作家論・磯崎新 第2章 丹下健三と磯崎新5
作家論・磯崎新の書き始め、すなわちⅠ章のはじまりは、わたくしの師の一人でもあった建築史家渡辺保忠の口から磯崎新というのが居て、あれは東大の宝だよ、と聞かされたのが最初だ、と記した事であった。
いささかどころか大変唐突で不細工なはじまり方をしてしまった。しかし、素直な不細工振りであったと後悔はしていない。どんな不細工振りであっても自然に始めた事、つまり無意識に近い身振りには真実のカケラらしきが在る。そう考えぬと大意識家でもある磯崎論なんて書けるものではない。巧まぬ始まりは時に論の大筋を予見させてくれるものでもあった。論を進める内にXゼミナールの学友でもある建築史家鈴木博之から度々、ブレイク、つまりオカシイ、修正されたしの水が掛けられた。鈴木博之は今や日本の近現代史を代表する史家であるが、彼ともウーンと若い頃からの付き合いである。ただし、建築史家渡辺保忠から磯崎新の名を聞かされて後からの付き合いである。何をくどくど詰らぬ役にも立たぬ細部を記すのかと叱られそうだが、事、建築史家に関わる件を書くのはこんな細部も重要なのだ。それに鈴木博之は歴史家として磯崎新に大きな距離をとりながら、しかし、それ故にこそ関心を持ち続けてきた存在でもある。伊東忠太と共にシルクロードを西へアジア横断の旅をした田辺泰はその後研鑽を積まれ東洋建築史、沖縄建築史に大きな足跡を残された。細かい事に頓着せぬ大柄な人間であった。田辺泰は弟子の渡辺保忠の才質を感じ取り、これはワシの手に負えん、と東大へと送り込んだ。太田博太郎の許で稲垣栄三と同期の建築史研究会に属した。渡辺保忠は日本建築生産史、特に生産組織変遷史の草分け的存在であった。がしかし東大生産研に於ける村松貞次郎などとは異なる芸術的感性も実に敏な才質があり、その直感、あるいは透視力とも言うべきは際立っていた。ビリビリしていて恐いような処もあり、田辺泰とは正反対な才質、繊細で鋭く、時にあやうく、もろいデザイナー的な側面も持っていた。
それ故に東大建築史研究会での建築史家の教師陣、院生達の話には、世間話の如きにも耳を澄ませていたようだ。その渡辺保忠が磯崎新というのは東大の宝だと言ったのだ。そんな風評が当時の東大建築史研究会では流れていたのやも知れぬ。
磯崎新の言明によれば、自身も建築史関係の研究室に良く顔を出しており、藤島亥治郎からは院生として予定されていたりもしたらしい。つまり磯崎新はその才質の内に建築史家としての才質を自覚していた。少なくとも周囲もそう認めていたのである。
結局のところ磯崎新は東大内に新設された都市工学科丹下健三研究室へ進む事になった。師弟関係とは実に不可思議な迷路状の洞窟の闇をも時に持つ。特に創造力を競う如くの分野ではそれが著しい。師は弟子の才質を見抜く才質を持ち、それ故に時にそれを恐れる。それは洋の東西を問わぬ。ル・コルビュジェはその弟子(スタッフ)のヤニス・クセナキスの才質を重用し、同時に恐れた。天才は天才を時に嫉妬するのである。才能というのはそんな形質の偏向をも内在させるものである。ねじれや歪みを内在させる。その師弟関係も又、創造の形式を自己模倣する。又はさせるのだ。創造とはその内に模倣の才をも要求する。大きな創造者は多彩な模倣者でもある。その模倣は時に才質の表面的な形質のなぞりだけでなく深く内実に迄侵入せざるを得ぬ闇を持つ。ル・コルビュジェはクセナキスの才質の内に自分には決して大きくはなかった音楽的数式の造形への関係性を見抜いた。その数式性は又、造形の、建築の未来を暗示するものでもあった。自身の造形の才を古びて見せてしまうのをも見抜いたのであった。やがてル・コルビュジェはクセナキスを遠ざけるようになる。未来はクセナキスの才質に在る事を見抜いたからである。やがてクセナキスは十二音階音楽、つまりはコンピュータによる音楽創作の創始者となった。今の時代の音楽形式、そしてそれに潜在的な影響を受けている高度な造形分野の創出はまさにクセナキスのヴィジョンが遅れて具現化しつつあると言っても良い。本格的な創造は時差を露出させる。少なくとも、ほぼ現在磯崎新が発見的に選択し、その建築化を一部試行しているコンピュータ・アルゴリズムによる造形=フィレンツェ駅舎プロポーザル案の系統樹をたどればクセナキス・オリジナルの思考形式に遡行するのは明らかである。
丹下健三は磯崎新に自身とは異なる才質を認め一時重用し多大な成果を得た。その事をおおいに自覚していた。弟子であった磯崎新もそれをはっきりと認識していた。やがて師弟関係にねじれが発生するのは自明であった。師は弟子を遠ざけ、弟子も又師から遠ざかるようになる。かくの如きの創造の師弟関係の鏡がほぼ最初期に発生したのが1970年の大阪万博のお祭り広場の具体化の現実の中に於いてであった。師弟関係そのものが演じられた舞台は私小説的なスケールを超えて大きかったのである。この時丹下健三と磯崎新は決定的にその互いの才質の違いを自覚し合った。
