柱状に体を固めて横たわっていた。電信柱の影の長さに入り切る目一杯の数の人間が横になって眠っていたのでした。白いサルワール・カミーズはすっかり土に汚れて大地の色が染み込んでいる。でも人間であるのにはちがいない。何故なら彼等は太陽の動きに反応して少しずつ横たえた体をゴロリ、ゴロリと回転させ少しずつずらしていたからです。電信柱の影に入り込んだ人間が太陽の動きと一つになっていたのでした。地球の自転が目に視えたというような感動ではない。そんな科学の考え方をはるかに超えた感動がやってきたのでした。人間の影の棒のわずかなすき間にそれでも身をすべり込ませて、ひざ小僧を抱えて大地に座り込んでいました。彼等のように大地に横たわり同化のスタイルはとれなかったから、大地と一体にはなれなかった。電信柱の影がこれ程心地良いものだとも知らなかった。でもそれを超えた感情がわたくしを襲ってもいたのです。

トルコのイスタンブールから始めたアジアハイウェイを辿るシルクロードの旅もすでに数ヶ月程になろうかの疲れといささかの感傷もあっただろう。でもそんなつまらぬ解釈はさて置いてのゴロゴロゴロという大地の響きをたしかにわたくしは感じたのでした。

数日前にモヘンジョダロへは汽車でやってきました。駅名の印も何も無い処にほとんど奇跡的に降り立つ事ができました。プラットホームはそれでも形だけはあって、しかし立派な待合い室がありました。イギリスの鉄道作りのシステムは筋金入りです。駅員も誰もいない待合い室には立派な藤編みのベッドがあって、そこの天井にもプロペラが廻り続けていたのでした。汽車は夜行で人々の絶え間のないおしゃべりで一向に眠れなかったので、その立派なベッドに大の字になってグッスリ眠ることができました。カラチを日暮れ時に発ち、深夜の2時か、3時だったでしょう。

明方近く、ゴロゴロと雷の響きを夢うつつに聴いて外に出ました。雷ではありません。どうやらモヘンジョダロの小さな駅の回りは全て水田のようでした。満点の星明かりでそうと知りました。その水田でどうやら蛙が、とてつも無い数の蛙共が声を張り上げて大合唱していたのです。それを雷かと聴きちがえた。 そのゴロゴロの響きと同じような響きを、今度は何の音もないところに聴いたのでした。日本の小さな自然の中でしたら、山川草木皆響きあり、の法然の詩的直観にもなるのでしょうが、ここはモヘンジョダロです。

untitled

無題

The story have just begun. Putting the framework of the story aside, the world exists within the details.

Please pay careful attention to the hats that Dr.Dolittle and Miranda, the purple bird of the paradise, are putting on, plus the hat that Kenji Miyazawa, who have appeared like a Jizo, is wearing.

These hats are the shelters for their brains; the symbols. They made an incursion into our world, along with the waves of the tsunami.

October 24, 2011
Osamu Ishiyama

Drawing paper, ball point pen

Displayed at Gallery 1


はじまりの章4

草も木も山も無い。あるのは絶対の田野と呼ぶしかない拡がりだけでした。

30年程も昔、今は昔のことでありました。この人間日時計らしきに出会い、チョッピリそれに遠慮深くまぎれ込み、自分も太陽の動きとともに身をズラしながら、これでやっと、アジアの旅も終りだなと考えました。30年の時間はかかりましたが、そうだったのだと今、ようやく思えるようになったのです。

そこでは時間が、人工の時計の動きに示される世界共通の標準的な時間とは決定的に違っていたなと、再び言いますが、あれから30年も経ってそう思うのです。あそこで太陽の運行と一緒にゴロゴロと大地に写る影の動きと同化していた人間達、あの人間達の身体の中にこそ時間が融け込んでいたのを今は知ります。人間は太陽の影に融けて少しずつ動く生物だなと知ります。今も、恐らくあの人間日時計の何がしかはモヘンジョダロの永遠と恐らく同じの、それだからこそ絶対の田野の中で同じように影の中に融け入ってズルリズルリと動めいているのだと思います。そうやって生きて、そうやって死んで何の疑いも持たぬではありますまいか。

東京の只中の現代の廃墟、わたしの家の近くのモヘンジョダロも、遠いインダス河、河畔のモヘンジョダロも、考えれば考える程に何変る事がありましょううや。気候だけがここでは余りにひ弱な人間に合わせて穏やかなだけです。だから人間達はセコセコと良く動き続けます。働き者の蟻のように、それぞれの巣に食物を手に入れられる金を蓄えて、それが減るのだけを恐れながら生きているのです。

モヘンジョダロで日がな一日遊びほうけるタマはゴロゴロ寝ころんでは動くことはしません。でも、かなり自由に想うがままの動きの連続です。草地の上に仰向けに寝転んで手足を空にのばしたり、かゆい背中を草にこすりつけたり、まだ残っている建物の基礎の上を歩いたり。飛び降りたり。たった一人ならぬ一匹よく飽きもせぬ同じ遊びの繰り返しです。人間の子供と何変ることがありません。人間だって小さな児は四つ足で歩きますから、それは猫の方がいささかうまいに過ぎません。タマは一間程のヒモをいつも引きずって遊びます。そのキレイな模様のついたヒモは時々人間がつかんで放さない。いわゆるタマの飼い主の石森の章さんです。本当はどちらが飼っているのか、タマなのか石森の章さんなのかは不思議な紙一重なのです。

当初は、と言ってもそんな猫とオヤジの毎朝、毎夕のつれ立ちそぞろ歩きの有様を見たばかりの頃は、口下手で人見知りの固まりであるわたくしはとても声も仕草もかけられぬママが続きました。人間は見知らぬ、いきもののみならず、人間にだって声をかけるのには何とも言えぬ類の勇気と呼ぶべきが要るもののようです。厚顔無恥の典型オヤジであるわたくしもその例に一寸たりとも違わぬ類の人間でした。

イヤーッ、面白いなと猫とも人間とも話してみたいなとは思えど、今日の寒さかなの戯れ言同様に、気持は一向に凍りついたマンマで柔らかく融けることをしないまんまでありました。でも、ですね、いくら何でもこれは残念極まる事なくらいは正常な人間であればある程にわかるのです。極く極く普通の、つまり芸術家的気風なんてまったく持ち合わせの無い人間であればある程にそれは痛感するのです。日々。毎日の日常の中で。

ある、秋だったかの早朝でした。わたくしは遂に意を決して、遊びたわむれ続ける、先ずは猫に、つまりはタマに話しかけたのです。「オイ、コラ、お前どうなんだ。コラコラ少しは人間様に顔を向けろよ」まるで警察官のセリフなのでありました。わたくしのコミュニケーション能力は、イヤハヤ、それくらいのレベルのものであるのでした。

untitled

無題

Within Dr.Dolittle's hat have rested, along with his love for animals, his approbation for the British Empire's avarice for their colonial rule.

Within Kenji Miyazawa's hat have rested too, along with his primitive animism that talks with animals, his approbation for himself as a moneylender in Hanamaki, to extorting greedily the money from peasants.

Such clear and dull mindscape - or the muddy and mushy mindscape as Kenji would say - is nothing other than our reality.

October 29, 2011
Osamu Ishiyama

Drawing paper, ball point pen

Displayed at Gallery 1


はじまりの章5

タマはわたくしを無視して走り去ろうとしました。そりゃそうでしょう、こんなお巡りジジイにかかずり合っても何の得にもならぬのは、いきものの本能で、どんないきものだってすぐにわかる筈ですから。

そしたら、ダラリの帯ならぬズルズルとタマが引きずっていたヒモの持主の人間が声を発したのです。

「オタク、タマ、タマと勝手に呼んで下さいますけど、俺のコイツはタマという名じゃありません。とんでも無い呼びちがえですぜ」

石森の章ちゃんと、これが会話のつまりは付き合いの始まりでありました。まだ何年にもならないピカピカの付き合いのはじまりでした。想い返せば呼びちがえ、つまりは呼び間違いからは仲々のそれからが始まるもののようでございます。

わたくしの古い友人にヒマラヤ登山に明け暮れていたのが居ました。それがボソッと洩らした事があります。

「今回、登ってきたD峰なんだが、これは八千メーターに届いていないが未踏峰だったんだ。だけど日本に帰ってきてから、つらつら想うに、あれは間違った峰に登っちまって気がつかぬまんまに帰ってきたのかも知れない。新聞発表もしてしまったから今更、ちがう山でしたなんて言えないしなあ」

どうやらこんな事は世の常であるようにも思えますな。間違えは創造の源である、なんて固苦しい事は言いますまい。つまり、ヒョウタンからコマの、連続であるのも確かなことではありましょう。わたくしがタマでは無い名を持つ猫をタマと呼んで、一向にそれを今も正していないのも、そもそもは、こうしてタマらしきが日がな一日遊びたわむれているこの遺跡みたいな原っぱをモヘンジョダロと敢えて呼んでみせたことから始まっているのですから。

そうした方が面白いように思えたら、勇気を持って敢えて間違いを犯してみる、ヒョウタンからコマを振ってみせようとするのも、これは人間のみならず生きもの、森羅万象に言い切れることやも知れません。ここでこうしてこんな話を作ってみせようとしているのもそんな間違いの一つであって欲しいものです。そもそも、ホンモノのモヘンジョダロに夜の汽車で降り立つ事ができたのも、ほとんどヒョウタンからコマではあったのです。先に奇跡的にモヘンジョダロに到着したと記しましたが、たどり着いたのも、そもそもは何かの間違いであったとしか思えません。これも、又今になってそう思うのですけれど。夜の汽車はインド亜大陸のものは皆デッカイ。イギリス帝国が大広軌のレールを敷きつめて、そこにデッカイ箱を走らせましたから。その間違いはさて置いて、だから実に多くの人々が夜の汽車には入り乱れているのです。深夜になってもほとんど誰も眠りません。わかりようの無いヒンドゥ言葉なのでしょう、しゃべり続けているのです。ここまで来るとあんまり片言のイングリッシュは通じません。30分か1時間毎にどうやら通り過ぎているらしい駅には何の標識も無い。勿論、車内放送なんてあるわけもない。乗り続けてる本人はさて知らず、おそらく遠くから、あるいは天上から眺めたら銀河鉄道の夜みたいな光景であった。あんなに奥深く静かな汽車ではなくって、ただただヒンドゥ言葉の入り乱れる、それはそれはやかましい汽車ではありましたけれど。でもしかし、今になって想い返してみるならばアノ夜の汽車だって、ただやかましかったのはコチラのつまらぬ耳の、これも又、誤りにすぎなくって、ヒンドゥーの神々の大芝居であったかもしれません。若い頃は誰もが、余程の天才でもなければそうは思えぬ生身をもっていますから。

何処を通り過ぎているのやも全くわからない。ヒンドゥの銀河鉄道どころか、ただただ無明の闇を走り続けてもいたのでした。でもしかし、何となくもうモヘンジョダロは近い筈だ。窓の外はそれこそスターダスト、ギンギラの星明かりに、無限とも思える水田がその明りを照り返している風景がもう何時間も、ハテハテ何日かも知れぬ位にただただ続いているのでした。

モヘンジョダロ?モヘンジョダローロ?モーヘンジョーダロ?と大声で尋ねても、誰もが次だ、イヤここだと全くとりとめもない。アジアハイウェイの長旅で道や、行手を尋ねれば、誰もが自信ありげにああだ、こうだ、こっちだアッチだと言うのはすでに知っていました。それも尋ねれば尋ねる程に皆、ちがう事を言う。それで全くちがう町へ向けて一日かけてバスで走ったことだってあった。立派なヒゲの運転手に尋ねても尋ねても、そうだ、OKだと言いやがる。でもそれの大半は間違いでした。ああ、この夜の汽車もそうなんだとあきらめようとした。でも、これも誤り続きの経験から。

The entrance door of the tower of hat - also the entrance door for the main shrine at Shrine of Water

帽子の塔の入口扉 そしてこれは水の神殿本殿入口扉

November 11, 2011
Osamu Ishiyama

Drawing paper, ball point pen

Displyed at Gallery 1


はじまりの章6

困った時はいきものと、子供だのみも、すでに知ってはいたのでした。あきらめながら広い列車を見廻すと、いました。子犬と女の子が。茶色の子犬は眠りこけていましたから、話しかけられません。小さな女の子は子犬をショールでくるんでサリーに身を包んでおりました。インドアーリア人特有のハスの花の如くの大きな眼。大きな座席のコンパートメントに身をひそめるように小さくなっていた。その犬を抱いた女の子に、小さな声で尋ねました。

「モヘンジョダロは次ですか」

こうなったら話し言葉はどうでも良いのです。指言葉、手言葉で何とか尋ねたのでした。女の子は大きな眼をさらに一杯に大きくして、わたくしの指の形や、手つきを視てくれました。そうして、ハッキリと

「次の、次がモヘンジョダロよ」

と、これも又、指の形、手つきで教えてくれたのでした。他の大人たちは男も女も、農夫も商人も職人らしきも皆、てんでバラバラな事を言いつのるのを止めませんでした。

よし、この子を信じるしかない、と決めたのでした。それで、モヘンジョダロにたどり着けたのです。

ニセ、モヘンジョダロ。間違って呼んでみせたモヘンジョダロで出会ったタマも、石森の章ちゃんも、だから実に幻の人、間違った世界の住人であることに、それこそ間違いはないのでした。

