作家論・磯崎新 第1章

石山修武研究室

石山修武

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石山修武第76信 作家論・磯崎新40 漂泊8

 作家と呼びたい生のスタイルを持つ者には老年になってから初めて指摘できる如くの、軽く言えばライフスタイル、重く言えば存在の持続形式がある。若くして亡くなったり、生の途中で創作を中断したりとは明らかに作家としてのその生への考察を別にして考えねばならない。

若くして亡くなったイタリア未来派のサンテリアや、ロシア構成主義のレオニドフと磯崎を同じ種族の創作者として考える事は困難である。サンテリアは小さな農家の実作があるだけだし、レオニドフだって似たような者に過ぎぬ。しかし彼等は明晰極まる建築的ヴィジョンのアンビルト、すなわちドローイング、計画案の類を残した。そして、それ等によって世界の建築史の一部を構築する者として残り続けている。おそらくは、これからも未知なる未来を構築するエレメントとして再利用され、参照され続けるだろうと思われる。

磯崎新は2013年春現在、制作を持続している。少なくとも、彼の組織はそのように動いている。だから、磯崎新の一生を見渡しての論述はまだ不可能である。そして、それにはさしたる意味も無いようにさえ考える。磯崎新はまだ変化するのではないか。おそらく、過去形のスタイルで書くのは出来ない、という恐れとも期待ともつかぬ矛盾した感情が奥深くに澱む。つまり、磯崎新の、人間誰にでもある生から死までの一生を俯瞰しても、さしたる意味は無さそうだ。過去形での書き方も不安だ。つまり80歳の年齢を超えてなお磯崎新は変化の兆しを見せるのではないか、あるいは見せて欲しいものだ、が作家論・磯崎新の全てではないが、ひとつの眼目でもある。作家としての磯崎新はその生の一刻一刻の断面こそに真骨頂がある。変化を続けるその断面に作家としての真実を視る必要がある。

 

少し飛ぶ。非磯崎WORLDへ出よう。

 

タクラマカン砂漠の入口、西域シルクロード敦煌へ寄り道する。敦煌莫高窟は五百を超える洞穴が掘られ、多くの壁画が人工の洞穴内に描かれている。インド・デカン高原には石窟寺院として著名なアジャンタ、エローラの洞穴寺院群があり、ボンベイにはエレファンタ島の窟院群がある。いずれも仏教、ヒンドゥ寺院として掘られた。韓国吐含山には美しい石仏の座す石窟庵がある。吉本隆明が磯崎新に問いかけた、何かを掘り込むような空間とはより具体的にどのような形式を想定すればよいのかまだ今は不確定ではあるが、岩山を刳り貫き、数世紀に亘って空間を堀り続ける形式は現実に存在する。

が、しかし、インドの代表的な窟院=洞穴建築は、岩山を掘り抜く、ノミで穿つ際に、その穿つためのモデルとして木造の建築らしきが想定されていたようだ。だから、それは詩人でもあった吉本隆明が詩人の特権でもある直観のみでポツリと洩らしたイメージを具体化したのもではあり得ないであろう。けれども数十年前の対談の、その断片は忘れることが出来ない。

高名な思想家の詩的断片に取りすがろうとしているわけだが、これは非論理的であるとのそしりはまぬがれ得まい。だが作家論をどうしても書き残したいと考えるわたくしは厳然として居る。たとえそのわたくしがイカモノ、マヤカシの類でしかないとしてもだ。何故なら、わたくしも又、作家たらんと志しているからだ。そのあたりの事はとやかく言うに憚る。しかし、わたくしも作家であろうとしている人間ではある。

言語外の表現、つまり建築物を中心としての表現が、今のところわたくしのかろうじてのアイデンティティであろう。そう自覚している。世間がどう考えてくれているか、あるいは考慮の外であるかはそれほどの問題とするに価しない。それも又、そう自覚しているので問題にはならぬ。

作家としてのわたくしの身近な目標らしき、すなわち戦略は、磯崎新の概念を借りればアンビルト、わたくし自身の言葉で呼べばドローイングがそのひとつとなる。どうしても作品の数が少ないわたくしには大事極まるものでもある。作家論・磯崎新に附している便宜上の番号36に附しているドローイングの類である。あるいは番号39に附している別種のドローイングの類でもある。

ドローイングの類で建築の世界史に残るモノの数は決して少なくはない。たとえば、ピラネージの銅版画などはその最たるモノのひとつである。

 

磯崎新の肉筆、つまり本物(オリジナル)の手描きのドローイングは在るにきまっているが、実物を手にする事はまずは無い。大意識家の磯崎であるから、おそらくはそれは用心深く避けられている。それというのは他人の眼に触れられる事を。磯崎新のドローイングの類は全て複製品である。シルクスクリーンによる建築作品のレプリカと呼びたい類。石版画、リトグラフ、線刻版画の類、あるいはコラージュと、ほとんど全てが複製品である。そして、それが意図的でもある。

わたくしの、このウェブサイトに意図的に垂れ流している文章のオリジナルは手書きのモノだ。原稿用紙に新型のボールペンまがいのペンで書いている。何故か?それでないと上手く書けない。文章が上手くのびてくれない。スタッカートの如くに切れ切れになってしまう。それに、書いていてそれほどに楽しくない。原稿用紙に変な新型ボールペンまがいで、ます目を埋めてゆくのが実ワ楽しいのである。我ながら字体らしき、すなわち書きつけている字の姿はみっともないくらいにまずい。不格好極まる。でも書いてゆくスピードらしきがわたくしの頭脳の回転速度に見合っている。丁度よい。そして時々読み直して、赤ペンでさらに用紙を汚ならしく汚して校正したりがおもしろいのだ。だから手書きで字を書くことは止められない。

磯崎新の、あの膨大に残されつつある書き物の言葉も又全て手書き文字で書かれたものであろう。想像するしかないのだが、おそらくは字を書くのが好きなのだろう。そして字を書く速力が磯崎新の思考速力にピッタリと合致しているのだろう。知る限りでは磯崎新の思考力の独特さはイメージの豊かさや、飛躍力にその原泉があるのではない。実に緻密極まる構成力、自己内編集力というべきにある。脳内を覗き込むわけにはゆかぬが、その自己内構成力は、これは常人の域をはるかに超えている。ひとつひとつの思考の断片は、つまり単位はそれほどにおもしろくはない。ヘェーッと仰天するほどの事はない。しかしそれが組み合わされて並べ立てられた時には別種のモノに仕上がってくる。つまり自己内編集力の妙である。それが驚くべき速力で成されている。アイデアの断片は道ばたの石コロみたいなモノかも知れぬが、それがアッセンブルされると宝石のネックレスに視えてしまうに似ている。あらゆる大秀才の基は記憶力であり、それに尽きる。そして並の秀才のつまらなさもそれでしかないのだが、磯崎新に大の字、大秀才をかぶせなくてはならぬのはその記憶の数々が時にスパークして驚くべき組合せを脳内に出現させる事である。

孵化過程に於けるギリシャ神殿の廃墟の瓦礫と、コンラッド・ワックスマンのスペースフレームまがいとの組合せの如くに。単純に言えば孵化過程のドローイングはコラージュに過ぎない。シシリアのアグリジェントの遺跡の写真の断片に、これは珍しく手描きのテクノロジカルな光景が組み合わされた、マア、言ってみれば素朴な複製技術時代のブリコラージュである。おそらくは小さなハサミと、そこらにころがっていたノリと、いささかのペンとでほとんど瞬時に成されたモノである。

しかし、このドローイングにはサンテリアやレオニドフ等ロシア構成主義の建築家たちの歴史的達成群には無いなにものかが歴然としてある。

時間としての歴史が瞬時に編集されている、その脳内速力からそれは生まれている。

「万博の頃はよくいろんな事を覚えていた。一週間の超過密なスケジュールもみんな覚えていたからなあ」

記憶は曖昧だが、珍しくなにごとかの記憶らしきがすぐには出てこない時に、フッと洩らした言葉である。

 

磯崎新にとって創作とは記憶の組合せの如くではないか。

記憶を別の言葉で呼べば情報であるか。歴史をも含めた情報の体系らしきとして、何か固まりのようなモノ、岩山のようなどんより重い質量を持つモノとして磯崎は情報を幻視し続けてきた。

何時頃からか、恐らく’70年大阪万博のお祭り広場を丹下健三の傘の下で担当していた頃からだろう。当時はサイバネティクス理論等を引いていたけれど、今はそれが情報そのモノであった事が知れる。そして、詩人としての吉本隆明はその情報の固まりのようなモノを刳り貫いたり、彫ったりするような空間らしきはないのだろうかとつぶやいたのではあるまいか。

いよいよ論は過去を振り返るばかりではなく、磯崎の明日に向かって書かれてゆくだろう。

それが作家:磯崎新の類まれなる特権でもある。視えない都市に非ず、視えにくい明日を刳り貫いてみる努力だけはしてみたい。

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石山修武第73信 作家論・磯崎新39 漂泊7

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石山修武第71信 作家論・磯崎新38 漂泊6

若い磯崎新が吉本隆明と対談した事があった。確か美術手帖誌であったか、思想分野のメディアではなかったと記憶する。

今でも鮮烈に記憶に残る発言があった。吉本隆明の側からであった。不正確な記憶を復元してみたい。

吉本はこんなふうに磯崎に問いかけた。

空間のつくり方ってのは、組み上げたり、積み重ねたりするモノですね。でも、何か在るモノを刳り貫いたり、掘り込んだり、する、そんなつくり方のイメージはないものですかね?

