X SEMINAR

石山修武研究室

石山修武X鈴木博之X難波和彦

after 3.11

2014/07/10

難波和彦 第33信 「Pinoleville Pomo Nation Living Culture Center計画案」 設計:佐藤研吾

「螺旋的思考」の可能性

佐藤研吾を初めて知ったのは、僕が東京大学を退職する最後の年の2009年、彼が東京大学建築学科3年生の設計課題においてである。通常の設計課題は学生個人が担当するが、その際の彼の印象はセンスのいい学生という程度で、ジーパンに長髪というやや時代遅れの風貌が記憶に残っている。製図室の中で入口からもっとも離れた、教員の眼が届かない奥隅のコーナーに陣取っていることが建築学科同級生の中での彼のポジションを表わしていた。

毎年3年生の設計課題では早稲田大学建築学科と共同で設計課題を行っていた。この共同課題は安藤忠雄と故鈴木博之の発案で2007年にスタートし、東京大学は僕が早稲田大学は石山修武が担当した。僕と石山が退職した現在でも、このシステムは継続している。この共同課題の趣旨について、僕は『東京大学建築学科難波和彦研究室全記録』(角川学芸出版 2010)にこう書いている。

 

東京大学では、入学後の最初の1年半は、すべての学生が駒場キャンパスの教養学部に所属するシステムになっている。専門コースに進学するのは2年生の後期なので、学部の専門教育は2年半の期間しかない。その中でもっとも集中的に設計教育が行われるのは、学部3年生の1年間である。この間に学生たちは、集中的に設計製図課題に取り組むことになる。通常の学科試験とは異なり、設計製図課題の評価は担当教員による公開講評によって行われるので、学生は自分の作品のレベルを相対化せざるを得ない。僕はさまざまな大学において設計製図課題の非常勤講師を勤めた経験から、本学の建築学科の評価基準にはやや偏りがあるように感じた。もっとも疑問に思った点は作品の評価が中心的で、設計製図に取り組む学生の人間的な側面にまで眼が届いていない点である。設計製図課題に取り組んで1年間余の間に学生は大きく変化する。その点を見極めてアドバイスすることが講評の大きな目的のひとつではないかと思う。僕は早稲田大学の建築学科で約10年間、設計製図課題の非常勤講師を勤めたが、その間に石山修武教授から設計教育のあり方に関して多くのことを学んだ。その中でもっとも感心した点は、講評においては作品の評価と並行して、建築デザインに対する学生の適性や成長を長い眼で見ながらアドバイスするというスタンスである。早稲田大学は学部1年生から専門コースなので、時間をかけた設計教育が可能になるという条件もあるが、本学でもそのような視点を持つ必要を感じたのである。そこで石山教授に相談し、早稲田大学との共同設計製図課題の試みが実現することになった。最初の2007年度は、安藤忠雄名誉教授の助力で、調布市の駅前広場の再開発を課題とし、調布市文化会館において市民の前で公開の作品発表を開催することができた。学生が市民に向けてメッセージを発することは、社会への大学の開放の重要な側面である。2008年、2009年は西葛西の公営団地を取り上げ、グローバリゼーションの時代における都市住宅のあり方に関する課題に取り組んだ。3年間の共同設計製図課題を通して、学生相互の交流が活発化したことも大きな成果だったが、それにも増して、東京大学と早稲田大学の設計教育の相違が浮かび上がったことは、学生だけでなく、お互いの教員にとっても学ぶことが多かったのではないかと思う。

 

佐藤研吾は早稲田大との共同課題においてひとつの方向性を見出したように思える。この課題はそれぞれの大学の3人のメンバーがクループを組んで取り組むことになっていたから、彼個人のセンスがストレートに表現されることはなかったが、彼の手描き図面やパースを石山は高く評価した。その時点で石山は佐藤の可能性を見抜いていたのかも知れない。4年生に進学して彼は自分の方向性を定め、大学院入試では東京大学ではなく早稲田大学の石山研究室を志望し問題なく合格した。さらに卒業設計においては最近のプレゼンレーションイ手法の定番であるコンピュータによるCG図面を用いることなく、手描きの図面を中心にしてまとめている。選んだテーマは大規模開発中の都心の近くに取り残された木造密集地域のリノベーションである。石山のアドバイスを受けたのかどうかは不明だが、小規模な木造建築を集合させたボトムアップ的なリノベーションであり、近隣に進行中のトップダウン的大規模開発に対するカウンター・プロポーザルだった。この作品はテーマの現代性とユニークな表現方法の点で高い評価を受け、卒業設計に与えられる最高賞「辰野金吾賞」を獲得した。

 

ここで批評に取り上げる作品は、佐藤が石山研究室の修士過程に所属中の2012年に応募した国際コンペ応募案である。コンペを主催したのはネイティブ・アメリカンのピノールビル・ポモ族(Pinoleville Pomo Nation)とカリフォルニア州の大学UCバークレー校である。コンペのプログラムは、先住民族の集落内に彼らの地域拠点となる文化センター「Pinoleville Pomo Nation Living Culture Center」を設計するというものだった。当然ながらこのコンペには錯綜した政治的背景がある。アメリカ建国史のなかで先住民は住んでいた土地を奪われ居留地を限定されてきた。その土地を取り戻しそこに伝統文化を保存するための文化センターを建設するのである。先住民であるインディアンと日本人は同じモンゴル民族の末裔であるとはいえ、歴史的・政治的・文化的にはかなりかけ離れている。しかし昨今のグローバリゼーションの進行はその溝を狭めつつあることも確かである。1980年代以前ならば、このような特異なコンペに日本人が応募することなど考えられなかっただろう。とはいえ現在でも依然として両者の溝は大きく、国際コンペに応募するにはさまざまな理論武装が必要となる。しかしながら歴史的・政治的・文化的背景はデザインの前提条件に過ぎないし、前提条件を知ったからといって説得力のある案が提案できる保証はない。その点で佐藤の案は、軽々と前提条件を乗り越えている。このコンペで佐藤の案は「Sustainable Engineering Innovation賞」を受賞している。

 

佐藤の応募案は一見するとインディアンの集落のように見える。ポモ族の歴史に詳しくないので、彼らが農耕的定住生活をしていたのか遊牧的移動生活をしていたのかは分からないが、少なくとも佐藤の案は定住的なデザインといってよいだろう。半ば地面に埋設され左右対称形の平面を持つパヴィリオンを分散配置した佐藤案は1960年代に世界中で流行したヴァナキュラーなデザインを連想させる。

ヴァナキュラーなデザインは第2次大戦後にアメリカから全世界に広がった形骸化したモダン・デザインに対する批判から生まれた。ヴァナキュラーな建築への注目は1964年にニューヨーク近代美術館(Modern Museum of Art=MoMA)で開催されたバーナード・ルドフスキーによる展覧会『建築家なしの建築ARCHITECTURE WITHOUT ARCHITECTS』に端を発する。その展覧会のカタログとして出版された同名の冊子は、日本でも翻訳され(1975)大きな話題を呼んだ。「建築家なしの建築」とは、無名の人々によっていわば自然発生的に作り出されたヴァナキュラー(風土的・土着的)な建築である。それはヨーロッパからアメリカに渡ってエリートの建築となったモダン・デザインに対する大衆的立場からのカウンター・デザインだった。ロバート・ヴェンチューリやチャールズ・ムーアはヴァナキュラーな建築を大衆的なポップアートに接木することによってポストモダニズムのデザインを生み出した。この潮流は日本の建築界にも大きな影響を与えたが、それを正面から受けとめた建築家の一人が石山修武である。その意味で、佐藤の案はポストモダニズムの隔世遺伝といってもよいかもしれない。事実、佐藤案の中のCeremony&Dance Theaterは盛土を型枠にしたコンクリートシェルであり、ほとんど同じような建築を石山も作っている。あるいは地面に埋め込まれた基礎の上に軽い金属屋根を架けたその他のパヴィリオンも石山建築の翻案のように見える。とはいえインディアンの子守り籠をモチーフにしたデザインや、太陽光と空気の流れの制御装置として建築を捉える視点は佐藤独自のモチーフだといってよいだろう。

 

佐藤は石山研究室での2年間の修士課程を終える時点でまとめた修士計画『創作論序説:異形の現在---螺旋的思考とその模型について』において、このコンペ案をさらに大きな〈創作論〉の中に位置づけることを試みている。その方法論は「螺旋的思考」と名付けられ、江戸の〈栄螺堂〉を空間モデルとし、その具体的実践としてこのコンペ案を位置づけ、石山研究室における韓国やインドでの研究活動を日本の近現代を乗り越える近未来思考へと展開させ、最終的に東京に着地させるというヴィジョンである。ここにも石山修武の〈アニミズム論〉や〈開放系技術論〉の遠い谺を感じるのは僕だけではないだろう。

 

石山修武の視野は余りにも広い。彼の歴史観や社会観に正面から太刀打ちするのは容易な業ではない。しかしながら僕の見るところ、石山の具体的な実践活動は彼の広大な視野の一部でしかない。それはウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフト運動に似ている。モリスをモダニズム・デザイン運動のパイオニアと位置づけたのは歴史家のニコラス・ペヴスナーだが(『モダン・デザインの展開』)それはモリスの反機械的なデザインにおいてではなくマルクス主義的なヴィジョンにおいてだった。これに対しペヴスナーがモダニズム・デザイン運動のひとつの到達点と位置づけたのはワルター・グロピウスの「バウハウス」であり、その機械的工業生産化の社会ヴィジョンにおいてである。この意味で石山は〈プロト・モダニスト〉だといってよい。バウハウスのデザイン教育やザッハリッヒなデザインは、さまざまな問題を孕みながらも現在でも生き残っている。その可能性を昂進させ、そこにアジア的ヴァナキュラーやアジア的近代化を接木し展開させることが、佐藤のいう「螺旋的思考」ではないかと僕は密かに期待している。

/201407/10

Xゼミ・作家作品批評 06

Pinoleville Pomo Nation Living Culture Center計画案とその周辺について 佐藤研吾

Pinoleville Pomo Nation Living Culture Center計画案とその周辺について

佐藤研吾

 

計画概要(※)
計 画 地 アメリカ合衆国カリフォルニア州ユカイヤ
主要用途 地域文化複合施設
構  造 鉄筋コンクリート造、一部木造
階  数 地上1階、一部2階
敷地面積 25723.15㎡
建築面積 1829.39㎡
延床面積 2013.76㎡

(※デザイン・コンペティション「ParticiPlace 2012 」にて入賞、及びSustainable Engineering Innovation賞を受賞した計画案)


最近、毎日の通り道である新宿駅で募金の呼びかけを根気良く続けている団体に出会う。彼らは東日本大震災の被災地で人間と同様に被害を受け行き場を失った犬や猫たちの避難所開設・維持のために募金活動を行なっている。2011年3月のあの日からすでに3年が経ち、TVや他メディアでは震災(原発)の風評の露出と隠蔽工作のやり合いが交錯するような中で、私は彼らの生身の活動にむしろ信頼を置く。もちろん彼らの内実を知り抜いてはいないが、自分自身だけでは気づくことも困難であった世界への視線を与えられたという実感をもっていくらかの協力をさせてもらってもいる。 彼らの活動が偽りの無いものだとすれば、彼らは何らかの大きな使命感を各々が持って行動しているのだろうとも思える。動物も人間も、分け隔てなく1つの総合の世界を見つめ続ける視線と希望が彼らにはある。異なる世界、異なる場所までを眺め渡す鋭い眼差しとその感性を彼らの奥深い部分に感じているのである。学ぶべきことは多い。

 

日本の震災から約1年が経った2012年、私はアメリカの西海岸カルフォルニア州ユカイヤで行なわれたあるコンペティションに参加する機会を得た。そのコンペはアメリカ先住民、ネイティブ・アメリカンの一部族の集落内に彼らのための地域拠点となる文化センター(Pinoleville Pomo Nation Living Culture Center)を設計せよというものであった。コンペはピノールビル・ポモ族(Pinoleville Pomo Nation)という部族と、同州の大学UCバークレー校の共同主催であった。

計画敷地は彼らが今現在買い戻そうとしている、かつては部族の先祖が住み暮らしていた土地である。彼らは1960年代にアメリカ中央政府よりネイティブ・アメリカンの部族認定を剥奪された。そしてアメリカ合衆国成立のはるか前より守り続けてきていた先祖の土地を失ったのであった。しかし、彼らは部族認定を剥奪された後も共同して活動をすすめ、80年代にようやく認定を取り戻し、本来の土地を共同出資によって買い戻してきた。その土地の一部に計画されるのが今回の地域センターであった。

部族の運営および生活の双方の拠点となるこのセンターは、彼らの固有の文化を保存・実践し、伝統を今の彼ら特に彼らの子どもたちの生活において継続的に発展させようとするための教育施設となることが想定されている。部族の将来を考えるための実践的な現場である。

そして、このコンペティションではもう一つの大きな主題が込められていた。それは周囲の自然環境に配慮した、敷地内で完結するゼロ・エネルギー・システムの提案要求である。環境問題、エネルギーに関する課題を掲げるコンペティションが、ネイティブ・アメリカンの一部族によって開催されたのは非常に意義深いことだと思われる。

図ではアメリカ合衆国におけるネイティブ・アメリカンの各部族の地域分布と、原子力発電所や核廃棄物処理場をはじめとする環境汚染施設の立地を示している。これを見ると、もちろん部族の地域規模はさまざまではあるが全体的に国土の西側に集まっており、環境汚染施設の多くもまた西部・中西部に集中しているのが分かる。これは決して偶然なものではなく、合衆国内における先住民への根深い人種的問題と、中央政府のエネルギー関連施設群の配布計画が複雑に絡み合っている状況を示している。先住民の部族の中には環境汚染の迷惑施設を誘致するのと引き替えに、巨額の補助金を獲得し、また中央政府への発言権を大きくして地域内にカジノ開設の権利も得るなどで部族経営を成り立たせようとする部族も少なくない。一方で、そのような部族内でも下層にいる人びとは汚染施設の近隣に居住を余儀なくされ劣悪な環境下での生活を強いられているともいう。この問題は、アメリカ合衆国成立以来続く深過ぎる程の問題であり、さらにはアメリカに限らない世界中の文明社会が孕む根底的な課題であるとも思われる。

ピノールビル・ポモ族はそうした状況下で、環境汚染施設の共有地内建設を頑なに拒み続ける数少ない部族である。彼らにとって周辺の環境と土地を守ることは自分たちの固有の文化及びそれを築き上げてきた祖先由来の伝統を保守することに直結する。環境問題に対する先進的な提起を行なうことは、彼らにとってはまず自分たちの身を守るためのものであり、さらには自らのアイデンティティに関わる内発的な問題としてある。今回のコンペティションにはそうしたアメリカ社会を背後にもった、彼ら部族の自立・独立への確たる意志が中心に据えられていた。

彼らの取り組みに対して、遠く離れた日本に住む自分に何ができるのか、いかなるものを作り出せるのか、それが私自身の最たる命題であった。私もまた、日本の大半の人びと同様に2011年の福島原発事故の後にようやく自国のエネルギー政策の有様の一端を意識できるようになった人間であるが、このコンペティションへの日本からの参加は、単なる企画の国際性を越えて、アメリカ社会の写しでもある戦後日本の社会システムの綻びを経験した一人の人間の参加、という構造的意義があった。コンペの規模に関わらず、私自身の個人的な意欲や心境の問題ばかりに収まりきらない、異なる世界を越境し得るある社会的枠組が強く浮かび上がっていた。

 

提出した計画案では、1つの確たる求心性と形態の離散的な構成を併存させることを試みている。当然、その形態と造形の多くが、彼ら部族が保持を願う伝統文化の内から学び取ったものである。遠くの彼らの文化を学び、その成果をそのままに贈り返したの実感もある。各施設機能を敷地内に分散して配置し、中央に舞踏・演劇スペースを、北部に料理や工芸活動のためのスペースと子どものためのプレイグラウンドを螺旋の形状によって配置し、南側には収蔵庫と部族の諸情報を発信・保存するデジタル・アーカイブ施設を配置している。

それぞれの施設が周囲の植物の配布と1.2m程度の小径によって繋がり、どの建築も北東(東)の方向に正面を構えている。それは、北東から南西方向に緩やかに上がる既存の周辺地形に沿って吹き上がる風を建築内部に大きく採り込むためである。また同時に、東側に小川が流れ、彼らの先祖の墓があり、西側には太平洋まで広大に続くレッドウッドの深い森が位置しているという、彼らの重要とする大地への初原的感覚を写し出す意図があった。建築構造はアースキャストによるRC造のシェルを主たるものとし、建築の大部分を土で覆うことで断熱性能を担保しながら、自然風景との共生と彼らの大地への拘りから導かれる特に子どもたちの身体的活動の誘発と調和を試みている。

大地のランドスケープとともに建築が群体としてつくり出す微細にうごめく環境風景は、それ自体が部族自体の全的な価値の形象としてあり、また対外的、及び対内的にも強いコミュニケーションの要素としての意味を持つはずである。計画を提案した私自身も含めて、彼らとの間には避け難い境遇なるものに対して、責務とも言える果たすべき役割とその表現が必要であった。

 

確たる責任感とその継続の意志を持ち得た個人、共同体は魅力的である。その多くが生命単体の小歴史を含めた、ある歴史感覚を共有する一方で、外部との溶解し難い壁をも同時に抱え込んでしまってもいるように感じている。けれども、果たしてそれが必然の帰結なのかは分からない。そうではないとも思う。

最後に、最近巡り遭った、創作を続けるある共同体を紹介させていただきたい。今年の2014年2月に、インドのグジャラート州のアーメダバードとバローダの2都市にいくつかの講演他補助の仕事で行った際、空いた日程を使ってタクシーで半日かけてラトワ族なるインド原住民の1つとされる村を訪れた。彼らの村には電気こそ通ってはいたが、燃料はガスではなく牛のフンを使い、家畜を飼って畑を耕しての自給生活を営んでいた。村にゴミは一切無く驚く程に空気も澄んでいた。そんな彼らの家々の内部には、数多くの動物と人間と、そして神々の姿が一面に描かれた壁がある。ピトラ画と呼ばれるその壁画は、年に数回行われる村の豊穣儀礼として描かれ、時代とともに描かれる対象を若干に変えながら現在も続けられているという。

彼らはもちろん、その壁の前で、飯を食い、寝て、生活をしている。壁画は二次元的表現ではあるが、その多彩な色と群像が横溢する画面は明らかに彼らの何気ない生活を包み込んでいた。

創作表現と、過去から続く神話的風景を基底に持った共同体の形象化の作業は、彼ら自身の尊厳に無意識に関わっているものだろうか、ともそれを見たとき感じたのである。

空間表現、創作表現について、確かな根拠らしきものを見つけることができた体験であった。

2014年5月26日

佐藤研吾

4/7

難波和彦 第32信 「15Aの家」 設計:中川純 評

「インテグレーションに向かって」

中川純が初めて界工作舍を訪れたのは、僕が大阪市立大学から東京大学に移ることが決まった2003年4月だったと記憶している。最初の3ヶ月間は模型製作のアルバイトとして当時実施設計中の浅草二天門脇に建つ「二天門消防支署」の模型製作を担当した。界工作舍の入社試験の重要な条件は、模型製作の精度だが、彼の腕前はかなりレベルが高く、これまでの界工作舍スタッフの中でもトップ3に入ると思う。彼を受け入れた最大の理由はそこにあったが、もうひとつ他のスタッフとは大きく異なる点もあった。早稲田大学建築学科の学部卒である点は「箱の家001」を担当した藤武三紀子と同じキャリアだが、僕が中川に興味を持ったのは、早稲田大に入る前に東京理科大理学部の応用化学科を卒業していることだった。建築学と応用化学に何らかの関係があるのかと訝りもしたが、それ以上に、回り道をして建築に辿り着いた点に、自分の方向を見極める意志のようなものを感じたのである。実際に彼がふたつの学科を意識的に選んだのかどうか、あらためて尋ねたことはない。しかし彼が現在、早稲田大学建築学科の環境研究室に所属し、研究員として建築環境の研究に向かっていることと無関係ではないだろう。

 

中川が早稲田大学建築学科で所属したのは鈴木了二の研究室で、どのような卒論をまとめたのかは聞いていない。ただ、卒業設計では早稲田大学の教育方針から大きく外れた作品を提出したらしい。石山修武がXゼミ評にも書いているように、デザイン性や表現性をあえて放棄し、システムだけで成立しているプラントのような建築を設計したのだという。どこの大学の建築学科でもいえることだが、とくに早稲田大の建築学科では、基本的に建築の個人的発想とイマジネーションをもっとも重視する設計教育を行っている。僕は石山に協力して、早大建築学科の設計課題の非常勤講師や、石山が主宰する早稲田バウハウススクールの講師を長年務めた経験を持っている。その経験から僕は、石山が建築表現に対する個人的な発想とイマジネーションをもっとも重視していることを知った。しかしながらもう一方で、僕は、大学生や大学院生の段階で、個人的な発想やイマジネーションに注目することに関しては、若干の疑念も持っている。建築の場合、考慮すべき条件が多いので、発想やイマジネーションは、ある程度の経験を経て、多様な条件を知悉し、それをまとめ上げる段階で発揮されるはずだと考えるからである。このような視点の相違は、実際の設計課題の講評においてはっきりと表れる。というのも、僕が早稲田大学の講評会において可能性を感じる作品は、早大の教員にはほとんどB+と評価され、僕としては力作ではあっても展開する可能性がないように感じる突きつめた作品が高評価を得ていたからである。この点に関しては印象的な想い出がある。石山と一緒にイタリアを旅行し北イタリアのコモを訪れたことがある。ジョセッペ・テラーニのカサ・デル・ファッショを訪ねるためである。僕は3度目だったが、石山は初めての訪問だった。広場に面したこの建築を一目見て、石山は即座にこう言い放ったのである。「B+だな」。3次元グリッドを巧妙に操作したテラーニの剛直な空間は、石山の眼には単なるシステム建築にしか見えなかったのだろう。あるいは評価の確立した建築に対する批評性だったのかも知れない。総じて、カサ・デル・ファッショをどう評価するかは、建築家の価値観=美意識を判別する一種のリトマス試験紙といえるのではないだろうか。

 

おそらく中川は、表現性抜きのシステム的な卒業設計を、早稲田大の伝統的な建築観=美意識に対する対抗批評、それもかなり稚拙な批評として提出したのではないか。石山はそれを容易く見抜き「外連(ケレン)」と評したのである。それにしても20年近い過去で、毎年180人もの学生の卒計を観ていながら、石山が記憶しているという事実は、中川の作品がそれなりに石山の神経を逆撫でしたのではないかと推察する。中川にはそのような批評性を意図的に弄する知的な策略性がある。僕の考えでは、それは教員や師匠に対する一種の「甘え」にほかならない。一例を挙げよう。彼が界工作舍から独立して最初に設計した住宅を見学する機会があった。それは「箱の家」のボキャブラリーをそのまま流用したような住宅だったで、僕としては微笑ましく感じた。ところが、彼はその住宅を「これは箱の家ではない」と名づけていたのである。確かに「箱の家」の単なるコピーではなく異なる点も多々あったが、その命名はルネ・マグリットが描いたパイプの絵をミシェル・フーコーが「これはパイプではない」と呼んだことのモジリであることは直ちに見て取れた。彼としては「箱の家」から学びながら「箱の家」とは異なる住宅をデザインしたという錯綜したメッセージを伝えたかったのだと思う。しかしそのような低レベルの知的操作は学生にしか通用しないし、僕を含めた建築界に対する期待と甘え以外の何者でもないのである。

 

そのような低レベルの知的操作の危険性を警告して以降、中川はそれまでの批評性を捨てて、ストレートに建築に向かうようになった。彼が界工作舍において担当したのは「箱の家」の100番前後と浅草の「二天門消防支署」である。当時は、東京大学建築学科の環境研究室との共同研究によって「箱の家」の環境性能の実測を開始していた時期である。中川が担当した「箱の家108」は環境実測の最初の対象で、前もって行った仮実測からのフィードバックを、実際の工事に反映することができた。中川はそのフィードバック工事を綿密に実施し、竣工後の環境実測では、かなり高性能であることが実証された。このような経験を通じて、彼は建築における環境性能の重要性を認識したと思われる。そして独立してからは、その研究成果をさらに精密に展開し、実際の設計に適用して行った。「GPLの家」(http://njun.jp/files/GPL.pdf)には、その研究成果とともに、中川のシステム思考が批評性なしにストレートに反映されている。

 

「箱の家」の環境性能の実測実験を通じて、中川は東京大学建築学科の環境研究室との交流を深めて行った。東大の環境研究室は、当時は界工作舍との共同研究を通じて、環境性能と建築デザインとの関係を積極的に追求する研究を展開し始めたばかりだった。中川はその研究メンバーとして招かれ、東京大学での設計課題にも協力するようになった。デザインに対する彼の科学的でシステマティックなアプローチは、環境研究室の研究方針にもマッチし、大学院のスタジオ課題のTAにも迎えられた。東大の難波研究室OBが中心に設立した若い建築家たちの研究体LATs(Library for Architectural Theories)における中川の発表は、建築に対する科学的・理論的アプローチをめざす彼の指向を明確に反映している(『ノイジーな計画学』http://10plus1.jp/monthly/2012/06/lats17.php)。 2012年に東大の環境研究室とU.C.バークレーの共同主催によって「ARCHITECTURE. ENERGY. JAPAN 2012」と題する国際会議がバークレーで開催され、中川を含む日本の若い建築家が招待された。僕も招待を受けレクチャーを行ったが、この国際会議において、中川は、環境性能と建築デザインを結びつける最新のシミュレーション技術を学んだように思われる。

 

「15Aの家」には、以上のような中川の紆余曲折した経歴が埋め込まれている。それを相変わらず意図的な演出としてプレゼンテーションしているために、ややあざとい印象を与えることも確かである。しかし僕としては、小さな仕事の中に、現代のさまざまな課題を埋め込もうとする努力を前向きに評価したい。第1に、現代において契約電力を15Aに抑えながら親子4人の家族生活が可能であるかという実験は、3.11以降の都市住宅においては重要な課題であり、自邸であるがゆえに可能な貴重な試みだろう。自然採光や通風のシミュレーションにも15Aのリアリティを感じさせる説得力がある。ちなみに、通常のワンルームマンションでも契約電力は最低30Aであることを考えれば、この試みの意義が分かるだろう。第2に木造住宅のDIYによるリノベーションは木造密集住宅におけるリノベーションのあり方に対するひとつの提案である。生活空間を1階にまとめ2階の木造骨組をそのまま残しているのは、時間のデザインであると同時に空間表現のためといえるだろう。在来木造住宅の耐震補強も3.11以上の重要な課題である。とはいえ僕たちの世代には、このリノベーションの手法が、中川の師である鈴木了二が1980年代に試みた「絶対現場」を参照していることは直ちに見て取れる。さらに巨大な模型のつくり方や、参照されている山岸剛の写真は、鈴木了二の一連の「物質試行」のテイストにきわめて近い。おそらくこれも意図的な演出だろう。言うまでもなく、石山修武と鈴木了二は早大建築学科の同級生である。しかも二人が対照的な建築観の持ち主であることを考えれば、石山がそこに「外連」と「あざとさ」を読み取るのは火を見るよりも明らかである。

 

このプレゼンテーションに唯一欠けているのは生活のヴィジョンである。おそらく中川は、家族4人がコンパクトな一室空間で生活している現状を、そのまま外挿しようと考えているのではないか。ならば、それをリノベーションを通じてさらに昂進しプランに反映させるべきだろう。とはいえ僕としては、稚拙であるとはいえ、この住宅リノベーションにおける中川の総合的なアプローチを前向きに評価したい。このようなアプローチをさらに推し進め、守備範囲を拡大して行けば、必ず何らかの形で不連続な「創発」が生じることは間違いないように思う。

01/19

石山修武 第102信 中川純くんの視えやすい外連(けれん)

気がすすまぬままに年が明けてしまったが、何時までも放っておくことは、やはり失礼になるだとうと重い腰を上げた。要するにあんまり作品への悪口みたいなのは書きたくないからだ。悪口、つまりは少々辛口の批評らしきをとうとうと書くには作者の作品らしきは若過ぎる。もろ過ぎるとも言える。それ程わたくしもヒマを持て余しているわけではない。難波和彦さんと相談して若い人の作品評をキチンとやってみようかと考えたのが始まりであった。俗に言う若い人らしきでどうしても書いてみたいという作品も人物も無かったので身近なそれぞれの知り合いを対象にする事にした。今更、見ず知らずの若い他人の作品評をして、火傷を負うのも馬鹿馬鹿しい。それで今回がその最終ラウンドである。わたくしは、わたくしなりに古い言い方で恥ずかしいが弟子とでも言える北園、高木両君の作品評をして得るところがあった。

俺の眼にそんなに狂いは無かったとも考えた。これは自分に対する批評でもある。自分の、若い人々とは言え、人間を視る眼に対する評なのだ。それは自分の人間を視る眼、すなわち透視力のようなモノに対する自信の無さに通じるのである。

建築家はクライアントあっての者であり、他の何者でもありはしない。クライアントによって生かされ、時には殺されるような目にも会う。実に人間臭い商売なのだ。特にわたくしの場合、製図教師でもあったから、実に多くの様々な人材のカケラらしきに会ってきた。それはもう勘弁してくれと言う位に会い続けてきた。学生に典型なのは年を取らぬことである。毎年毎年新しい学生と出会い、ほぼ同じ年頃の少年少女である。少年少女といささか若い人間を馬鹿にした言い方に聞こえるだろうが、そりゃあそうだろう。わたくしは年を取り続け、少しは色々と考え、視る体験も積み重ねるが、若い人はいつまでたっても若い人のまんまである。入れ替わり、立ち替わり若い人なのである。

 

中川純くんもそんな一人なのである。この今も若い人にわたくしはその学生時代に会った記憶がある。早稲田の建築学科卒業制作の発表会というのがあって、そこでその学生時代の作品らしきに会った。確か上位10点程のところにピックアップされていた。

千葉の高速道路近くにある人工雪スキー場の姿を借りたものであった。良く知られた人工物の異形が街の中にポッカリ浮いて出たような構築物を使ったアイデアであったような記憶がある。山っ気のある学生が良くやるタイプの俗なものであった。謂わゆる一発屋タイプである。これは面白いと思い込んだら、その思い込みが演技性を持ってしまうタイプである。わたくしは、その手の学生はもう見飽きていたので俗っぽい才質だなと、こちらも思い込んだ。

人間は愚かな者で、その第一印象は中川純くんにまといついて離れないのである。外連に満ちた一発屋の印象である。それは同君への印象としてはぎ取ることが出来ぬ。今度、難波和彦さんに身近な若い人の作品をいささか見て考えて痛感するのは彼等が池辺陽、難波和彦という日本近代に独自なラインの意味を本当に考えて入所したのかという疑問であった。何もこんなモノ作るのに難波和彦の許に勉強、そしてトレーニングを積む必要は全く無いのではないかと単純に考えたのである。皆、それぞれに勝手な気ママさの中に設計を遊んでいる。そうとしか言い様が無い。難波和彦さんが自由に、でもほとんど何かを賭けてまで遊ぶ創造の才質が無くって、今の箱の家シリーズに没頭しているのではあるまい事は自明の理である。若い頃に一時、石井和紘とパートナーシップを持った事からも知るように、デザインの遊びの何たるかは難波和彦さんくらい知り尽くしている人は他にそんなに居ないだろう。

わたくしだって、石井和紘との附合いにはホトホトと音がする位に手を焼いた経験もあるから、そう言えるのである。一種真剣な遊びとも言えるデザインが内に持つ遊びは、別の見方をすれば方法的求道らしきにも通じてしまう融通無碍を持つモノである。そして遊びは必ず人間に多大のツケを払わせるのが常だ。建築家は特にそうである。

そして、難波和彦の許でトレーニングした筈の若い人達の遊びの水準はわたくしにはとても低い様に感じられたのである。何も賭けられていない。ただの手軽な消費感覚の中の、それこそ安直な遊びに過ぎぬように考えられた。それを言ったら身もフタもあるまいとは少し離れて自覚もする。が、時代の傾向がそうであればある程に、わたくしはそれは嫌なのである。

 

さて又も遠回りの道を横道になりつつある。中川純くんの先品15A(アンペア)の家について。中々に小洒落た命名である。よくある程々の気取りなのだろうか。写真家の山岸剛の東北被災地の写真から自作(プロジェクト)の説明に入ろうとする。彼は東北の津波で破壊され鉄骨の骨組みだけ残り、生活のゴミでもある諸処の消費物の残滓に感じ入り、いきなり唐突に東北の復興活動に関わる事を止めてしまったと記す。この辺りは明らかに俗っぽい受け狙いであろう。止めるんなら黙って止めれば良い。こんな風に自作らしきを自作の意味で飾り立てる目的でそれを言う事はない。

この安手な鉄骨の廃墟イメージは、建築家鈴木了二の「絶対現場」とこれもお洒落な命名が施された表現活動の明らかな分かり易い模倣だろう。鈴木了二の絶対現場は木造建築の廃墟に引き込まれた感性の自己吐露であり、観念の衣を身に纏わせていたが、その実体は良く知らぬ。この廃墟イメージは写真家宮本隆司等と極めて近いモノではあろうが、鈴木了二の絶対現場は木造の小屋組みを使ったとこが味噌であった。木造の捨てられようとする、モノの饐えた匂いや、カビ臭さも写真から勝手に伝わってきて面白かった。木造の壊れる様の中の日本的生活臭とでも言おうか。それは決して気取ったクールさに緊張を与えられたり、テンションをかけられたりして消えてしまうモノではない。カビやホコリの中にしぶとく残ろうとする人間の存在の強さであろう。

これ等の廃墟イメージの身近な元祖は磯崎新である。磯崎新はジョン・ソーンの廃墟図に触発され、それはヨーロッパのデューラーにいたる迄の表現芸術の素であるメランコリアを背骨に隠し持つものである。

映像分野では黒澤明の名作羅生門の冒頭のシーンが、それこそ真底の絶対現場であった。激しい雨の中、木造の羅生門がくずれ、朽ちようとするシーンは強烈な換気力を持っていた。あの映像で黒澤明は決定的な自らの内の質を自覚したのではなかろうか。

中川純くんの15Aのドローイングや模型やらは勿論それ等の伏流らしきはほとんど意識されていない。それは短い解説文からあからさまに伝わってきてしまう。

自分の祖父の、そして父の住み暮らした木造住宅の骨組みを使って、自分の手でリノベーションしようとする計画である。若い人の身近で卑近な歴史や環境を正視しようとする、それが結構受けるのではないかという狙いが明々白々である。わかりやすい。わかりやす過ぎる位に。

 

短い解説文であろうとも、それは作者の品位や知性、そして野心らしきも浮き上がらせる。作者の解説文の文体は実に平板であり、紋切り型のユニットが羅列されて、わたくしには魅力を感じさせなかった。文は人を表すのである。余程用心した方が良い。表現者として生きるのであれば。むしろこの人は寡黙を押し通すべきだろう。セルフ・ビルドの建築の表現はあんまりつたない戦略性、手練手管が見えてしまうと、それこそ命取りになり兼ねぬ。建築的表現の質、以前の人間の質が露出されるからだ。

 

結局、書いてみればこんなザマである。

悪口雑言の集積以外の何者でもないと、不満だろうが、批評はそんなどうしようもない毒を含まざるを得ぬモノでもある。

卒業設計の中川純くんのポンチ絵の印象を最後まで振り払うことが出来なかった。

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Xゼミ・作家作品批評 05

15Aの家 中川純

15Aの家

中川純

 

山岸剛「2011年5月1日、岩手県宮古市田老青砂利」

山岸剛「2013年4月21日 15Aの家 東京都大田区西蒲田」

建築・施工:中川 純   レビ設計室/早稲田大学理工学研究所研究員

構造   :永井 拓生     永井構造計画事務所/滋賀県立大学助教

写真   :山岸 剛   写真家

行動解析 :遠田 敦   東京理科大学助教

回路設計 :渡井大己    早稲田大学大学院文学研究科修士課程

 

建築概要

所在地  :東京都大田区

用途   :専用住宅

構造   :木造

階数   :地上2階

敷地面積 :104.53㎡

建築面積 :40.54㎡

延床面積 :40.54㎡

工事期間 :2012年11月〜(未定

 

「15Aの家」  

2011年5月の中旬に写真家の山岸剛さんのスタジオで東北の写真を見せてもらう機会があった。朱色の錆止めが顕わになった鉄骨の躯体と、そこに絡まる瓦礫の構図にひどく無意識を揺さぶられたことを今でも覚えている。「田老」の写真から建築とは別次元に存在する自然の圧倒的な脅威を感じたわけだが、その脅威の裏側に存在する「美」 を建築(廃墟)というフレームを通して認識した時、「田老」はある問いを発することになる。

東日本大震災の後に多くの建築家が東北に向かったが、私はこの写真を見て復興に関わることをやめてしまった。私の持っている考えらしきが変わらなければ、東北を良くする仕事は出来ないと直感したからだ。一方で、すぐに変わってしまう私の考えとは何か、これは私の理性の根本を問い直すことを意味しており「田老」が突きつけた問題でもある。

 

東京都大田区の住宅密集地に、祖父が建て、父が育った住宅がある。これを自力で耐震補強し、最小限のエネルギーで暮らすことにした。きっかけは震災と原発事故。この死と隣り合わせの問題と共存するためには、今までの仕事と生活を深く反省し、己の身体感覚を手仕事のレベルから鍛え直す必要があると考えた。

設計の条件は3つ。地震に強いこと、30代後半のヤサ男一人で施工可能なこと、家族4人15アンペアで不自由なく暮らせること。

解体現場を通して見えた建築の建築性に対峙し、この建築性を担保したまま技術によって人間の住む環境にしようとするのだけれども、快適な環境には決して達し得ないこの住みにくさに対し、そこに住まう人間の主体的な努力によって乗り越えようとする崇高さを獲得するために、住宅の機能を最小限に抑えつつ、生存に必要な光・熱・風といった環境を、都市という自然から抽出する操作を行った。

 

平面計画

築50 年(増築部35 年)の木造2 階建て住宅を改修する。平屋部分および2 階の床部分を撤去減築し、地震力を軽減させると共に、吹き抜け空間を利用して光と外部風を内部に取り込む。平面計画は一室空間とし、設備の配置は日射環境から導く。

 

15アンペア

「15Aの家」は自らが設定した制約の中で暮らすことを目的とした実験住宅である。タイトルは「立体最小限住宅(池辺陽)」を参照した。大量の帰還兵を抱えていたこと、国土が焦土と化していたことから、早急に住宅を建てることが求められていたが、極端な資材不足によって使用できる材料は木材だけという状況で、法的な縛りによって延床15坪までしか建設が許可されなかった時期があった。また当時は急激な民主化の波によって住まい手の価値観が変わることも予想されたので、必然的に住宅が建築家の課題となった歴史がある。

東日本大震災と福島原発事故を経て、いま私たちが対峙すべき問題は多岐にわたるが、エネルギーの問題は建築に大きな責任があると感じている。オイルショック以降建築の産業部門(工場など)のエネルギー消費量は増えていないにもかかわらず、民生部門(住宅、オフィス、商業施設)のエネルギー消費量は2.5倍に増えた。これに呼応する形で原発が増えていったわけだが、まずは発電施設の数を減らすために建築に何が可能かを考えたい。

発電所の数を減らすためには発電所の「負荷率」をあげる必要がある。負荷率とは平均的な消費エネルギーを瞬間的に発生する最大消費エネルギーで割った値のことで、この値が大きいほどエネルギー消費は平準化され、負荷の高い時間帯だけ稼働する発電施設を減らすことが出来る。ベース電力である原発を減らすことには繋がらないかもしれないが、少なくとも原発を再稼働しなければエネルギーが逼迫するという話に振り回されることはなくなる。ちなみに負荷率を1%改善するだけで約290万kW の発電設備を削減することが可能で、これは福島第一原発の発電量に相当する。

次の図は我が家における2012年夏の代表日の消費電力のグラフである。縦軸は電流値、横軸は時間を表す。15アンペアの制約を設けることは空調の使用に制約があることが分かった。このため空調機によって快適性を担保するのではなく、建築の形態で温熱環境を担保できないか考えた。

ただし厳し条件下では空調機を使うこともあるので、全体の使用量が15Aを超えないようにサイリスタ位相制御装置をコンセントに組み込むと同時に、15Aの制約を無理なく受け入れるため、最大容量に近づくと照明等によって切迫した状況を教えてくれるシステムも合わせて考えた。

省エネについては快適性とセットで検証されることが多かったが、この住宅では省エネと人間行動の直接的な相関を探る研究を行い、広く成果を公開する予定である。

 

耐震改計画

基本方針は、以下の3点である。

a) 屋根仕上げの軽量化と2階床の撤去による重量軽減

b) 1階、2階共通で建物外周耐震壁としての補強

c) 2階床を撤去後吹抜とし、立体格子挿入による補強

建物外周は改修前の1階、2階レベルともに鉄筋ブレースと構造用合板釘打ちにより耐震補強を行う。また、2階レベルの床と、1階の柱のほとんどを撤去し、残った吹抜けの空間に立体格子を挿入して屋根を支持し、水平力を外周に伝達する。この立体格子は半剛接の木造ラーメンのフレームとし、それ自身が水平力に対しても抵抗する機能を持つ。また、この立体格子の各レベル、要所に構造用合板を釘打ちした水平パネルが配置されており、このパネルが立体格子に生じる地震力や風圧力による応力を外周の耐震壁まで伝達させると同時に、環境計画で示すように建物内部の風の流れを制御する役割を持っている。本計画改修案の吹抜け上部の空間に挿入される立体格子状の構造フレームを構成するために、直交長押構法と名付けた構造方法を用いる。この立体格子状のフレームは、それ全体で屋根を支持する小屋組みであり、また水平力を1層部分まで伝達する機能を持たせる。

これは、安価な構造用の木材として普及しているツーバイ材(SPF)を、既存の木造柱に対して直交2方向に挟み込むように配置し、仕上げボルトやドリフトピンなどのファスナーで縫うという方法である。この方法では、柱芯上に打たれたファスナーと、相互に2方向に直交するツーバイ材同士の接触点とで、テコのように曲げモーメントに対して抵抗する仕組みとなっている。

直交長押構法の利点は、施工の簡易さであり、小屋組みや独立柱の補強が非常に容易である。また、筋交いや合板による補強と違って、空間的な障壁となることがなく、既存の柱・梁の骨組みに添えて抱かせるように追加するだけで耐震補強効果を得ることが可能である。また、曲げモーメントを伝達させる木造ラーメン構造の一種としても、ガセットプレートなどの中間冶具もなく、極めてシンプルで簡単な接合方法である。

 

光・熱・風

屋根のバラ板の隙間から落ちる光によって気づく都市の自然もある。そこで太陽放射の光成分を建築の全ての部位に与えるようにポリカーボネートに塗布したセラミック真空バルーンの濃度を調整する。この操作によって透過した熱を想定(現在実測実験中)し、窓、壁からの貫流熱と人体からの発熱を足し合わせた熱を排出する風環境を求める。 環境計画の基本方針を下記に示す。

a) 外皮性能の向上(断熱改修計画)

b) 日射取得と通風の最適化(構造計画との融合)

夏は快適な涼感を得るため、外部風速が平均値と仮定した場合において、生活の中心的な場所となる1階レベルに風速0.5m/s程度の風を流し、屋根面からの放射熱と、窓、壁からの貫流熱、人体からの発熱を足し合わせた熱を排出する風環境を求める。水平パネルは構造の制約からX軸Y軸に通るように配置する必要があり、これらのパネルを有効に配置することによって夏の風をコントロールしつつ、冬の窓面からの日射を最大限に取り込むことを考える。冬場にはこの水平パネルが日射を遮る可能性があるため、両季節で日射量と風速の両方の目標数値をクリアすることが目標となる。

建物内部の風速は、1階キッチン付近にターゲットボリュームを配置し、このボリューム表面に生じる風圧から風速が目標値を満たしているかどうかを算定する。最適化の対象は立体格子の各層への水平パネルの配置である。各層の全面に開口率99.99 %の圧力損失パネルを配置し、内部に流れる風が水平に敷かれた圧力損失パネルを通過する際、ターゲットボリュームに目標値である0.5m/sの風を流すように圧力損失パネルの開口率を圧力に従って変化させながら流体解析を行い、圧力分布を目標値に向かわせるために必要な、水平パネルの圧力損失の感度分布を求める。このパネルは、冬場のために日射を遮らないような配置とする。一方で夏場については、窓からの日射はルーバーなどでコントロールができると仮定し、それに応じて流入風速の軽減を行うこととする。

感度解析の結果、感度の高い箇所にパネルを設ければ十分に設計目標を達成できるが、パネルは構造的にも水平力の伝達機能を持っているため、構造的な意味でのみ必要なパネルは、風速の分布に影響の少ない、感度の低い箇所に配置している。以上により求まったパネル配置を境界条件とした、居室内の順解析の結果を下記に示す。立体格子に挿入された水平パネルが風の渦を起こすことによって、1階部分に0.5m/s程度の風が発生していることが確認できる。あとは居住者が何を乗り越えるか、それが問題である。

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難波和彦 第31信 「アミダハウス 2011」 設計:河内一泰 評

河内一泰が僕のアトリエに所属していたのは、僕が大阪市立大建築学科に赴任した2000年から東京大学建築学科に赴任した2003年までの約3年間だったと記憶している。東京芸術大学建築学科の大学院卒を終了して直ぐに界工作舍に入所した。芸大卒のスタッフは初めてだったので、面接時に入所希望の理由を聞いたところ、「箱の家」のコンセプトそのものよりも、クライアントに対して建築家側から住宅のコンセプトを提案するというスタンスに興味を持ったという回答だった。そのせいかポートフォリオの作品には「箱の家」のコンセプトとの共通性はほとんど見られなかった。

当時は1995年にスタートした「箱の家シリーズ」がようやく軌道に乗り始めた時期で、TOTOギャラリー間の展覧会「箱の構築」の準備を始めたところだった。そこで僕の目論見としては、「箱の家」の設計よりも、展覧会の担当者として採用することにしたのである。「実験住宅アルミエコハウス」の完成直後だったので、展覧会には原寸大の断面詳細モデルや、集成材とアルミの原寸大フレームを設営することにした。フットボール部出身の河内は、他のスタッフと協力して作業を難なくこなしてくれた。彼は展覧会のカタログづくりも担当したが、カタログ・デザインを依頼した故・田中一光の仕事を何も知らなかったために不躾な対応をして叱責を受け、何度も冷や汗をかかされたことを懐かしく思い出す。歴史を知らないことの大胆さと怖さである。

当時は界工作舍がもっとも忙しい時期で、「箱の家」は50番台に差し掛かってかかっていた。ローコストのための標準化、一室空間住居というライフスタイル、高性能とコストパフォーマンスといった一連のコンセプトを統合し「サステイナブルな箱の家」へと進化させようとする転換期だった。「箱の家」では、番号が進む毎に少しずつ新しい技術をとり入れてきた。アルミニウム、エンジニアリング・ウッド、外断熱構法、水蓄熱式床暖房、通気層構法、屋上緑化、天窓による負圧換気といったサステイナブル・デザイン技術を予算が許す限りとり入れるようにしていた。このため慣れない工務店では工事がスムースに進まず、工期が遅れ気味になることもよく生じた。そうした中で、建築家という職能について考えさせられる印象深い経験をした。

体力と行動力のある河内は、工期の遅れに責任を感じて現場の職人に混じって工事を手伝うこともしばしばあった。竣工引渡が差し迫った頃に、クライアントから一通のメールが届いた。河内が現場工事を手伝っていることに対するクレームだった。メールにはこう書かれていた。
「界工作舍に依頼したのは設計と現場工事の監理であり、工事を依頼してはいない。したがって、素人に現場工事をさせないでもらいたい」。
自主的に工事を手伝った河内は少なからず驚いたようだった。良かれと思ってとった行動が、逆に非難されてしまったからである。このメッセージを、建築家という職能の明確化として前向きに受け取るか(僕はそう受けとめた)、あるいは教条的な主張と受け取るか、判断の難しいところである。果たして建築家は「考える人」であり、「つくる人」ではないのだろうか。これはルネサンスのブルネッレスキ以来、問われ続けてきた問題だといってよい。

しかしながら河内は、今でも当時のようなスタンスを変えていないように見える。通常の職人以上の体力を持っているため、独立後も建築家と職人を結びつけるような仕事を展開している。もっとも典型的な仕事は自邸の改装である。結婚して都心の密集住宅地に建つ小さな木造住宅を購入した河内は、それを職住近接の建物に改装した。その住宅は斜面に建っているので、彼はまず基礎部分を自力で掘り下げ、半地下室を増築した。次に、アルミニウム・フレームのシステムによって建物全体を覆いダブルスキンとした。さすがにフレームの建方工事は工務店に依頼したらしい。しかし外装のポリカ波板の取り付けや3階の増築はスタッフと一緒に自力で工事したという。
http://www.kkas.sakura.ne.jp/?cat=10

河内は独立して今日までの10年間に、住宅の設計だけでなく家具や照明器具、店舗の内装、インスタレーション、パフォーマンスなど多様な活動を展開してきた。独立した直後は「箱の家」の環境的なコンセプトには興味を持たず、箱型の形態を強引にモディファイした住宅を設計していた。しかし、最近作であるアミダハウスでは、そうした傾向から抜け出し、新しい段階にステップアップしているように見える。外観は単純な箱型だが、内部空間は錯綜している。平面は東西に細長い3列のストライプ上のゾーンに分割され、中央のストライプの両側に異なるレベルの14枚のスラブが差し込まれている。3列のストライプ空間は、階段を組み込んだ北側の動線ゾーンによって繋がれている。スラブ相互は中央のガラス張りのストライプ・ゾーンによって視覚的に繋つながれ、室内空間全体が視線の高さの相違によって柔らかく分節されている。1階の水回りもこの一室空間に取り込まれているが、床のレベル差によってリビングやダイニングキッチンからは見えないようになっている。「単純な箱の中の錯綜した一室空間住居」がこの住宅の中心テーマであり、その点は「箱の家」のコンセプトと共通しているが、ずっとフォトジェニックだといってよい。

とはいえ「箱の家」とは大きく異なる点もある。前面道路に対して完全に閉じている点である。建物と北側の前面道路の間には屋外駐車場が置かれているが、道路側の外壁には小さな窓があるだけで、閉鎖的で無表情なファサードになっている。西側のファサードは全面的に開放されているが、これは富士山に向かう視線を確保するためである。1階の西側のガレージも外に開かれているが、道路からは巧妙に隠されている。私見では、前面道路に対する閉鎖性は、地域社会に対する閉鎖性にほかならない。前面道路に対して閉じることは、交通騒音を遮断し外部空間からセキュリティやプライバシーを守るためである。道路に面した北側に動線ゾーンを配置したことからもその意図が読み取れる。しかし、アミダハウスのような住宅が並んだとき、街並の景観はどうなるだろうか。

現代の住宅においては、おそらくクライアントのほとんどが同じような条件を要求するだろう。その結果、内部をまったく伺うことのできない、壁のようなファサードがうみ出されることになる。事実、現代の住宅地の景観をつくり出しているのは、この論理(通説)である。それは否定し難い説得力を持っているように思える。しかしながら、そのような通説を疑うことが建築家の社会的役割ではないか。個別の住宅のデザインを社会的に捉え直しことができるのは建築家だけである。

気候制御に対する考え方にも微妙な違いがある。詳細図からは詳しく読み取れないが、屋上緑化に対して外壁の断熱性能はそれほど確保されていないように見える。東西の開放性は夏期の朝夕の日射に対して無防備であり、庇のある南面はなぜか閉じられている。切り除け庇のない東西の窓は、梅雨時には通風機能を十分に発揮できないだろう。

河内は、床レベルの操作によってもたらされるアミダハウスの立体的な空間を、ル・コルビュジエのドミノシステムと比較しながら、「自由な断面」の有効性を主張している。これは近代建築の開放的な空間を断面にも適用しようという試みだろう。その意図は十分に理解できるし、現実にも実現されていると思う。しかし、アミダハウスは果たしてドミノシステムの可能性を拡大しているだろうか。ル・コルビュジエがドミノシステムを提案した歴史的背景について改めて考えてみよう。まず、ドミノシステムはオーギュスト・ペレーが主張したプレモダンな「縦の空間」に代わる近代的な「水平の空間」の提案だった。「自由な平面」と「水平な窓」は、その具体的なデザイン・ボキャブラリーの提案であり、アミダハウスにおいてもかろうじて踏襲されている。しかしもうひとつの点を忘れることはできない。ドミノシステムは第一次大戦後の住宅難の解決をめざして住宅を大量供給するための工業生産化住宅のプロトタイプの提案だったことである。ドミノシステムはそのための標準化された「スケルトン・システム」であり、「自由な平面」「水平な窓」「自由な立面」は工業化部品の「インフィル・システム」によって実現される構想だった。つまり、近代建築の五原則は、近代的な工業技術による近代的な空間の提案だったのである。河内の理解は、前者にのみ注目しており、片手落ちというしかない。アミダハウスが一見プロトタイプのように見えて、実際にはきわめて個別的な解であるのは、そのためである。