Over the door is

扉の内は

November 11, 2011
Osamu Ishiyama

Drawing paper, ball point pen

Displayed at Gallery 1


動物病院の章1

幻とはいえ、タマにしても石森の章ちゃんにしたって時に生身の世界にも出現するのでした。こういう類の種族の方々は時にそんな時間のトンネルを自在にゆききする種族でもあるらしい。考えて言葉を使えるのは人間ばかりではないのを知る生物なのでしょう。

わたくしなんかは、その外にいるむしろ凡庸きわまるただの人間にすぎません。

ある春なのに嵐みたいな雨が吹き荒れる日の午後のこと。モへジョダロの遺跡に咲く桜も花を随分散らした日の事です。遺跡のヘリに建ち並ぶバラック住宅街の道端に一軒のそば屋がありました。その窓辺に座りボンヤリと時を過しておりました。窓の向うは、石森の章ちゃんとタマの家があるのでした。章ちゃんは猫と大きくなった息子さんの三人暮しです。この窓辺の席に居るわたくしを見つけると、章ちゃんはすぐにやって来るのがいつもの事でありました。

「よして下さいよ。窓際に座ってわたしをいつも呼ぶんだから」

とうるさいのなんのって、えんえんと章ちゃんはしゃべりまくるのでした。そりゃそうなんでしょう。いつもの話し相手はタマばかりなんですから。

言葉も身振りも通じるとは言え、やはり存分に人間言葉でしゃべり合う人間も必要なのでしょう。そば屋に入り込んで来ては大声でしゃべりまくるのでした。

「オイ、オイ、も少し声をおとしたらどうだ。周りが迷惑してるぜい」

と、たしなめても何のその一向に声をおとすことなどしようともしません。話しの内容とて何もないのです。タマの食事がいかにスペシャルで、病院代も決してバカにならぬ事。タマの衣服にも気を使っている事等々、繰り返し、繰り返ししゃべり続けるだけなのでした。

窓の向うの、章ちゃんの家のテラスの端にはチイが心配そうにこちらを眺めているのです。

そう、タマの本当の名はチイというらしい。つまり石森の章ちゃんはチイと呼んでいて、わたくしはタマと呼んでいるらしいのでした。しかしネェ。チイはいけないよ。安酒場の尻軽女みたいじゃないか。風の噂では石森の章ちゃんはタマが寝静まったら、時に夜の街に出掛けては散財しているらしい、夜の帝王なんて呼ばれて悦に入ってもいる俗な男でもあるのでした。タマと息子の三人暮しとは言っても、俗世の付合いも決して失くしているわけではありません。だから、わたくしなんかとも付合っているのですから。

ところで、わたくしが何故こんなお話しを始めちまったかと言えば、そもそも、それから話し始めなければいけなかったのでした。そうしなければ話しの筋も視えてくるわけもないのです。筋が視えぬのは現実だけでもう充分なのではありますまいか。現実の外とは言いますまい、外と内とのへりくらいのところをわたくしは話してみようと考えています。

えい、まわりくどい。ザックリゆきましょう。

わたくしは何時か何処かに動物達の病院と小さな運動場をつくってみたい人間です。動物達の今が可愛そうだからなんて甘っ、ちょろい感傷からそう考えるに至ったのではありません。つい先立っての大地震では人間だけではなく動物達、しかも人間達と一緒に暮らしていた生物達は本当に哀れであったとしか言い様がありません。飼い猫、飼い犬、飼い鳥の類は余りにも多くが生命を落し、更には野ざらしにされて飢えたと思われます。動物達ばかりではなく家の中に飼われた花々も又、日々の水を失い枯れ死にしたでありましょう。実に、天にも地にも人間に飼われて、共に生活していた動物、植物たちの哀しみの声が張りつめているのであります。今もなお。その声はわたくしの様な鈍な人間にもかすかに聴こえるのでした。

だから、いきなり動物達の病院を作ってみたいと考えたのではありません。残念ながらわたくしにはそんな仏か神かの如くの広い広いはてのあり様も無い大きな慈悲らしきの気持の持ち合わせはありません。ズーッとケチな恥ずかしい程に先ず第一に自分の為に、動物病院を作りたい。そしてなによりも先ず、それを身近に考えてみたいと考えたのであります。

何故か?

気取って言っちまえばわたくしは表現者であります。更に言いつのれば建築と呼ばれるモノをデザインし設計するのを生活の糧とし、マア得意ともする人間でもありました。大工職人ではありません。それなら良かったのでしょうが、考えて机上でだけ想うタイプの職業人でもありました。ところが。

The Twin Circles

双子の円環

It has been a long time since then. Two circles appears in the town along the Sanriku coast, after suffering from tsunami.

Although it is without a doubt that the work The Twin Circles is inspired by J.L.Borges' astonishing imaginary world, I don't know if this drawing itself is actually influenced. At least I was not conscious; I was made conscious after naming the work.

December 22, 2011
Osamu Ishiyama

Drawing paper, ball point pen

Displayed at Gallery 1


動物病院の章2

どうやら、その考えに、言うも切ない壁が立ち始めてきたのでした。壁、すなわち乗り超える事ができそうにない困難のことです。建築の話になるといきなり言葉使いが難しくなってしまうのはどうやら建築病の一種であるらしい。建築という言葉そのものが海の彼方の西欧から流れついたモノの一つですから。安土桃山時代にフランシスコ・ザビエルやフロイスといった実に優秀な宣教師達が日本にやってきて、織田信長に会いました。信長は当時の日本には稀な合理主義者で、旧世界を改革するを旨としておりました。フロイス等は信長の許しを得て、信長の居城であった安土城近くにキリスト教の聖堂を建設しました。京都にもヨーロッパ風の聖堂をすでに建てておりました。これが日本人が見た建築の初めてのモノでした。つまり、建築というのは西欧では神殿とか聖堂、すなわち神の住まう館でありました。人間が住み暮すモノではなかったのです。やがて信長の次の豊臣秀吉の時代になりました。秀吉は巨大な城を建立する大普請を得意とした人物です。巨大な城や、その豪華さが自分の力の表現である事を良く知り抜いておりました。そして次第にキリスト教の宣教師達を遠ざけるようになりました。信長の時代にすでにそうしていたように宣教師達は母国ヨーロッパでのキリスト教の力の偉大さを秀吉に大いに伝えたのでありましょう。信長はすでにローマのサンピエトロ寺院の威風を宣教師達に聞かされておりました。だから少しでも、少しでもなんてヘリ下った考えがあったかどうか、自分の建てた安土城の絵を屏風に仕立ててバチカンに贈ったようです。フロイスにサンピエトロ寺院の大きさはいか程なのか、を執拗に尋ねたと記録に残されています。

でも信長は短命であったから、いわゆる海外を実際には知りません。頭の中で理解していたのでした。秀吉は朝鮮出兵を実際に企て実行しました。自分では海を越えなかったにしても日々刻々と遠い朝鮮半島での負け戦やらの情報他、風俗、地政の情報は入ってきていたに違いありません。信長のバチカンは遠い夢のような、けたども現実でしたが、秀吉の海外は、より一層にリアルなモノでありました。しかも負け戦でしたから、それは一層に逼迫した感覚も伴っていたでありましょう。

untitled

無題

Old Noah's Ark is left abandoned on the grassland. On the Ark sits the mountain of Kailash. On the mountains are carved many caves. At the summit of the mountain is the nest for storks, raising their children. Seems like an ancient scenery. Together with the memory of the flood, the Ark of the elderly drifts the world. Here it exists, but does not. The large farm and the column-like building rests on the tracks of the Ark.

October 27, 2011
Osamu Ishiyama

Drawing paper, ball point pen

Displayed at Gallery 1


動物病院の章3

わたくしの眼の前の壁。もちろん、これは手で触れられるモノではありません。手で触れられる位のモノだったら、乗り超えるのにたやすいかも知れません。けれどもこれは眼にも見えないし、手にも触れられません。蹴っ飛ばすことも出来やしない。

口惜しいけれどもハッキリしなければなりません。これはわたくし自身の脳内にだけ在る壁なのです。つまり才能の壁。どうしようも無く、自分の才能の瀬戸際というモノを自覚せざるを得ない。そんな壁なのです。ハードルと言えばもっと聞こえは良いかも知れない。でも、そんな宙に浮いた棒状のモノではありません。スケスケに空気が流れるようなモノではない。明らかに壁状に道をふさいでいるのです。

壁状とここで述べるのは、それ程俗っぽいアナロジー(比喩)ではなさそうです。敬愛する、ブエノスアイレスの作家、J.L.ボルヘスの叙述スタイルを借用しなくてはなりません。すなわち書物の注釈としての叙述を真似なくてはならないのですけれど、ここでいう壁はイスラム言語学者として東洋哲学を御本人の言葉を借りれば、せいぜい共時的東洋哲学の初歩的な構造序論としての『意識と本質』の冒頭部に記されている、絶対無分節の「存在」に近いモノなのかとは思います。『意識と本質』を参照して下さい。

この物語りを装おわせた、でもやはり物語りは明らかに批評、評論のこれ又、壁を乗り超えたいと考えながら始めている事です。お前の批評とは何かと問われれば、それはウェブサイト上に同時進行させている「作家論・磯崎新2章」を、これ又参照していただくしかありません。要するに、自分の直観のルーズさを信頼しながら、その直観を自己解説したりせずに意識へと貯蔵し、再び取り出せる状態にしたいという事です。

わたくしはこうやって言葉を日々書きつけながら、紙に手描きのスケッチやらを続けるのを日常としています。もう書き言葉には、それこそ上には上の人がいるのはイヤという程にわかりました。同時に書物の価値は先人の知恵を借りる事だともハッキリと知ったのです。コンピューターも基本は同じでしょう。多くの既知ではあるが、知恵がほとんど大宇宙の如くに無限に近く内蔵され始めています。しかし、実はこれも又、新しい一つの壁なのでしょうけれど、それについては後の方で考えてみたいと思います。こうして書きつけ続けている言葉はすでにわたくしの脳内で生まれているイメージ、つまり原生命らしきの解釈にすぎません。自分でも思わぬ事を書きつけ、思わぬ言葉を生み出すことは無い訳ではありませんが、それはすでに起きてしまった事に過ぎません。今朝の夢を克明に思い出せぬによく似ている。

スケッチは言葉以前の表現の形式を持つ、あるいは在るように考えられます。書き文字によって言葉は表現されますから、その形式に支配され、枠つけられているとも言えましょう。

枠付けられ、日常を支配しているとも言える言葉以前の言葉の形があります。叫びであり、ため息であり、嗚咽、慟哭の類です。ゴリラやチンパンジーの叫びにも似ています。ここで動物(いきもの)と人間は初めて出会い、同じ地平に立つ事もできるのですが……。それが進化というか、形を持ち始めると歌になります。唄でも良ろしい。そして詩へと進みます。おそらく近代化された現代人は自発的な、すなわち内発としての歌はもう歌えないでしょう。かすかに南島、沖縄諸島の歌謡にそれらしきが残り、又、アイヌの人々の掛け声や復元されるイヨマンテの祈りの中などにその原始が感じられると言って良いでしょう。

わたくしには言葉の才質はありません。ただ好きだから言葉を記しているに過ぎません。スケッチはもう少しは自分の取り柄かなと、思わぬでも無いところがあります。何しろ、これは子供の落書きの親戚ですから、定型というものがありません。ここがわたくしの生き処かも知れないと思う事だってある。だって定型が無いから、他と比べようが無いのです。原っぱを走り廻るようなもんです。

スケッチと言っても写生ではありません。旅のつれづれに写生らしきを多くする事もありますが、それは実景、実物によく似ているか似ていないかとは無関係にスケッチいたします。宮沢賢治の言う、心象スケッチの如くなのでしょう。具体と抽象の狭間みたいな谷に住処を持っているのかも知れない。

Inside the shadow

影の中

The symbolic form carved into this shadow is a mysterious one, and I am even trying to use this symbol for my esquisse and sketches, looking into this movie on the computer.