その問いに対して磯崎は答えなかった。多分、答えられなかったのである。当時からすでに磯崎新は建築を巡る思潮の日本の最先端に位置していた。衆目の一致するところであったろう。建築にジャーナリズムがあるや無しやは今でも疑問ではあるが、当時から建築史家は近現代建築の動向らしきにはほとんど発言する事はなかった。建築評論家、批評家としたら、浜口隆一、神代雄一郎、平良敬一、そして川添登、長谷川堯等がいたが、純然と建築評論、批評だけで生計をたてられる人物はほとんど皆無に近かった。美術館には学芸員、キュレーターが当初から存在していたが、近現代建築の博物館、資料館の如くが不在であったから、学芸員、キュレーター的職種、すなわち建築批評家が自立し得なかった。多くは大学の教職との兼業的な分野での活動であり、あるいは商業雑誌の編集者でもあった。

米国でのMoMAあるいはグッゲンハイム美術館の如き存在が無かったから、フィリップ・ジョンソンも又、日本には存在し得なかったのである。アメリカの現代建築はフィリップ・ジョンソンと共に廻り、そして推移した一面があるのとはまるで相を異にしたのだ。アメリカの主要美術館の意図すなわち基本的な戦略構築は、ヨーロッパに対する文化的新興国である自覚を礎とした。歴史の薄い文化国家の性格から、現代美術、そしてそんな大局としての把握戦略からフィリップ・ジョンソン、ヘンリー=ラッセル・ヒッチコック等によって現代建築にもスポットライトが当てられてきた。アメリカは対ヨーロッパ、かつての宗主国でもあったイギリス、他の国々への文化的対抗策として現代美術・建築への関心を傾注させたのであった。それは合衆国自体のアイデンティティに属する性格のものであった。

日本には文化をそのように捉える国家的戦略のそのような骨格が無かった。明治維新による急速な富国強兵、脱亜入欧の脱日本、脱アジアが国策となり文化的骨格と同一になる苦汁を呑んだ。それはアメリカとの太平洋戦争の敗北により、文化のアメリカ化へと傾れ込み、アメリカの占領政策によって導かれたのである。大きな陰画としての脱日本が国策としての軸になった。世界史的視野に立てば、磯崎新の脱日本思考は、実にヨーロッパの、端的に言ってしまえばアメリカの国策に合致するものではあった。

磯崎新の漂泊を小林一茶や山頭火の俳句から考え始めたけれど、その漂泊はかくの如くの大きな地政学に属するモノでもあった。

 

吉本隆明の若い磯崎新に対する問いかけに戻る。吉本隆明は戦後の日本を代表する大きなスケールの思想家であり、評論家であった。それは改めて言う迄もなかろう。そして、同時に詩人でもあった。

この若い磯崎新への問いかけは、むしろ詩人としての吉本隆明の直観から生み出されたものであろう。戦後の日本では思想と詩は幸福に合体するモノではない。より広範な言語世界に属するが故にそれは物質の質量世界の産物の鈍重さとは比較にならぬほどに戦後文化の脱日本、脱固有性=自律性とはほど遠い、凄惨でネガティブなアナーキーさ、空虚さの中に漂うモノではあった。

吉本隆明の問いをこのように翻訳してみる。作家論を少しでも進めるための我田引水でもあろう事は自主的に差し引いていただきたい。

ヨーロッパ建築史の如くに積み上げる、すなわちヨーロッパ的構築とは異なる、すでに存在する何者かを掘り込む、切り刻む、彫琢するというような空間の概念はないものかな?

詩人としての吉本隆明の率直極まる問いである。この対話を誰が企図したのかは知らぬ。しかし、当時、勢いのあった美術誌に建築畑から越境していた気鋭の、しかもほとんど唯一の文化的多領域にまたがる才質の持主であった建築家・磯崎新に、もともと多面体であるを旨とする思想家をブチ当ててみようというのは実に自然であった。しかし、この詩人・吉本隆明の問いかけに磯崎新は答えなかった。おそらく、磯崎自身が考えてもみなかった問いかけであったのだ。だから答えられなかった。

知る限りでは、ほとんど唯一、磯崎が答につまった、あるいは答を保留せざるを得ない問いであったはずだ。

一般的に思想家は視覚芸術に無関心か、あるいはむしろトンチンカンな者ではあろう。

 

吉本隆明には印象的な劇評がある。唐十郎の状況劇場が絶頂期であった頃、その代表作とも呼べる『唐版・風の又三郎』の劇評である。吉本は演劇の明らかに最先端であった唐の代表作を観て楽しみ、こう述べた。唐版・風の又三郎はその本歌である宮沢賢治の風の又三郎に及ばない。その放課後の不在とも呼ぶべき恐怖にはるかに届いていない、と。吉本隆明は方法としての引用の不能を言ったのではない。しかし、唐の小劇場での表現が世阿弥の能、そして古典芸能、すなわち芸能のルーツである狂言らしきを直観的にベースにしながらも、さらに日本近代では最も汎世界的な詩人でもあった、宮沢賢治の名作を引用してもなお、その創造のオリジンには届いていないと言い抜いたのである。

柄谷行人は唐十郎の仕事について、書物の如くにテクストとして読む劇作、書物としての演劇の新しい価値に触れている。演劇は演じられればうたかたの如く消えるだけのモノでもないのはすでに自明でもある。

 

高度な批評力をもつ人間の全てがデザインへの無知、視覚芸術音痴という訳でもあるまい。詩人としての吉本隆明の問いは磯崎新の中でどのように受けとめられたのか、あるいはそれは元々、答えられぬ類の問いであったのか。

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石山修武第70信 作家論・磯崎新37 漂泊5

磯崎新は転形期の作家である。そして日本の歴史が数次の転形を経てそれでも受容の持続として形成されてきたのに意識的でもあった。転形期は曖昧な集団的主体らしきが、外から、つまり他者から揺り動かされる事によって、受容的な連続であるという歴史が切断される時期の事である。

鋭敏な作家はそんな時代に漂泊を続けざるを得ない。全ての表現領域にそれは通じる。時代に溢れ返る転形期特有の価値観の不統合に敏感だからだ。特に日本という場所に於いては。磯崎の桁外れの俗に言われる情報通振りは、アンテナの鋭敏さは、自身の営為に対する位置への好奇心の連続であり、新しモノ好きの平板とは異なる。時間に対する震えるような受容的態度の表れとも言えよう。これも又、日本近代の作家の典型に固有な性格である。

作家論の冒頭の足掛かりに磯崎の歴史研究への好奇心を指摘した。又、建築史家達の若い磯崎の才質に対する同様な好奇心についても述べた。

磯崎新は日本のみならず世界の建築界に於いて常に陽の当たる場所を歩き続けてきた。それを自身が望んだのだから、その企てはある意味では、そして水準に於いては成功したと言うべきだろう。しかし、微細を眺めれば、同時にその成功者特有の位置取りからも怜悧な漂泊の行動をとり続ける不可思議を見落としてはならない。ここに磯崎新を作家と呼ぶ要がある。

つまり、磯崎新には建築家としての成功とは裏腹ともいうべき、そこからの漂泊、離脱の本能と呼ぶしかない行動形式があるのだ。すでに述べたヴェネチア・ビエンナーレでのオウム真理教麻原彰晃まがいの空中浮揚パフォーマンスはそのひとつであるし、他に例えを挙げれば暇もないぐらいではある。

 

若い時代のキューバ革命の成功からのこれも又、巨大な漂泊者であったエルネスト・チェ・ゲバラへの一時期の傾倒振り。おそらく2013年の今もヒーローに違いない、東征、文化大革命の毛沢東はいざ知らず……。2011年の東日本大震災後、最近のプロジェクトのひとつには9. 11 NY、WTC自爆テロの主犯者としてアメリカ軍に殺されたオサマ・ビン・ラディン迄。トリックスターではあるまいかと、いぶかしむぐらいに、過剰にアメリカ資本主義への違犯を演じてみせる。安定した社会的存在であるべき建築家、しかも日本のリーディング・アーキテクト群を代表すべき存在としては、常識的にはあるまじき行動の数々ではある。