最後に、石山修武さんの評について簡単にコメントしておく。石山さんは、八田利也の『小住宅ばんざい』を引きながら、現代の住宅設計のあり方について論じようとしている。八田利也は、この本において、戦後モダニストたちが終戦直後の核家族化を中心とする民主的家族像に対して提案した一連の小住宅の歴史的限界について、アイロニーを交えながら論じている。その背景には、住宅設計というジャンルの限界に関する意識があったように思える。要するに「〈住宅〉は〈建築〉ではない」というアドルフ・ロース的な建築観である。石山さんも指摘するように、この問題は現在でも依然として論じる意味がある。しかし、それは『小住宅ばんざい』が論じたのとは異なる様相においてである。僕たちが置かれている歴史的状況は、当時とはまったく異なっている。戦後に日本の住宅が辿ってきた歴史は、世界的に見てもきわめて特殊である。目に見えるハードな建築が目に見えないソフトなアークキテクチャーに取り込まれつつある時代状況もうまれている。そのような状況の中で、西欧的で古典的な建築概念を適用することに意味があるのだろうか。この点については、石山さんの論の展開をみてから、あらためて検討することにしよう。

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石山修武 第101信 河内一泰「アミダハウス」作品評

「小住宅バンザイ再考Ⅰ」

作者は設計要旨でコルビュジェのドミノシステムを引いている。コルビュジェがドミノをプロパガンダとして発表したのは1914年である。しかし、建築史家の中にはどうやらその年代は怪しいぞと言う者もいる。コルビュジェは、住宅をその本来的な資質である造形的理念よりもより社会的意味合いの中に置こうとする、作家の本性に反する無理を見てとっての事であろう。コルビュジェはプロパガンダ=自己宣伝に異常な情熱と才能を発揮した人間である。

日本の近代では1970年代であったか伊東豊雄がドミノシステムに関心を示し、シンプルな箱形の小住宅を発表した。それはドミノと言うよりも外壁に使用したアスロック板の無表情なテクスチャーに惹かれての、マテリアル表現主義的傾向が大きな作者のウェイトを占めていたように思う。

伊東豊雄は傾倒していた住宅作家篠原一男の初期の、小田急デパートでの展覧会における複製住宅プロジェクトに習い、この箱型の家の幾つかの連作を企てたように記憶しているが、その連作は実現しなかった。

河内一泰さんのアミダハウスはそんなコルビュジェのプロパガンダの本質とは無関係なモノであるように思う。ドミノとアミダとは、これが今風な気質なのか流行なのかといぶかしむ位の単純なギャグのようなものである。横のモノをタテにした如くの考えだけれどこれはアトからの説明のための言葉の遊びだろう。

ドミノをプロパガンダしたコルビュジェの1928年の住宅サヴォワ邸の大きさは建築面積410㎡程、延床面積500㎡程である。1916年、シュウォブ邸は建築面積250㎡、延床面積780㎡。1922年のオザンファン邸は建築面積80㎡、延床面積240㎡。1923年ラ・ロッシュージャンヌレ邸は建築面積270㎡、延床面積690㎡である。

それに対して、河内一泰さん設計のアミダハウスは建築面積63㎡、延床面積115㎡である。これはちなみにサヴォワ邸の門番小屋の建築面積35㎡、延床面積45㎡よりは少し広い。

しかし、コルビュジェにとっては謂わゆる住宅の大きさではなくて、やはり門番小屋という小屋に類するモノであったろう。

 

つまり、河内一泰さんのアミダハウスはコルビュジェがプロパガンダのために思い描いたドミノとは全く別種の世界の産物なのではあるまいか。

 

1970年代、わたくしは初めてアメリカ西海岸から2"×4"住宅を輸入した。その時アメリカの工務店のオヤジに部材のアッセンブルを依頼した。電話でのやり取りに下駄箱とは何か?とか、何故平屋じゃなくて2階建なんだとトンチンカンなすれ違いがあったので日本に呼んだ。一日新幹線の窓から日本の小住宅群を観察させた。

「オーッ、石山。あの丘の上に建っているのは何が住んでいるんだ??!」の?にわたくしは仰天した。アイダホ州のオヤジには丘の上の日本の小住宅群が不思議な家畜の小屋のように眼に写っているのを知った。

河内一泰さんのアミダハウスをそんな風に例えるのは今は心苦しいが、外国人の眼にはそのようなモノに写るのではないか。決してヨーロッパの建築作品の歴史との脈絡の中の住宅とは眼に写るまい。これは日本独特の建築家による狭小住宅である。

 

日本文化の特異性のひとつに縮み志向が言われる。自動車も電化製品もどんどん小型化して独自な商品を作り上げると言うものだ。

アミダハウスは幅1820mm(芯々)の中廊下を客室としたり、バスルームとしたりで驚く程の工夫を積み上げて成立している。そして写真でも図面でもハシゴが眼につく。作者はハシゴフェティッシュ(愛好家)なのであろうか。施主は一般的には昇り降りの道具としてのハシゴをそれ程に好むとは考えられない。だから、これは作者の苦しまぎれとも言えぬ奇妙な工夫の表れなのであろう。けれど、この狭小住宅はハシゴによって成立してもいよう。

 

フィンランド・ヘルシンキのアルヴァ・アアルト自邸にも一階暖炉わきにハシゴがあって2階の寝室だったかの登り降り用に遊びの如くにしつらえてあった。これは上手いなあと脱帽した。

豊かであるが故に時に退屈でもあるだろう生活の中に、庭遊びの延長のようなモノとしてしつらえられてあった。ハシゴの近くの壁には麦ワラ帽子とT定規そして木製の三角定規がディスプレイされていた。うらやましかった。

ヘルシンキと言う都市とは言え、自然と共生して暮らすたおやかさがあった。

 

アアルトのハシゴまで持ち出して、ハシゴをよじ登っての高見からのイヤ味を言おうとしているのではない。富士山麓御殿場と言えども住宅地には日本特有な荒れた人工的な擬似自然しかないだろう。この狭小住宅を見て、驚くべき工夫、努力は認めなければならない。

学生時代にわたくしが尊敬していた建築史家・渡辺保忠は日本の庶民住宅、特に都市型商店兼住宅の現れ方に関して次のように教えた。

日本の庶民、つまり建築教育等受けていない人々の歴史感覚は鋭敏であった。謂わゆる看板建築の街路に面した部分、つまり正面だが、それを四角の看板状にして裏に従来の継続してきた家型のスタイルをいわば隠した。四角い箱型の表向きな形態にモダーンなものを感受したからだ。モダーンなモノという移植された趣向の風向きにある種の都市化された商業性をも含むファッション性を嗅ぎ取っていた。この伝を借りて言えば、アミダハウスは今の世の相変わらずにモダーンな趣向の中にあるモノなのだろう。

 

河内一泰さんは難波和彦さんの許で実務をトレーニングしたキャリアを持つようである。そのキャリアを考えればこのアミダハウスは池辺陽、難波和彦と続く日本の小住宅、つまりは庶民住宅を考究する建築家あるいは技術的思考の系譜にあるのかとも思われるが、再びそれを逸脱している。

池辺等の小住宅派とも呼べる一連の住宅群に対しては、磯崎新の「小住宅バンザイ」の批評が良く知られる。

磯崎新らしい、自らの視線を日本の現実の外からに置いたアイロニカルなこれも論説である。

わたくしなりに少し計り強引に訳すとこうなる。

「わたくし(磯崎新)は小住宅設計を建築作品を作る大きな道とは考えていない。これは日本近代の政策であった持家制度の悪しき平板な民主主義的施策がもたらせたモノだ。小住宅を設計する建築家らしきの大半が大学の教師との二足のワラジをはいた種族でもあり、彼らは本格的な仕事に恵まれず、やむなく小住宅の設計にベンベンと従っているに過ぎない。」

別稿Xゼミナール、作家論・磯崎新にも記したエピソードであるが、この小住宅バンザイの続編があり、これは池辺陽VS磯崎新ではなく篠原一男VS磯崎新であった。一読して下されば良いが要約すると、

磯崎「ボクは住宅は建築家がまっとうにやるべき対象ではないと考えている。ヨーロッパでは公共建築をヤル人間を建築家と呼ぶ」

篠原「それではわたしはこの席に居ない方が良い。失礼する」

まさに小住宅バンザイのクライマックスであった。

下世話な評であるが双方共に横綱相撲を演じた。

観客は伊東、石井、石山等の当時若僧のガキ建築家であった。磯崎、篠原共に少ない観客ではあったが、我々にその意地と度胸を充分に見せつけたのであった。だが歴然と歴史の一コマに残る大芝居でもあった。

 

アミダハウスの河内一泰さんの仕事をかくの如き日本の小住宅の歴史の中に置けるものなのかは知らない。恐らくはその位置を獲得するには至らぬであろう。

ならば、何故ワザワザXゼミナールの土俵に上げて論ずるのか?

わたくしは日本特有の小住宅設計のすでに近代の歴史のひとつの部分でもある問題は大いに論ずるに足る問題であると考えるからである。本当に心から小住宅バンザイとつぶやけるようにするのには小住宅を作品として作り続ける努力の他に、より大きな協同の戦略が必要なのではあるまいか。

それは次回に述べる。

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Xゼミ・作家作品批評 04

アミダハウス 河内一泰

アミダハウス

河内建築設計事務所 河内一泰

 

設計 建築・監理/河内一泰 河内建築設計事務所

 

建築概要

所在地  :静岡県御殿場市

用途   :住宅

構造   :木造

敷地面積 :187.35㎡

建築面積 :62.94㎡

延床面積 :115.52㎡

 

五原則の外側

コルビジェの近代建築の五原則には「自由な平面」「自由な立面」はあるのに「自由な断面」はない。なぜか?

コルビジェは五原則のなかで、「ピロティ」は下へ、「自由な平面」「水平窓」「自由な立面」は横方向へ、「屋上庭園」は上へと、立体的な空間のつながりを示唆している。一方でドミノシステムは積層する床が柱によって支えられ、壁はない。「自由な平面」を効率よく確保するシステムである。しかし、平面を優先すると断面は単調になものとなり、断面を豊かにした建築は平面が分断される。つまり「自由な平面」と「自由な断面」は両立することが難しい。その結果、床優先の現代においては「自由な断面」は原則の外側に追いやられ、床によって空間が分断されてしまった。

 

ドミノとアミダ

一般的な住宅においても同じように床が優先される。上下の生活は床によって分断され、タテ動線としての階段がわずかにつながっているのみである。この建築では立体的な空間のつながりを取り戻すべく「自由な断面」をつくろうとしている。ドミノシステムの柱はそのままに床をスライドさせる。床面積は変えずに上下の空間をつなぎ、いろいろな高さの生活が混じり合う空間。「ドミノ」をずらして「アミダ」。私はこの建築を「アミダハウス」と名付けた。

 

敷地は静岡県御殿場市の住宅地にあり、敷地西側に富士山を望むことができるが、高さ6.5mの隣家が塞いでいる。「富士山を眺めるリビングがほしい」という施主の要望から、最初に高さ9mの箱を設定し、地上6mにリビングの床を置いた。箱の中にはバイクガレージや寝室、テラスなど、全部で14の床を散りばめている。構造は一般的な在来木造で、耐力壁は建物外周部にまとめ、間仕切壁をなくし、ひとつながりの空間にしている。玄関を中間の高さに設け、上半分をLDKやテラスなどのパブリックゾーン、下半分を寝室、浴室などのプライベートゾーンとしている。ガラスで仕切られた浴室はパブリックゾーンからは見えない。また、収納の天板も物を飾る床として見えるように、構造の床を支えるポスト柱(スチール角棒45x45)を1820ピッチとし、スラブ厚を抑えている。逆に非構造の棚板は必要以上に厚くすることで床同士の印象を近づけている。人間が生活する大きな床や、物が置かれた小さな床、その向こうに空けられた水平窓からは隣家や空が見える。さまざまな生活の断面が織り重なり、密度の高い風景をつくりだしている。

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難波和彦 第30信 「博多百年蔵の再生、2006〜」 設計:高木正三郎 評

「リノベーションのリノベーション」

微かな記憶を辿ると、高木正三郎さんに初めて出会ったのは、確か石山さんが佐賀で開催していた早稲田バウハウススクールにおいてだったと思う。当時は石山研究室の助手で、朴訥とした雰囲気だが、早稲田大学卒の学生にしては分厚い眼鏡をかけた秀才という印象だった。

 

佐賀の早稲田バウハウススクールは数年間のあいだ毎年開催され、参加者は学生と社会人が半々で、約2週間のあいだ泊まり込みでワークショップを行うという学校だった。インターネットでドイツのワーマールと同時中継で最終講評会を行ったり、上海でワークショップを開催したこともある。なぜか僕は常任講師に据えられ、すべてのプログラムに参加した。もちろん毎回レクチャーもさせられた。大学教員として必要不可欠な、設計課題の指導や講評の方法、あるいはレクチャーの仕方などは、すべてそこで学んだような気がする。高木さんは、そうした僕の貴重な経験を傍で見守っていた。高木さんは、石山研の助手を辞めた後に、早稲田大学理工学総合研究センター九州研究所客員講師に就任し、故郷の博多でアトリエ「設計+制作/建築巧房」を開き今日に至っている。

(http://www.kooobooo.net/index.html)

 

「博多百年蔵の再生」は2006年に始まり、現在も続けられている古い酒蔵のリノベーションである。通常のリノベーションは1回で完了するものだが、このプロジェクトは、それまでも続いていた貸ホールや結婚式場としての営業を続けながら、盆と正月の商閑期に少しずつ手を加え、機能や構造を追加・変更・補強していくという、時間をかけるプロセスで進められている。したがって、以前のリノベーションで手を加えた部分を、後に再びリノベーションするという手の込んだ作業も行われている、いわばリノベーションのリノベーションでもある。

(http://www.kooobooo.net/kooboo/kousakurireki/100nengura/100nengura_renovhistry.html)

 

なぜ、このような手の込んだリノベーションが実現したのだろうか。それは、実際の仕事を見ても分かるように、高木の「設計+制作/建築巧房」が、地元福岡に本拠を置き、建築の設計だけでなく、職人やアーティストをネットワークし、自らも部品を製作する工房的な仕事を展開しているからである。さらに重要な要因は、クライアントと高木との緊密な信頼関係にあると推察する。高木の設計要旨やHPの文章を読めば分かることだが、その文体から彼を支えている高度なliberal artsが感取される。クライアントは、そのような彼の感性に惹かれたのだろう。

 

リノベーションという仕事は、通常の建築デザインに比べると格段に複雑である。それをこなすには繊細な眼と大胆な決断力が求められる。リノベーションにおける設計条件は、何もない更地ではなく、既に存在する建物である。したがって、まずその成り立ちを理解することから始めねばならない。既存の建物は、誰かが設計し建設した存在であり、さらにそこには長年の風雨と使用による時間的変化が集積している。そこから構造や性能など物理的な条件だけでなく、設計した人や建設した人の意図と、完成後の時間の経過を読まねばならない。その上で、既存の条件の可能性を抽き出し、そこに自分の意図を重ね合わせることになる。つまるところリノベーションとは、時間という他者との対話である。このクライアントは、高木の中にそのポテンシアルを見出したのに違いない。

 

デザインのひとつのジャンルとして、リノベーションが本格的に注目されるようになったのは1990年代である。1960年代から70年代にかけての高度経済成長期には、既存の建物を解体し、新しい建物を建てるスクラップ・アンド・ビルドが主流だった。経済成長が緩やかになり一定レベルの性能を持った建物のストックが飽和状態に達したとき、既存の建物を活用するリノベーションが注目されるようになったのである。

当初の課題は、オフィス需要が飽和状態に達し、都心のオフィスが過剰になるといわれた「2003年問題」の解決として提案されたコンバージョン、すなわちオフィスを集合住宅に転用するリノベーションだった。コンバージョン事例の現地調査のために、石山と東大の松村秀一の3人でイタリアのミラノを訪ねたことがあるが、ほぼすべての建物がリノベーションである町を見て、呆れ返った経験がある。ヨーロッパやアメリカでは、リノベーションは日常茶飯事であり、リノベーション産業さえ確立していた。建築デザインにおいて、リノベーションとは、むしろ通常の状態ではないか。その点の発見が、最大の収穫だった。

 

日本において、リノベーションを本格的に論じた『リノベーション・スタディーズ』(五十嵐太郎:編 LIXL出版)が出版されたとき、その書評に僕はこう書いた。

 

本書を読んでいると、リノベーションとは、単に上で述べたような社会的・都市的問題に対する対症療法ではなく、もっと根本的な、物事を計画し製作する際のスタンスの変化を示しているように思えてくる。一言で言うなら、それは既にあるものを微細に観察すること、すなわち「注視」から出発する態度である。確かに通常の設計やデザインにおいても、設計条件を詳細に検討することは重要な作業である。しかし重点はあくまで「何をつくるか」にあり、設計条件の検討はそのための手段に過ぎない。一方、リノベーションにおいては、むしろ既存条件の注視が大きな比重を占める。最終的にでき上がるものは、既存条件との対話の結果であり、単一な「何か」ではない。したがってリノベーションにおいては、歴史的な視点が決定的な重要性を持つようになる。既存の建築や都市がどのような経緯でそこに存在しているかを知ることは、今後それをどのように変えていくかを知るための重要な条件になるからである。

このようなスタンスを突きつめていくと、いわゆる建築的リノベーションにとどまらず、すべての事象をリノベーションとして見る「リノベーション的視点」のようなものが生じてくる。本書の編者の隠された意図は、実はそのあたりにあるのではないか。そしてそれは戦後60年間に蓄積された膨大な社会的ストックを前にした世代の必然的な反応ではないかと思う。 リノベーション的視点は、既存条件を価値判断抜きにクールにとらえる。そして既存条件の微細なシステムを読み取り、それに何らかの操作を加えることによって別のものへと転換させる。つまりリノベーション的視点とは一種の知的なゲームなのである。ゲームの楽しさは結果にではなくプロセスにある。そして本書に対して僕が微かに違和感を抱くのは、その点なのである。 

「注視から出発すること」建築文化2003年8月号

 

リノベーションは「作品」になりうるのだろうか。とりわけ繊細な仕事である「博多百年蔵の再生」を見ていると、そういう疑問が湧いてくる。2006年以来、手を加えられてきたのは、あくまで建物の「部分」である。建物全体が重要文化財である以上、構造や外装に本格的に手を入れるような改築や変更は許されない。したがって、どこまでいっても、高木の仕事の全体像が浮かび上がることはない。というか、全体像を見せないようにデザインすることが、この仕事の要点なのである。おそらく、実際に訪れたとしても、全体像は見えないだろうと想像する。しかしながら、手を加えられた部分においては、既存の建物との連続性と対比がクリアに演出され、高木の意図をはっきりと読み取ることができる。ひとつひとつの仕事が、職人のあるいは高木自身の手作業による、密度の濃い作品である。それらの部分の集合は「百年酒蔵」という舞台の上で、それぞれの役を演じている演者のように見える。そして、舞台のメタファーに従うなら、これからも続くであろう物語のシナリオのデザインこそが、目に見えない高木の作品の全体像ではないかと思う。

11/15

石山修武 第100信 高木正三郎「博多百年蔵の再生、2006〜」作品評

高木正三郎さんの博多百年蔵の仕事はいまだに実見してはいない。今度資料を送っていただき写真データ他でその一端を知る事ができた。

不思議としか言い様のない感銘を受けた。どんな不思議さかと言えば創作家の資質は実に幅広く多様である―−の不思議さである。第一回の作品批評に登場した北園徹さんと同様に高木正三郎さんもわたくしの初期の研究室活動の大学院学生であり、引き続きスタッフとしてわたくしの創作活動を支えてくれた人材でもある。

高木正三郎さんの記憶に強く残るのは1999年から三年間続けた九州佐賀での、早稲田バウハウス・スクールでの小レクチャーである。佐賀でのスクールはワイマールのバウハウス建築大学との共催で佐賀県及び国に多大の支援をいただいた。毎年ワイマールからの学生も含めて全国津々浦々から百名程の学生社会人の参加を得た。ほぼ一ヶ月を校舎、宿舎での生活を含めて寝食を共にして建築を学んだ。そこでわたくしは全ての参加して下さった先生方の講義も聴くことができた。バウハウスのカリン・ヤシケ先生、ヨルク・グライター先生、そしてゲルト・ツィンマーマン学長の講義などには大きな刺激を受けたりもした。設計製図の実技がメインのプログラムではあったが、午前中は全て参加して下さった先生方の講義にあてた。先生方には設計製図のクリティークにも参加していただいた。だから、わたくしは学生社会人のみならず先生方の資質、才質の大方を知る事も出来た。

高木正三郎さんには若いティーチング・アシスタントとして小講義を課した。指導に参加する以上、その場当たりの思い付き程度の言葉は役に立たぬからだ。指導することは指導する人間の才質も浮き彫りにするのは理の当然であるからだ。小講義と言えども、緊張して臨む人間の言説は当人の才質の輪郭を浮き彫りにさせてしまう。言説が浮いている人間とそれが行動に密着はしなくとも、少しでもそれに近付きたいと願っている人間との差異ぐらいは見てとれるものなのだ。とどのつまりは人間が人間を視るという真剣勝負なのである。

 

高木正三郎さんの小講義は東洋医学と西洋医学について、あるいは漢方医療的設計方法についてというものであった。川の流れの設計、護岸、小ダム、堰等の在り方について、今振り返れば随分に初歩的でプリミティブな考えを述べたような記憶がある。しかし、わたくしには面白かった。この人材の資質の中枢の如くをのぞき視る風があったから。それに引き続いての台北の建築家・李祖原の沖縄での講義も漢方とタントラの関係についてというようなものであったが、遠くで深い関係がありそうな気もしたのである。つまり勝手な妄想をうごめかせるが高木正三郎さんは将来、朝鮮半島や中国大陸北部に仕事を展開するならば、九州に居ながらにして別のグレードの国際性を獲得し得るのではないかと想ったりもした。九州は東京よりも朝鮮半島に近い。そして中国大陸にも。

博多百年蔵の再生2006〜に映像ではあるが接して再びその想いを強くした。ヨルク・グライターがその住宅のオーナーと友人であったのでヴェネチアのカルロ・スカルパの最初期の住宅を克明に見学させていただいた事がある。誰もが知るようにヴェネチアの建築家の仕事は実に厳しい。たしかヴェネチアでの初めてのスカルパの仕事であった。成熟期、そして後期のカルロ・スカルパの設計に視られる豊潤さは、勿論視られなかった。スカルパと言えども年齢と体験を積み重ねるのは必須な事であったのを実感した。建築の外観はヴェネチアにおいては建築家はほとんど全く手を加える事ができぬのだから、スカルパのデザイン力も第一作のものは全て内部の造作、および家具のデザインに集中していた。その個々の断片状は強く全体を統轄するにいたってはないが、それでもその部分部分はすでに後年のスカルパのスタイルそのものであった。アドリア海の宝ヴェネチアの都市そのものが建築の内部に発酵させる、それこそ都市の歴史に内在する視えないインフラストラクチャーの如くと呼びたい都市的な感性の表出がそこにはあった。

高木正三郎さんの博多百年蔵の仕事は遠くでどうやらその感触らしきがある。この仕事は延々と続けられるものになるであろう。そして、そうしなければならぬ必然もある。あと10年程もこの仕事が持続すれば、これは歴然として高木正三郎さんの代表作の一つになることは間違いがない。なにしろ博多という都市の歴史とこの仕事はそれこそ密着している僥倖を持つ。こんな仕事はそう簡単に巡り合えるものではない。

カルロ・スカルパの第一作のヴェネチアのアパートメントハウスと同様に、映像から受ける印象からだけではあるが、この百年蔵のデザインの個々はまだ断片的であり、総合的な統一調和の気配は感じ得ない。しかし個々の断片はすでに断片自体がそれを欲しているように見受けられる。

高木正三郎さんは森川嘉一郎さんと共に、長くヴェネチアに滞在した経験がある。正反対の資質の長期の同室は大変だったであろう。二人はヴェネチアビエンナーレの展示の仕事に従事した。その間に森川嘉一郎さんはともかく、高木正三郎さんは恐らくカルロ・スカルパの仕事を綿密に体験したであろう。良質な受容能力も又才質のひとつである。

それ故にであろう、博多百年蔵の2010年の仕事である主蔵入り口大扉のデザイン、や2006年の真鍮の引き違い戸など、家具のデザインにはカルロ・スカルパが色濃くにじんでいるように思う。が、しかしそれは決して悪い事ではない。それは高木正三郎さんが決して唐変木ではあり得ぬ感性の持主である事の証しである。しかし、2008年のアルミ2tの鍛造やら、2007年の真鍮による高砂金屏風などを見るにつけ、古い木造建築と金属による仕事との折合いの困難な事を思いやるばかりである。年を経た木そのものが持つ霊気とも呼べる何者かは、まさにアニミズムそのものだ。工業製品は錆びる事以外にそれを獲得し得ぬのかと、これはわたくしにとっても重要な問題なのだが、その重要性を高木正三郎さんの作品は思い知らせてくれた。

カルロ・スカルパの木と金属の組合わせは例えば小さなキャナルに架けられた小さな橋のディテールに視受けられるように装飾であるのか接合部の強度に必然であるのか見分けがつかぬところ迄融け込み、あたかもその部分に物神が宿るかの趣きさえある。そう想うわたくしの側の問題も無くはないが、別に恥入ることもあるまい。デザイナーの名は失念したけれど、確かフィンランドの家具デザイナーであったが、OLD&NEW、すなわち新材と古材の組合わせをテーマにした人間がいた事を想い出す。

設計概要書において時間差を高木さんは述べている。この時間差は建築内部の諸要素に対して意識すると同時に建築外部の謂わゆる外構部、庭園部に拡げてゆく事が可能なのではないか。その部分のデザインがいまひとつ力が入っていないのではあるまいか。建築と博多という都市を結びつけ得るのは歴史という時間の連続を介すると共に庭や塀、外構に対する留意がより大きくあるべきではないか。それと関連して2009年の仕事である屋外広告塔の改良デザインは更に続行すべきではないか。広告媒体装置そのものは極めて近現代的なそれこそ機能を要求される。それ故博多百年蔵の歴史の中でもこの建築が持つ歴史の中でも、最も新しくあらざるを得ないモノだろう。今の改良案がベストでないのは高木正三郎さんも良く知るのであろうが更なるアイデアが必要なのではあるまいか。

文化財保護法との関係もあり、広告塔のデザインの問題は重要である。ともあれ、そのような問題を含みながらも高木正三郎さんは現代において建築創作者が取り組む問題としては最良、しかるが故に難易度の最も高い仕事に取り組んでいる最中であるのは間違いない。その将来の成果に期待しつつ、わたくしの問題としても考えてみたいと思う。

 

おわりに、遠くて、しかし近い問題の事例として田窪恭治の「林檎の礼拝堂」を挙げておきたい。ノルマンディーの古い小さな礼拝堂を異常な情熱をもって再生、保存、そしてそれに自己表現を加えた仕事である。田窪恭治の「林檎の礼拝堂」は少し芸術作品へと急ぎ過ぎた表現であった。高木正三郎さんの博多百年蔵再生2006〜は、建築の分野からのより深い身近な都市の伝統との接続の意味合いにおいて重要なモノになっていくであろう。

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Xゼミ・作家作品批評 03

博多百年蔵の再生 2006〜 高木正三郎

博多百年蔵の再生 2006〜

建築巧房(2006年〜内外部の改築) 高木正三郎

 

設計・監理・監修:設計+制作/建築巧房(2006年〜内外部の改築) 高木正三郎

 

建築概要

所在地  :福岡県福岡市博多区堅粕

用途   :酒造/ホール

構造   :木造/一部鉄骨による後年の補強

敷地面積 :3617.26㎡

建築面積 :2195.5㎡(既存)

延床面積 :2935.9㎡(既存)

建築年  :明治3年1872年

登録有形文化財(平成21年)

 

黒田官兵衛が関ヶ原合戦の後に博多に移封された際に、岡山から随行してきた一族によって、この酒造場は営まれてきた。いうまでもなく、酒造業という産業は高度成長期と共に、斜陽を仰ぎ、有無を言わされず、量的陶太の道に揉まれてきた。その中で、この酒造場は酒蔵という建物を用いて、現代を生き抜いてきた。

酒蔵という木造大空間を生かして、披露宴、宴会やコンサート、売り場、会議といったホール機能を展開しながら、その都度に機能的、意匠的な不足を少しずつ加算していく。そのような体勢が、2006年に私が関わり始める少し前から整えられつつ、今に至っている。

盆正月という年二回の商閑期に、比較的大工事を行う。内容は、単純な壁や屋根の修繕から、機能上、意匠上の増強のための新たな空間の付加工事(あくまでも室内を仕切ったり、減らしたり)などがある。同様の理由で、椅子やテーブルなどの什器備品も都度に必要となり、既製品ではなく造作物が求められる。

少しずつ加えられ続けるということは、デザインは多かれ少なかれ時間差を伴う。通奏部分と差異を分別することになる。オーナーからの要望は 「博多らしさ、酒蔵らしさ、日本らしさ、でも新しく。」

この文言をそのまま、ルールの底辺として憶念している。素材を踏襲するために杉や漆喰でとなれば、カタチは現代的であるように。肉太の既存フレームに対して細身さを、あるいは、その水平垂直性に対して、斜材を添える。一方、踏襲されたこれらの素材に、アルミやステンレスや真鍮、ポリカーボといった日本建築にとって異種を混在させる。100年前後の星霜を刻んだ素材の存在、具体的にはその表面に対して、新しく造作された部分がどのようにして白けずに同居できるか、表面と表面の対決でもあると考えている。

古い木造建築物が、凍結保存ではなく動態の状態で残るためには、現代への即応、変化が必須であることに改めて気付かされる。しかし、原型を失っていけば、保護法的な公的支援との決別を覚悟することになる。そして、基準法に触れ、合法化のための変化も必要になる。

建物が時代を遊泳し続けるための息継ぎのようなものとしてデザインが求められる。息継ぎというからには、当面の利益にならなければならないが、同時に、遠泳できる息継ぎでありたい。デザインの積み重ねが長い時間スパンに耐えうるものであるか、設計者に課せられた内なる命題として響き続ける。

11/13

難波和彦 第29信 ナチュラルスティックⅡ評

「Subtle Construction(微細な構築)の顛末」

遠藤政樹と初めて出会ったのは、遠藤が大学2年生の1980年代初頭だったと記憶している。僕が千葉県野田市の東京理科大学理工学部建築学科で設計課題の非常勤講師を務めていた時である。当初はあまり覇気のない学生だったがエンカレッジすると急速に成長し、卒業時には卒業設計賞を獲得した。大学院では僕が主催していたパターン・ランゲージ研究会に参加し、クリストファー・アレグザンダーに関する修士論文をまとめている。同時に日本におけるアレグザンダーのもっとも大きなプロジェクトである入間市の盈進学園東野高校キャンパス計画(1985)の設計監理にも参加していた。1990年代初頭に僕のアトリエである界工作舍に入所し、数年間勤めた後に独立し自分のアトリエを持った。

 

1980年代から1990年代にかけて、僕は構造家・佐々木睦朗の協力を得て、銀座オフィスマシン(1985)、別荘情報館(1990)、網代の別荘(1993)など、構造表現をテーマにした一連の建築をデザインした。同時に実務に並行して構造テクノロジーに関する研究を行い『コネクションズ』(1994)『ビルディング・エンべロプ』(1995)『スーパーシェッズ』(1995)『エコテック』(1999)といったハイテック建築に関する翻訳書を出版した。実務と研究とを結びつける活動を学んだのは、大学院に所属した池辺陽研究室を通じてである。佐々木は池辺の協力者である構造家・木村俊彦の弟子だった。鹿児島内之浦のロケット打上場の仕事には佐々木も参加している。したがって佐々木との恊働は、つまるところ池辺+木村の恊働を引き継いだのだといってよい。僕は佐々木との恊働を通じて、これからの時代にふさわしいテクノロジーの様相について考え「微細な構築=Subtle Construction」と名づけた。近代建築のモニュメンタルで強大なテクノロジーは、近未来には微細化し、分散的で柔らかなテクノロジーに変わるという主張である。「構築Construction」という言葉には、建築的な意味だけでなく、当時思想界で流行していたデコンストラクションに対抗して「繊細に整序された秩序」という意味を込めていた。

 

遠藤はアトリエの仕事だけでなく、こうした一連の研究活動にも参加し、鉄骨造による微細な構築のテクノロジーを学んだと思う。独立してからの遠藤の構造協力者は、佐々木事務所で働き僕たちの研究活動にも参加していた池田昌弘だった。僕の見るところ、遠藤と池田のコンビは、鉄骨造による「微細な構築」のシリーズを展開していた。遠藤が自作のすべてに「ナチュラル」という形容詞を付けている点からも、それが自覚的なシリーズであることが読み取れる。最近では構造エンジニアが変わっているが、ナチュラルシリーズは現在も継続している。「ナチュラルスティックⅡ」はそのシリーズの最新作である。とはいえ僕は未だに「ナチュラル」という形容詞の意味が理解できないでいる。遠藤は「ナチュラルな構造システム」だと主張しているが、通常の意味でのナチュラルな構造である作品は一作もない。すべて特殊でユニークな構造を用いたデザインである。あえて逆説的な意味で使っているのではないかと問うても、そうではないと遠藤は応える。

 

池辺は住宅シリーズに並行して鹿児島内之浦のロケット打上場の建物群を設計した。そこではロケットの打上というこれまでにない新しい機能に対し、多種多様な造型が試みられている。僕は「箱の家シリーズ」において池辺の住宅シリーズを踏襲したが、遠藤は「箱の家」以前の僕の活動を通じて、内之浦の池辺の活動を間接的に踏襲したと見ることもできるだろう。

 

「ナチュラルスティックⅡ」にはとりわけ特殊な構造が採用されている。屋根の外周梁は長方形平面だが、上下に分かれた欄間型の梁に分けられ屋根面を浮いて見せている。地上面(1階)のプランは駐車場と人の動線をなぞるような曲線である。屋根梁と1階床面の間にスチール・フラットバーの柱列が並べられHP線織面の薄い構造壁を構成している。2階スラブはこの線織面壁によって支えられている。屋根の上には一回り小さな箱型のペントハウスが載せられ、地下には寝室、多目的室、水回りが置かれている。写真や図面だけでは、構造システムも1、2階の捻れた空間も想像することは難しい。ましてやこの建築が「ナチュラル」と名付けられていることも理解し難い。

 

明確な基準を示すことはできないが、「ナチュラルスティックⅡ」には、ある一線を越えた過剰性がある。フラットバーの線織面の構造体に座屈止めのプレートが挟まれて本棚の機能を与えられ、構造と形態が不即不離に結びついているとしても、ユニークな構造表現という評をはみ出した過剰性がある。構法においては、立体的な線織面の外壁下地を湿式のモルタル塗にせざるを得ない点、外断熱をしても至る所にヒートブリッジが生じている点、あるいは複雑な屋根面を湿式のFRP防水にしている点などに技術的な自己矛盾を見ることができる。

 

なぜそこまで過剰性を追求するのか。この疑問にはふたつの回答がある。ひとつは、遠藤の設計要旨から推察するに、クライアントがありきたりではない特異な造型を求めたからではないかと思われる。おそらく、遠藤は特異な造型を求めるクライアントに対して、スチールの微細な構築の追求による「ナチュラルシリーズ」によって応えたのである。もうひとつは「微細な構築」の過剰な自己運動がもたらすテクノロジーの数寄屋化である。コンピュータの能力の飛躍的上昇によって、今やどのように複雑な構造モデルも解析とシミュレーションできるようになった。1980年代のハイテックスタイルは1990年代になると一気に繊細化したが、エネルギー条件のチェックを受け、エコテックあるいはサステイナブル・デザインへと展開していった。

 

「ナチュラルスティックⅡ」はこのふたつの潮流の上にある。それは構造の微細化とサステイナブル・デザインが複合したデザインであり、テクノロジーの数寄屋化の産物である。それは『ヘーゲル読解入門―『精神現象学』を読む』において、アレクサンドル・コジェーヴが日本の茶道や武士道の形式主義的に見たスノビズムの美学的現代版といえるかも知れない。しかし、ヴァルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』で指摘したように、この建築の特異な形態が、時間をかけた〈慣れ〉によって背景に沈むだろうか。その点に僕は一抹の疑問を抱いている。

 

別荘情報館外観

別荘情報館室内

網代の別荘外観

網代の別荘室内

写真:難波和彦・界工作舎

11/13

鈴木博之 第28信 神話的工場と非日常的住宅

Xゼミで作品評を行うことになったらしく、難波さん石山さんが心あたたまる作品評を寄せておられます。それに倣ってわたくしもほんの少しだけ、二つの作品について述べさせていただきます。

北園徹「新鍛造工場」は、東京建築事務所協会の建築賞審査で見ることができました。この建物を見たいと思った理由の一つは、これが鍛造工場だったからです。鍛造とは鍛冶屋であり鍛冶屋の神は、ローマ神話ではウルカヌスといいます。かれは足が悪く、風采も上がらないのですがウェヌス(ビーナス)を妻に娶っています。ビーナスの方はウルカヌスがみっともないものですから気に入らず、軍神マルスと浮気をします。ウルカヌスはその現場を取り押さえる罠をこしらえてふたりを身動きできぬようにしてしまう、、、、といった神話があるのでして、鍛冶屋のイメージは何でも作り上げてしまう技術をもった神ウルカヌスを連想させます。現代のウルカヌスの住処はどんなところだろうという興味が、わたくしを現地審査に向かわせたのでした。

期待通り、この工場は完結した(音や振動や排気などの)サイクルを内蔵する、ある種独立した世界を形成していました。ここでは、難波先生が好きな、ローマの百貨店「リナシエンテ」に見られた、空調ダクトの配置を建築デザインにすることもできたでしょう。実際には、サイクルの独立性をシンボライズするかのような端正で崇高とでもいうべき造形感覚がこの工場には存在していて、それは神話的世界を感じさせてくれました。こうした特殊な建築を、それにふさわしい超越性(神話性)をもって作り上げたことは、わたくしにとって特筆すべきものでした。

小住宅である遠藤政樹「ナチュラルスティックⅡ」は、見ていません。都内の小住宅に求められるスペースを、閉じた箱にするのではなく、HPシェルの曲面を導入することによって裂け目のある、完結しない空間にしてゆくというのが、ここでの主題なのかと思いました。

住宅には正解はなく、住まい手にとっての回答案があるのみでしょう。他人の目でこの住宅を見ると、変化に富んだ内部の楽しさに惹かれるものの、住宅にこうした変化は、果たして必要なのかという気もしてきます。この問題は、住宅は「建築作品」なのかというテーマにいたるのですが。それに対する答えもひとつではないのでしょう。この住宅の設計者は、難波さんの事務所におられた方のようですが、この作品は難波さんの箱の家に対するアンチテーゼなのでしょうか、それとも発展形あるいはバリエーションなのでしょうか。まことに住宅建築は難しいものと知りました。

11/11

石山修武 第99信 遠藤政樹さんの「ナチュラルスティックⅡ」作品評

「ナチュラルスティックⅡとドラキュラの家」

建築家が他の建築家の作品評をするに、どんな意味があるのか。つまり作家が他の作家の作品評をする意味である。文学において自死した三島由紀夫の作家論は、時にその作品(小説)の水準を超えるものがあった。三島は作家論において、批評と創作はコインの裏表の関係であると言明してもいた。つまり批評は時に批評する作家の創作を蚕食するというわけだ。自身の創作と批評の関係を明晰に言ってしまっている。

自分よりも二回り程も年少の建築家の作品評をするのに三島由紀夫の亡霊を墓場から引きずり出すとは、いささか大仰ではないかといぶかしむのは、コレワ正しい。遠藤政樹さんの作品は三島由紀夫の世界とも日本浪漫派とも戦後に遡行する文化的表現の歴史とは関係が薄い。だから、このいささかの冒頭の言は石山自身の批評についての自戒以外の何者でもない。

第一回の作品評を行った北園徹さんはわたくしの教師生活の第一期生であったのはすでに述べた。それ故わたくしは北園徹さんの資質をある程度知っていた。何故ならわたくしは建築設計の教師であったから教える対象の資質を把握するのは先ず他の何よりも重要であったからだ。将来際立った仕事をなすであろう人間と他を一緒くたにするわけにはゆかぬからだ。設計=表現をする人間の主体には驚く程の多様があり、一人として同じ才質を感得する事はあり得ない。

建築写真家二川幸夫の写真が二川幸夫の裸形の才質に同等の眼の力に依っていたように、北園徹さんのフッと撮るスナップの写真は素晴らしかった。時に息を吞んだ。わたくしは北園徹さんの将来の才能の形を信ずる事ができたのである。それ故に北園徹さんの作品評はその将来作るであろう作品の予言らしきも実は含んでいたのである。彼の才質の第一は建築的物体のスケール感=プロポーション感覚の絶妙さに在る。第二にそれと裏腹な部分に於ける細妙な工夫の能力である。それをいささか堅苦しく全体性の統率能力と部分の細妙さの同居と述べた。

 

ナチュラルスティックⅡを設計した遠藤政樹さんは難波和彦さんの界工作舎で六年間程実務に関わったキャリアを持つ。しかし、この作品を写真で見る限り、そして小さな図面を眺める限り遠藤政樹さんは難波和彦さんの直接的には「箱の家」の連作のダイレクトな影響をほとんど受けていないように想われる。難波和彦さんは師であった池辺陽の感化を強く受けている。その感化はひとつの小住宅の作品の在り方にとどまらず、より全体的な産業計画に類似した規格化、標準化のシステム志向に外延してゆく類のものでもある。その意味では難波和彦さんは作家に非ず、際限の無きに等しいシステム主義者であり、要するに全体主義者なのである。

遠藤政樹さんのこの作品からは池辺陽、難波和彦と連なるいかにもな日本的システム志向のそれでも在るポテンシャルは感じられない。つまり、解りやすく言い直すならば、この作品の傾向が持続してゆく可能性を感ずることはできない。

わたくしには「ドラキュラの家」と名付けた建築作品がある。オウム真理教事件が社会に露出した1995年に完成し、発表した。長方形の平面と立面を持つ細長いお棺のような直方体をベースにしたものだ。オウム真理教のサティアンと同じように窓の少ない極度に禁欲的でもある表情を持つ。光は全てではないが直方体の上のスリットから落ちてくる。そのトップライトは工場用の部品をそのまんま使用した。何と玄関という開口部が無い。施主がいらぬと言ったのだ。依頼主は男性二人のカップルであった。わたくしはその頃次から次へと当時異形とも思える依頼主達と出会い続けていた。人生にはそんな魔の刻とでも呼びたい時間があるものだ。強烈な意識を持つそれ等の依頼者達に良く良く考えてみれば思い切りブン廻されたのである。わたくしの側にもそんな意識の恐らくはカケラ程のモノがあって、それと共振した。心底面白かったけれど、それは建築家としては明らかに歴史的に所与なる前提としての枠、すなわち形式を踏み外していたのである。わたくしの処女作と言われる幻庵はそれ等と比較するならば、十二分にそれこそ真っ当な作品ではあった。

あれから随分時が流れて、今ではその事がよおく解るのである。ドラキュラの家はその最たるモノであった。ドラキュラの家はドラキュラ伯爵の棲家の棺オケ、その巨大なモノの姿をしていたが、流石にコレではイケナイと考えた。社会から隔絶して生きたいと願ったのは依頼主であったけれど、そうして玄関はわざわざ錆色に塗装されたシャッターになったけれど、わたくしは直方体の一部を大きく平面としても姿形としても凹形に変形させた。その変形させた歪みだけが棺と異なる、箱とも違う人間の棲家の証しだと考えたからだ。人間という何時何をやり出すやも知れぬ生物の棲家に相応しいと考えた。その歪みや欠損らしきを頼りに人間は自分の棲家としてのチョッとした愛情らしきを心に刻む者でもあろう。

 

遠藤政樹さんのこの住宅の箱状に附加されたHPの局面は、上から光の指すスリットやらと同じに実に装飾である。しかも附け加えられた附属品である。わたくしのドラキュラの家は直方体自体が人間の生の為に、いささかのそれぞれの個人の生の固有な尊厳を表明するように歪められている。この歪みがほとんど唯一の表現ではあった。

遠藤政樹さんの建築でわたくしが最も興味をひかれたのは地下室に在る主寝室であり、将来の高齢者であるだろう御両親の為にも用意された「地下空間」である。ここにはどんな風が流れ、もしかしたら微かな光が指すのであろうかと考えると実に楽しかった。

そして、この地下に封じられた寝室の存在が上階の空間の戯れのいささかを獲得させている。

 

難波和彦さんの数多い箱の家の全てを検討したわけではない。しかし主寝室あるいはそれに類する重要な機能が地下に置かれたモノは無いか、あるいは稀少であるのではないか。遠藤政樹さんの建築の地下空間にわたくしは注目したい。大自然と呼び得る自然らしきはすでに日本に存在しない。遠藤政樹さんの建築の上階に実現されたデザインの戯れはまだ自然のなぞりにも到達し得てはいない。勿論これは無いモノねだりに近い希求を吐露するに過ぎぬのだが、この戯れの先にそんなに広い未来は無いだろう。この戯れ自体がすでに消費され尽くしている。

 

わたくしの世田谷村にも地下室がある。かなり今のままでも広い。そしてわたくしのまだまだ在る夢のひとつは、この地下室を更に拡張して大きな地下空間をつくり出すことだ。何重かの壁を設け、箱の家よりはるかに良い気候条件を持つものとして、そしてこの部分に一切の化石燃料、原子力発電による電気なぞは使わない。そんな地下を考えている。それを実現する為にはまだまだ働かねばならぬのだが、そんな地下に暮らせるならば資本主義的労働だっていとわないぞと、これはほとんど妄想の域に近付いてきたので筆を置く。

遠藤政樹さんの次の地下室を見てみたい。

11/11

Xゼミ・作家作品批評 02

ナチュラルステッィクⅡ 遠藤政樹

ナチュラルステッィクⅡ

EDH遠藤設計室   遠藤政樹・千葉工業大学

 

建築・監理:EDH遠藤設計室   遠藤政樹・千葉工業大学

構造   :江尻建築構造事務所 江尻憲泰・長岡科学技術大学

 

建築概要

所在地  :東京都目黒区

用途   :住宅(夫婦+子供)+事務所

構造   :鉄骨造

階数   :地上3階地下1階

敷地面積 :108.43㎡

建築面積 :64.66㎡

延床面積 :212.24㎡

 

この敷地は、東京都心部の私鉄駅から程近いところにあり、私がこれまで設計してきた狭小地住宅と比べるとわずかに大きく100㎡ある。そこからは、道路に対して引きを設けた商業施設が垣間見え、この住宅も、同様の空地を提供している。それを様々なかたちで室内へ連続させることが計画された。I型スチールフラットバーを柱にする4枚の異なるHP(Hyperbolic Paraboloidal)壁でそれを可能にし、棚となり、その隙間が開口となり、ニッチ空間の連続をつくり出している。視覚に加えての空間の透明度が模索された。

 

ところで、これまでの経験から、狭小地住宅の魅力は、多様な要求を制限した上でひとつにまとまっている潔さにある。そこから反対に住み手は、生活の根源的な要求を発見する。(打放しコンクリートに執着した安藤建築に対する評価と同じものなのかもしれない。)それに対し、多少面積に余裕にあるこうした住宅では、単に身体的な快適性を満足させることは当然のこととして考えられ、狭小地住宅の場合と同様の、住み手の挑戦をかき立てる新しいものが必要とされる。実際この住み手は、いくつかの案を他の建築家にも用意させていた。住宅にはそうした要求が根源的にあるのだと思う。

 

この住宅は、HPという幾何をもったひとつの曲面壁によってまとめられている。

機能的理由から決定される地上レベルの4枚の曲面壁が、2階天井部分でひとつの長方形に収束する幾何である。曲率の小さい、敷地中央の玄関まで連続する壁は、敷地西側に、隣地境界いっぱいまでの空地を確保するためのものであり、2台目の駐車スペースとなる。7.5mの間口に、客用も含めて3台の駐車スペースが必要とされていた。敷地奥の東側HP曲面壁は、その延長上にあり、階段の吹き抜け空間を形成し、上階の居間へ導くものである。そこは施主の持つ書籍や収集物を陳列する2層吹き抜けの棚である。

 2階は、他の2枚のHP曲面壁によって中央付近で括れている。それによって、キッチン部分とリビング部分に分けられる。括れには三角形開口がある。4枚の壁がもたれ合う隙間がそれにあたる。その中で道路に面した開口の頂部は外に傾斜し、南陽が入り込まない仕掛けである。西前面のHP曲面壁は、西陽からリビングを守るように計画されている。

3階は、駐車場ピロティからの涼しい風を導くためのペントハウスであり、将来は子供室として使われる。敷地北からの斜線制限により3階の高さが抑えられるため、3階の床は沈められている。2階天井はそれにしたがい、キッチン部分が低く、リビング部分は高い。そのかたちも、欄間窓上の水平ラインを基準にしたHP幾何をもち、差し込む光を室内へ反射させるものである。

地階は、夫婦のための主寝室と将来の親を迎えるためのEVスペースを用意した個室である。

 

ここに用いられているかたちは、直線をずらすことで得られる単純なものである。陽差しをコントロールし、敷地内においては多様な居場所をつくりだした。外壁断熱をし、水平材を入れることで、棚としても機能させた。構造体でもある。この幾何が唯一優れたものであるといっているのではない。熟練した技術によってはじめて建築として成立し、ある意味、使いにくいものでもある。しかし、多くの問題を解決するこの計画の実践的かつ美的なルールとして働いている。それが住み手にも共有されることで、身体性とは異なる快適性が得られると考えた。その快適性はある意味で、狭小地住宅に住み込む場合の魅力に近い。快適性は与えられるものばかりではなく、住み手が克服することによって、自己の強さを発見したとき感じるものでもある。

住み手が求める快適性と、建築家が考える快適性が完全な形で結びつくことは一般に少ない。なぜなら、住み手も、建築家も、状況環境に応じて変化するからである。それを同じステージに立たせる必要がある。両者が気概をもって、互いに克服関係をつくり出す背骨や串となる何かが必要であろう。このHP幾何は、その中で考えられたものである。建築家のデザインには、そうした側面もあるのではないだろうか。

11/06

石山修武 第98信 北園徹、新鋳造工場について

「優美さと合目的な全体性の同居」

北園徹さんは石山修武研究室の第一期生であった。四半世紀も昔の事である。その頃のわたくしの研究室に入室する人材の大半は、当然のようにその将来は独りの建築家となる、更には創作者として生きると決めての者がすでに決して多くはなかったが、全く居ないわけでもなかった。

北園徹さんはその典型の一人であった。大雑把な言い方しかまだ出来ぬが、その将来は一本ドッコで建築設計をするしか他に径はないと自ら決めていて、何の疑いも無かったのである。わたくしも当然そうなるだろうと信じて何の疑いも持たなかった。

 

日々の生活にまつわる夾雑物は夾雑物であり、他の何者でもないと知る者だけが建築設計を愛し続けられるのを北園徹さんは若くしてすでに知っていた。わたくしもそうであった。

二十代の北園徹さんには際立った才質があった。写真が実に良いのであった。しかもその写真は広々とした感性世界を巧まずして表現していた。インド、ネパール、バリ島など共に旅をしたが、バリ島で草ムラに打ち捨てられた古自転車の写真などを見せられた時の印象は強烈であった。何故強く忘れられぬ程の記憶になっているのかを言葉で説明することは不可能である。設計者の才質の最深のモノは感動しながら視たモノの姿、形、色、材質感などを決して忘れない事に在る。他の何者でもありはしない。デザインとは、あるいは創作らしき創作とは畢竟、記憶の構造的把握能力であり、他の何者でもない。視覚的な創作物の創作能力はそれに尽きる。ある資質が何か愛すべきモノを作ろうとする時にその能力は全て記憶の再生、今の言葉で言えば編集能力に帰する。新しい、全くの新種等はありはしない。良いモノは全てすでに在るモノの記憶の再生、あるいは再構成なのである。北園徹さんの何葉もの写真、記憶するその大半は風景写真でもなく、建築写真でも無かった。北園徹さんの眼が強くひきつけられ、それから離れない如くの好奇心が強いエネルギーで対象に向けられ、焦点を結んでいた。それが、バリ島の畑に打ち捨てられていた濃い色に塗りたくられた自転車であり、それに類するモノたちなのであった。

その類の写真をわたくしは他に視たことが無かった。コレは凄いモノを視せられているなと本能的に知った。それを視ている人間の感性の輝きらしきも知ったのであった。

 

この新鋳造工場を設計するにあたり、だから北園徹さんが先ず何に感じ入ったのだろうかと、わたくしは考えざるを得ない。この作品の解説文で彼が、工場の器を工夫するよりもロボットの如くの高圧鍛造マシーンそのモノを設計した方が問題の解決に早いと考えたのは正しい。北園徹さんは問題の所在にいつも最短距離に立ち向かおうとするからだ。若い頃のその写真を撮る眼の力のように。

