作家論・磯崎新 第2章

石山修武研究室

石山修武

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2013.05.30
作家論・磯崎新 第2章 丹下健三と磯崎新5

作家論・磯崎新 第2章 丹下健三と磯崎新5

作家論・磯崎新の書き始め、すなわちⅠ章のはじまりは、わたくしの師の一人でもあった建築史家渡辺保忠の口から磯崎新というのが居て、あれは東大の宝だよ、と聞かされたのが最初だ、と記した事であった。

いささかどころか大変唐突で不細工なはじまり方をしてしまった。しかし、素直な不細工振りであったと後悔はしていない。どんな不細工振りであっても自然に始めた事、つまり無意識に近い身振りには真実のカケラらしきが在る。そう考えぬと大意識家でもある磯崎論なんて書けるものではない。巧まぬ始まりは時に論の大筋を予見させてくれるものでもあった。論を進める内にXゼミナールの学友でもある建築史家鈴木博之から度々、ブレイク、つまりオカシイ、修正されたしの水が掛けられた。鈴木博之は今や日本の近現代史を代表する史家であるが、彼ともウーンと若い頃からの付き合いである。ただし、建築史家渡辺保忠から磯崎新の名を聞かされて後からの付き合いである。何をくどくど詰らぬ役にも立たぬ細部を記すのかと叱られそうだが、事、建築史家に関わる件を書くのはこんな細部も重要なのだ。それに鈴木博之は歴史家として磯崎新に大きな距離をとりながら、しかし、それ故にこそ関心を持ち続けてきた存在でもある。伊東忠太と共にシルクロードを西へアジア横断の旅をした田辺泰はその後研鑽を積まれ東洋建築史、沖縄建築史に大きな足跡を残された。細かい事に頓着せぬ大柄な人間であった。田辺泰は弟子の渡辺保忠の才質を感じ取り、これはワシの手に負えん、と東大へと送り込んだ。太田博太郎の許で稲垣栄三と同期の建築史研究会に属した。渡辺保忠は日本建築生産史、特に生産組織変遷史の草分け的存在であった。がしかし東大生産研に於ける村松貞次郎などとは異なる芸術的感性も実に敏な才質があり、その直感、あるいは透視力とも言うべきは際立っていた。ビリビリしていて恐いような処もあり、田辺泰とは正反対な才質、繊細で鋭く、時にあやうく、もろいデザイナー的な側面も持っていた。

それ故に東大建築史研究会での建築史家の教師陣、院生達の話には、世間話の如きにも耳を澄ませていたようだ。その渡辺保忠が磯崎新というのは東大の宝だと言ったのだ。そんな風評が当時の東大建築史研究会では流れていたのやも知れぬ。

磯崎新の言明によれば、自身も建築史関係の研究室に良く顔を出しており、藤島亥治郎からは院生として予定されていたりもしたらしい。つまり磯崎新はその才質の内に建築史家としての才質を自覚していた。少なくとも周囲もそう認めていたのである。

 結局のところ磯崎新は東大内に新設された都市工学科丹下健三研究室へ進む事になった。師弟関係とは実に不可思議な迷路状の洞窟の闇をも時に持つ。特に創造力を競う如くの分野ではそれが著しい。師は弟子の才質を見抜く才質を持ち、それ故に時にそれを恐れる。それは洋の東西を問わぬ。ル・コルビュジェはその弟子(スタッフ)のヤニス・クセナキスの才質を重用し、同時に恐れた。天才は天才を時に嫉妬するのである。才能というのはそんな形質の偏向をも内在させるものである。ねじれや歪みを内在させる。その師弟関係も又、創造の形式を自己模倣する。又はさせるのだ。創造とはその内に模倣の才をも要求する。大きな創造者は多彩な模倣者でもある。その模倣は時に才質の表面的な形質のなぞりだけでなく深く内実に迄侵入せざるを得ぬ闇を持つ。ル・コルビュジェはクセナキスの才質の内に自分には決して大きくはなかった音楽的数式の造形への関係性を見抜いた。その数式性は又、造形の、建築の未来を暗示するものでもあった。自身の造形の才を古びて見せてしまうのをも見抜いたのであった。やがてル・コルビュジェはクセナキスを遠ざけるようになる。未来はクセナキスの才質に在る事を見抜いたからである。やがてクセナキスは十二音階音楽、つまりはコンピュータによる音楽創作の創始者となった。今の時代の音楽形式、そしてそれに潜在的な影響を受けている高度な造形分野の創出はまさにクセナキスのヴィジョンが遅れて具現化しつつあると言っても良い。本格的な創造は時差を露出させる。少なくとも、ほぼ現在磯崎新が発見的に選択し、その建築化を一部試行しているコンピュータ・アルゴリズムによる造形=フィレンツェ駅舎プロポーザル案の系統樹をたどればクセナキス・オリジナルの思考形式に遡行するのは明らかである。