かくの如き、建築家とはいえ、その行動の自己表現らしきを許し続けたところにも、近代日本固有のルーズさと言う他はないブカブカな非論理的思潮への放縦さは確然としてある。言説とはいえ、確固たる政治的体制に対する違犯を繰返す知的存在に対して、日本という枠組は知らんぷりをきめこみ続けた。このルーズさは世界史的には歴然と奇異なモノではある。そのルーズさにも磯崎新は意識的であった。それは括弧つきの意識ではあるけれど。

 

そんな日本のルーズさにもっとも過剰に反応した作家が三島由紀夫であった。三島は割腹自決直前ともいうべき時期に武田泰淳との対話でこう述べている。

1970年11月、文藝誌初出、対談「文学は空虚か」

三島 僕はいつも思うのは、自分がほんとに恥ずかしいことだと思うのは、自分は戦後の社会を否定してきた、否定してきて本を書いて、お金もらって暮らしてきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。

武田 いや、それだけは言っちゃいけないよ、あんたがそんなことを言ったらガタガタになっちゃう。

中略・・・・・・

三島 でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうこと言わなかった。

中略・・・・・・

武田 それは自民党の代議士だってね……もう決定しちゃうね。だけど文学をやっていれば、いちおう決定しないですむ、というような風習が日本にある。

三島 あるんだよ。それは日本ばかりじゃない、僕はヨーロッパから来た風習だと思うよ。日本だったら決定していますよ。明治維新までは。それは、ものを書く人間、詩をつくる人間、それから少なくとも文章を書く人間は決定してますよ。だけど、いまの日本じゃ、非常にヨーロッパ的になったんです。つまり、ものを書く人間のやることだから、決定しないですむんだという考えがある。僕はとってもそれがいやなんだよ。

 

三島由紀夫の直後の自決という歴史もあり、実に濃密な対話である。

対話は、三島由紀夫の、また神韻縹渺たるところに来ちゃったな、に対して武田の諸行無常と文武両道だからな。で締めくくられている。

表現行為の結果としての、建築は巨大な質量をもつ物質の固まりである。言説、すなわち両人が語る文学とは異なるというのは、実に楽な事であり、愚の骨頂である。質量をもつ物質の固まりを生み出す、そもそもの設計行為の始まりは常に言説による思考が出発である。少なくとも、それが日本近代の作家と呼ぶに足る建築家の特権であり、矜持でもあろう。

磯崎新の言説の総体はそのような特質を潜在させている。そして、磯崎もそれを一部自覚しているのである。

磯崎新的決定は、日本国の国家的肩書とも呼ぶべき栄誉らしきの、柔らかく言えば非受容、有り体に呼べば拒絶という行動形式に表現される。文化功労賞、芸術院賞からの意図的逃亡の形をとる。

これは実にわかりやすい磯崎新的文武両道なのであり、実に漂泊なのである。三島由紀夫は保田與重郎等、日本浪漫派の思考を、自決という最終的な行動において、ようやく乗り超えた。

磯崎新を大量に良質な建築的エッセイ、すなわち言説を吐き続ける建築家として捉えるのは誤りではないが、あまりにもその可能性を矮小化する事にもなる。設計という形式においてその言説の全てを表現し得るというわけもない。あまりにも多量な著作を残し続けている特異な建築家なる形式は、それ自体の形式を新種の「作家」として把握する可能性があるのだ。その可能性こそが磯崎新の漂泊が指し示しているモノであろう。

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石山修武第68信 作家論・磯崎新36 漂泊4

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石山修武第67信 作家論・磯崎新35 漂泊3

磯崎新が生きているそして、生きてきた時代について考えたい。磯崎新の創作が漂泊の骨格を持つと断じ始めている。何者からの漂泊なのだろう。先にも述べた如くにこの論述には作家論のタイトルが冠してある。何故、敢えて磯崎を建築家と呼ばぬのか。勿論、これは意図の極みである。

磯崎新を作家と呼ぶのは、そう呼ばせるのは彼が日本の戦後を色濃く身体に染めた人間としての骨格を持つからだ。並の日本の建築家は彼が生きる時代の産物ではあるが、それでしか無い。丹下健三にしてさえそうだ。戦後、つまり昭和19年生まれのわたくしもかろうじて、その大戦の壊滅的敗戦の名残りを少し計り記憶している、日本近代の歴史の大骨格である。太平洋戦争は第二次世界大戦でもあり、世界が戦争一色に染め抜かれた大変革期であった。又、その大変革期とも言うべきは日本史に特有の革命に非ざる転形期と呼ぶべきであろう。他者からの受容的転形の歴史が日本の歴史そのものであった。その最大級なのがアメリカ相手の太平洋戦争であった。

戦争は国家間、民族間の巨大でリアルなコミュニケーションでもある。力と力との相互浸透でもあった。磯崎新が属する日本の文化領域にもそれは典型的に露出する。相互浸透と呼んでも戦争には勝ち負けがある。日本は秀吉の朝鮮の役の戦い以来、そしてそれとは桁外れの大敗を喫した。蒙古襲来の際の神風は吹かなかった。国土を全て失ってもおかしくは無かったが形の上では国土らしきは残された。地理学上の領土は残されたが、文化的なそれは完全に破棄された。米軍による兵力による占領の事実以上に文化、そして精神、思想らしきは一色にアメリカ型民主主義らしきに塗りつぶされたのである。アメリカは広大であり、その文化も多民族の多様を所有しているが、日本が大戦に於いて先制攻撃を仕掛けたパールハーバーを持つハワイイを含む、アメリカ西海岸、つまりはアメリカの新開地と同様の文化に染め抜かれたのである。端的に言えばアメリカ西海岸の一部となった。端的に言えばアメリカは戦争をきっかけにして、固有の文化を持つハワイイの占有を西に更に延ばして島国日本も又、占有したのであった。

わたくしの師であったエネルギーコンサルタントの川合健二。彼は磯崎新の建築設計の師であった丹下健三の初期の仕事の建築設備の分野でのパートナーであった。川合はエンジニアリングの世界ではR・バックミンスター・フラーの思考を更に研ぎ澄ませた様な処があった。フラーの最も独特な思考でもあった海からの思想らしきを身につけていた。それは徹底したプラグマティックな思考でもあった。彼は経済的に、特に物流技術を介してアメリカ西海岸は日本の一部である、そう考えて行動せよとわたくしに教えた。例えば空輸に於ける大型ジェット機。そして海運に於ける大型コンテナ船の出現は商品としての物体の流通を汎太平洋世界のモノとして転形させたと考え、アメリカ西海岸の諸物は日本の一部として認識すべきだとした。彼はそれを実行した。そして丹下健三の初期の設備機器をアメリカ製品で満たしたのであった。

しかし、その考えは海を中心にした考えではあったにせよ、アメリカの側から視れば日本の東海岸の諸都市はアメリカの市場の一部であると全く同義であった。その考え方の方が実に自然であったのだ。太平洋戦争のそもそもの始まりは狭小な国土に人口の多い日本の初期工業化=近代化の当然な成行きでもあるエネルギー資源、主要原料の日本国外からの調達の不可避によるものであった。日本はその地政学的現実からも性急に東アジア、南アジアへの進出を試みた。ヨーロッパの主要諸国が世界に植民地を求めた如くに成そうとした。太平洋戦争の始まりはアメリカのフィリピンの植民化、ヨーロッパの東南アジア植民地化、そして中国大陸でのそれを目的とした戦略との軋轢でもあった。

 

地球的規模で地政を考えるならば世界は不断の大小の戦争状態にあり続ける。

 

建築様式の変遷、そして移入伝播の歴史的現実も又、それと同様である。ヨーロッパ建築様式の一種別であるバウハウス・スタイルに代表される近代建築様式は、世界大戦によりアメリカに移植された。日本と同じに敗戦国となったアドルフ・ヒトラーのドイツからの亡命建築家達によってそれは成された。21世紀初頭、アメリカはソビエト連邦の崩壊により世界覇権を成し遂げた。同様に文化の総合的装置としての建築様式も、ほぼ世界的規模でアメリカ文化化している。世界諸国の文化流通の道具でもある大型ジェット旅客機の大半はアメリカ製品でもある。それと同様に実ワ、建築様式も製品を枠付けるモノとして在り続けている。輸出無し、輸入専門商社の如くであった日本は、世界でも突出した異形のアメリカに今はなりおおせている。