2009
Osamu Ishiyama

Cardboard, crayons

Displayed at Gallery 1


動物病院の章4

狭間と言えば、これから語り継ぐこのお話の舞台というか背景だって何かの狭間に架けた橋みたいな妙にねじれたリボンのようなものなのです。本物のインダス河のほとりのモヘンジョダロと、ニセモノの東京の住宅地の中のモヘンジョダロと。あるいは毎朝のように会えるタマと本当の名前なのかも知れぬチイと。そしてモヘンジョダロに今想えば導いてくれた夜汽車の中の少女が抱いていた子犬とその記憶らしきと。その間の狭間、あるいは紙一重の裏表の間にある、現実の裏に貼りついたよどみでもありましょうか。

この、二重三重にグラグラと螺旋形に回転しながら昇ってゆくのか、落ちてゆくのかも定かではない、はっきりつかめず、触れもできない、でも在るモノ。それは石森の章ちゃんの不思議な現実でもありました。

モヘンジョダロの草っ原に座れば痛い草々に、それでも腰をおろしてのある日のこと。問わず語りを石森の章ちゃんは始めました。春はまだ浅い、それでも陽が照ってはいた、風の無い朝の事でありました。

「実はネェ、話しても仕方がネェ事であるとは思いますがね。それでも退屈しのぎにお話ししてみましょう。チィもあっちで一人で遊んでいるところですからね」

何を言い出すのかとチョッと計り身構えました。

「実は、わたしは昭和21年10月1日生まれでね。それはどうでも良い事なんでしょう、他人様にはね。でもアタシには大事でネェ。何で生まれてしまったんだと思う位に、アタシは苦労してきたんですよ。何しろ5才の時から働いていましたからネェ。なにしろ、中学一年の時に当時の、アノ、美濃部都知事でしたがね。中野区の新聞少年を代表して、何だったか忘れましたがね、それでも祝辞を読んだんですからねぇ。そうなんです、新聞配達子供の頃からやってました。青森生まれであったことは三十年後になってから知りました。生まれとか、そんな事は誰も教えちゃくれませんでしたから」

「教えてくれなかったって、でも、親はいたんでしょう。人の子なんだから」

「からかっちゃいけませんや、当たり前ですよそれは親はいました。なにしろ二番目の母が来たときはネェ、ピカピカなランドセルがなかったんですぜ。みんな他の子供たちは新しいランドセル背負って学校行ってたのに。ピカピカなランドセルないんだもの。それでアタシ、恥ずかしくって、それで学校に行けなかった」

「二番目のお母さんて、お母さんが二人いたの?」

「アンタ、二人のお母さんどころじゃありません。アタシには母が三人いたんです」

「………」

「生みの母、育ての母、そして養子に行った先の母の……三人。それに父は二人です。育ての父と、再婚の父」

「うーん、チョッとわからなくなった。悪いけど、想像も出来なかったから。」

「そりぁ、そうでしょう。アタシだってこんがらがっちゃう事、あんですからね。無理ネェよ。何しろ墓参りするのだって大変だよ」

「うーん。そりゃ大変そうだなあ。墓参りって言われると、それだけの数の父、母がいるってのは大変だろうなあ」

「わかるでしょ?大変なの」

「わかりそうになってきた」

「でもね、アタシ、不良にもならなかったし、バカにもなれなかった。生きる事しか考えられなかったから。妹、弟だっていたし、四畳半に5人で暮らしてましたからネェ。妹はね、3人の子供作って幸せにやってますよ」

話を聞いてわたくしは石森の章ちゃんの顔を余程マジマジと見つめていたのでしょう。遠くからタマが同じようにわたくしを見つめていて、その強い視線が感じられましたから。

章ちゃんの姿が二重三重にだぶって、おまけにユラユラ揺れ始めたのでした。 正直、猫つれて歩ってる変なオヤジ位にしか思ってなかったのに。そのオヤジがわたくしなんかには計り知れぬ位の背景を背負っているのが、ようやく直観できたんですね。



動物病院の章5

それで、決心したんです。この章ちゃんだったらどうにも捨てようにも捨てられないでいる、アノ娘の胸に、じゃない俺の胸にこびりついてしまった、不吉な例えようで申し訳ないけれど癌細胞みたいに消そうにも仲々消えない悪夢といいましょうか、決してヨイ夢だとは思えもしない動物病院の計画をば、おじ、ばばあと飛び越して、話してみようかと思ったり、やっぱり止しておこうかと思い直したり。

それで、それでまだこの思い付きは実行できていないのですが、でもいつか話さねば、ねばねばしちゃってヤリきれない事になるのでありましょう。

壁の話を少しだけしましたね。それがプッツンでつながらず、そのママになっておりました。要するに、用が無くたって何のそのなんですが脳の、わたくしの脳の性能、つうかキャパシティというのがつまり才質に対する、大ピラにするわけにもゆかぬ限界らしきの事でした。才能の限界を感じてるとか、壁らしきが視えてきたなんて実にそんな事は決して言えぬ人間なんです。

エッ、もう言っちゃってるじゃネェかって、アア、あれは思ってもみていない嘘八百でありました。壁なんて小ざかしいヤツはわたくしの周りには無かったんです。

でもつまらなくなっちゃったんですな。同じ処を堂々巡りしているみたいな日々が。どんな事してるんだって?そんな事話してたら日がな一日かかってしまいます。第一あなたはそれを知りたいかも知れませんが、わたくしはそんな事を話すのにあんまりもう興味がネェんです。

つまらないですよね。こんな話し振りを続けたって。でもつまらない先に行きたいんですな、わたくしは。掛けブトンの中のテメエのへみたいに臭い話だとお思いでしょうな。わたくしだって、コレは臭いと、たまらネェなと気付いてはいるんです。

でもズルズルと落ちてゆくしか無いんですね。このまんまで行くとこまで行きますぜ、アタシは。なんだか章ちゃんの口吻りが移ってしまって、本当に気持ち悪い事おびただしい。あんな母父が沢山いるような普通じゃない男の話し振りに似てくるとは、本当に情けない。

でも、ですね。今のところ章ちゃんの方がアタシよりは実に、何というか存在が※本質に近いのも確かな事なんです。

※ここの部分も又、井筒俊彦の『意識と本質』参照されたし。別に参照しなくても良いがその方が面白い筈だ。

そんなにへり下った振りしても何の得にもならないし、これを書いてひともうけしてやろうなんて気持もサラサラ無い。話し相手はウェブサイトを時々のぞく、わたしと同じような、というよりもズバリ同じな寄る辺無い人間達なんだから。ドリトル先生動物園倶楽部から、なんて自分でもまだ良くわかっていない目的を自分を自分で錨をおろすみたいに言いくるめようとするよりも、むしろ、ゴザと言っても良いくらいですが、寄る辺無い倶楽部っていうタイトルの方が良かったかなと思う位。

さて、少し計り、も少し話せばわかる世界に戻りましょう。

この話にはコンピューターサイトの利点をせいぜい生かして毎回というか適当な区切り毎に、わたくしのドローイングが入り込んでいます。ザックリ言えば、このドローイングの何がしかは、わたくしが計画している動物病院のエスキス・スケッチです。計画していると言ってもハッキリした依頼主すなわちクライアントが居るわけでもありません。クライアントという言葉は精神病理学の対人療法の生身の人間にも当てはめて使われている言葉のようです。マア、少し計りはそんな趣きが無いわけではない。しかし、つきまとわせているドローイングは明らかにわたくしのある動物病院のスケッチなのです。わたくしに時の運さえあればの事ですが、段々に動物病院らしく視える姿形になってゆけばとは思います。でも、すぐにそうならずにおれよとも念じている。

あんまり、したくはないけれど少し説明しておきたいと思います。

わたくしの動物病院にはタマや、次に登場してくるであろう烏ばかりの病院ではありません。犬やオウムやアヒル、そして牛馬、イルカやメダカばかりではなくって、年を経たワニやら我々人間のためのある種の、なくっても良い種の病院らしきが想定されているのです。ドローイングは時に時々、かなり時々に言葉よりも深く人間の、あるいは表現する事の深奥にたどり着くかの誤解らしきを得させやすいものです。

でありますから、誤解はわたくし自身の内部からくるものですけれど、決して読者の皆さんから生み出される種類のモノばかりではない。誤解につかず離れずの言葉には正解があります。しかし、それは石森の章ちゃんの猫の名前と同じ様なモノなのです。章ちゃんはチイと呼びわたくしはタマと呼ぶ。それと同じ位に仕分けのし難いウヤムヤな世界です。誤りと正しいは。そしてニセ物と本物らしきは。

又、近付いてはならぬと自覚する観念の世界に近付きました。

少し、無理をして離れる努力をするとしましょう。

それにはドローイングを描く事が一番だと今は良く知りますから。

A child becoming a dragonfly

トンボになる子供

2009
Osamu Ishiyama

Cardboard, crayons

Displayed at Gallery 2


動物病院の章6

かと言っても、ドローイングを描くのが一番ですって言っても、それ程にハッキリとした目途ってモノがあるわけではない。ただ、子供の落書きに近いドローイングらしきはこうして言葉を書きつけている世界と言いますか、言葉を書きつけていることから生まれる気分が随分ちがうものだなとは知るのです。ドローイングが一番、言葉は二番というのでもない。ただただそれは南極と北極くらいの開き、距離がありそうだ。

わたくし奴のこうして原稿用紙に書きつけている手書きの文字は、自分で言うのも何だけれどヒデーもんであります。下手っピイなんですな。どうにも文字に色んな意味でのまとまりってモノが無い。いくらていねいに書こうとしてもビジュアルにまとまらない。つまりキタナイんですね。しかもギスギスしていて、取得と言えば、無理矢理こじつければどうにもこうにも女文字らしきとは全くちがう形になってしまう。オヤジが漢文の先生だったし、そのオヤジの方のジイさんには会った事も無いんですが、やっぱり漢字の研究者だったらしい。だからギスギスしてるんでしょうと、それ以上の事は今は言えません。でも母親の字は悪くなかった。父の字よりキレイだなと子供心におもったりもしたものです。書き文字ってのは面白いもので、こうやって書いていると、一つ一つが新種のいきものみたいに視えてくるところがある。こうしてとりとめも無い大無駄を承知で書いていると、一つ一つの文字が行列をつくって、蟻の行列みたいにうごめいて何処かに向けて動いている様な気分になったりするモノです。

昔っていう程古くはないんですけれどチベットに行った事があります。空気の澄み切った高地で、空をゆく雲の形が陽光で影になり荒地に黒い不思議な形を写し出していました。こういううごめく形(影)の様態を眺めつづけて人間は文字というモノを、チベットの場合は梵字ですけれど思いついて、ある世界の表現として構築もしたのだと思ったり。チベットの文字は実に天に浮く雲のうごめきに似て、いきもの感覚に溢れ返っているのでした。人間たちがいきもの、つまり動物たちと雲や天空の有り様にそれ程のちがいを感得していなかった頃の遠い記憶だろうか。

そう考えたりしているとただただ意味もなく、無目的に、そんな事は滅多にあるもんじゃあありませんが、それでも在る時も在る。そんなふうな中で描くドローイングらしきは、文字よりも余程抽象性を帯びているように自身には映ることがあります。

ある種の文字が人間の想像力の極みに近いモノだとしたら、じゃあこんな落書きは何者なのかと考え込んでしまうのです。つまり、文字とドローイングは同種族のいきものなのか、あるいは別種族に属するのかと言ったような事を考え込んでしまいます。又、又、わたくしの自覚せざるを得ない悪癖である、考えても仕方のない空想、妄想界の壁の中に自分で閉じこもりにゆくのです

コレではいかんのです。本当に自由にならなくては、余り生きてる時間だって無限の幻想はすでに覚めているのですから。

ドローイングをしながら、それを自己解説するという愚を犯さぬように心して、次章に進みたいと考えます。説明、解釈の先へ進めたら良いと思います。

untitled

無題

2009
Osamu Ishiyama

Cardboard, crayon

Displayed at Gallery 2


烏1

ある早朝でした。しばらく風雨が強い日が続き、それが明けてとても空気は澄み切って風もない穏やかな朝です。タマは久し振りの外遊びで張り切っています。小ギレイな、けれどもあんまり似合いはしない半袖のジャケットなんかを着込んでグイグイと章ちゃんが手にする長いヒモを引張って歩いています。

「イヤに張り切ってんじゃネェかタマ」

と声を掛けたら、返事もせずにギロリンとにらみつけました。

「余計なコト言うんじゃネェよ、ヒマ人奴」

と言っているのが解ります。タマは章ちゃんにはベロベロにイヤラシイ位の馴つきようなのですが、わたくしには全くダメなんです。

「虫の好かぬ奴」

と思ってるんでしょう。

いつだったか白い蝶を追いかけて飛び立ってハネたりしてるのを眺めて

「お前にゃ、無理だぜ、蝶々はネ」

と大声でからかったのを根に持っているのです。全く飼われ猫なのに妙なプライドだけは持ってやがるんです。

でもコイツは蝶に限らず、空を飛んでるいきものやらには異常な反応をするんですね。足を地につけて生きてりゃいいモノを。飛びはねて追いかけるんですな。いつだったかはモヘンジョダロの遺跡の壁から墜落しちゃって、それで左手を折ってしまった位ですから。左前足と言うのが正しいのかな。

墜落ったって、たかだか40センチメーターくらいの高さから落ちただけなんですが、キッと運動神経が鈍いんでしょう。骨折して、章ちゃんは仰天して車で病院にかつぎ込んだようです。見栄っ張りの猫で添え木にホウタイだけじゃ納得せずに、首から格好つけて吊り布なんかもしちゃってね。

「バーカ、いっぱしの格好つけやがって」とからかったのも機嫌をそこねていたのでした。

「そこ迄やるんだったら松葉ヅエついてみろ。コンニャロ」

と言ったら、それはそれは暗い眼をしてにらみつけていましたっけ。章ちゃんに聞くところによれば、ツエが本当に欲しかったらしく止せば良いのに章ちゃんがヒマに任せて作ってしまった小さなツエらしきを人目につかぬところで練習していたらしい。四ツ足ならぬ五本足への変化のトレーニングだったんでしょう。キッと。でも驚いた事に三日程でかなり五本足歩行も様になったと聞きますから、猫には猫の猫パンチ以上の能力があるんでしょう。

フッと何かイヤな気配を上空に感じたのです。トンビ程高くは飛んでない黒いのが宙空を静かに舞っていました。烏です。それも一羽や二羽じゃありません。五、六羽くらいでした。