丹下健三は磯崎新に自身とは異なる才質を認め一時重用し多大な成果を得た。その事をおおいに自覚していた。弟子であった磯崎新もそれをはっきりと認識していた。やがて師弟関係にねじれが発生するのは自明であった。師は弟子を遠ざけ、弟子も又師から遠ざかるようになる。かくの如きの創造の師弟関係の鏡がほぼ最初期に発生したのが1970年の大阪万博のお祭り広場の具体化の現実の中に於いてであった。師弟関係そのものが演じられた舞台は私小説的なスケールを超えて大きかったのである。この時丹下健三と磯崎新は決定的にその互いの才質の違いを自覚し合った。

では、お祭り広場の仮設とはいえ、国家的な枠組みの中での「お祭り広場」とは何であったのだろうか。特に丹下健三の才質の反映は何であり、磯崎新のそれも又何であったのか。それに関して磯崎新が度々説くように丹下健三が背負いたく思った国家=権力と、それから逸脱しようとする自身のバガボンド的芸術家的才質は対比の形式を持ちながら確かに色濃く潜在したであろう。磯崎新から見れば丹下健三は余りにも政治=権力志向であり過ぎ、又、師の丹下健三から眺めれば磯崎新は余りにもアナーキストでもあり過ぎた。それ故に丹下は磯崎新を国家の中心に近い位置に置き続けようとはしなかった。すなわち東京大学都市工学の教職につけようとはしなかった。丹下健三にすればそれ位の段取りは容易過ぎる位にたやすい事であったろうが。磯崎新にしてみればその野心の最大なモノは都市設計にあった。単なる単体的な建築設計に非ず、都市そのもののデザインが目標とされていた。それには当然、国家権力への接近が必須であった。だからこそ東京大学都市工学科でのポジションも又、その射程におさめ続けていただろう。理の当然である。磯崎新の極めて率直な初期エッセイである「都市破壊業KK」はそんな意識のねじれ、歪みも内在させていた。又、磯崎新が在籍していた当時の丹下健三研究室及び東大都市工学科はそれだけの権力を持ち得るポテンシャルを所有していたのである。それ故の大阪万博、お祭り広場の計画者のポジション獲得でもあった。

作家論・磯崎新Ⅱ章4の建築史家鈴木博之の言、東京都新庁舎議事堂前に実現された広場について、丹下健三の視点は生涯を通じて一貫していた、は大阪万博の「お祭り広場」からの都市観の連続であり、ひいてはイタリアの都市ヴェネチアのサンマルコ広場への希求でもあった。 磯崎新がしばしば述べる「今更、ひろばなんて」はそんな丹下健三の都市観に対する批判である。そして双方の都市に対する思想とも言うべきを際立って異なるモノとして見せる。

山口県、秋吉台国際芸術村(1998年 設計磯崎新)でわたくしは実に奇妙なモノを視た。しかも2つも視た。一つは磯崎新の初期の傑作である「N邸」の再現=レプリカの現実の光景内での存在である。もう一つは芸術村の上空を近くもなく遠くでもない実にあいまいな距離としか言い様の無いスケールを飛ぶ緑色のレーザー光線であった。「N邸原寸レプリカ」についてはいずれ必ず触れる事として、ここでは芸術村の上空を飛ぶレーザー光線について。

ここで磯崎新はその全体を珍しく散乱的建築配布として試みた。山口のカルデラ状岩盤に幾つかのイタリア山岳都市状のカテドラル(ドゥオーモ)を持つ集落状を再現しようとした。カテドラルはルイジ・ノーノの「プロメテオ」を演奏するこれも又、散乱的構成を持つ音楽堂である。小カテドラルはあるが、地形との関連もありただただ散乱、つまりは近代以前の民俗的歴史の集落配布状になりかねぬ自然=オートマティスムとの共生状態つまり意図せざるモノの連続にもなりかねぬ。非都市的なるモノに近似接近したのである。恐らく磯崎新はそんな創作方法、姿勢と言う方が正しいか、に一抹の不安を覚えたのである。それで師の丹下健三の都市軸への希求を思い起こした。それは否定しても、批評し続けても磯崎新の創作の基底の影として、磯崎の語法としては視えない都市の骨格として在り続けた。それで、いささかのエンターテイメントの名残として、つまり小さなお祭り広場の軸線として、レーザー光線を中空に走らせたのである。

山越えの阿弥陀の似合わぬ仏教的世界のアナロジーの説明も試みたようだが、それは違う。山越えに視たのは阿弥陀ではなく丹下健三の影であった。それ程に磯崎世界は建築世界であったとも言えよう。丹下健三が東京湾上に描いてみせた「東京計画1960」の計画軸の先には富士山があった。磯崎新の諸々の計画にはどうしても富士山が見当たらない。それは創作家の質量をも決めかねぬ巨大なドキュメントではあるけれど。国家の広範な数量を内在させたシルエットとしての富士山は現れなかった。しかし目標の無い軸線の矛盾でさえもどうしても磯崎にはこの時に不可欠であったのだろう。それでレーザーを飛ばして見せたのである。