 

磯崎新の建築、そして言説の営為も又、その様な地政学の上でのモノである。他の何者でもあり得ない。そして、その漂泊はそんな意識からの性急な、それ故に強い形を持たざるを得ない自由への意志から生み出されるモノであろう。それ故にこそアメリカ型民主主義=グローバリゼーションのストリームの中では異形なモノにならざるを得ない。

 

日本が世界に開国したのはペリー提督の黒船来航の明治維新より以前に遥か遡行する。網野善彦によれば鎖国されていた江戸時代にも小型船舶は朝鮮半島、中国大陸沿岸、南島の先台湾、そして東南アジア沿岸諸地域とは流通の事実があるようだ。しかしそれはフランシスコ・ザビエルやフロイス等の宣教師達の伝来と同様な、あるいは表舞台の歴史の背後に潜伏した伏流の様相を呈していた。

歴史が際立つ、すなわち現実を誰の眼にも歴然と解る程に露出させるのは、戦争の如くで在り続ける。

 

磯崎新の漂泊は個人の思考・表現・行動の総体として統合されようとする結果である。それは定点に停まる事をしない。あるいは出来ない。何かにせかされるように漂泊を続ける。

その始まりは故郷九州から上京した折に初めて眺めた富士山の不気味さであった。その告白には磯崎新が既に磯崎新を演じているきらいが無くはない。しかし演じようとする意志も又、現実の身体なのである。富士山に天皇制のシャーマンの、日本的なるものの、自然の表象を視たと言いたいのやも知れぬが、それは先にゆずろう。いずれにしても、その告白は磯崎自身の個人史に於いては開国以前の体験であった。いずれにしても漂泊の原点とでも言える告白である。

次の漂泊の始まりはミラノトリエンナーレでの、初の国際的な作品発表の場の暴力的封鎖であった。磯崎新のその後の生身の表情らしきを通底する忘我の、そして自失の表情すなわち花札の役札、坊主の表情。仮面に非ずの内の日本そのモノの現実への直視から生み出される空虚そのものの露呈であった。

絶対として自身を成り立たせる相対的な環境への、それを場所と呼んでも良いのだが、場所と呼ぶには磯崎の思考の震えとも言うべきは余りにも細妙であった。その細妙さが作家と呼ばせる素なのではあるが。

2013年1月15日 石山修武

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石山修武第65信 作家論・磯崎新34 漂泊2

しばらく漂泊を続ける。作家論を書く作家も又しばしの漂泊の人である。我身を捨てた忘我の時に身を置く必要がある。我欲我執は捨てねば漂泊の身体を獲得できぬのは言う迄もない。身体脱落脱落身体である。

磯崎新の漂泊の始まり、忘我の意識の始まりは故郷九州大分から東京へ出る途次、汽車の窓から眺めたと言う富士山との遭遇であった。実に妙なモノ、恐いモノを目の当たりにしている、と実感したのを吐露している。富士山には月見草が似合うなんて言うのは大間違いだなと、太宰治の科白を否定しているのを読むと、青年期の磯崎が人並みに太宰を読んでいたのを知る。

 

かつて磯崎新のライバルであり、相互補完的建築家でもあった黒川紀章。彼の晩年は三島由紀夫の模造の如くであった。ここで図らずも黒川紀章を旧来通りに建築家と呼び、磯崎新をそう呼ぼうとしないのは充二分に意識下の故であるが、その事は先にしたい。大事な事ではある。

自身の六本木の新国立美術館に於ける展覧会に於いて黒川は見事に、三島同様の日本を演じてみせた。羽織袴の日本的装束に、日本刀迄腰にブチ込んでサムライを演じ、大きな広告媒体としたのである。たしかバックには大きな日章旗まであった。

1970年大阪万博は磯崎、黒川両人にとって、その創作のはじまりの巨大な画期であった。黒川紀章は民間パビリオン、磯崎は丹下健三傘下、まさに大屋根下で戯画的な動きを見せたロボット、そのロボットは遂に民衆の広場となり得なかったお祭り広場のすでにアイロニカルな陰の主役でもあった。勿論、大の主役は岡本太郎の大キッチュ、太陽の塔であった。

それはさて置いて、岡本太郎の太陽の塔は当面脇に置くとして、磯崎、黒川両人にとって大阪万博はその後の創作の軌跡を追うにも、実に大きな里程標であり、その後の創作の方向の岐路でもあった。創作は、特に建築表現の領域には殊更にそれが言える。建築設計はデザイン能力すなわち設計表現能力だけでは立ち行かぬ事が多い。建築は金銭、実利の産物でもあるからだ。依頼主が出現せぬとコトは始まらぬのが大半である。建築家の大半の能力はその依頼主に自分の存在を知らしめる才質でもある。依頼主は国家、自治体、経済界、法人企業、それにまたがる有力者群と多彩極まる。

黒川紀章も又、建築家としての丹下健三の振る舞いを近くで学びながら建築家としての修業時代を送った。特に丹下健三の政治権力との接近、仕事を獲得する為の政治的戦略を学習した。黒川紀章の父親は名古屋で設計事務所を営んでおり、磯崎よりは余程設計事務所経営の実利的現場には精通していた。京都大学出身の黒川が東京大学の丹下健三研究室に身の置き処を転じたのも京大よりは東大の方が、つまりは丹下健三研究室の方がより依頼主としての国家権力、各省庁官僚組織、そして政治家たちの中枢により近いと言う嗅覚が働いたからであろう。 そして、黒川紀章は関西の建築家・村野藤吾とは異なる方法、姿勢で財界へと接近してゆく。財界のみならず、それを基盤とする政治家の世界の中心近くへと建築家としての基盤づくりを進めてゆくのである。その発端が大阪万博であった。黒川紀章は東芝IHIパビリオン、タカラパビリオン等の民間パビリオンの設計に身を投じた。

それと比較するならば、磯崎新の身の振り方は鮮明な対比の姿形を呈した。黒川の行動の仕方と相対化する事でそれはより際立つものとして目に写る。 磯崎新にも有力財界、例えば三井グループ等から民間パビリオンの設計の仕事の話はあった。しかし、磯崎はそれを自分の周辺の芸術家たち、例えば山口勝弘等に、言葉は悪いが振り分けた。そして、自身は丹下健三の傘の下、日本万国博覧会場の中心であった大屋根のスペースフレームの下であんまりうだつの上がらぬ体のロボット、デメとデクの設計作業に没頭したのである。

丹下健三の傘の下で、ウロウロと寄る辺もない風情で動き廻ったお祭り広場のデメとデクのロボットの漂泊。その振る舞い自体も磯崎のデザインであったのだが、漂泊振りは充分に意識下の振る舞いであったとも思えぬが、充二分に磯崎新的漂泊、その身の振り方を示していたのである。勿論、磯崎新を評するのに漂泊の短い言葉は余りにも遠い。誤解を生みかねぬのも知る。しかし定型短詩に習い寸言を呈すれば、磯崎を物語るに実に適してもいる。

特に磯崎新にはその若年に都内新大久保、ホワイトハウスと称する木造の一軒家を拠点としてダダイストまがいの芸術家連中との付合いが良く知られており、警察にも御厄介になったようだのエピソードもある。その他諸々から磯崎新が芸術家に特有の分裂症的感性の色濃い、ボヘミアン的人格だと考える向きもあろうが、それは歴然とした誤りである。磯崎新の漂泊はボヘミアンのロマンティシズムとは遠い。むしろ漂泊はより酷薄な世界のものであり、しかも放浪の何もかもスッカラカンになる類のモノとも異なる。フロイト的父性からの愛憎半端する間への本能、距離感の一定そのものである。

建築は巨大な質量を持つ物質の固まりである。その物質を設計の呼称を持って操作する建築家は詩歌作画彫刻の芸能に近い世界の住人では決して無い。時に政治的、通常に於いては極めて実利実際の世界、むしろ商いに近い社会の住人なのだ。

しかしながら、本来その実利実際の世界の住人でもある磯崎新がその仕事の場、実利的組織に付与した名がアトリエであった。株式会社磯崎新アトリエ。すなわちプラグマティズムからの漂泊をその呼称とした。

ロボット、デメ、デクはお祭り広場で想定され演出されたあらゆる祭事の、実はシャーマン的存在であった。霧を降らせ、雲を呼び時には雷鳴の如くの音声を発した。

時に芸術家達のハプニングと呼ばれた他愛の無い自意識の固まりであったパフォーマンスも催されたようだが、完全にプログラムされた国家の行事としてコントロールされ続けた。