「烏山って名前は、昔から烏が多かったからだよ」

棟梁がそう言っていたのを思い出します。モヘンジョダロは東京の世田谷烏山に在るのです。今上空を舞っている烏達がその地名の主らしいのです。主、つまり本当のオーナーって事ですな。地主やらのニセのオーナーじゃなくって、本当のオーナーが土地にはいてね、それがここでは烏って事です。



烏2

棟梁ってのは志村喜久男さんの愛称です。なにしろみんなが棟梁、棟梁と呼んで本名を呼ぶ人はあんまりいません。七十半ばの男です。棟梁はモヘンジョダロからほんの少し、歩いて2、3分のところにある烏山神社の氏子代表です。烏山には上町中町下町の三つの氏子会があります。棟梁は下町の顔役です。烏山神社はこの辺りでは一番大きな神社です。境内も広く、祭りの奉納芸を演じる舞台まであるのです。

この舞台がいずれこの物語の舞台にもなるやも知れませんが、それはまだまだわかりません。先が視えてしまったら生きてる甲斐もないってものじゃありませんか。

ナニィ、先が視えなくては不安なだけだって。そんな考え方は少し捨てたいものです。全部とは決して言いませんが、肩から荷を外して道端にそっと置きましょう。誰かが代りに拾って持つでしょう。不安なんてのはそれ位の高級なゴミ袋みたいなモノなんです。誰かが必ず拾うモノなんですな。それにみんな不安が大好物だから、捨てられ放しの粗大ゴミにはなりません。くり返しますが必ず誰かが拾います。

しかし、こんな理屈は猫だって好みません。ヨセヤイと言うでしょう。全く笑わせます。

舞台の隣りには神輿倉もあります。こげ茶色のアルミ戸が出入口に嵌め込まれて、いかにもな現代風なチョッピリ貧しいたたずまいです。でも、神輿は上町、中町、下町の、きちんと三台。おまけに小さな子供神輿が添えられています。

棟梁が顔役の下町の神輿の屋根の上には立派な鳳凰が鎮座していました。キラキラ金色に輝く神輿にはおなじみの聖鳥です。ところがその鳳凰が夏祭りの始まりの晩に何処かへ居なくなってしまったのでした。夏の闇夜にキラリと飛んだの噂も立ちません。ただただ居なくなってしまったのでした。氏子達は大騒ぎです。

どうしよう。屋根の上に鳥が居なくっちゃあ神輿は神輿になりません。

志村棟梁は責任を感じて、一夜考え込みました。しかし、鳳凰は一夜では見つける事も手に入れることもできません。

それが烏のプー太郎には運の尽きだった。プー太郎は棟梁が作業場のガレージで飼っていた大きなカラスです。棟梁が考え込んでいる時にタマタマ、野郎がプーならぬ、カアカアと大あくびをしたのでした。深刻に考え込む棟梁の姿がおかしくって、それで大あくびをして見せたのでした。カラスって奴は、それも年を取った大ガラスは得てしてそんな奴なんです。考え込み、悩む人間を笑ってやろーの気持がとてもデッカイのです。普通の人間だったら、カラスまで馬鹿にしやがってと落ち込んだりが相場でしょう。しかし、オッとどっこいなんでありました。

棟梁はアッという間に思い付いてしまったのです。立派な思い付きと褒めるしかありません。

鳳凰が居なくなったんなら、それじゃあ、このプー太郎を代りに屋根に乗せりゃあいいんじゃないネェーか。烏山神社のお神輿だ、烏が屋根にいるのも悪くネェ。

そこで皆の衆に相談したりすれば、この単純きわまる考え方は、それこそ民主的にお蔵入りになったでしょう。

だって、そりゃ前例が無いぞ、とか。

神輿にカラスの縁起はどうだ、とか。

堂々巡りの末にオカシイから止めとこうになった。あるいは冗談としか思われネェよ。になったでしょう。

が、しかし、棟梁にはそんなゆとりはありませんでした。パシリと音がする程に考えが生まれて、アッという間に動いてしまったのでした。

デッカイ、あくびをして馬鹿にしたようなプー太郎をすぐにつかまえました。

そして、頭に小さな紙の袋をサッとかぶせました。

昔、山寺の和尚さんは猫をかん袋におし込んで、手まりにしたそうです。

ポンとけりぁ、ニャンと鳴く、のあの唄のとおりです。

あの手まりは良いまりであったと思いますが、今では動物虐待法やらでもう出来ません。そんな事まで考えない棟梁は作業所の棚にあったスプレーをつかんで、それはゴールデンカラーのスプレーだったんですがそれをいきなり、カラスのプー太郎にブッかけたのでありました。頭に袋をかけてやったのは黒い眼にスプレーが入らぬようにとの親心でした。

untitled

無題

2009
Osamu Ishiyama

Cardboard, crayon

Displayed at Gallery 2


烏3

プー太郎驚いたのなんのって、とお想いでしょうが、カチリと音がしたかどうか?いきなり妙な世界に入り込んだんでしょう。

プー太郎は実に大人しくされるがまま。なんでありました。

ギャアギャア鳴き叫び、ドカドカ動くな!コンチクショー。ギャーギャーギーギー、ガリガリ、クックッは一切なく、作業場は修羅場にはならなかった。

カラスの首も目玉も羽もちぎれ飛ぶじゃあなかったんです。

頭をのぞいて、すっかり全身はゴールドになっちまった。ピッカピッカの烏になった。

頭の袋を外してやったら、何とプー太郎の奴ニヤリと笑ったって言うじゃありませんか。

誰が言ったんだと?そりゃあ、志村の棟梁ですぜ。

「確かにニヤリと笑いやがった。それで俺あすっかり冷静になって、エレエ事しちまったなあと頭の芯まで冷えたってワケ。

ニヤリって言うのか、ニンマリと言うのか、ニーッの方が良いのか、マア烏ばなれした笑いだった。で俺は、こいつにプー太郎なんて名前つけていたけれど、こいつは女じゃねえかと気がついたんだ。金色に化粧してニンマリ笑うのは、コレは男じゃあネエ。女だ。メスだ。メスガラスだったのかと気がついた」

ひと夜明けて次の朝、烏山神社の境内は大騒ぎになった。

鳳凰が居なくなったって大騒ぎ、今度は金色の烏が神輿に舞い降りたって、十倍の騒ぎになったのです。ジイさんも、バアさんも、娘もガキも何故だかみんなニコニコ笑ってました。

だって、そりゃぁおかしいよ。頭と眼だけ黒い大ガラスが神輿の屋根の上でニンマリ笑ってるんだから。これは誰もがオカシクッて笑ったんだ。

大ガラスのニンマリが良いというので、大バカなTVまで駈けつけやがって。もう神社は押すな引くなの人の波で埋まってしまったのでした。

大バカ日日テレビ、日の本TV、不治TV、旭日TV、高尾山TVまで来やがった。

境内はカメラのまさに砲列です。

TVキャスターってんですか。あの得体の知れぬ人の群もやってきて、もううるさいの何の。

「アッ、アッ、アレが噂の金ガラスです。こっちを向いて笑いました。ニンマリ笑いました。たしかに嬉しそうに笑いました。笑う門には福来たると大昔に言ったそうですが、まわりがピッカピッカに輝いてくるようです。

オーラですね。コレワ。オーラ、オーラ、すごいオーラです。

ところで、この金ガラスのお知り合いだとかの人に今日は来ていただいております。地元の志村喜久男さんです。どうぞこちらに。

おはようございます。凄い騒ぎになりましたね。いかがですか」 「凄い騒ぎたって、あんた達が騒ぎ立てるからこうなったんじゃないの。騒ぎにしたのはアンタだよ」

「イヤ、イヤ、それはそれとして、この金ガラスは今朝お神輿の屋根に飛び乗ったって聞きますけど、いかがでしょうか」

「そうだよ。気が付いたら、屋根の上に降りて来て、カア、カアと鳴いてやがった」

「アチラの方が金ガラスは古くからの志村さんのお知り合いだとか?」

「知り合いなんてモンじゃねえんだ。うちの飼いガラスだったような気がするんだがねえ。俺も良くわからなくなっちゃった。

アイツはプー太郎のような気もするし、そうじゃネェかも知レネエんだ」 「プー太郎?」

そう、昨日の夜まではプー太郎なんて呼ばしていただいたんですがね。今朝になったらこんな人気者で、それじゃああんまりの名前だよなあ」

「そうですネェ。神さまみたいに光ってますからネェ。ホラ、おさい銭投げてる人も居ますし。アレアレ、あの人もこの人も一万円折って投ばしているじゃあ、ありませんか。

そうです。日本中の皆さん、ここ烏山神社の空には今、一万円札が飛び廻っています。何という、何というありがたい光景でしょう。これはまさに神の鳥でしょうか。どうです」

「アンタ、いきなり神の鳥なんて言ったって、わたしには昨日の晩まではプー太郎だったんだから」

「イヤ、イヤ、プー太郎はありませんよ。罰があたります。神のカラスにプー太郎なんて。ネェ、お婆ちゃん。どおですか?」

「ありがたいこってす。長生きしてきた甲斐があります。キャラメルのおねえさん。ツルは千年っていいますけど、カラスは何年なんでしょうかネェ」

「お婆ちゃん、わたくしキャラメルのおねえさんじゃありません。キャスターです。キャスター」

「あんた、このお婆はからかってんですよ。それもわかんないの。アタシはカラスにからかわれてきたから、それくらいの事はわかんだよ」

「ヨシテ下さい。コレ実況中継なんですからTVをからかっちゃあいけません。TVは金のカラスなんですから」

もう、その日から、烏山神社は三日間というもの大騒ぎが続いたのでした。TV放送もかくかくしかじか一日中混乱し続けて本当に良い日になったのでした。たった一羽のゴールド烏でこうなるんですから、全く。

さて、モヘンジョダロに戻ります。タマが見上げた遠いモヘンジョダロの上空に。

志村棟梁とモヘンジョダロでの花見の会



烏4

烏山神社の大騒ぎから近いけれども遠い、ここモヘンジョダロです。高くないけれど、低くもない。丁度烏の影が見分けられる程の中空に黒い鳥影がゆっくり廻っています。右回りに回転しているじゃあありませんか。一羽や二羽ではありません。丁度七羽でした。ほぼ等間隔に間をあけてますから目立つの何の。こっちだってビックリ仰天なのですが……。人間達は一向に気付きません。そりゃそうでしょう。流れる雲の形の美しさに見惚れるような人は今は少なくなりました。大体遠くを眺めたいなんて人も少ない。マア、これはビルや家々の固まりの中で、遠くを視ようたってママならぬのですから、自業自得とも言えましょうが。ほんの少し昔迄は東京都内の何処からだって、富士山はおろか、その前景の丹沢山塊や、富士周囲の奥高尾連山、西へ廻って丹波、奥多摩、奥秩父の連峰。その右に赤城山、東北に廻って、ガマの油売りで有名な筑波山とぐるりと山々に囲まれていたのです。烏だってその山々に棲みついて人間の残りカスなんか漁らなくっても、キチンと生きていたのです。

恐らくは人間達よりも古くからの先住民ならぬ先住いきものであった事はまちがいないところでしょう。

東京で唯一とも言える山岳霊場である高尾山には烏天狗がいるらしい。その神話ならぬ伝説が今に残ります。神話、伝説の多くはお隣り間近の烏山神社での大騒ぎに全く同じ類のモノです。こうして生まれてきたし、生み出したモノです。我々が。

今日はまだ金ガラスの大騒ぎですが、それが過ぎ去ればカラスのツタンカーメンまがいが造り出されるでしょうし、ツタンカーメンの呪だって生み出されます。エジプトのナイル河にまで飛ばなくっても、高尾山のカラス天狗は志村棟梁の金ガラスに極めて近い種に属している。

でも、あんな中空で七羽の烏はどうして隊列を組んで右廻りに廻転してるんでしょうか。鶴のヒマラヤ越えはとても有名です。鶴は大型の渡り鳥です。インドから中国北部、あるいはシベリヤに、又、その逆方向もあるんですが、長い長い飛行の旅、渡りをやってのけます。その際に高い高いヒマラヤ山脈を越えるとされます。八千メーターの白い巨峰を越えて飛ぶのです。その時、インド側の上昇気流が吹き上げる場所に鶴たちは集まり、その上昇気流に乗り、螺旋状に空高くへと舞い上がるそうです。隊列を見事に組んで集団でヒマラヤ越えをやってのけるそうです。まだ弱く、飛行能力に劣る幼い鶴は強い鶴が助けながら高い空へと、螺旋状に回転しながら舞い上るそうです。

あんな中空で七羽の烏はやっぱり何処か高みを目指そうとしているのでしょうか。

でもねえ。ここら辺りにはそんな巨大な雪嶺はありはしない。越えるべきモノはどこにも見当たりません。ただただ、ベンベンと変り映えのしない住宅地が大地を埋め尽くすばかりなのです。それがそんなに遠くはない山裾まで続いている。

いくら鶴とは言えず、烏だとは言え。イヤイヤ、いきもの差別はいたしますまい。黒い烏には黒いなりの、白い鶴には決してないブラックなりの特別な何かがあるのでしょう。それで、荒涼としたとしか言い様の無い、バラック住宅群の海原状の上をグルグル廻転しているにちがいありません。

気になるところであります。

回転を何故続けるのか?