今の技術ではそれが困難なのを確かめて、次に彼はそのロボットの収容倉庫としての工場建築の設計に進んでいった。

 

その際に北園徹さんがその眼の内に想い描いたヒナ型らしきがあったろう。設計者は誰もがそうせざるを得ない才質の特性を持つ。すでに我々は余りにも多くの先例を持たざるを得ぬ世界に生きているから。

近くではそれはルイス・カーンのリチャーズ研究所であり、少し遠くではワイマールのナチス党軍司令部ではないか。

ルイス・カーンのリチャーズ研究所も又、空気の清浄に対する配慮がデザインの骨子になった建築である。換気ダクトとでも呼びたい機能がコンクリートで強く表現され、その建築の主要なデザインモチーフになっている。

過酷な労働条件に対する配慮は自然に一種の全体主義的表現に接近せざるを得ない。北園徹さんの対象に対する最短距離を取る本能も又、それに接近せざるを得ない。工場とは生産を旨とする施設であり、他の何者でもない。それ故に建築は遠くでナチズムの建築にも通じる強い表現を持つ事にもなったのである。兵士の隊列の如くの立面の新古典主義的たて割りのプロポーション表現が強い壁の表現は、しかし、かつての全体主義的建築と相違して人間の眼に対して優美でもある。その優美さはガラスブロックの小さな視覚的単位の構成からもたらされている。

その優美さと合目的への全体性の同居が、この建築の全てである。

 

2013年11月6日 石山修武

11/05

若手建築家公開講評会 ○と× 01

新鍛造工場  北園徹

株式会社 共栄鍛工所 新鍛造工場

KYOEI FORGING WORKS CO.,LTD. NEW FORGE SHOP

 

※ ©Photographs by Mamoru Ishiguro (以上掲載写真)

設計  建築・監理   北園空間設計

    構造      構造計画プラスワン

    設備      知久設備計画研究所

 

建築概要

所 在 地 新潟県三条市

主要用途 工場

構  造 防音工場:鉄筋コンクリート造。一部鉄骨造(屋根)

     圧縮室:鉄骨造

階  数 防音工場:地上2階、

     圧縮室:地上1階

敷地面積 15,972.37㎡

建築面積 1,090.42㎡

延床面積 1,263.71㎡

 

新潟県三条市は鍛冶屋の町である。今でもその音が、町のあちらこちらで鳴り響いている。

この工場は、鍛冶屋の現代版であり、重さ88 tonの鍛造機2台が設置されている。圧縮空気に因って加速された重さ2tonのハンマーが、激しい衝撃音と振動を放ち乍ら製品を造り出す。ビレットヒーターで1200度に熱せられた鐵が、金型と金型の間で鍛造される。ハンマー落下のタイミングは作業員がペダルを踏む呼吸によって決まる。人に因ってリズムは違う。

基本的には、玄翁で鐵を叩き刀を作る原理と同じものであるが、熱、音、振動、金床、ハンマー、全てが巨大化したものである。作業員は鼓膜をプロテクトし、15分で交代しなければならない。過酷な環境に耐え、強靭で精巧な鍛造品を生み出し、国内外に出荷している会社の増築として計画された工場である。

 

新鍛造工場は、既存工場が及ぼす周辺住民への影響を解消したいという願いで依頼された。目標は、南側の集落に対し夜間の騒音・振動の条例規制を守りながら24時間稼働可能な工場であった。移設予定のハンマーの騒音測定値は120dB、振動測定値は94dBであった。それは、ジェット機のエンジン同等の、鼓膜が破れる寸前の音、震度4の縦揺れ地震に匹敵する振動である。条例規則は夜間の騒音レベル45dB、振動レベル55dBと、かなり厳しいハードルであった。

難題の一つは、音は外に出さずに1時間に工場内の空気を20回入れ換えねばならぬこと、もう一つは、エアバネやダンパーを使わずに、振動の伝播を抑えることであった。前者は、熱と粉塵がその理由であり、後者は、衝撃を吸収してしまっては、叩いて鍛えて造る製品の性能が落ちてしまう事が理由である。

 

当初、最も理想的な消音は、鍛造時に発生する120dBを打ち消すように、逆ベクトルの同質の音を作り出す事ではないかと考えた。ヘッドホン等に使われている消音技術の延長に、そのような見えない空間を作り出せないかと考えた。しかし、現実的には未だ今の段階では其の応用は不可能である事が解った。また、地盤の振動を押さえる為には、落下するハンマーと金床いう仕組みより、落下と上昇の組み合わせで振動を打ち消す事が出来ないかと考え、ハンマー自体を設計してしまった方が早いのではないかと考えたが、それも作業性において好ましく無いと判断された。

 

計画にあたっては、電気室やコンプレッサー室等、エネルギー源を別棟に設け、鍛造作業室をシンプルで明確な構造に纏めることにした。南北面から自然給気を行い、東西面から機械排気を行う方針を立てた。南北立面に凹凸プランが林立して立ち上がっているのは全て給気シャフトとなっている空洞の柱である。この空洞を通して、屋外と室内の空気は完全に一体化している。空気は外から中へ、音は中から外へ、その矛盾を解決する為に、鍛造音の周波数特性を分析し、その音の波がこの給気シャフト内部に張り巡らされたサイレンサーで消音されるようになっている。

また、そのシャフト以外の壁面を遮音硝子ブロックの2重積みとし、60dBの遮音性能を持たせ乍ら十分な採光を確保した。搬出入用ドアは23dB遮音のシャッターと36dB遮音のスライディングドアを併用し、作業員通用口は一枚で53dB遮音のドアを設置し、その他の壁天井の内装は全て吸音材としている。ハンマー基礎の解決策は、緩衝材をサンドイッチした2重構造とした。その他、夏場は井戸水を活用して作業員の為のスポット空調を行う等の工夫を施している。

 

竣工後の測定結果では、目標値を十分にクリアーする事が出来た。

昭和の時代には、多くの鍛造工場がその騒音と激震により山間部に追いやられた歴史があるが、常に世界最強の製品を造り続ける信念と周辺環境に配慮し乍ら共存を願ったクライアントの想いが結実した新鍛造工場である。

「社団法人 日本鍛造協会」のホームページでは、地域住民との間で、事業の継続すら難しく成っている鍛造工場も少なく無いと記されているが、熱・音・振動に悩む鍛造工場の一つの解法である。

新鍛造工場(北園徹)評 「The Architecture of The Well-Tempered Environmentとしての工場」

Nov.04 2013

 

難波和彦

 

巨大な鍛造機2台を納めた工場である。敷地は、鍛冶屋の町として知られる新潟県三条市郊外にあり、北に水田を挟んで信濃川、南に小川を挟んで住宅地がある。鍛造マシンは、熱した鉄をハンマーで打つ鍛冶の作業を巨大化した機械であり、熱、音、振動、空気、光を効率的に制御する機能が求められる。精巧な製品を鍛造する作業には作業員による機械の制御が伴うため、室内の苛酷な環境をやわらげ、かつ外部環境から切り離された一種のマン+マシン・システムとしてデザインされねばならない。

このような複雑かつ高度な要求に対して、建築家は、まず、シェルターの要求性能にしたがって、鍛造マシンを納めた工場棟と空調機械類を納めた棟のふたつに分けている。工場棟の構造は鉄筋コンクリート造と鉄骨造の混構造である。東西外壁はRC造の壁構造とし、南北の外壁には給気シャフトを兼ねたRC造の筒状柱を建て、間に採光のためのガラスブロックの二重壁を立てている。川沿いの軟弱地盤でありながら、重量のあるRC造と二重ガラスブロック面としたのは遮音と採光のためである。吸気ガラリはシャフト最上部の側面に置き、外壁面に雪の吹き込みを防ぐガラススクリーンを取り付け、給気筒内に消音ダンパーを設置している。排気用の機械類は東西壁の内側に建てた鉄骨造デッキの上に載せられている。空調は、給排気の経路とは独立に、北面のRC造シャフトを介して天井ダクトから行っている。屋根構造は、建物重量の軽減と冬期の積雪対策のために鉄骨造としている。建物全体は杭基礎の上に載せ、鍛造機の基礎は、建物の基礎とは切り離し、硬質スタイロフォームを挟んだRC造の二重基礎にすることによって振動を吸収している。外部に面したドアはすべて高性能の防音断熱扉である。工場棟の東に置かれた機械棟は、空調機械類を効率的に並べた鉄骨造の箱である。

以上のような複雑な条件を、建築家は単純な箱型のデザインに統合している。RC造の壁面と二重ガラスブロックの壁面によって構成されたファサードは、モニュメンタルな様相を湛えている。鍛造機は24時間連続で稼働されるというが、夜間のファサードにはさらに崇高な雰囲気を漂わせるだろう。

近代建築史において、工場建築は大きな役割を果たしてきた。工場建築の出現は18世紀の産業革命にまで遡るが、当初は正統的な建築としては認められなかった。1851年の英国万博で出現したクリスタルパレス(ジョセフ・パクストン)やパリ万博機械館(コンタマン+デュテール 1889)を嚆矢として、20世紀に入ると、AEGタービン工場(ペーター・ベーレンス 1910)、ファグス靴工場(グロピウス+マイヤー 1911)、フィアット自動車工場(マッテ・トルッコ 1922)、ファン・ネレ煙草工場(ブリンクマン+ファン・デル・フルフト 1930)、フォ−ド・ルージュ工場(アルバート・カーン 1938)といった工場建築が近代建築運動の一環を担った。日本でも、図書印刷原町工場(丹下健三 1955)、秩父セメント第2工場(谷口吉郎 1956)、日本バイリーン滋賀工場(海老原一郎 1961 1962)といった工場建築が戦後モダニスム建築の重要な要素として認められている。1980年代のハイテックスタイル建築が、ノーマン・フォスター、リチャード・ロジャース、レンゾ・ピアノといった建築家の工場建築によって担われたことは言うまでもないだろう。

この鍛造工場が、そのような伝統の上にあることは間違いないが、僕はもうひとつ重要な近代建築を連想した。それはラーキン・ビル(フランク・ロイド・ライト 1906)である。なぜなら、レイナー・バンハムが指摘したように、この建築は、目に見えない環境性能を制御した建築、すなわち「The Architecture of The Well-Tempered Environment」にほかならないからである。

 

09/30

石山修武 第97信 インダストリアル・デザインと小住宅設計群について。そのⅤ

―栄久庵憲司とGKの世界—鳳が翔く。世田谷美術館 感想

学生時代、建築史家の渡辺保忠先生から「新しい寺」という課題を与えられた。渡辺保忠先生は「建築生産形態(組織)の史的研究」を軸にされていたが、広範な好奇心の持主でもあり、現代デザインの諸傾向にも一家言を持っていた。設計教育にも意見を持っていた。それで設計教育の現場で批評・批判を繰り拡げた。建築家達を中心にした設計製図教師陣は、恐らくその舌鋒の鋭さに辟易したのであろう。

「じゃあ、お前やってみろ」となった。

渡辺保忠先生はうろ覚えではあるが、バウハウスの造型教育のプログラムを研究されたようだった。モホリ・ナジを中心とした造型教育を下敷きにして、幾つかの課題を創設した。

その中の一つが「新しい寺」であった。わたくしはそのカリキュラムの一期生であった。先生は受講者の多さを嫌われて、20名程に絞りたいと宣言して、実行した。

後にドイツ・ワイマールのバウハウス建築大学との連携を担当することになり、ワイマールのバウハウスに何度も足を運んだ。ヴァン・デ・ヴェルデ設計の校舎の中庭に、ランチ・ルーム・ギャラリーがあった。バウハウス創設の頃、教師学生合わせて30名程の人数であった。ランチは教師、学生共に小さな建築に集り共にしたと言う。今でもこの小建築は記念すべき重要なモノとして残されている。

渡辺保忠先生はこれをモデルにして設計教育のプログラムを考えようとしたのだなと、ズーッと後になり、ワイマールのバウハウス・ランチ・ギャラリーを体験して気付いた。プログラムが作成されて40年程が経っていた。それは兎も角、「新しい寺」の課題は年端もゆかぬ学生であったわたくしには妙に印象深く、その後ズーッと記憶の片隅に残ることになった。未熟な学生にとってもこの「新しい寺」は画期的な課題であるのはハッキリと解った。本能的に嗅ぎ分けていたのだ。

先生は「新しい寺」を学生達に出題した際に明快に、この課題の意味らしきを述べられたが、残念ながらそれは忘れた。

後年、幾つもの寺の設計らしきに取り組み、神社らしきにさえ挑戦して挫折したりの、わたくしの小さな歴史は、それが、つまりは「新しい寺」が発端だったのが、今ではようく解るのである。それは感性があり余る程に豊かな建築史家が1960年代に学生に与えたいと考え抜いたメッセージでもあったのだ。

ワイマールのバウハウスが抱え込まざるを得なかった近代主義と伝統の巨大な矛楯である。

この論考のはじまりに指摘した、この展覧会のすなわち大きな矛楯でもある。

近代化が脱亜入欧の目的として、内から発生したものではなく、圧倒的に学習する事によって外在したモノでありつづけた日本近代のそれは大矛楯である。

世田谷美術館の栄久庵憲司とGKの世界展(2013年)にもこの大矛楯は表現されていた。その矛楯は露呈されるのネガティブな言い表わし方では似つかわしくない。はからずも露呈されるのではなく、恐らくは意図的に、あるいは意識界の内から表現されていたのである。

1980年のGKの自主研究による「新仏壇New Buddhist Altar」がその矛楯の表現の典型だろう。展覧会のカタログ・第一章は茶碗から都市まで、とある。産業界と密接な関係を持つべきが工業デザインの存在理由であることは言うまでもない。そして、この「新仏壇」はこの「茶碗から都市まで」の内に位置づけられている。

すでに日本の工業デザイン史に於いても確たる不動の位置を閉める1955年のYA-1・ヤマハ発動機や、1961年のしょうゆ卓上びん・野田醤油株式会社と同じカテゴリーに収録されている。栄久庵憲司およびGKの面々の意気込み、愛着が伝わってくる。

その意気込み、愛着とは量産することへの意気込みであり、愛着である。これは他のいかなる視覚表現分野にはないモノである。

これから考えを勧めてゆきたい小住宅群の世界には存在し得ていない実に明白な性格でもある。

09/18

石山修武 第96信 インダストリアル・デザインと小住宅設計群について。そのⅣ

―栄久庵憲司とGKの世界—鳳が翔く。世田谷美術館 感想

日本のインダストリアル・デザインの骨格と日本の小住宅設計群を比較して考えようとする意味について、かって我々が大野勝彦と試みようとしたHPU構想を想い起こしながら述べ始めた。しかし短兵急で直線的な言及は控えなければならない。HPU構想への運動体としての機関誌であった雑誌『群居』の同じ轍を踏みかねぬ。知らぬ人は多かろうが『群居』は全国の住宅施工を中心とする弱小工務店の再組織化を目的として作られたメディアであった。しかし、工務店の再組織に関する具体的で密実な動きを始める前にその運動らしきは停止してしまった。九州の島田工務店という、まだ年産数十戸の工務店を会員一号にしながら、それを礎にする事が出来なかったのだ。島田工務店の社長急逝という事件もあったが、主たる原因は機関誌『群居』を巡る編集方針についての意見の相違にあった。死んだ児を懐かしむ愚はまだ犯さぬ所存であるから、それ以上の事は今は述べたくはない。いずれ、キチンと大野勝彦論の序論くらいは、ここに書いてから余力があれば書いてみたい。アレは残念な事をしたと無念である。この「インダストリアル・デザインと小住宅設計群について」の小論は、それ故に『群居』で犯した誤ちを二度と繰り返さぬ為にも、性急な進め方を意図的に避けようと想うのだ。

『群居』の展開を介して、わたくしは自身の拠り所は謂わゆる建築生産論や、わたくしがやろうとしていた流通論らしきには無いことがハッキリと解ったのである。それは大野勝彦との考え方のあるいは資質との相違とも言えた。わたくしは自身を表現者でしかないとつくづく自覚せざるを得なかったのだ。表現者でしかないの言い方は卑屈に響くであろうから、少し言い足す。事物の生産・流通に深い関心を持ち続ける表現者だと言い直しても良い。

群居の編集を介して、機関誌らしきでの机上の空論同士の複雑な軋轢、要らぬ勘繰りがいかに無意味なものであるかを痛感したのである。群居はHPUの機関誌であった。その機関誌が本来の日本の弱小工務店の再組織化という困難極まる、しかし今考え起こしても重要極まる戦略への芽をつぶしてしまったの無念さがあるからだ。つぶしたのは機関誌の机上の空論であった。機関誌が戦略の道具に非ず、戦略の目的になってしまったのだった。

「インダストリアル・デザインと小住宅設計群について」はそんな無駄でしかない机上の空論は避けたいと考えている。だからこそ短兵急な論の進め方を回避したいと思うのだ。何故なら、この小論を机上の空論にさせたくはないからだ。この小論は主に読んでもらいたい人間をインダストリアル・デザイナー諸氏、そしてインテリア・デザイナー諸氏に焦点を当てようとしている。それ故に、副題を栄久庵憲司とGKの世界とした。今更、言うまでも無く栄久庵憲司とGKは日本のインダストリアル・デザイン世界の中心であり、栄久庵好みの言い方をするならば総本山であり、彼の構想する道具学校の骨格をなすものでもあろうから。

小住宅設計群とは更に具体的に何を指差して何を呼ぼうとしているのであるか。言う迄も無かろう。少住宅設計群とは、それを産み出す弱小設計事務所群である。ひいては弱小工務店群でもある。そこに従事する、これも又弱小設計者群である。

栄久庵憲司の世田谷美術館に於ける展覧会の感想のひとつとして、先ずわたくしはその内にある巨大な矛盾について述べた。この矛盾についてゆっくり考えをすすめたい。

それはわたくし達自身、すなわち弱小住宅設計者群が内に持つ巨大な矛盾に相通ずるモノであるからだ。

09/11

石山修武 第95信 インダストリアル・デザインと小住宅設計群について。そのⅢ

―栄久庵憲司とGKの世界—鳳が翔く。世田谷美術館 感想

かつて妙な附合いがあった女流詩人から

「わたしの世界の詩はプリントされて何百万枚出ることがあるから、あんたの世界とは違うわ」

と言われた事があり、ホトホト、ギャフンとなった事がある。わたくしの、これは詩ではないが本らしきも、売れてせいぜい数万であり、出版業界がまだ少しは元気であった頃だって十万冊の声を聞いた事は一度も無かった。今は何千部の単位だ。本とCD、DVD、販売されているプリントデータとは商品としては何変わることはない。全く同じである。ヤマハのオートバイと、マルセル・デュシャンの便器に変わる事が無いように。

 

建築の原点は住宅に在ると誰ともなく言われ、その幻が今でもカゲロウの如くに生き続けているような気がする。あるいは現実にうとくなってしまっていて、全くそうではないもうひとつの現実になっているのやも知れぬ。調べてみたいとも思わぬ。

日本の戦後近代建築随一の建築家であった丹下健三は唯一小住宅作品を残している。東京成城にあった自宅であった。これは諸々の事情で取り壊された。丹下健三は自分の家を他人に設計させるわけにはいかず、と考えて作品とした。しかし、住宅設計にこと更な事は一切言い残していない。自邸だけを設計し、あとは大きな公共建築、そして後半生には商業建築の設計に邁進した。その弟子筋である(実に複雑極まる系統樹であるが、これはXゼミナールのもう一方の論、作家論・磯崎新をいずれ参照されたい。)磯崎新は小住宅設計に明らかに懐疑的であり続けた。名作も少ない。小住宅N邸だけである。しかも、この小住宅は所謂小住宅の形式が主題にされてはいない。明らかに建築空間の自身のある時期の原像らしきが主題であり、だから住宅ではない。建築である。

安藤忠雄はそのキャリアの脱近代性(日本の)もあり、小住宅からスタートした。そして生まれ育った場所大阪の商業的器からも出発した。

「これが、ワシの初めての作品やで」

と何やらの通りに面した商店のディスプレイ棚、すなわり商品展示台を案内された記憶がある。この男、はじめから自分の記録化には敏感であったかと舌を巻いた。デビュー作の「住吉の長屋」に小住宅作家として踏みとどまる気配も無く、驚くべき速力で今の安藤忠雄の位置まで駆け上がった。アレヨ、アレヨという間の事である。

先程、わたくしは安藤忠雄を日本の建築思潮らしきからの「脱近代」と位置づけた。自分で言うのも阿呆臭いが、これは大事な事である。安藤忠雄の異常な国民的、あるいは国際的人気は実に脱近代そのもの、更に言いつのるならば同時に色濃く前近代性を帯びているのである。つまり、安藤忠雄の気質は日本の伝統建築を作る大工、職人、名人上手の継統を引いている。その事を日本民衆は、あるいは世界の民衆は本能的に嗅ぎとった。それ故に大スターとなり、アイコンの如くに情報として作り上げられた。他のなまじなエリート建築家とは全く出自の系統が異なっているのである。

(この点については、石山修武、『現代の職人』安藤忠雄参照の事)

日本に於いて前近代は根こそぎに刈り取られたが、人間の気質の中にそれは残されたのだ。安藤忠雄をそんな風にキメつけるのはどうかの声もあろうが、わたくしはそう考える。日本の近代建築家の全てが脱亜入欧してしまった今、安藤忠雄は実にその流れから自立していた。明治期に例えば松本にある旧開智学校を設計施工した立石清重や、清水建設の祖でもある清水喜助、あるいは竹中工務店の創設者竹中藤兵衛等と、安藤忠雄の気質性向は実に同質である。それ故に多くの民衆が彼を根深く支持し続けるのだ。つまり安藤忠雄は日本の近代と前近代を骨太に結ぶ大棟梁でもある。

 

住宅設計の現場から離れず、小住宅を設計し続ける一群もある。わたくしもその一員であり、その群には出たり入ったりを繰り返している身ではある。仕方なく、大きな建築の仕事を作れずに小住宅設計に埋まり込む人々とは別に、それとは異なる意味があるや、無しやといぶかしみもする特別な設計家もいないわけではない。わたくしの若い頃の友人でもあった大野勝彦であり、今のXゼミナールの友でもある難波和彦でもある。セキスイハイムの大野勝彦が亡くなった今は、ほとんど難波和彦が唯一の設計家としての存在形式を持つと言って過言ではない。

難波和彦の仕事はかつて大野勝彦と試みようとしたハウジング計画ユニオンの何モノかに近似している如くがあるような気もするがいまだ定かではない。しかし難波和彦の仕事は固有名詞(記名性)に於いて語るよりは、HPU(ハウジング計画ユニオン)で大野が構想していた年産60戸以上の小住宅建設の工務店の再組織化というような視野によって考える方に意味がある。つまり、小住宅設計に従事する設計事務所、工務店の組織化という視野である。その設計活動の表現としての価値は小さい。その小ささを四層構造の理論とやらで位相をずらしても今に価値も少なかろう。

唐突に考えられもするであろうが、そんな向きに附合っている時間は無い。要するに難波和彦の活動はその設計組織、ひいてはその協同への可能性、日本の小工務店との連携の視野を持たぬ限り本格的に意味あるモノとはなり得ないのではなかろうか。

それが、日本のインダストリアルデザインの骨格らしきと小住宅設計群を比較して考えてみようとする根底である。

 

9月10日  石山修武

 

1.YAMAHA VMAX 

(『栄久庵憲司とGKの世界 — 鳳が翔く』発行:世田谷美術館、2013年、p.96)

 

2.大野勝彦 セキスイハイム M1

(http://www.sekisuiheimm1.com/)

 

3.難波和彦 箱の家 1  

(http://www.kai-workshop.com/)

09/05

石山修武 第94信 インダストリアル・デザインと小住宅設計群について。そのⅡ

―栄久庵憲司とGKの世界—鳳が翔く。世田谷美術館 感想

世田谷美術館の展示で最も、ある意味では衝撃的でもあったのはエントランス・ロビーに置かれていた大きなオブジェクトであった。このオブジェクトには「VMAX胎動−Need6」というネーミングが附されていた。

ヤマハ発動機株式会社の製品VMAXの新型生産の為の雌型である。VMAXは1985年の発売以来、全世界で四半世紀のロングセラーとなった、と展覧会カタログに記されている。そのオートバイの世界的ロングセラーの新型をGKでデザインし、その生産の為の雌型、すなわち金型を「胎動」と名付けたオブジェクトに仕立てたものである。わたくしには美しいオブジェクト、すなわち彫刻の如くに眼に映った。

非常に美しいと思ったわたくしの気持の動きらしきを説明しなくてはならない。

近代に於いて美は二つの世界へと分裂した。分裂せざるを得なかったからだ。近代に於いてもヴァン・ゴッホのような、あるいはポール・ゴーギャンのような絵描きは存在した。そして良く表現し得た。個人の特異な感性を筆をとる指の動きに託し、油絵の具というマテリアルを布切れに塗りつけ続けた。そして、それを彼等の死後、画廊が売り買いを続けて、最終的には美術館という近代の美術制度の内に納め切ったのである。美術館に収納され切って、それで初めて彼等近代画家の所謂作品群は経済的価値が生まれたのである。経済的価値に裏付けされぬ美術品、あるいは制作物にはほとんど何の価値もありはしない。ほとんどと書くのには理由がある。稀ではあるが個人の趣向、趣味と呼ばれる表現、つまり日曜画家、アマチュア、学生等の未成年者、更には幼児、精神異常者(アウトサイダー)の世界にはそれとは別種の価値が存在するが、これは今は省く。大事な問題なのは知るのだが、意図的に省く。彼等の各種膨大な表現は近年のオタク文化に通じるのだが、今のところはこれは別枠としておきたい。この論が、その別枠にまで、つまりはオタクや幼児退行症候群に迄辿り着くまで持続するかどうかは今のところは知るかぎりではないからである。

 

GKのインダストリアルデザイン、例えばヤマハのオートバイに視られる美は我々の今の住文化の底にあるオタク文化的傾向とは際立って対比的である。我々の小住宅設計の深奥には意図せざるオタク的世界が拡がっているのを感じるからでもある。オタク、すなわち個々人の、あるや無しやも定かではない妙な普遍性も帯びた趣味のたわむれの自閉世界である。個別な条件に対応する表現と言うものは畢竟それに近い世界なのである。

 

世界を相手のマーケットに於いてヤマハVMAXオートバイは大きな成果を挙げた。つまりはベストセラーであることを続けた。その数を生産企業の外に居る人間が知ることは不可能に近いけれど、恐らく数百万台の単位で売られ続けた。世田谷美術館のエントランスロビーに飾られたVMAX生産の雌型金型はその何百万台のオートバイのいわば母体である。コレを母体にして膨大な数量のオートバイが大量生産され続けたのである。

栄久庵憲司はその事を深く自覚して、この雌型金型を美術館の入口に置いた。つまり、あくまでも私的な感性をベースとし続ける美術界の保存倉庫とも呼ぶべき現代美術館に展示してみせたのである。明らかに実にこれは挑発である。1917年、マルセル・デュシャンは少なからぬ数量を生産されていたであろう、ただの便器に泉と命名してニューヨークの美術展に出展した。それは振り返れば20世紀美術の歴史に於ける最大級のスキャンダルであった。以来、美術そのものの在り方が二つに分裂する大スキャンダルの始まりであった。美術は相変わらず人間の手で丹念につくり続ける工芸に極めて近い世界のモノと、知覚によって、要するにその枠組から外そうとする営為の流れに分裂したのである。デュシャンの泉と題された便器は美術展、ひいては美術館の如き場所に展示されなければ、ただの便器に過ぎない。しかも手作りの一品生産の工芸品ではなく、それは工場で量産された工業製品であった。この時、デュシャンの知的関心は明らかに美術とは?であり、他の何者でも無かった筈である。何者がそれを美として認めるかではない、それを美術であると認めさせる幻想の如き制度へと向いていた。

その思考の形式、身振りとでも呼ぶべきは栄久庵憲司が美術館のエントランスに、すなわち自身の美術への挑戦的態度の表明と極めて近いのである。そう、わたくしは考えたい。栄久庵憲司がほとんど自身の手と脳味噌と行動で作り上げたと思える日本のインダストリアルデザイン世界は、日用品、機械のデザイン、すなわち日用品作りに於いて美術的表現の世界の観念的なしかし強くある階層に於いては明らかに歴然として下位に置かれている。

対して実利の世界に於いて美術は明らかに無である。それはゴミに等しいモノでもある。現実の生産、流通のプラクティカルな生態にそれは決して顔を見せることも無い。しかし、美術館という非実利の、謂わば幻想世界の場所に於いてはそれは、その位層は逆転する。日常生活に何の役にも立たぬ美術品の無駄は明らかに実利の上に立つのである。この不可思議、そして口惜しさ、はぎしりする程の口惜しさと栄久庵憲司は考えたに違いないのである。それは昨日今日の思い付きでは無いだろう。東京芸術大学で工芸図案科に入っていたが、芸大は極端に保守的な階層性世界が歴然としてあり、日本画家が一番の上位にあり、工芸図案科はその頂きをはるか上に眺める下位の実利世界でしか無かった。もっと直接的に言えば明らかに世界性を規準に据えて見るならば質の悪い表現形式の一部が時に頂きにあり、人々の生活に本当に役に立つ、つまり民主主義そのものを体現していると考えてその中に入ってみた工芸図案は下々に押しやられる世界でもあった。

栄久庵憲司のほぼ生涯を賭けたと思える闘いはかくなる世界を、すなわち明らかに非民主的世界でもある世界の身近な枠組みを組み変えたいと願う生そのものでもあった。

この展覧会の全体を流れる激しい意志はそんな今の現実にも流れ続けている歴史に対しても構えられていたのである。

09/02

石山修武 第93信 インダストリアル・デザインと小住宅設計群について。そのⅠ

―栄久庵憲司とGKの世界—鳳が翔く。世田谷美術館 感想

本日、9月1日に修了した世田谷美術館に於ける、日本のインダストリアル・デザイン界を代表する栄久庵憲司とGKの世界のデザインの成果と、その行方について考えてみたい。私事ではあるが院生時代わたくしは栄久庵憲司・GKの許に1年程身を寄せ、少なからぬ薫陶をも得たからである。影響を受けたのである。学生時代のわたくしは大組織の務め人になる気持は全くなく、さりとて一人で何が出来るわけも無い、すなわち行き処がない無用の人間であった。会ってみたい人は居た。栄久庵憲司と白井晟一だった。共に訪ねて、栄久庵さんを勝手に選んだ。誠に失礼千万極まる選択でもあった。

今にいたるわたくしの行動、それが生み出す作品が孕む矛盾があるのは承知しているが、それは、はじまりの頃から続いているのであって、今に始まった事ではない。

何故、栄久庵憲司に惹かれたのかと言えば、やはりその大きな矛盾そのものの在り方に本能的に惹かれたのだと、今なら解るのである。

世田谷美術館での展覧会はその事を再び知らしめることになった。絶対矛盾の自己同一なぞと禅の思考スタイルの如きを持ち出そうとするのではない。しかし日本の知識人のハシクレ、断片としては、そう考えたくなる程に栄久庵憲司とGKの世界は矛盾に満ち溢れていたのである。それは戦後の日本の民主主義が持つ矛盾でもある。―それが栄久庵憲司の実ワ真骨頂なのである。つまり、ケチな小さな矛盾ではなく、近い未来に解消可能なそれではなくって、巨大過ぎていずれは誰の眼にもハッキリと、成程と思わせる事にもなろうが、それでなくっては困り抜いてしまうのだが、それはまだまだ遠いかも知れぬと想わせる―そんな大きな魅力がこの展覧会には大きく、まさに翔(はばた)いていた。

鳳が翔く―という展覧会の題命は、これはいかにも栄久庵憲司らしい。とわたくしは思った。自身による命名であろう。名は体を表すの諺通り、このタイトルは栄久庵憲司とGKの孕む大矛盾をも又、持つのである。この大矛盾は簡単に言説や説法で明かせる類のチャチな世界ではない。言説に生きる人にチャチなとは失礼なので言い直せば―それがまさにデザインの存在理由でもあると言う位に巨大で深い問題も孕むのである。

Xゼミナールでわたくしが書き続けている作家論・磯崎新―の枠を借用するならば、磯崎新のような大建築家であればですよ、こういうタイトルはつけないのである。さしずめ「反回想」とかにするであろう。要するに脱亜入欧の明治以来の近代日本の国策とハッキリ通じてもいるヨーロッパ型の思考を歴然と持ち込むであろう。あるいは世田谷美術館に於ける次々回、12月からの展覧会に登場する実験工房の山口勝弘であれば―イカロスの遊泳―とかの題にするのではなかろうか。日本の前衛芸術家だって、その根は深くヨーロッパに茎を通じているのは周知の事実でもある。

イカロス(※石山修武研究室サイト山口勝弘先生と石山との手紙 参)だって神話ならぬ地中海ナポリの空を飛んだと言うし、磯崎好みの極、レオナルド・ダ・ヴィンチの人力飛行機だって実に日本知識人の垂涎の的でもあるイタリア、ルネサンスの華フィレンツェ近くの岩山で飛ばせたと言う遠い噂(※Xゼミナール、作家論・磯崎新)もあるようだ。

あるいは磯崎、山口両氏とは異なる大衆的な支持を持つ国民的建築家でもある安藤忠雄ならば、私の軌跡、と簡明極るタイトルを附したに違いないのである。それに対して栄久庵憲司は―鳳が翔く―とタイトルを附した。

鳳とは、実に日本人の古層に眠り続ける中国古代の神話的世界の存在である。だから我々大衆は圧倒的に支持するかと思いきや、これは戦後民主主義の成果であったのか、今は懐かし戦後のデザインの名作だったレイモンド・ローウィの煙草のピースの鳥、あれはハトであろう。アメリカのデザイナー、レイモンド・ローウィも又、ヨーロッパの神話、ノアの箱船から飛び立って、やがて戻ったハトに想を得て、あの名作を産み出した。アレはアメリカ製のヨーロッパである。

圧倒的な日本大衆、今は消費者と呼ばれる、ここでは民衆と言い直そう、民衆の支持を得るべき“鳳”は、しかし現今の民衆には不可解な怪鳥として受け止められかねないのである。不思議の無いところには何の魅力もありはしない。この大怪鳥こそが栄久庵憲司の可能性の中心でもある。

しかし、ここでは大がかりな舞台セットでの民衆論を説く事はしない。Xゼミナールという私的なコンピューター・サイトで展開する論になる。それ故にタイトルをインダストリアル・デザインと小住宅設計としている。地に足をつけて論をすすめたい。

9月2日

06/14

石山修武 第92信 「亀とイカロス」

東京新聞夕刊1面コラム・感想

久しぶりに東京新聞夕刊コラム「紙つぶて・鈴木博之」の稿について感想ともつかぬ、勝手な連想らしきを投稿する。6月13日は「アンコール遺跡群」と題したコラムである。コラムに記されたアンコール遺跡にはわたくしも早稲田大学の中川武教授に教示を受けながら何度か訪れることができて様々に勉強させてもらった。特にアンコールトムの遺跡修復の現場ではある種の感銘も受けた。その感銘とは遺跡修復の作業のスピードが感動的に遅いという事であった。これは皮肉でも何でもない。中川武団長の謂わゆる日本隊の作業はほとんど目に映る進み方はしないくらいに遅々としたものだった。しかし、アンコールトムの経蔵庫と呼ばれる部分は立派にその構造の基盤までもが目に視えぬ処で修復され続けていたし、それに関する報告書も高水準にまとめられ続けたのだった。中川武教授も鈴木博之氏と同じ、謂わゆる建築史畑の人間である。一般的に謂わゆる建築史研究、つまり歴史畑の考究形式は工学部的な実利を旨とする領域に於いてはうとんじられやすい。その成果が明日のメシの種にはなりにくいモノである事が多いからだ。

しかしながら建築学という学問領域に於いては建築史は実は要である。近代化の行き着く先のグローバリゼーションの津波の現状では尚更の事ではある。何故ならば、建築史は地球上の個々の場所、個々の歴史、伝統つまりはDNAを持つ固有性を持ち得る建築という巨大な文化表現の理論的基盤になり得るからである。少しどころか、大いにせっかちに述べ過ぎているが、この点については鈴木博之の最近作である『庭師小川治兵衛とその時代』(東京大学出版会)を通読すると、これも又、ゆっくりとジワリと理解できるのである。

鈴木博之の論考も実にゆっくりとした、実に亀の歩みの如くである。一切のとは言わぬが、オヤと感ずる飛躍がなく、論述されている。ただし主題の設定は驚くべきオリジナリティを持つことは言うまでもない。はからずも同時期に『磯崎新建築論集』(岩波書店)が続々と出刊されている。こちらも読み返す毎に手強い。中途半端な感想など、うっかり記せぬ程の質量ではある。

しかし、鈴木博之の論考と比べて通読するならば、その記述はいかにも速い。そして天馬空をゆくとはコケむした言い方に堕すので、イカロスが飛ぶ如くの印象を受けもする。あくまで鈴木博之の論考と比較した上での事である。磯崎新の著作は実に大作家の記した建築論であり、鈴木博之のはまさに歴史家の書いた庭園論であり、より広い日本文化論である。

我々は日本文化論と言えばすでに坂口安吾の『日本文化私観』等を財産として持つ。安吾は、せっかちに京都も奈良も焼いてけっこうだと言ってのけた。恐らく磯崎新も又、その廃墟への透視力からもしてその通りであるに、意見は近いであろう。磯崎新を坂口安吾に比すのは場違いなようでもあり、反対に実にそうだと、同じだとするのも実ワ、あながち暴論ではない。磯崎新は日本なぞは焼けて結構、くらいに考えているだろう。日本というのは的が絞れていな過ぎるから、首都東京は位に言い直しておく。それに対して、鈴木博之は、とんでもない、ガラクタでも、ガラクタまがいで例えあったとしても大事に歴史として守るべきだ、保存すべしと言い張るのである。

この違いは、ようするに作家と歴史家の本格的な存在理由の相違、相容れぬところなのではあるまいか。

イカロスと亀の例えは、あまりにも馬鹿馬鹿しい。流石にそれ位の事は知る。わたくしには年長の友人である芸術家、山口勝弘がいる。山口勝弘はイカロスシリーズとやらで自身を飛行家に例えたがる如くの、実にコレは芸術家である。磯崎新は山口勝弘と赤裸々に比較すれば芸術家ではない。つまり建築家であり、より厳密に言えばある種の作家である。

歴史家、作家、芸術家のレッテル論議に陥りそうだから、これは打ち切るが、鈴木博之の東京新聞コラム連載の記述形式を眺めて、これは歴史家の、現実とは言わず、実証とも言わぬ、現場というか、彼の言葉で言えば場所から飛翔せぬのを眺めて、つくづくとそう考えたのである。

 

アンコール遺跡の修復作業はそれぞれのお国柄がよく出ていると思う。フランス隊は実に当今のフランス哲学の輸出振りと同じように実に見栄えよくスピーディーにやっている。日本隊の如くに見栄えはどうでも、ゆっくり中身をキチンとしようという愚鈍きわまるポリシーはない。モルタルはがせばその内実は、という位にきわどい。しかし、アンコールの遺跡の崩落のスピードの現実を考えるならば、それもあながち悪いとばかりは言えぬのだろう。地球規模で、遺跡ばかりではなく、近代都市も又、崩落しつつあるという、そして一度壊れてしまえという磯崎新の考えも、よくは解らぬけれど、そう考えてみたい気持はわかる様な気もする。

 

わたくし自身はと言えば、今ようやくアニミズム紀行8をほぼ書き終え、ようやくにして主題らしきに辿り着こうとはしている。

作家論・磯崎新も自分なりに佳境に入ってきていると思い、これは明らかに鈴木博之の歴然たる影響もあり、庭園論ならぬ阿弥陀堂論に入りそうな感もある。

思えば、歴然と影響を受けてとか、我ながらよく書くなと驚いてはいるが年の功と言うべきか、ホッカムリはいけないから、自分にも正直ではありたいのだ。しかし、丹下健三の香川県庁舎、ひいては新東京都庁の人のいない広場までもが九間論に結びついてゆくとは歴史家という者もただの亀ではないと痛感する。

 

6月13日

05/30

石山修武 第91信

作家論・磯崎新 第2章 丹下健三と磯崎新5/阿弥陀堂を巡って3

作家論・磯崎新の書き始め、すなわちⅠ章のはじまりは、わたくしの師の一人でもあった建築史家渡辺保忠の口から磯崎新というのが居て、あれは東大の宝だよ、と聞かされたのが最初だ、と記した事であった。

いささかどころか大変唐突で不細工なはじまり方をしてしまった。しかし、素直な不細工振りであったと後悔はしていない。どんな不細工振りであっても自然に始めた事、つまり無意識に近い身振りには真実のカケラらしきが在る。そう考えぬと大意識家でもある磯崎論なんて書けるものではない。巧まぬ始まりは時に論の大筋を予見させてくれるものでもあった。論を進める内にXゼミナールの学友でもある建築史家鈴木博之から度々、ブレイク、つまりオカシイ、修正されたしの水が掛けられた。鈴木博之は今や日本の近現代史を代表する史家であるが、彼ともウーンと若い頃からの付き合いである。ただし、建築史家渡辺保忠から磯崎新の名を聞かされて後からの付き合いである。何をくどくど詰らぬ役にも立たぬ細部を記すのかと叱られそうだが、事、建築史家に関わる件を書くのはこんな細部も重要なのだ。それに鈴木博之は歴史家として磯崎新に大きな距離をとりながら、しかし、それ故にこそ関心を持ち続けてきた存在でもある。伊東忠太と共にシルクロードを西へアジア横断の旅をした田辺泰はその後研鑽を積まれ東洋建築史、沖縄建築史に大きな足跡を残された。細かい事に頓着せぬ大柄な人間であった。田辺泰は弟子の渡辺保忠の才質を感じ取り、これはワシの手に負えん、と東大へと送り込んだ。太田博太郎の許で稲垣栄三と同期の建築史研究会に属した。渡辺保忠は日本建築生産史、特に生産組織変遷史の草分け的存在であった。がしかし東大生産研に於ける村松貞次郎などとは異なる芸術的感性も実に敏な才質があり、その直感、あるいは透視力とも言うべきは際立っていた。ビリビリしていて恐いような処もあり、田辺泰とは正反対な才質、繊細で鋭く、時にあやうく、もろいデザイナー的な側面も持っていた。

それ故に東大建築史研究会での建築史家の教師陣、院生達の話には、世間話の如きにも耳を澄ませていたようだ。その渡辺保忠が磯崎新というのは東大の宝だと言ったのだ。そんな風評が当時の東大建築史研究会では流れていたのやも知れぬ。

磯崎新の言明によれば、自身も建築史関係の研究室に良く顔を出しており、藤島亥治郎からは院生として予定されていたりもしたらしい。つまり磯崎新はその才質の内に建築史家としての才質を自覚していた。少なくとも周囲もそう認めていたのである。

 結局のところ磯崎新は東大内に新設された都市工学科丹下健三研究室へ進む事になった。師弟関係とは実に不可思議な迷路状の洞窟の闇をも時に持つ。特に創造力を競う如くの分野ではそれが著しい。師は弟子の才質を見抜く才質を持ち、それ故に時にそれを恐れる。それは洋の東西を問わぬ。ル・コルビュジェはその弟子(スタッフ)のヤニス・クセナキスの才質を重用し、同時に恐れた。天才は天才を時に嫉妬するのである。才能というのはそんな形質の偏向をも内在させるものである。ねじれや歪みを内在させる。その師弟関係も又、創造の形式を自己模倣する。又はさせるのだ。創造とはその内に模倣の才をも要求する。大きな創造者は多彩な模倣者でもある。その模倣は時に才質の表面的な形質のなぞりだけでなく深く内実に迄侵入せざるを得ぬ闇を持つ。ル・コルビュジェはクセナキスの才質の内に自分には決して大きくはなかった音楽的数式の造形への関係性を見抜いた。その数式性は又、造形の、建築の未来を暗示するものでもあった。自身の造形の才を古びて見せてしまうのをも見抜いたのであった。やがてル・コルビュジェはクセナキスを遠ざけるようになる。未来はクセナキスの才質に在る事を見抜いたからである。やがてクセナキスは十二音階音楽、つまりはコンピュータによる音楽創作の創始者となった。今の時代の音楽形式、そしてそれに潜在的な影響を受けている高度な造形分野の創出はまさにクセナキスのヴィジョンが遅れて具現化しつつあると言っても良い。本格的な創造は時差を露出させる。少なくとも、ほぼ現在磯崎新が発見的に選択し、その建築化を一部試行しているコンピュータ・アルゴリズムによる造形=フィレンツェ駅舎プロポーザル案の系統樹をたどればクセナキス・オリジナルの思考形式に遡行するのは明らかである。

丹下健三は磯崎新に自身とは異なる才質を認め一時重用し多大な成果を得た。その事をおおいに自覚していた。弟子であった磯崎新もそれをはっきりと認識していた。やがて師弟関係にねじれが発生するのは自明であった。師は弟子を遠ざけ、弟子も又師から遠ざかるようになる。かくの如きの創造の師弟関係の鏡がほぼ最初期に発生したのが1970年の大阪万博のお祭り広場の具体化の現実の中に於いてであった。師弟関係そのものが演じられた舞台は私小説的なスケールを超えて大きかったのである。この時丹下健三と磯崎新は決定的にその互いの才質の違いを自覚し合った。

では、お祭り広場の仮設とはいえ、国家的な枠組みの中での「お祭り広場」とは何であったのだろうか。特に丹下健三の才質の反映は何であり、磯崎新のそれも又何であったのか。それに関して磯崎新が度々説くように丹下健三が背負いたく思った国家=権力と、それから逸脱しようとする自身のバガボンド的芸術家的才質は対比の形式を持ちながら確かに色濃く潜在したであろう。磯崎新から見れば丹下健三は余りにも政治=権力志向であり過ぎ、又、師の丹下健三から眺めれば磯崎新は余りにもアナーキストでもあり過ぎた。それ故に丹下は磯崎新を国家の中心に近い位置に置き続けようとはしなかった。すなわち東京大学都市工学の教職につけようとはしなかった。丹下健三にすればそれ位の段取りは容易過ぎる位にたやすい事であったろうが。磯崎新にしてみればその野心の最大なモノは都市設計にあった。単なる単体的な建築設計に非ず、都市そのもののデザインが目標とされていた。それには当然、国家権力への接近が必須であった。だからこそ東京大学都市工学科でのポジションも又、その射程におさめ続けていただろう。理の当然である。磯崎新の極めて率直な初期エッセイである「都市破壊業KK」はそんな意識のねじれ、歪みも内在させていた。又、磯崎新が在籍していた当時の丹下健三研究室及び東大都市工学科はそれだけの権力を持ち得るポテンシャルを所有していたのである。それ故の大阪万博、お祭り広場の計画者のポジション獲得でもあった。

作家論・磯崎新Ⅱ章4の建築史家鈴木博之の言、東京都新庁舎議事堂前に実現された広場について、丹下健三の視点は生涯を通じて一貫していた、は大阪万博の「お祭り広場」からの都市観の連続であり、ひいてはイタリアの都市ヴェネチアのサンマルコ広場への希求でもあった。 磯崎新がしばしば述べる「今更、ひろばなんて」はそんな丹下健三の都市観に対する批判である。そして双方の都市に対する思想とも言うべきを際立って異なるモノとして見せる。

山口県、秋吉台国際芸術村(1998年 設計磯崎新)でわたくしは実に奇妙なモノを視た。しかも2つも視た。一つは磯崎新の初期の傑作である「N邸」の再現=レプリカの現実の光景内での存在である。もう一つは芸術村の上空を近くもなく遠くでもない実にあいまいな距離としか言い様の無いスケールを飛ぶ緑色のレーザー光線であった。「N邸原寸レプリカ」についてはいずれ必ず触れる事として、ここでは芸術村の上空を飛ぶレーザー光線について。

ここで磯崎新はその全体を珍しく散乱的建築配布として試みた。山口のカルデラ状岩盤に幾つかのイタリア山岳都市状のカテドラル(ドゥオーモ)を持つ集落状を再現しようとした。カテドラルはルイジ・ノーノの「プロメテオ」を演奏するこれも又、散乱的構成を持つ音楽堂である。小カテドラルはあるが、地形との関連もありただただ散乱、つまりは近代以前の民俗的歴史の集落配布状になりかねぬ自然=オートマティスムとの共生状態つまり意図せざるモノの連続にもなりかねぬ。非都市的なるモノに近似接近したのである。恐らく磯崎新はそんな創作方法、姿勢と言う方が正しいか、に一抹の不安を覚えたのである。それで師の丹下健三の都市軸への希求を思い起こした。それは否定しても、批評し続けても磯崎新の創作の基底の影として、磯崎の語法としては視えない都市の骨格として在り続けた。それで、いささかのエンターテイメントの名残として、つまり小さなお祭り広場の軸線として、レーザー光線を中空に走らせたのである。

山越えの阿弥陀の似合わぬ仏教的世界のアナロジーの説明も試みたようだが、それは違う。山越えに視たのは阿弥陀ではなく丹下健三の影であった。それ程に磯崎世界は建築世界であったとも言えよう。丹下健三が東京湾上に描いてみせた「東京計画1960」の計画軸の先には富士山があった。磯崎新の諸々の計画にはどうしても富士山が見当たらない。それは創作家の質量をも決めかねぬ巨大なドキュメントではあるけれど。国家の広範な数量を内在させたシルエットとしての富士山は現れなかった。しかし目標の無い軸線の矛盾でさえもどうしても磯崎にはこの時に不可欠であったのだろう。それでレーザーを飛ばして見せたのである。

それは師弟関係の影の軸でもあった。

計画の普遍的な広さをも内外在させる軸について、丹下健三に於いては、例え東京新都庁舎の人影は無くても、絶対に必要であった広場の日本的空虚は、磯崎新には大阪万博のお祭り広場の空白として残された。その空白が変転しつつこれ迄の磯崎新の創作に一貫して流れ続けるのである。

磯崎新の中心の空虚、さらにそれを空と、磯崎新がどうやらそのDNAとも勘ぐりたくなる程の中国とは言わず、大陸願望にも似た巨大な空漠たる光景、時にそれは廃墟と呼ばれたり海とも呼ばれたりもするが、エンドレスな無境界への希求が必然的に引き起こす、中心の空洞、空、0状態について考えてみたい。

磯崎新の阿弥陀堂に関する志向は独特なものである。何に対して独特かと言えば丹下健三のイタリア・ヴェネチアのサンマルコ広場に対する信仰にも近い広場の原形とも呼ぶべきへの渇望と同様にそれとは対比的でありながらしかも独特である。日本の首都東京都新庁舎に設けられた広場について鈴木博之が指摘する如くに、それは新東京都庁舎が竣工したばかりの頃、鈴木自身が丹下健三に直接聞いた言として、次のように記されている。

「東京都庁舎の議会棟前の広場は、新宿副都心のなかで、唯一前後左右がすべて超高層街区で囲まれた場所なのです。つまりここが東京でもっとも都市性の高い街区なのです。そこでこの広場をもってきた。」

丹下健三の視点は、生涯を通じて一貫していたのである。と鈴木は結語する。

05/28

難波和彦 第26信 丹下建築を巡る想い出

鈴木博之さんが第27信で、丹下健三の香川県庁舎を日本建築の三間四面堂に関係づけて論じている。僕も同じ図集に、直島町で学校群を設計していた頃のことを書いたので転載する。

幼児の頃から僕の身の回りには丹下建築が沢山あった。僕が建築に進んだのもそのせいかも知れない。丹下の授業は駒場時代に一度だけ受けた。サンマルコ広場に関する都市論だった。大学3年生の時に、神宮前にあった丹下事務所URTECで模型製作のアルバイトをした。バルサ板で静岡新聞の丸いシャフトを作る方法を考案したのは、何を隠そう僕である。この原稿を書きながら、僕にとって丹下の建築は、意外に身近な経験だったことを思い出した。

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僕は4歳から18歳まで山口県の柳井という小さな街で育った。物心ついてからは、週末に電車で1時間半の広島までよく遊びに行くようになった。平和記念公園の記念資料館に出会ったのは、高校生になり建築を志すようになってからである。隣町の田布施町が兄弟首相、岸信介と佐藤栄作の出身地だったこともあり、丹下研究室の大谷幸夫や黒川紀章が設計した公共建築を数多く見ることができた。建築学科に進学してからは、帰京する度に広島に立ち寄り、平和記念公園に何度も通ったことを記憶している。ちょうどオリンピック(1964)が終わったばかりで、代々木国立競技場を設計した丹下は、僕たち団塊世代のヒーローだったからである。しかし僕にとって広島平和記念公園の広場は、原爆反対や平和記念の空間というよりも、多数の人間が集合するモニュメンタルな空間という印象が強かった。