唯一の枠外が岡本太郎のどキッチュ太陽神まがいの太陽の塔であった。国家の祭事の平板な枠をそれは踏み外した。古来、祭りには祭祀を司るシャーマンが必要である。民主的国家となった日本では国家の祭事を司るべき天皇は開会式の挨拶の役割を担うだけであった。アニミズム世界を背負ったシャーマンの役割は全て岡本太郎の太陽の塔のモノとなったのである。岡本太郎は充二分にそれを意識していた。フランスでのマルセル・モースの民族学を学んだ岡本太郎はそれを日本の現実に性急に転用しようとしたのである。

磯崎新の荷なうべき役割はデメとデクのいかにもな近代的な擬似未来で出現するしか無かった。出現したばかりのコンピューターはスタンリー・キューブリックのスペース・オデッセイ・ディスカバリー号に積載されたそれの如くに巨大で愚鈍なものであった。

ちなみに’70大阪万博ではモバイル、今の携帯電話の原型とも言うべきも登場しているが、製品概念は同様でも軽量化小型化がまだ目的化されていない別種のモノではあった。

2012年12月27日

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石山修武第64信 作家論・磯崎新33 漂泊1

それでなければ始まりもしなかったのだが、ズルズルと書き始めた感があり、やはり気になっていた。それでグルリと一回転させて、はじまりに戻る事にしたい。何故、作家論なのかに。何故、磯崎新であるのかはすでに少し計り書いたので繰り返さない。

 

ゲーテの『イタリア紀行』を嚆矢として、クロード・レヴィ=ストロースの『哀しき熱帯』にいたる迄、世に旅そのものが個人世界の表現の鏡像であるらしきを想わせる書物は少なくはない。ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』もそれ、つまりはある種の旅をなぞっている。地球がまだ未知なるモノに溢れている頃迄、旅すなわち地理への好奇心は創作の源の一つでもあった。どうやら人間は地球という人間にとっての近代的資源の無限に非ずの物体に住み続けねばならぬ生命体でしかないのを知ったのは恐らく1960年代であった。ローマ法の人類共同的立案以来ではないか。以降、創作のあらゆる分野はJ・L・ボルヘス的な図書館の世界へと凝縮してゆく。大雑把に言えば注釈的世界、文献学的世界へと結晶してゆく事になる。それが磯崎新のつくばセンタービルの一面の性格でもあった。粗い形式ではあったが。

磯崎新の創作群は旧来の意味での個性、つまりはオリジナルの幻想を脱けようとする没個性を目指す、大きくとらまえれば注釈的世界に属する。あるいは建築デザインの世界でそれを意図的に構築しようとする日本近代の産物である。脱近代への過渡期の営為でもある。

 

わたくしがこれからも書き継ごうとするであろう作家論・磯崎新の今のところの目星を付けている結論、つまりは仕舞はこのようなモノである。どうやらこの作家論・磯崎新は長いモノになるだろうと覚悟するに至った。恐らくは長大な言説の連続に慣れてはいない日本近代の読者の多くに対して、無料とは言え、人間の最も貴重な所有物である時間を割いていただいていることの、擬造の創作でもある作家論の行く先を知らせなくてはと考えたのである。我ながらサービス精神の固まりである。バターであり、ラードである。サービス、つまりは余剰の生産物の再配置、つまりはこれも時間のささやかな蕩尽に近い。根本に於いて正しい事なのだ。正しいとの言い方は正しくはない。むしろ非近代の非ざる世界へのささやかな道標でありたいとの考えによる。その考えがわたくしにこの作家論を書かせている。

磯崎新を日本のゲーム、すなわち花札の坊主に例えてみた。この札は花鳥風月四季折々の他の札の群の中に置くと実に異様である。納まり具合が実によろしくない。松桜あやめかえで雨に代表される日本的な時間の流れとは一線を画しているように思われる。坊主はそれぞれが担う月日に当て嵌めれば暮の12月。すなわち年の終わり、抽象化というデフォルメを介すれば終末の月を担う。年が明けての一月の札は当然松と鶴と月ならぬ太陽。誠に日本的なるモノのアイコンが並べられている。

 

季節の移り変わり、すなわち時の移動=旅を主題にした日本独自の表現形式に俳句がある。磯崎新の父親は正式な俳号を所有する俳人でもあった。その影響は余程深いのではないかと推測するのだが今は触れない。遠廻りしたい。作家論を書くのに父母を含めた家族像について触れるのは避けられぬ処である。(人間の出生は深奥なゲームにも例えられる。父母の存在と交渉抜きにしてあらゆる人間の出自はあり得ない。あらゆる占いの類がその人間の出生にまつわるデータを礎としているのはそれ故にである。)

 

俳句そしてより俳人の生き方は旅と切っても切れぬものである。現代俳句の創作者であり理論家でもある金子兜太氏はそのように言う。旅をより突きつめるならば漂泊と放浪である。俳句は今や世界に進出しつつあり、その人口は巨大である。俳句をより国際的な水準の芸術として位置付けようと金子氏はそれを定型短詩と呼ぼうとする。そして日本での俳聖芭蕉の歴史的な位置を「古池や 蛙飛び込む 水の音」の芭蕉の句によって日本の定型短詩世界では、この句によって俳句は和歌をしのいだ。俳句の時代になったとする。それを俳句の歴史の前提としながら、現代では外国人の間ではむしろ松尾芭蕉よりも一茶の方が評価が高いとするのである。

小林一茶の句風については触れぬ。しかしその定型短詩=俳句が旅、すなわち漂泊を創作の核とするの指摘は作家論・磯崎新を書く上では刺激となる。更に漂泊は放浪とは歴然と異なるとする。放浪を代表する俳人に山頭火が居る。山頭火は6歳の時に母親が自殺した。それからはどんどんと失うばかりの旅であり、人生であった。放浪は歩きまわるだけ、全て失くしてスッカラカンになる。それを目指すのが生の表現でしかなかった。一方一茶の漂泊は生れ故郷信州へ戻る事を目指した上での漂泊であり、より構築的であったとされる。

 

創作者、作家とは言わず、あらゆる人間の表現活動は時々のつぶやきの如くの定形短詩の集積であり、それでしか無い。建築表現は表現活動として俳句とは比べる事が難しいモノだ。重く大きい。しかしながら短命な作家の作品らしきはいざ知らず、磯崎新はすでにまだ長命とは言わずとも長い期間、時間の流れを個人史の中に所有している。作品も多作である。驚く程に作品の表われは多様である。そして、その作品群は地球上に広く国境を越えて存在あるいは散在し続けている最中でもある。

この様な地理的広がりと、それぞれの放漫とも見えかねぬ表現形式を眺めわたすならば、それは言語活動、つまりは言説の余りの多産振りと同じに、すでに近代的で固定された創作方法論、建築デザインで言えば設計方法論の究明の軸だけでは、その総体を考える事はすでに不可能である。

父母と呼ぶ定点の最小限コミュニティ、家族、そして出生地との関連から磯崎新を考えることにも、興味津々たるモノはあるのだが、あんまり実を得る事は出来まい。第一、磯崎新御本人がそう読まれる事を避け続けている。あらゆる種類のコミュニティ=共同体の枠から亡命しようと演じ続けているではないか。

2012年12月26日  石山修武

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石山修武第63信 作家論・磯崎新32 メランコリア

振り返る。

何故磯崎新は現代の建築表現の世界的中心の一つとも呼べるイタリア、ヴェネチア・ビエンナーレで、あんな空中浮遊パフォーマンスをやってのけたのか。一歩間違えれば塀の外に踏み外してしまいかねぬ身振りをこれ見よがしにするのだろうか。ドスン、ドスンの空中ジャンプ、パフォーマンスは「廃墟になったつくばセンタービル」同様に大建築家にとって犯さなくても良いむしろ秘匿すべき過剰なのではなかろうか。それが世界に公開されるのを前提としていただけに、そういぶかしむのは自然だ。建築家として社会的に成功するのとは明らかに別系統な何か妙なモノが磯崎の内に在るのだ。

それが意図的な芸術家には良くありがちな大向う受けを狙った演技、身振りだけでは無い事は、すでに記したフィレンツェの岩山の下での人骨の発見、そしてレオナルド・ダヴィンチの人力飛行装置殺人事件らしきへの密やかなしかも熱っぽい語り口、意識家・磯崎新の外部にある秘匿したいであろう身体の中の異星。その異なる惑星の存在は廃墟の失に連なる自身の存在自体の廃墟とも言える虚無である「死」への視座の傾斜へとつながるのである。わたくしの論も波をかぶってカバラもどきになり始めている。用心する。それ故にこそ、その内部の異星の存在故に作家論として書く意味もある。

すでにその一面のわずかばかりを記したが磯崎新の中心には深いメランコリアが在る。そのメランコリアは特にヨーロッパの芸術家に特有なモノでもあり、ヨーロッパの芸術そのものへの作家群の歴史の精神基盤でもあろう。

