カバーコラム2 石山修武
 

マザー・テレサ
021 マザー・テレサ
 ネパールの首都カトマンドゥ。すぐ近くに聖地パシュパティナートがある。死を待つ人の家にまぎれ込んでしまったのは三〇年程も昔の事、最初のネパールへの旅の事だった。ヒンズー教徒の聖地ではヒンディーは死ぬとそこで死体をガートで焼かれ河に流される。それを観光に出掛けた。ガートの手前に寺院があってそこに気まぐれで入り込んだ。異臭がただよっていた。天井から足や手を吊った異様な風体の人の群れがあった。ハンセン氏病棟であった。体がくされ、朽ちて崩れ落ちた人々がそこで死を待っていたのだ。観光気分の私は凍りついた。はじかれるように寺院から逃げて出た。マザーテレサの死を待つ人の家との最初の出会いであった。それから何年も経ってから建築史家鈴木博之の手引きでネラン神父に会った。ネラン神父は遠藤周作のおばかさんのモデルになったカソリック神父だった。新宿でBarを営んでいた。日本のサラリーマンの本当の姿を知り、布教するのはBar を営むのが一番で、そこでバーテンダーとしてキリスト者としての本来の自分の意志を全うしようというのがネラン神父の考えであった。私はネラン神父の二番目のBarエポペを設計した。
 エポペの手引きで、インド旅行をした。マザーテレサの死を待つ人の家でのボランティア活動がそれには組み込まれていた。カルカッタでマザーテレサにお目にかかる事が出来た。小柄で強烈な統率力を持った人であった。彼女の小さな手拍子で数百人の修道女達が軍隊の如くにコントロールされていた。
 ハンセン氏病の患者、重度結核者病棟でのボランティア活動では私は身がすくんでほとんど何も出来なかった。身体が崩れ、ただれた人の背中を洗うなんて事はとても出来なかったし、彼等がさし延べてくる手を握り返す事もできなかった。たいした男じゃネェーな俺はと身にしみた。
 自分は人間として人間の尊厳を守ることの最前線には立てないのが良く解った。後方部隊に廻り、通信連絡係くらいが良いと考えた。
 プノンペンのひろしまハウス建設を手掛け始めたのはそんな体験があったからだろうと思う。建築は兵士では無いというのは私をネラン神父に会わせた鈴木博之の本のタイトルだ。ネラン神父は私をマザーテレサに会いに行かせ、私は最前線の兵士になり得ぬのを痛感し、後方部隊に廻る事を決心させた。とすればひろしまハウスは誰がやらせているのだろうかと思う事仕切りである。
 今でも、カルカッタのマザーテレサの死を待つ人の家での身がすくんでいた何も出来なかった私を忘れる事はない。
 石山 修武

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銅版画ギャラリーのための草稿
020 銅版画ギャラリーのための草稿
 ギリシャ聖教の聖地アトス山について書こうとしたら、何時の間にかトルコのアララット山についてになってしまい、さらに何といつの間にか私の銅版画についてクダクダと書いているのだった。頼まれ原稿じゃないのを書こうとすると、こういう事が多い。書きたい事の結末は何時も解らない。大体こんな事書いてみようかとは考えてはいるが、書いている内にそれはいつも変ってしまう。
 マウント・アトスは宿泊させて貰った僧院のテラスから眺めた海のブルーの凄惨さ、エロチシズムについて書いてやろうと思っていた。その枕にアトス山、そしてネパールのマチャプチュレ、を使おうとの心積りだった。世界名山ならぬスックと独立した山の姿について書き始めようとした。何とかブルーに辿り着くであろうとのボンヤリした直観もあった。アトスとマチャプチュレだけではチョッと弱いな、も少し知識を御披露しておこうと考え、アララット山のことを思い付いた。
アララット山で始めたら何時の間にかノアの方舟の事になり、それがジャンプして銅版画になってしまった。私の思考力は実に無節操そのものなのだ。
 しかし、書くのにあたって結末が解らぬというのは仲々にスリルがあるもので、自分でも何処に行くのか解らぬ闇がある。闇なんてお気取りして書くよりは、ワカンナイから書くのであって、解っていれば書く必要も無いわけだ。カバーコラムを書き始めたのは、私の思い付きが何処まで延々としかも速く続けられるだろうかという自己検診のようなものだし、トレーニングでもある。トレーニングしているのまで公開する事はないだろうとは思ったが、ここ迄、やったらヤッテみるしかないと、これはただただズサンなだけ。
 全てが理路整然としていたら、結末までも予想できて、それでは余りに無残である。
 石山 修武

 