それは師弟関係の影の軸でもあった。

計画の普遍的な広さをも内外在させる軸について、丹下健三に於いては、例え東京新都庁舎の人影は無くても、絶対に必要であった広場の日本的空虚は、磯崎新には大阪万博のお祭り広場の空白として残された。その空白が変転しつつこれ迄の磯崎新の創作に一貫して流れ続けるのである。

磯崎新の中心の空虚、さらにそれを空と、磯崎新がどうやらそのDNAとも勘ぐりたくなる程の中国とは言わず、大陸願望にも似た巨大な空漠たる光景、時にそれは廃墟と呼ばれたり海とも呼ばれたりもするが、エンドレスな無境界への希求が必然的に引き起こす、中心の空洞、空、0状態について考えてみたい。

磯崎新の阿弥陀堂に関する志向は独特なものである。何に対して独特かと言えば丹下健三のイタリア・ヴェネチアのサンマルコ広場に対する信仰にも近い広場の原形とも呼ぶべきへの渇望と同様にそれとは対比的でありながらしかも独特である。日本の首都東京都新庁舎に設けられた広場について鈴木博之が指摘する如くに、それは新東京都庁舎が竣工したばかりの頃、鈴木自身が丹下健三に直接聞いた言として、次のように記されている。

「東京都庁舎の議会棟前の広場は、新宿副都心のなかで、唯一前後左右がすべて超高層街区で囲まれた場所なのです。つまりここが東京でもっとも都市性の高い街区なのです。そこでこの広場をもってきた。」

丹下健三の視点は、生涯を通じて一貫していたのである。と鈴木は結語する。

作家論・磯崎新 第2章 丹下健三と磯崎新4

鈴木博之の第27信はわたくしの作家論・磯崎新にとっても重要なモノであった。それ故ここでXゼミナールへの投稿と作家論・磯崎新を合体させた小論を試みることにしたい。良く良く考えるならば、わたくしの作家論とXゼミナールの形式自体は不即不離に併走したものでもあったから、この小論は形式的にもXゼミナール的作家論・磯崎新である。又、それを意図的に目指そうともしている。

世田谷村日記なるわたくしの戯れ文の連続にも書き記した事ではあるが(※注 世田谷村日記・ある種族へ1164)、2013年5月20日に鈴木博之と関西加古川の鶴林寺を訪ねる小旅行をした。ある審査会での建築物の見学を目的とした旅であった。

日記と名付けた思い付きのメモの連続も又、Xゼミナールと共にわたくしのあるや、無しやの乏しい思考作業にとっては、他人は知らず、重要なものではある。そのメモを記している小さな時間の中から大きいとは決して言えぬが自身にとっては捨てがたい思考の芽が生み出される事が少なくはない。年を経ると大方おぼろにではあるが自身の思考の形式らしきは自覚できるものである。又、自覚せざるを得ぬ寂寥感も又時に溢れ返る。これが個々の人間が親から、先祖様から継承した根深いクセ、つまりは才質なのだろうとガックリ肩を人知れず落したりもする。そのDNAとも呼ぶべきは伝統と拡大解釈できるだろうし、論理的にも極く極く自然にそうなる。自分の才質の系統樹らしきのカケラに想いをいたすのは、建築に於けるありや、無しやも含めて伝統について、歴史について考えることに同義である。それは一個の独立したモノとしては考えにくいものではある。特に近代化を果し切った今の日本に於いてはなおさらな事でもある。

人間には不様で理不尽な自矜のエゴイズムが無くとも良いのにまだある尾てい骨の如くに在り続けるからだ。しかし、自身とはまるで異なる質量を持つ才質に触れた時にだけは、そのエゴイズムは流石に鈍る。ウームとうなり頭を下げることになる。

2013年5月20日の加古川鶴林寺での鈴木博之の言説は、御本人は自覚していないだろうが、マア、これは自覚されていたならば嫌みになって顔をそむけるのだが、まさにそれであった。

鈴木は鶴林寺の国宝本殿と太子堂について、折衷様式と九間作り(呼称が錯乱しているが、しばらくは放置したい)について、わたくしに自説を述べた。短い言葉であったが、実物の建築物、しかも現代とはいささか遠い日本室町期、平安期のものであり、建築史家としての鈴木のアイデンティティとも呼ぶべきをダイレクトに背負っていたから、率直にその言は身に染み込んだ事ではあった。鈴木博之の専門は近現代でありそれはどうか、のクソアカデミー的区分けの俗論は退けたい。良い歴史家は歴史家特有の、あるいは固有の独自性=個性を持つ者なのだ。それは建築史家鈴木博之の作家性でもある。ある種の歴史家は、極めて固有な私性をも帯びた感性、論理性の併存した思考形式を持つ奥深い作家性を所持する者でもある。