ヨーロッパ諸都市の近代は多くをローマの、あるいはそれ以前の遺跡の上に築かれてきた。すなわち近代都市の地中には廃墟が埋蔵されている。地下都市のカタコンベの存在迄直接的でなくとも、人々は日々の日常生活の底に身近に廃墟、すなわち死の都市とも呼べるモノに接してきたのである。

それは日本の山中他界の死の観念の如くに、日常から離れた別世界に在る死の体験とは異なってもいた。日常生活の足許、すなわち身体に接した地下に死の世界らしきが存在していた。

 

磯崎新の内部、その分裂については繰り返し指摘してきた。まだ平板である。

その分裂は二重性と呼んだ方が適確なような気がする。明らかに分裂していながら同一像をも結び続ける。大秀才でありながらの逸脱、俗に言えば浮かれ、傾く人。これは明らかに身振りではない。スーパーエリートでありながらそれからの逃亡、これも決して芸術的気まぐれからではない。高級官僚的眼配りの中の幻視。正確を知り尽しながらのそれへの違犯。過剰にも想える存在の不動の重さをたずさえての旅から旅へのフットワーク。

数え上げれば際限も無い。

しかもそれは多重人格ではない。大方常に一人の人間像に同じ輪郭で写し込まれている。

 

ポートレート(肖像写真)は実に不思議なものだ。磯崎新のそれは多く残る。磯崎の身振りのこれは珍しく極めて自意識に富むマルセル・デュシャンへのフェティッシュ。そのお好みのルフラン、「さりながら、死ぬのはいつも他人なり」と二重写しにするならば、ポートレートは本人であり本人ではない。映像としてもそうだ。ちなみに磯崎新は自分がとるのではなく、とられる写真は嫌いなのではないか。TV嫌いは解りやすいが、ポートレートもそれに近い。それでいながら写真家が撮る肖像写真には眼一杯のポーズを決めて見せる。しかし、その多くはエレガンシーな仮面としての肖像写真である。本来この人物に中心は無いのだからと決めつけるのも正しくはない。明らかに中心らしきモノはある。肖像写真の中にも。

恐らく30年代前半、ミラノ・トリエンナーレの事件の際だったかすでに定かではない。一枚のポートレートが残されている。どこか壁にもたれたような姿勢で、カメラを正視せずに、ほうけたように遠くを眺めている写真だ。本人は撮られたのも気付いていないかも知れぬ。わたくしの誤記憶かも知れぬ。誤った記憶の中にも深い現実は在るのだ。そう思おうとしているもう一つのリアリティが在る。

学生達、そして芸術家達に占拠されてしまい呆然となすすべも無い磯崎自身が明らかにそこに居る。眼はカメラのレンズを向いていない。レンズを見つめる演技的時間の一切が流れていない。磯崎は呆れている。自失に近い状態で遠くを眺めている。スタンドカラーの三宅一生のスーツらしきの正装ではない。セーターを身にして遠くを眺めている。手は実に自然に壁と身体の間にしのび込ませていて、それ自体手としての演技は見せていない。視えている、つまり写されているのは視る眼のゆき処を失った顔と、手の無い上半身。磯崎は日本人としては大柄だから、小さく細い丘のように写る身体だけだ。背景は色の無い壁である。このポートレートの強い記憶がわたくしの磯崎新、花札の坊主であるの源ではないかと思う。あらゆる思い付き、すなわち無意識が発動させる断片には深い根拠が、磯崎新に即して言えば遺跡への入口の如くが在る。

このもう一人の磯崎新は花札の役札の坊主の如くではない。背景の空はボーボーと都市が燃える赤い空は無い。丸い大きな月も視えぬ。虚空らしきの白と黒い山影らしきばかりである。巨大な空、巨大な地球の写しとしての山。それを又、磯崎に即応させて海と闇に読み替えるのも容易である。海はル・コルビュジェがそこに帰ったと磯崎が、その死の現実に憧憬もする地中海の青であり、夜の海の闇でもある。地球はすなわち一個の惑星である。磯崎がその指摘のオリジネーターであるか否かは問題ではないが、バロックに出現したボッロミーニ等の楕円、それが当時発見された惑星の楕円軌道と深く連関していると説く幻視者にも似た知覚の遠視力の、すなわちそれが地であろう。

磯崎新は私的過ぎる事件は捨象するにせよ、恐らく最初期の事件との遭遇時、ミラノ・トリエンナーレで花札の坊主にいきなり変貌したのである。それ以前の幼少期の小径に踏み込んでも、それが意味ある事なのかどうなのかまだ不明だ。

磯崎家の生誕地が大分の島である事。その家の磯崎新は17代目の当主であり、その島は信長との交流でも知られる宣教師フロイスの『日本史』にも登場する事。その島には大友宗麟の家も含めてイエズス会が病院を作り、それは津波で消失している事。それ等をエピソードとするには余りにも惜しい事件の数々もあるだろう。しかし、磯崎新の創作の根はあくまでも日本近代なのである。

いかに磯崎がその日本近代の正体を古代からの様々な接木振りの、戦後の廃墟を含めた日本のその無からの世界史への逃亡らしきの身振りを企てようとしてさえもである。

ここに至り、我々は磯崎新の意識的な自画像である「ふたたび廃墟になったヒロシマ」と本物の自画像である事件の最中の無意識にも近い自失した自画像、ポートフォリオの二重に遭遇している。写真はリアルではない。ドローインクと同様に。それは被写体の現実の断片を時に切り取るが、ワルター・ベンヤミンが言うようにそこに明らかにアウラが棲みついてもいる。複製技術、すなわち、まがいの生産技術でもある。近代に於いては複製物の中にまがいの精霊らしきが棲み付き、被写体のオリジネーターは空洞化する。すなわちすでにそれ自体が廃墟となる。そしてその空洞とオリジンは完全な二重写しの現実がある。それが近代の基本的な性格である。

つくばセンタービルはウェブサイトの現実の先走った写しであり、それは日本近代のみならず広く世界の現実の写しでもあり、表象なのだ。日本近代がそのまがい性の象徴ではある。日本天皇制よりも余程強いその現実がある。まがいのシュミラークルと消費的に言うも良し、まがいの増巾、波及が余りにも巨大な津波となり全てをゴミと化していると表現しても良い。必ず来る大地震の一ゆれがそれを必ず持たらせる予感の中で。

その予感の中で、磯崎は深いメランコリアをほうけた様に視る。それはミラノ・トリエンナーレでの予測もつかぬ事件との対面、それによる自己否定の平然たる貫徹でもあった。近代の建築表現も含むあらゆる投企の無為に磯崎は放り込まれたのだった。それは戦後の廃墟に対面した無為と同じモノだと磯崎は直観した。そして確かにそれを視た。近代の只中に。

 

ジョン・バチスタ・ピラネージが銅版画に彫り込んだローマの廃墟の底に横たわるモノも又メランコリアであった。壮絶でダイナミックな廃墟の図像。廃墟にピラネージは物質の集合体としての、量塊としての建築の死を視たのである。廃墟に物質と時間の切断面を、そこから溢れ出しうごめく結晶体を、すなわちその精霊を感受したのだ。

それから二世紀程も経ち、ローマで老ベルニーニに会いイタリア建築のその歴史の本格的素養のエキスを感受した芸術家アルブレヒト・デューラーは北部ヨーロッパすなわち今のドイツに帰りメランコリアを主題とした銅版画を制作し続けた。

ローマから日本程ではないが近くはない北ヨーロッパの大芸術家の彫り込んだメランコリアにはモノ想いにふける思索者と共に時の精霊とも呼び得る砂時計が多く登場する。砂時計は廃墟の代替物の象徴である。地中海から遠い北方ヨーロッパでは、ローマの廃墟に似せた、まがいの廃墟までもが現実に創られたのである。

磯崎新の「廃墟になったつくばセンタービル」は、これも又、ローマから遠く離れた、それでも狂おしいが静謐な思考の涯につくられた人工の精華なのである。

 

物質の時系列の切断面をデザインモチーフとするプロセス・プランニングも又、廃墟にその源泉があるのは言うまでもない。

2012年8月6日

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石山修武第62信 作家論・磯崎新31 つくばセンタービル4

大意識家に熟成しつつある磯崎新の昨今を遠望する。そして出来るだけ多く残されつつある言説に目を通してみる。大きな不可解さが浮き上がる。それにしても膨大な著作量である。困難さの極みではあろうけれど、それでも建築論の周囲を自転公転する日本の歴史家・批評家にとってはこれは巨大な壁であろう。一つ一つの言説は自身も意図的に記しているようにアカデミーの枠からは自由に逸脱したエッセイの形式をとり続けている。