モダニズムデザイン雑考
019 モダニズムデザイン雑考
 かつて本多勝一は登山について論じた中で世界一の高峰エベレスト(現チョモランマ)がヒラリー卿とシュルパ・テムジンによって踏破された時に登山というスポーツは目的を失ったと明言した。
 重箱の隅をほじくる様に探せば、まだ地球上には処女峰は在るだろう。しかし、登山の主流は未踏峰への挑戦から、バリエイションルートの開拓へと目的を転じた。困難な北壁ルートへの挑戦、ひいては頂上から直線を引いて、真直にそのルートを登る直登ルートへの試み、酸素ボンベを使わずにヒマラヤの高峰へ挑む、無酸素単独行の試みと、登山は増々先鋭的に多様化し、細分化してきた。登山道具の進歩も又それを促した。ヒマラヤ登山はかつて国威発揚の場であった。未踏峰へ登高し頂きに登山隊の属する国旗を揚げる事はオリンピックの国家間競争と同様の意味を持っていた。
 モダニズムデザインの理論的発祥地の一つはワイマールのバウハウスであろうか。小都ワイマールはアドルフ・ヒットラーがこよなく愛した都である。ヒットラーはワイマールのエレファントホテルのバルコニーに立ち、小さな広場に集まった群集に演説するのを好んだという。しかしバウハウスはナチズムの台頭によりワイマールを追われ、デッソーに移り、そしてそのデッソーも閉鎖された。W・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエはアメリカへ亡命した。ナチズムが引起した第 II 次世界大戦はモダニズムスタイルが国際化し、インターナショナルスタイルへと拡散してゆく因となったのである。
 戦争は究極のコミュニケーション、つまり交通の表現である。とすればモダニズムとは交通の道具としてあったとも言えないか。
 登山が今やスポーツとしてバリエイションの追究となり、その道具はハイテク化された。モダニズム・デザインもスポーツとしての登山と同じ世界の住人になっているのではあるまいか。
 石山 修武

 

僧院
018 僧院
 マウント・アトスの記憶は空腹と星と海のブルーだ。ギリシャ正教の秘境とも言うべきアトス山へはギリシャ人のクリソストモス・ニコロポウロスに連れられて行った。入山は女人禁制、入山ビザが必要であった。それでも観光目的の入山者の宿泊を受け容れてくれる僧院があって、海沿いの一つに宿泊させてもらった。船で行った。船客は勿論男ばかり。山羊も犬も猫も、蚊であっても女性は入山禁止なのだと聞かされた。写真撮影も禁止。ここで時折飲ませてくれるワインは至福の味だとの話しがあり、それが眼当てでもあったのだが、ワインは姿も見せてくれなかった。
 朝四時に起床。二時間程の朝の祈りに参加。その後十分程の朝食。アトは何をするでもなし。十分程の昼食。夕方の祈りが二時間そして十分程度の夕食。長い長い夜。の、明け暮れであった。
 食事はパンと水と桃一切れ。合図の鐘が鳴り、喰べ始め、合図の鐘で終り。凄いスピードで喰べなければならぬのであった。修道士達は皆短命であると聞いた。長く生きたくはない人間がこの道に入るのであろう。早朝、昼、夕の祈りは立っているのがやっとで、香の匂いと何やら昇る煙やらで感覚が麻痺したようになるのであった。一日がとてつもなく長かった。毎日海と空ばかり眺めて、喰い物の事ばかり想っていた。なす術もなく見入る僧院の窓から見る海も空も、底知れぬ程に深いブルーで、これも又、クラクラする程に感覚を麻痺させるのだった。空腹と香とブルーは三位一体となった装置だなと思った。満腹な人間は考えようとしない。考えるというのは悲観する、自己懐疑に落入るのと同義である。人間は悲観する生物なのだ。空腹の極みの中で見入るブルーは凄かった。自分の身体がその色に吸い込まれて青く染まってゆくような深みがあった。夜になると完全な闇で凄惨な程の星の数になるのだった。ブルーと闇とは連続しているのが良く解った。宇宙船に乗って宇宙に出る機会は私には全く無いが、宇宙に出るってのはこんな感じなのかとも考えた。ブルーが次第に漆黒の闇となり、星々の輝きだけが残る。遠くに地球がブルーに視えている。
 僧院は、ならば宇宙船なのだ。
 地球にいながら宇宙を体験する装置なのか。宇宙の虚無が神の実体である事を居ながらにして理解し、納得する為の道具、ディクショナリーでもあるのであろう。身体に備わった知覚にだけ存在する悲観が向かうところは何か。考える事の必然が向う虚無は又、それも必然なのであろうか。
 空腹の極みの先には死が待つだけだ。僧院で課される空腹は一種の臨死状態なのである。その状態で見入る虚無。
 キリスト教の僧院ばかりではない。アジャンタ、エローラの窟院にもそれはあった。
 死ぬ迄に僧院の設計は一つ、是非ともやってみたい。
 石山 修武