それ故にこそ、磯崎新のような作家と、時に考えを異にした表明をせざるを得ない。丹下健三は歴然とした建築家であり、今に生きる安藤忠雄も又、建築家であり続けている。しかしながら、磯崎新の表現形式は建築家と呼び慣らしている実務家としての存在形式からは離れたものではある。建築家の多くは、というよりも大半は実務家であり、現資本主義社会に於いては社会性に染め抜かれた実際家でもある。磯崎新にしても建築の設計者であるときには株式会社磯崎新アトリエという矛盾まみれの組織形態を背景にして建築設計という実務をこなさなければならなかった。それを現実社会が仕向けたのであり、要求した。ところが磯崎新という存在形式はその社会が要求する枠組みから、常に逸脱するのを企て、希求し続けた。つまり、端的に言えば実際家としての建築家、現実社会に於いては実務家としての設計士の枠を踏み外し続けた。すなわち極論すれば作家としての存在形式を持ち続けようとした。磯崎新の処女エッセイとも言うべき都市破壊業KKはその事を如実に物語っている。そしてそれは若い時のてらいと気負いに満ちたモノだけに基盤を負わせたモノでは無かった。鈴木博之が丹下健三に対して言うように丹下が都市の中の建築の理想を変らず、一生を賭けて追い続けた様に、あるいはその対極とも呼ぶべき、近代都市の不可能性を、ほぼ一生を賭けつつ追求しているのである。

都市破壊業KKに登場したARATAとSHINの二重性は磯崎新が持ったアトリエと呼ぶ株式会社と全く同様、同質であった。勿論その二重性、矛盾は磯崎自身が十二分に自覚するところのモノでもあった。

鈴木が丹下健三をその生に於いて一貫した理想の所持者として評価するのは納得できる。細部に於いては首を傾けざるを得ぬけれど、それは人間であるから変な神様が特に細部に宿ることはいたしかたあるまい。丹下健三と磯崎新を、磯崎が愛したとも言うべき岡本太郎の対極主義になぞらえて、アポロ的なモノとディオニソス的なモノの両者として語る愚は犯すまい。ニーチェのギリシャ悲劇の研究を礎にしたその思考形式は丹下健三にも磯崎新にも適さぬのだ。似合わぬのではない。大きな間違いを犯しかねぬ。

丹下健三も磯崎新も、ギリシャ悲劇の背景も、そしてイタリアルネサンスの建築文化の背景も共に背負ってはいない。それは両者共に常に学ぶべきモノとして外にあった。あるいは外から来る、外へ出ていかねばならぬ一種の日本の近代の信仰に近い形式のモノとして外在した。

鈴木博之の第27信がわたくしの作家論・磯崎新に重要なのは、まさにその問題の核を突いているからだ。鈴木は丹下健三の初期の代表作である香川県庁舎について、特にその塔状部の平面計画の重要性について述べている。鈴木の論の骨子はその平面計画が日本建築の伝統の核の一つでもある九間四面の、つまりは田の字型の原理的平面への強い志向から生み出されたモノであると言うに尽きる。

今春、鈴木が述べる様に丹下健三設計の今は墨記念館に於ける講演で、わたくしはそれを初めて聞き、ハッとしたものであった。良く言われる如くに香川県庁舎の立面、つまり立ち姿の合わせ梁の繊細で、しかも強いリズムの造型調律が、そればかりではなく、その核に田の字型平面つまり九間四面への原理的志向があると、日本の伝統との連続性を鈴木は指摘したのであった。

5月20日の加古川鶴林寺行はその平面計画の伝統的原理性を、特に太子堂と呼ばれている日本の阿弥陀堂の平面形式に遡行するのを再確認する為のモノであった。

阿弥陀堂の建築計画自体にはわたくし自身もある種と呼ぶよりも歴然たる原理性を視ていたので深い関心があった。時代も場所も飛ぶけれど、ルイス・カーンの隠れた処女作であったかユダヤの共同浴場だったかの平面計画もパターンとしては田の字型パターンであった。

ルイス・カーンの建築も今のグローバリズムの津波の中では波間に見え隠れの、いささか覚つかぬ影響力しか持ち得ぬ建築ではある。が、そのユダヤ人に固有でもあろう原理性は孤立してはいるが、あるいはそれ故にこそ重要なモノであろうと考えてはいる。

つまり、阿弥陀堂はどうやら東大建築学科で太田博太郎が教示したらしい原理性を帯びた合理性を具有した。日本の建築の伝統の中では確然とした固有の形式を持つものであった。