僕が大学を卒業したのは1969年の大学紛争の終了直後である。大学院では東京大学生産技術研究所の池辺研究室に所属することになったが、本郷の吉武泰水研究室に所属していた2年先輩の石井和紘に招かれて、彼が担当していた香川県直島町の小学校の設計に参加することになった。以後1977年までの約8年間、石井とのパートナーシップによって、直島幼児学園、直島町民体育館、直島中学校の設計を担当した。この間、石井はイェール大学に留学したので、僕は1人で事務所を切り盛りすることになったが、おかげで当時の三宅親連直島町長を通じて、金子正則香川県知事や山本忠司香川県建築課長といった人たちの面識を得ることができた。三宅町長の話として石井から伝え聞いたところでは、当初、直島小学校の設計は、金子知事や山本課長を通じて、丹下健三に打診されたが、丹下は学校を専門とする同僚の吉武休泰水を紹介したというが、真偽は定かではない。

直島に通っている間、建築課長の山本忠司さんにはいろいろとお世話になった。丹下の一連の仕事はもちろん、完成したばかりの自作の瀬戸内海歴史民俗資料館、さらには石工のイズミヤ邸や、民家を移築した彫刻家のイサム・ノグチ邸「イサム家」を詳細に案内してもらった。イサム屋には一泊しバッキー・フラーのスケッチや民族音楽のコレクションまで聴かせてもらった。さらに屋島近くの山上にある彫刻家・流正之の広大なアトリエで、当時、皇居前の東京海上火災ビルを設計していた前川國男に紹介されたこともある。

 

安藤忠雄に初めて会ったのも直島である。安藤さんは幼児学園のコンクリートの壁を見学に来てくれた。以後の安藤さんの直島の仕事については、説明するまでもないだろう。

05/22

石山修武 第90信

鈴木博之第27信 理想の建築としての「一間四面堂」香川県庁舎論に対して

鈴木博之の第27信はわたくしの作家論・磯崎新にとっても重要なモノであった。それ故ここでXゼミナールへの投稿と作家論・磯崎新を合体させた小論を試みることにしたい。良く良く考えるならば、わたくしの作家論とXゼミナールの形式自体は不即不離に併走したものでもあったから、この小論は形式的にもXゼミナール的作家論・磯崎新である。又、それを意図的に目指そうともしている。

世田谷村日記なるわたくしの戯れ文の連続にも書き記した事ではあるが(※注 世田谷村日記・ある種族へ1164)、2013年5月20日に鈴木博之と関西加古川の鶴林寺を訪ねる小旅行をした。ある審査会での建築物の見学を目的とした旅であった。

日記と名付けた思い付きのメモの連続も又、Xゼミナールと共にわたくしのあるや、無しやの乏しい思考作業にとっては、他人は知らず、重要なものではある。そのメモを記している小さな時間の中から大きいとは決して言えぬが自身にとっては捨てがたい思考の芽が生み出される事が少なくはない。年を経ると大方おぼろにではあるが自身の思考の形式らしきは自覚できるものである。又、自覚せざるを得ぬ寂寥感も又時に溢れ返る。これが個々の人間が親から、先祖様から継承した根深いクセ、つまりは才質なのだろうとガックリ肩を人知れず落したりもする。そのDNAとも呼ぶべきは伝統と拡大解釈できるだろうし、論理的にも極く極く自然にそうなる。自分の才質の系統樹らしきのカケラに想いをいたすのは、建築に於けるありや、無しやも含めて伝統について、歴史について考えることに同義である。それは一個の独立したモノとしては考えにくいものではある。特に近代化を果し切った今の日本に於いてはなおさらな事でもある。

人間には不様で理不尽な自矜のエゴイズムが無くとも良いのにまだある尾てい骨の如くに在り続けるからだ。しかし、自身とはまるで異なる質量を持つ才質に触れた時にだけは、そのエゴイズムは流石に鈍る。ウームとうなり頭を下げることになる。

2013年5月20日の加古川鶴林寺での鈴木博之の言説は、御本人は自覚していないだろうが、マア、これは自覚されていたならば嫌みになって顔をそむけるのだが、まさにそれであった。

鈴木は鶴林寺の国宝本殿と太子堂について、折衷様式と九間作り(呼称が錯乱しているが、しばらくは放置したい)について、わたくしに自説を述べた。短い言葉であったが、実物の建築物、しかも現代とはいささか遠い日本室町期、平安期のものであり、建築史家としての鈴木のアイデンティティとも呼ぶべきをダイレクトに背負っていたから、率直にその言は身に染み込んだ事ではあった。鈴木博之の専門は近現代でありそれはどうか、のクソアカデミー的区分けの俗論は退けたい。良い歴史家は歴史家特有の、あるいは固有の独自性=個性を持つ者なのだ。それは建築史家鈴木博之の作家性でもある。ある種の歴史家は、極めて固有な私性をも帯びた感性、論理性の併存した思考形式を持つ奥深い作家性を所持する者でもある。

それ故にこそ、磯崎新のような作家と、時に考えを異にした表明をせざるを得ない。丹下健三は歴然とした建築家であり、今に生きる安藤忠雄も又、建築家であり続けている。しかしながら、磯崎新の表現形式は建築家と呼び慣らしている実務家としての存在形式からは離れたものではある。建築家の多くは、というよりも大半は実務家であり、現資本主義社会に於いては社会性に染め抜かれた実際家でもある。磯崎新にしても建築の設計者であるときには株式会社磯崎新アトリエという矛盾まみれの組織形態を背景にして建築設計という実務をこなさなければならなかった。それを現実社会が仕向けたのであり、要求した。ところが磯崎新という存在形式はその社会が要求する枠組みから、常に逸脱するのを企て、希求し続けた。つまり、端的に言えば実際家としての建築家、現実社会に於いては実務家としての設計士の枠を踏み外し続けた。すなわち極論すれば作家としての存在形式を持ち続けようとした。磯崎新の処女エッセイとも言うべき都市破壊業KKはその事を如実に物語っている。そしてそれは若い時のてらいと気負いに満ちたモノだけに基盤を負わせたモノでは無かった。鈴木博之が丹下健三に対して言うように丹下が都市の中の建築の理想を変らず、一生を賭けて追い続けた様に、あるいはその対極とも呼ぶべき、近代都市の不可能性を、ほぼ一生を賭けつつ追求しているのである。

都市破壊業KKに登場したARATAとSHINの二重性は磯崎新が持ったアトリエと呼ぶ株式会社と全く同様、同質であった。勿論その二重性、矛盾は磯崎自身が十二分に自覚するところのモノでもあった。

鈴木が丹下健三をその生に於いて一貫した理想の所持者として評価するのは納得できる。細部に於いては首を傾けざるを得ぬけれど、それは人間であるから変な神様が特に細部に宿ることはいたしかたあるまい。丹下健三と磯崎新を、磯崎が愛したとも言うべき岡本太郎の対極主義になぞらえて、アポロ的なモノとディオニソス的なモノの両者として語る愚は犯すまい。ニーチェのギリシャ悲劇の研究を礎にしたその思考形式は丹下健三にも磯崎新にも適さぬのだ。似合わぬのではない。大きな間違いを犯しかねぬ。

丹下健三も磯崎新も、ギリシャ悲劇の背景も、そしてイタリアルネサンスの建築文化の背景も共に背負ってはいない。それは両者共に常に学ぶべきモノとして外にあった。あるいは外から来る、外へ出ていかねばならぬ一種の日本の近代の信仰に近い形式のモノとして外在した。

鈴木博之の第27信がわたくしの作家論・磯崎新に重要なのは、まさにその問題の核を突いているからだ。鈴木は丹下健三の初期の代表作である香川県庁舎について、特にその塔状部の平面計画の重要性について述べている。鈴木の論の骨子はその平面計画が日本建築の伝統の核の一つでもある九間四面の、つまりは田の字型の原理的平面への強い志向から生み出されたモノであると言うに尽きる。

今春、鈴木が述べる様に丹下健三設計の今は墨記念館に於ける講演で、わたくしはそれを初めて聞き、ハッとしたものであった。良く言われる如くに香川県庁舎の立面、つまり立ち姿の合わせ梁の繊細で、しかも強いリズムの造型調律が、そればかりではなく、その核に田の字型平面つまり九間四面への原理的志向があると、日本の伝統との連続性を鈴木は指摘したのであった。

5月20日の加古川鶴林寺行はその平面計画の伝統的原理性を、特に太子堂と呼ばれている日本の阿弥陀堂の平面形式に遡行するのを再確認する為のモノであった。

阿弥陀堂の建築計画自体にはわたくし自身もある種と呼ぶよりも歴然たる原理性を視ていたので深い関心があった。時代も場所も飛ぶけれど、ルイス・カーンの隠れた処女作であったかユダヤの共同浴場だったかの平面計画もパターンとしては田の字型パターンであった。

ルイス・カーンの建築も今のグローバリズムの津波の中では波間に見え隠れの、いささか覚つかぬ影響力しか持ち得ぬ建築ではある。が、そのユダヤ人に固有でもあろう原理性は孤立してはいるが、あるいはそれ故にこそ重要なモノであろうと考えてはいる。

つまり、阿弥陀堂はどうやら東大建築学科で太田博太郎が教示したらしい原理性を帯びた合理性を具有した。日本の建築の伝統の中では確然とした固有の形式を持つものであった。

では、日本の伝統建築、つまりは日本建築史の中で固有の意味を持つ阿弥陀堂の原理性について考えを進めてみたい。それは作家論・磯崎新の核の一つになるやも知れぬ。

5月22日

05/15

鈴木博之 第27信 理想の建築としての「一間四面堂」香川県庁舎論

以下の文章は、この夏、高松で開かれる丹下健三関連の催しのために1,000字の記事をかけと言われて、書いたものですが、もとは今春、愛知県で墨会館保存のシンポジウムに出て香川県庁舎に言及したとき、同席してくださった石山さんが、わたくしが指摘した香川県庁舎の正方形性を、面白がって下さったことによってまとめる気になったものです。また「間面記法」の意義については、磯崎さんが現在刊行中の著作集のなかで指摘しておられたので、改めてわたくしもその面白さ、そしてそうした記法の意義を説いていた太田博太郎先生の近代性に思い至り、さらにこの文章を書いておきたくなったものです。したがって、これはXゼミに出しておくのが本来のあり方ではないかと思い、提出する次第です。これもまた、石山さんの磯崎論に触発された副産物ともみることができるからです。

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香川県庁舎を論じるほとんどの人が、そこに見られる日本的な柱と梁の構造、軒に現われた垂木のような小梁の表現に言及して、丹下健三の日本的な造形表現だと結論づける。しかしながら、丹下健三の思考の根底には、建築の外見上の造形表現よりも、平面計画から発する設計の発想がある。わたくしは広島平和記念公園計画が、厳島神社の配置構成に範をとったものだと論じたことがあり、東京計画一九六〇に見られる東京湾上の都市軸は、皇居を内包することによってその意味を持つと論じたこともあった。

香川県庁舎の特質も、じつはこの建物の平面計画にもっとも大きく込められていることを論じたい。県庁舎事務棟は、正方形平面をしている。縦横ともに三スパンの正方形である。そして中心部分の一スパン四方の正方形部分が、建物のコアになっている。こうした平面構成は、近代的なオフィスビルの定石だと見られるであろうが、この平面形は近代建築と見るよりも、日本の伝統的な「一間四面堂」の形式と見るべきである。

「一間四面堂」とは、四本の柱で囲われた正方形の建物の四周にぐるりと軒を張り出した形式の建物のことで、阿弥陀堂や常行堂などがこの形式をもつ。建築をこのように表現する方法を「間面記法」といい、わが国には珍しい空間的建築把握の発想である。太田博太郎はこの表記法を高く評価し、阿弥陀堂を一種の完全な空間構成と理解している。

丹下健三は県庁舎事務棟を一間四面堂とおなじ平面構成にすることによって、完全な空間構成の建築を実現しようとしたのである。それは広島平和記念公園や東京計画一九六〇と共通する、伝統のなかから近代によみがえり得る完璧性、超越性を見出す発想である。香川県庁舎事務棟の平面構成は、「一間四面堂」形式であることによって、日本に根ざしたヴィラ・ロトンダ(A・パラーディオ設計)となり得たのである。

「一間四面堂」のように、中心に正方形平面があり、その四周をおなじスケールの正方形が囲むかたちは、丹下健三にとって理想的形式でありつづけた。現在の新東京都庁舎が竣工したばかりの頃、わたくしは彼から、直接つぎのような説明を聞いたことを鮮やかに思い出す。

「東京都庁舎の議会棟前の広場は、新宿副都心のなかで、唯一前後左右がすべて超高層街区で囲まれた場所なのです。つまりここが東京でもっとも都市性の高い街区なのです。そこでこの広場をもってきた。」

丹下健三の視点は、生涯を通じて一貫していたのである。

05/11

石山修武 第89信 「ネコのインテリア」鈴木博之

東京新聞夕刊1面コラム・感想

世田谷村にもネコが居る。名前は多く在る。何故ならば家族各人が勝手に好きな様に呼んでいて、それがバラバラであるからだ。

わたしは「白足袋」あるいは「タビ」と呼んでいる。他は「ポンポコリン」とか「コラ」とか呼んでいる。

白足袋と呼ぶのは視覚的に猫をとらえているからだ。手足の先と胸もとだけが白くって目立つ。コヤツはその目立ち方で、それだけで兄弟五匹の中から拾われ、命を得た。他は保健所で薬殺され、焼却炉で処理された。つまり、捨て猫であった。

「ポンポコリン」と呼ぶ人は、パピプペポの音感に猫は一番反応するのだと言い張る。理屈ポクてわたくしとは考えが全く合わぬ。猫の聴覚への関心よりも、自分のフテブテしさを反省せよと言いたいが、言えば当然争いになるので、今はジッとこらえている。

「コラ」とか「ダメ」と呼ぶのは最も良くネコと馴染んでいる人間で、これは名前を呼ぶ必要が無いのであろう。

白足袋は一度、何日か世田谷村から姿を消した。いつもいささか高い二階から外を眺めていたのでタビに出たのであろうと思った。白足袋タビに出るの図であった。恐らく外では本物の野良猫やらに徹底的にヤラれたのであろう。たいしたケガも無く、ある日フッと帰って来た。それからは外には一切出ない。二階から遠くを眺めるのも無くなった。つまり、わらじならぬ足袋をぬいでこの世田谷村に居つくしかネェなと決めたのであった。ネェなと代弁するのはこいつは雄である。

飼い主は飼い猫に知らず似ると言う。わたくしも、最近はあんまり遠くをボーッと眺める事も無くなった。遠くへの旅に出たいとはあんまり考えなくなった。脚力が落ちただけなのかも知らぬが、ネコに似たのでもあろう。

それで遠くへは行かず、近くのモヘンジョダロの原っぱとか、ビワの樹の王とか、正一位いきもの稲荷社とかを巡る小さな旅に明け暮れている。その詳細は「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へへ」にポツリポツリと書き続け始めた。わたくしの日常の足つき、足取りである。

その小さな、それでも旅の最中にタマに出会った。こいつはわたくしの食費の数倍を日々消費する金満家であり、お洒落なチョッキまで着込んでやがる。毎日、晴れた日はモヘンジョダロの遺跡で御主人の石森のダンナと遊びほうけている。まことに幸せなネコである。飼い主はタマでなくって「チイ」と呼んでいる。わたくしは、それはヨセ良くない、タマとしたらと言って一度、言い争いした。

「何でチイじゃいけないんだ」

「キミ、考えても見たまえ。チイなんて、そこらのスナックのおネェじゃあるまいし、大体品が宜しくない」

「言いましたネェ。わたしには品はなくっても愛があるんです。なあ、チイ」

そこで、いきなり、タマならぬチイか、チイならぬタマが突然、猫語でしゃべり始めたのだが、それは又。

 

とも角、何の取り得も無いような街にも、知り合いの猫がいて、飼い主もいて、それ等とネコ言葉ならぬ、でも似たような、品はなくても愛があるんだの如くの妙な会話を交わしていると、妙な事に街の姿が一変するから不思議極まるのです。

5月11日朝

05/01

石山修武 第88信 「国立近現代建築資料館」鈴木博之

東京新聞夕刊1面コラム・感想

鈴木博之の連載コラムの追っ駆けを続けてきたが、2度程休んだ。何故休んだのかを言うのは、これは何故書き続けるのかを言うよりは余程容易だ。

明治村の茶会についての言は正直言って何処にも引掛かるところが無かった。新国立競技場コンペ最優秀案に関しては意見を完全に異にしていたので見送った。それに、流れにサオ差してまで言い張る事でも無かった。

それで今回の紙つぶて17、「国立近現代建築資料館」である。

昨年から今年にかけて建築史家鈴木博之は大きな収穫期を迎えているように思う。

東京駅の復原の完成、そしてこの国立近現代建築資料館の創設である。鈴木博之ひとりの仕事ではないけれど、鈴木博之が中心となり進めてきた事ではある。鈴木が居なかったら覚つかなかったろうし、共に陽の目を見る事も無かっただろう。

わたくしは手をこまねいて、ただただ邪魔はすまいの努力をしただけだ。近くの傍観者であった。

 

歴史家は自らの業績に関しても、社会との相対性を帯びた自覚の持主である。特に一流の歴史家程にそうである。

2013年春現在、この2つの国家的な事業は鈴木博之の業績の双璧ではないか。

一般的に建築史家の業績は論文であり、書物での成果でもあろう。

が、しかしそれは失礼な言い方になろうが凡百の史家に対するモノである。

鈴木は常に運動らしきを目指そうとする処がある。その事が歴然として歴史家の存在形式がともすればアカデミーの枠の内に閉じ込もる凡庸さをハッキリと抜け出すところでもあった。

しかも常に単騎独行である。単騎の運動とは矛盾そのものではないかのつまらぬ指摘もあろうが、それは正当ではない。

何故なら日本の近代、現代の建築および都市がはらむ問題の深さ、ねじれた接木現象とでも言うべきは、いまだに集団での作業では探究し得ぬ、余りにもな特異さの中にあるからだ。

これは一人の人間の想像力、構想力を含む知性がその知性内で最大限の意志と力を振りしぼって究めるべき、先ずは単独の結晶化した成果とも言うべきを必要としている。

近代建築の成果の保存と再生は鈴木博之のライフワークである。

しかもその日本の近代建築とはヨーロッパ建築史の成果を一方的に受容し、日本化せしめねばならぬ骨格をも所有していた。

辰野金吾設計の東京駅は世界的には二流の近代建築であり、莫大な金をかけて迄、丸の内の経済的発展のためには二の次であるの論は非常に強かったろう。

それ等を鈴木は眼に視えにくい、文化的とも言えるだろう力に対しても営々たる努力をしなければならなかった。

 

東京駅の保存、復原は単なる明治建築の代表作とも言うべきの保存、復原では無かった。

日本の近代建築の何がしかを保存し、出来得れば復原することが、創造の名のもとにされる設計、建設作業と、同等の、あるいはそれ以上の文明、文化的価値があることを示そうとする事でもあった。

それを我々はその復原作業の成果として目の当りにする事になったのである。 国立近現代建築資料館の創設は安藤忠雄が良くバックアップし、尽力したとは言え、これも鈴木の執念の成せる技であった。

しかし、こちらは決して小さくはない問題を抱えているように思う。

建築家達をはじめとする、設計業界、建設業界他の業界の近代建築の保存に対する関心の薄さもその一つであろう。

つきつめれば保存は金にならないという、短絡振り、あるいは明日の経済効果からの価値基準の横行振りの総じての無頭文化、産業の相も変らぬ近代そのものの骨格振りなのでもある。

東京駅の大がかりな保存、復原は脱近代の産業のあり方を良く示しているのを業界はいまだに気付いていない。

 

時間がトヨ状に流れていくという近代の歴史観に対して、鈴木博之はウェブサイト時代の空間意識について興味深い考え方を示している。

ケイタイやiPadを新生動物の如くにあやつり、あやつられている人間達はそこに居てそこに居ない。つまり今の空間は人間が居るところに時に穴がポッカリと開いてしまっているとするのだ。建築の保存、再生はそんな意味では時間そのものに関わる脱近代の典型的な産業でもある。

 

さて、この草稿がXゼミナールのサイトにONされるであろう、今日又は明日に実は鈴木博之の紙つぶてコラムはまだ発表されてはいない。

皆さんがそれを読む頃にはわたくしはインドへの飛行機の中であり、新聞コラムは読める状態ではない。では何故にかくの如くに読んだ如くを書いているのか?

つまり、空間はすでに穴が開いているばかりではなくメビウスの輪状にゆがみ切ってもいる。

5月1日、記

04/12

石山修武 第87信 「新歌舞伎座」鈴木博之

東京新聞2013年4月11日夕刊・感想

今話題の新歌舞伎座について論じたものだ。歌舞伎という江戸以来の大衆芸能は演者すなわち役者の大看板が次々に亡くなり、その継承が危惧されているようにも思うが、建築の方は鈴木が指摘するように「福地にはじまり、岡田、吉田、隈とつづく流れのなかで———五代目隈研吾襲名披露といった方がふさわしく思われる。」の視方が在るぞの表明である。

「こうした継承のあり方は命の本質を見るようで興味深い」とも在るがここがコラムの中枢であろう。当然、何の命なのかと考えさせられる。恐らく鈴木はダーウィンの種の起原から進化論までを視野に入れて書いた。つまり、ありとあらゆる生き物、樹木、花も含めた生命体と建築様式を同一視したいとのこれも又、はっきりとした考えの表明でもある。建築の様式は近代的な建築家の個性、あるいは個別に独立した才質によって進展、変異、創造されるものではない。それを包み込んだ時代精神らしきが反映されるのだ。と鈴木は言おうとしている。

隈研吾はこれまでの吉田五十八の設計と「なかなか区別がつきにくいほどよく似ている」ような作法を選んだ。あるいは依頼主のそれは要求であったやも知れぬが、それにいとも悠々と抵抗せずに従った。この姿勢に時代を感じる。あるいは切々と感じさせられるのである。歴史にもしもは禁句である。がしかし禁を犯してみたい。

丹下健三がもしも歌舞伎座の設計を頼まれていたら?丹下は決して断りはしなかったろう。大阪万博以前の丹下であれば様々な意匠を試みたやも知れぬ。まさか岡本太郎に桃山風の唐破風は、今度は任せたりはしなかったろう。歌舞伎は傾くの意があるがやはり伝統の枠の内で保持され続けた芸能であり、マルセル・モース張りの蕩尽は決して許されはしなかったろう。

磯崎新にもしも歌舞伎座の設計の話が持ち込まれたら、それは想像するだにいかにもありそうにない話ではあるが、もしもである。磯崎はプロデューサーとなり、美術ディレクターに江戸の複製美術に堪能なスタイリストを抜擢したやも知れない。

もしも、安藤忠雄にこの話があったなら、彼は後ろの高層ビルの方を取って、歌舞伎座の方はワシはやらんと割り切ったであろう。

村野藤吾の大阪新歌舞伎座が思い浮かぶ。自然に。村野藤吾の大阪新歌舞伎座はクライアントから安土桃山様式でやってくれと依頼されたもので、村野はそれに当然のように従った。しかし、隈研吾とはその従い方は少しちがった。隈の方法は鈴木博之好みの「建築の保存」あるいは様式とは言わずとも様態の連続に近いやり方である。しかし、村野藤吾の大阪新歌舞伎座は、その意識、方法の外に自由に在る。桃山の唐破風が九つ、四層に連なる、という綱渡りにも似たケレンをやってのけ、しかも破綻を感じさせなかった。モダニズムの枠から外れていただけである。しかも大阪らしさが表現されてもいたのである。村野藤吾は東京ではあのような意匠を決して成さなかったであろう。その意味では東京の新歌舞伎座のデザインはいかにもな東京スタイルでもあった。

4月11日、記

04/04

石山修武 第85信 「ネランさん」鈴木博之

東京新聞2013年 記事・感想

上図:東京新聞、2013年4月4日夕刊コラム『紙つぶて』より

 

作家論・磯崎新の第2章を書き進めていたら、実に絶妙なタイミングで鈴木博之が「ネランさん」のコラムを東京新聞に書いた。

書いたというよりも、わたくしにとっては書いてくれたと言うべきであろう。作家論・磯崎新もわたくしにとっては第2章に入り、そろそろ正念場になっている自覚がある。正念場というのはあやふやな抽象論の範疇の事ではない。Xゼミナールの鈴木博之とわたくしとの考えらしきの相違を浮き彫りにしてきたからでもある。ゼミナールのこれは特権でもあった。考え方の相違を浮き彫りに出来たのである。

わたくしの赤裸々な知的欲求は、何故、こんなに鈴木博之の磯崎新への考えと、わたくしの考えの間に開きらしきが発生したのかの一点に絞られつつある。普遍的思考は一点の特殊点から派生せざるを得ない。それなくしては意味=価値も無いだろう、がわたくしの考えのベースである。

鈴木博之が記している「ネランさん」は、わたくしにとっても実に印象深い、記憶に残る実ワ、クライアントであった。鈴木博之がコラム中に書いている、ネラン神父の新宿のエポペなるBarは実にわたくしが設計した。鈴木博之が、ヤレと言ったので従って設計した。それでネラン神父とは度々会う事になった。これは東京新聞の「ネランさん」を読んでいただくしかない。

その後である。わたくしはネラン神父のエポペのスタッフたちに誘われて、インドに旅する事になった。ネラン神父の信仰に導かれて、インド・カルカッタ(現コルカタ)の、マザーテレサの「死を待つ人の家」へ共に旅をする事になった。カルカッタでは数日、マザーテレサの「死を待つ人の家」で、今で言うボランティア活動に従事した。

恐ろしい体験であった。

ライ病の人々の背中を洗ったり、重度の結核病者の部屋を水で洗って清掃したりの、それはそれはボランティアの概念をはるかに超えた体験を得た。

これはわたくしにとっては異様な体験であった。マザーテレサに象徴されるカソリックの実践を間近に感じる事ができたからだ。わたくしは、ライ病の人間の背中を平然として洗い流すことがとても出来はしなかった。手をさしのべてくる病者の手だってにぎり返すこともできなかった。ヨーロッパのカソリック信者達は実に自然にそれをなしていた。徹底的に信仰というものの現実を見せつけられたのである。

それ以降、わたくしは日本のみならず仏教に対してかなり懐疑的になった。光明皇后がライ者の背中のウミをすすったと聞いても、現実の仏教徒や、特に日本の僧侶に対して、そんな意表の形を感じる事ができなかったからだ。そんな疑いがあるからこそ、わたくしは日本仏教にかなり批判的に接近したのであった。話は跳ぶが、それで、今度、日本の僧侶と共にヴェトナム迄旅をする事になった。ザビエル、フロイス以来、日本の僧侶は何をしているのかの感が深まっていたからだ。

それはさて置き、先日、鈴木博之とネラン神父を偲ぶ会に出掛けた。偲ぶ理由はわたくしにもあったからだ。それで、初めて東京カテドラル聖マリア大聖堂の内に入った。丹下健三の作品である。ネラン神父の導きもあったのだろう。実に多くを感じさせられ、同時に考えさせられた。こんな時は実ワ滅多にない。

感応と意識が一瞬にして同一の地平に融けたのである。

一番驚いたことの一つは、丹下健三の大聖堂の内部が実に強度のある天への志向を持っていた事と、堂内にミケランジェロの名作中の名作、ピエタの見事な模像が大事に陳列されていた事である。

ミケランジェロのピエタは勿論まがいのピエタであったけれど、実に崇高な何者かをみなぎらせていた。そして、わたくしは丹下健三が卒業論文とした「ミケランジェロ頌」が実に丹下の真実であった、つたない言葉で言えば、真心であった事を直観したのである。丹下健三は心底からミケランジェロへの憧憬を中心に持ち続けていたのだ。だからこそ死後ここで永遠の眠りにつく事も強く望んだ。

そして、磯崎新にはそのシンプルさが、時と場所を超えた崇敬の想いらしきがすでに失せていたのであった。デュシャンにだから行かざるを得なかったのである。

この辺りの事は作家論・磯崎新、第2章に書き進めるつもりだ。痛烈なる批評を寄せられん事を祈りたい

03/21

石山修武 第82信 「おかめ桜」 鈴木博之

東京新聞夕刊1面コラムへの感想

建築写真家・二川幸夫追悼のためウェブサイトを一週間閉じた。故にこの鈴木博之のコラムの追っかけコラムも一回休みとなった。マア、これは仕方が無い。人生にはやむを得ない事は決して少なくはない。むしろ歴史とはそれの連続だと、大きな口をたたくけれど建築史家の追走なのでそれ位は許されたし。鈴木博之夫妻の家には度々おじゃました記憶がある。確か、建築家・安藤忠雄、ファッションデザイナー・三宅一生共々夜になって押しかけた思い出もある。安藤忠雄の東大教授就任祝いの時だったか。もうだいぶん時が経つな。就任祝いであったからやはり季節は春だったのではなかろうか。定かではない。その時にはこのおかめ桜は眼に入らなかった。「バラと違って、この桜は華やかではあるのだけれど、どことなくひっそりとした風情があって……」は建築史家の鈴木の矜持のつぶやきである。その夜、鈴木邸は華やかな花が咲いて明るく輝いていた。桜の安藤、バラの三宅が咲き匂ったのだから。鈴木邸は押しつけがましくはない、控え目な、それでも植物愛好家の家の風情が実ワある。玄関には恐らくイギリス趣味の表現なのだろう、黄色いバラがつるをからませていた筈だが、やはり、その夜の記憶にはない。人間は一代の過客にすぎぬが、花だって実はそれに近い。でも、花が主役の家や庭は想像もつかぬ。やっぱり、花を眺めて、何はともあれ「アア」とため息をつく人がいて、初めて花の生がある。……と、これは実は老人になった今の正直な実感ではない。桜もバラも、それぞれの事情で急に姿が見えなくなる事もある。あるいは人間の姿が見えなくなっても咲き匂う桜もバラもあるだろう。

 

見事な桜も美しいバラも、考えてみれば実に孤独な生き方をしているのだ。しゃべる言葉があるならば、ひとつひとつの花を咲かせるのに「アア」とため息をついているやも知れない。

 

わたくしの家の近くにはモヘンジョダロと勝手に呼んでいる原っぱがある。桜の古木が数本見事に花を咲かせ続けている。この原っぱはS社が日本住宅公団だったか?から払い下げられて、再開発の噂が絶えない。昨年はここの桜の花の下で近所の知り合いが集り、弁当をつまんでの花見をした。今年も花見は出来るかも知れぬが、来年はもうどうかは分らない。広い原っぱの中には古木ではないが毎年それはそれは滝の如くの花をつけるしだれ桜もあり、その隣りにはミカンの大木もあり、実に見事な花と実と葉の配色の妙を生み出していた。又、ビワの樹の大木もあり、わたくしはビワの樹の王と呼び、尊敬してきた。この樹には実に多くのカラスが群がってビワの実をついばんでもいた。恐らく、それらの樹々も花々も間もなく、何がしかは切り倒されて、そんな記憶の数々も、これはわたくしだけではなく、そこを通り過ぎる人々の全ての記憶に残っていたモノに違いないが、それも消えてゆくのだろうと思われる。

 

近くに住み暮し、この樹々のある道を毎日のように通り過ぎている者の、マア一分のタマシイとして、できるだけ樹々は切り倒さぬように、出来れば一部を公園とせよと、近隣の人々と共に申し上げるつもりではいるが、他人の土地だ、どうしようもあるまい、が大方の意見でもある。

 

ディベロッパー、そして建築家には樹木と花の歴史というような、それこそひっそりとした文化的価値は恐らく眼中にも、腹の中にも皆無ではあろう。 でも樹々とその花の生命は出来る限り残すはかない努力だけはしたい。

03/07

石山修武 第81信 明治時代最大の地震

東京新聞夕刊1面コラム鈴木博之への感想

東日本大震災から二年、で始まる鈴木博之の今回のコラムは実に大事な事を示唆している。歴史家は慎重に過ぎる嫌いが、時にあるように思われるので、歴史家ではない自由な勝手さを少しばかり振り回して、さらに歴史家の言いたかった先をそれこそ勝手に想像もして、発言することにしたい。鈴木は、関東大震災以後、耐震建築は鉄筋コンクリートに限るという考え方が一般化した、と指摘している。一般化とより広く社会化させて言うよりも、この件は正確に構造設計家、構造技術者の間でそう考えられ、それがより広く社会的に流布したと言った方がより正しい。

 

技術家の考え方はとかく一元的に抽象化してゆく頭脳の、それこそ構造を持つものだ。それ故にこそ技術者の径を選択し得るのだが、彼等の思考形式にはより広い文化的価値、あるいは人間の生活に密着している筈の美の問題らしき、より複雑な価値観は入りにくいのが大方の現実であろう。だから、極く極く単純に耐震構造はレンガ積みよりは一律鉄筋コンクリートの方が良い、つまりは単純な計算式に乗せやすいという思考回路が発生する。あるいは単純に生まれやすい。デザイナーの、あるいは複雑な文化的価値をこねくり廻す創造家の思考より実にストレートな単純さを持ってしまう嫌いがある。

 

わたくしはカンボジアの首都プノンペンに建築を設計した体験を持つ。構造設計家の梅沢良三に構造を依頼した。プノンペンは大きな地震が少ないエリアである。梅沢良三はだから自在な発想を持ち得た。わたくしもその自在さを重要だと考えて、おおいにとり入れた。梅沢はコンクリートは無筋コンクリートが理想なのだと言い切り、この建築の一部に無筋コンクリートを試みることにした。アンコールワットと同様のレンガ積みを主体として、そのレンガ積みの壁に帯状の無筋コンクリートのベルトを廻すことにした。鈴木博之が指摘するように、英国人建築家ジョサイア・コンドルがレンガの壁に帯鉄を敷き込む補強法を考えたのと同様である。古代エジプトのピラミッド構造にも石積みと石積みの間には無筋コンクリートが工夫され入れ込まれていたようだ。

 

ただ、地震が無いと言われる地域にも、どんな天変地異が起きるのかは人知の知り得ぬところがあるから、謂わゆる鉄筋コンクリートの柱と梁らしきは備えるように、これも又、技術的必然とは別に意匠上の工夫として付け加えることにした。そうしてレンガ積みと無筋コンクリート、そして鉄筋コンクリートが混成した構造物を設計し、実現することができた。

 

その体験から、この混成的な構造方法は充二分に日本の現実にも使用できると考えた。そして川崎市の大型の複合幼児施設でも試みることが出来て、そこではわざわざカンボジア産のレンガを輸入して、鉄筋コンクリートのスケルトンと混成させたのである。

 

技術者、あるいは技術家は混成系の論理をきらう。そう言い切らぬまでも、そのキライがあることは事実であろう。それだけの理由あるいは因果で、我々の身の廻りの生活からレンガ壁に限らず豊かで多様な質感が失われてゆくのは実に問題なのである。技術的思考は本質的に均質な様相、一律な擬似論理を求めて止まぬキライがある。それは工夫の足りぬ無易に通じ易い考え方でもある。

今の時代の、真の創造とは多様性を求めるに近い混成系への工夫に本筋の筋があると、わたくしは考えたい。

02/28

鈴木博之 第25信 三冊の書が形成する建築家たちの偶然の星座

昨日帰宅しましたら、難波さんから『新しい住宅の世界』が届けられていました。無論、これまでブログでも語られてきた放送大学での教科書です。建築の4層構造に従って、住宅も位置づけられ、建築家がつくる住宅はビジョンをもつところがメーカーの供給する住宅と違うと書かれています。このビジョンとは何なんだと興味がわきますがもう少しゆっくり考えなければいけないでしょう。住宅は家族像との相関で決まるから、家族像はどうとらえられているかを見てみると、一応家族の解体のような現象も考えられているけれど、基本的には複数の人間がともに住むという前提は守られていて、そのなかでの関係性の問題に整理されてゆきます。山本理顕の住宅の構成がひとつの未来像として参照されるのですが、単身、独居、テンポラリーな同棲など、不安定であったり、ばらばらであったりする家族の断片は、ここでは対象外になるのでしょうか。

 

極めて緻密に組み立てられている住宅建築分析でありそうなので、即断は避けますが、戦後の公営住宅を支えた政策学としての住宅建築理論(吉武計画学が典型)を越えつつ、商品化住宅論を蹴散らし、健全なる住宅を提示してゆくらしく感じられつつも、そうした健全さが朽ち果てつつあるのが住宅の現在ではないかと思ってしまうのです。これについては、ゆっくり拝読のうえ、改めて考えたいと思いました。

 

同時に配達されていたもののなかに、隈研吾さんの『建築家、走る』がありました。これは長らく彼を追いかけている清野由美氏による聞き取り本で、こまぎれの時間のなかで聞いた話を構成していったもののようです。隈さんは、建築家は「プレゼンテーションの連続だ」と語っていて、そこで造り上げる自己イメージが、外部から与え返されるかたちで自分となってゆくプロセスを語っているようです。これも通読したうえで感想をまとめたいと思いますが、M2を設計して東京での仕事を失ったという話が繰り返されていたりして、これまでの本の内容のおさらいのような本なのかもしれません。彼ほどのペースで建築を作り、本を出してゆくとするなら、85パーセントはこれまでの繰り返しを行い、残りの15パーセントのなかに多少なりとも新機軸を込めるというスタイルをとらざるを得ないのかもしれません。

 

さて、昨日はもう一冊本が届いていて、これは岩波書店からで、わたくしのところに岩波なんぞ来るわけはないと不審に思いながら開けてみたら、磯崎新建築論集1で、月報には石山さんが「死んでも死なない磯崎新」を寄せています。この原稿は昨年末、書き上げると同時にコピーを頂いていたので改めて読み返しました。今回面白かったのは、編集協力の横手義洋さんが書いている解説の出だしでした。横手さんは、磯崎さんの著作は駒場の図書館にはずいぶん揃っていて、それを見て建築の幅の広さと可能性を感じて、建築学科に進学して見たら、本郷の建築学科の図書室には彼の本はあまりなかった、というような意味のことを言っています。「駒場」「本郷」と言えば、大学入りたての時期と、専門課程に入った時期、という区別とイメージが湧くはずだという思い込みというか、「解るだろう」というような言い方は、東大出のいやらしさで、慶応の連中が「日吉」とか「三田」というのに近いのかもしれませんが、あまり他人にいい感じを与えるものではないでしょう。けれども、じっさいには「駒場」と「本郷」というのはそこに身を置いた者には、単なる入学時、卒業時といった時間の差だけではない複雑な場所のイメージを伴ったものなのですが。

 

それはともかくとして、横手さんのこの指摘は、われわれの世代にはなかったもので(まだ、磯崎さんの著作が教養書となる以前でしたから)、大変面白く思いました。つまり、磯崎さんの本は駒場文化人には解りやすい教養あふれる建築書であるけれど、建築学の領域のものにとっては一般書の類であって、資料、研究書、記録などとして図書館に収める書籍の序列としては低いということなのです。彼の著作はあまりにジャーナリスティックだと受け止められてきたのです。今回の「建築論集」のなかの坂倉準三論を再読して見たのですが(横手さんが興味深く触れていたので)、前川、丹下ラインを押していた岸田日出刀にとって坂倉は外れた存在であったために、彼はコルビュジエのもっとも正当な日本人の弟子であるにも拘らず、その地位を得られなかったという分析がありました。これは、磯崎さんが自らをそこに重ね合わせた解釈だと思われ、磯崎さんの存在は、国家的しごとや東大教授としてのしごとをしたかったにも拘らず、そこから弾かれてしまった存在だという自己認識が見え隠れします。国家についていろいろ考えたにもかかわらず、国家からは歯牙にもかけられなかった日本浪漫派に共感を寄せる磯崎さんは、まさしく自己をそこに見るからでしょう。この文章のなかで、磯崎さんは岸田日出刀のことを何度もインプレサリオと呼んでいます。これは「大物プロデューサー」とか「成功請負人」という意味のようですが、こういう言葉が説明なしに出てくると、われわれはビビります。こんなところが「駒場教養人」受けのするところで、一般人から浮いてしまうところなのではないでしょうか。磯崎さんはそこに自己イメージを置きたがっているようです。

 

坂倉準三につらなって出てくる小島威彦という人は、わたくしも興味を持っているのですが、何かの闇もそこにはありそうです。彼がつくったクラブ関東とクラブ関西は現在も健在で、わたくしはラスキン文庫という財団がクラブ関東で会議をするので出入りし、クラブ関西では安藤忠雄さんの財団が時折会議をするので出入りするのですが、そうした「文化」の文脈に、磯崎さんはどういう嗅覚を働かせているのだろうと、変な興味を感じたりするのです。

 

ともあれ、偶然に難波和彦、隈研吾、石山修武の月報のついた磯崎新の著作に同時に触れたので、これで今の建築界のひとつの星座が完成するなあと、感慨を催しました。構成の定まらない即自的反応を書けるのがXゼミのありがたさですね。

02/24

難波和彦 第25信 相対化と平準化について

鈴木博之さんがXゼミ第23信「聡明なる〈表現〉とは」で、僕のモットーである「行動自体を価値判断の表明にする」ことの難しさについて指摘している。僕の理解では、鈴木さんの主張はこうである。何かについて述べる行為が、その対象に注目しているという価値判断のメッセージとして受けとめられることはほとんどない。大抵は述べた内容がリテラルに伝わるだけである、と。確かにそうかもしれない。大抵の人は、言説を背景のコンテクスト抜きに受け取るからである。その極端なケースは「無視」あるいは「黙殺」という態度表明である。鈴木さんは、師匠であるふたりの建築史家、稲垣栄三と太田博太郎の批評に関する対照的な態度を例に挙げて、「無視」が否定的な批評になりにくいことを見事に説明している。本人の意図としては「無視」は究極的な「否定」だろう。しかしながら、現実の態度として「無視」は「沈黙」つまりno-messageにほかならないから、余程センシティブな人でないかぎり、「無視」からは何のメッセージも受け取らないということである。要するに「否定」と「無視」とは、まったく異なる態度なのだ。正確に言うならば、「否定」とは、まず対象の存在を確認した上での否定、つまり「肯定の否定」なのである。

 

僕の日記を読んで、直ちにそこまで読み込んだ鈴木さんの眼力には心底脱帽である。僕は目から鱗が落ちる思いがした。そして、幾つか思い当たる出来事を想い出したりもした。そして、この問題について数日間考え続けた挙げ句、ひとつの仮説に辿り着いた。それはこうである。

鈴木さんの主張は、やはり言説の世界に生きる人の主張である。「否定」と「無視」の相違がはっきりと存在しうるのは、言説の世界だけだからである。「否定」が「肯定の否定」だとしたら、建築のような視覚的表現の世界では「否定」は不可能である。なぜなら、建築の世界には「肯定」しかないからだ。建築においては、ある対象を存在させた上で(肯定)、それを消去すること(否定)は不可能である。存在するものは、肯定されたからこそ存在しているのである。表現から排除されたもの、つまり否定されたものは、そこには存在しない。言説とは異なり、建築においては「否定」と「無視」の違いは存在しないのである。

 

この問題は、アイロニーやパロディといった問題にまで拡げることができるかも知れない。1970年代から80年代にかけて、ポストモダンの時代には、ロバート・ヴェンチューリや磯崎新を初めとして、多くの建築家がレトリカルな建築表現の可能性を追求した。その延長上で、建築の批評性という問題も論じられた。そのモデルが言語にあったことは明らかである。しかし否定形の有無について論じられたことは、ほとんどなかったような気がする。ポストモダン建築の限界は、そのあたりにあったのではないだろうか。

 

今ここで、僕が行っているように、言語は建築について論じることができる。言語はあらゆる対象について論じることができる。言語は言語自体について論じることさえできる。つまり、言語はあらゆるものを相対化できるメディアである。しかし、その相対化は、しばしば自己矛盾をもたらす。たとえば、歌や詩の中でよく用いられる常套句「言葉にならない」も他ならぬ「言葉」である。言語が言語を否定している。言説とその対象のレベルの混在。それは「肯定の否定」が可能であることから来ている。しかし、建築には平準化された「肯定」しかない。

02/21

石山修武第80信 鈴木博之「責任とは」

東京新聞夕刊コラム感想 2/21/13

ネット時代の発言、たとえばわたくしのこのような発言が典型なのだが、その責任について鈴木博之が書いている。情報の大衆化の趨勢はウェブサイトの時代、ツィッターの時代になっている。新聞の1面とはいえコラムに対する感想、批評まがいを今書き続けようとしているのだが、典型的な情報時代に特有の歪みみたいなモノを記しているのだな、はもちろん自覚してはいる。相当に変な事をしているのはよく知るのだが、変だと自覚するのには、もしかしたら重要な種が隠されているのやも知れぬ。いささかな希望もないわけではない。コラム連載者への個人的な関心以上のものがあるに違いないのだ。

匿名の発言中傷はウェブサイトでは陰微な病ではある。陰湿な攻撃、罵詈雑言は軽犯罪の域を超えて、すでに在る。ただただ匿名の自己防御カーテンに隠れての性犯罪まがいの性格も持つ。わたくしのサイトではサイトの運営者が今のところ独自にいるので、わたくしに直接その陰湿で卑劣ひ弱な歪んだ暴力は排除して見せぬようにはしてくれている。

「あんまり恥ずかしくて見せられませんよ」と暗い顔でつぶやいている。匿名の言葉の犯罪は現代人、情報化社会の最も卑劣な類に属するものだと思うが、今は追跡する価値もないと、匿名には堂々たる侮蔑無視を決め込む事にしている。しかし、この現代の匿名のヴェールは、極論すれば核融合炉の、炉心の隔壁の厚さ位に厚く、人間の尊厳の根底を脅かす体のモノではある。新聞記事に於いても記者の記名記事が多くなりつつあるのは情報社会の最低の倫理ではあるだろう。

 

たしかに鈴木の言うように実行の人に特有の寡黙さの如くはあった。小林秀雄の『無私の精神』に書かれた如くの寡黙さはある。ごもっとも、ご覧の通りの、ほぼ二通りの言葉しか発さない実行の人を小林は無私の精神とよんで自らの鏡としたようだ。

考えぬいた意識の涯の寡黙と、現代の情報社会の匿名は対極にあろう。今の匿名のヴェールには、繰り返すが、明らかな犯罪のにおいが漂う。そして公衆の面前での立ち小便、性器の露出等が軽犯罪であるのなら、匿名での言葉の暴力はこれはすでに軽犯罪とは呼べぬのではあるまいか。

鈴木博之はコラムの結びで、匿名の責任についての現代に於ける不条理について、明治の人に学び直したいものだ、と言っているが、いささかそれは生ぬるいと考えた。明治の人に学ぶ前に、情報犯罪として厳しく摘発する手段を公的に講ずるべきだと、わたくしは言いたい。

2/18

鈴木博之 第24信 リアスアーク再訪

石山さんも難波さんも、ブログをもっておられるので日常的な感慨はそこで述べておられますが、そういう場を待たないわたくしは、ここで心情を吐露させていただきます。

昨日、気仙沼のリアスアーク美術館を借りた小さな勉強会があって、そこに行く機会があり、本当に久しぶりに気仙沼を訪ねました。前日の夕刻まで東京で会があり、その日は一ノ関までたどり着くのがやっとでしたが、翌日気仙沼につき、被災地域をぐるりと案内していただきました。二年が経とうというのに、あちこちで土盛りが始められているものの、町のすがたは見えていませんでした。この問題はここで論ずるには大きすぎます。

リアスアーク美術館に着いて、この建築とも久しぶりの対面をしました。これほど作りたいように作った建築も少ないでしょう。見たい光景を得るために階段を作り張り出しを作りバルコニーを作る。航空機や船舶を作る技術へのあこがれが、建築に、今にも浮かび上がりそうなポテンシャルを与えている。これほど純粋に建築への愛情を吐露した建物はないのではないか。そんな思いに満たされました。

東京からの車中、木田元先生の『反哲学入門』を読んでいたので、そうした思いがさらに倍加されたのかもしれません。なぜなら木田先生の肉声には、わたくしを40年くらい昔に引き戻すちからがあるからです。この本を今回初めて読んだのですが、行き帰りでほぼ読み終え、その明快な構造に目からうろこが落ちる思いでした。ソクラテスやプラトン以前のギリシア哲学における自然と、それ以後のイデアや形而上学という概念は大きく異なるものであり、イデアや形而上学の上に哲学は構築されていて、それは西欧そのものの思考方法なのだというわけです。だたら「反哲学」はそうした西欧的思考の総体に対するNOの提示になるというわけです。ニーチェ、ハイデッガーがその作業を行い、メルロ・ポンティもデリダも反哲学あるいは哲学の脱構築を言うわけです。木田先生はそうした哲学の「構造」全体を相対化して見せてくれるのでした。

石山さんとわたくしは、20代の頃から高山建築学校で木田さんはじめ、何人かの哲学者たちの前で勝手なことを言いまくっていました。木田先生がずいぶん後になってから「お前たちは何にもしていないくせに、あたかも壮大なことを成し遂げているみたいに、大きな口をきいていたなあ」言われたことを思い出します。しかしこれはありがたかったことで、知的な巨人たちを前にして、思い切りほらを吹けたということくらい、稀有なチャンスはなかったからです。あまつさえわたくしは、木田先生に向かって「日本の哲学者は、哲学者じゃなくて哲学史家ばかりじゃないですか」などといったものでした。この印象は、実はいまだに残っていて、日本における西欧学のあり方、前衛の可能性などは、みな同根の問題だと思われるのです。『反哲学入門』も、訓古注釈学ではないにせよ、史的パースペクティヴの書と思われるのでした。

石山さんのリアスアーク美術館は、そうした時代の彼が思いのたけを込めた建築であり、大きな口を叩くに値するだけのエネルギーと思いを込めていたのでした。それがリリカルな表現となるところに、この建築家の美質があります。アーキグラム的なハードボイルド精神ではなく湿度のある温かさが消えることはありません。リアスアーク美術館の人造石研ぎ出しの床や、手で削ったとしか言いようのない手すりなどに、それは現れます。久しぶりに自分まで若返ったような気持ちになって、この建物の誕生したころの時間を味わいました。

帰り、予定より少し早く一ノ関まで戻れたので、寒風吹きすさぶなか、ジャズ喫茶「ベイシー」まで歩いてゆきました。幸い開いていてJBLの音響に包まれました。レコード盤のスクラッチ・ノイズが妙にうれしくて、また、かかっている曲がわたくしの知っている時代のものが多くて、リラックスできました、石山さんの名前を出して挨拶しようかとも思ったのですが、それも変だと思って静かに聞いてだまって帰りました。菅原さんは難しい顔をしてレコードを取り換えて選曲の流れによる創造を続けておられました。最後にベン・ウェブスターのバリトンサックスで「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ」がかかったのでうれしくなってしまい、ゆっくり楽しんでから帰りました。もうずいぶん前、石山さんと一緒に来た時、この曲の聴き比べはできませんかねえといって、何人かのアーティストのレコードを聞いた記憶があるからです、まさかそんなことを覚えているはずもないので偶然なのでしょうが、こういう偶然は人を本当に幸せにしてくれます。

よい時間を味わえ、建築と音楽に封じ込められていたよい時代のエネルギーを浴びることができました。最後に一つ付け加えると、木田先生の本を読んで、難波さんの「建築における4層構造」が、カントの純粋理性批判の直接的応用(適用?)であることの確信が持てたこと、これも今回の収穫でした。

2/15

鈴木博之 第23信 聡明なる〈表現〉とは

難波さんの日記を拝読していて、Xゼミでピンヒールが話題になったことからの分析があり、興味深く拝読しました。

 

「先日のXゼミミーティングで石山さんが僕(難波)のピンヒール論を評して「自分の考えを述べていない」と言ったことを突然想い出す。これまで事ある毎に同じようなことを言われてきたが、石山さんの真意についてあまり深く考えたことはなかった。しかし今日の散歩の途中にそれが突然閃いたのである。ある対象を評価しているという事実を直接表明するのではなく、トピックスとしてとり挙げること自体がひとつの価値判断の表明であること、そしてその対象の重要性についてできるだけ客観的かつ詳細に述べるという行為自体が、その対象が重要性であると考える主観的な表明であるという僕のやり方が意外に伝わりにくいことが分かった。」

 

この部分ですけれど、これは正しいとともに、難しいともいえます。熱狂的な難波ウォッチャーであれば、難波さんが何に着目し、どのようにそれをとらえたかは、重要な事柄になるでしょうし、その事象を難波さんが重視しているということも理解するでしょうが、ただの人からすれば、「難波さんが何かいっているな」で終わってしまうでしょう。 なぜ取り上げるのか、なぜここに着目するのかについては、くどいようですが、はっきり説明しなければ他人には解りません。

 

これに関連して思いだすことがあります。かつて恩師である稲垣先生が、ある本について誤りも多く評価できないというようなことを言っておられたので、はっきり批判していただけませんかといういみのことを言いましたら、「いや、黙殺する、書評しないというのも、ひとつの評価なのだよ」といわれました。これを聞いて、「誰もそこまで稲垣先生の動静を着目してなぞいませんよ」と思ったのでした。同じころ、太田博太郎先生が「伊藤ていじよ自重せよ」という書評を書いたことが印象に残っていたせいもあります。この辺が太田先生と稲垣先生の違いだなあと思った次第でした。