 

インターネット・オークション
017 インターネット・オークション
 狛江のT邸の現場である。
 私の住宅づくりに関する自論の中心はクライアントも建設に参加した方が良いというものだ。金ヅチやノコギリを持とうと言うのではない。家づくりのプロセスを介して、その値段の仕組を知って欲しいと考えるからだ。家づくりは値段との闘いでもある。柱一本の、壁一面の値段への感覚無くして、家を、住宅を構想する事はできない。そうした主張を始めてから長い年月が経った。
 ようやく、それに賛同してくれる若い依頼者が出現し始めた。誠によろこばしい。しかし、彼らの情報収集力は私や、工務店の社長のそれよりも早かった。現場にパソコンを持ち込んで、器具その他のセレクションをする。オークションがあって、この方が千円安い、ドイツにこんな出物逸品があると、市場と素早く反応する。こちらはそのスピードについてゆけない。それで現場での打ち合わせは何となく重い。情報は軽く速いが、住宅はまだまだ重いのだ。
 かつて、秋葉原感覚で住宅を考えるという本を書いた。こんな姿が理想ですと確かに言ったのだ。
 しかし、
 今はヤフー市場で住宅を考えるような過酷な状態になりつつある。
 現場で、工務店の社長共々、建築家は時に憮然といている。
 石山 修武

サントリーニ
016 サントリーニ
 エーゲ海キクラデス諸島の島サントリーニ。クレタ文明時代、この島は一つの巨大な火山だった。火山は大爆発し、クレタ文明そのものを壊滅させた。巨大な火山は海中に没し、火口の円環だけが海上に残った。サントリーニがエーゲ海の指環と呼ばれる由縁である。
 この島には幾つかの集落がある。十五世紀くらいからこの島に棲みついた人々が自力で何世代にもわたって作り続けた集落だ。バナキュラー建築の白眉である。

 「ここにこう座って、コルビュジェはスケッチをし続けた。ルイス・カーンはこっちだ。」と見ていた様な事を教えてくれたのはアテネ大学の建築史の教授。
 言われる迄もなく、多くの近代建築家がここに来て、シェイプ・ハンティングに明け暮れした。すでに、当時から近代建築様式は枯渇し始めていた。
 確かに、ここには地中海の強く、清澄な光が溢れている。その光が明澄なフォルム、つまり光と影のコントラストを作り出す。しかも、まわりの風景はギリシャ神話の世界だ。赤茶気た断崖がクレタ文明当時の大爆発まで想像力を飛ばしてくれる。光の乏しいヨーロッパ亜大陸生まれ育ちのコルビュジェはそれでノック・アウトされた。フォルム作りに多大な関心と才質を持ち合わせていた人物としては実に自然な成行だ。その結果ロンシャンの教会が生まれた。

 確かに、サントリーニではあらゆる形がハッキリと眼に写るような気がする。人間の形でさえも。
 石山 修武

ガウディの窓
015 ガウディの窓
 カソリック信徒としてのアントニオ・ガウディを抜きにして、その建築は考えられない。過剰な細部が生命体の如き全体を織りなすのがガウディ建築の特色である。その豊かな細部は、特に宗教建築ではカソリックの寓意が込められ、ガウディはそこから自由ではなかった。しかし同時に造形的な自由をも生み出した。

 コロニア・グエル地下礼拝堂の余りにも有名なこの窓は、しかしガウディの裸の造形力が生み出したもののように思われる。キリスト教的寓話を表現した部分とは余りにも大きな落差がある。このディテールは凄く知的なのだ。ガウディが生きたバルセロナは当時カタロニア・モデルニスモが建築デザインの先端であった。すでにバルセロナにも鉄の工業製品は侵入していた。カタロニア・モデルニスモの鉄の使い方はそのアングル等の既製品を使い、少し変形させたりするのに関心が払われた。ガウディを含めたカタロニア・モデルニスモの建築家達は工業製品を実に上手に使ったのだ。

 この窓に使用されている鉄の丸棒の太さは六〇mmある。この太さの鉄棒はいくら強力なカタロニアの鍛冶職人でも曲げられぬ。この曲がり様は外から力を加えて変形させたものではない。鉄自体が曲がろう、変形しようとする力を表現している。熱を加え、水につけ、又、熱を加え、水で冷やす。鉄棒は自然に変形し始める。その、物質と熱の関係をガウディは知っていた。鉄をして語らしめている風がある。この鉄の表情の驚く程に知的な表情はそんなところから来ている。
 石山 修武

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