では、日本の伝統建築、つまりは日本建築史の中で固有の意味を持つ阿弥陀堂の原理性について考えを進めてみたい。それは作家論・磯崎新の核の一つになるやも知れぬ。

5月22日

作家論・磯崎新 第2章 丹下健三と磯崎新3

建築家丹下健三は1913年生まれ2005年没。1970年の大阪万博は56歳で迎えている。磯崎新38歳であった。丹下健三の建築創作のピークはそれより前1964年の東京カテドラル聖マリア大聖堂、東京オリンピック、国立代々木競技場である。51歳で絶頂期を迎えた事になる。

ちなみに世界の巨匠と呼ばれる建築家のピークと思われる年齢と比較してみる。日本に馴染みの深いル・コルビュジェは68歳にして名作ラ・トゥーレットの僧院をものした。フランク・ロイド・ライドも68歳にして名作落水荘を得ている。ミース・ファン・デル・ローエは又62歳でシーグラムビルを、43歳でバルセロナ・パビリオンを成した。アルヴァ・アールトは68歳にしてヘルシンキ工科大学を得ている。

丹下健三は世界の近代建築史上の巨匠達と比較するならばピーク(代表作)を迎えるのが20年弱も早いのが解る。何をピーク、すなわち代表作なのかは歴史家、批評家にとってそれぞれ徴差があろう。そして批評する者の質さえ規定するが、まず丹下健三の代表作が国立代々木競技場第一体育館であるのには異論が無いだろう。そして、その代表作をものした年齢が世界の近代建築の巨匠達が成熟して名作を得た年齢よりも、はるかに若い事も事実であろう。

実ワ、ここに日本の近現代建築の宿命とは呼びたくないが、一つの定理とも呼ぶべき時間差がある。

更に。

磯崎新には丹下健三に比すべきピークが無い。少なくとも2013年4月初頭の現在にいたる迄は無い。但し両者の残した、そして残しつつある作品群の質のアベレージとも言うべきを比較すれば丹下、磯崎共に同質である。あるいは全作品のアベレージを比較すれば磯崎新の建築作品群の方が平均点は高いとさえ言えるだろう。

作家論・磯崎新、今はすでに前書きとでも呼ぶべき第1章に於いて磯崎新の代表作とも言われるつくばセンタービルについていささかを論じた。その結論はこの実物としての建築は磯崎新の代表作ではないとした事である。では他に何が代表作であるのか、あるいはあり得るのだろうか。初期の大分県立大分図書館、群馬県立近代美術館、中期のスペイン・バルセロナオリンピック・サンジョルディスポーツパレス、ロサンゼルス現代美術館、後期の北京、中央美術学院美術館、色々と浮かぶのだけれど、代表作、つまり繰り返すがこれがピークであるとするモノはない。

磯崎新は、師でもあり壁でもあった丹下健三とは殊更に異なる建築群を作り続けた時間を持つ作家なのである。ここで磯崎新に建築家という職業名詞を冠さずに敢えて作家と呼ぼうとするのは実は大事である。本作家論の焦点の一つである。

丹下健三はルネサンスのミケランジェロを生涯モデルとして内の理想に抱き続けた。ミケランジェロはルネサンスの視覚芸術の巨匠である。眼に視えるモノの価値を至上のモノとした。

磯崎新も又建築作品を作り続ける事を中軸にしながら表現活動をいまだに続けているが、視覚芸術、絵画、彫刻の類をモデルにはしていない。磯崎新は視覚よりも知覚を中心に把えようとする作家である。

丹下健三のミケランジェロに対して、磯崎新はマルセル・デュシャンなのである。それは磯崎新が常用するルフランでもある――「さりながら死ぬのはいつも他人なり」の近現代の表現芸術に必然なアイロニーの表層よりも実ワ深い。近代表現のエチケット、必携品らしきであったアイロニーの底を踏み破る体のものであった。それでなければ、歴史的な価値などありはしない。

丹下健三の作品に触れながら、考えを進めてゆきたい。

作家論・磯崎新 第2章 丹下健三と磯崎新2

第1章の作家論・磯崎新は直接、磯崎新との仕事上の、そして半分私的でもあった交じわりをベースにして、論をすすめてきた。それは誤りでも過剰な思い入れも無いとは自負している。しかし、作家に対する距離は、すなわち意図的に持たざるを得ない距離はいささかのブレがあった。そのブレこそが作家論の妙味であると居直る程の自意識は無い。ではあるのだがそのブレについてはやはり述べておかねばならぬだろう。それが作家論・磯崎新を書き続けようとしている目的の一つでもある。

 

「Xゼミナール」への作家論・磯崎新の投稿はこの作家論にとっては重要であった。それを先ず記さねばならない。建築史家・鈴木博之のこの作家論に対する度々の批評を得る事ができた。

ウェブ時代のこれは闇とも言うべきだが、電波の浸透性を観念としてとらえれば、これは“こんな情報は何処の誰でもが、少なくとも建築畑の人間ならば誰でも知るだろう”の大誤に行き着く。しかし、情報時代のそれは繰り返すが誤りである。情報時代であればこそ、情報はそれ程皆が共有するものではあり得ない現実にもなっている。Xゼミナールの鈴木博之は時々実際に生身同志で会うたんびに言ったものだ。