回転には回転の中心がある筈です。ヒマラヤ越えの鶴であれば、それは強い上昇気流です。でも、ここには飛び越えるべき高い峰もありません。だからでしょう強い上昇気流を見つける能力も必要ない。必要の無いところに異形の能力も生まれる筈がない。では、あの七羽の鳥共は何故、あんな中途半端な高みをグルグル回転しているのでしょうか。

回転する円の中心の直下に行ってみたいと思います。

モヘンジョダロの西端に近く、誰が呼んだか、これもよみ人知らず、ならぬ命名人はわからない、けれども「ビワの樹の王」と呼ばれ、呼ぶビワの大樹がありました。それはそれは見事な大樹でした。



烏5

誰が名付けたかビワの樹の王。それは王の名に恥じぬ堂々たる姿をしています。ビワの樹の葉は古い古い化石をも想わせる形、色をしています。手ざわりだってゴワゴワしていて樹の種族としては古い記憶の持主なのが知れます。初夏に金色に輝く色をした実をたわわに一杯に身につけます。その生い茂った金色の実を狙って小鳥が群がります。そして烏も。少し昔は高い処に円を描いて悠々と舞っていたトンビの姿は最近はここでは眼にしなくなりました。

群舞していたツバメの姿もありません。夕方の主であったコウモリの姿も消えてしまいました。ツバメについては併走させているアニミズム紀行5に少し計り記憶を書きました。又、この物語りにも登場するやも知れませんが、何ともまだハッキリわからないのです。わからぬ事を漫然と書くなよの、せっかちな声も聴こえますけれど、わかった事を書いたって、もうわたくしには何の面白味も無い。わからない事を少しでもわかりたくって書いているのですから。居直りめいたことはグチに聞こえる事が多いのはすでに知るところですので、前へ進みましょう。

ビワの樹の王が樹身一杯に金色のビワの実をつけた時は壮観です。先に書いた、居なくなった鳥達を除いても、まだまだ都市に棲む鳥の数も種類も決して少なくはない。そして、その鳥達がここを先途と、ここモヘンジョダロのビワの樹の王のところに集るのです。

そのとき、ビワの樹の王は一気に姿を変じます。

ザァーッと黒いマントをひるがえすようにマントの内の姿をのぞかせるのです。マントなんて随分古めかしい。せめてケープとか言って見たいのですが、テメェの記憶がそれを許しません。許そうとしないのです。これも又、アニミズム紀行7に書いた事なのですが繰り返します。何度繰り返しても決して減らない宝の箱ですから。母と暮した東京郊外の貧しい六軒長屋。それには共同の井戸があって、そこには母や知り合いが良く集って噂話に花を咲かせておりました。その井戸の先に、わたくしの宝島とも呼ぶべき、あのハラッパがあったのでした。

わたくしがどうしても今の都市の姿に馴じみようが無いのは、好きになれないのは、あのハラッパの記憶が余りにも強く記憶に生き続けているからなのです。

少なからず見てきた異国の都市の姿への憧憬から、今の身の廻りの都市、有り体に言えば東京が好きになれないのではありません。わたくしには自分でも驚く程にヨーロッパやアメリカの都市への憧れがありません。全く無いとは言い切れませんでしたが、近くのモヘンジョダロや、これは隣りの烏山神社の森に、再びガキの頃のハラッパの面影を見るようになってからは、それが一切消えて失くなって仕舞いました。

ビワの樹の王がザァーッと黒いマントをひるがえした、その中には凡庸な例えになりますけれど、ルソーの「蛇使いの女」の密林がありました。あるいは洋モノかぶれを捨て去って田中一村の奄美の森が広がっていたのでした。女が鳥の眼のような奥深い眼の中からこちらをのぞいている、あの黒い密林の濃密さが広がっていたのです。

ルソーだってゴーギャンみたいに遠い南洋の島や森、そして女達、いきもの達に憧れていたに違いありません。でも、彼はゴーギャンの如くの行動力がありませんでした。別の言い方をすれば、常日頃の行動半径の中の近隣、すなわち共同体が捨てようにも捨てられなかったのでしょう。踏ん切りがつけられなかったのやも知れません。それどころか、もともと遠くへ行きたい気持の強い、旅人の気持が薄かったのかもしれません。でも「蛇使いの女」の眼の深さ、黒さは尋常ではない。この女の眼は洞穴です。今風にトンネルと言っても良い。このトンネルを抜けた処の風景をルソーは女の居る密林の風景として、女の廻りに描いた。女はその風景の中に立ちつくしているのではなく、メビウスの輪みたいに、眼の空洞の遠い涯に密林がありました。



烏6

密林と呼ばれる位の森には、当然のことながら深い深い奥行があります。奥行があってこその密林です。「蛇使いの女」の眼の深さに見合うくらいの奥行がある。

ところでアンリ・ルソーって絵描きが描いた「蛇使いの女」の眼の奥に広がる密林。すなわち奥深く、深い密林は実ワ嘘な密林でもありました。嘘というのはアンリ・ルソーの嘘ってことです。わたくしの嘘ではありません。ルソーはうーんと若い頃、パリで働き始めた頃、実は小額の盗みをしてしまいます。気の弱い男であったのでしょう。そしてその盗みの名誉回復とも言うべき、これも又、気の弱いハッタリだったかも知れませんが、それで何を気迷ったか志願兵になったのです。チョッとした恥を上塗りしようと、やむなくなった志願兵です。まずい事は連なります。入隊した隊にメキシコへ派兵された兵隊がたまたまいたのです。パリからは遠い遠いメキシコです。同僚となったメキシコ帰りはアンリ・ルソーに大いに吹いたのです。嘘というか、マア、これはホラでしょう。眼に視えるようですね。気の弱いルソー、小銭を盗んでそれが見つかり、自分をウヂウヂ責め抜いた挙句に、仕方なく名誉回復ならぬ、見栄で入った軍隊で、遠いメキシコの話しを聞かされてしまった。

メキシコの女やら、笛吹き芸人、そして暗い密林の話でしたのでしょう。今でも良くある話じゃあ、ありませんか。

「その女のよ、髪の毛の長いことったら、なかったね。まるでニョロニョロうごめく蛇みてえでよ、いい女だったぜ。その女と寝た小屋の外は、密林よ、おメエ密林だぜ。ジャングル。

夜になったら、とても外には出られやしねえ。毒蛇や、モモンガーやら、ハイドロボッチね・・・それがウヨウヨ、モゾモゾしてるんだから危ねえの何のたって、噛まれりゃ、おメエ一発でお陀仏よ、あの世行きだぜ。」

「モモンガーってのはわかるような気がするんですが、そのハイドロボッチってのはどんなイキモノなんですか」

気の弱いアンリ・ルソーは尋ねました。

もともと、そんな生き物はメキシコだって何処だって居やあしなかったんですが、ルソーは他人の話を疑う事が出来なかった。

「そりゃあ、おメエ、アンリよ。ハイドロボッチってのは、マア、聞きネェ・・・・」 とホラの上にホラを重ねてメキシコ帰りの兵士は更に語り聞かせました。もう、得意の絶頂です。

それが「蛇使いの女」の絵になりました。

アンリ・ルソーはメキシコへなんかは行きはしなかった。メキシコ帰りの兵士から、嘘八百を聞かされただけでした。

だからあのアンリ・ルソーの絵には奥行きというモノがありません。だって現実じゃあないんですから。それも視てきた現実じゃあない。嘘八百のメキシコのホラ話しを、真に受けて、そのまんま、そのホラ話しを絵に描いたというわけです。パブロ・ピカソはアンリ・ルソーの発見者でもあり、ルソーをゲストに招いてアトリエで夜会を開き、当時のパリに集まっていた外国人画家や批評家に紹介したという事です。その夜会で、アンリ・ルソーはどんな話しをしたのでしょうか。その時にはメキシコ行の嘘はバレていたんでしょうか。あるいは・・・。

気の弱いアンリ・ルソーの嘘のお話しはそこまでとします。ビワの樹の王の嘘について話すことにいたしましょう。

ビワの樹の王のマントがひるがえったら、そこには密林の奥の深さがあったぞと確かに言いました。どうも、わたくしにもアンリ・ルソーの気の弱さが乗り移ったのかも知れません。それは半分嘘で、せいぜい半分だけが本当なのです。

何故って、ビワの樹の王には奥行どころか、背中ってモノが無かったのです。堂々たる王の姿を本当に持ってはいるのですが、ビワの樹の王には背中が無かった。薄い、薄い前半分の姿しかありません。

モヘンジョダロの遺跡は何の遺跡かと言えば、言えば言う程に話しはつまらなくなってしまうものでもありますが、それはそれ仕方がありません。アンリ・ルソーのパリの日常が恐ろしく積らないものであったように、日々の現実は昔から、それこそ太古からと言っても良い位に積らぬモノではありますが、その積らなさを言わなくては話が進みはしないのです。



絵言葉01

1.アンリ・ルソーの絵と森

いささかの理屈を書いてしまった。

書くまいと心して始めた文章だけれど、どうも根が理屈を求めるのだろう。負け惜しみを言えば、現代の小説やらは読んでも読んでも不必要感が増すばかりで、面白くない。

かと言って自分の戯れ文だって、そんなにイキがる程のモノではないのは知っている。

それで画を入れてみたいと考えた。単純な筆一本で描く絵だって、時に言葉以上のモノを表現することがある。

筆で描く絵はそれこそ偶然の連続である。細部は指の筋肉骨格をつかさどる神経の不自由さによる、意識の統御への反乱としか言い様がないのである。

沖縄の西表島浦内の月ヶ浜で描いた、波がけずり出した木の根。

年を経たモノは人間でもモノでもそれなりの姿形をしている。



絵言葉02

絵言葉ってのも妙なモノだな。

でもアニミズムなんだからイイヤと思考停止する。

考え過ぎるとパカになる。

森やビワの樹の王そしてチイならぬタマの変身ばかりにアニマが宿るのではない。

高速連絡船の洗い場のホースがうごめくのや、アルミの窓から眺める海にも、アニマは宿るのである。

万物に精霊あり。何故ならそれは自分が鏡に写っている姿であるから。

アニミズム紀行8はメタル系のアニミズムについて少し触れている。こんな絵の感じです。



絵言葉03

高尾山は東京都に現存する山岳霊場である。しかも新宿から1時間少々あれば山上に立てる。

京王線とケーブルカーを乗り継いで少し歩くと山上の霊気に触れる事ができる。

薬王院は山上のアニミズムの小パンテオンだ。

日光東照宮の建築、彫刻づくりに参加した職人達がここでも技をふるっている。

日光ほどに富と権力が集中したわけではない。だからとても良く高尾山の森と水と風そして土、岩の自然と調和している。山の霊気と生きもの達が神社をくるみ込んでいる。

江戸のアニミズムの最良の現われであろう。



絵言葉04

インド・ビハール州ナーランダを再訪した。

陽差しの熾烈さは昔に変わりはなかった。5世紀創建のナーランダ大学の遺跡は見違える程に整理されて、30数年前とは格段に馴染みやすく目に写った。

凄絶さは消えていた。初訪のナーランダ遺跡は入口からの細い道の両脇にハンセン氏病でもうほとんど動けぬ物乞いの人々が並び、それをかいくぐって辿り着いた分だけ殊更なモノに視えたのだった。

見覚のある遺跡の北西にあるストゥーパは昔と変りはなかった。ただストゥーパのかたわらに在る菩提樹の大木が大きく眼に写った。

わたくしの眼も少しは成長しているのかも知れぬ。

ただその実感はストゥーパを真中に据えてスケッチを始めてから気付いたモノではあった。

成長したのではない。

スケッチをしている瞬間に気付いた事なのだ。43℃の暑さの中のスケッチであった。夢中なスケッチをしている間に頭に影らしきがかぶせられた。

ナーランダの今は世界遺産になっているパークを管理している人が、しかも2人も大きな日傘を差しかけてくれていた。

スケッチを終えて共に動いていたインドの方々のもとへ戻ったら、ナーランダを描いてくれてありがとうと言われた。

ありがとうを言わねばならぬのはコチラなのに。



絵言葉05

筆で描くスケッチにはどうしても色がのりにくい。

テクニックがあって努力すれば色もつけられるのだろうが、その双方共に不足している。

でも、インドのラージギルで偶然の如くに見る事が出来た、紀元前5世紀ほどなのか、まだ釈迦の記憶が生々しいだろう時代の隠者の洞穴に彫られた小さな図像は素晴らしかった。図像と彫った岩の岩肌の質感、色彩にウームとうなった。虹紅色の岩の、その肌色に何かを感じてこの洞穴は掘られたなと想ったりもした。

ラスコーやアルタミラの洞窟絵をわたくしは知らぬ。ただ九州の装飾古墳の図像を小さな入口から覗き視た体験はある。

そこにも虹紅色の彩色が施されていたような記憶がある。

古代、岩肌は強い太陽光に剥き出しにされ続け、そのエネルギーに焼かれ温かみを時に持った。古代人はそこに様々な太陽神への讃歌を絵ことばにして彫り込み、そして暗闇の中にとむらった死者にもささげたのだろう。