それ以来、わたくしは喧嘩っ早いと言われようとも、批判すべきは批判するという態度をできるだけ取ってきたつもりです。

 

難波さんに対して時折(というよりも通奏低音のように)繰り返される批判に、箱の家には表現がないというような言葉がありますが、これも同じで、難波さんにとっては、必要にして十分な装置が存在すれば、それが自身の表現であり、解ってもらえるはずだという意識があるのでしょう。けれども他人は、難波さんが必要十分な箱を作ったうえで、この箱には何が込められたのかをメッセージとして付加してもらいたいのです。それが表現というものですが、難波さんにとってはあらずもがなの、冗長な付加物と見えるのでしょう。

 

こうした思考の構造をどうとらえるか、興味深い問題です。歴史上、難波さん的なあり方をした建築家がいないか、考えてみたいと思います。

たとえばミース・ファン・デル・ローエが難波さん的であったなら、外装の鉄骨マリオンは「表現」だから不要だということになり、連窓に耐火被覆を吹き付けた腰壁をもつだけの、のっぺらぼうの高層ビルになってしまうかもしれません。

 

さて、いかがでしょうか。これは難波さん批判ではなく、聡明すぎる建築家にとっての「表現」を考えるレッスンだと思うのですが。

02/15

石山修武第79信 鈴木博之「卒業論文の季節」

東京新聞コラムへの感想 2/14夜

わたくしはうんと若いころ、当時あった都市住宅誌の毎月のコラム、たしか時評であったを、鈴木博之と隔月に連載したことがあった。その雑誌の編集長はたしか植田実であった。お互いに若過ぎたけれど、確実に当時の隔月連載の鈴木博之はわたくしよりもいささか早熟で豊かな知識をすでに所有していた。当時、1970年代は建築雑誌は花盛りで、若い者にも意あればこそ、スペースは随分豊かに与えられた。その隔月連載でわたくしは随分鈴木に鍛えられたような気がする。時評とはいえ書くモノの水準、力量は歴然と相対化され得たからである。書くモノはたとえウェブサイトであろうと何であろうとすでに社会化されているので、言葉の力量は歴然と誰にでも、書いた本人にでも自覚されるのである。

雑誌『建築』、これは宮嶋國夫氏が編集長であったが、ここでもわたくしは若死にした毛綱モン太とスペースを与えられ書き比べを熾烈に展開させられることになった。毛綱はわたくしより3、4歳上であったが、これも年下の鈴木博之と同様にわたくしの言葉の世界よりもはるかに広く、質も高いのは歴然としていた。毎月、わたくしは歯ぎしりさせられたのだ。大学院での指導教官であった建築史家の渡辺保忠はある日、わたくしを呼び止めて言った。

「君の書くものには目を通しているがね、この相方の毛綱というのは君よりも大分年が上だね。十歳くらいの年の差があるようだね」と、わたくしに言ってのけた。

お前、毛綱の方が十年上だぞと、わたくしを諌めたのだ。やっぱりそうかとわたくしはすぐに反省した。毛綱と同じようなエンサイクロペディア風な博識をもってしても時すでに遅しなのを悟ったのだ。それでわたくしは毛綱の曼荼羅、ユング世界観とは意図的にちがう方向へ針路を定めたのだった。

今、わたくしが考え続けている開放系技術の軸はその結果としての表れである。しかし人生は短くて長い。毛綱の世界観、博覧強記振りに対する横目での憧れはぬぐい去り難く底流としてあり続け、さらにプライドだってないわけではないから、それがアニミズム紀行として復活しているのである。アニミズム紀行は若死にした毛綱の気持を半分は受け継いでみようかと考えての旅なのである。

 

卒業論文の季節という鈴木博之のコラムはそんな私的な歴史に即して言えば、鈴木の長い長い言説活動の、俳句で言えば季語みたいなモノ、春だからどうしても季語を入れたいと思う類のコラムなのである。長い連載は人生と同じように小さからぬ起伏がある。それが無ければ続けようがないモノでもある。わたくしの卒業論文は「プレファブ住宅の組立工程に関する考察」であった。夏の一ヶ月ほどを日本鋼管のNKハウスのパネル組立の労働者の組立て動作の研究と称して、ただただ定点観測の写真撮影に時をつぶした記憶しかない。

わたくしの大学教師生活はアト1年で修了し、わたくしも又教師生活を卒業する。鈴木博之の如くに天職の如くに学者として、教師としての人生の一時であったとはわたくしはとても言えない。何処かに無理と不自然があったような気も、深く澱んでいる。そんな教師生活の卒業論文が作家論・磯崎新だ。

 

あまりにも季語であり、季語でしかないコラムに驚いているのだが、それは批判ばかりとは言えないのも深く自覚している。長い連載には、昔もそうであったがこのような息抜きが必須なのである。マラソンの給水である。

 

わたくしが、50年近くも時計を巻き戻して、卒論の機会を得たとしたら?わたくしはそれを決して望まないけれど、つまり学生時代に戻るなんて無為の地獄に再び落ちたくはないが、そうならざるを得なかったら、イヤイヤながらですが、修士論文で大失敗した「正統と異端」という大芝居まがいを、もう一度入口だけでもやってみたい。

わたくしには指導教官が二人いて、一人は渡辺保忠、もう一人は大先生と呼んだ田辺泰教授であった。田辺先生は言葉少なく、

「キミ、ヨーロッパでは異端というのは火あぶりにされて殺された歴史があるのは知ってるんだろうな」

とジロリと睨まれた。恥ずかしながら、そこまでわたくしは考えをつめていなかったが、だからこそ、ボウフラみたいな学生であったに過ぎないの自覚もある。そのような水準の学生であった記憶をベースに、わたくしは今の学生諸君に接している。さめざめと接している。鈴木博之先生の如くの歴史家の、時間に対する客観性、相対性を、なかなか持ち得ぬ不遜な人格がすでにそこに在ったような気がする。年を取っても性格は直りはしない。

02/07

石山修武第78信 投稿・鈴木博之「坐漁荘の樋」批評

鈴木博之が明治村に保存修理中の西園寺公望公の別邸、坐漁荘の、しかも銅製の雨樋について書いている。

とても興味深い。建築デザインの中で末端としか思えぬだろう雨樋に着目して、それを銅製である事から、住友家の生誕のバックボーンであった銅山、そしてその財閥のアイデンティティに想いを馳せるのが、いかにも鈴木博之らしいと考えた。

前回のコラム、ピンヒールと都市性に関するそれよりも、わたくしにはよほど鈴木博之の建築史家としてのアイデンティティに間近に触れるコラムであるように考えた。

鈴木博之の、わたくしには今も最も刺激的な論のひとつであった、それは「私的全体性」へと連続していく主題だろうと勝手に考えたからである。

 

建築の雨樋については、不肖わたくし奴も浅からぬ関心がある。わたくし自身の近作の「時間の倉庫」猪苗代鬼沼や、「ひろしまハウス」プノンペン等は、雨樋の意匠に随分過剰な意を配った体験もある。

雨樋の意匠に関するわたくしの原体験は、スペイン・バルセロナのゴシック地区のカテドラルでの体験があった。或る時、ゴシック地区の大聖堂前のホテル、コロンに滞在していた時、一時的ではあったが大雨に出逢った。ノアの洪水もかくならんかの凄まじい大雨であった。その時、カテドラルの屋根の処々に設けられていたゴシック彫刻が、その本来の意味を取り戻したようにわたくしには想えたのである。様々に彫られ、建築にまといついていると思われた諸々の屋上の怪獣もどきの、それぞれの口からドードーと水が吐き出だされたのである。感動的な光景であった。ゴシックの聖堂は水を吐く彫像の館に一変した。つまり怪獣の彫刻装飾は主役に転じたのである。なるほど、さてこそカテドラルというべきは遠く原始キリスト教以前、神話としてのノアの方舟の記憶を背負っているのだなあと実感した。聖堂は雨の日の、つまりは大水の記憶を内在させているなと知った。

それはさておき、鈴木博之のコラムを読んでわたくしはヨーロッパへ行かずとも、わたくし自身の雨樋の記憶を鮮烈に憶い出した。

日本の京都、高台寺の雨樋である。

利休好みといわれる傘亭、時雨亭の雨に対する意匠はさておく。傘亭、時雨亭にゆるく上がる坂道のたしか入口の近くに、ひとつの、名は失念したが数寄屋造りらしきがあった。その雨樋が忘れ得ない。わたくしの、今は最良の、雨の、つまりは水に対するデザインなのである。その数寄屋らしきにはいくつかの雨樋がデザインされていた。材料は竹とシュロであった。縦樋、横樋は竹の節を刳り貫いたもの。そしてその接続部のギクシャクしたところをシュロの毛深い柔らかさでくるんでいた。

最良の批評家であったサルヴァドール・ダリが、未来の建築はル・コルビュジエに非ず、アントニオ・ガウディの毛深さと、R.バックミンスター・フラーのヴィジョンの間にある、と言い抜いたのにわたくしも同意するが、高台寺の竹とシュロの樋はその柔らかさの示現であったようにわたくしは考える。

住友家の意地の銅の雨樋への、私的全体性の示現もよいが、わたくしは率直にいえば高台寺の竹とシュロの雨樋の側に身を置きたいと思う。ル・コルビュジエの晩年の作品、それは彼の死後完成されたもののようだけれど、その現代カテドラルも雨の水の流れを極度に視覚化したデザインであった。コルビュジエも含め、人間年をとると雨やら水に関心がゆくのかも知れない。卑小なるわたくし奴も今は雨樋のデザインひとつに建築意匠の可能性の入口だってあるなとは思ってはいる。年をとって、人生に弱気になったのかな、と思わぬでもない。

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難波和彦 第24信 ピンヒールと現代建築

鈴木さんと石山さんの間で、ピンヒール論争が始まっている。さすがにファッション談義では終わらず、話題は都市性へと展開しそうである。ここのところ石山さんの投稿のスピードがかなりの急ピッチで、おまけに格調高いときているので、僕には付け入る隙がなかった。しかしようやく話題が僕にも参加できるところまでポピュラーになってきたので、話題が変わらないうちに大急ぎで投稿しておきたい。

僕は青山近くに住んでいるので、表参道や青山通りでは週末の夕方にピンヒールを履いた女性をよく見かける。しかし鈴木さんが言うようなヒールの裏まで赤いピンヒールを履いた女性は、今日に至るまで見かけたことがない。

ピンヒールが眼を惹くのは、どことなく不安定で緊張感があるからである。踵の設置面が小さいから実際にも不安定だろう。踵が高く持ち上がっているので足が長く見えるし、背もピンと伸びる。だから胸を張り、颯爽と肩で風を切って歩いているように見えるのである。ピンヒールを履いた女性はかならず盛装をしており、化粧も濃い。要するにピンヒールは結婚式とかパーティのようなフォーマルな場所に緊張感を持って出掛ける時に履く靴なのである。

ピンヒールの話題は、構造家の佐々木睦朗とのハイテク建築談義の中でもよく出てきた。僕たちはパンプスと呼んでいたが、ピンヒールはパンプスの一種だが、それ以外の踵の太い靴も含まれているようである。正確には、パンプスとは足の甲が大きく露出している盛装用の靴全般を指し、その中でもっともフォーマルな靴がピンヒールなのである。

僕たちがパンプスに注目したのは、二つの理由からである。ひとつは、ハイテク建築は設置面が小さな建築へ向かっている点である。つまり基礎の小さな建築がハイテク建築の重要なテーマだからである。ハイテク建築の元祖といわれる英国の建築家ジェームズ・スターリングにかつてインタビューしたとき「レスター大学工学部棟」について、彼は「頭でっかちの建築はカッコいい」という趣旨のことを話してくれた。彼が参照したロシア構成主義の建築家、たとえばイワン・レオニドフは片持梁を多用した不安定な建築を数多くデザインしている。もうひとつの理由は、ハイテク建築では建築要素のジョイント部分が、細くくびれているようにデザインされている点である。つまり部分相互が明確に分節していなければならないのである。この2点を、僕たちはハイテック・コンストラクション・シリーズ『コネクションズ』『ビルディング・エンベロプ』『スーパーシェッズ』(鹿島出版会 1994-1995)の翻訳を通して学んだ。そしてこの2点とも地面との設置面が小さなピンヒールの緊張感に通じている点に気づいたのである。

近代建築の歩みは、テクノロジーの進展に支えられて、ひたすらピンヒールのような不安定な美学に向かって進んできた。それは重力や地震力などの自然の力に抗して「構築」しようとする意志の表れだといってよい。それが3.11震災以降もそのまま継続するのかどうかが、今問われているのかもしれない。それはピンヒールの高さと細さが、今後どのように展開するかという問題とも関係しているように思えるのだが、いかがだろうか。

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石山修武第77信 靴底と都市性

ピンヒールくらいで驚くな、赤い靴底を探せ。を読み、久しぶりに打てば響く鈴木博之を感ずる事ができた。スネを蹴れば太モモを蹴り返す精神は健在であった。

 

現首相官邸の基調とすべきスタイル(様式)を日本的ハイテクらしきに主導したのは鈴木博之であった。その事をわたくしは鈴木博之からではなく、鈴木が出席していた委員会を開催していた古川貞二郎内閣官房副長官から聞いた。 「立派な意見を述べられた」と官房副長官は述べた。おそらく正式な記録が残されているから、一度通して読んでみるべきだろう。誰に言っているかといえば歴史家たちに向けて言っている。首相官邸の建築スタイルは内部の石と竹をあしらった和風庭園をはじめ、材料の使い方、それを集約した外観のたたずまいにいたるまで、まことに日本風、鈴木博之の言でいえば和風ハイテクであった。このスタイルは実は組織事務所やゼネコン設計部の模倣し易い様式でもあり、その後都市の建築の底流としての流行となった。

底の赤い靴を探す前にその事は指摘しておきたい。

靴底からの都市性とはなるほどなと思いますが、やり込められてばかりでは道はひらけない。靴底は歩く道具の一部である。

『放浪記』の作者、林芙美子は一時期ヨーロッパ、ベルリンにいたようだ。白井晟一と付き合っていた。白井晟一は極寒のベルリンの都市をゆく靴音に深くヨーロッパを感じ取ったようである。林芙美子のエネルギーに押しまくられ、ベルリンの道路のカツンコツンの靴音にも圧倒されたのだろう。

白井晟一が愛し帰依したイタリア、ヴェネチアの建築作家カルロ・スカルパ。スカルパの建築は不思議に柔らかい。ヴェネチア建築の内外の大半は左官仕上げでもある。驚くほどの左官による床仕上げが伝統的につくられ続けた。左官は水の職人で、しかもヴェネチアは水の都である。女性もハイヒールで歩くスタイルよりもゴンドラの木の船との折合いを考えざるを得ない。つまりピンヒールの方へアイデアがいかなかった。だから有名なカーニバルやらのコスチュームや仮面(マスク)の意匠、つまり足許を離れたところへと意がこらされた。足許の靴には意は集中しなかった。

だからわたくしはヴェネチアでは女性の足許に眼がゆかなかった。そりゃちがうぜとおっしゃってもそう言い張りたい。

でも靴と都市性はおもしろそうなテーマです。記憶にとどめたい。

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鈴木博之 第22信 ピンヒールと赤い底

先般のXゼミで、石山さんが、ピンヒールという言葉を使ったわたくしに、「こいつ、無理してる」と言わんばかりのご批評を下さいました。

 

たしかにピンヒールなどという言葉はわたくしの日常語にはないものですが、この言葉を知ったのは青山界隈に来てからではなく、それ以前、首相官邸の建て替えの委員会に関係していたころでした。古川貞二郎官房副長官のもと、新官邸が建設され、出来上がってお披露目があったときでしょうか、案内してくれていたお役人が、フローリングの床を指して「このあたりには記者が溜まるのですが、女性記者にはピンヒールの人もいて、それで歩き回られると、床にぽつぽつ跡がついてしまうのですよ」とこぼしていました。そのとき、ピンヒールの威力(?)を知ったのでした。「スニーカーも迫力があるけれど、ピンヒールも恐るべし」と感じたのでした。

 

青山に来て、今実際に印象的なのは、女性のピンヒールのなかに、靴底が赤いものがあるということです。地面に触れる部分が赤い靴をはいている人が時折いる、これは迫力です。黒いエナメルのピンヒールで闊歩するとき、ちらりちらりと赤い靴底が見えるのは、これは本当に迫力です。

 

今、こうした赤い靴底がはやっているという話は、秋にNYに行ったとき、妻から教えてもらった話でした。それがちゃんと青山通りにもあるということ、これはなかなかのものです。「東京の都市性は靴底から理解できる」、これが今回の知識です。「石山さんよ、ピンヒールで驚いていてはいけませんぜ、底の赤い靴をお探しなさい」。

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石山修武第75信 鈴木博之「都市のなかの都市」

東京新聞夕刊1面コラム評

はや、鈴木博之の新聞連載コラムは第4回を迎える。慮るに鈴木はこれほど短いコラムの連載は初めてではなくとも珍しい。コラムはひとつの島にたとえられるだろう。都市のなかの都市の標題に添えば、コラムはひとつの島であり、小文であるからこそ作者の工夫や真意が、島の中の島ならぬコラムの中のコラムの如くにその細部にあぶり出される事があるように思う。

勝手な推測で申し訳ないけれど、このコラムでは鈴木には珍しい言葉が使われているのに眼がいった。そこに眼と頭は留まって動こうともしない。人間は常日頃暮らしている町の光景に知らず知らずに強く影響されている。

第3回のコラムでは上州前橋の土地柄について触れていた。誰もが知るカラッ風の上州である。モダニスト萩原朔太郎を引いてはいるが、上州は選挙好きで有名な土地柄でもある。それ故に、福田、中曽根、再び福田と総理大臣だって輩出している。わたくしの古い友人である左官職人の大親分であった人は、その事業所にライバルであった福田、中曽根両陣営からの表彰状であったか感謝状であったかを並べて掲げてあった。大丈夫なのかと尋ねたら、二人一緒に来る事はないから、来たら相方の方のを外せばそれでよい、との答であった。流石、上州だとうなった。

そんな処で一時期とはいえ育った男が本郷から青山通りの職場に移り、いささか無理があるなと少しばかり意地悪くも考えていたのだけれど、そんな鈴木博之がこのコラムで本来の学習好きの性向を見事に発揮している。

「青山のキャンパスをレモンイエローのピンヒールで……」

この下りにはギョッとした。レモンイエローはともかく、ピンヒールはこれまで鈴木のボキャブラリーには無い。一切無かった。何だこれは、とわたくしはあわててコンピュータを検索した。ロクな事は書かれていなかったが、ピンヒールという細めのセクシュァルなハイヒールの姿がズラリ、ゾロリと満載である。青山通りはスニーカーの町ではなかったのか。それがいつの間にかこんな、ウムウムと眼を細めてしまうヒールが群れる町になったのか。上州からピンヒールとやらへの旅は仲々大変だろうなと想像してしまった。

そこでもしやの疑いが湧くのである。

鈴木博之は「都市のなかの都市」を書こうと考える前に、覚えたばかりのピンヒールという単語を使ってみたくてたまらなかったのではなかろうか。

時代が移ろうと人は場所だけではなく、ある時代の一節を鮮烈に憶えているものだ。わたくしにとっては青山は紀伊国屋とペギー葉山だ。特にペギー葉山は青山通りの歌手であった。アメリカのペギー・リーのペギーを冠して妙にバタ臭くアメリカまがいになりすまし、JAZZではパッとしなかったが、坊さんかんざし買うを見たの南国土佐を後にしてで、国民的人気を得たペギー葉山。

ペギーはピンヒールを身につけてはいなかったなあと遠く思い浮かべるのである。

コラムはひとつの単語が燦然と輝く事がある。作者の言葉の趣味の新旧を読む楽しみもあろうか。

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石山修武第74信 投稿・鈴木博之「小沢昭一、正岡容、国定忠次・・・」

いろいろと妄想が湧いて仕方ない。でも忘れるには惜しい妄想なのかも知れぬので記しておく。

鈴木博之が「地霊」を意識した始まりが前橋の岩神という地名の巨大な岩であったと書いている。「地霊」つまりは場所の、とどのつまりの固有性は鈴木が明晰に言い出した。そして、まさかと思っていたらジワジワと設計者たちにも浸透して、今では実に多くの場所からの設計方法の説明がされている。この日本での場所性のオリジンは鈴木博之である。外国でのそれはよく知らぬが現代建築にも多くの発言がある建築史家としては世界でも草分けであるだろう。とすれば岩神の巨岩は鈴木を介して世に多くの影響を与えたことになる。

残念ながら前橋のその神社の御神体となっているらしい巨岩をわたくしは視ていない。しかし、鈴木の文に引きずられて、その巨岩のある前橋をくるむ、といったら何だが、国定忠次の赤城山のある雄大な風景を想い起こしてみる。赤城山は連峰で独立峰ではない。何年も前になるが知合いと忠治の宿というのが赤城の裏にある、行こうと言われて付き合った。赤城山には火口湖らしきの美しい湖もあってそれも眺めた。赤城山をほど近くに眺めると巨大で奇怪ともいえる岩山があった。その岩山の大きな絶壁を忘れられないのは、どうやら凄い絶壁だナアと眺めていたその時に人がその巨大な壁から落ちて亡くなったからだ。東京に帰ってそれを知った。『クレヨンしんちゃん』の作者、臼井儀人さんがその絶壁から墜落して亡くなったのだ。丁度、我々がその岩を眺め入っていた頃のようだった。それで、わたくしには赤城山のその岩山は忘れ得ぬ場所になった。そしてあんまり知らなかったクレヨンしんちゃんも不思議に身近なモノとして感じられるようになった。

クレヨンしんちゃんの図柄を見かけるたびに、あの赤城山の岩山を想い出すのだ。この体験も又、地霊のなせる術かといぶかしんだり。

南総里見八犬伝に出てくるらしい悪女、船虫はわたくしの記憶には薄いのだが、鈴木のこの文章で又、忘れていたのに忘れられぬモノになった。しかし、その悪女船虫はクレヨンしんちゃんの作者が亡くなった赤城山の巨大な岸壁にもいたのではないかと思ったり。

わたくしのは妄想に過ぎぬが「地霊」は場所の固有性に触発される人間の想像力が生み出し続ける普遍そのモノであろう。 つまらぬワケ知りの結論めいた結び方は、再び鈴木博之から、そんなに「単純に出来上がっているものではないと」諭されそうだが、大衆もエリートも、その双方共に意外に単純な精神構造の持主であるようにも思えて仕方ない時がある。

 

わたくしにとっての前橋は左官職人たちとの付合いに尽きる。西伊豆、松崎町の伊豆の長八美術館の建設以来の日本の左官職との関係の中心ともいうべき、前橋の森田兼次さん。彼は何代目かの日本左官業組合連合会会長であったが、その事業所が前橋にあり、左官の技能コンクール等で前橋には通いつめた。森田さん以下それはそれは多くの左官職の友人も多かったので、それにまつわる話も多くあるが、他にゆずりたい。

明後日には東京新聞夕刊1面コラムが出るのを手ぐすねひいて待ち構えているところでもある。

Xゼミナールの読者はおそらく従来わたくし達が想定し得た読者とは異なるかも知れない。あるいはメディアへの接し方の形式に規準が無いだけなのかもわからない。闇夜の海である事には違いがないけれど。新型ウィルスならぬ、新型大衆である事も間違いない。

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鈴木博之 第21信 小沢昭一、正岡容、国定忠治・・・・・

しばらく投稿せず、天馬空を行くがごとき石山さんの筆の勢いを呆然として眺めるばかりでしたが、小沢昭一さんについての拙文への批評を拝読して、俄然、何やら書きたくなりました。

話せば長いことながら、これは選良と大衆、エリートと俗世間といった問題のフレームに関わってくるもので、磯崎論と安藤論の接点となる部分があります。そして、石山さんがいわれるように、わたくしに大衆性(?)が欠けているのもまた事実かもしれません。「だからお前は、人気のない嫌われ者に留まるのだよ」と言われればその通りなのですが、大衆性、民族の古層ともいうべきものへの関心はわたくしにもあります。

そのひとつが、小沢昭一さんについて書いたときに言及した正岡容という作家です。天保水滸伝を浪曲化したりいろいろなことをした才人のようですが、そこに流れる世をすねたような潔さが、わたくしは好きです。彼は講演などの謝礼を「お鳥目(おちょうもく)」と言ったりしていたようで、いかにも芸人らしい自己卑下っぽい態度です。

さて、話は天保水滸伝から国定忠治に飛ぶのですが、こどものころ、上州赤城山のふもと、前橋にしばらく住んでいたことがあります。それについて最近、第一生命の財団のPR誌に書いたものがあるので、長くなりますが転載します。

 

「わが幻想の前橋」

わたくしは小学校時代、親の転勤によって何カ所かの都市を転々とした。父は公務員だったので転勤といわず転任といい、官舎に住んだ。

前橋には、小学校三年生から五年生にかけての時期を過ごしたと思う。昭和三〇年代初めだ。赤城山の雄大なすがたが眺められ、空っ風が吹く、ハードな土地だった。前橋のイメージはそうした風のなかにある。まず習ったのが、「鶴舞うかたちの群馬県」という言葉。これは上毛カルタに出てくるもので、群馬県の小学生はこの上毛カルタを使って、県内のさまざまなことがらを学ぶのだった。ほかにも「ネギとコンニャク下仁田名産」などもあった。

しかしながら前橋といえば萩原朔太郎の故郷である。彼の「郷土望景詩」のなかの「小出新道」という詩の冒頭、

ここに道路の新開せるは

直として市街に通ずるならん

というフレーズを、わたくしは前橋で覚えたと記憶しているのだが、小学校で習ったのだろうか。戦後の気分が残る街のなかには、この詩に描かれたような開発の情景が、まだあったように思う。

 

「郷土望景詩」のなかには新前橋駅、大渡橋、広瀬川など、市内の各所をうたったものがある。これらの詩を子供心に覚えたのか、少し大きくなってから読んだのか、判然としない。そもそも前橋のまち自体、実際には遠い記憶のなかだけに存在するまちなのだ。

前橋には子供にとっても印象的なものがいくつか存在した。まだ養蚕が盛んな頃で、乾繭取引所などという建物があったし、絹の製糸工場も見られた。岩神という地名があって、巨大な岩が孤立して聳えていて神社として祀られていた。土地の個性つまり「地霊」をはじめて意識したのは、この巨岩を見たときだった。また、古い県庁舎や群馬会館といった建物に対して、いかにも不思議な建物のように思われたのが喚呼堂という書店だった。吹き抜けから階段が降りてくる売り場、ハイカラな香りのする書籍、ここには「文化」があると思った。ずっと後になって、この建物が異色の建築家、白井晟一の設計によるものだと知った。子供にも建物の雰囲気が抜きん出ていることは感じられたのであった。

その頃できたばかりの群馬大橋の近くにあった官舎から、かなり離れた小学校まで通学していたけれど、市の中心部を横切らなければならなかった。

 

学校に行く途中、そして帰るとき、まちにはいろいろなものが溢れていた。モザイクタイルを貼ったコンクリート製のかまどを売っている店、農機具を売ると同時に修理もしていて、鍛冶屋のようだった店、そこを過ぎるといわばオフィス街になって、さらに歩くと商店街に入り、お寺やスクーター販売店の脇を通って広瀬川に出る。いつも饅頭を蒸かしている店もあった。そこから先の記憶はあまりない。普通の商店街の佇まいは、あまり記憶に残らないのだろうか。けれど学校の周囲がカラタチの生け垣になっていたことはよく覚えている。なぜなら、カラタチにはアゲハチョウの卵が産みつけられ、幼虫が育ち、やがて蛹になって羽化してゆくということを、この生け垣によって知ったからだ。

なぜこんなことを書いているかというと、ちょうどこの年の頃に、まちを歩くこと、そしてそこにさまざまなくらしや歴史が溢れていることを知りはじめたからなのだ。まちを知りはじめた年頃にいた場所が、たまたま前橋だったというだけのことかもしれない。けれども、前橋はいまでも特別なまちでありつづけている。

時代的にも、その頃の前橋にはある種の熱もあったのではないか。「ここに泉あり」という映画が作られて、そのなかで群馬交響楽団の活動が、ひとびとみんなの音楽運動として描かれていた。通っていた小学校の先生はクラス全員で合唱をすることに熱心だった。合唱団を選抜するのではなく、声のいい子も悪い子も、全員で合唱することに先生はこだわっていた。子供心にもそれは伝わった。こうした情熱が、わたくしが前橋を去ってしばらくしてから、アントニン・レーモンドの設計による群馬音楽センターを生み出すことになったのだと、何十年も経ってから知った。わたくしは、たしかに前橋が生きた歴史を刻んでいたときに、暮らしていたのだ。

だから今でも、たまに前橋に行くことがあると、萩原朔太郎の詩「帰郷」のなかのフレーズ、

わが故郷に帰れる日(中略)

汽笛は闇に吠え叫び(中略)

まだ上州の山は見えずや。

がこころのなかに湧き上がるのである。ここに、わが幻想のふるさとがあるのだろう。

 

ここには書いてありませんが、「赤城の山も今宵限り、、、」という国定忠治の浪曲は、このころの子供には日常的に触れるフレーズでした。忠治は、中里介山の大菩薩峠にも出てきたような気もするのですが。

そして先ほどの前橋の「岩神」は、なぜか、南総里見八犬伝に出てくる悪女、船虫がいたところではないかという気がしてならないのです。

こういう子ども心の精神風土を背負って、正岡容や小沢昭一さんに恐る恐る近寄ってみたのでした。大衆性がないとか何とか、簡単には決めつけられない部分があるように思うのですが。

最近読んだ国定忠治についての近世史の人が書いた本に、落とし文、火付けなどという文書が幕末に出回ったと書いてあり、「誰それはひどいから、火を付けるぞ」とか「こういうことは困るので訴えるぞ」などという文書が出回ったのだそうです。

そうしたなかに、「踊り」が迷惑だという文書が紹介されていました。踊りとはいわばお祭りのことで、これへの参加を求められることは費用負担、労力負担を伴うので、やりたければやりたいものだけがやればいい、というような主張だそうです。これは興味深い資料で、大衆は祭りによって一体となりコミュニティ意識を高めたなどと、町づくり好きや、民衆好きの都市史家がよくいいますが、そうでもないことが分かります。

要は、エリートと大衆という図式は、単純に出来上がっているものではないということなのです。こうしたベースに立って、(政治的であれ、芸術的であれ)日本の前衛論も組み立てられるべきでしょう。いささか、石山さんへの批判めいて読めるかもしれませんが、そういう意図はありませんので、あしからず。

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石山修武第72信 鈴木博之、東京新聞コラムへの批評及びSOMETHING 3

「小沢昭一さん」と題された鈴木博之の東京新聞夕刊一面コラムを、保存から小沢昭一へ飛んだか、と驚きながら読んだ。

衆知の如くと言いたいが、東京新聞の夕刊を読む読者の多くは建築史家・鈴木博之を知らぬであろう。夕刊とはいえ、一面コラムを担う人間の、世間一般に通用すべき「名前」の格式は知るだろうが、建築関連の偉い知識人であろう事もおそらく数少ない人間しか知らぬであろう。それぐらいの事はお見通しで、鈴木はこの一面コラムの著述者の自身の肩書を博物館明治村館長としている。実に計算尽しの肩書名である。ここに建築史家・鈴木博之の並々ならぬ自意識の深度が視えるのである。それ以上は今は言わぬが、博物館明治村館長の右肩に乗った肩書に対する自矜の大きさは計り知れない。

肩書で一番愚かなのは○○大学名誉教授の類なのは馬鹿でもない限り、誰もが知る。誰が自身で名誉ある人物を名乗ろうか。そんな事は常識であろうが、世間は常識の下にある。下らぬ事であるのでさておく。

鈴木博之もその典型としての一員であるが、日本の知識人の大きな弱点のひとつは、その民衆的基盤の薄さである。特に鈴木博之や、わたくしでさえ属するであろう日本の建築世界の最大級の弱点は、その問題としている主題の非大衆性であり、さらに言いつのれば民衆性でもある。分かりやすく言えば、民衆はいまだ大工職人を知るが、建築家が何者なのかは知らぬ。小沢昭一的世界に於いては大工職人は語られたが一度たりとも建築家は語られはしなかった。民衆と大衆を言い分けているけれど、民衆は大量消費社会、情報化社会以前の常民の如くを呼び、大衆はそれ以降の呼称であると端的に要約してもよい。

 

この第三回目のコラムで鈴木博之が「小沢昭一さん」を書こうと考えたのは、わたくしには意外であった。普通、一級の論者は自らの弱い分野には言及せぬものである。鈴木博之のこれ迄の論考の、わたくしなりに思う最大の弱点はいわゆる日本のみならずとも、大衆への視野であったのではないか。

鈴木博之の最大級の功績のひとつに建築家・安藤忠雄の東大教授としての招聘があるのは知る人ぞ知る計りではあるが、これは端的に言えば知的選良世界だけの世界であった日本の近代建築設計世界への、民衆の価値観の導入でもあった。この人事は鈴木博之なくしてはあり得ぬモノであった。見事な、それこそ東京大学には稀なる人事であったと、わたくしは考えている。委細はいつか述べる機会もあるだろう。

それはさておいての、さて、「小沢昭一さん」である。大衆芸能に関する良き語り部でもあった小沢昭一的世界。これは鈴木博之的世界に置き直せば、「和風」であり、庭師・小川治兵衛であり、「保存」であり、さてこそ「明治村的世界」なのである。わたくし自身はあまり好ましく思ってはいないが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』世界であり、俗にいう明治維新の日本近代の転形期世界への関心が結ぶ民衆が自ら鏡面に結晶させる世界でもあろう。

 

小沢昭一的世界、あるいは小沢昭一的知性とは、他に例えようとするならば永六輔的世界であり、立川談志的世界であり、さらに言いつのれば宮武外骨的世界でもあり、実は坪内逍遥的世界でもあるが、コラムでは言い尽せない。マ、言ってみれば、つくづく言いつのるならば世阿弥の能以前の狂言の世界でもある。ちょっと踏み外してみせれば小林秀雄に非ず、坂口安吾の世界でもあるだろう。

「利根の川風袂に入れて」の浪曲の一節は鈴木の言うように正岡容の仕業であるらしい。わたくしは何の縁であったか今では定かではないが、不承不承、浪曲「次郎長三国志」を全て見聞きし(えばることはない)、その退屈さに辟易もした経験もあるが、日本の現代建築の問題の、これは日本のみならずではあるが、問題はそのデザインの大衆的基盤にあるとの確信がある。アメリカに於いてはニュージャーナリズムと称してトム・ウルフがバウハウスからマイハウスへと唱えて一時期問題を提起したが、その後は消えている。この大衆は民衆に非ず、自分も含めてとても恐ろしい集団でもあり、昔、ある種の知的選良層が金科玉条とした幻想としての民衆とは大いに異なる。今のTV番組を見惚けている、そしてそのまま選挙へと流れてゆく層でもあるだろう。

鈴木博之が『南総里見八犬伝』の馬琴や、『大菩薩峠』机竜之介の中山介山に異様な関心を持つのは知るが、しかし、それはすでに今の大衆の想像力の水準らしきとは大いに乖離していると言わねばならない。それは民衆への幻想を持ちながらの、特殊な創作者にも似たモノであると言わねばならぬ知的選良の別の姿でしかないようにも思う。

 

何かを性急に問うというのではない。しかし建築家らしきには大きな問題ではある。モダニズム、あるいはレイトモダニズムデザインは明らかにヨーロッパバウハウス以来の、知的選良らしきの局所的な教育によって伝承され続けている特殊なデザインの一種であるに過ぎぬのではなかろうか。———と、建築史家・鈴木博之の「小沢昭一さん」を読んで妄想をたくましくしてしまった。

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石山修武第69信 鈴木博之、東京新聞コラム2「日土小学校の保存について」

鈴木博之が日土小学校・松村正恒設計、について触れている。日土小学校をわたくしは残念ながら実見していない。しかし、実見せずとも花田佳明氏の分厚い著作を通してよく知っている。あるいは、所謂ポストモダーン(日本に於ける)の潮流に距離を置く、俗流モダーンな思考の枠組内の建築家達が褒めそやす、日本の戦後民主主義的建築の典型的な地方建築の名品であるとする、指標の如くとしても、よく知るのである。

 

花田佳明氏から『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』の大部を送られてきて、わたくしは得体が知れぬ感慨に陥った。わたくしの知る若い頃の花田佳明氏のかろうじての印象とはかけ離れていたからだ。それで失礼を知りながら礼状も出さずに仕舞った。ただ気が小さいから礼状を出さずにいるのだけは重く気持に残っていた。誤解があるやも知れぬが花田佳明氏のたいへんな刻苦勉励の結果としての大部な本は、花田氏の東大卒業後の関西でのいささかの設計活動の自己批判とは言わずとも、自己内省の結果として表現されているのではないかとも思えた。

日土小学校は花田佳明の膨大な資料からも想像するに、その日本的価値は小学校が計画、建設された、日本の近代建築と、その設計の重要なポイントであったであろうその土地を流れる小川の流れとの関係に在る。他にも在るのだろうが、設計者の主なる意図は川の流れと、建築との関係にある。

 

姿、形がそれぞれの読者の想像力にゆだねられるからであろうから、それだからこそなのだろうが、わたくしの想像の中の小学校らしきの原像は宮澤賢治の『風の又三郎』に登場する小学校に尽き、他はない。姿形はないけれど圧倒的なイメージ(俗な言い方で申し訳ないが)の源泉でもある。多くの批評家がすでに述べている如くに、放課後の不在としての、日本の近代の小学校のイメージの源流である。日本の近代小学校は圧倒的な不在そのものである。小学校には不在としての校庭の他には何もない。戦後の小学校というモノはそれでしかない。教師も教育も、もちろん建築も。それは又、建築としては後の日本の計画学の達成でもあり、同時にそれでしかなかったとも言えるだろう。

日土小学校はしかし、川の流れにそって計画された、の一点において、その計画学に従いながらも、特権的な位置を獲得した。計画学のマニュアルに従わざる、それこそデザインの価値を獲得したのである。日土小学校が日本の近代建築として保存するに足る意味の大半はそこに在る。松村正恒設計の日土小学校の要は川に対する特別な計画学の枠に非ざる川に突き出たバルコニー他の特殊に全てが在ると考える。

2013年1月17日 石山修武

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石山修武第66信 鈴木博之、東京新聞「紙つぶて」1月10日に寄せて

東京駅の復原と題したコラムで、短い言説の形式の中で、わたくしにはいくつかの興味深い事、あるいは言葉の断片を投げている。ともすれば新聞のコラムは読み捨てられやすいものである。勝手ながら注意を喚起しておきたい。短文の主軸は結びの「都市には歴史性が必要なのだ…」に尽きよう。しかし、それを四十年間言い続けている、それも小さな歴史なのだが、それを論じるのは又、一つの論が必要になるからここでは言わぬ。しかし俗に言われる軽少浮薄な言説の漂う昨今の様々な中では、この四十年になんなんとする言説の持続に改めて注意をうながしたい。処女作の『建築の世紀末』から延々と連続する言説の流れである。

 

復原された東京駅の価値は日本近代初期の生々しい脱亜入欧、和魂洋才の時代精神を建築形式として日本の中心に置き直してみせた、それに尽きよう。東京駅の如くにある種の中心に属する建築の特権であり責務でもある。それはこれから先の半年間のコラムで論じられようから口は出さぬ。

 

わたくしに興味深かったのは都市のスカイラインと装飾の力に関する断片であった。さりげない細部に論者は意志を反映させるものだ。鈴木は言う、復原された東京駅には豊かなスカイラインがあると。と言う事は昨今の都市東京にはスカイラインと呼べるモノが余りにも少ない事につながる。汐留ほどではないけれど東京丸の内は高層、超高層ビルで埋め尽くされようとしていた。東京駅のインターナショナルスタイルによる再開発案も歴然としてあった。商業資本の本体の欲望と復原運動とは決して相容れない。十年間の委員会のメンバーの意志の持続、そして持続させた何者かの力は並大抵な事ではなかったろう。その結果としての豊かな都市のスカイラインの復原と相なったのである。

 

新しいスカイツリーからの都市の鳥瞰も又、別種の都市像を結ぶやも知れぬ。しかし、ここでは都市のスカイラインとは大地を歩く視線の先の光景の重要な形式ととらえたい。

復原された東京駅のスカイラインの豊かさは、これからの都市を考える大事なポイントでもあろう。

 

復原された東京駅の原設計者、辰野金吾は、英国からの建築家ジョサイア・コンドルに学んだ。詳細は知らぬが英国の首都ロンドンではテームズ河沿いのエリアに計画されるビルのシルエット=スカイラインをインターナショナルスタイルに非ずの、屋根の形を復原させようとチャールズ皇太子が熱心な様であるのを聞いた。良く知られた米国のクリストファー・アレギザンダーが知恵袋、コンサルタントとして協力しているらしい。現代建築家=進歩派はあんまり賛成ではないようだ。今はどうなっているのか知りたいものである。

2013年1月11日  石山修武

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佐藤研吾投稿 第二稿

伊豆・松崎町、建築複合体に関わるマテリアルについて

十月三十日にサイト上に投稿した小論「伊豆・松崎町、牛原山と伊豆の長八美術館周辺の建築複合体についての考察」で述べた内容について、自省も兼ねてその肝要な部分を抜き取るならば以下の三つであろう。

1、建築群の建設・増築事業が約四半世紀かけて段階的に行われたこと、つまりある一つの小歴史として振り返るだけの時間の余地を設計者が持ち得たことが、複雑な幾何学を生成する一端を担ったこと。

2、伊豆の長八美術館を起点として生まれた、幾何学の歪みの作為は、伊豆の地域固有の弱い光を断片化させ、再集合・再構成するためであったこと。

3、それら建築複合体の鋭角的造形の成り立ちは、背後の牛原山の環境風景に呼応したものでもあったこと。そしてその両者を緩衝するマテリアルとして小さな池=水が配置されたこと。

先の小論では、松崎町の建築群の鋭利な幾何学形態の所以、さらには由来を探ろうと試みた。松崎町とは一見何の縁もないようにも思える古代ローマを引き合いに出したのも、建築の形態が持つ普遍的な性格と、そしてそれぞれの差異性とを複眼的な視点をもって同時に眺めようとするためである。過去のあらゆる事物がそれぞれの時代を超えて、一人の人間の脳内で交通する。師・石山の作品を通して、そうした自分自身の実感を確かめ、歴史および物質への畏敬と破戒をそれぞれ両腕に構える感覚を意識するための作業でもあった。

かつて石山は伊豆・松崎町の建築複合体について「形態は生産を刺激する」と述べている。生産とは、端的に言えば建築の素材と、それを形態として具体化させる技術である。産業とはそれが体系化・集約化された結果である。技術とは人間、つまりここでは漆喰を建築に塗り込む左官職人たちのものである。松崎町の建築複合体の形態の幾何学は、全国から結集した左官職人たちという非常に具体的で、顔が見える相手が想定されていた。建築の鋭利な形態群は彼ら左官職人たちを刺激させるために出現していたのである。

伊豆の長八美術館は、江戸以来の優れた技術を持った大工達の力によって明治初頭に建ち現れた擬洋風建築をモデルに、江戸末期の伝説的左官工、入江長八を記念して作られた建築である。建設にあたっては延べ2,000人もの左官職人が全国から動員されそれぞれの技術を一つの建築物の中で競い合った。その意味では、この美術館は建築生産の業界内で衰退しつつある左官の技術保存のための運動であり、形象として保存していくための宝物殿であり、そして同時に、全国から資本を勧進し、入江長八という伝説的人物を崇め奉るために建立された、神社ないしは廟に近い形式を持っていた。

大都市・東京の内で最大の森を持つともいえる明治神宮境内は、明治天皇を祀るべく、それまで練兵場であった東京・青山の荒涼な土地に全国から銘木が集められてできあがった人工の森である。その統括においては日本近代の造園学および林学の知が結集された。植樹計画では50年、100年後の森の姿を想定して樹種および配置が決定された。その配置の妙は100年後その森の中を訪れる我々の眼では把握出来ないほどに、森は湿った新羅万象の雰囲気に包まれているが、伊豆の長八美術館に訪れる人々もまた同様に、建築に付された全国の左官達の手によって造作された膨大な装飾群が一挙に眼前に押し寄せるのを経験する。

かつて設計者石山は、伊豆の長八美術館の設計にあたり、札所巡りを一度に体験させる会津の栄螺堂のようなイルージョンをモデルとして、この美術館も江戸末期の長八のような生き生きとした職人達の時代へとタイムスリップして思いをはせることができるように設計した、という旨を述べている。そして美術館の平面計画は、栄螺堂を倒し、遠近法的な錯覚を生む視覚の歪曲によってそのまま平面に変換させたとも述べている。栄螺堂は全国各地の巡礼ルート(西国、坂東、秩父)を一つの螺旋の空間構造の中へと抽象化、結集させた、いわば模型的思考によって出現した建築である。栄螺堂が本来の巡礼における物理的な距離と身体的体験を抽象化したのに対して、伊豆の長八美術館は、現代から長八が生きた江戸へと遡行する時空間の思考の交通を縮減化させたのである。時空の間を渡す役割を果たしたのが伝統的な左官の技術であり、ウィリアム・モリスをモデルともする職人組織に込める設計者の強靭なノスタルジーであった。伊豆の長八美術館は、漆喰作品の巡礼空間であり、江戸へと想像を向かわせるためのいわば時空の望遠鏡であった。

江戸へタイムスリップを図るべくこの美術館を巡礼する鑑賞者は、既に述べた通り、遠近法的な視覚体験を引き起こす空間のある方向性を持った歪曲によって、思わず奥へ奥へと突き進んでしまうような運動を誘引される。建築に散りばめられた漆喰装飾に囲まれて過去への想像力を掻き立てられながら、鑑賞者の身体は建築内部の幾何学群の鋭角的な傾き、つまり造形が持つ躍動感とのある種の相同性を帯びてくる。F・キースラーが「すべては人間の拡張である」と言った如くに、鑑賞者の身体感覚と建築の内部空間は同質の動きを備えた入れ子の関係にそれぞれ定位する。そして、その構成は、その宇宙論的な思考を持ってなされた環境世界の構築、及び彼の思考の中枢となった「エンドレス」の概念にまで通じている。

 

伊豆の長八美術館を埋め尽くす左官による漆喰仕上げは湿式工法である。土(石灰)に水が調合される。水の調合量は現場の季節や気候・天気に影響される。左官には職人達の手による勢いが必要で、彼等の鏝の動きがそのままに漆喰壁の表面に浮かび上がる(たとえ面が平らになろうとも)。完成後は漆喰壁は硬化とともに乾燥するが、吸湿作用によって一定の水分を保ち続ける。

文学的な視座から科学と哲学の融和を試みたG・バシュラールは、火、土、空、水の四元素に分類された物質への精神分析的な作法によって、物質と人間が想起するイマージュとの関係の探求を試みたが、漆喰壁の成り立ちについては、言わば土と水(そして反応には空(=二酸化酸素)も加わる)元素の複合形と動的な現象への共感を寄せることができ得よう。そして、その漆喰壁を強引に分解し、土と水という本来異なるマテリアルの存在を見出すときには、土を軟化させ、同時に凝固させる役割を交互に演じる水の二面的な性格が浮かび上がってくるだろう。漆喰壁はまさに呼吸しているのである。形態を超えて、その内奥に潜在する物質に向けられるこうした「夢想」は、同時にそれを凝視する主体の内密さへの意識の深まりにつながる。バシュラールがエドガー・アラン・ポーの作品内に幾度も登場する水に対して、ポー自身の<死>へのイマージュをそこから見出したように(※1)、われわれは一枚の漆喰の壁に対しても、物質の動的な作用の夢想から自身の想像力の遠近法を導き出さねばならない。

以上の考察は、バシュラールの言う「物質的想像力」という心理学へいささか偏り過ぎている感はあるが、一方で長期間向き合い続ける設計者と職人、そして建築に日常的に接し続ける人々にとってみれば、その些細な物質の変化(建築が文字通り呼吸している)に対して、まるで生き物に対して向けられるような、ある種の情緒の念を投げかけるのは至極真っ当なことでもあるだろう。

松崎町のこの建築プロジェクトにおいて、左官という前工業化時代の技術が導入されたその意義は、その技術自体の社会的衰退に抗することや、歴史を担ぎ上げるための記号的な側面だけではない。たとえ社会が工業時代の只中にあったとしても、漆喰というマテリアルを介すことで人々の情緒的想像力を発現させる可能性が生まれたことにその意義はある。伊豆の長八美術館では、鉄骨の表面に対しても漆喰が塗り重ねられたという。工業化時代の筆頭である鉄にももちろん情緒は向かう。けれどもここにおいて重視すべきなのは、鉄が作り出したその鋭利な幾何学形態と、漆喰仕上げが持つ有機的性質の折衷的オーバーラップである。そしてその強引な作法を可能にしたのは、左官職人の技術と漆喰の柔らかな適応性に他ならない。

建築設計はマテリアルからは逃れることは出来ないし、むしろ時代の情報化への偏重にあわせて、実体としてのマテリアルと、情報がつくりだす膨大な意味世界、そしてマテリアルに対して人間が抱く詩的な風景との間を取り結んでいかなければならない責任があるはずである。

松崎町の建築群に関わる水についての考察は、建築物の前後に配置された池の水、そして敷地からほど近い太平洋の海水などに限ってしまっては不足であり、建築に対して設計者、職人集団、そして町の人々が関わり続ける限りは、むしろ大気と建築の表皮にさえも含まれる分子レベルの水、つまり感覚的には「湿っぽさ」として捉えられる些細で視ることも困難な小さな事物についてもあわせて総合的に行なわれなければならないのである。

こうした分子レベルでの微細な水をめぐる想像的考察を行なうもうひとつの理由として、設計者石山の当時のイスラーム建築への傾注にそれはある。石山は自身の旅の経験から、イスラーム建築の魅力を自らのデザインに学び入れ、松崎町の建築群の中にもイスラームの造形に近い形態を取り入れたと語っている。例えば美術館の隣りに位置する民芸館内部のコンクリート壁に穿たれた採光のための窓の造形はあきらかにアラベスク模様をモチーフとしているし、無数の幾何学の複合体はイスラーム建築の数学的平面配列に接近を試みている。井筒俊彦および黒田壽郎の研究によれば、イスラーム神学の原子論では、万物はすべからく分割不可能な最小単位である原子から成り立っており、それぞれが異なる性質を持っているという。つまり万物は互いの差異性から成り立ち、アラベスクの模様も同様に、それぞれの個別的な図形が自己を主張し、互いに動的な関係を築き、群を成した全体は無限に広がりを持つのである。増築・増設という時空の後押しを借りて、工芸館の建築は伊豆の長八美術館にある二つの円(もちろん両者異なる形質を持っている)を引き込み、ある円弧に沿わせて増殖をおこなった。イスラーム世界にみられる個々のエレメント間の差異と、無限増殖的な価値観の展開は、松崎町の建築群のエレメントにそのまま投影されている。

中央の伊豆の長八美術館の完成から数年後、新たに増築された工芸館はガラスと鉄の建築である。俯瞰的に眺めてしまえば、素材の違いから両者は対照的なようにも見える。しかし、それぞれをエレメントに分解し、個々のエレメントの相互の関係の妙を高い解像度をもって抉り出すならば、ガラスと鉄の建築もまたまるで有機体のように、エレメント間の動的な関係が見えて来よう。異なるマテリアルをそれぞれ持つ二つの建築物は、二項対立といったあっけらかんとした関係ではなく、差異、ないしは差分を持つ相対関係として、ある一つの群像として浮かび上がってくる。

微細で些細なエレメントがうごめく群体モデルへの関心が、この建築の複合の姿からは感じ取れるのである。

 

※1 ガストン・バシュラール、及川馦訳『水と夢』、法政大学出版局、2008年9月。

※2 井筒俊彦『イスラーム思想史』、岩波書店、1975年11月。 黒田壽郎『イスラームの構造 タウヒード・シャリーア・ウンマ』、書肆心水、2004年10月。

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渡邊大志投稿 二〇一二年再読・「幻庵の浮橋」 第二稿

物質と光の観点から幻庵、特にその浮橋にさらに一歩踏み入りたい。

まず、石山は私の第一稿の注釈に「夜の闇にも光は在る」と附した。その一方で、蓬莱山の石橋と同様に幻庵の浮橋は物質であり、そこには「質量」が歴然として在る。この二つのことは、幻庵の浮橋が幽玄、有心の観念論だけで充二分に包含し尽くし得るモノではないことを端的に示している。そして石山、難波の両先行者から指摘された前稿の空疎さの因は専らこの問題に集約できる。

前稿はその光に照らし出される抒情の風景について述べようとする余り、光そのものに執着がなされていなかった。しかしながら、この二つのことは、石山が「川合にとっての異形」と評した「夜闇の光」である浮橋と、物理的法則に基づいて川合の眼前に在った浮橋が互いに相反する根拠として、そのまま置き換えられるわけではない。夜闇の光にも質量は在り、コンピュータのモニターに現れた現代の光にも依然として質量は在る。