「何か奇妙なんだな、俺はあなた達の日々を良く知っている筈なのに、あなた達はわたしの日々を知らない。それでそのまんま会ってる」

繰り返し、そう言われてようやくその意味らしきに気がついた。これはある世界を実に暗示している。

「奇妙な事態に入り込んだなあ。他人を知る、知らないの、あるいは知られない、知りようが無いの、新しい壁が立っている」

ゼミナール同人の石山、難波は共に止せばいいのに毎日のように私的な日記状をウェブサイトに実に大量に垂れ流している。それは石山、難波の双方の日常らしきはある程度の数の人々には見境いなく公開されて、共有されている、つまりは知られている筈だの不気味な観念らしきを既に生み出している。特にわたくしの中にそれは巣喰い始めている。中途を飛ばすが、しかし現実は?どうか。

良く読んでくれているのは内々の、例えばゼミナールの、ほとんど身内状のサークルばかりなのである。そして、そのサークルはその環の外に加速度的に深い闇を作り出し続けるのだ。深い闇の安手な修辞を捨てれば、恐らくほのかで秘やかな嫌悪さえも育てているに違いない。

情報社会と平板に理解するけれど、皆さんも恐らくはそうだ。情報社会はその内に、無関心、冷ややかな無視の、嫌悪に計り知れぬ程に接近する集団をも作り出すのである。無視は最大の関心の表れであり、それは嫌いの感性の表明でもある。嫌いなTVは視なければ良い。間抜けでお門違いの新聞も読まなければ良い。しかし、コンピューターの母機と無数に近く迄増殖した各種端末は、コンタクトしなければ良いではすまされない。それは圧倒的に内部の無い世界であるが故に巨大な外部を作り続けようとする。コンピューター、つまりは我々にとってそれは端末に過ぎぬのだが、端末同志のコミュニケーション等は無い。

街中に溢れ返る端末と向き合う人間はコミュニケーションをする振りをしているに過ぎぬ。実に浅い演技的趣向での膨大な同一性への偏愛そのものである。膨大なメールのやり取りの大半は、通信に非ざるコミュニケーション擬態であるに過ぎない。交通機関や、プラットホーム、あるいはそこいら中、都市も田舎もどこでも擬態の記号が溢れ返っている。

ジョージ・オーウェルが『カタロニア讃歌』に書き付けた如くのファシズムへのレジストの必然、すなわち動物農場の世界はすでに眼前化していよう。非公開の作者の『家畜人ヤプー』の世界も同様である。我々は端末の乳に群がり続ける空腹な羊達の世界である。

すでに現実のものとしてある不気味な世界そのものである。そしてこの不気味な世界は我々の存在そのものへとも近付いてもゆくのである。事は安易な解釈を自動的にそれこそ超えて、その事象そのものの力で越境してゆくのである。人間の相互理解=コミュニケーションへの欲望が裏腹に持たざるを得ない、人間不信をベースにする世界への不安による裸形の孤立へと、諸々のテクノロジーは我々を引きづり込むのである。

電波の洪水を現実とした情報社会がかくの如き新しい不安、孤立を生み出すものだと我々は決して予測しえていなかった。しかし、それは日本の現代に於いてはすでに先験的に露出していた。1970年の大阪万博の会場に於いて、そのお祭り広場の実現と非実現の余りにも歴然とした裂け目の中にそれは表現されていたのである。その裂け目は日本の文明文化史に特筆されるべき巨大なモノであった。同時に丹下健三と磯崎新の創作者としての内的な裂け目も同時に露呈していたのである。

 

「Xゼミナール」でのわたくしの作家論・磯崎新の投稿。そして、それへの鈴木博之の反応、すなわち批評の形は充分予想できる流れを示したとも言える。充分予想し得るそれは反応ではあったが、失張り予想外の強い骨格を持つモノでもあった。有り体に言えば、建築史家鈴木博之は磯崎新に対して固く高い壁を立てているのを再認識させたのである。

何故ここまで高い壁を立てるのかにわたくしは着目を通り超して、キチンと考えねばならぬと考えるにいたった。

鈴木博之は歴然として言明しているのだ、実ワ。

「君は何故、磯崎新を書くのか、書かねばならぬのか。何故、R.B.フラーや俊乗房重源ではないのか?」

鈴木は率直である。これはわたくしの声にならぬ声を聴く類ではあるが、更には、

「どうしても書きたいならばフラー、重源を書いたらいい。磯崎新を書き続けるのは、建築史家、批評家としての自分の道の邪魔になりかねぬ」

第1章のエッセイは建築史家の強い意志を再確認できたのが数少い収穫ではあった。その意味では第1章全体が作家論・磯崎新の前書きであった。日本を代表する近現代建築史家は磯崎新とは確然たる距離を置き、壁を立てている。それはアレヤ、コレヤの修辞やアイロニーではとても隠し切れぬ形質を持たざるを得ぬ類である。