絵言葉06

先日の沖縄建築行脚の旅で得たスケッチである。

西表島の離島連絡船発着所に間近の食堂を描いた。

食堂は昼近くの開店前であった。八重山ソバが喰べたくって開店するのを待つ間に描いた。20分位だったか。実に楽しかった。何が楽しいと言って、こんなに面白い事は実に少ないのだ。そこらに在るモノ(光景)を下手なりに一生懸命描いている時は我を忘れるのである。

何かをなぞろうとして描くのは余計な蛇足らしきの観念が全くついて廻らない。 つまり、空だとか家だとか人だとかの区別もつかずに同じように描いているのを知るのだ。

電信柱も人間もいか程の違いがあり得ようか。

この時、描きながらフッと、カンボジア、アンコールワットのある町シェムリアップのとある中華食堂の前の通りを思い出していた。アンコールワットの建築は思い出さなかった。

つまらぬ街の、やはり昼前であったかの通りのつまらぬ風景を憶い出していた。



つまらぬ世界の章1

モヘンジョダロの住人達、ビワの樹の王やタマ、そして石森のダンナ、カラスの暗黒航空隊の面々がうごめいているのはどんな時間の中なのか。それを少し説明しはじめなければなりません。そうしないとこの物語が世界の何処に一体全体位置しているのかが一向にわかりようがない。それぞれにしっかりとした個々の現実でもあろう、読者の皆さんにしても、自分が何処に立っている、あるいは眠りにこけているのかもわかりはしない2013年の6月の現実に、更にわけのわからないモノを読まされるのは、一種のアホくさいゴーモンみたいなモノになるぜ、作者早く消えろとコンピューターサイトを消してしまえばそれ迄の事なのですが、オットどっこいしょなのであります。作者のわたくしだって、消されるためにだけ、こんなバカバカしい事をし始めているわけではありません。バカバカしい、阿呆らしいと思われる事などは先刻承知の上ではじめている。覚悟の上の無意味なんであります。

意味と無意味の境界線なんぞは極薄、あるいは極細に限られた、それも読者やわたくしが自分勝手に張ろうとしているそれこそ架空の糸に他なりません。あって無い線と言っても良い。

地球上には不可解な線がそれでも、いくつか現存します。例えばイスラエルとい国家の境界線、これは国境線という不可解極まるライン群の中でも、一番不思議極まるラインです。なにしろ他の国境線とは取り敢えず自然そのものをなぞった如くに曲線の連続なのに、このラインはいかにもな人工の直線状です。直線はフラクタル理論では無数の極小の、それでも点ではなく線状の集合らしいが、そんなことは空へ蹴り上げてですね、やはりこれは砂漠の上の暴力、権力としか言い様のない不条理なラインであるとしか言い様がない。イスラエルと呼びたい場所の存在を否定するものではありません。しかし、国家としてのイスラエルという存在は極めて理不尽に思います。そしてあの中国大陸の万里の長城の現実。作られた時から一向に実際に機能したかどうかも定かではない夢の如きの、しかもとてつもなく長大で重量のある現実のモノ。昔、ベルリンの壁というこれも又、圧倒的な現実の、しかも不可解極まる壁があって、その壁を超えようとして幾たりもの人間が殺されるという現実もありました。実に不条理なるは巨大であればある程に現実に容易に出現し得て、そこらの、つまりこのあきらかに小さなゴミの如くの物語を跳散らせてしまうのが更なる現実です。ですから現実はつまらないどころか、それはそれは恐ろしいモノでもありましょう。

モヘンジョダロのつまらない現実の住所は東京都世田谷区南烏山2丁目2番地です。大都市東京の中では広いと言わねばならぬ、今は原っぱ。すなわち空地です。しばらく前まではここには二層の庭付き集合アパートがありました。西の端はそれこそ京王線千歳烏山駅から歩いて二、三分のところです。東京副都心まで20分で行くことができます。もう便利この上もない処です。

この南の境界線に面して石森さんとタマが暮らす家があるのです。そして石森さんとタマが暮らす家は今、実は大騒ぎの最中です。どんな大騒ぎかって?それはそれ土地の値段の高騰に周辺の人々は息を秘めているのですが、頭の中はそれでもう一杯なのです。何故ならモヘンジョダロの大空地が再開発されるのは誰の眼にも明らかですし、同時に京王線の高架化により、以前からあってプツンと切れていたモヘンジョダロを突切る道路計画の実現プログラムが急ピッチになり始めたのでした。そして、道路計画が実現されると石森さんとタマの家のある土地は大十字路の角になる位置にあるのです。

だからですね、タマの近い将来は、恐らく生きているぎりぎりの頃でしょうけれど、南烏山地区最良、というよりも、もっと赤裸々に言うならば最高価格の土地の値上り物件の所有者という事になるわけです。

石森のダンナだってそれ位の事はお見通しです。

「毎日S不動産、M地所のネェ、チラシがポストにほうり込まれてますぜ。土地売れ、土地売れっていうね」

「それで今、大方の相場はいくら位なの、おたくの土地は?」

とわたくしも即物的になります。

「今は2億は超えてるでしょう。まだまだ上がりますよ。コレワ。先立っての町づくりの会みたいのだって地元の連中は大騒ぎでした」

「そうなの。でも十年以上かかるから、見極めの時が肝心だねえ」

「それですよ。マッタク。わたしもチィもその頃丁度元気で生きてるかどうかの瀬戸際なんですよ」

「そうかもしらんねえ。たしかに。今、あなたは六十七、八だろ、タマは何才かね」

「アン、チクショウは五才です」

「おれのところの白足袋と一緒だ。丁度、その頃、あの世とこの世の境目の頃だろうな。でも、息子さんの事も考えなくちゃあね」

「そうなの、それを考えると頭がイテエ」

モヘンジョダロ周辺の地域には、その老人達は決して悠々自適の年金生活者、不労所得者ばかりではありません。そのそれぞれの次の世代には何かと問題を抱える者が少くはないのです。実に高齢社会というのは様々な穴がポカリ、ポカンと虛空に穴を明けている迷路状の洞穴なのでもありました。

その洞穴の最大級なのが、ある意味では理想の都市の中の空地、原っぱの再開発という大きな洞穴です。この原っぱは昼間はそれはそれは美しい草地であり、花だって咲き乱れる桃源郷ですけれど、夜はそれこそ真暗闇になってしまい、とても塾帰りの子供たちや、女性の一人歩きは出来ない場所になってしまいます。

ですから、この妙に長たらしいタイトルがつけられた物語らしきは、動物や植物と人間が共生するアニミズムの世界を描こうとし続けるのと同時に、現実の資本主義社会の色模様、つまりは欲得の赤裸々な世界の上にそれを半分本気で、半分は嘘を承知で、築いてみようという、物語の物語でもあるのです。物語の物語など、筋も見えぬまんまなのに再びの謎かけですが、それはそれ、先はまだまだ長いのです。追い追い話すことにいたしましょう。



絵言葉07

大判の画用紙に描くスケッチは描ける時にはまとめて描けるし描けない時には全く描けない。当たり前のことを言ってる。何故描けなくなるか?描かないからだ。何でも描き始めれば面白いモノなのだ。でも、どうしても集中する時間が得られない日常がある。問題は時間なのだ。

日常というのは大きな決断のできない繰り返しであり、同時にそのつまらなさの安定ということでもある。

しかし、そのつまらない日常でさえ、大きなスケッチを描いてみるとオヤという、日常に埋没させてはこれは惜しいなという異形らしきが発見できるものである。

スケッチはスケッチとして自立していて、このスケッチが何かのデザインに役立つかなんてことは全く無いのである。ただ自分の内に何かが記憶されてゆくのは最近良く知るのである。



絵言葉08

烏山神社境内の通称志村稲荷をわたくしは正一位いきもの稲荷と呼んでいる。

呼ぶのは自由だ。

それで先日、手製の烏絵馬を奉納した。

オーナーの志村さんには勿論お断りした。

どういう風に話したかと言えば、

「この絵馬はボケ封じとガキのイジメ防止にキキますぜ」

と言った。

それならいいだろうとなり、ブリキに烏が描かれた金と黒の烏絵馬を奉納したわけだ。

アッという間にこの絵馬は何処かに消えた。

縁起が良いのである。

今、何処にいるのか想うだに楽しい。



つまらぬ世界の章2

とかくの説明は全て言い訳の親類です。ですからどうしても位に避けたいのですが、そうばかりとはゆきませぬ。

わたくしには「ドリトル先生動物病院倶楽部」というのを作って、途中でほうり投げた暗い過去があります。暗い過去と言うよりは間抜けな前歴があるのです。変なことを思い付いては、間抜けですから、すぐに実行して当然想い通りにはならず、挫折してしまう。そんな事の繰り返しです。以前作ったドリトル先生動物病院倶楽部は「いきもの」を飼っていたり、身近に置こうかと考えている人間が集まっておしゃべりでもしようか。おしゃべりだけでは物足りないから、原作者のロフティングにあやかって午後のお茶でもやりましょう位の事でした。でも、その会場はモヘンジョダロからも歩いて行ける世田谷文学館にしたいと考え、知り合いの糸をたぐって文学館の館長さんに迄お目にかかり、会場くらいだったら良いですよのお言葉までいただいていたのでした。月一度ほどの不定期会報も至らぬモノでしたが発行していました。切手まで会員の方から寄贈していただいたのでしたが、どうしても続かなかった。何処かに重荷があったのでしょう。遊ぶ能力不足と言っても良い。それで自然消滅してしまいました。でも根が気の小さい人間ですから、消してしまった絵空事が気になって仕方が無いのです。どうせ絵空事なんですから気にする事も無いのですが、時々気になる思い出し方をしてしまう。

やはり会報らしきを不定期とは言え発行し封筒に切手を貼ってポストにほうり込むというのが何か重苦しかったのかも知れません。又、たった一人でやり始め、仲間らしきも居らず、それで続けられなかったのではないでしょうか。それでも全国に数十人の会員の方がいて、時に濃密な郵便仲間にもなりましたけれど。で、中途は省略しますけれど、ウェブサイト上の「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」と題したサイト上の妙な連載になりました。

今度は少し計りの仲間が一緒です。

「誰か?」

そんなに角ばらなくても良ろしい。角ばるのは愚の骨頂です。仲間はタマや石森のダンナ、烏山神社境内志村稲荷のオーナー志村棟梁そしてビワの樹の王や烏たち、烏山飛行軍団であります。

「整列点呼!」

と叫んだって誰も並びやしません。

志村の棟梁なぞは誰かにiPadやらを見せられて、自分の花見の写真を見つけて興奮し、

「これ何処で売ってんだ!」

と叫ぶ始末です。内容じゃなくって、自分が映っている機械(コンピューター)のことでした。そこに何が書かれていたかなんて誰も興味が無い連中なのです。興味持たれたって、こちらが困るだけなのですけれど。

しかし、コンピューター文化に関しては、何を隠そうコンピューター文字映像の送り手でもある、わたくし自身がジュラ紀のアンモナイト状の化石人間なのです。サラサラと流れ落ちる砂男、つまりはミイラなんであります。

ミイラと言えば今の時代はミイラが群居する誠に面白い時代になりました。ミイラの大きな奴が映画館でありましょう。金を払って暗い箱の中に入ると万華鏡がグルグルと回転して、上等やら下等やらが入り交じる映像の別世界に連れていってくれる。ところで、映画館といえば、最近、かつてのドリトル先生動物病院倶楽部の仲間に一人かつての映画作りのジイさんが出現しました。

横山弥太郎さんです。90才。

今日は日曜日で弥太郎さんのモバイルに連絡したら、今でられませんと、アレは誰なんだろう人工的な女の声が知らせました。昼寝でもしてるんでしょう。夕方には連絡がくるやも知れません。こないかも知れない。それでいいのです。で、今のところの動物病院倶楽部とやらは石森のダンナと弥太郎ジイサンの三人だけなんですね。しかも、二人は会員である事さえ知らぬ存ぜぬの人間なのでした。

なんだ動物病院倶楽部という新しい名は?どうなってんだと角ばるお人もいるやも知れません。追々時間があれば説明するかも知れないし、しないかも知れない。

この5章の2、つまらぬ世界は、そんな訳でかつてのわたくしのドリトル先生動物病院倶楽部の面々にコンピューターの画像と文章をプリントアウトして古い古い紙の印刷状として作り、封筒に入れて勝手にお送りすることにします。せめてもの、プッツンのお詫び方々、ペーパーの世界へ、電子の世界からの通信であります。

それにもっと大きな理由(ワケ)が実はあるのです。この連載がいつ迄続くのか、わたくしにもわからぬ処があるのですけれど、それにしても、あれにしても何しろ題名(タイトル)が長過ぎます。わたくしの生きてる時間も、あなたと同じに極めて短く、か細いものでしかありません。そんな中で、こんな無駄なモノを書きつづり、なおかつ長い長いタイトルを毎回毎回書かねばならぬのは、やっぱりいささか苦痛なのです。それで、この章の今回をもって長い長いタイトルは切断することにしたい。

「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」をチョキンと切ります。そして「正一位いきもの稲荷へ」とします。ドリトル先生うんぬんがついていた理由はいささかをのべました。それ以上でも以下でもありません。それに、動物語をしゃべるドリトル先生の天才だって、東北岩手の遊星人であった宮沢賢治が東洋的と今は言わざるを得ないアニミズムの世界には身近です。いささかの遠回りをして、又、イギリス特有のファンタジーへ戻るかも知れませんが、今はそんな約束なんてとてもできません。