 

定家が類型と定型によって和歌による人工世界を立体的な観念空間として創出し得たことは、質量を伴わない和歌の特質が確かに大きな利点となっている。定家の空間は物質として可視化した途端にたちまち消え失せてしまう類のものであり、そのために定家は非存在の存在である夢の浮橋を架けることに成功した。

その一方で、後白河院の今様によってなされた短歌と式楽の融合は、定家の五七五七七の定型に文字数だけではなく音(旋律)の定型を与えてもいた。すなわち平安の夜の闇は、定型短詩を文面だけではなく詠者の旋律に載せた声を音の振動として伝える唯物的な媒介(メディア)でもあった。

これらの点について、難波は作者の強い意志に裏打ちされた幻庵の非定型性との矛盾を指摘し、石山は現代をメロディーも詩も無い無味乾燥な旋律の繰り返しと視ている。この二つの指摘は、私が本論全体を通じて言及すべきことについて重要な視角を提供してくれている。

まず、私はそこに見出される美学のフォルムに形式すなわち定型を視ようとしたのであって、それはすなわちアーキタイプとしての幻庵や浮橋に置換される問題ではないと考えている。その上で、コンピュータ端末に代表される現代空間が、平安空間における五七五七七の定型を無味乾燥(無意識)に超えてしまっていることに同意する。そこに私にとっての幻庵の浮橋の「物質と光」の相反性と同義性が隠されている。問題を自分の身体に引き寄せるために、もう少し考えを精査しておきたい。

 

1975年の幻庵を現代のコンピュータに置き換えて考えるならば、物質とはモニターに明滅する光の粒子、そしてモニターそのものの質量に他ならない。そのとき、モニターに文字あるいは映像という仮初めの形式をとって表示されているモノは、それを活字に印刷された文字と同様に言霊(ロゴス)として認識した場合に生じる情報の発信者(多くの場合は筆者)への想像力が生み出す“重み”に違いない。つまり、意味が生み出す質量である。

それは、和歌においては詠み人の記名性であり、ウェブサイトの記事においても同様である。しかしながら、ウェブサイト群をヴァナキュラーな集落と同様にアノニマスな集団意志の集合として視るならば、石山が指摘するように、たちまちそこからは特異な旋律は消え失せ、五七五七七どころではない“無旋律の定型”とも呼ぶべきシニシズムに陥りかねない。シニシズムに新しい創作行為の可能性はない。少なくとも私はそこに人生の対価を払うつもりはない。

定家の十歌体の類型と音節の定型が有効であるのは、創造物における不定型の自由は有り得ないのだという絶望と成熟が表裏一体となった基調において、事物に原理原則を求めたいという願望を捨て去ることができない場合である。定家にとって平安末期の社会はそれまでの固定された価値観が揺らぐ不定形(不定型ではない)なものであっただろう。そのことに対する不安が定家を含む当時の社会を覆っていた。

そのため、定家にとって豪放な人物としての西行は、平安社会の枠に納まらない不定型の自由そのものであり、異形の存在に他ならなかったと想像する。西行ほど行動力のない定家は、西行の移動の残像に未来を視ようとし、西行の詠む風景に棲むことによって一種の心地よさを得た。父・俊成と変わらない年齢の差もその憧憬の念を強めたかもしれない。

石山の指摘する筆者の「ひ弱さ」の根は、この定家と同種のモノと考えている。新古今調の美学とは、時代に対する不安の中での何かに対する絶望と表裏一体となった憧れ、すなわち「夢」であり、それゆえの夢の浮橋である。それは実は日本の中世だけでなく、第一次世界大戦後のヨーロッパにもあったものである。

 

ここで見出された「夢」をどう考えるか。平安末期と同様に3.11.原発事故の「悪夢」を含む現代の集団夢と社会を捉えるならば、二〇世紀初頭に無秩序に自動記述された個の夢にその由縁を求めたのがシュールレアリズムの美学であった。しかし今ではナジャは多くの隣人に過ぎず、「私は何者か?」という問いも虚しく響くのみである。今や個の夢の複層は万人の夢として現実の都市、つまり消費社会を構成し尽くしたと言える。その分かり易い表象が電子マネーである。そして、万人の夢はすなわち現在のコンピュータの人工頭脳と接続された私達の脳内世界である。

その上で幻庵まで時代を遡行すれば、1968年に象徴される全共闘学生運動が1971-75年当時における集団夢の極みであり(磯崎新はこれを宴と呼んだ)、それは時代の「白昼夢」であった。マクルーハンがメディアを人体の拡張としたように、コンピュータは人体のうち脳の部位を拡張した。その一方で、当時実際に熱狂する彼らの脳の上にはヘルメットがあり、そのさらに外側の社会領域を守るものとしてバリケードという物質をあくまで伴ったものであった。

現代ではヘルメットとバリケードはマウスとコンピュータに置換され、むしろ物を失うことによって夢が強度を増していく。このとき物=空間であることは言うまでもない。

 

石山は第一稿注釈において、空間=隙間を時代に切り裂いていったと述懐している。「くうかん」と「すきま」の違いは、構成と消失の違いであるが、幻庵の浮橋の強度は消失の美学によって保たれている。ただし、それがコンピュータとマウスと異なり、ヘルメットとバリケードつまり物質を伴っている点に留意する必要がある。そこで、ふたたび議論の俎上に上がるのが定型と類型の問題である。

すなわち、千年変わることのなかった中世の中心において、定家の時代が文献学すなわち過去を学習することを選択したことの意義を考えなければならない。しかも、それは今から見れば「桂」的なる美学に支えられた学習の方法であった。つまり、文献学が中世の定家の時代になってようやく学問として成立したことが、類型と定型の美学を生む原動力となったのである。このことは定家一人の成果ではなく、平安末期の混沌とした時代が顕在化した最初の情報時代の表現とも言うべき美の形式であった。

幻庵は確かに二つとない建築である。しかし、それは決して不定型の自由によってもたらされたものではない。その強度は消失の美学によって裏打ちされたものであり、その一方で物質を失うことを最後まで許していない。

この点をどう解決したのか。そのために類型と定型を持ち込む必要があったのではないか。つまり、太鼓橋という類型を用い、それをコルゲートの洞穴状という不可視のフレームという定型にはめ込むことで、物質は質量を失わないままに消失の美学を持ち込むことに成功した。私は創作における自己の姿勢において、その点を少なくとも幻庵の浮橋から見出し継承していきたい。

 

まだ充分に踏み込めていないが、物質と光への考察から自己の創作論としても少しずつ幻庵の浮橋を渡り進めていきたい。

11/7

難波和彦 第23信 渡邊大志と佐藤研吾の石山修武建築論について

Xゼミナールに石山研の若い建築家2人が殴り込んできた。渡邊大志の「二〇一二年再読・「幻庵の浮橋」」と佐藤研吾の「八百萬の幾何学—伊豆・松崎町、牛原山と伊豆の長八美術館周辺の建築複合体についての考察―」である。

まず、エッセイの前提にあるコンテクストが掴めない点に戸惑いを感じる。もちろん、渡邊君は山奥に佇む「幻庵」について、佐藤君は伊豆松崎町の一連の建築について論じていることは承知している。あるいは、石山さんが言うように、師匠は作品を通じて弟子に学ばせるということも、十分に理解できる。そうではなくて、エッセイの基本的なモチーフが最初は読めなかったのである。

渡邊君は、「幻庵」の吹抜けにかかる浮き橋と、藤原定家の和歌「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺に別るる横雲の空」にある「夢の浮橋」とを結びつけることから始めている。そして1975年の幻庵の浮き橋に込められた学生運動の夢と、平安時代末期から鎌倉時代への混乱期を生きた定家の夢とが重ね合わせられる。そこまで読んで、ようやくこのエッセイの構図が読める。しかし定家が五七五七七の定型を結実させたこととから、幻庵の定型性を導き出そうとする展開は、いささか牽強付会というか説得力がないように思える。なぜなら幻庵は明らかに定型ではないからである。幻庵的な建築の原型をつくった河合健二は、幻庵を見て「石山くん、コレワ芸術になっちまったぜ」と言ったと石山自身が述懐している。要するに芸術は定型ではないのである。というか、幻庵は1960年代末の文化革命が夢であったことの時代的な証言であり、単独的で個別的な作品なのである。僕の見るところ、幻庵の時代的なリアリティは、定家のもっとも有名な詩「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」とは対極にあるように思える。

佐藤君は、伊豆松崎町の「長八美術館」のドームを、ピラネージが描いた版画「カンプス・マルティウス」のパンテオンのドームと結びつけることから始めている。時代を超えて二つの作品を比較するという論の建て方は渡邊君と同じである。しかし駿河湾の光と地中海の光との相違や、ドームの配置を統御する幾何学の相違や、松崎町の牛原山とテヴェレ川の比較などには、今一リアリティが感じられない。その理由は、共通性よりも差異性ばかりにとらわれているからである。佐藤君の結論「松崎町の幾何学の増殖の様は、古代ローマのそれとは大きく異なっている。」は最初から分り切った事実である。そうではなくて、むしろ、強引にでも両者の類似性を強調すべきではなかったか。地図を眺めてみれば分かるはずだが、ローマと松崎町の海に対する位置は、どことなく似ているのである。

とはいえ、微かな手がかりから、時間的にも、空間的にも、あるいはジャンルにおいてもかけ離れた二つの対象を結びつけ、比較することによって何かを発見しようとしている点において、二つの論文は大きな射程距離を孕んでいると思う。今後の健闘を祈りたい。

10/30

佐藤研吾投稿 八百萬の幾何学

—伊豆・松崎町、牛原山と伊豆の長八美術館周辺の建築複合体についての考察—

伊豆半島の突端の町、松崎町(※石山修武注釈)の牛原山(※石山修武注釈)の麓に位置する長八美術館(※石山修武注釈)及びその周辺の建築群は、およそ四つの工期に分かれて段階的に建設された。まずはじめに美術館が、そして次に民芸館とレストラン、空中庭園、野外劇場、収蔵庫と順次必要な機能とそのヴォリュームが敷地の中に付加された。敷地もまた工期を重ねる度に拡張されたと言う。その手法は町の財政的にも、またエポックを絶えず発信させるまちづくりの在りかたしても効果的であったようである。

今現在、実物なり図面を眺めれば一同に姿を現すそれらの建築群にも、当然ながら新旧の序列があり、三度の増築の度にそれぞれに与えられた新たな意味・内容の積み重ねがある。以前に建設された建築オブジェクトは解読し直され、以前の高次でひとまずは完結していた秩序は解体されて、新しく付加された建築要素とともにまた別の集合体として更新される。松崎町の建築群の設計者、石山修武はもちろんこうした事態を充分に想定し尽くしていたに違いない。最初の建設である長八美術館の設計の際にも、まちづくりへの積極的な関わりの中で、近い将来美術館の周囲には新たな建築物が増築され、幾度かの断絶を含んだ建築複合体としての未来の様相が出現するのを直観していたのであろう。

通称「イクノグラフィア/Iconographia」、日本語では「図像解釈」と呼ばれる、古代ローマの地勢図「カンプス・マルティウス」図は、18世紀の考古学者であり、膨大な銅版画を残した建築家G・B・ピラネージの想像的復元である(※1)。それは、都市カンプス・マルティウス建設の終末期にあたる、四世紀初頭のコンスタンティヌス帝即位時代の状況を描いたものである。その想像的な線刻作業の底本となったのは、ローマ帝国初代皇帝、アウグストゥス帝の時代、紀元0年周辺を描いた版であったとされている。

 原版に対して加刻していくことで、新たな作品を生み出すことが可能である銅版画(エッチング)の作業の手筈に忠実に従って、ピラネージは約4世紀にわたる生命体が如くの都市の生成を加刻したのであった。描かれた建築群はそれぞれ自らを一本の軸で統合し、完結した幾何学形態を持ちながら、細胞のように集合して都市を組織している。ピラネージが四世紀で加刻を中断したのはもちろん考古学研究の要請からであるが、想像的かつ演繹的な復元という手法の原理からすれば、彼はどんな未来の都市状況までも夢想し、創造することが可能であったと言える。つまり、このときピラネージは未来の想像的世界を描くだけの創造の余力を多分に残しながらに、「カンプス・マルティウス」図を完成(=中断)させたのである。その余力は、松崎町の段階的に建設された建築複合体の姿にも強く感じられる。

左:松崎町・伊豆の長八美術館周辺、収蔵庫を含む第四期工事終了時の図、右:第三期工事まで完了した図

ピラネージ、「カンプス・マルティウス」図

 

松崎町の建築複合体は段階的な「加刻」ゆえに、極めて複雑な幾何学が横溢している。けれども、その中でも最初に建設された長八美術館の中心を貫く軸(※石山修武注釈)を構成する、大小2つのドーム屋根を持った円形空間は、他の無数の鋭利な角度を持った幾何学的な構築物をある群体、あるいは一つの結晶体としてまとめるだけの強い求心力と、それぞれのエレメントを互いに結びつける統合力を持っているように思える。

ドーム建築といえば、ピラネージの「カンプス・マルティウス」図にも描かれていた古代ローマのパンテオン(※石山修武注釈)があまりにも有名である。紀元前25年に建造されたローマのパラティヌスの丘の上に建つ直径約45メートルの巨大な建築である。ドーム建築の起源は先史時代にまで遡り、ギリシャ時代、及び他の文化圏にも幾つか先例が散見されるが、これほどの大規模なドーム構造はパンテオンが初めてであった。

「パンテオン」とはそもそもギリシャ語で「全ての神々」という意味であり、一神教であるキリスト教が台頭する以前の古代ローマに建設されたパンテオンはその名の通り、すべての神々を祀るための神殿であった。当初は初代ローマ皇帝アウグストゥスを奉ることを予定していたが、市民の反発を避けるため機能が万神殿へと変更されたとも言われている。

けれども、その巨大な空間を持つパンテオンの中には、ローマ神の石造がたったの何体かが端に置かれているだけである。中心はぽっかりと空いている。そしてその場所に、天井に穿たれた正円の開口を通過して地中海のはっきりとした光線が差し込んでくる。厳格な幾何学を駆使して、確かな輪郭をもった光を作り出すその空間構成は、外部の自然世界を抽象化して捉える古代ローマ人の認識の明晰さをよく表していると思われる。それはまた、古代ローマの神話の中に生きる数多の神々を、一本の光線として統合し、天体を模したのであろう、宇宙の縮図(※石山修武注釈)としての巨大なドーム内部へと引き込むための装置でもあったのではないか。神統一の過程は、その後の一神教、キリスト教の圧倒的な布教の広がりの萌芽とも言えなくもないが、ともあれ、パンテオンの中ではローマの神々は光として抽象化され、偶像が現れる必要が無かった。一束の光線として舞い降りた神々はパンテオンの床を照らし、反射して、ドーム天井に付された整列する無数の正方形の凹凸の装飾によって乱反射し、ドーム内部の空間全体に漂うのである。

太平洋に近い伊豆の松崎町は内陸に比べれば空は青く強い太陽光が降り注ぐが、その強度(※石山修武注釈)は地中海のカラリとした光には幾らか及ばない。少なくともそれとは異なる形質を持っている。陸地の突端とはいえ、松崎町は湿潤なアジア・モンスーン気候(※石山修武注釈)の中にある。まさに山水画の如くの曖昧模糊な日本の風土と風景においては、ローマのような構築的な神話の世界は生まれず、代わりに神道のような体系の薄い有象無象の神々への信仰が発生したことも何となくは納得がいく。

宗教あるいは信仰心がつくり出す精神世界と、その場所の環境世界との間にある因果を詳述することはほぼ不可能に近い(※石山修武注釈)。ともあれ、日本のような場所に住む人間の精神の内には、政治的な側面を抜きにしても、容易に別の宗教が流入し得たという史実はある。6世紀に仏教が伝来し、16世紀、そして明治維新後の19世紀末にヨーロッパからキリスト教が流入した。松崎町には西伊豆で唯一の明治初期に建てられたキリスト教の教会がある。まちづくりの一環として石山が設計した時計台、およびなまこ壁があしらわれた橋の一つはその教会のほど近い場所にある。それらのデザインは、日本有数の擬洋風建築として知られる岩科学校であった。松崎町の共通の造形モチーフとしてまちづくりの中に浮かび上がったその擬洋風の造形スタイルは、松崎教会の存在とともに、伊豆・松崎町の明治以来の異なる価値観の併置を積極的に求めるその精神世界を精確に表していると言えまいか。その受容的な姿勢は、長八美術館とその周辺の幾何学複合体の内実にまで通じているように感じられる。

長八美術館の、大小二つのドームに挟まれた中庭の空間は、建物の中心を貫く軸の方向に向かって歪み、訪れる人に遠近法的な視覚体験を強いている。ある種の装置としての役割を果たすその中庭空間の強引な知覚の彎曲の働きが、空間自身に運動を与え、周囲に散らばる諸々の幾何学的物体にもまた同じだけの鋭角への圧力を与えているのであるが、その中庭空間の歪みをひとまずは受け留めているのが前後に配置された二つの円形ドームなのである。上空から中庭に注ぐ伊豆のぼんやりとした光は、確かな輪郭を持たないままに、中庭の鋭利な方向性とともに二つの円形空間の中へと流れ込む。ローマのギラギラとした太陽光線が、パルテノンの中へ円形の開口を通過して侵入し、一つの巨大なドーム空間の中へと溶け込んでいくのに対して、長八美術館の中庭に注ぐ伊豆の光はズルズルと中庭の形態に従って二つのドームへ分裂して消えていくのである。「光に神々が宿った」などとは迂闊に言葉にすることはできないが、その曖昧な光に対して運動を助長するかの如くにして、この松崎町の複合した幾何学はその複合を開始したのではないだろうか。

建築の形態操作による光の運動の助長は、特に内部空間においてみられる。複製されたドーム下の円形空間に起因する、三次元空間に無理矢理与えられた遠近法の力学に従って、展示室の屋根部分および側面には内部への採光のための鋭角を持った三角形の開口が連続して並んでいる。それらの鋭利な造形の群体は一見すると過剰な凶暴性を帯びているようにも思えるが、これらは概して外界から内側へ光を運び入れるための、外郭として露出した環境装置であると捉えるべきであろう。ローマでは正円の唯一の大開口だけがあったのに対して、伊豆の松崎町ではそのぼんやりとした光の形質をより抽象化しながら同時にその強度を高めるために、鋭利な角度を備えたいくつもの三角形の開口によって構成された複合的な幾何学の形態が必要であったのではなかろうか。

かつて建築家・原広司は石山の松崎町のこの一連の建築作品群に対して「かたむいた幾何学」という名称を与えたが、上述したようにより精確には「ぼんやりとした光のためにかたむいた幾何学」と言えるだろう。とはいえ、これは建築の内部で完結してしまう問題ではない。建築における自然光への対応はむしろ外部環境といかなる関係を取り結ぶかの建築側からの所作の顕われであり、またここで言う光とは、先述したようにこの地域独自の自然および文化を包含する環境風景の抽象化の形である。その意味で、これら鋭角的造形群の成り立ちは、石山が設計時に絶えず意識していた、町の「うしろ山」として悠然と構える牛原山というこの土地の自然環境を象徴する存在への畏敬の念にまで通じるものがあると言える。

牛原山への畏敬の姿勢は、配置計画を見ても明らかなように、敷地は山の曲がりくねった輪郭に沿って大きく歪んでいる。おそらく当時、その歪みについてどう応答するか熟慮が試みられたのであろう。建築群と牛原山との間に置かれた小さな池はその格闘の証とみなければならない。

先ほど何度か持ち出している古代都市カンプス・マルティウスに流れていたテヴェレ川という大河は、ピラネージの「イクノグラフィア」にも画面右上から左下へかけてうねうねと蛇行して流れる様が、唯一の有機体として描かれていた。先述のように、ピラネージが描いた古代ローマの建築群は、それぞれが自らを規律させる一軸を持ち、幾何学的に完結した平面形状で構成され、既存の自然環境であるテヴェレ川とは無関係に無限増殖して都市を覆い尽くしている。

松崎町の幾何学の増殖の様(※石山修武注釈)は、古代ローマのそれとは大きく異なっている。松崎町の無機的な幾何学は牛原山の地形からはいくらか距離をとりながら、常に山裾の地形の彎曲した輪郭と向かい合っている。いや、両者が向かい合っていると言うよりも、山の輪郭に対して幾何学の群体が添えられていると表現するのが正しいかもしれない。そのある種の空いてしまった隙間を緩衝しまた媒介するマテリアルとして、両者の間に水が注入されたのである。水面が鏡となって写し出すのは牛原山の山容の一部であり、より眼を凝らせばそれは山に植生する木々の葉っぱの集合体として浮かび上がるであろう。牛原山が持つ様々な葉形が複雑な幾何学を成して、手前の建築の鋭利な幾何学の群体の前に現われていたのである。

 

※1 ピラネージの「カンプス・マルティウス」図については、『ピラネージと「カンプス・マルティウス」』(桐敷真次郎・岡田哲史、本の友社、1993年6月)からその内容を得た。また、本考察の幾つかの着眼を、磯崎新の論考「両性具有の夢」(磯崎新+篠山紀信、『逸楽と憂愁のローマ・ヴィラ・アドリアーナ 建築行脚(3)』、六耀社、1981年6月)から得た。

二〇一二年一〇月二十四日 佐藤研吾

10/30

渡邊大志投稿 二〇一二年再読・「幻庵の浮橋」

(藤塚光政撮影)出典:ギャラリー・間10周年記念 出展作家の原点作品展HPより(※石山修武注釈

 

「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺に別る々横雲の空」

藤原定家(一一六二ー一二四一)の有名な「夢の浮橋」の一首である。定家は後鳥羽帝の土御門帝への禅譲と九条兼実の失脚などによる当時の「騒擾・尾籠」の上に橋を架けた。その多義に渡る浮橋は、教養による人工の極とも言うべきフォルム、すなわち「美」に他ならない(注一)。

幻庵に浮橋(※石山修武注釈)が架けられたのは一九七五年(※石山修武注釈)のことで、全共闘の運動がその六年前の東大安田講堂占拠をピークに急速に萎みつつある時代であった。その橋を二〇一二年に振り返ろうとしているわけだが、浮橋=憂き橋であるから、幻庵の浮橋は時空を超えて(※石山修武注釈)現代にも架かってくる。昨今の状況を鑑みれば、三.一一.の原発事故(※石山修武注釈)があり、現在もその渦中にある。定家以来、浮橋を架ける時代の類似性は誰しもが認めるところであろう。つまり、中世の定家が源氏物語の浮舟を本歌取りした浮橋を再読した幻庵の浮橋を、ふたたび再読する三重の入れ子状(※石山修武注釈)の枠組みの中で、デザインの本性は「美」である、と意図的に特化(※石山修武注釈)した考えを巡らせてみたい。

 

定家が棲んだ京の都は餓死者の亡骸が散見する荒廃した都市であった。保元の乱、平治の乱を経て武家勢力が台頭しはじめた背景には、平家の武力以上に全国的な寄進系荘園制度の転換があった(注二)。貴族が武士の持つ武力を頼らなければ国家体制を維持できなくなっていくほど、貴族は荒廃していく現実空間にそれを覆いつくす超現実を重ねていくしかなかった。

源平の転形期の治天の君である後白河院が今様を好んだことは有名である。『梁塵秘抄』は五七五七を繰り返す七五調を基調とする。和歌における五と七の組み合わせによるフォルムは、古今和歌集において長歌、短歌、旋頭歌、などに類型化された。今様は、これらを踏まえた上で五と七を繰り返す、今様すなわち当時のモダニズム様式に他ならない。

定家が新古今和歌集においてその名を確固たるものとするのは、それからおよそ二五年後のことである。定家が三一歳のときに後白河院は没している。万葉から続く五と七による美の形成は、このとき大きく転形したと言って良い。

古今和歌集によって類型化された五七五(七七)の枠組みを梁塵秘抄によって変転したのは後白河院であり、それをさらに新古今和歌集によって新たな構造形式に再編集し定型化したのが定家であった。

そのフォルムを形作るに当たり、定家が最も重要視したものが類型と定型の美学であったことは、その歌集の名前そのものに「新」を付加した本歌取りによってわかり易く表現されている。

 

和歌を歌意と歌体に大別するならば、有心体と呼ばれる父・俊成譲りの定家の歌体は新古今調における類型の一つとされる。同様に、幻庵の浮橋を本歌である定家の新古今調にみるならば、橋を架ける行為は歌意であり、橋の形式に太鼓橋を用いたことは歌体の選択であったと言える。つまり、太鼓橋は有心体の採用を意味したことに他ならない。

定家は『毎月抄』において、新古今調の歌体には基礎四体、中五体、極一体の定家十体と呼ばれる類型が在るとした。これらの歌体は古今和歌集以降、千載和歌集に至る六つの歌集を再編集、類型化することで生み出された。定家の創作行為は故事を触るその手つきにあったと言って良い。基礎四体の中に幽玄と有心が含まれる。そこにみる微差を生み出す定家の手つきには、俊成から引き継いだ定家の一生涯が表現されてもいる。有心体は「深い情趣の中に風雅な余情をたたえ、妖艶な美しさを追求する優美な歌体」とされ、幽玄体は「言葉にしていない余情を漂わせ、かすかで奥深い情趣美を追究した歌体」とされる。定家は俊成から引き継いた妖艶を主とした有心を最高の歌体としつつ、これをかすかさを主とした幽玄へと昇華させていった。

保元の乱から定家誕生の前年である平治の乱までの四年間は信西入道による後白河院政期に当たり、平安末期に堕落した朝廷政治を正す政治姿勢の表明として、薬子の変以来の死刑の復活、大内裏の再建、相撲節会の復活など古の仕来りや儀式が復刻されていった時期でもあった。特に相撲節会は射礼や騎射と併せた三節会の一つであり、神事としての古代相撲を儀式として復興することで、古式に法って王家を中心とした集権制の正当性を示そうとした。定家が生きた宮廷はすでに平治の乱以降の平家の時代であったが、信西の復興した朝廷文化の継承ラインの上にあった。その故は、武家である平家の公卿化が、信西が行った文化を用いた朝廷政治への介入を、先例を重んじる朝廷において下級貴族や武士が地位を固める最良の方法としたところにあったと言える(注三)。

そのことが歌と式楽を併せた今様の発生や、万葉以来の歌体を再編成する視角を提供した文化的素地となり、定家はそのような宮中にあって職業歌人として過ごしたのである。したがって、和歌における歌体の類型、歌合の形式などは単に現実社会に目を閉ざした故の文化活動などではなく政治と直結したものであり、あるいは当時の社会=宮廷とするならば儀式、儀礼は後の浮橋にみるような現実社会に重ねられた超現実の空間すなわち政治思想を含めた理想美であり、その復興は真の意味での建築行為であったと言える。

定家の幽玄体にみるかすかさはこのような見地に立てられ、その素地となった俊成の有心体は和歌と式楽が一体となった今様を片目に導き出された妖艶であった。そしてその俊成自身が大きく影響されたのが佐藤義清すなわち西行の出家であり、これが後に息子の定家が新古今和歌集のためのマテリアルとした『千載和歌集』(しかも、今様を好んだ後白河院の院宣による)を生む契機となった。

定家が属した九条家の歌壇(歌合サロン)には、九条兼実良経親子、父である藤原俊成、天台座主・慈円や鴨長明がいたが、これは六条の歌壇に対するもう一方の歌壇という意味では宮廷文化の枠を何らはみ出るものでもなく、これを持って革新的であったとは言い難い。そのような定家が新古今和歌集に最も多い二四首を勅撰した西行に初めて出会ったのは、二五歳のときであった。西行は六九歳であったから四四歳離れていたことになり、定家はこのとき父・俊成の四つ下の西行に父以上の衝撃を受けた。それは「一つの時代の取り成し役」(注四)であった西行の人間力そのものに拠る。後に新古今和歌集に撰した三夕歌のうちの西行による「花も紅葉もなかりけり」とは、定家にとっては巨大に過ぎた西行の、その残像に他ならない。

人工のフォルムを形作る類型の美学には、有心とそれを昇華した幽玄の歌体の内に、青年期に目の当たりにした既に亡き西行に対する畏怖とも言うべき念の残像が父・俊成からの伝授以上に大きくあったに違いない。特徴を消す特徴を持つ定家の歌体は、その対象となる特徴が詠み手あるいは読み手にとって巨大に過ぎて初めて生きてくる。それ故に本歌取りもまた成立するのであって、本歌が小さければ浮橋を架ける相手が見つからないのは明らかである。

幻庵の浮橋においては、それは太鼓橋という形状を採用することで一九七五年から永久(とこしえ)の時間へ橋を架けることに見出すことができる。

 

今様において五七五七を繰り返す形式が採られたことは既に述べた。また、それが万葉において類型されて以来の定型の過渡期に当たることにも触れた。定家はその流れの最後の結実期を担った。

定型の美学は歌の文節と音節に、すなわち音のリズムに直裁に表現される。その上で五七五七七の定型短詩は、歌意と歌体における自在な表現に一定の制約、つまりデザインのフレームを与えることに他ならない。幻庵全体で言えば、コルゲート・パイプの鉄板内にかかる応力分布が生み出すカーブの曲率に「自由な意匠」はその透過する光も含めてコントロールされることを、設計者自身が最初に受け入れてからデザインに臨む態度にそれは表現される。浮橋もまたその例外ではない。

太鼓橋という歌体の類型によって橋を架けるという歌の意は、浮橋の意匠が極細の鉄筋による踏み床の存在しないものとされることによって、「存在しない橋」を存在させることを可能にした。いわば、「非存在の存在」の具現化であり、その美学は定家が青年期に体験した西行の幻影を西行亡き後の新古今和歌集に投影し、さらにその和歌集の中に定家によって存された西行が、「見渡せば花も紅葉もなかりけり」とその存在を消すことによって存在させたことと全くの同義である。

つまりここには、西行に出会った青年期の記憶を投影することで、定家がメディアの中に再生した存在しない西行が存在しない風景を創造し、それを鉄の洞窟状(※石山修武注釈)の幻庵の中に投影する、という三重のクリエーションがなされている。

定型という不可視のフレームを与えることによって、定家はそのクリエーションの構造が何重にも反復されていく余地を逆に生み出すことに成功している。それは本歌取りをさらに本歌取りしていくことの余地でもあり、その自由は五七五七七の数字のリズムのみによって制御される。近代のクセナキスが十二音階による数学的コントロールのみによって自動記述的な造形作法を制御しようとしたことと同様のものを、中世の定家のクリエーション自体とさらに一九七五年の幻庵での再投影との関係に見出すことができる。

 

西行との出会い以降、定家の歌人としての次の転機は後白河院の死と禅譲による後鳥羽院の誕生であった。すでに平家は滅び源氏の時代に入っており武家政権の礎が築かれ始めていた。後白河院から後鳥羽院への代替えは歌世界において今様から新古今調への転機となったが、その間九条家の没落などがあり定家の政治的な立場もより困難になってきていた。後鳥羽院は白河院、鳥羽院、後白河院と続いた院政期の最後の上皇であり、承久の乱後隠岐島にてその生涯を終えたことは周知の通りである。

和歌と式楽を併せた今様を好んだ後白河院が定家ら九条家歌壇に与えた影響に対して、定家より二一歳年若の後鳥羽院は定家に憧憬の念を抱いていたとされる。そして俊成に師事した後鳥羽院の歌風は、定家の作風にも影響を受けたものとされる。このことは後鳥羽院が新古今和歌集の勅撰を定家に命じつつも、院自身を一歌人として定家に入集を促すなど、歌人としての嫉妬と愛憎が混在する微妙な情念を持って定家に接し続ける由縁となった。日本史史上継体天皇以来に三種の神器が揃わないまま即位した天皇となったことによる根深いコンプレックスを院の人となりにみることができる。それは「大遊戯人間」と称されるほどの遊興三昧につながっていく。

水無瀬離宮を造営し、遊女、白拍子を侍らして競馬、相撲、蹴鞠、闘鶏、囲碁、双六を嗜んだ後鳥羽院は、定家四〇歳のとき(一二〇一年)有名な千五百番歌合を催している。詩歌を精神的な遊戯機能としたヨハン・ホイジンガが遊戯を真面目より上位にある概念であるとしたことを掘田善衛が指摘するように、歌人三〇人がそれぞれ百首を吟じたこの歌会は後鳥羽院宮廷空間の文化における普遍的な価値を決定づけると同時に、後に新古今調と定家が名付けた歌体の直接的な発露となった。すなわち、この歌会空間そのものが新古今和歌集空間(※石山修武注釈)とも呼ぶべき人工の極である美のフォルムそのものとして、現実空間である後鳥羽院宮廷に現出したのである。

ここまで迂回しつつ考えたかったこととは、幻庵の内部空間もまたそのような美の現出空間として在り、そのために浮橋はそこに存在できることを言わんとするためである。そして、類型、定型に続いてその意匠の最後の仕上げを担う設計行為とは、命名に他ならない。定家が万葉の類型である古今和歌集に新(NEW)としたように、浮橋を含めてその周囲の洞穴状空間を満たす超現実を「幻庵」と名付けたことに、不可視のフレームの制約にはめ込む石山の創作行為の総仕上げがあった。当初、幻庵主である榎本基純氏は「斜意庵」と名付けようとしたと聞くが、その意図は同じであったと推測する。

 

最後に、これまで述べてきた定家のクリエーションと一九七五年の幻庵の浮橋に架ける浮橋に、さらに二〇一二年から眺める浮橋を架けなければならない。その具体は、ネット上に存在する作家論の作者の現代的意味と定家の類似性を指摘することによって浮かび上がってくる。すなわち、コンピュータの発光するモニター上にのみ視認される文章とその作者の唯物的不在は、むしろ幻庵の浮橋を架けた編集者としての創作者の手つきの残像の中にこそ存在する美のフォルムの現代における再生に他ならない。このことはまた稿を別にして詳らかにすべき大きな問いであろう。

 

注一:その基底には、掘田善衛『定家明月記私抄』ちくま学芸文庫、一九九六年をガイドとした。

注二:平安末期における貴族社会は本来自らの権益を守るために武士を用いたが、これが王家を中心とした中央集権国家の礎としての 荘園制度による既得権益の瓦解につながる。土地と民衆の私的所有によって貴族の基盤を強固なものとしていた荘園制度は、墾田永年私財法によって土地を得た所有者の土地を守ることができる貴族寺社勢力の威光が根幹にあった。しかし、その機能が武士の武力に取って代わられたことで、中央における貴族の基盤は大きく削がれていく。

注三:井上靖の『後白河院』新潮文庫、二〇〇七年には、保元の乱から藤原信頼の粛清に至る平治の乱までの動乱が院自身の監禁や近 親である信西、信頼の共倒れまでを含めて後白河院の意志として描かれており、平家の文化的手法による政治介入もまたその一つとする見方もある。

注四:掘田善衛は鳥羽院、崇徳院、信西、平清盛、源頼朝、藤原秀衡などに時節と場所を横断して直接の折衝を行った西行の側面をし て「政僧」と称している。

10/31-

石山修武注釈

10/23

難波和彦 第22信 ブータン訪問記2012 

雨期が終わった10月中旬の1週間、ヒマラヤ東部の国、ブータンを訪問した。日本からタイのバンコク経由で一日掛かりの行程である。海抜2,300mの首都ティンプーでは、昼間はシャツ1回で過ごせても、天気のよい夜は冷輻射でグッと気温が下がる。昼間の平均気温は20度を越えるが、夜は10度以下まで下がる。

1960年代に首都となったティンプーの現在の人口は約10万人だが、人口増加率は世界最高だという。事実、南部郊外では、集合住宅の激しい建設ラッシュが進んでいる。ご多分に漏れず、ブータンでも、大都市への一極集中が進んでいるようだ。僕たちが泊まったティンプーのホテル支配人は、ティンプーを含む2、3の都市にはGNH(Gross National Happiness)は通用しないと漏らしていた。

 

これほど急激に都市集中が進んでいるにもかかわらず、驚くべきことに、ブータンでは、都市であれ地方であれ、全国すべての建物のデザインコードが統一されている。どの街、どの集落に行っても、建物の規模に関わらず、建物のシルエットは基本的に同じである。これは国王による観光立国としての指導方針に依るところが大きいらしい。それだけ国王の発言力が大きいということである。

建物の階数は高くても6階建て、通常は4階建てだが、これはエレベーターが導入されていないことが最大の要因である。平地がきわめて狭いため、今後もしエレベーターが一般化することになれば、一気に高層化が進む可能性が高い。現在の景観を持続できるかどうかは、エレベーターの導入が大きな転機になるだろう。そこでも国王の指示が守られるかどうかが問題である。

 

一方で、平屋の建築はきわめて少ない。地方に行っても、農家はすべて4階建てである。伝統的な農家は、基礎は石造、1、2階は土壁造、3階以上が木造で、最上階は吹き放しのオープンテラスになっており、その上に軒の深い切妻ないし寄棟の木造トラス屋根が架かっている。土壁が屋上階まで伸び、屋根トラスを支えている場合もある。床は基本的に木造だが、根太の上に板を張り、仕上げは3階居住階が木板、それ以外は土塗である。3階の床根太に竹を使っているのは、空気層のある竹によって断熱性を得るためだという。3階以上の木造の構造体のうち、外部に突き出した梁や根太の端部は細密な装飾によって覆われ、一連の出窓も、花頭窓に似た一定の様式を持っている。この様式は、主構造がRC造であっても付加装飾として踏襲されている。1、2階の土壁造の壁厚は60〜90センチ以上あり、上階に行くにしたがって壁厚が薄くなるので、下階は基壇のように緩やかに傾斜する。一方、3階から上の木造部分は、階毎に外側に迫り出し、その上に軒の深い屋根を架けているので、建物全体は逆ピラミッドのようなシルエットになる。外周の構造壁や木柱によって支えられた下弦材の内側に束を立て、下弦材をゲルバー連続梁にすることによって深い庇を支えている。

農家の1階は牛や豚の家畜小屋、2階は倉庫。3階が生活空間、屋上テラスは農作業の空間である。階段はきわめて急勾配の木板製の階段で、取り外しができるようになっている。後でも述べるように、これは要塞としての機能からきているのではないかと思う。家畜は、日常的には、土壁で囲まれた屋外空間で飼われ、外部に放牧されることは少ない。3階の生活空間の中心はチベット密教の仏間である。中には8畳近くの仏間の手前に8畳の拝殿まで備えた農家もある。ブータンの国教はチベット仏教である。

このような4階建ての農家が集まった集落の景観は壮観である。家畜囲いを含めて、低層部は窓のない土壁で、その上に装飾的な木造が載った全体のシルエットは、城郭あるいは要塞のように見える。地上からもっとも遠い4階の屋外テラスをわざわざ農作業の空間にしているのは、外敵から家を護るためではないだろうか。事実、王宮や僧院などの公共建築や都市の商業建築は、すべて同じようなシルエットを持ち、中庭を囲むように建てられている。すべての建築が緩やかで軒の深い屋根を持っている点が、国中の景観に統一感を与えている。しかしながら、なぜか屋根仕上げは、王宮、僧院までを含めて、すべてトタンの波板葺きである。高級ホテルで有名なアマン・ホテルの屋根もトタン波板葺きである。最初のうちはかなり違和感を感じたが、あまりにも浸透しているので、そのうち見慣れてしまった。ともかく、ここまで徹底してデザインコードが浸透している国は、世界でも稀有である。

 

観光立国とはいえ、公共交通は皆無なので、移動は車に頼らざるを得ない。ほとんどの街は川沿いの谷間に位置しているため、街から街への移動はすべて山越えになる。トンネルはないので、山道は斜面を削った蛇行路である。海抜2,300mのティンプーから海抜1,200mの旧都プナカまでの直線距離は約70kmだが、車では海抜3,500mの峠を越えて3時間以上かかる。エコのためトンネルを掘らないのだというが、ゴッソリと抉り取られた山肌の道の方が、よほどアンチ・エコに見える。

道路は日本と同じ左側通行で、車はすべて右ハンドルである。ブータン全土には交通信号はなく、交差点はすべて回転式のラウンドアバウトである。左側通行なのは、インド経由の大英帝国の影響かと思ったが、僧院(ゾン)のマニ車を回しているうちにハタと気がついた。左側通行だとラウンドアバウトもマニ車と同じ時計回りになるのだ。左側通行は英国の影響だとしても、もし右側通行でラウンドアバウトが反時計回りだったら、決して受け入れられなかっただろう。これは歴史の偶然である。

ティンプー市内には小型タクシーが走っていて、簡単につかまえることができる。メーターはあっても運賃は運転手との交渉で決まり、最低運賃は20ブータン・ニュータム(約40円)、高くても200ニュータム(400円)程度である。

 

ブータンの国教はチベット仏教である。細かな宗派は分らないが、チベットから追われた宗派の人びとがつくった国だという。南はヒンズー教の国インドに接し、南北で国境紛争があるという。

チべット仏教では輪廻転生が信じられているため、蝿や蚊に至るまで、生き物の殺生は固く禁じられている。したがって牛も豚も食べることができないが、なぜか鶏だけは許されているようだ。街中至る所に犬、猫、牛、馬、ロバ、山羊が放たれていて、彼らは人間が危害を加えないことを承知しているので、車と一緒に堂々と道路の真ん中を闊歩している。とくに犬は傍若無人で、至る所に寝そべり、時には交通の頻繁なラウンドアバウトの道路の真ん中に横になって寝ていたりもする。夜中になると、街中の犬が互に遠吠えを始めて、明け方まで啼き止まないのには辟易とした。

 

もうひとつブータンで驚いたのは、川縁の斜面を覆い尽くす棚田の風景である。ブータンの主食は米だから当たり前の風景のように思えるがそうではない。かつて栽培されていたのは、陸稲、粟、稗などで、収穫量も少なかった。1963年に日本の海外技術協力事業団としてブータンを訪れた農業指導者、西岡京治が、水田栽培の技術を紹介し、水の豊かなブータンに相応しい棚田式の農法を開発したのである。以来、西岡は「ブータン農業の父」と称せられ、ブータン国王から「最高に優れた人」を意味する「ダショー」の称号を贈られて、現地ではダショー・ニシオカと呼ばれている。現在、彼はブータン西部の街パロの丘の上に、ストゥーパとともに祀られている。

10/22

鈴木博之 第20信

この一週間ほど、難波さんはブータンで毎夜犬の鳴き声に眠りを妨げられ、石山さんは生け垣を踏み分けて異界へと歩み入りつつあるようです。そのなかで生け垣が墓地にもつうじているらしいことが知れたので、少しばかり墓地について書かせてください。

かつて見た、最も印象的な墓は、谷中の寺にあったいかにも旗本の墓らしいもので、頂部に唐破風がつき周囲に蓮のつぼみの浮き彫りが施されたものでした。そこに「初秋の 風にわが身も さそわれて」と、辞世の句らしきものが刻まれていたのです。江戸の侍らしい粋な句で、いささか憧れを感じたものです。死ぬということは、世界はそのままなんの変りもなく過ぎてゆくなかで、自分ひとりだけがずり落ちてゆくことですから、哀しくないと言えば嘘になるでしょう。「自己の消滅はすなわち世界の消滅である」などと独我論を振り回しても意味がありません。「ただ消えゆくのみ」です。

墓にはそうした人生が、時折刻み込まれています。墓碑銘のかたちで、そのひとの人生のハイライトが語られる墓もありますし、後から句碑や歌碑が添えられて、その人となりを語るものもあります。やはり谷中で、正岡容(まさおか いるる)の歌碑を見たことがありましたが、とてもよいものでした。「打ち出しの 太鼓聞えぬ 真打は まだ二三席 やりたけれども」。この人物は、天保水滸伝の浪曲に「利根の川風、袂に入れて、、、」という名文句をつけたことで知られる才人です。いま、明治村の村長を務めている小沢昭一さんは、この正岡容の弟子筋だと言っておられます。

都内の寺院には、昔の各藩の菩提寺であったものがしばしば見出されます、大垣藩士の墓の並ぶ寺、忍藩士の墓の並ぶ寺など、いくつもの寺が都内に地元の世界を留めています。そうした墓のなかに、歴史と人生が数多く潜んでいて、それに触れることは都市のなかの時間と空間を広げてくれることです。

話は飛躍しますが、墓地と古本屋はよく似ています。そこには過去の様々な人生が積み重なっています。忘れられたような、乱雑な墓地と、すたれた古本屋は、ともにひっそりとひとびとの生きたあかしを収めているのです。墓の形式や時代考証に走るより、ぼんやりと墓域を歩きながら、死者の没年を見てゆくだけでも、日常を超えた長い時間の旅をすることができます。けれども最近は古本屋も寺院も店内や墓域を整理してしまう例が多く、陰影に富んだ発見は望めなくなりました。

9/10

鈴木博之 第19信 復原と推理とオーセンティシティ

石山さんが推理小説と復原の関係について語られ、難波さんがブログで、わたくしがJRイースト誌でしゃべった中に出てくる「オーセンティシティ」の概念がよく解らぬと言っておられたのに触発され、上の表題のテーマで少しばかり書きます。

復原というのは確かに推理でして、根拠を探しながら処置を定めるというものだ。痕跡があればそれに従う、文献にあればその記述を参照する、写真や図面は貴重な情報である、などなど。けれども痕跡は果して何の痕跡か解釈の余地があるし、文献にあることも、事実かどうかはわからない。写真もいつの状況なのか慎重に見定めなければならないし、図面があるからと言ってその通りに作られたとは限らない。かつてのすがたを求めて、情報を収集し、それらを精査して確実かどうか検証して判断する。そこから復原は始まる。とはいえ、建築の復原はただ元通りにすればよいとは限らない。安全性を現代の基準で満たさないとまずいし、材料や技術の面で、すでに再現不可能なものも多い。そこでまた判断を下して方針を決める。

復原はこのように、できるだけ忠実におこなうのだけれど、現在、二つの原則が提唱されている。ひとつは「ミニマム・インターベンション(最小限の介入)」これは手を加えるのを最小限にとどめるというもの。修復するならあれもこれもと、やりすぎるなということである。その結果、せっかく残されていた当初からの材料を取り換えてしまったりしてはならないということだ。もうひとつは「リバーシビリティ(戻せること)」これは絵画の修復と同じで、元に戻せるようにしておけということ。もっと良い手法が見つかったり、新しい事実が出てきたときに、復元をし直せるようにしておけというものだ。

こうやって復原をするのだけれど、その時守るべきものが「オーセンティシティ(真実性・真純性)」といわれるものだ。一般には1964年にベニスで開かれた国際会議で定められた4つの基準が基本になっている。1.材料2.技法3.デザイン4.場所である。これを変えるなということだ。材料を取り換えたり技法を変えたり形を変えたり場所を移したりしてはいけないというのだ。これがベニス憲章と呼ばれて、復元の基本原則とされてきたが、日本のような木造文化圏ではうまくゆかない。木材は取り換えなければ腐ってしまうし、茶室などには移築されるものも多い。そこで1994年に奈良で国際会議が開かれて、新しいオーセンティシティとして6対12項目の概念が定められた。けれどもベニス憲章は、いまでも基本としては生きている。

現実の復原では、現在法規に合わせる、活用法に合わせる、再現不可能になってしまった技術や材料の工夫をする、などの結果、オーセンティシティが確保できなくなってしまうこともある。しかし、そのために建物が存続できなくなってしまっては元も子もないので、どこまで原則を守りどこまで変更を許容するかが、常に問われる。個人的にわたくしが考えるのは、復元に当たって行った手法に一貫性があり、説明可能であるかということである。また、残されている部材を最大限残し続けられるような手法を考えるということもある。

こうしたなかで、次に復原の問題は、建物をいつの状態に戻すことを目指すのかというのに移る。つまり、建てられた当初のすがたに戻すことを目指すのか、建物が最も整備されたと思われる状態にもどすのか、建物が最も知られていたすがたに戻すのかなど、どうすべきかのゴールは複数考えられる。そしてそのうちのどれを選択するかは、ケースバイケースなのだ。東京駅の場合、三菱一号館の場合、それぞれゴールは異なる。だから復原は推理であると同時に、トリックの設定でもあるのだ。われわれはタンテイよりもたちの悪い捏造家だと言われかねない危険性を背負っている。自戒自戒だ。

9/8

石山修武第58信 推理小説と保存復元2

手許にある新潮文庫平成4年10月15日71刷の『点と線』松本清張、の解説は平野謙が書いている。

ここに勝手に平野謙の文章を要約すれば、日本の推理小説の分野にようやくイギリスのフリーマン・ウィルス・クロフツの名作『樽』に匹敵し、もしやそれよりも優れているかも知れぬ作品が生まれた、と言う事だろう。

推理小説の元祖はアメリカのエドガー・アラン・ポー(1809年〜1849年)である。『モルグ街の殺人』は初の推理小説とされている。アラン・ポーは当初アメリカでは支持されず、ボードレールにより翻訳され、フランス象徴派への影響が大であった。ヨーロッパに受け容れられ、それがアメリカに逆輸入された。

イギリスのアーサー・コナン・ドイル(1859年〜1930年)がエドガー・アラン・ポーを読んでいたようだが、ドイルの創り出した名探偵シャーロック・ホームズとエドガー・アラン・ポーのオーギュスト・デュパン探偵の基本的な性格は著しく異なる。辰野金吾は1854年〜1919年の生であったから洋の東西を問わず、ほぼ同時代人であったと思われるが、そこには大した意味も発見できはしないだろう。ちなみに辰野金吾の師であったジョサイア・コンドルは1852年生まれ、1920年没である。

辰野金吾が東京帝大に入学したのが明治6年であった。ラフカディオ・ハーンが東京大学文学部講義で、エドガー・アラン・ポーに触れたのが明治20年代末から30年代にかけてであった。辰野金吾はその才質からしてもエドガー・アラン・ポーに関心を持ったとは思えない。と、この部分の断言は勝手な憶測であり、実証とは程遠い。

坂口安吾は『堕落論』に納められた歴史探偵方法論なるエッセイで、「証拠をあげて史実を定める歴史というものはその推理の方法がタンテイと完全に同一であるのが当然であるが、史家はその方法に於いて概ね狂っているし、狂った方法を疑うことも知らない。現代のタンテイ眼から見ると、日本の史家のタンテイ法はまったく神代的で、銘々が手前勝手で、、、(中略)、史実を突きとめるためのタンテイ眼や推理力が狂うならばゼロで、歴史という学問にとってタンテイ眼こそは心棒であり、チミツで正確なタンテイ眼があってはじめて史料を読む仕事が生きた学問となるのである」と述べている。

このエッセイは日本の第二次大戦の敗北の後に書かれたもので、ここで攻撃の槍玉にあがっているのは戦時、戦前の皇国史観の只中にあった歴史家諸子であり、ここで言われている歴史は天皇の起源に連なるところの主に日本古代史が念頭に置かれている。

今、Xゼミナールで取り上げようとしている辰野金吾のオリジナル東京駅保存、復元は日本近代のド真中に位置するので、安吾の例によっていささか勇ましい論理をここですぐ適用するものではない。それはできない。安吾には奈良や京都は焼け野原になっても良い。その只中に停車場をつくれば良いの、有名な発言もある。しかし、折角連合国側がその文化財的価値を重視して爆撃しなかったのであるから、奈良や京都も大事に保存した方が良いのは自明である。安吾は余りにも皇国史観、及び天皇制に背を向ける事、急であったので、かくなる言説を吐いた。矛先がチョッとズレた。でも、停車場をつくれば良いは正論である。安吾の近代観とでも言うべきが現れている。

 

以上述べてきたのは推理小説に関するささいな蘊蓄をひけらかそうとするのではない。歴史家とはそれは安吾の直観は正しいと思われるが、優れた推理小説の書き手と同類の才質の持主である、タンテイは少々はばかるが推理家であろうと言いたいからである。

 

無駄の盛りの弱輩の頃、数年間推理小説をむさぼり読んだ。外国産のモノ、日本産のモノわけへだては無かった。しかし、すぐに外国産のモノの論理構成のチミツで構築的な事、日本産のモノの数層倍であるのに気付いた。まるで別世界であるのに気付いた。クロフツの『樽』も名品であるが、アメリカのエラリー・クィーンやS・S・ヴァン=ダインのモノ等の論理の構築力に驚かされた。『Yの悲劇』や『僧正殺人事件』等などである。その論理の分厚さは日本の流行推理小説家の駄作群とは全く異次元な世界であった。アメリカにもこんなモノがあったのかの驚きでもあった。

エドガー・アラン・ポーが推理小説の始まりであるのも知ったし、アラン・ポーのモノにボードレールが惹かれたのも解るような気もした。その歴史の重さに悲鳴を上げるヨーロッパには無い、それは物語りの形式であったからだ。