恐らく、これはそう簡単には書き切れぬ問題ではある。作家とは何者であるのか、あるいはあって欲しいのかを書くよりは、余程困難な事ではある。しかし、問題はすでに永解せぬ、容易には解釈はできぬ事はわかった。さりとて、いかにもな日本的なやり方で、

「マア、ここは目をつぶって、脇に一時よけておきましょう」とは出来ないのも理の当然なのではある。

作家論・磯崎新 第2章 丹下健三と磯崎新1

ようやくにして作家論を次のステップに進ませる事にする。昔だったら明らかな同人誌のコーナーとも言うべき「Xゼミナール」への投稿はそのまま続けるが作家論としての体裁と言うべきか、古くもあるがやはり形式らしきへの少し計りの、出来るやも知れぬの気持も湧いてはきたので、投稿のスタイルを勝手に少し変えさせていただく。新しい形式へ大それた事をしようとするのではない。ささいな事ではある。すなわち「Xゼミナール」への投稿は従来通り続けるが、しかしこの長い長いエッセイとも呼ぶべきはわたくし自身の作品でもある。畏敬する友人達からの批判があるのは励みにはなるが、ゼミナールとは言え、わたくしには書くべきをそれ程多く修正する気持は余り無い。批判は批判として受け止めるけれど、それに対する論議を大きく受容してわたくしの作家論に反映できる才質さえもわたくしには乏しい。しかも、身近な友人達とのゼミナールであるから、ウェブサイト上のやり取り計りではなくて、直接に批評を受け取る事も実ワ少なくはない。ウェブサイト時代のこれは奇妙なねじれであり、歪みでもある。それで、「Xゼミナール」からの批評、その他がこれからあった場合はそれに対するやり取り、反応はわたくしの作家論・磯崎新ではわたくしのエッセイへの注釈として出来るだけ付加、重層させてゆく事にしたい。つまり「Xゼミナール」での応答交信はそのままこれ迄通りに掲載するけれども、この作家論・磯崎新はそれとは別に、批評のあった場合はそれに対する注釈スペースをキチンと設けて、エッセイとしては連続する読みモノとして連続させたいと考える。

わざわざ相談すべき事でもあるまいと考え独断専行させていただく。どのようにエッセイ自体の質の向上にそれが反映されるかどうかの採算は全く無い。うまくゆく事を祈るばかりである。

あんまりそれを信用するわけにはゆかぬが時代はウェブサイトあるいはコンピューターコミュニケーションの真只中ではある。書物とはまだまだ恐れ多くて言えぬが、歴然としてペーパーメディアの時代は明々白々に通り過ぎた。新聞雑誌の発行部数は驚く程の減少振りだし、それに伴いペーパーメディアへの広告掲載も、その金額も歴然として減少しているのだろう。実証するまでも無い。街でも、交通機関の中でも、つまりいたるところ、ありとあらゆるところでコンピューターの端末が溢れ返っている。マザーにブラ下がる小羊達を視るようでもある。進化したケイタイ、アイパッドの類は洪水のように都市、田舎にも溢れ返っている。情報は今や動めく巨大生物になりおおせた。宇宙空間とまでは言わぬが宇宙船地球号は今や情報の洪水を内に抱え込んだまま、相も変わらずケプラーの航海図を、三次元ではあるが廻り続けている。外の宇宙は変わりはしないが、地球号の内は一変している。外から新種の電波望遠鏡で地球号を眺めたら、モヤモヤと動めく電磁波の惑星かと視えるのではないか。猿の惑星ならぬ電波にその球形の表面が多い尽くされた惑星になった。

第1章、すなわちはじめの章ともすでに呼ぶべきで述べた、スタンリー・キューブリックのスペース・オデッセイの、見事であった映像もギリシャ悲劇ならぬアメリカ喜劇を振り返るが如き懐古のセピア色にくるまれて視えてしまう。その大半の要因は、すなわち何故古びて視えてしまうのかの核は宇宙船ディスカバリー号の姿そのものにある。あのばかでっかいタロイモの如きゴツゴツとしたスタイルの宇宙船。そのボリュームの大半はHAL9000と呼ばれるスーパーコンピューターのスペース、すなわち倉庫らしきで占められていた。小さな都市建築程の大きさで、それはあった。だからこそ、コンピューターの占めるボリュームが余りにも巨大であったからこそ、スペース・オデッセイの主役でもあった宇宙船ディスカバーリー号の姿形は実にヒロイックでもあり、当然叙事詩的な大きさを示し得ていたのである。しかしながら、コンピューター自体の機構テクノロジーが内的革命を連続させ続けた。それは恐らく18世紀の産業革命当時の機械の革命自体を数増倍させようとするものではあった。スーパーコンピューターの巨大なボリュームは一気に小型化されて、パーソナルコンピューターと呼ばれる小宇宙に迄一気に突き進んだのである。その歴史の現実を否応も無く知る故に、あるいは外界の事実として知らざるを得ない故に、それは歴然とした眼には写られざる革命として世界に散布され、ビールスの如きに細胞状に普遍したのだ。小さなパソコンは実に産業のみならず、文化の枠組みさえも大きく解体しゼロ状態にまで崩壊させ、建築をも含む視覚芸術の骨組みそのものさえ揺り動しつつあるのだが、その現実はまだゆっくりと視据えなければならぬのであろう。