それで、昔のドリトル先生動物病院倶楽部の皆さんへの久し振りの通信をかねたこの文章とヴィジュアルをもって物語り、あるいは物語られは長い長いタイトルとお別れしたいと思います。



つまらぬ世界の章3

タイトルが短くなってスッキリした。スッキリはしたけれど散髪したての髪の毛みたいで何かもの足りぬ感じもある。人間はいつも自分の決断に不満を持って止まぬ。ところで散髪したての髪の毛という程にわたくしの髪の毛はもうフサフサとはしていない。この物語らしきに登場する人物の髪の毛はみんなフサフサしていない。パラリかツルリのどっちかだ。そんな事はどっちでも良い。ツルツルと言えば新しい友人である横山弥太郎さんは90歳であるから、それなりに頭の毛は無いのを思い出す。弥太郎さんの頭はタクラマカン砂漠状である。砂漠に個性はあるのかの愚問が聞こえるが、そりゃあ当然に大ありである。山川草木石砂水、ありとしあらゆるモノには個性がある。科学技術が進歩すればするほどにその現実が露出してもいる。

この、タイトルをいきなりチョン切った物語まがいだってそのことを大前提に話がすすんでいる。弥太郎さんだが、先程電話してみたら、ギョッ、入院中であるとの事。マア元気そうな声で安心したけれど、何しろ登場人物は高齢者が多い。青年男女の愛だ恋だSEXだのギンギンは、あるいはうたかたの間抜けぶりは無いけれど、その代り知恵は重なって積み上がっている風はあるが、それなりにそれが危ない。何時こけるかがわからない。つまり、何時死んじまうかがわからない人々なのでもある。アッと言う間の人々、動物、樹木、草花の物語でもある。

ビワの樹の王だって明日とも知らぬ生命なのだ。だってモヘンジョダロそのものが、まだ正体が明らかではないデベロッパー、不動産屋の手によって再開発間近であるから。

梅雨に入ってビワの樹の王の姿はいや増す如くにいよいよ堂々としている。暗緑のゴワゴワした葉が、太くよじれあった幹に精一杯の影をつくり出している。そしてとうとう宝の実とも呼びたいたくさんの黄金の実を茂らせ始めている。つまらぬ言い方だけれど、たわわに黄金を葉の蔭に散りばめているのである。この黄金の実を狙って間もなく無数の鳥がやってくるだろうし、烏の飛行軍団も集結間近であろう。皆、今か今かと黄金の実が熟すのを待ちに待っている。 遺跡の下草にズボンをビッショリ濡らして、まるで雨に小便ひっかけられた風になり、傘をさして遺跡に屹立する王の樹蔭に近寄ってみる。雨のしずくが葉に、黄金の実に、ねじれ込んで編み物みたいにからみあった太い幹を濡らしている。南からだけでなく、北にもグルリと廻ってみる。

ビワの樹の王の歴史がそこに視えるのだ。王の北からの姿はマントを拡げて立ちふさがっているみたいだ。両肩にマントをかかげて広げている。マントの内が視え隠れする。マントの内は奥深い洞穴である。

ビワの樹の王は表と呼ぶべきか、南側の表情と北側の表情がまるでちがうのである。南の姿は穏やかな、平和なとも呼べる安穏な姿であり、その反対の北に廻ると、いささか不安で痛ましいとも呼べる洞穴がポッカリと穴を明けている。

モヘンジョダロが遺跡になる以前、そこは公団住宅が建ち並んでおりました。庭付きのテラスハウスと呼ばれる最新型の共同住宅でありました。1958年にこの公団団地は建設されました。そして家々には子供達が生まれ育ちました。犬や猫も平安に暮らしていたのでしょう。ビワの樹の王が堂々たる姿で立ちつくしている処は、あるお家の前庭に接しておりました。ささやかなお茶の樹の垣根やらで簡単に仕切られていたのでしょう。垣根はあって無いが如くです。子供たちは喜んで簡単にくぐり抜けて、それも遊びにしたでしょう。そのあるお家には女の子が一人居りました。チイちゃんと呼ばれる目玉の奥深い、夢見がちな女の子でありました。ナニ、チイちゃんだって、そりゃ石森のダンナの飼い猫、あのぜいたく三昧な猫の名前じゃネェかだって。そうですよ、何故か同じ名前だったんですね。あるいは、同じ名前で在り続けているのでした。輪廻転生だとか六道遊行だとかの、大それたことを言うわけでは、勿論ありません。たまたま同じ名前であったのでしょう。

チイちゃんは2階の屋根裏部屋みたいな部屋を与えられ、そこから南の空を眺めていることが多かった。そして、ビワの実が好きでね。ビワの実をむいては、たっぷりとした厚肉みたいな実を喰べて、あの大きな種を口に含んでは、プーッと南へと吹き飛ばすのが好きだったのでした。さくらんぼの種なら簡単に吹き飛ばせましょうが、ビワの実の種を吹き飛ばすのは仲々大変です。勿論、あんまり遠くへは吹き飛ばせませんでした。ポトリと足許に落ちた、口にふくんだビワの種を、エイヤとつかんで南の空にほうり投げたりもしたのです。その投げられたビワの種の一つが、何とか根を張り、芽を育てたのでした。

今は昔のお話です。でもたった50年程だけの昔のことでありました。

今、公団団地は壊されて、基礎の一部が残り、草花が咲き乱れ、猫のチイがアキラのダンナと日がな一日遊びほうけるモヘンジョダロになりました。ビワの樹の王の姿、その北側にポッカリ洞穴が開いているのは、つまり北側にはチイちゃんのお家が建っていたからなのです。

ビワの樹の王はチイちゃんのお家間近に立ち続けた、チイちゃんがプイと空へと吹いたビワの種から生まれ育ったのです。あるいはチイちゃんが空にほうり投げたビワの種が芽を出し、根を大地に生やした者でありました。チイちゃんのお家と切っても切れぬ共生関係があったんです。共生関係なんて七面倒臭い言葉です。ポイとゴミ箱に捨てましょう。切っても切れぬ御縁があったと言い直しましょう。その方がわかりやすい。

だからビワの樹の王の北側の姿、背中といっても良い。チイちゃんのお家があった頃は正面だったんですが、それが失くなってしまったら背中と言うしかありません。その背中にはポッカリ洞穴が開いてしまったのでした。その洞穴の中へ入り込んでみたいものです。ビワの樹の王そのものがモヘンジョダロ再開発、あるいは都市計画道路の実施により、切り倒される日はそんなに遠い日の事ではないのですから。



つまらぬ世界の章4

始めた芝居は、それがつまらぬ一人芝居であり、観客もまばらな三文役者ばかりの芝居であったとしても、ですよ。いつかは止めなければならぬ。それでなければ、つまり止まらなければ芝居にもならない。

一銭の投銭さえも舞台には投げ込まれないのだから。

でも、2013年8月の中日、お盆の今は大がかりな芝居が列島に繰り拡げられてもいる。先祖詣での墓参りの帰省やら、そのとんでも無い行列の、毎年毎年繰り広げられる妙な光景である。お盆という、先祖詣での時間は、せちがらい今に続いている。その風習、習慣の繰り返しと、実は、わたくしのこの「いきもの稲荷」への旅は通底しているのである。通底なんてムズカシイ言葉を使って恥ずかしい。実にイケナイなコレワ。と書き直す。通底=おなじ、あるいはおんなじである。

この、ウェブサイトに垂れ流し始めた芝居、あるいは古い言い方になるが、物語りらしきは、実に2013年のお盆の今、問わず語りの芝居のト書きならぬサイトの発光体の文字の連続はたたき壊され始めている。良かった。もう、今のまんまで垂れ流し続けても、わたくしの人生と同じ位に何の意味さえもない。勿論、貴君の、そして貴女の人生にとってもそんな事情は一向に変わりはない。ますます人生は実につまらぬ現実である。

ところが、三文芝居のト書きらしきが、現実にたたき壊され始めてしまった。勝手ながら、つまらぬ現実の中で、それでもいい調子で気分も良く書いていた南烏山5丁目のモヘンジョダロの遺跡も、その上空に烏の編隊がグルグル飛行して円形の天のシュプールを描いていた空は、いきなり一転して、生き生きとした、しかる故にどうしようも無くお下品極まる現実の津波に打ちくだかれ、流され始めようとする、まさに津波直下の状態になっている。

そんな中で、たしかに 阿呆丸出しの、だけれど確信犯的阿呆を演じ続けるわけにはゆかぬことになった。

これまで、それでも律儀に、五章毎に段落を区切ろうとしてきた努力も捨てることにする。バカな形而上学的空疎はこのお下品な現実には何の役にも立たない。

南烏山5丁目のわがモヘンジョダロは風前の灯の、奇跡的な今の遺跡の役割を、はやくもその演じる時を閉じようとしている。そんな中で妙な、我ながら、誰にも伝わるわけもないあの芝居のト書きは、このまんま続けることは出来なくなった。これを続ければ、それこそ、十三文キック(古いネェ)ならぬ三文キックのありとあらゆる現代詩の類に随してしまうだろう。それは本意ではないのだ。

2013年のお盆休みの現在、わたくしの芝居の舞台の一つである筈であった世田谷区千歳烏山5丁目、モヘンジョダロには幾つかの立看板が立てられている。三菱地所、セコム、三菱地所レジデンス、ラン事務所他による大がかりな再開発の通告である。

わたくしが好きでたまらぬ、遺跡の外れに立ち尽す「ビワの樹の王」は早晩切り倒されるだろうし、遺跡の中の程良く壊れかけた道路には工事用車輌が行き交うことになる。

察しの良い烏共はすでに何処かに姿を消し始めている。鈍重な鳩だけがノロノロと歩き廻っているばかりである。

ビワの樹の王は殺される。烏山神社の「いきもの稲荷」に延命の願をかけた烏の絵馬だって、誰かが持ち去ってしまった。でも、あの絵馬の鳥は今は、モヘンジョダロ遺跡の南に接するネコオヤジの家の庭の竹藪に飛び移って健全である。つい数日前に、その真ん前のソバ屋の主人が言った。

「あの烏ね、夜になるとヌエになるって、皆うわさしてますぜ」

ヌエは平安時代に生まれて活躍した化物である。

「そうか、アレがヌエになるってか、皆さん仲々かしこいね。あいつがこれからうごめき始めるようだなあ」

そんな立ち話しをしていたら、富山から本物のヌエが飛んできて、目前に現われ、会った。ヌエと呼ばれるモンスターは決して呪術方面の気味の悪いモノばかりではない。ピカチューみたいなのも実に居る。神官酒井晶正さんはそのピカチュー系のヌエである。恐らくは姿を消していた、烏山神社の絵馬烏が闇をキラリと星の如くに飛び、富山の神官へと何かを告げたにちがいあるまい。そうに決まっている。

何故なら、あの姿を消した絵馬烏はブリキの烏であったから。酒井晶正さんの神社はブリキの神を念じて作られた神社、正確に言えば「神官の間」と命名した金属のヤシロであったのだから。精魂込めた「神官の間」は絵馬ガラス同様に姿を消している。マア、諸々の事情があって姿を消したのだが・・・。

案の定、姿を消した神烏、ブリキの神社にまたがって、闇を飛び酒井晶正がやってきた。



つまらぬ世界の章5

酒井晶正は今も神官である。昔と言ってもたかだか30年程の昔ではあったが、初対面の彼も神官であった。神がかりの気が少くはない、むしろ途方もない程に大きな母親が背後霊の如くに背中についてはいたが、それでもいささかの神がかった予言やら託宣をなし、それが富山の地元では仲々の評判も呼んでいた。重宝がられていたのである。

所謂小さな神様であった。小さな神様というのは、解りやすく言えば新興宗教らしきを興す能力を潜在的に持つ人間を言う。わたくしは、この手合いの人間に多くはないけれど、何の因果か度々出会ってしまう習性があるようだ。

それはおいおい、実害が無い範囲で述べることにしたいが、実はそれは今に残るタブーに近いモノであるような気もして、出来るかどうかはわからない。

その神官酒井晶正が何やらヒョンな事で、わたくし奴を知った。そして東京から富山に呼び寄せたのであった。30年昔の事であった。

それからの事は、今のところは全て省く。得々とサイトに打ちあける類のモノではない。実に恥の極みであった。この8月に久々に再会した酒井晶正は驚く程に何も変ってはいなかった。それを指摘すると「お互いさまです」と言いやがった。勿論、30年程年を取り老けてはいた。しかし、昔と同じように余りにも真当で、相も変わらず裸の精神のマンマの神官ではあった。会ってすぐにそれは解った。余りにも裸形のマンマの人間なので、もう、そんなムキ出しの心性を持たぬ周囲はとても理解できぬ種族のマンマでもあった。一度結婚して、お母さんと三人暮らしの時間があったそうだ。あの神がかりの母親と通常の結婚生活なぞはあり得ない。で、やっぱり別れたそうだ。そんな事、書いてバチがあたらないかと思われる向きもあろう。

大丈夫。

背後霊の母、グレートマザーならぬ、本当に恐かったお母さんは昨年亡くなったそうで、今はこの世には居ない。恐らくあの世にも居ないのではないか、何処か異次元の星に今は飛んでいったのであろう。そうに違いない。だからバチもあたらないし、のろいなんかも届かぬのである。だから、用心にこしたことは無いが、こんな事を書いてしまっている。かくなる事を書く、表現しなくってはわたくしの気持がおさまらないのである。