さて、まだ充分に論ずる事は出来ていないが、当面、「推理小説と保存復元」で言いたい事の一端は述べた様に思う。

保存と復元は歴史家の思考の結晶であり、誤解を招き易いのも承知で言うが、それ故に作品なのである。

9/8

鈴木博之第18信 空間と場所に関して

むかし、ハーバード大学の客員教授をしていたとき、チャールズ・エリオット・ノートン記念講義という講演シリーズを行うために、記号学者であるウンベルト・エーコがやってきました。彼は一九九二年から一九九三年のチャールズ・エリオット・ノートン記念講義教授だったのでした。彼は「フィクションの森の6つの散歩」というようなタイトルで、6回の連続講義を行いました。これは、「三銃士の中で人が歩く街路が時空をよじれて伸びている」などという話を含む、興味深いものでした。

チャールズ・エリオット・ノートン記念講義は、美術史学科の記念講義なので、そして、わたくしは美術史の客員教授に呼ばれていたので、エーコを囲む小規模な会に出たりできました。そこで配られた彼の昔の論文に面白いものがありました。それは建築論で、建築の始まりを二つの要素に分類していました。ひとつは洞窟で、もうひとつは階段でした。奇妙な分類だと思いましたが、彼に言わせると、洞窟というのはシェルターであり、建築はまずもって人を覆うシェルター空間であるというのです。つぎの階段ですが、これは階段とはひとに行動を促す要素だというのです。階段を前にしたとき、人は上るか降りるかの決断をする。建築は、動かないけれど、ひとに行動を促す要素を持っているのだというのです。したがって、洞窟と階段は建築の根源的な性格を示すふたつの要素なのだということになるのでした。

これを読んでとても面白く思いましたが、日本には洞窟住居の伝統も、屋内階段の伝統もないことに気付きました。日本の住居は平屋の平地住居として発展してきましたし、基本的に日本の建築は平屋でしたから、屋内階段は存在しませんでした。階段は外部の地形に沿った石段か、家屋内であれば梯子のようなものでした。

つまり、ウンベルト・エーコがいう建築は、極めて西欧的な建築概念だということに気付いたのです。それはシェルターから始まり、ダイナミックな内部空間を持つ空間的建築です。階段はオペラ座の大階段のようなバロック的装置に発展してゆきます。キューブとかダブル・キューブという概念も、まさしく建築を空間として把握するところに生ずる概念です。こうした空間としての建築は、その性格がファサードに表出されます。内蔵される空間は、壁面構成に投影され、それがファサードとして外部に可視化されるのです。

それに対して、洞窟も階段ももたない日本の建築的伝統はどのような表出を行うのでしょうか。日本の平屋の建築は水平展開をしてゆくという形をとることになります。したがって、そこでは採光の問題もあって雁行したり、隔離したりしながら、建物が連ねってゆきます。また、キューブのような空間を内蔵するわけではなく、水平に展開するだけですから、建物は展開するにつれて表からは見えなくなってしまいます。そこで、屋根を高くしたり、屋根を切り替えたりして、その下に内蔵さる部屋の意味を示すのが日本建築だと思われます。日本建築で屋根が重要なのは、雨が多いからでも、湿度が高いからでもなく、建築が水平展開するからだと思われます。オーストラリアの建築史家ウィリアム・コールドレイクは、日本の建築で大事なのは門であって(日本建築において外部に示せる要素は屋根と門しかないという意味では、彼の指摘は当たっています)、門に建築の重要性が込められると言っています。だから、日本では一番大事な家柄を御門(みかど)という、などと言います。ここまで来ると眉つばっぽくなりますが、ある一面をついていると思います。

さて、ウンベルト・エーコの指摘する西欧的建築の空間性は、キューブに結晶しますから、完結した単位となります。文字通り角砂糖のように、キューブの空間はどこにでも挿入できます。空間とは世界を切り取ったものですから、世界のどこが切り取られても空間はすがたを現します。空間の普遍性はここに生じるわけです。

それに対して、水平展開する建築は地べたに張り付いていますから、文字通り地を這うようにしか展開しません。それは空間的建築に対して、場所的建築ということになります。採光上、部屋は中庭(坪庭)を介して繋がることになり、精妙な建築が現前します。

 

はなしをチャールズ・エリオット・ノートン記念講義に戻すと、これは由緒ある講義で、一九二六年からはじまり、T・S・エリオット、ローレンス・ビニヨン、E・パノフスキーなども講義を行っていますし、チャールズ・イームズも招聘されたようです。この講義に、一九三八年から三九年に呼ばれたのがジークフリート・ギーディオンで、そこでの講義が「空間・時間・建築」としてまとめられたのでした。ギーディオンを招聘したのはW・グロピウスでしたから、彼らはヨーロッパのモダンムーブメントをハーバードに持ち込み、そこからアメリカに広げたのでした。

筋金入りのモダニストだったグロピウスは、バウハウスのカリキュラムに示される通り、歴史教育を否定していました。ハーバードにやってきた彼は、建築学科の図書室から、歴史的な建築に関する本を皆、外に出してしまったと言われます。その結果、いまも全米で一番充実している建築学科の図書室はコロンビア大学なのだと言われます。

歴史の否定と、普遍的空間を主張する姿勢は、連続的なものと思われます。インターナショナル・スタイル、ユニバーサル・スペースといった概念がこの後広がりますが、現在そうした普遍性を無条件に信奉するひとはいないでしょう。地域性、場所性、ゲニウス・ロキなどという概念が改めて意味を持ち始めていると思います。これは近代建築にとって、あたらしい視点であると同時に、日本の建築的伝統を再考する視点ともなりうるものです。

さらにいうならば、こうした日本的建築の性格と結びつく作品を生み出した近代建築家が、世界に日本の近代建築を認識させてきました。丹下健三の広島計画、安藤忠雄の住吉の長屋、妹島和世の小笠原家の記念館(?)などには、じつは場所性がこもっていると思うのです。こうした視点から、迂遠ではありますが、辰野の東京駅や磯崎の筑波や神岡、水戸などでの仕事が位置づけられるのではないかと思うのです。

9/6

石山修武第57信 推理小説と保存復元

鈴木博之17信を読んで、いささかの感慨を得たので記す事にしたい。

議論の幕間に観客が席を立つのを防ぐ為にする小劇、笑劇の類として読み流して下されば良い。

鈴木博之の論は保存復元の醍醐味とでも言うべきを吐露したものである。ここでは東京駅保存復元に於けるマテリアルの問題について開陳している。

保存復元のヴェールが切って落とされる以前に、一度我々(Xゼミ)の間で東京駅の屋根の問題が気楽に、それ故にかなり率直に、話題になった事がありました。「チョッと度ギツイ感がする」「屋根がいいなあ、あの迫力がいい」と意見が別れたような記憶がありました。屋根の迫力らしきを言ったのは、わたくしでした。

ただその時にはXゼミで本格的に議論の対象になるとは思ってもみぬ時でしたので、本当に気楽な印象批評として、ポツリと言ったのでした。

勿論、その不思議な迫力の印象が何処から来るものなのかは考えてみようとも思わなかったのでした。

でも、屋根そのものが全く今の現代建築とは異なる類の迫力を持っているのは感じていたのでしょう。

それが、わたくしの言いたい事の中枢なんだろうと思いますが、一度腹を据えて“見学”して、そして思いもかけずに、これは考えていた以上に凄ェモノを視ているに違いないの、次の段階での、コレワすでに書き述べた如くの強い印象を再び持ったのでした。

印象批評はともすれば批評としては単純過ぎると退けられる風潮が続きました。それも又、印象なのですけれど。

しかし、印象を抜きにして語られる架空の論くらい空疎なモノはないのも真実でしょう。

わたくしは残念ながら歴史家になり得なかった、作家もどきですので、それを痛感するのです。

わたくしにとって印象とは歴史家(建築史家)にとっての実証と同じ類のものではあるまいか。

ですから、今はコレは凄ェものだなあの印象を少しときほぐしてゆきたいと思う。

鈴木博之が言っている事は、わたくしにとっては他でもない保存復元の問題の重要なポイントはそのマテリアルにある、に同じです。

保存・復元なった東京駅の主に屋根が今に訴えかけてくるモノは「銅」というマテリアルの復元が表現しているモノに他ならぬのでしょう。あるいは「天然スレート」という素材が再び表現する問題に他ならない。

雄勝産の確か木村なにがしのスレート工場産のスレートは、わたくしも弱年の頃に訪ねて、いささかを調べた事があり、愛着がありますが、様々の保存復元に対する工夫はあったにせよ、少し話を脇に置きたい。

それで「銅」というマテリアルに関して考えてみたらと考えました。すなわち、見る度に今もまだギクリとするのは、辰野金吾の原設計にもそのフォルムや様式にも、その因があるのでしょうが、そのギクリの原因がどうやらマテリアルそのものからくる印象であるのを、鈴木博之の17信は我々に伝えているのではなかろうか。そうに違いない、とわたくしは思う。

雄勝産、今度の東京駅保存復元に於いては、東日本大震災の影響もあり外国産の天然スレートが混入したようですが、このエピソードにもこのプロジェクトが実に生き生きとしたドキュメンタルな性格を持つ事を良く知る事が出来たが、やはりこれは建築デザインの今に繫がる問題としてはヴァナキュラーの問題であるとくくられやすいモノでしょう。 しかし「銅」というマテリアルは恐らく今の問題に通じるモノがある。今の銅という表現にも色んな形式があるのだなと鈴木博之は教えたが、それと同様に「銅」というマテリアルが我々に喚起するのはレイチェル・カーソン以来の問題、足尾銅山と田中正造の環境運動の、日本での萌芽にも通じる重要な問題があるようにも思った。そのような知識の積み重ねが我々(観る者)にも少しばかりは手許にあるようになっているので、「銅」というマテリアルにギクリとしたのだなあと、今は理解している。

「銅」の問題はわたくしなりにもう少し調べて、又報告する機会もあるだろう。

 

さて鈴木博之17信を読んで痛感したのは、保存復元あるいは再生、修復の問題は長大な推理小説の形式に酷似しているなの感でもあった。推理小説、あるいはミステリーの形式は今は昔の純文学(書くも恥ずかしい言葉になってしまった)等とあるいは大衆的歴史小説(司馬遼太郎や藤沢周平も含めて)の分野と比べて、恐らく最も膨大な読者数を誇るのではありますまいか。

そして東京駅保存復元は、コレワ建築の世界では、安藤忠雄の日本社会制覇と同等の、否もしかしたらそれ以上の問題なのではありますまいか。勿論ここで言う問題には否定的なニュアンスは一切入っていない。

保存され復元された東京駅が膨大な人々の眼に触れ、日常的に体験されるのが一ヶ月程後の間近になった。その時からの東京人のみならず日本人の驚きはいかばかりのモノがあろうか。その誰もが抱くであろう驚きと、数々の???を考える必要が我々にはあるのではないか。

安藤忠雄が大方の日本人の支持を得たのは何故か?

それは彼の中に(内的資質として)日本の伝統としての大工・棟梁の血を感じ取ったからに他ならない。

建築家と呼び、呼ばれる人種の中にそれを嗅ぎつける事ができなかった。そして、今度保存復元され皆の前に顕現する東京駅は、それと同じような歴史的衝撃を与えるに相違ない。これは日本の歴史の問題であり、近代史の表現そのものである。

丸の内周辺にあるモダナイズされ、グローバライズされた超高層ビル群の只中に巨大な深海魚の如くの東京駅が表現され、出現する事になった。

 

いささか急ぎ過ぎている。歩速を落としたい。

さて、その又も印象批評であるが、コレは巨大な推理小説の形式を持つのでは?の印象。

少し述べた如くに推理小説は、その読者の多数に一大特色がある。勿論、われわれモダナイズされてモダニズムを生きねばならぬ人種にとってでもあろう。モダニズムデザインは読者を持たぬ。持ち得たとしても実に少数の、ホンの一部の階層、種族としか言い得ようが無い人々なのである。

ここで推理小説を持ち出しているのは坂口安吾の言説を踏まえようとしているのだが、彼は未完のままに亡くなってしまった。

そこで坂口が恐らく理想の一部としたのではないかと思われる松本清張を引っ張り出したい。

それは松本清張の代表作『点と線』が東京駅を舞台とした物語でもある事からではない。

松本清張は常宿にしていたTOKYO STATION HOTELの一室からプラットホームの風景を見ていて、この小説の重要なプロットを思いついたと言われる。

チョッと出来過ぎた話ではあるが、その後松本清張が社会派ドキュメントの書き手としても大成する始まりであった事は確かであろう。

しかし、ここではその『点と線』の解説文をしたためた平野謙の発言に注目したい。

平野謙は推理小説の名作、クロフツの『樽』と比較して『点と線』を論じている。

9/4

鈴木博之第17信

天馬空を行くがごとき石山さんの文章、放送大学の構想と撮影を進めながら旺盛な読書に励んでおられる難波さんに圧倒されて、日々ぼんやり過ごす己に恥じ入るばかりです。

  ここで東京駅について、少しだけ石山さんの議論に啓発された感想をのべてゆきたいと思います。東京駅についてはいくつかの雑誌や出版社が特集を企画していて、そこに概説的な文章を書いているので、ここではきわめて特異な部分について、個人的な話を述べてゆきます。まずは、石山さんのいわれる辰野のふしぎな造形感覚。特に屋根の部分のゆがんだドームや林立するドーマー窓など。

これはフリークラシックの特徴といってよく、辰野が手本にしたイギリスのフリークラシックに、その源流があるように思われます。なぜなら、フリークラシックは、イギリスに流入したフランス様式という側面があって、具体的にはフランソワ一世様式の影響があるといわれるのが、フリークラシックです。フランソワ一世様式の代表はシャンボールの城館で、ここにはルネサンスの構成をもった壁面と、急傾斜の屋根や煙突の並ぶフランス建築の特徴が併存しているといわれます。

ルネサンス的壁面とにぎやかな屋根の組み合わせがフリールネサンスの特徴なのですから、東京駅の屋根が賑やかになるのも当然です。ただ、そこに辰野の好みが加わって、ドームの変形やドーマー窓の鈍重さが拡大されたように思われます。

屋根部分はスレートと銅板で葺かれています。スレートは雄勝産のものが使われており、修復にあたっても同じ産地からスレートがとり寄せられる予定でした。けれども、東日本大震災があってスレートも汐をかぶり傷みが危惧されるなど予定外の出来事も起きました。結果的には雄勝産と外国産を使い分けながら仕上げることで工事が進められました。銅板も、厚さをどうするか、緑青を最初から吹かせたを使うか、など、判断すべきことが多くあります。銅板の厚さは加工の可能性や精度に関わるからです。銅板の仕上げは結局そのままの仕上げというか、銅色のままで用いることになりました。うまく緑青色になってくれるか、これから見守るしかありません。しかしすでに銅の色はすこしずつくすんできていて、落ち着きつつあります。

銅板については、いくつかの例に出会っています。ひとつは迎賓館の屋根です。ここの修復のときには、屋根は緑青を吹いた色のものにしました。もとのまま残された銅板の部分があるので、調和を図るという観点からの判断でした。ただ、立て樋はニスか何かを塗って、銅色が変色しないように仕上げられています。これは樋の修理をした時の首相が、銅の色が汚れてくるのはよくないから、変わらないようにしろと指示したからだというはなしでした。機会があれば屋根と樋を比較して見られるとよろしいでしょう。

もうひとつの銅板問題は、明治村に移築されている西園寺公望別邸坐漁荘です。この別邸は興津に建てられていたのですが、明治村に移築されました。今、この建物の修復に着手したところです。なぜなら、明治村も開村から半世紀近くが経ち、移築された建物にも傷みが目立ってきたからです。坐漁荘は手のよい数寄屋です。とくに軒周りや樋の銅の細工が素晴らしいと感じられます。これは、西園寺の実弟が住友家に養子として入り、当主になっていたからではないかと想像しています。西園寺の邸宅が住友家によって建てられ、費用はすべて住友から出ていたことははっきりしています。西園寺が政治的に力を持てたのも、バックに住友という財閥がついていたからです。で、住友家はもともと銅山で財をなした財閥ですから、銅に対しては無神経ではなかったはずです。坐漁荘の銅板が素晴らしいのは、住友の意地が込められているからだと思うのです。

しかし修理にあたっては、この銅板が難しい。これまでの銅板は、瓦から出る塩分か何かの化学成分のせいか、酸性雨などのせいか、ぼろぼろに傷んでいます。修理に当たってはステンレスに銅メッキをしたもの、表面を処理した銅板、鉄板に銅メッキなど、いろいろな可能性がありそうで、今、模索中です。かつての銅板を取り巻く環境と今のそれは、大きく変わっているらしいのです。

そんな問題を抱えているとき、ひとつ思いだしたことがありました。数年前修理がすんだ一身田の高田本山専修寺の修理工事報告書に、銅で葺いた派手派手しい破風板の写真が出ていたことです。近世の社寺だから派手な意匠なのだと考えていました。そのときには派手な意匠に惹かれて記憶にとどめたのでした。しかしながら、考えてみるとあれは元の緑青を吹いた銅板と新しい銅板を貼り混ぜて修復した結果、派手な色彩の取り合わせのように見えていたのかもしれません。

一身田は三重県の津のとなりです。明治村や名古屋から近いので、寄ってみようと考えました。しかし別の機会があって、尾鷲に建物を見に行く仕事ができました。そこでその帰り、専修寺を訪ねることができました。破風は派手でしたが、銅板がどのように貼り合わさえれているのかは、よく見えませんでした。暑いなか、奇跡的に乗れたバスで駅までたどり着けたので帰ることができました。しかし考えてみれば、東京駅から始まる銅板問題も、結構広がるものだなあと感じています。

8/31

石山修武第56信 保存復元された東京駅3

東京駅は言う迄もなく日本を代表する駅舎である。それは辰野金吾がオリジナル東京駅を設計した当初も今も何変わる事はない。天皇の居住地である皇居に間近で、日本の近代資本主義の居住するらしき場所としてもセンターの位置を領する。

 

ロンドンの金融街、謂わゆるシティのシンボルとして英国建築家ロジャース設計のロイズビルディングがある。ロイズ社はロスチャイルド財閥のグローバルな資本力を表象する企業である。女王陛下の英国の屋台骨である。そのロイズ保険本社ビルの建築設計に当り、英国、ロンドンの政財界はロジャースのハイテク様式を選択した。ロジャースはイタリア人建築家ピアノと共同設計であるフランス・パリのポンピドゥーセンターの建築設計を勝ち取った。その審査委員長はフランス人、ジャン・プルーヴェであった。プルーヴェはフランスに於いて独自な建築の工業化路線のデザインを探求し、ある一定の成果を挙げてはいたが、それが花開く事は無かった。ジャン・プルーヴェはポンピドゥーセンターのデザイン・ディシジョンに際し、自分の考えを最も継承しているイタリア人建築家ピアノとイギリス人建築家ロジャースの案を自分の意志を押し通して選択したと言われる。つまり、プルーヴェは正当にも自分自身の方法的形式を選択したのである。このジャッジ、強い意志を持った選択が現代建築の潮流を大きく変化させた。英国型ハイテク建築様式の世界制覇と呼ぶべき現象を呼び起した。

J・パクストンの水晶宮を源に持ち、J・スターリング、J・ゴーワン等のレスター工科大学、そしてケンブリッジ大学図書館の表現を経て、それはポンピドゥーセンターの建築表現へと結実したのである。

ロンドン・金融街シティの象徴的建築形式としてイギリスは英国型ハイテク建築様式を選択した。産業革命の源を成した国イギリスの伝統を継承させる事を選択した。この事実は一国の中心的建築に関してその建築形式と喚起させるべく求心的に動員される表象的物体、つまり今風に呼べばアイコンに対する実に沈着冷静な熟慮というべきが働く事を良く示している。建築は時と場を、そしてそれを決定する人智を得るならば国家の歴史をも表現し得る力を保有しているのだ。

東京駅の場合それは更に複雑な網の目の中の問題として出現した。明治期の辰野金吾設計の文化財としての巨大建築を再現するか、あるいは、まさに都心の第一級の土地に建設資本を容易に回収し易い新築を選ぶかの問題であった。東京駅を中心とする丸の内界隈の建築は保存運動があったが、それは踏みにじられ続け大半が現代建築スタイルに新築された。いかにもな日本風スクラップ・アンド・ビルドが席巻し尽したのである。それは日本の政治経済文化の実力、あるいは水準とでも呼ぶべきを良く示していたと言うべきだろう。かくなるを言えるのも又、保存復元された東京駅が顕現したからなのだが。

ドイツ人建築家ブルーノ・タウトがアメリカへの亡命行の途次に来日し、高崎少林寺境内の小住宅に滞在する事になり、それは日本の建築文化史に少なからぬ衝撃を与える事になった。桂離宮と日光建築に対する諸言説そして著作を残したからである。余りにも有名な桂離宮は良し、日光は悪い。その建築美学は天皇のピュアーと将軍のキッチュであるとした。又、伊勢はギリシャ・アテネのアクロポリスの丘のパルテノン神殿の美に匹敵すると指摘したのである。

フランス人哲学者ロラン・バルトは来日して東京を観察し、都市東京の中心は空洞である、ゼロが都市の中心に在ると指摘した。時代は異なるが、この指摘も日本の大方の広範な階層に強く影響したと思われる。共に天皇の問題を実ワ中心に据えていた。

常に中枢をつく思考=文化は内から生まれると言うよりも外からやってくる、はもうこれは日本諸文化諸文明の定説となり、我々はすでにそれを大前提として生きてゆかねばならぬのだが、保存復元を成し得た東京駅を考えるに、やはり我々は多くの外国人からの指摘がすでに積層しているやにも考えられる天皇、ひいては皇居という東京のど真中、中心の問題をも考えざるを得ないと思われる。

何故ならば保存復元が成され顕現した東京駅は辰野金吾の設計はまさに明治天皇の居住せられた皇居、つまり江戸城という将軍の居城という大矛盾に対して、少なくともそれを意識して構えられている事が歴然としているからである。すなわち保存復元された東京駅はその設計の核、中心が歴然として存在していたのである。それは明治天皇の京都から江戸、東京への御自身の中心の移動も含めて実に重大な問題も含むのであるが、これは独りでは余りにも荷が重い。両学兄の御考えも聞いてみたい。

北京から台北の旅で台北に着いて、わたくしは台北101の設計者である李祖原と公開の対談をしなくてはならず、これも荷が重かった。何故なら李祖原設計の巨大超高層建築は台湾という寄る辺無き国家の中心的記念建築として台湾政財界、それは恐らく宗教界も含んでの総意として成されたのを良く知るからである。

保存復元された東京駅の問題は台北101の建築が内在させる問題とも通底しているのである。

 

現代建築の最前線の一端が抱える中国・北京CCTV(レム・コールハース設計)の難問と台北101の抱える建築を超える建築の問題、そして保存復元の成し遂げられた東京駅の問題は現代建築が対面する問題を歴然として浮き彫りにする。

8/30

石山修武第55信 保存復元された東京駅2

北京CCTV(レム・コールハース)と保存復元された東京駅をほぼ同一の土俵に上げて論じてみたい、と大見栄を切ったものの明瞭な成算があっての事ではない。成算が無いままに踏み切るのは自分の能力では目一杯な事であるという、いささかさめた自覚でもある。自分の手札の残りを使い切らねばならぬやも知れぬし、大事に隠し持っていた最後に近い手札がそれ程のものでは無かったと思い知らされる事になるのかも知れぬ。

ゴチャゴチャ下らぬ処を巡っていないで本題に入る。

 

先ずは自分の「コレワ凄えモンだ」の感動らしきをわたくしなりに、わたくしのやり方で実証しなくてはいけない。北京台北行の前日に保存復元された東京駅を見学した際に得た感慨としか呼べぬ実感の正体を再確認しなくてはならぬ。本当に驚いたのかどうかを。

何故なら保存復元される以前の東京駅には日常的にとは言えぬ迄も、何処か少なからず遠い処へ出掛け、又、戻る時には良く視て、体験していたからだ。そのたんびに驚いていたわけでは決してない。八重洲口の駅舎コンコースに出現していた旧東京駅の一部露出した部分にオッ恰好いいなと思ったり、長い長いエスカレーターの昇り降りの中途から垣間見える複雑極まる光景に、面白いなと思ったりは度々の事ではあった。特に中央線プラットホームへの昇り降りのエスカレーターからの光景は、何か映画を視ている様でもあるなあとは感じ入っていた。でも、それは印象のコマ切れでしかなく、まとまってドオーッと襲来する類ではなかった。

しかし、コレワ凄いと一度総体として思い込んでしまえば、それ等のコマ切れの印象が全て時間と関係している事が仄見えるのである。ツルツルピカピカな凡庸さの中にモダナイズされた機能的な八重洲口駅構内にニョキリと顔を覗かせ続けていた赤レンガと石造、あるいは擬石造の旧東京駅は今という大衆消費社会と百年前の和魂洋才の赤裸々さのギャップを思い知らされていたのである。長い長いエスカレーターの昇り降りの一、二分、長蛇の列を成して群衆の一員として機械に身をゆだね、ちょっと古すぎる例えではあるけれど、チャールズ・チャップリンの黄金狂時代モダン・タイムスが先見的に描いたそのまんまにベルトコンベアー(※1)に乗って動く時間の中から、一瞬一瞬の連続として外の光や風景、それは旧東京駅の姿が混入していたと思うが、そんな機械の中から眺める外の光景は実に不思議なものではあった。

我々は時間そのものを垣間見せてもらっていた。今ではそれがようく解る。

その時間の感覚を更に歴史と言い換える事はしない。わたくしが使う時間とは、例えば日本浪漫派・保田與重郎が『日本の橋』で書いた如くの、東海道線を走る列車の窓から一瞬サッと視える熱海近くだったかの貧しい小さい日本の橋と、走る列車に乗る保田與重郎の一瞬の時間と言う位のものだ。

保田は列車、それは勿論新幹線ではなく、旧東海道線をゆっくり走る、それでも機械の中からの一瞬であった。今の新幹線の速力は風景の中にそれでもまだ残る細部を眺めることは不可能である。保田は車窓からの一瞬のその小さな貧しい日本の橋から壮大なローマの水道橋やらを想い起し、日本という場所の哀切へ踏み入った。

東京駅八重洲コンコースにニョッキリ露出している赤レンガや、長い長いエスカレーターの昇り降りの旅の途次に垣間みる東京駅という外界の光景は、保田與重郎が一瞬見た貧しい橋の一瞬とほとんど何も変りはしない。ただ保田が一瞬眺めた日本の貧しい橋、それは広重の東海道五十三次に描かれた木の橋に通じ、当然ながら王朝文学に登場した、あるいは藤原定家の夢の浮橋に通じる橋であった。それに対して今の東京駅に垣間見えていた旧東京駅(変な言い方だけど)、保存復元される以前の東京駅は、保田が視た日本の貧しい橋ではなかった。

日本の伝統的な木造の橋の形式ではなく、それは海の彼方のヨーロッパ文明文化の赤レンガの橋ならぬ、まさに建築であった。そして、それは日本の近代の始まりそのモノではある。

 

東京に住み暮らす人間の多くは皆、日々の小さな旅の始まりや終りに、そんな時間を体験していたのである。

そんな稀有な時間が、この保存復元された東京駅では垣間見るでも無く、一瞬通り過ぎるでも無く、つまり断片としてではなく現代建築のあり得る可能性の全体として表現され、顕現しているのである。

 

早世した美術評論家・坂崎乙郎はその著『エゴン・シーレ 二重の自画像』で指摘している。エゴン・シーレはクリムトと同じウィーンの画家である。しかも誕生したのは駅舎であった。生まれた家の真下には列車が行き来していた。又、電信が発明された頃でその時間の体験がエゴン・シーレをして自分のマスターベーションする自画像を描かせたり、異常な感覚の震えを感じさせる、今の時代の不安にも通じる絵画を描かせたりもしたと。

レム・コールハースも又、マスターベーションする自画像は描きはしないが、それに近いモノはたしか『錯乱のニューヨーク』のカヴァー絵として使っている。ニューヨークの恐らくは高層ホテルの一室。摩天楼と摩天楼がセックスをしての、つまりは消費あるいは蕩尽の後、二本の摩天楼はグッタリと横になり、ベッドには使用後のコンドームがグニャリと捨て残されている。

 

保存復元された東京駅はその様な今の時間を峻烈に思い起させるのである。

※ 1 モダン・タイムス 来るべき近代オートメーションの時代を見越して、機械社会の人間性喪失の危険性に警鐘を鳴らす、1936年に発表された作品。チャールズ・チャップリンが監督・脚本・音楽・主演すべてを担当。映画冒頭では時計と羊が象徴的に写し出され、時間短縮・効率重視のために導入された工場内のベルトコンベアーシステムが一人の労働者(チャップリン)を翻弄し疎外していく様を痛烈な風刺で描き出した。
なおこの作品は当時のトーキー主流のなか、無声映画として発表された。 ・・・」

8/29

石山修武第54信 保存復元された東京駅1

東京駅保存復元に関しては、わたくし事ではあるがウェブサイトにそのプリミティブな見学印象は記した。「世田谷村日記 ある種族へ859 八月十五日その2」である。余りにも驚いたのに、我ながら今更これほど迄にか?という程に驚いた。長い時間をかけて保存復元を主導したと考えられる鈴木博之に対する、これは儀礼的な意味もあっての驚きかと当初はいぶかしみもした。

どうやら、そうでは無い。

本当に仰天したのである。

その驚きの内実を記録しておきたい。

 

保存復元された東京駅見学の翌日から、北京・台北の旅に出た。そこでは恐らくは世界の現代建築の最前線に在ると思われる建築群に遭遇した。又、世界遺産としての中国文化の数々にも巡り会う事ができた。万里の長城、天壇、他天安門広場、人民大会堂であり、レム・コールハースのCCTV、ポール・アンドリューの国立オペラハウス、ザハ・ハディッドの複合建築、北京オリンピック・スタジアム、スウィミングプール、李祖原の盤古ビルディング、磯崎新の北京・中央美術学院美術館、等々である。

広く世界遺産として保存されているモノと同時に現代建築の最前線と考えられるモノ達を同時に見る機会を得たのである。

9日間の旅であったが、わたくしにはある種のグランド・ツアーでもあった。そしてグランド・ツアーは旅の前日の東京駅見学に始まっていたのを、帰国した今痛感するのである。

東京駅保存復元はそれ程に大きな建築文化的出来事であると改めて痛感している。

愚論から始める。人間の大方は愚かな者で、どれ程に知識が積み重なり、コミュニケーション技術を含む科学技術が進歩しても、その想像力の圏域はそれ程に広くはなっていない。大方の人間は実際に何者かを目の当りにして、つまりは眼を通しての実感、あるいは五感を介して外界と接している事から、自らの想像力を駆使し始めるのだろう。

北京のCCTVに関しては「作家論・磯崎新26、27」に書いているので参照されたいが、ここでも触れたい。何故ならば東京駅保存復元の文化的価値は、とりもなおさず建築文化的価値はレム・コールハースのCCTVよりもはるかに大きいと実感するからだ。

東京駅保存復元の問題は北京CCTVの諸問題と同様に論ずる必要がある。必要を説くのは止めヨとリア王は叫んだそうだが(※1)、今はその必要がある。

その必要を論ずるのは東京駅保存復元が成り、初めて多くの人々に、あらゆる階層の人々にその是非を問う大きな機会が訪れたと実感するからである。

解りやすく説くならば我々の前川國男の上野の東京都美術館増築再生の論議も少なからず重要ではあるけれど、それは些細な議論に終止してしまう恐れがある。十二分にある。

東京駅保存復元はつまるところ日本近代建築へのひいては日本近代への想像力の問題なのだ。それを確認してから細部に踏み入るのが良い。東京駅保存復元を主幹として、大木の幹としてその枝葉としての前川國男の都美術館、のみならず他にも多く発生するだろう近代建築保存の問題、その意味が考えられるのではなかろうか。これはひいては日本の近現代建築の問題へと連なってゆくのは歴然としている。

マ、余りの大言壮語は失笑を買いかねぬのは良く知るところではある。が、しかし、東京駅保存復元の成果には大言壮語が、それこそ必要なのである。何故ならば、本サイトの読者の大半は建築関係の方々であろうし、その世界、業界と言った方が解り易いか、では近代建築保存の問題は広く文化の主幹として認知されているようには到底考えられぬからである。

それはオカシイヨと言っても解りはしないのだ。皆さんは。何よりも当のわたくし奴がそうであったのだから。東京駅保存復元を目の当たりにする迄のわたくしもそのような常識的ではあるがやはり愚者に過ぎぬ大方の群の人であった。

 

それ故に、わたくしの東京駅保存復元の顕現に対する論は、いささか傾いたそれこそ傾城の婆娑羅大名風に派手な身振りから始めてみる事にする。

北京CCTVと東京駅保存復元を同じ土俵に上げて比較検討してみたい。共にほぼ同時期に成された計画(プロジェクト)である。比較論考するに何おかしきがあろうや。

※ 1 リア王 シェイクスピアによって17世紀初頭に描かれた劇。1608年に出版された。また初演は彼が属するグローブ座であったとされている。主としてラファエル・ホリンシェッドの『年代記』に依拠したと言われ、ブリテンの短気な老王リアが忘恩の娘たちに追い出されて嵐の荒野の中をさまよい、気が狂って悶死する悲劇を壮大なスケールで描いた。シェイクスピアの作品中でも最も深刻で痛ましく、また不条理の頂点をきわめた作とも評される。以下原文の当該箇所を記す。
「・・・
O reason not the need! Our basest beggars
Are in the poorest thing superfluous.
Allow not nature more than nature needs,
Man's life is as cheap as beast's. Thou art a lady:
If only to go warm were gorgeous,
Why, nature needs not what thou gorgeous wear'st,
Which scarcely keeps thee warm. But, for true need—
・・・」

8/13

難波和彦第21信 前川國男の持続性と表現について 

まず最初に、鈴木博之第16信「前川建築の変貌」を読んで、僕がギョッとさせられたことを告白せねばなりません。鈴木さんは、後期の前川建築の深い庇や打ち込みタイルの追求と、僕の「箱の家」の持続性を比較しながら、こう指摘しています。

「前川の場合、建築は環境の中で生き続ける存在になってゆく。その意味では、ご本人は嫌うでしょうが前川建築は難波建築に似ている。建築の表現は抑えられ、定型化してゆくという意味で両者は似てきます。埼玉、熊本、東大の山上会議所など、タイル手法の完成に向かう筋道は、箱の家の求道者的道行に似て見えます」。

なぜギョッとしたかというと、僕は自身の第20信「東京都立美術館のリニューアルを巡って」で、後期前川建築について論じながら、実は、頭の隅で「何だ、これは自分のことを書いているみたいだなあ」と思ったからです。しかしながら、直ちに、こう考え直しました。

「しかし、持続性(態度)においては同じかもしれないが、結果(表現)は全く違うじゃないか。」

したがって、僕はひとつのテーマを追求する前川の技術に関する持続性については共感を憶えながらも、打ち込みタイルの重厚な表現については、否定的に捉えることができたのでした。なぜなら、スターリングのタイルの軽さや、つい先日見たフランク・ロイド・ライトのモリス商会@サンフランシスコのタイルの平滑さは、問題なく共有できるからです。

以前にも、どこかに書きましたが、このような建築家の両面性の典型的な例は、安藤忠雄に見ることができます。安藤の建築は、西欧の建築家から、もっとも日本的な「ZEN禅」的表現として捉えられています。しかし、彼の建築におけるコンクリート打ち放しの持続的追求は、きわめて西欧的な態度といえるでしょう。かつて、ある日本の高名な建築家は、コンクリート打ち放し仕上げだけをひたすら追求する安藤を遠回しに批判しました。そこには、ひとつのテーマばかりを突き詰めるのは不器用者に過ぎず、さまざまな表現をトライアルできる方が、建築家として優秀であるという先入観があるように思えます。しかし僕はそうは思いません。僕もかつてはそう考えたこともありますが、安藤を知ってから考えが変わりました。安藤のコンクリート表現を真似ようとは思いませんが、ひとつのテーマに対する彼の持続的追求の態度は、積極的に学ぶことが可能だと思います。あるテーマを持続的に追求することによって、絶えず新しいことにトライアルする方法とは異なる、狭くても深いテーマが明らかになると考えるからです。

その意味で、僕としては、前川国男が、終戦直後から唱え続けたテクニカル・アプローチには文句なく共感します。神奈川県立図書館・音楽堂や日本相互銀行本店の軽快な表現は、プレキャスト技術を初めとするコンクリート技術の持続的追求から生み出されたものです。鈴木さんが言う、後期の前川が失った「50年代的なもの」とは、モダニズムの表現(コンテンツ)における何かであり、持続的追求(方法)とは次元の異なる、時代的な特性ではないでしょうか。後期の前川は「50年代的なもの」つまりモダニズムの美学を放棄し、打ち込みタイルによる物理的耐用性の方を選んだのですが、何事かを追求し続ける持続性においては、終生変わっていないように思います。

 

以上が、石山さんが第50信で提出した、以下の質問に対する、僕なりの回答です。鈴木さんの意見も聞いて見たいと思います。

「3.前川國男の建築の重さの中核は何か。小金井に再生保存されている前川自邸に具体化されているある種の美と、東京文化会館に表現された重さに分裂はありや無しや? 難波先生に尋ねたい。」

「5. 良く知られる前川國男のテクニカル・アプローチとはタイルの埋め込みパネルの多用以外の具体例を知りたい。」

 

1965(昭和40)年に東大に入学し、建築学科に進学した僕たち世代は、最初の設計課題で「前川自邸」の室内パースを描くように言われました。建物全体のかたちはシンメトリーで、中心に木造2層吹抜けのヴォイドがあり、階段の向きだけが当然左右非対称で、2階には障子の建具が入っていました。僕は貧しい経験から直観的に「これは日本的な住宅である」と解釈し、吹抜の居間の端に、点景として「見越の松」を描き入れました。それを観た助手たちは「出ました、粋な黒塀、見越の松」と、かつて流行った『お富さん』を歌いながら大笑いしました。それ以来、前川自邸は僕のトラウマになったような気がします。「箱の家」の正面性は、意識的にはアンドレア・パッラーディオのヴィラなのですが、無意識的には前川自邸なのかもしれません。

 

最後に、歴史とアイロニーの関係について、石山さんの誤解を解いておきたいと思います。僕は、歴史性とアイロニー・批評性との結びつきが必然的だとは、一言も言っていません。アイロニーと批評性は、歴史性なしには成立しないと言っているだけです。アイロニーと批評性にとって、歴史性は必要不可欠です。しかし、歴史性にとって、アイロニーと批評は、その可能性のほんの一部に過ぎません。アイロニーと批評性のない歴史性とは何か。それはクリエーションにどのように結びつくか。それが知りたいのです。

1960年代にロバート・ヴェンチューリやチャールズ・ジェンクスが建築に歴史性を持ち込み、同時にアイロニーと批評性をもたらしました。そこからポストモダニズムが生まれました。日本の建築家たちは、歴史性と批評性・アイロニーの結合に震撼し、当初は歴史性こそが批評性とアイロニーをもたらすのだと受けとめたのでした。ちなみに、ヴェンチューリのアイロニーは、実はアメリカの大都市のダウンタウンに対する社会学的な視点とも結びついていたのですが、1970年代の大阪万博以降の日本の建築家には、都市性への興味は皆無でした。したがって、日本の建築家には、ヴェンチューリにおけるアイロニー・批評性は、教養主義的な歴史性からもたらされるように見えたのでした。

しかし、僕としては、歴史をそのように矮小化して捉えるつもりはありません。確かに、アイロニーは歴史性なしには成立しません。歴史性はすべてを相対化し、そこから身を離す視点を与えます。歴史性にもとづくアイロニーは、超越的な視点をもたらし、最終的には保身の技術と化します。日本のある高名な建築家は、そのようなスタンスを見事に使いこなして、若い建築家たちを翻弄しました。

これに対して、建築の仕事は徹底して世俗的です。世俗性と超越性は両立させようとすれば、それを丸ごと相対化するしかありません。それを可能にするのがアイロニーなのです。

歴史性とアイロニーの、そのような野合とは異なる可能性はないのだろうか。世俗性と歴史性をもう少し生産的に結びつける回路は存在しないのだろうか。僕はその可能性のひとつを、石山さんのユーモアに見出しているのですが、それについては、以前Xゼミにも書いたので、ここではくり返しません。僕としては、アイロニーや批評性のない歴史性、しかもユーモアとは別のクリエイティブな可能性を『建築の世紀末』や『都市へ』に観ようとしているのです。

8/7

石山修武第51信 想いつくままに2

鈴木博之 前川建築の変貌

難波和彦 都立美術館のリニューアルを巡って

両片を読んで、想いつくままに2

 

朝、時々ラジオで子供電話相談室を聴く事があります。長い年月を経て続いている名番組ではないかと思います。8月7日の子供の質問の一つは、「どうして塩辛トンボという名前がトンボについているんですか」の質問だった。子供の質問にはウームとうなって、瞬時に学問とは何者であるかと考えさせられる如くが時にある。疑問を抱くというのが考える事の核であるのを知らされる。子供電話相談室は、その子供の質問、好奇心に対して先生達がいかに答えるのかが聞きどころでもある。今朝の質問も難問であり、少なくともわたくしはその質問に答える事は出来ない。何故、その名前がついているのかは地名には必ず何等かの由縁があるのと同じだからだ。でも塩辛トンボは空を飛び大地すなわち場所から自由な存在であり、確かに子供の質問の如くに塩辛いからなのかと、そう言えばいい大人でも考えざるを得ない。

先生の答えは、「塩辛トンボを良く観察しなさい。でも塩辛いかどうかなめたりしない方がいいよ」であった。どうやら塩辛トンボはその体内から白い粉状の微細を大気にまき散らしていて、その微粒が塩をまぶしている、つまり漬け物と成さしめている塩に似ているので、その名が付いているそうだ。わたくしは子供の頃からトンボが好きで深い関心を持ち続けてきた。それはその姿がひどく古代、つまり有史以前の前史の生物の姿の継続に似ているような気がするからだ。

それが歴史学の始まりと言われるギリシャのヘロドトスの『歴史』、それよりも更に古い考古学的範疇に属するのかは、これは今はまだ上手に言えぬ。ヘロドトスの『歴史』は読んでみたらこれはつまらなかった。ただ歴史学という実証的精神のこれが鑑なのかと考えた。難波和彦先生の言説の最後尾に歴史意識への一種の深い懐疑が述べられている。それは勿論自身を設計者という実際家=プラグマティストとして、その現実の中に創造的であろうとする意味を見出したいとする願望の中からの言説であろう。恐らく難波先生の歴史意識とはマルクスを含めて歴史的教養主義の域をそれ程に出ていない。もう少し穏やかな表現をすれば、難波先生の今のところのイデオロギーであろう『建築の四層構造』の第四層に記号を置く事のニヒリズムへと通じる事ではあるまいか。

歴史意識、すなわちそれが近代史の枠の内に在るモノでもそれは批評やアイロニーの姿をとって建築的表現に現われるばかりではない。でも、それは恐らくはXゼミナールの思考のインフラストラクチャーになろうかと思われるので、ここでは深追いしない。ゆっくり、しかも着実にやってみたい。

難波先生の提出された懐疑に対して鈴木博之先生は素早く反応した。建築史家として反応せざるを得ないからだ。両氏への先生の尊称はとり敢えずここで打ち切りたい。わたくしはこの草稿をペンで書いているのでインキが無駄だし、手も疲れる。それに読者の一部にも不快に響くだろう。

それが「前川建築の変貌」と題された論述の冒頭部分である。

鈴木博之はここで浅草から池袋までのたった独りの帰りのバスの旅をギリシャのオデッセイに例えた。オデッセイの十年にわたる帰還の旅を自分の一時間の旅になぞらえた。少なくともそう記そうとした。これは自身の歴史家としての存在の実は証明証である。兵士だったら認識票であり、子供だったらなぜ塩辛トンボは塩辛トンボなのかの疑問。自分という歴史家とは何者かの自問自答なのであろう。

ここで我々は建築史家であり、実作者でもあった伊東忠太を想い起しても良いが拡散し過ぎる。しかし前川國男がそれこそ歴史意識の薄いプラグマティストの性格を色濃く持っていたのは間違いないだろう。前川は歴史よりもむしろ計画学の実際を上位に据えた。ル・コルビュジェのアトリエにインターンした建築家としてはその学びの体験がいささか片寄っていたのではあるまいか。あるいはル・コルビュジェに接して、自分の資質との余りの乖離振りに、これは妙なところに迷い込んだと思い込んだのかも知れない。ル・コルビュジェと日本の計画学とは遠い。はるかなそれこそ異国である。

ここで疑問、一。

そもそも前川國男は何を求めて、はるばる渡仏し、しかもル・コルビュジェのところに行ったのか?

その後の前川國男の身の振り方を遠眺するにむしろ英国建築家協会等の制度的在方を学ぶべきだったのではないか。前川國男に建築史教育を施していたのは誰だったのか、それとも建築史という領域が全く前川の前に開示されなかったのか。知りたいものだ。

建築史家は工学部の枠内で常に建築史無用論の北風にさらされてきた。それは渡辺保忠からイヤになる程聞かされた。それ故にこそ建築史は実ワ強い背骨を持っている。その史学の歴史は前川國男の近代建築の重さにもつながるのではないか。文化的意味に対する認識の薄い、それ故のテクニカルアプローチへの傾斜へと傾いたのである。

 

前川國男、丹下健三、そして堀口捨巳−磯崎新の系統とヨーロッパ建築史の関係はより明らかにされるべきだと思う。1950年代の近代建築保存の問題は日本の近代建築の初心の表われとして大事過ぎる問題である。それは更にひいては1964年の丹下健三、東京オリンピック代々木体育館の保存の、そして記録化の問題へとつながると考える。

保存という文化的概念に対して日本人は極めて淡白である。日本には明治時代まで、建築という概念があり得ず、それはヨーロッパからの移入のモノであったからだ。ローマの遺跡の上に身近に生活するヨーロッパ諸都市の市民生活とは異なる歴史を持たざるを得ない。しかし、保存の問題はすでに少し計り分厚くなり、それ自体歴史としての存在価値も大きい日本近代にとっても重要過ぎる問題となっている。成熟した近代国家に保存の、特に近代建築保存のそれは文化の中心問題とも言えるのだ。

 

建築評論家浜口隆一の、時代は少し戻るけれど1943年日泰文化会館のコンペに際しての丹下健三は〈環境秩序的〉前川國男は〈環境空間的〉とそれぞれ自作を解説しようとしているのに対して、前川國男のそれは機能的であり、丹下健三のそれはモニュメンタルであると喝破しているのも蛇足ながらつけ加えたい。

8/6

鈴木博之第16信 前川建築の変貌

石山、難波両先生との上野・浅草紀行は面白くも知的刺激に満ちておりました。浅草でお二人に別れてから、浅草寿町発池袋東口行きというバスに乗って一時間ぐらいかけて池袋に出て帰りました。都内には、長距離のふしぎな路線バスが何本かあるものでして、これもその一つです。オデッセイの帰還を思わせるこのひとりだけのバスの旅を含めて、なかなか味のある紀行でした。わたくしの反応をここに記します。Xゼミは、いわば即吟を尊ぶ俳句の会みたいなものですから、資料に当たるというより感覚的に反応するというやりかたをとります。

前川による東京都美術館のリニューアルオープンについては、案内状をもらっていたのに行けなくて、今回が初めての見学でした。ただ、前川事務所の現所長の橋本さんからリニューアル工事は前川の精神を生かして行った旨の話を聞いていたのと、東京首都大学(?)の深尾さんからは、工事の過程で打ち込みタイルの工法などについて監修したけれど、やはりよくかんがえられていたというような話を聞いていました。

実際に見てみるとバリアフリー化のためにエレベーターやエスカレーターを設置した部分があり、床面積を増やして図書やカフェなどの部分を増やしたらしいと感じられました。打ち込みタイル、コンクリートのビシャン仕上げ、ガラスとサッシの収め方などは、オリジナルを守って同じディテールを踏襲しているようです。けれど、ここが実は問題ではないかと思われました。内部に、新規に増設したのではないかと思われるエレベーターがあるのですが、それを囲う壁はコンクリートのビシャン仕上げ。その結果壁面は巨大な柱が立っているように見えてしまっているのです。シースルーのエレベーターにするか、別の囲い方による仕上げを模索するか、可能性はあったと思われるのですが、前川のオリジナルのデザイン・ボキャブラリーから新しい部分のデザインを作るという作法が裏目に出てしまったような気がします。これは、改修と称して既存の名作に手を加えようとするときに現れる、典型的なディレンマです。京都会館でもこうした問題が起きているように思います。もっとも京都の場合は、デザイン・ボキャブラリーだけでなく、規模や用途の変更などのプログラム上の問題もありますが。

前川建築におけるタイルの始まりは、東京文化会館のホワイエの床タイルだと聞いたことがあります。所員のひとりが専属でタイルパターンをデザインし続けたと聞きました。そのタイルが徐々に床から這い上がっていって壁面を覆い、建物を支配するようになっていったのだと。東京都美術館の壁面デザインは、できたときにはそれほど印象的なものではなかったのに、いつまでたっても汚れたり古びたりすることがないので、徐々に驚いて行った(変な言い方ですが)記憶があります。床タイルから始まる打ち込みタイルは、前川による日本の風土への建築の適応術だったのでしょうが、それは1950年代の建築がもっていた無鉄砲というべき理想主義からの撤退でもあったように思えます。Xゼミで見に行った大日本インキの工場(海老原一郎)に見られた、いわば『小股の切れ上がった』デザインは1950年代のものでしたし、これもXゼミで一緒に見た法政大学校舎も、典型的50年代の理想主義に燃えていました。つい最近この隣のボアソナード・タワーで佐々木宏の出版記念会があって出かけたところ、大江さんの校舎に午後の陽光が燦々と注いでいて、これほど美しい、そしてきりりとしまった建築はないと思えました。これは、佐々木宏の会の時間を間違えて早く行ってしまったために陽光に輝くこの建築を見られたのは幸運でした。

出版祝賀会では、わたくしが彼の博士論文の主査であった(忘れていた)ので、お祝いを述べましたが、この方の歴史的事実の発掘の仕方には敬意を表するところがあるものの、違和感も覚えます。彼は前川をどのように評するでありましょうか。

前川國男の建築は50年代の弘前の木村産業の建物以後、大きな庇とタイルによる耐候性のある建築に向かってしまいます。そこで前川は何かを得たが何かを放棄した。彼が放棄したものこそ、50年代の建築がもっていた建築の輝きだったのではないか。大江宏や海老原一郎は、その輝きをもう少し追い求め続けた。前川の場合、建築は環境の中で生き続ける存在になってゆく。その意味では、ご本人は嫌うでしょうが前川建築は難波建築に似ている。建築の表現は抑えられ、定型化してゆくという意味で両者は似てきます。埼玉、熊本、東大の山上会議所など、タイル手法の完成に向かう筋道は、箱の家の求道者的道行に似て見えます。

この後、駒形どゼうを食べて、雷門の前の隈さんの浅草案内所(?)を遠望し、二天門前の難波さんによる消防署を見ました。前者が日本的建築のデザイン・ボキャブラリーをソフトフォーカスで用いているのに対して、後者は表現を拒絶して、西日の熱を遮るよう建物の下部にゴーヤのツルを這わせるのだけがデザインという過激ぶり。

最近、50年代の建築がつぎつぎと失われてゆき、その保存のためのアピールに追われてへとへとですが、やはりいまは失われてしまった建築の輝きとシャープさが50年代の建築には宿っていたように思います。前川國男はそのなかで、骨太ではあるけれど、どこか鈍重なものの残る建築家だったのかもしれません。その点については、石山、難波両先生のご意見など伺いたいところです。

8/3

難波和彦第20信 東京都立美術館のリニューアルを巡って 

東京都立美術館がリニューアルされたので、Xゼミメンバー3人で見学に訪れることにした。真夏の暑い日なので、冷房の効いた東京文化会館(1961)のロビーで待ち合わせる。外に出るとウィークデーというのに、上野の山は人で一杯だった。都立美術館は1975年の竣工時に見学し、1970年代後半にも、池辺陽が会員だった新制作展が毎年ここで開かれたので数回訪れたことがある。しかし池辺が亡くなった1979年以降はほとんど訪れる機会はなくなった。今回は約30年ぶりの再訪である。

まず、東京文化会館から都立美術館までのアプローチの変貌に驚いた。かつての都立美術館は、木立の間を抜けた奥にある感じで、心理的距離はかなり遠かったことを記憶している。しかし、林が切り開かれ、広場が拡大されて、周囲に幾つかの施設が建てられたためだろう、現在は広場に面して美術館がある印象に変わっている。以前は、アプローチの木立の間から、雁行する展示室が目に入ってきたが、現在は手前に展示室が増築され、その壁面が奥の展示室を遮っている。増築された展示室は、かつての打ち込みタイルと同じ外装である。誰から聴いたのか記憶にないが、この打ち込みタイル仕上げについて前川國男は、戦後のモダニズム建築に支配的な打ち放しコンクリート仕上げは、耐候性に問題があることに気付き、その代替案として採用するようになったそうだ。前川が打ち込みタイルの連作を始めるのは、おそらく新宿の紀伊国屋本店(1964)あたりからだろう。打ち込みタイル仕上げのなかで、もっとも記憶に残っているのは、浦和の埼玉会舘(1966)である。