アーサー.C.クラーク原作、スタンリー・キューブリックの映像化による特に映像は極めて深度も深く、しかも広く世界の映像的価値に影響を与えた。映像すなわち、アレは映画であったけれど、それはピカソの絵画や、セザンヌの絵画よりも余程世界の人間達の心象の深奥に突きささったのである。サブカルチャー、ハイカルチャーの境界線をあれは実に侵犯し、突き崩したのではないかと思われる。ハリウッドの映像製作資本が成し遂げた技術と金の成果ではあった。

 

1970年に成し遂げられた日本万国博覧会の施設設計、建築イメージも実ワ、同様である。大阪万博に於いて登場したケイタイ電話の原型モデルは、実に丹下健三設計の大阪万博の中心施設であったお祭り広場と、それを覆う大屋根の構想、及びデザインよりも今の文化文明に余程より大きな影響と力を及ぼしていたが、それは余り切実に知られる事も無かった。大阪万博に登場した、今のケイタイ電話の原型は後の日本文明文化への、丹下健三のお祭り広場やら大屋根の在り方よりも、はるかに大きな力を行使したのは、今では歴然として良く理解できるのである。1970年の大阪万博の総体は反万博運動等のイデオロギーを踏み超えて、より大きな意味を持っていたのである。あの日本万国博覧会以降、今にいたる迄、建築デザイン、都市計画は電子産業のダイレクトな成果としてのコンピューターテクノロジー、すなわち今の世界的概念で言えばアメリカニズム=グローバリゼーションに総体として席巻されたのである。

 

大阪万国博覧会に於ける、磯崎新が参加したいわゆるお祭り広場のデザインはその明らかな象徴の一つでもあった。それは時代の趨勢らしきを暗示する断片にとどまらず、巨大な固まりとしてのテクノロジーのローラー現象、そして建築の、文化の中枢としての建築の解体を歴史的に表象したのであった。作家としての磯崎新は1970年の大阪万博のお祭り広場の会場設計に於いて、その意味では一度、明らかに終わっている。鋭敏な歴史感覚を持つ故にそれは歴然とした自覚にもなった筈である。

丹下健三は大きな存在であったが、大きさ故の歴史感覚の鈍感さも又、持ち合わせていた。時代を画するヒーローは得てしてそんな者なのである。単純に言ってしまえば丹下健三は建築の歴史に於いて対峙し向かうべきは、ルネサンスの英雄、巨大なダビデ像の作家ミケランジェロであり、それでしかなかった。丹下健三には歴史の常識的規範、教養を乗り超えてしまう、ルネサンス的野心があったのだ。丹下健三の東京大学建築学科の卒業論文は、「ミケランジェロ頌」であった。それは若い知恵の薄い学生の野暮な理想らしきを超えて、どうやら心の底から、そう願っていたからであろう。何とかルネサンスのミケランジェロに近づき、あわよくば乗り超えたいと。

 

丹下健三を師と仰いだ磯崎新にはその様な余りにも図太い、ある意味では時代錯誤とも思われかねぬ情念、あるいは単純明快なる理想とは言わず、目標らしきはすでに無かった。才質として無かったのでは無い。恐らくは師の丹下健三に身近に接して、そうなったのである。ミケランジェロを目指す、何とかその位置らしきに辿り着こうとする類の、今から言えば子供じみた、せいぜい青年の客気とも呼ぶべきを磯崎新は自身の気持の中から消失させたのである。丹下健三に出会って。

わたくしは丹下健三には数度しかお目にかかっていない。温厚そうな顔容、口振り身振りからそんな気配をダイレクトに感受した覚えはありもしない。恐らくお目にかかった若年の頃はその気配の素を感じ取ったにしてもそれは深く自覚し得なかった。しかしながら、わたくしは丹下健三初期の傑作群であった香川県庁舎、原町印刷所、旧東京都庁舎、そして艶金工業施設等を、丹下健三の下で設備設計に従事したエネルギーエンジニア川合健二を師とした時期が短くはなく歴然としてある。そのわたくし自身の師弟関係の時間を介して丹下健三にまつわる話は少なからず聞いてきた。非常に赤裸々な話ではあった。それを介して、全てを聞くままに受容するわけもないけれど、わたくしなりの丹下健三像を持たぬわけではない。