イヤハヤ、少し気持が高ぶり過ぎてきた、用心したい。

それで闇雲に真暗で、筋道も定かではなかった、この「いきもの稲荷へ」の芝居もどきに、ようやくにして筋道らしきが開かれたのである。

忘れぬうちに、その筋道らしきを記録しておこう。

この芝居らしきのト書きの演目はすでに一度変更されてもいる。はじまりは「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」であった。それがいつの間にやら正一位も外れてしまい、ただの「いきもの稲荷へ」となっている。この変更は、要するに大方針が立たぬ間に芝居が始まっている事に他ならないのだが、その事情は今も変わりがない。更に演目は変更されるであろう。

恐らく次は「子供の神社へ」となるのではないか。実にわたくしはかくの如きサイトへの垂れ流し三十郎の身の上ばかりではない。実利をともなう、すなわち銭金のやり取りの世界にもまだまだ足も手も突っ込んでいる。霞を食らって生きているわけではない。メシを喰うための銭金はどうしても必要だ。当たり前である。

で、銭金を得る為に、わたくしは子供神社の設立を思い立ったのである。国家は税金で成り立っている。仏教寺院は葬式、及び戒名代で成り立っているし、神社は賽銭で成り立っている筈だ。税金の世界、すなわち資本主義社会なのであるが、これは誰もが知るようにすでに限界集落状態である。この辺りは充分すぎる程に乱暴な論の進め方であるが、これも又、追い追い述べたい。述べなくてはならぬことが一杯過ぎる程にあるのが現実なのである。

かつて伊豆西海岸の松崎町に小さな美術館を設計して、これは実現した。出来てみたら随分多くの入場者が来訪した。入江長八、すなわち伊豆の長八の工芸作品を観ようという、いわば沢山な観光客であった。名町長であった当時の依田敬一は、こんなに人が来るんだったら、もっと町に金を落としていただこう、隣にレストランを作れとわたくしに命じて、美術館附属のレストランを建設した。

今は、それを問題にしようとするのではない。レストラン前に小さな庭園めいたモノを作った。そして、そのペルシャ風、イスラム様式まがいの中に小さな噴水と池を作った。イスラム経済はイスラム銀行の無利子資金供与でまかなわれているらしいけれど、それが資本主義と平和に併存するわけもない。が、それはさて置く。

ペルシャンブルーのタイルを貼った小さな池には大変なお金が投げ込まれた。ローマのトレビの泉に代表されるように、人間は美しい噴水と池を見ると、賽銭箱の如くに視るのか、やたらと銭を投げ込む習性があるのを、つくづくと知った。

噴水と池ばかりではない。

川崎市のクライアントから命じられて、ある保育園の中の小径に面して、小さなオブジェクトを作成した。わたくしがディレクションして広島の金属造形家・木本一之が鉄で「鬼子母神」を製作した。鬼子母神を作れと命じたのはクライアントであるから、わたくしも木本一之も手足となったに過ぎぬ。

今、この「鬼子母神」は小さな神社状の木製小屋の中に納められている。それはそれで良い。その先、この「鬼子母神像」にはいつもささやかな五円玉とか一円とかが供えられている。それにわたくしは仰天しているのである。お母さんやお父さんが子を想う気持は深いのである。神様らしきが居れば、手を合わせ、ついでに小銭を供さねばならぬ気持は健在なのである。この深い心情の構造は資本主義社会、すなわちプロテスタント社会の深層構造よりも余程、強くはないけれど、深いのではないかと、実はだいぶん前から考えていたが、いささかどころかそれを表明、表現して良いものなのかは、いぶかしんでもいた。そろそろ、それを大声で言うまでもない、裏声で唄うまでもない、小声で低くつぶやいてみたい。



つまらぬ世界の章6

ここで、わたくしのこれ迄の半生にて、作り続け視続けてきた、そんなドネイション(喜捨)をうながすような物体群を、一堂に集めて展示してみたいと思う。そのほとんどが公共のもの、あるいはその性格を帯びた物体である。が、しかしその全てが税金によってまかなわれたモノばかりとは言えない。非税金、すなわちドネイションがそのなにがしかを占めているのである。

金は天下の廻りモノとは今はあまりに空疎な流言飛語でしかない。金はひとところに留まり続け自己増殖する。しかもマネーゲームと呼ばれる如くに金は金自体のやり取りから巨額なスケールを産む現実が在る。建築や不動産(土地)はかつては着実な利益を産み出すモノであったが、今は余りにもその金を産み出す速力が遅い。ゲーム=ギャンブルになりにくい。コンピューターによる通信により巨大な為替介入や、投機がなされ続け、その現実は幻想に紙一重であり、現金や金塊は動かなくともマネーは動く。その様な現実が世界のストラクチャーとなり、その幻想に近い構造の末端、端末に我々の生がつながれている。

すでに夢は人間個人の内部に紡がれる事はなくなった。文学も詩もとうに死んでしまっている。夢はすでに現実をからめとっている。マネーは夢であり、夢はマネーを産む機構、すなわちゲーム性ギャンブル性を濃厚に所有している。

何よりも先ず北京盤古七星酒店ビルディング内の龍と毛沢東像を挙げねばならない。盤古七星酒店ビルディングは旧称を北京モルガンセンターと呼ばれた。北京オリンピック会場の西に面して、万里の長城をモデルに作られたという巨大なビルディングである。中国人の古来よりの巨大志向を良く今に体現している。

オーナーはMr.K。初対面は香港ペニンシュラホテルだった。北京オリンピックの3年程前であったか。当時Mr.Kはオリンピック会場に面した細長い長大な土地の所有権を巡って北京市と抗争中であった。巨大ビルディングは基礎が打ち終わり下の部分の鉄骨がわずかに立ち上がったまんまで、錆びついて風に吹きさらされていた。北京市との裁判の判決が出る迄、工事は停止を国家から命じられていた。工事は停止を命じられていながら、ビルディングは北京オリンピック開幕までに完成させるようにとの政府からの厳命も受けていたのである。Mr.K最大のピンチであったのではないか。北京の新聞紙上にも、長大な姿形のビルディングの形も腐った魚の尾という蔑称で最大級のスキャンダルとして書き立てられる日々なのであった。天が味方したか、北京市との抗争にMr.Kは勝利を納めた。そのあと、北京副市長の行方はようとして誰も知らぬと言う。まさに命賭けの暗闘であったようだ。

北京市との抗争の後には北京オリンピック開幕までの完成を命じられた工事の資金繰りやら何やらのマネーづくりがせっぱつまって待ち受けていた。Mr.Kは恐らくはアメリカ、オイル産油国他からの資金調達でそれをもしのいだ。北京市との政治的抗争と比べれば、それはたやすい事であったのだろう。

彼は巨大なマネーを動かしていたにもかかわらず、そのスタッフは極小であった。大方の、本人も言うところのマネーゲームは一人でなした。

ある日、わたくしは彼と巨大なオフィスに二人きりでいた。東にオリンピック会場を見おろし、西に西山、すなわち万里の長城をみはるかす一室の巨大な部屋であった。風水思想から彼はオフィスの位置やら何やらを決めていた。窓間近に大きな龍の彫り物が受水盤と共にあった。黒い石の龍だ。独りの時間がある時はこの龍に水を含ませるのだと言う。龍は水を呑む。すなわちマネーを呑み尽くすからだとの事。ジェット機のモデルが処狭しとディスプレイされていて、小さいプライヴェートジェット機を大きな奴に買い替えると言う。チリの都市開発に投資してくれないかというわたくしにMr.Kは言った。

「イシヤマ、今は出来ない。君も知ってのように、ピンチは乗り超える毎に次の大きなのがやってくる。チリの銅鉱山は魅力あるけれど今のわたしにはチョッと遠い」

「そうか、それではもう少し待とう。君がもっと力をつける迄」

「ホラ、長城に陽が沈んでゆく。今一瞬が一番美しい光であり、空なんだ。ホンのまばたきするに同じだよ。人生は一瞬なんだ」

「ウーム」

「この石の龍だって、水を呑ませ続けなければ一瞬のうちに乾いて割れてしまうんだ」

Mr.Kはマネーゲームの渦中に身を投じているが、実はブッディストであった。

更に奥深くアニミズムの気配も濃厚に持つ人間でもあった。プライヴェートジェットと石の龍も同じに視える頭脳の持主である。

オフィスには仏像の他に、諸々の像はともかく、仏像と共にデッカイ毛沢東像が同じように並べられている。白い像である。又、彼の胸には金の鄧小平の顔が刻まれたバッジが光っている。

かって日本の財界人に何故鄧小平なのかと尋ねられ、わたくしのマネーのはじまりは彼が開いてくれたからだと答えていた。当時Mr.Kはまだ40才前の若さで、それを尋ねた財界人に、

「君の会社は幾らで買えるのかね」と尋ね返して、眼を白黒させて、平然としていた。

「何故毛沢東は白いのか?」

と聞いたら、

「この400メーター先のわたくしのメディテーション・ルームには黒い毛沢東が居る」



再びモヘンジョダロ近くの烏山神社1

つい先日の事だった。今は何故かがんじがらめに金属の金網などで封鎖され、立入禁止になってしまったモヘンジョダロを遠く迂回して小さな町のラーメン屋に行った。そこで志村棟梁と再会した。封鎖されたモヘンジョダロを通り抜けるようにせよの署名運動に参加してもらえまいかの依頼事や、その他諸々の相談事をした。モヘンジョダロは今は誰も入る事ができない。だからわたくしもビワの樹の王や、その他諸々の知り合いに会うこともできなくなった。

モヘンジョダロを開発しようという、マアそれは仕方ない御時勢なんであるけれど、猫や犬や烏共は大騒ぎなんである。実に都市の真中に広々と開けた自由の土地を犯されるわけだから。

マ、それで車はともかくである、人間やら猫やら犬やら位は通り抜けられるようにできないか。インダス河まで行こうと言うのじゃあない。ホレ、眼と鼻の先の近くの商店街迄行けるようにと考えて、開発業者の面々といささかを話し合い、通り抜けくらいはさせよと交渉中なんだが、これは余りにも生々しい浮世の話しに堕してしまうので今はさておく。


志村棟梁は現役の宮大工であり、先代の烏山神社の総代だ。総代ってのは上町、中町、下町とある烏山地区の神社の仕切り役って事。神社には御神輿が、上、中、下それぞれの3台と子供神輿の4台が在る。

そのお守り役でもある。

20代近く続く古い地主でもあり、烏山神社の中にひょっこり志村稲荷なる小さなお稲荷さんを構えたりもしている。

その棟梁が、この小さなお稲荷さん近くに「正一位いきもの稲荷社」を作ってイイヨの事にいきなりなった。


普通の市民には何が何だか解らんだろうが、これは実ワ大変な事である。現存する神社の境内にもう一つの別の価値の体系による神様を祭ろうというのだから。

もう一つの別の神の体系といったって廃仏毀釈などの仏像らしきの設置、すなわち国家神道への一方的な異議を表明しようとするものではない。

そんな事は当り前である。

天皇という古代シャーマンを中心とする非合理的な歴史認識を神社境内に強化しようとするものでもない。

この辺りのことは追い追い述べることにして今は通り抜ける。


半世紀以上も昔の大戦争を引き起こした天皇と、その取り巻き一派を決然として除外すべく、と言えばいささかもなく大ゲサではあるが、そんな大それた事ではない。より広い広い汎神論的地平から、人間のみならず生き物全て、更には動植物にいたるまでの諸生物に関わり得る、今日、現代の小市民にしか過ぎぬ人間を超えるべく、すなわち言ってしまえば、非民主的なとも言える、動植物全般を包含し得る超市民社会的な、ケチ臭い民主主義を超えたいと願う気持の顕われなのである。

舌足らずの言を恐れるけれど、要するに今の地球を覆い尽くしている消費的生活観にNOは言わずとも、コレワオカシイと誰もが感じている。そんな誰でものアウラの素を探りたいと言うことに過ぎぬ。


さて下らぬ抽象論から脱け出よう。

大量消費社会のガン細胞と同衾するが如きの価値観を一歩だけでも脱しようというのが、「正一位生き物稲荷社」のささやかな設立計画なのだ。やはり大仰である。仕方ない。クセである。


わたくしの家、世田谷村と勝手に呼んでいる処には人間のみならず、2013年12月現在2匹の猫が同居している。5才と2才の共にオスの猫である。

こいつらは人間の言葉をしゃべらない。

当り前だ。

だから若年とは言え小ムズカシイ理屈は一切言わぬ。勿論脱イデオロギーも言わぬ。

しかし、確実にある論理をもとにして、わたくしと附合っているのである。

こいつ等はたかが動物、あるいは人間の愛玩生物らしきの域を超えて、少なくともわたくしの人間としての生活に関わってきており、はからずも侵入してきている。

コヤツ等は人間の中でも知識階級、あるいはその上澄みとも呼ぶべき人間とは歴然と異なる行動の形をとる。

大体、こいつ等は無駄な本やTVや、コンピューターを一切関知しない。

非常にシンプルな生活を送り続けている。

されど、だからと言って、コイツ等が人間様と比べて圧倒的に愚かだとは誰も言えないし、考えられないのである。