松崎の物語・後編
その様子をしばらく見ていた女が やがて静かに言いました
勝負しましょうか あたしと
何の勝負だってんだ
驚いたおじさんに 女はほほえみ返しました
今までどんな勝負にも負けたことのない おじさんです
身を乗り出したおじさんの肩に
女はゆっくりとほっぺたをのせながら言いました
死ぬとき あんたとあたし
どっちが安らかな顔して死んでいけるか
そして女は ちょっと迷ってから続けて言いました
あの状差しの手紙 あれは全部あたしが自分で書いたのよ
おじさんが船乗りをやめた理由はふたつあります
ひとつは
いつか甲板から 自分もオリーブの枝をくわえた鳩を
見てしまうのではないかと こわくなったから
もうひとつは
女のいるこのまぶしい町を離れたくなかったからです
どんな勝負も 受けて立たないわけにはいかないからな
と 女にはそう言いました
それがおじさんの照れだと見抜いたとき
女の心がゆるんでいきました
れからゆっくりゆるみつづけて 七年のあと
女は 聖母さながらの安らかな顔をして
神に召されていきました
片方が死んでもまだ つかない勝負があるのか
おじさんはつぶやきました
七年の間 おじさんはずっと勝ち星を増やし続けていました
でもあんたにだけは もう勝たなくてもいい と
おじさんは 女の死に顔に言いました
とたんに あんなに心をとりこにした
この町の鮮やかさがおじさんに痛くなりました
人生が裏返しになるのは いつも一瞬のことです
おじさんは 船に乗りました
故郷の町に向かう船には
何千本というオリーブの苗木が積まれていました
甲板から目にうつる水平線は
おじさんに向かって広げられた両腕のようでした
緑の葉がいっぱいに茂る オリープ畑で
おじさんは にやにやしながら 故郷の若者たちに言うのです
センチになったら 勝てないよ
今でもおじさんは オリープ畑の真ん中で 時々急に
いてもたってもいられない気持ちになることがあります
そして もういない女に向かって 言うのです
でも 俺が死んだら あんたと俺とどっちが勝ったか
どうやって知るんだろうね
けれどおじさんは知っている
安らかな死に顔は どれもおなじだということを
そして 死に際には必ず言ってやろうと思うのです
俺の死に顔の安らかさは 誰にも負けないよ と
覚 和歌子