その頃から、僕は前川建築に対する興味を失った。自分でも理由はよく分からないが、僕はタイルがあまり好きではない。レンガ積みの代用品のように見えるからかも知れない。前川の一連の打ち込みタイル建築は、初期の建築とは対照的に、どれも鈍重な印象を持った。安定感があって、その方がいいという人もいたが、僕にはモダニズムからの反動のように思えたのである。僕が建築学科に入ったのは1967年だったので、最初から新しい前川建築には興味がなかったことになる。僕は現在でも、日本相互銀行(1952)、神奈川県立図書館・音楽堂(1954)、晴海高層アパート(1958)といった軽快で透明感のある、初期の前川建築の方がずっと好きである。タイル張り建築で、唯一の例外は、ジェームズ・スターリングの初期の建築、レスター大学工学部棟(1959)やケンブリッジ歴史図書館(1964)である。いずれも外装はタイル張り仕上げだが、そのタイルは平坦で軽快であり、英国の伝統的なレンガ積みに対する批評性を読みとることができる。

前川の建築はどれも、内部の機能に対応した箱型の空間を、敷地に合わせて配列した、建築計画学のお手本のような建築である。その方法は、初期から後期に至るまで一貫している。その点では、前川はモダニズムの機能主義を正統的に受け継いでいたといってよいだろう。しかし私見では、その手法が余りにも図式的に思えるのだ。そこにはスターリングの建築のような、ウィットと捻リの効いた動線計画は見られない。都立美術館についても同じである。アプローチから一旦地下に降りると、正面に玄関ホールがあり、動線は左右の展示場へと分かれる。この動線計画は、アプローチに立つと一目瞭然である。美術館にとって、動線が分かり易いことは、もちろん悪いことではない。だから僕は無い物ねだりをしているだけかも知れない。しかしながら、都立美術館には奇妙な既視感がある。美術館に限らず、1960年末以降の前川の後期の建築を訪れると、打ち込みタイルやコンクリート・ビシャン仕上げだけでなく、空間構成やスケールが皆同じに感じられるのだ。とりわけ、今回の都立美術館のリニューアルには強烈な既視感を抱いた。なぜだろうと考えながら、地下の玄関ポーチに降りた時に、僕はハタと想い出した。都立美術館のデザイン・ボキャブラリーは、僕がいつも利用していた前川の最後の作品、東京大学本郷キャンパス内の三四郎池の脇に建つ山上会館(1986)にそっくりだったのである。

 

都立美術館を後にして、僕たち3人は浅草の駒形どぜう本店に向かい、ドジョウ鍋をつつきながら感想を述べ合った。そのときの鈴木博之の一言が、今でも耳に残っている。木造の竿縁天井を眺めながら鈴木はこう言ったのである。「日本のモダニストには歴史意識がないからなあ」。それは前川國男へのコメントだったのか、あるいは日本のモダニズム建築全体へのコメントだったのか。僕は思わず『建築の世紀末』(1977)の出版が、都立美術館が完成した2年後だったことを想い出した。ポストモダニズムの教科書とも言えるこの本が、当時の若い建築家たちの歴史指向の導きになったことは、今や通説になっている。石山修武はそれを正面から受けとめた建築家であり、僕も数年遅れて、本書の歴史観に震撼させられた1人である。「歴史意識を持たないのは建築家ではなく建築屋である」という名言を吐いたのも鈴木だが、歴史意識がもたらす批評性やアイロニーは、建築家にとって果たしてクリエイティブな条件なのだろうか。今でもこの問いに対する回答は見出されていない。少なくとも、前川建築には批評性もアイロニーも見出すことはできない。

8/3

石山修武第50信 想いつくままに

8月1日上野・浅草Xゼミナールの小旅行は思いもかけず印象深いものであった。本来は約束通り、前川國男建築設計事務所設計の東京都美術館増築について見聞し、そして考えてみようという主旨であるが、それを重々承知の上で又もいささかの逸脱をしてみたいと思う。逸脱はもうこれは本性らしきなのでわたくしなりの自然に戻ろうという事だ。

 

先ず冒頭で、鈴木博之、難波和彦両先生にはいささか頭を下げて詫びておく必要がある。我欲でXゼミナールのサイトをしばらく占有してしまった。良くここ迄、こらえて下さったなと感謝申し上げる。我欲は一生に一つだけ作家論を残したいとの欲であった。鈴木博之先生からは、何故それが磯崎新論なのかの当然予想された批判も真向から浴びた。俊乗坊重源論、R・バックミンスター・フラー論の方が良いとの指摘もいただいた。難波和彦先生からもXゼミナールに磯崎新論は不適当であり、三者三様の議論を深めるには座りが悪いの指摘もあった。誠に御指摘の通りである。それを重々承知で作家論・磯崎新はXゼミナール・サイト上には25迄はONされる事の段取りはおおせた。ここ迄やってくれば後戻りは出来ぬし、中断も無いだろうの確信らしきも得た。

作家論・磯崎新は一人でやらせてくれと御二人には申し上げた。すでに巨匠であると言って差し支えない磯崎新に、それでも三人がかりは卑怯だの思いもあったし、作家論は一人でやるべきだの考えもある。この考えは学生時代恩師であった建築史家、渡辺保忠の「作家論は建築論の中でも最高の位置を占めるべきモノだ」の教示があったからだ。記憶力の弱い筈の人間としては不思議に良く憶えていたなと驚いている。

わたくしには試みて持続せず、途中で放り投げた仕事が少なくはない。重源論もフラー論も手をつけて中断した。ひとえに自分の才質の小の問題に帰すると今では承知している。途中は全て省くが、それで今、生きている磯崎新に焦点を絞った。作家論はその対象が亡くなり、棺を蓋が覆ってからの鉄則は踏みにじる事にした。わたくしの年令の問題が在る。考え尽くすに、今のわたくしの年令は高齢社会の現実を俗に受け容れたとしても、作家論を書くにはほぼ限界の年令である。何時、不意に倒れるやも知れぬし、頭がメルトダウンしてもおかしくは無い。

鈴木博之先生の『建築の世紀末』は氏の青年時代前期に成し遂げられた。友人に世辞を労する愚は犯さぬが、正直実にまぶしい位の仕事であったと告白せねばならぬ。年々歳々その感は深まる計りである。同時期にわたくしの書き散らした数々と比較すれば、それはギャーッと叫んで恥にまみれ割腹するか、あるいは書き散らしたゴミの数々を集めてたった一人の焚書坑儒に及ぶしか無い。双方共に不可能であるから、これからも恥をしのんで生きてゆくしか無いのである。

でも、いささかの紆余曲折はあったにせよわたくしは作家である。鈴木博之の『建築の世紀末』に対してはわたくしも青年期前期の「幻庵」でかろうじて抗し得ているやも知れぬ。例えそれに関する言説の全ては失敗したにせよ。あるいは今書き続けている作家論・磯崎新が四十年遅れでの『建築の世紀末』への燕返しであるのかも知れない。どうも比喩が武芸帖の手合いに堕するのは、コレはクセなので許されたい。

難波和彦先生には岡本太郎の対極主義程の事ではないけれど、わたくしとは異質の形式を持つ才の持主であるのは良く知る。昨日浅草寺二天門脇の消防署を実見して、それを更に再確認し得た。雷門前の隈研吾の建築と同時に比べ見る機会は有難かった。隈研吾の小塔状の建築を一言で要約すれば、これも又鈴木博之から教示されたジョン・キーツの受容的可能性の表現に尽きるだろう。ジョン・ソーンでさえも重要視し、自邸博物館の踊り場アルコーブにウィリアム・シェイクスピアの像として大衆的想像力への積極的受容の精神を歴史的な重しとして据えねばならなかった。隈研吾自身も述べていた記憶があるが、一見ゴミの如くに視える都市の断片の集積状態がリファインされてそこに在ると感じた。この作品は隈研吾の作品群の中で秀逸なモノではなかろうか。浅草寺、とりわけ向いの雷門の建築がその秀逸さを引き出したと考える。更には歴然たる近代建築である浅草寺五重塔までも含めた浅草寺境内に在り続ける何者かがそれを成さしめたのである。ウィリアム・シェイクスピアであれば恐らく、現われずの浅草寺の小さな秘仏中の秘仏である観音像にその源を視て、ギリシャ悲劇ならぬ、ロンドングローブ座の大衆喜戯劇仕立てに表現したであろう。隈研吾はそれに近い形式をここで受容的に表現している。シェイクスピアが百万人に対応するカメレオンと評される如くに、この建築は大消費時代の受容的形式を暗示しているとさえ考えた。隈研吾の負ける建築の具現でもある。ただ建築の色と質感がまだまだ雷門との関係の中核には届いていない。教育によって形成されたモダニズムの色調、素材感の只中にも在る。この点では青山表参道ファッションビルの範疇にもある様にも感じた。色使いのホンの一部に朱や金を融け込ませたらこの建築は現代建築の名作になり得たのではないか。

これも又、浅草寺二天門脇の難波和彦の消防署は全く浅草寺とは無関係を演じるモダニズム建築である。しかし、上野公園内で見かけた小さな警察署の愚劣としか言い様のない示威的権力らしきの誤った表現と比較すれば、そこに消防署という機能の表現以外は何も無いのがケレン味が無く明晰である。ただ浅草寺境内側にゴテゴテした開口部無しにさらにモダニズムというイデオロギーの表現さえ消したエレベーションに唯一の表現らしきが在る。ウロ覚えで自信は無いが、ロバート・ヴェンチューリに確か消防署の小作品があった。賢明な難波和彦であるから、その歴史的遺留品はインプットされていたであろう。

消防署の機能は消防自動車の倉庫であり、消防職員の事務、そして待機の場所、火事の予防対策作業所でもあろう。これ位に目的明快な機能は無い。しかし、2011年3月11日の東日本大震災、及び福島原発災害を経て、我々はそれ以上に都市の大災害への不安を常に持たねばならず、その不安に対するいささかの安心感をも消防署、およびその職員の方々の活動に持たねばならぬ事態にも面している。この作品が東日本大震災以前に考えられたのは知っているが、その様な都市に棲む不安を少し計りは、それさえも消火するような要素がデザインエレメントとして少し組み込まれても良かったのではないかと老婆心ながら考えた。しかしこの消防署建築も何番目かの「箱の家」なのである。

都美術館の一室では若者達(そう呼ぶ他に方法が無い)の「生きるための家」という展示があっていささか辟易した。彼等の大半はもうすでにその才質自体が消費されているのに気付いていないように見受けられた。多様性の開示らしきのガイドラインも無い。少なくともこの展示の企画者であろうキュレーターの何等かのキチンとしたコメント(オリエンテーションなどは望まぬが)らしきはあってしかるべきだろう。「生きるための家展」のチラシにはすでに消費されステレオタイプになり始めている、つまりこれも又消費されている3・11を経て――の文言が並んでいる。この展示をよもや被災地で開催できるのかね、被災地の方々に見ていただけるモノの群なのかねと深く疑う。それでなければ東京でのかくの如きの消費生活そのものの形式が東北のかろうじてのエネルギーも含めての生産活動の収奪生活でしか無いという現実が全く解ろうともされていないとしか言い得ようがない。

そんな体たらくを眺めれば、難波和彦の大きな箱の家とも言える浅草・浅草寺二天門脇の消防署ははからずもそれ等の痛烈な批評という意味でも確かなモノがある。つまり難波和彦の延々たる日常の退屈さへの延々たる積み重ねの方法の表明でもあろう。その仕事の形式は、かくの如きの白昼のゴミにしか視えぬ群への優れた批評として立ち上がっている。

 

前置きが長くなった。Xゼミナールのページを占有するのは良くない。本題の都美術館の増築に入りたい。要約して回を追いゼミナールの面々との応答も含めた上で進めたい。

一、 これ迄のXゼミナールの数少ない成果物として、海老原一郎の大日本インキ工場オフィス棟の見学と考察がある。具体的に言えば海老原一郎、大江宏等の建築家の、建築の外形に対する、あるいはそのエレメントの隅々にいたる迄の諸々のプロポーションのスタディの執拗さへの着目があった。それは1950年代、日本のモダニズム建築の一つの核であったのではないかという事。それを更にもう少し分厚く視てみたい。

二、 都美術館に関しては、前川國男、大江宏、白井晟一等の風声同人と呼ばれる建築家達を結びつけたモノについて。間違った記憶かも知れぬが宮内嘉久等のジャーナリストの介在を払い去った裸形の共存意識があったのかという問題。それは美学か?倫理感でしか無いか?

三、 前川國男の建築の重さの中核は何か。小金井に再生保存されている前川自邸に具体化されているある種の美と、東京文化会館に表現された重さに分裂はありや、無しや?難波先生に尋ねたい。

四、 前川國男、坂倉準三、吉阪隆正、そのそれぞれが持ち帰ったル・コルビュジェのアトリエへの留学的インターンの成果の分裂状態は何故か?

五、 良く知られる前川國男のテクニカル・アプローチとはタイルの埋め込みパネルの多用以外の具体例を知りたい。

等々のわたくしなりの切口を列挙してみました。これからの議論のたたき台の一つとして考えてみて下されば幸いです。

最後に、『東京の地霊』(※)を昨夜読み返した。当然第4章、上野公園の章を中心にして読んだ。先に触れたが都下小金井公園内の江戸東京たてもの園に前川國男の自邸が再生保存されている。又、周囲には宮崎駿が触発されたと噂される湯屋(江戸時代の銭湯)の復元もあるが、それこそ宮崎監督の代表作でもある「千と千尋の神隠し」は大衆的な地霊の物語りでもあり、鈴木博之先生はこのような現代の大衆的先端表現とも考えられる諸映像にも、地霊は棲みつき創造の始源になり得るモノなのでしょうか。ご教示いただきたい。

つまり、かくの如きのテーマパーク的な営みの中の前川國男の自宅、それは実にしっくりと納まっているようにも感じられましたのでおうかがいしたい。

※ 『東京の地霊』 鈴木博之著。江戸から明治そして現代へと揺れ動く時代の中で、さまざまな人間の思惑によって個性的に変容した東京都内13ヶ所の土地の歴史を描いた著作。著者鈴木はそれぞれの土地に重層された過去の出来事を一つの物語として描写し、近世から近代へと変転した日本の、東京という都市をケース・ヒストリー的に凝視する。1990年に文芸春秋から刊行された。上野公園を舞台とした第4章では、積もり重なった江戸以来の鎮護の余情を残す上野の土地の姿を描く。江戸時代、京都の一断片として見立てられ鎮護の場所となった上野の山は、江戸敗北の記念的舞台となり、文明開化後の明治政府による芸術政策においても、その地に残る江戸の亡骸への敬意は失われることがなかった。

04/13

鈴木博之 第15信 ブレーク

石山さんが快調に磯崎論を展開されているのを拝読しつつ、またもやブレークを試みたくなった(あるいは試みるべきであると考えるにいたった)ので、失礼いたします。

ひとつのきっかけは、今日行われた菊竹清訓さんをしのぶ会でありました。午後3時に大隈講堂に伺い、午後8時まで充実した時間を過ごしました。そこに石山さんのすがたがなかったこともまた、いかにも早稲田らしい活力と在野精神の表れと感服いたしました。弔辞における川添さんの言葉の切実さ(川添さんのほうが2歳年上)、穂積先生の誠に心情を吐露された言葉、そして伊東豊雄さんの最後に「ありがとうございました」で終わる別れの言葉の、それぞれが心に残りました。

そのあと、ホテルで開かれた会で献杯をされた槇先生が、メタボリズム発足時期の話をされたのが、また、印象に残りました(槇先生は建築評論家としても、第一級です。野武士という命名など)。今日のお話も、歴史に残ると思います。60年ころ、チーム・テン、アーキグラム、メタボリズムなどあり、チーム・テンとは長く付き合ったけれど彼らは赤穂浪士ではないけれど同志的グループだった。それに対してアーキグラムはブリティッシュ・ジェントルマンのクラブ(これは、違うのではないかと思いましたけれど)、そして、メタボリズム発足時のわれわれは、甲子園球児のようであったと話されて、華やかな投手は菊竹さん、同じく派手なのがショートの黒川さん、すべてを引き受けてくれていたのが捕手の大高さん、などと話されて、ご自分は見通しのきくセンターだったと言われました。丹下先生と磯崎さんはネット裏でそれを見ていた、と述べられました。磯崎さんとメタボリズムの関係を考えるとき、この槇先生の言葉は決定的な意味を持つ歴史的証言だったと思いました。

磯崎論を考えるとき、彼の知的影響力とその範囲の評価は、かなり幅のあるものとなります。磯崎さんは常にあらゆる場に居合わせるのですが、そのとき彼はどういうスタンスでそこにいたか、なかなかはっきりとしません。メタボリズムとの関係についても、傍観者、随伴者、共犯者、仲間、他人など、あらゆる立場が現れます。けれどメタボリストから見ると、磯崎さんはネット裏にいたのでしょう。

この立ち位置こそ、磯崎さんではないでしょうか。それを見失うと、磯崎論は根底から成り立たなくなります。わたくしは、磯崎さんの位置について、ある賞の選考を巡って議論をしたことがあります。人々は、磯崎さんが幅広い影響力を持った稀有な建築家であると評価しました。けれどもそうした知的影響力などわたくしには、ないと思えたのでした。そんなエリートの存在幻想は1968年に破産している。磯崎さん自身、一時期は1968年を大変重視していました。さいきん死んだ吉本隆明が「大衆の原像」といって、丸山真男に代表される進歩的知識人エリートと自身の立ち位置を区別しましたが、磯崎さんの影響力はあくまでも進歩的知識人のそれでした。安藤忠雄は十分に大衆の原像を背負えていますし、丹下健三もオリンピックから万博までの大衆の原像を視覚化し得ていました。磯崎さんにはそのスケールも幅もありません。あえて言うなら、建築家として初めて、東大仏文出身の(小林秀雄から内田樹にまで至る伝統的知識人)エリートと話せる知的選良になれた存在ということでしょう。

磯崎新の存在を論じることには意味があります。それは、建築の世界における知的あり方を考える(あくまでもひとつの)きっかけになるからです。

02/13

鈴木博之 第14信

Xゼミの石山修武 第28信 磯崎新論5の中で語られるエピソードには、わたくしもかかわっているので、またもやブレークというのも気が引けるのですが、書き記しておきたいと思います。

石井和紘さんが磯崎さん(槇さんも関与していたのかもしれない)の企画による「若手建築家の訪米団」から外されたとき、わたくしも磯崎邸について行っていました。磯崎さんから直接呼ばれたのか、磯崎さんに呼ばれた石井さんが私にも声をかけて連れて行ったのか、記憶が定かではありませんが、お茶の水にあった当時の磯崎邸に行きました。

そこで宮脇愛子さんが出てきたのでびっくりしてしまった記憶があります。というのも宮脇さんのところには、磯崎さんに会う以前から出入りしていたからです。その頃、宮脇さんは三田の日活アパートに一人で住んでいて、わたくしの友人の東大の美術サークルという同好会のメンバーが出入りしていたので、それについて出入りしていたわけです。私は美術サークルでもなかったのですが、建築の同級生が行こうというのでくっついていったりしていたのです。

その宮脇さんが磯崎さんと結婚したと知らなかったものですから、初めて磯崎さんのところに行ったら、宮脇さんが出てきて、びっくりしたというわけです。それはさておき、石井さんが磯崎さんに呼ばれて、アメリカでの講演旅行から降りてくれというような話が始まりました。磯崎さんとしては、入れてやりたいのだが、反対意見もあるのでというようなことだったと思います。わきから宮脇さんが「そんなにしてまで,行ったって面白くないわよねえ」というようなことを言っていました。石井さんとしても、引っ込みがつかず、「降ります」といって二人で辞去したのですが、どうもわたくしはこの顛末の見届け人として呼ばれたらしい(石井さんにか、磯崎さんにか、定かではないのですが)と、ようやく気付いた次第です。石井さんは帰り道、「これは事件だぜ」といったのを覚えています。石山さんに「一緒に降りてくれ」と連絡したのは、おそらくその後なのではないでしょうか。

磯崎さんとの出会いが、こんな形だったので、それが磯崎さんのイメージに付きまとうのは仕方ないのですが。ただし、磯崎さんにはずいぶんお世話になった記憶があります。当時、磯崎さんが作っていた円筒ボールト屋根を持つ住宅(中央線沿線)を何人かの若手が見せてもらった時が、わたくしが安藤忠雄さんと会ったはじめだと、これは安藤さんが後から振り返って教えてくれました。このときには、ほかに伊東豊雄、石山修武もいたのではなかったかと思うのですが。

石井さんと磯崎さんの関係は、訪米団の一件があった後も、特に悪くなったということもなかったと思います。ずっと後になって、磯崎さんは石井さん、石山さん、伊東豊雄さんを起用してロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館で大きな日本建築展をしましたから。この展示の時、たまたまわたくしもロンドンにいたので、印象に残っているのですが、磯崎さんのプロデューサーとしての才能のすごさを深く印象付けられた展覧会でした。

1/26

難波和彦 第19信 石山修武のユーモア

石山さんのXゼミ 第27信『磯崎論3』を読んでいたら、磯崎新と黒川紀章の関係について論じた最後あたりで、石山さんがこう書いているところに眼が止まった。

「黒川に無くて磯崎新にあったものはアイロニーであり、それは岡本太郎にも三島由紀夫にも同様であった」。

まさにドンピシャリの指摘で、思わず膝を叩いた。そこで、僕は、なぜ石山さんが磯崎のアイロニーを的確に理解できるのかという点について少し考えてみることにした。以下は、その試論である。

ロバート・ヴェンチューリを初めとして、ポストモダニスト建築家のほとんどはアイロニー(反語や皮肉)を駆使することはよく知られている。アイロニーは一種の美学的な態度だといってよい。アイロニーの背景にはニヒリズムがある。それは、建築家が社会から阻害されていることへの直接的な反応である。社会からの疎外感を持たなければ、アイロニーは生まれない。なぜなら、アイロニーは疎外感から身を引き離すことによる、一種の「保身」だからである。したがってアイロニーから社会を変える力は生まれない。

アイロニーを駆使したのが、戦前の日本浪漫派であることもよく知られている。日本浪漫派は戦時における疎外を過激に美化することを通じて、結果的には現実を受け入れ、なかんずく現実を推進する結果を招いた。戦前の丹下健三や池辺陽が、日本浪漫派に惹かれ、美学的な建築を展開したことも、いまでは周知の事実である。それはロマンチック・アイロニーと呼ばれた。池辺の戦後の活動は、ロマンチック・アイロニーからの脱却だった。『現代建築愚作論』は、それに対する批判であり、その先鋒が磯崎であったのは偶然ではない。

1970年代のポストモダニストたちにも同じような面があったように思う。彼らが駆使したアイロニーが、一見、ラディカルに見えても、実際には反動的であったのは、そのような意味においてである。逆に言えば、現実に働きかけ、社会を変えようとする建築家にはアイロニーはない。黒川紀章を初めとするメタボリストにアイロニーがないのはそのためである。

ここまで考えてきて、僕は、磯崎新と石山修武との決定的な相違に気づいた。石山にはアイロニーとは異なる、何か別の要素があるからである。石山は、人並み以上に過激な反語や皮肉を駆使する。しかし、磯崎とは異なり、いつもそれは現実に対してだけでなく、自らにも向けられている。石山の発言をリテラルに受けとめれば、単に腹が立つだけのように思えて、実際にはそうならないのはなぜだろうか。その理由は、石山の反語や皮肉が、アイロニーというよりも、むしろフロイト的な意味での「ユーモア」だからではないかと思う。

フロイトによれば、「死への欲動」(攻撃衝動)が抑圧され、内面化されることによって「超自我」が生まれ、その超自我が、現実の中に置かれた矮小な「自我」を相対化するところにユーモアが生まれる。アイロニーと同様、ユーモアにもニヒリズムが背景にあるが、アイロニーが現実の相対化による保身であるのに対し、ユーモアは現実に巻き込まれている自らの立場を、丸ごと相対化しようとする態度である。ユーモアにも保守的な現実感覚があるが、アイロニーとは異なり、自らも相対化の対象になっているので、何事かを行うことと現実を変えることが結びついている。したがってユーモアには微かなヒューマニズムがある。僕は、石山のそのような自我を含んだユーモアに、痛く共感する。

この問題はアートとデザインの相違にも関係している。アートにはアイロニーがあるが、デザインにはアイロニーはない。アートは個人的な作業だが、デザインは社会的な活動だからである。磯崎はアーティストだが、石山はアーティストであると同時にデザイナーでもある。この違いは、小さいようでいて、実はきわめて大きい。

石山が磯崎に惹かれるのは、社会に対するアイロニカルな態度の徹底においてであるように思える。しかし、僕としては、むしろ、石山のユーモアに注目したいのである。

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鈴木博之 第13信

むかし、アマチュア無線に興味があったころ、無線で交信している人に割り込んでしゃべる時、「ブレーク、ブレーク」と叫んだものですが、石山先生の御論考に、ブレーク。

いよいよ石山先生の論考が始まり、固唾をのんで拝読しております。

わたくしは石山先生の御論考その1の末尾に出てくる稲垣栄三先生のところで勉強したので、磯崎さん、渡邊保忠先生、太田博太郎先生などの構図を、逆の側から垣間見た部分があります。

磯崎さんが興味を持っていて、結局行かなかった研究室は「大岡先生」ではなく、藤島亥治郎先生の研究室です。磯崎さん自身からその話は聞きましたし、藤島先生にも、磯崎さんのことを聞いたことがあって、おそらく間違いないと思います。念のために付け加えると、「藤島先生」というのは稲垣先生の先先代の教授、太田先生の先代の教授で、伊東忠太の次の教授だった方です。

磯崎さんは、当時の(今も、かもしれませんね)東大の建築の教授たちの複雑怪奇な構図の中で丹下研究室に進んだので、そうした構図のゆがみに敏感だったはずなのです。

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難波和彦 第18信

Xゼミが再び活動を再開したと思ったら、いきなり石山さんから「読者から購読料を取ったらどうか」という提案が跳び出した。Xゼミが持続しないのは、下部構造がしっかりしていないからだという分析である。それに対する僕の考えを聞かれたのだが、Xゼミでも神宮前日記でも、書きたいことを書いている訳で、僕としては読者に読んでもらっている感じだから、購読料を取るという発想はまったくない。実際問題ウェブ上で購読料を取るのは技術的にも難しいだろう。それにXゼミがしばらく中断してしまったのは、震災後の仮設住宅や復興活動のボランティアで忙殺されたためで、下部構造が確立していないからではない。ボランティア活動は下部構造を求めない活動であり、上部構造における「交換」(コミュニケーション)をめざしている点において、Xゼミと同じ意味を持っている。ついでに確認しておきたいのだが、現代マルクス主義では、上部構造と下部構造という図式の現実的な説明力は、とうの昔に否定されている。マックス・ウェーバーの上部構造自立論を待つまでもなく、インターネットによるグローバルな金融資本主義においては、情報や信用(上部構造)が資本(下部構造)を支えているからである。その旨を書こうかと思案していたところ、鈴木博之さんが第12信を送ってきた。どこかのメディアで書いた文章の読者を拡げるためにXゼミを使ったらどうかという提案で、基本的に僕と同じ考えである。という訳で、僕も他の場所に書いた文章を、以下に転載したい。

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「抑圧されたモダニズムの回帰」

『球と迷宮』の原書(イタリア語版)は1980年に出版された。日本語版が出たのは1992年である。原書出版から30年以上を経た本書を、2011年の今日に読み返す意義はどこにあるだろうか。同じ問いはLATsで取り挙げるすべての本に投げかけられていると言ってよいが、『球と迷宮』に関しては、とりわけクリティカルな問いのように思える。なぜなら本書はモダニズムの建築と都市についての批判的な歴史書であり、書かれた時点において、すでに同じような問いに晒され、その問いに対する回答として書かれているからである。

僕の考えでは、東日本大震災の後に本書を読むことには特別な意味があるように思う。というのも震災復興においては、モダニズムの核心にあった「計画」の思想が、何らかの形で再評価されることは間違いないからである。道路、港湾、鉄道、ライフラインなどのインフラストラクチャーの復旧には、都市的なスケールでの計画が不可欠である。しかしすべてをトップダウン的に計画するのは時代錯誤である。本書におけるタフーリのモダニズム批判は、その限界を明らかにしている。

1990年代初頭の社会主義諸国の崩壊は、国家的なスケールでの政治的・経済的計画の失敗を証明した。『球と迷宮』はその事件以前に書かれてはいるが、タイトルが示唆しているように、社会主義諸国の崩壊の可能性を先取りしている。「球」とは「計画=秩序」であり「迷宮」とは「カオス=無秩序」である。本書はモダニズム建築における計画とカオスとのせめぎ合いに関する歴史的ケーススタディだと言ってよい。とりわけ本書のユニークな点は、モダニズムにおける公共住宅の計画に焦点を当てている点にある。通常のモダニズム建築史では、住宅の問題はほとんど取り上げられることがない。しかし本書においては、モダニズムの中心的なテーマが公共住宅の計画にあったことが詳細に検証されている。社会主義諸国の崩壊以降、そして1980年代の新自由主義による民営化の世界的な浸透以降、果たしてどのような「計画」が可能だろうか。その意味で、本書はこの問題について考える重要なヒントを示唆しているように思う。

タフーリ体験

マンフレッド・タフーリには一度だけ会ったことがある。1982年に日本でイタリアのルネサンス期に活躍した建築家アンドレア・パラーディオに関するシンポジウムが開催され、タフーリはそのコメンテーターとして招待された。当時の日本ではプレモダンな建築を引用する、いわゆるポストモダン歴史主義のデザインが流行していた。僕自身も1970年代末にヴェネツィアやヴィツェンツァなど北イタリアの諸都市を訪れ、一連のパラーディオ建築を見て回り、その明解な論理性と透明な空間性にカルチャーショックを受けた記憶がある。さらに『パラーディオ―世界の建築家』(福田晴虔:著 鹿島出版会 1979)は日本におけるパラーディオ理解に大きな影響を与えた。

バウハウスのように歴史的建築を全面否定するモダニズムのデザイン思想の洗礼を受けた建築家たちは、それまでプレモダンな西欧建築と現代建築を結びつけることには考えも及ばなかった。しかし『マニエリスムと近代建築―コーリン・ロウ建築論選集』(コーリン・ロウ:著 伊東 豊雄+松永 安光:訳 彰国社 1981)や『建築の多様性と対立性』(ロバート・ヴェンチューリ:著 伊藤公文:訳 鹿島出版会 1982)は、両者を結びつける手本を示してくれた。その影響もあって、ポストモダンに共感する建築家たちは、自作のアイデアの中に西欧建築のイメージがどれだけ引用されているかを競い合うようになったのである。そのなかで突出した活動を展開したのが磯崎新である。そのシンポジウムで磯崎は、自作をパラーディオ建築と対照させながら説明するプレゼンテーションを行った。それを聴いていたタフーリが、いかにも不愉快そうな顔をしていたことを印象深く記憶している。磯崎は彼特有のアイロニカルな発想によって、日本人の西欧コンプレックスを建築化してみせたつもりだったかも知れない。しかしそれに対してタフーリは、極東の島国の建築家がパラーディオを引用する必然性がどこにあるのかと訝ったに違いない。タフーリ自身のモダニズム建築史観からすれば、ポストモダン歴史主義はもっとも退廃的なデザインだからである。タフーリの研究者である八束はじめによれば、当時のタフーリは、『建築神話の崩壊』(1973)、『建築のテオリア』(1976)、『球と迷宮』(1980)というマルクス主義的な立場からの一連のモダニズム建築論をまとめ終え、モダニズムから現代に至る建築の歴史的展開に関して、かなり悲観的な評価を抱いていたらしい。そして1980年代以降、タフーリは現代建築に対する批評家としての立場を捨て、建築史家としてのオーソドックスな研究活動に回帰して行ったのだという。

モダニズムへの両義的批判

日本の建築家が、明治時代以降の西欧的なモダニゼーション(近代化)を明確に自覚するようになったのは第2次大戦以後である。それ以前の建築家はモダニズム建築の表層のスタイルを真似るだけだった。近代化の文化的自覚としてのモダニズム(近代主義)デザインは、基本的にプレモダン(前近代)のデザインを否定した。大学の建築教育においても、デザイン教育と建築史教育とは完全に分離していた。しかし1960年代後半になると、戦後の急速な近代化がもたらしたさまざまな問題が噴出し、それに並行してモダニズム・デザインに対する反動としてポストモダニズム・デザインが勃興してきた。ポストモダンはプレモダンな歴史の再評価を通じて、モダニズム自体の歴史性を明らかにした。そうした潮流の先鞭をとったのが、先に挙げたコーリン・ロウやロバート・ヴェンチューリだが、その中でもっとも根源的なモダニズム批判を行ったのがタフーリだったのである。

『球と迷宮』を読んでも明らかにように、タフーリのモダニズム批判は、モダニズムの反歴史主義に対してポストモダニズム歴史主義を対置するような単純な構図には納まらない両義的な批判である。彼はモダニズムの深部に潜む歴史性を抉り出し、その可能性と限界を明らかにしようとした。モダニズムに対して、タフーリがそのような両義的な態度をとった理由は、彼の歴史観がフランクフルト学派のテオドール・アドルノやマックス・ホルクハイマー、あるいはその周辺で活動したヴァルター・ベンヤミンといったマルクス主義者たちの強い影響を受けていたからである。『球と迷宮』の中でも詳しく論じられているように、バウハウスやロシア・アヴァンギャルドのような1920年代のモダニズム・デザイン運動の中には、マルクス主義の思想が色濃く混入していた。したがってタフーリとしては、モダニズムを単純に否定することはできなかったのである。

本書の序「歴史という計画=企画」において、タフーリは歴史を記述することは、デザインと同じように明確な意図を持った計画=企画であると主張している。つまりタフーリによる歴史の記述は、マルクス主義的な歴史観にもとづく記述ということである。この問題と関連して、タフーリは『建築のテオリアーあるいは史的空間の回復』(1976 八束はじめ:訳 朝日出版社 1985)において、「階級的批評はあっても、階級的建築はない」という、いかにもマルクス主義者らしい主張を行っている。タフーリの立場から言えば、マルクス主義的な視点からの建築批評は可能であっても、マルクス主義の思想を表現した建築というようなものは存在しないということである。

一般的に、建築家は建築デザインにおいて自らの思想を表現すると考えられている。建築家が何らかの意図を持ってデザインに取り組むという意味では、確かにその通りである。しかしでき上がった建築において、そこに当初意図された通りの思想を読み取ることができるという保証はない。建築史家としてのタフーリの一連の建築史研究は、建築家たちが建築に表現しようとした思想=イデオロギーを読み取ることができるかどうかという問題を巡って展開した。しかしながら最終的に彼はそれが不可能であるという結論に達したのである。タフーリの上記の主張は、思想と建築との関係は、建築史家によるイデオロギー的な読み取りの中にしか存在しないということを意味している。『球と迷宮』における「球」と「迷宮」のメタファーは、秩序をめざした計画が必然的に無秩序なカオスをもたらすという主張だが、それは上記の主張の言い換えでもあるだろう。

本書において、タフーリは18世紀のピラネージから説き起こし、1920年代のヨーロッパ、ロシア、アメリカにおけるモダニズム・デザイン運動を経て、1960年代のジェームズ・スターリング、アルド・ロッシ、ルイス・カーン、さらには1970年代のロバート・ヴェンチューリやホワイト&グレイの建築家たちの仕事を詳細に検討している。その論調は、モダニズムの社会的ヴィジョンが徐々に失われ、モダニズム建築のスタイルをなぞるだけのフォルマリスム(形態主義的な)デザインへと零落していく歴史として一貫している。本書は1990年代の冷戦終結以前に書かれたため、冷戦時代の社会主義諸国の建築については論じられていないが、1930年代に始まるスターリンの専制時代以降の反動的な建築デザインを観れば、基本的な論旨は変わらなかっただろう。タフーリはソヴィエト連邦が崩壊した1991年の3年後、1994年に亡くなっている。この歴史的符合も偶然とは思えない。

マンフレッド・タフーリと鈴木博之

僕が大学生だった1960年代後半には、まだモダニズムのデザイン教育が色濃く残っていた。先にも書いたように、西洋建築史や日本建築史の講義はあったが、デザイン教育との関係は皆無だった。そもそもデザイン教育を担当する教員が歴史的様式のデザインを全否定していた。当時、フランク・ロイド・ライトが設計した日比谷の「帝国ホテル」が解体されるというので、僕たち学生は見学に行き、その繊細で大胆な空間構成に圧倒された。その後の設計製図課題で、ある学生が「帝国ホテル」に似た瓦屋根をデザインしたところ、教員にこっぴどく批判されたことを鮮明に記憶している。しかしながら1960年代末の大学紛争を契機に、ポストモダニズムへの転換が急速に進み、建築史と建築デザインが一気に緊密な関係を見せるようになった。先にも述べたように、西洋建築史は建築デザインのアイデアを引き出すカタログのような存在になったのである。

タフーリの存在を知るようになったのは1970年代の後半に『a+u』誌や『建築の文脈 都市の文脈』(八束はじめ:編 彰国社 1979)を通じてである。『建築の世紀末』(鈴木博之:著 晶文社1977)が出たのも同じ頃である。タフーリの日本における代弁者ともいえる八束はじめが、鈴木の著書に対して批判的な書評を書いたために、鈴木と八束の間でモダニズムの建築史観に関して激烈な議論が交わされたことは、いまだに語り継がれている事件である。しかしながら当時の僕の眼には、タフーリと鈴木は同じような歴史観を持った建築史家に見えた。両者とも建築史を進化論的に捉えるのではなく、一種の「敗者の歴史」として捉えていたからである。さらに建築と思想との錯綜した関係を、モダニズムがそうしたように一筋縄には捉えない点においても共通していた。とはいえタフーリがモダニズムを内在的に批判したのに対し、鈴木はプレモダンという外部からモダニズムを批判した。鈴木が焦点を当てた時代がイギリスの19世紀だったのに対し、タフーリは主に大陸のモダニズムに焦点を当てていた点も異なる。マルクス主義に対するスタンスにも相違があったかも知れない。僕が両者の微妙な、しかし根本的な相違を理解できるようになるのは1980年代の半ばを過ぎてからである。

1985年に『建築のテオリア』の日本語版が出たとき、僕は『SD』誌(1986年1月号)に書評を書いた。そこで僕は「歴史化=脱神話化もまたひとつの〈伝統〉なのだ」と題して、反歴史的なモダニズムを歴史的に位置づけ、脱神話化=相対化しようとするタフーリの視点も、モダニズムと同様にひとつの伝統ではないかと評した。僕が依拠したのは、ロラン・バルトが『神話作用』(篠沢秀夫:訳 現代思潮社 1983)で主張した「神話化に対する最良の武器は、今度は神話を神話化することであり、人工的神話をつくり出すことである」という論理だった。要するにタフーリの歴史化=脱神話化という作業も、ひとつの伝統であると主張することによって、モダニズムという伝統の洗礼を受けた僕自身の立場を相対化しようと試みたのである。ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』にもとづいて書かれた本書の第2章「〈等閑に付され得るオブジェ〉としての建築と批評的注視の危機」は、僕にとって、後に「建築的無意識」(『建築の4層構造』(難波和彦場:著 INAX出版 2009)所収)に展開するヒントとなった記憶に残る重要な論文である。

このように僕は、八束はじめ経由のマンフレッド・タフーリと鈴木博之から、建築に対する歴史的視点を学んだのである。ジークフリート・ギーディオンやニコラス・ペヴスナーといったモダニズム建築史家に対しては、タフーリと鈴木を通して逆遠近法的にアプローチする形になった。そのような僕の視点をコンパクトにまとめたのが1986年に『都市住宅』誌に連載した読書日記『難読日記』である。1986年2月号のエッセイ「歴史が紡ぎ出すコード」は、ポストモダニズムの理論的根拠である記号論を建築史に結びつける試みである。

抑圧されたモダニズムの回帰

今年の8月末に僕は初めてモスクワを訪れた。ロシア革命後の1920年代のロシア構成主義の建築を見るためである。2日間という短期滞在だったので、訪れることができたのは比較的都心に近いコンスタンチン・メーリニコフ設計の「ルサコーフ・クラブ」(1927-29)、バス・ガレージ(1926-28)、「メーリニコフ邸」(1927-29)、イアン・ゴーロゾフ設計の「ズーエフ・クラブ」(1927-29)、モイセイ・ギンズブルグ設計の「ナルコムフィン官舎」(1928-30)、ル・コルビュジエとニコライ・コリィ設計の「ツェントロソユーズ」(1928-35)といった建築だけだった。「ズーエフ・クラブ」は一部に新しい屋根が架けられてはいたが、現役で使用中であり、「バス・ガレージ」はギャラリーにコンバージョンされ、「ツェントロソユーズ」は改装中だった。「ルサコーフ・クラブ」と「メーリニコフ邸」はかなり傷んだ状態で放置されていた。「ナルコムフィン官舎」はもっとも悲惨で、修復計画はまったく実施されておらず、ほとんど廃墟になりかけていた。現在は完全に資本主義化されているロシアにおいては、第2次大戦以降に建設された、いわゆるスターリン・スタイルの建築は現役で使用されていたが、戦前の近代建築は総じて冷遇されていたように思う。ほとんど装飾のないザッハリッヒなデザインと機能性を追求した切り詰められた空間が、その後のプログラムの変化に対応できなかったのかもしれない。ともかくモダニズム建築の一画を担ったロシア構成主義の建築が、80年以上を経てモダニズムの「計画」の限界を体現しているように見えたことは確かである。

では、2011年の現在にタフーリを読み返す意義はどこにあるのだろうか。1990年代の社会主義諸国の解体は、マルクス主義が主張しモダニズム思想がめざしたトップダウンの計画の不可能性を証明した。それはポストモダニズムが主張する「大きな物語」の失墜と並行している。タフーリの一連のモダニズム批判は、その理論的背景を明らかにしている。それは社会主義諸国がめざしたような「球=計画=物語」は単一で巨大であってはならないこと。しかし同時に1980年代以降の新自由主義経済の世界的浸透が主張したような自由放任的な「迷路=カオス」は、結果的に多国籍資本の巨大化をもたらし経済格差を拡大するだけであることを示唆している。正しい答えはおそらく「球と迷宮」の中間、あるいは両者を止揚したところに存在するはずである。

東日本大震災の復興計画は、その試金石となるだろう。今回の震災は地域を越えた巨大なスケールの災害だったために、国家レベルでの復興政策が不可欠である。しかしそれは決してトップダウン的に進められるべきではなく各地域の自主的でボトムアップ的な計画の統合によって支えられるべきである。復興計画においては、生産施設の再建のみならず、住居の再建を中心に置くべきである。震災の復興は、住居の再建を生産に結びつけることによって加速するだろう。「球と迷宮」は対立しているのではなく、相補的に存在している。計画があるからこそカオスが浮かび上がるのであり、カオスが浮かび上がるからこそ、さらなる計画が推進されるのである。今回の震災復興は、新自由主義思想によって長い間抑圧されてきたモダニズムの計画思想の回帰をもたらすことは間違いないように思われる。

12/15

鈴木博之 第12信

石山さんのメッセージ、興味深く拝読しました。磯崎さんを論ずるについては、このゼミを有料化せよという意見は、なかなかに過激で興味深く思いました。けれども、だいたいネット上の言説はだれでもアクセスしようと思えばアクセスできるところに意味があるので、「読みたければ(知りたければ)金払え」というだけが解決でもないでしょう。

むしろわたくしの場合は(ブログなど開いていないものですから)、他で書いたものを、ここに転載することで、無料なるが故の範囲の拡大を考えたいと思いました(何の範囲が拡大するのかは、定かでなないのですが)。

「この一年

今年の建築界は、三月十一日の東日本大震災を体験することによって、それ以前の世界とはっきり異なる次元に入った。生活の基盤としての都市や建築がもろくも流されていってしまったとき、建築家たちは自らのあまりの無力に茫然となった。今年は建築作品の竣工によって記憶される年ではなく、三陸地方の破壊によって記憶される年となってしまった。建築家たちは自らの仕事を通じてどのように震災を受け止めているのか。

伊東豊雄や妹島和世らは「帰心の会」をつくり被災地への建築的支援を試みはじめた。また坂茂は紙管を用いた避難所の間仕切りシステムを提供し、難波和彦も被災者のための住居モデルを提示した。さらには石山修武や安藤忠雄は「鎮魂の森」計画によって復興の拠り所を造り上げようとしている。建築という職業の専門性を通じてどのような貢献ができるか、彼らそれぞれにとって正念場である。

建築家たちの国際組織であるUIA(国際建築家協会)の世界大会が東京で開催された。日本建築家協会が悲願としていた世界大会の招致が実現したのだったが、震災が大きく影を落とした。さまざまな会議や付随行事が開かれたが、やはり東日本大震災後の日本のあり方を問う企画が多くの注目を集めた。都市の物理的存在形式、都市エネルギーのあり方など、原子力発電所事故を含めて、未解決の問題があまりに多すぎるのが現状である。

こうしたなか、東京の六本木ヒルズにある森美術館で「メタボリズムの未来都市」展が開かれた。メタボリズムとは、一九六〇年代の日本で起きた建築運動であり、若手であった黒川紀章や菊竹清訓らが大胆な建築イメージを提示して、日本の現代建築が世界のなかで注目されるようになっていった運動である。いまこの展覧会を見ると、建築にも都市にも未来への希望が満ちていて、まぶしいほどである。しかしながらこの時期から日本の建築は、大きな世界観を失い、技術主義的な現実路線に入っていったように思われるのである。そしていまや、世界観や都市理念を語る建築家はいなくなってしまった。大震災があらためてわれわれに都市のあり方を問いかけているのであり、そのなかからポスト・メタボリズム時代の都市観が生まれることを期待したい。汐留のパナソニック・ミュージアムでは一九世紀末ウィーンに起きた「ウィーン工房」に関する展覧会が開かれて、装飾が生活全体に対して総合的な豊かさをもたらしていた時代の建築、家具、インテリアが示された。ここにも豊かな時代の香りが漂っていた。

六月に韓国との関係を大切にした建築家伊丹潤が亡くなり、十一月には大手設計事務所である日建設計の中心的建築家として東京のパレスサイドビルや中野サンプラザビルなどを手がけた林昌二が亡くなった。また、都市計画学者であり、若い頃は評論も手がけた川上秀光も九月に亡くなった。時代は大震災だけによってではなく、移ってゆく。」

つづいては、今年読んだ本から

1.東雅夫編『小川未明集』(ちくま文庫)

東日本大震災の後、小川未明の「赤い蠟燭と人魚」を読みたくなり、家にある未明集など見たが収録されておらず、この文庫を買った。ある村の衰亡の歴史なのだが、わたくしのなかでは、津波によって崩壊した村の運命とこの物語には、つながる部分があるように感じたのである。

2.鎌田慧『六ヶ所村の記録』(上下)(岩波現代文庫)

これも東日本大震災に触発されて読んだものだが、かつてむつ市の調査を行ったとき、そこにいたる六ヶ所村の異様な近代的風景を思い出した。原子力船「むつ」、「むつ小川原開発」など、夢を振りまく開発計画が、最終的には原子炉からの廃棄物処理施設の集中する地区になってゆくプロセスは、まるきり澱みのない歴史の流れであるかに見えて、唖然とする。日本の近代とはなんであったのかを深く考えさせられる。

3.ポール・カートリッジ(新井雅代訳)『古代ギリシア 十一の都市が語る歴史』(白水社)

ギリシア都市の歴史を語りながら、時代の変遷をたどるという構成の本である。クノッソス、ミュケナイからはじまり、アテナイ、テバイ、アレクサンドリアなどの都市が語られる。マッサリア(いまのマルセイユ)などという都市も含まれていて、ギリシアがいかにヨーロッパに広く勢力を張っていたかが知られる。都市の消長の理由、その伝統の継承とは何かなど、多くを教えられる。

4.ジェフリー・スコット(桐敷真次郎編著)『ヒューマニズムの建築』(中央公論美術出版)

二〇世紀前半の著作の翻訳であるが、解説と注記がかなりのボリュームを占めていて、それが興味深かった。特に著者ジェフリー・スコットの評伝というべき解説は、バーナード・ベレンソン、メイナード・ケインズからブルームズベリー・グループにいたる多彩な群像が現れて、そのなかを泳ぎ回ったスコットの特異な個性が浮き上がって面白かった。しかし六万円以上というこの本の定価は、常軌を逸しているのではないか。

5.鈴木杜幾子『フランス革命の人体表現 ジェンダーからみた二〇〇年の遺産』(東京大学出版会)

時間をかけてまとめられた名著である。」

つまり、ここでわたくしは金をとって読んでもらう文章をただでぶちまけたらどうでしょうといいたいのです。文章にはいつも、幾ばくかの楽屋落ちがあるものですし。無論いつもそうしろというわけではなく、有料じゃなくてもいいじゃないかといいたいだけのことなんですが。

妄言多謝。

12/14

石山修武 第23信 「磯崎新について」

Xゼミナールをサイト上に開いて、今は休業状態である。何故休業状態に停滞したのかを先ず考えてみる。同人誌の如くは三号雑誌で終わるのが常である。Xゼミナールもその手合いかと考えれば、それ程に大仰に考えるのもおかしい。同人誌の大方は経済状況により自己破綻する。

でもXゼミナールは電子システムの上に完全な砂上の楼閣として想定されているので、経済は壊れようがない。それぞれの労力以外は一切が0コストである。ここのところが先ずは停滞の大きな原因であったのではないか。

Xゼミナールに真っ当に書いても、誰もが0円で読んでしまうので、書いた者にも当然のことながら一銭にもならぬし、読者にも一切の負担がかからない。だから60代も半端を過ぎた大のジイさんが三人寄ってたかって、ああだこうだとやり合っているが、大方にとっては不可思議なモノに視えたのであろう。タダで書いてタダで読まれるモノに人間はまだ価値を見出すには至っていない。というよりも社会がそういう仕組みになってはいない。

これはかつて1968年にピークを示した学生たちが幼いながらの、それ故の理想論として示した考えの老残である。

マルクーゼのエロス的文明を要約すれば、実にこれ迄Xゼミナールでやってきたタダ書き、タダ読みの世界そのものなのだ。労働の深い構造を持った本体についてはジョン・ラスキンやウィリアム・モリスがすでに指摘していたが、マルクーゼやルフェーブルの論も又、その延長上にあると考えられぬものではない。

ただ、そこに余暇の考えをすべり込ませた。余剰な生産が余暇を産み、それがエロス的文明の基底になると言った。

でも、われわれが少しは続けたXゼミナールは自分にとって少しもエロスを感じさせなかったし、ユートピアへの匂いも嗅ぐ事が出来なかった。恐らくわたしが鈍かったのだろう。

こんな言わずもがなを敢えて述べるのは、磯崎新がその「アート、アーキテクトは事件を作品化できるか」と命名されたプロジェクトプレゼンテーションの冒頭の定義に於いて、「アーキテクトは体制中に本来的に在るので体制(権力)に近接する、それに対してアーティストは体制に属しにくい存在形式である故に、体制に属し難い」ー資料が手許に無いので精確ではないけれど、その様な事(少しニュアンスは異なるが)を言明している。

しかし、再び言うがXゼミナールへの寄稿の労働はまさにエロス的文明であり、ユートピア便りの側面も又、その労働の構造自体が所有していた。読者も又、確実にその世界に入浴していたのである。

それが停滞の一因である。我々はまだタダで書き、又タダで読ませるエロスを感得するに至ってないのだ。

それをハッキリと知らしめたのは、やはり東日本大震災であった。

この大災害に際して、いかにもXゼミナールのやり取りはユートピア便りであり、エロス的文明であった。

大震災がXゼミナール停滞の第二因である。

深く面白い事をやっていたのだが、やはりその面白さは大災害を前にして、ヒマ持て余したジイさんの遊び。まさにその通りなのではあるが、それを絵に描いたモチの如くに露出したのである。

そこで鈴木博之、難波和彦両先生に先ずは申し上げようと思うのだが、再スタートするであろうXゼミナールは有料にすべきでしょう。わたしも何度か言われた事があるのですが、読者は少なくとも、読む事に何がしかを支払うべきでしょう。多額ではなく、ネットなりの小額でも支払っていただくのが良いのでは。いかがでしょうか。

わたしの先を視るに愚かな眼には、これも又当然の事ながら「磯崎新について」の一番の読者は当の磯崎新さんになるでしょう。又、そうしなければ意味もない。そして出来得れば当の磯崎新さんの寄稿だって想定しなくてはいけない。

そんな枠組みを考えた時に、これは現実界にタダ乗りはあり得ないでしょう。

先ずはその辺りを難波和彦さんにおうかがいしたい。

いかがでしょうか。

やっぱり本格的にやるには下部構造をはっきりさせた方がよろしいと、わたしは思います。

2011年12月14日 

石山修武

作家論・磯崎新 第2章

作家論・磯崎新 第1章

石山修武
石山修武研究室
鈴木博之
難波和彦
難波和彦+界工作舎

X SEMINAR, Mar-Jul 2011

X SEMINAR before 3.11