まだ拡張され続けるであろうこの論述の総体、むしろ総量の全体はいずれ日本の建築史家は着目せざるを得ぬだろう。凡庸なアカデミシャン、すなわち、それはそれとして意味もあるのだが、教養の薄味の伝達でしかないと思える歴史教育の枠内で何の発展も無い平板な教育に従事する歴史教師の枠を脱けた、あるいは脱けようとする意志を持つ歴史家ほどにそれは壁となってすでに建ち始めているようにも思われる。

この作家論のはじまりは、建築史家達を遠巻きに、ただただ徘徊していた青年期初期の記憶、そのエピソードから出発した。唐突で無作為であった。そこではしかし史学は学問の王であるとの考えも述べた。しかし、どんなに幼稚な無作為にも必ず何らかの意味は必ず在るものなのだ。その無作為らしきがほとんど無意識の層から繰り出されてくるものであればある程に。

磯崎新はその青年期の只中、先も何も視えようが無かった頃から歴史家、身を置いた環境から必然的に建築史家の存在、およびその形式に浅からぬ関心を持っていた。その一端にはこの作家論のはじまりに少し触れておいた。

恐らくはこの関心は充分に意識的なものではなかったやも知れぬ。東大内部の教師達が構えていた陣形やその強弱くらいはすでに磯崎は見抜いてもいたであろう。ただ、それはそれとしても若い磯崎新は歴史、及び歴史学らしきに本能的な関心を寄せていたのは間違いなかろう。その充分に意識されざる無意識、磯崎自身が時に避けようとする意図の外、あるいは底というべきか、が実にこの膨大な著作量、質量の総体を積み上げさせたのである。

日本の建築史家、特に現実社会と遠からぬ密実な諸関係を持つ近代建築史家にとっては実証を前提とする建築史学の道から外れているとのそしりもあるだろう。むしろそれが無い者は何の野心も無いペンペン草だと刈り取られても文句も言えまい。

最良の史家は最良の作家と同様に身を裂かれる自身の内なる固有な歴史に直面せざるを得ない。特に日本の史家はそうだろうし、歴史を顕現あるいはその断面を露出させやすい建築分野の歴史家はそうならざるを得ない。明治以来の脱亜入欧、そして第二次大戦後のアメリカ文明化の大波によって我々の日本文明文化は実に異形な、奇形とも呼ぶべきに育てられてきた。クリシェにも新旧があるが、古いスタイルになぞらえれば歪みねじれた盆栽の松の如くであり、さらには中国産の松からアメリカンシーダーの良材を接木するが如きアクロバチックな曲芸、芸能の今の現実にも接木できるであろう。

一方、新しい巨大なクリシェはウェブサイトであろう。そこでは大衆への広告的コード、すなわち記号が地球的規模のスケールで展開され、不眠不休で点滅し続けている。記号はすぐにアイコン化され、有形化され再び広告として再生産され続ける。その様相はカオスに近い折衷様式としか表現しようが無い。

その予告的性格を帯びていた先験物がつくばセンタービルであった。作家論はそこ迄辿り着いている。

磯崎新の建築史家との再び分裂状態への言及は遠く終章に近く述べたい。早くそこまで到着したいが、磯崎新が鏡像としてのミラージュの如くに産み出したつくばセンタービルは一度、とりあえずさて置く事にしたい。しかしながら、この問題だけは片付けておきたい。

 

磯崎新は何故「廃墟になったつくばセンタービル」のドローイングを描き残したのか。

クライアントとしての国家、具体的には住宅・都市整備公団他、官僚組織にとってこの「廃墟になったつくばセンタービル」は極めて不快なモノであったに違いない。折角抜擢、選択した建築家がガタガタに崩れた廃墟としての自作を、どうやらほぼその作品の完成時に描き、小さくはあろうとも建築家世界に向けて発表したのであるから。

知る限りでは磯崎新はTV等の大衆マスメディアに露出するのを避ける用心深さの所有者である。しかし古いとも言えるペーパーメディアには異常に執着し続ける。もう、ほとんどここ50年の長きにわたって出ずっぱりと言える位だ。そして建築界にスキャンダルらしきを散布し続けている。決して止めない。「廃墟になったつくばセンタービル」もその一つである。しかも常識的に考えれば折角手中にした最良のクライアントであろう国家からうとんじられるような身振りを見せるのである。例えば一国の形骸化された権力者である総理大臣やら建設大臣(今の国交省大臣)が自分がクライアント代表者であると認識して崩れたつくばセンタービルの絵を知って何故かといぶかしんだという話は聞いた事がない。本当はそうあってしかるべきだろう。民主的権力にとってもしかるべき建築はその維持装置として重要な装置でもある。でもたかが芸術家の戯画であると問題にもしなかったのか。あるいは眼に触れる事も無かったか。恐らく後者であろう。余りにも些細な事でそこ迄情報が上がらなかったのだろう。官僚達も、少しはイヤな感じはしただろうがそれが公的に公開される事は無かったようだ。実際の事は知らぬ。

しかしこの絵(ドローイング)はフランクフルト建築美術館に収蔵されており、建築界ではむしろ実物のつくばセンタービルよりもスキャンダルとして話題になったのではないか。

用意周到な磯崎はこの間のことを『人体の影』に記録している。ここで磯崎はジョン・ソーン卿が再整備して、大半を設計しなおしたイングランド銀行を古代建築の発掘現場の如くにレンダラーに描かせた「廃墟として描かれたイングランド銀行」を引き、それと自身の手になる「廃墟になったつくばセンタービル」と並列させている。このドローイングはそうする事によって磯崎新のクライアントである官僚達ひいては国家への免罪符の役割を果たしたのやも知れぬ。

何故なら日本の近代建築の始原は、そんなジョン・ソーン卿のイギリス近代の歴史の現実から、ほぼ150年程を経てジョサイア・コンドルの来日、そして東京帝大建築学科での教育、及び設計活動にあったのだから。さすれば磯崎新の「廃墟になったつくばセンタービル」は日本近代国家の歴史、そして建築史のイギリス、近代への必然的接木状態として極めて叙事詩的必然として説明可能だからである。

この記述において磯崎はプッサンのアルカディアの光景を描いた風景絵画のピクチャレスクを取り上げ、更にはウィリアム・チェンバースの1752年「プリンス・オブ・ウェールズ廟」にも言及している。この中に廃墟と化した廟すなわち墓所の光景が描かれていると言及する。

が、しかし作家論はそこ迄は入り込まぬ。磯崎が十二分に意図的に「廃墟になったつくばセンタービル」を描こうとし、又その正統な接木性を主張し続けているのを確認すれば充分なのだ。導かれてそこに入り込んだらそれは磯崎新の膨大に描き続けた構図、パースペクティブの中に踏み迷う事になる。磯崎新が描き続けた建築論的パースペクティブは一個の個人として成したそれとしては異常に大きい。ル・コルビュジェの諸記述とも異なり、自身のプロパガンダでもありながら一種の歴史的相対性の身振りをも帯びていよう。実に遠回りな姿を帯びたプロパガンダでもある。それも又、日本の近代そのものの接木性、言ってしまえばその中心のまがい性故の必然的な手続きであるやも知れぬ。

その論述の質量の異常な大きさは、自身が記す如くに、ル・コルビュジェのパルテノンが自分を反逆者にしたの言を、更に広くイギリスを含むヨーロッパ建築史が磯崎をまがいの典型としてのつくばセンタービルをつくらせた、それが日本の近代建築の始原であるからだの、通奏低音として響かせるのである。

 

廃墟への傾倒と片付けるには余りの執着そして作家としての溶融願望とさえ呼びたい根が磯崎にはある。

2012年8月1日

10/15

石山修武第61信 作家論・磯崎新30 北京・中央美術学院美術館5

程良い小ささを持つ建築なので周囲をグルリと眼で眺め、時に石張りの石に触れながら一巡する事ができる。磯崎新のような建築家の建築を味わい、理解するのに重要な事ではある。建築はつまるところ内と外とのメビウスの輪の如き四次元的迷宮の様相をどれ程表現し得ているかにその価値があるからだ。磯崎新の如くに多面的な意識を所有する頭脳はその理知のそれこそ内側に、そんな状態をすでに具体化しようとしているからである。

外と内とがどう分裂して、いかに統合されようとしているか。その問題は、恐らくコンピューターによる設計作業が日常化した今はコンピューターの能力自体とも相まって建築家の頭脳の可能性の拡張の問題として意識されている筈である。