では、お祭り広場の仮設とはいえ、国家的な枠組みの中での「お祭り広場」とは何であったのだろうか。特に丹下健三の才質の反映は何であり、磯崎新のそれも又何であったのか。それに関して磯崎新が度々説くように丹下健三が背負いたく思った国家=権力と、それから逸脱しようとする自身のバガボンド的芸術家的才質は対比の形式を持ちながら確かに色濃く潜在したであろう。磯崎新から見れば丹下健三は余りにも政治=権力志向であり過ぎ、又、師の丹下健三から眺めれば磯崎新は余りにもアナーキストでもあり過ぎた。それ故に丹下は磯崎新を国家の中心に近い位置に置き続けようとはしなかった。すなわち東京大学都市工学の教職につけようとはしなかった。丹下健三にすればそれ位の段取りは容易過ぎる位にたやすい事であったろうが。磯崎新にしてみればその野心の最大なモノは都市設計にあった。単なる単体的な建築設計に非ず、都市そのもののデザインが目標とされていた。それには当然、国家権力への接近が必須であった。だからこそ東京大学都市工学科でのポジションも又、その射程におさめ続けていただろう。理の当然である。磯崎新の極めて率直な初期エッセイである「都市破壊業KK」はそんな意識のねじれ、歪みも内在させていた。又、磯崎新が在籍していた当時の丹下健三研究室及び東大都市工学科はそれだけの権力を持ち得るポテンシャルを所有していたのである。それ故の大阪万博、お祭り広場の計画者のポジション獲得でもあった。
作家論・磯崎新Ⅱ章4の建築史家鈴木博之の言、東京都新庁舎議事堂前に実現された広場について、丹下健三の視点は生涯を通じて一貫していた、は大阪万博の「お祭り広場」からの都市観の連続であり、ひいてはイタリアの都市ヴェネチアのサンマルコ広場への希求でもあった。 磯崎新がしばしば述べる「今更、ひろばなんて」はそんな丹下健三の都市観に対する批判である。そして双方の都市に対する思想とも言うべきを際立って異なるモノとして見せる。
山口県、秋吉台国際芸術村(1998年 設計磯崎新)でわたくしは実に奇妙なモノを視た。しかも2つも視た。一つは磯崎新の初期の傑作である「N邸」の再現=レプリカの現実の光景内での存在である。もう一つは芸術村の上空を近くもなく遠くでもない実にあいまいな距離としか言い様の無いスケールを飛ぶ緑色のレーザー光線であった。「N邸原寸レプリカ」についてはいずれ必ず触れる事として、ここでは芸術村の上空を飛ぶレーザー光線について。
ここで磯崎新はその全体を珍しく散乱的建築配布として試みた。山口のカルデラ状岩盤に幾つかのイタリア山岳都市状のカテドラル(ドゥオーモ)を持つ集落状を再現しようとした。カテドラルはルイジ・ノーノの「プロメテオ」を演奏するこれも又、散乱的構成を持つ音楽堂である。小カテドラルはあるが、地形との関連もありただただ散乱、つまりは近代以前の民俗的歴史の集落配布状になりかねぬ自然=オートマティスムとの共生状態つまり意図せざるモノの連続にもなりかねぬ。非都市的なるモノに近似接近したのである。恐らく磯崎新はそんな創作方法、姿勢と言う方が正しいか、に一抹の不安を覚えたのである。それで師の丹下健三の都市軸への希求を思い起こした。それは否定しても、批評し続けても磯崎新の創作の基底の影として、磯崎の語法としては視えない都市の骨格として在り続けた。それで、いささかのエンターテイメントの名残として、つまり小さなお祭り広場の軸線として、レーザー光線を中空に走らせたのである。
山越えの阿弥陀の似合わぬ仏教的世界のアナロジーの説明も試みたようだが、それは違う。山越えに視たのは阿弥陀ではなく丹下健三の影であった。それ程に磯崎世界は建築世界であったとも言えよう。丹下健三が東京湾上に描いてみせた「東京計画1960」の計画軸の先には富士山があった。磯崎新の諸々の計画にはどうしても富士山が見当たらない。それは創作家の質量をも決めかねぬ巨大なドキュメントではあるけれど。国家の広範な数量を内在させたシルエットとしての富士山は現れなかった。しかし目標の無い軸線の矛盾でさえもどうしても磯崎にはこの時に不可欠であったのだろう。それでレーザーを飛ばして見せたのである。
それは師弟関係の影の軸でもあった。
計画の普遍的な広さをも内外在させる軸について、丹下健三に於いては、例え東京新都庁舎の人影は無くても、絶対に必要であった広場の日本的空虚は、磯崎新には大阪万博のお祭り広場の空白として残された。その空白が変転しつつこれ迄の磯崎新の創作に一貫して流れ続けるのである。
磯崎新の中心の空虚、さらにそれを空と、磯崎新がどうやらそのDNAとも勘ぐりたくなる程の中国とは言わず、大陸願望にも似た巨大な空漠たる光景、時にそれは廃墟と呼ばれたり海とも呼ばれたりもするが、エンドレスな無境界への希求が必然的に引き起こす、中心の空洞、空、0状態について考えてみたい。
磯崎新の阿弥陀堂に関する志向は独特なものである。何に対して独特かと言えば丹下健三のイタリア・ヴェネチアのサンマルコ広場に対する信仰にも近い広場の原形とも呼ぶべきへの渇望と同様にそれとは対比的でありながらしかも独特である。日本の首都東京都新庁舎に設けられた広場について鈴木博之が指摘する如くに、それは新東京都庁舎が竣工したばかりの頃、鈴木自身が丹下健三に直接聞いた言として、次のように記されている。
「東京都庁舎の議会棟前の広場は、新宿副都心のなかで、唯一前後左右がすべて超高層街区で囲まれた場所なのです。つまりここが東京でもっとも都市性の高い街区なのです。そこでこの広場をもってきた。」
丹下健三の視点は、生涯を通じて一貫していたのである。と鈴木は結語する。