迷宮などとクノッソス宮殿のダイダロスの苔むしたイメージ(※1)とは、それは異なる。がしかしやはり迷宮と表現するしか無い。ダイダロスは今やナビゲーションシステムを持ち、コンピューターによる三次元の作図は、回転、巡回という人間の眼の動きも含めて容易に建築家の能力を拡張させている。だから、それは建築の巨大化という資本主義的要求とは分裂している一方の建築自体の意味の変容をそそのかせているのである。

外を巡っていると自然に、この内側はどんな様相が連関しているのだろうか、どんな光や風、つまり空気の動きが実現されているのかの想像を促すのである。直線のブリッジを渡り内に入る。ブリッジ下の開けたドライエリアには水は無い。エントランスをくぐると床に水が張られている。大きな空間で高い曲面の天井からの光が複雑である。その光を内の水面に内部空間と共に反射させようという作家の意図がわかる。グルリと四角に整えられた水の周りを外と同様に巡るのも良し、一方に備えられた短い動線としての経路に入り込むのも良しの平面、立体の造りになっている。どうやら外からうかがえる曲面多用の大きな空間とは別に機能的な四角い平面、壁面を持つもう一つの空間、当り前の美術館の展示倉庫としての要求も満たしているのが知れる。大きな曲面の空間は白く仕上げられ、四角い機能的な小空間は黒く仕上げられて、その対比が強調されている。大きな白い空間には散乱する自然光が舞う。一階の水の内には巨大な現代美術らしきが展示されていて、恐らくはこの空間がそう造ることをそそのかせたモノであろう事を知る。

美術館はその建築に有機的に融合しようとする美術作品を産み出しても良いは磯崎新の持論の一つでもあるのを思い出す。

大きな有機体と倉庫としての美術館機能、そうあらねばならぬ機能的な四角い空間の組み合わせだけだったら、それだけであったら驚きは無い。しかし、その二つの空間が接する部分、繋がり、かつ分けへだてる部分に磯崎はこれ迄の自身には無かったアイデアを造り出している。何層ものスロープが、その二つの空間を連結しつつ分離しているのだ。

磯崎新中期の作品である群馬県立近代美術館はプラトン立体への作家内の頭脳の光景が簡明に表現された。そして、その思考の形式が建築家達を驚かせ、おそらくは美術界をも刺激した。美術界への刺激はそれがアート本来の表現形式である事をアートよりも余程明快に呈示していたからだ。

しかし、この北京・中央美術学院美術館を体験してみると、そのアイデアは極めて静止状態のモデルであった事が了解される。その内外を人間が動き廻る事によって体験できる建築の可能性、つまりは作家としての建築家の脳内風景とも言うべきを追体験する事は出来にくかった。

ここでは積層されたスロープを昇り降りし垂直と水平の人間自身の動きに誘発されて、実に多様な空間が体験できるのである。館内に静止して美術作品を体験するだけではなく、建築内に仕込まれた白い光に溢れた迷路状を巡る事自体がひどく新鮮な体験として実感し得る。美術館を訪れた人々は美術館の内外を動きながら巡回する事で現代美術を実に総合的に体験できる。その体験は人間自身が動く事で得られる。人間の有機体としての特質はうごめく事でもある。それは生命の瑞々しい表現でもある。死んだ人間は動かない。

 

廃墟やエジプトのミイラ迄、磯崎新には虚無の絶対に繋がる死の世界への関心が連綿として通底してきたように思う。

北京・中央美術学院美術館の内外の融合、特にその内部に開発された人間の動きに対するアイデアは作家にとって実に画期とも考えられるモノである。その動きに対するアイデアは、ひいては人間の動き、すなわち生命の主体への尊厳、敬意の表われでもある。

巨大な作家は意識半ばのうちに建築自体の未来の可能性を呈示してしまうものである。ここに実現されているのは人間の主体の、その動きを具体的に介しての発見的方法である。建築の可能性が人間を主体として置く事によって示されていると考える。

 

群馬県立美術館のエントランス・ロビーの奥には冷たい大理石の、人間が決して登ることの無いオブジェが大事に置かれていた。登れぬ階段が大事なのではなく、そう考えた作家自身のプラトニズムらしきが大事なのだという、それは自負の姿に似たものでもあった。作家の若々しさがそこに横溢していたとも言える。誤解を恐れずに言えばアノ人の登らぬ階段はインド、ヒンドゥのシヴァ神の視覚的表現であるリンガにも似たものであった。磯崎新の言を借りれば神の似姿であった。プラトンの神体化と極論しても良かろう。

北京・中央美術学院美術館ではその登れぬ、人間が入り込めぬ天と地のコネクターでもあるリンガならぬ日常的でもある人工の坂道、スロープの入念な工夫によって、それは克服された。

※ 1 クノッソス宮殿とダイダロス ダイダロスはギリシャ神話に登場する伝説の工匠の名である。クノッソス宮殿内にあったとされる、半人半牛の怪物・ミノタウルスの幽閉で有名な大迷宮・ラビュリントスを作ったと言われている。ミノタウルスがアテネの英雄テーセウスによって倒された後、ダイダロスは、クレタ島の王女アリアドネーにテーセウスが迷宮を脱出する方法として毛糸を渡すことを助言したことからミノス王の怒りを買い、息子イーカロスとともに迷宮に幽閉される。ダイダロスはいくら自分で作った建築物といえども、その迷宮は創作者の思考の範疇を越え、彼は脱出するルートが分らず、最終的には蝋で羽を紡いで翼を作って迷宮から飛び立った(なお、その後共に飛び立った息子イーカロスは太陽に近付き過ぎて羽は溶けてしまい、海へと墜落した)。
文明史家ヤン・ピーパーは著作『迷宮―都市・巡礼・祝祭・洞窟 迷宮的なるものの解読』(佐藤 恵子・加藤健司訳、工作舎、1996年7月)の中で、ギリシャ人によって描かれたこの迷宮神話を単なる物語ではなく、クレタ島の高度な文明を目の当りにした彼らによる印象体験の形象化として読み解く。ピーパーによれば、封建的な貴族社会のギリシャにとって、洗練された技術と高度な文化をもったクレタは脅威あるいは恐怖の対象であった。クレタ王国は羊毛の独占を行ない、それが都市文明の基礎をなしていた。アリアドネーがテーセウスに渡す毛糸はこうした経済的側面の象徴であった。そして、そうした都市文明に対する恐怖の形象化が、人を喰らう超人的な怪物・ミノタウルスであり、謎めいた大迷宮・ラビュリントスであったのである。

注釈:佐藤研吾

10/5

石山修武第60信 作家論・磯崎新29 北京中央美術学院4

北京で最も重要な現代美術センターだと、北京の人間が認める北京・中央美術学院附属の美術館は、しかし如何にも小振りな美術館ではある。小振りとは言え、それは北京シティの数々林立する現代建築群と比較しての事ではある。磯崎新が日本国内でモノしてきた幾多の美術館と比較すれば、極く極く普通のを少し計り上回る位の規模の建築ではある。何平米、何階建と明確に比較表現すれば良いのだろうが、それをしたら作家論が成立し難くなる。今、直覚的に程良いスケールの建築としてそこに在る。

と、わたくしが直観したからである。

わたくしが、建築らしきを学び始めた1960年代の日本の近代建築は皆、今(2012年)のそれと比較するならば驚く程に小さかった。早稲田大学建築学科には建築家として今井兼次、武基雄、吉阪隆正先生が矍鑠として居られ、その他も含めて皆建築設計にいそしんでおられた。その数々の大半を記憶しているけれど、何よりも先ず建築の大きさが小さかった。今思えばほとんどの先生方がその小さな建築に心血を注いでいた。磯崎新の出身大学である東京大学建築学科、都市工学科にしても、丹下健三を除いたら皆同じような状況であったように思う。皆、小さな建築に膨大なエネルギーを注いでいたのである。その大きさに対する実感は今の子供達の体格の大振りになったのとは、又異なる尺度の違いがあるようにも思われる。建築はそれ自体の形式の内に大きさの変化を促すものは無い。全て外へ、つまり社会との関係から生まれる。体格、骨格の大きさ小ささと謂わゆる環境との関係はまだ余り問われていないのか不勉強ながら知らぬ。つまり遺伝子の継承と食料を含めた外部環境の関連である。栄養、保健医療の充実だけが人間の身体のスケールとでも呼びたいモノを決定するものではあるまい。

 

磯崎新の身体は日本人の諸々と比較するならばデッカイ。これも何メートル何センチとは数字を並べ立てて申さない。わたくしの作家論は数学モデルすなわち近代普遍モデルとは少し異なる地平に構築したいというささやかな返逆心に由縁している。それ故に磯崎新をテクストとして選択した。選択という言葉もすでに数学モデルを想起させるならば、アリストテレス流に誘起されたものであり、プラトンの超越的モデルを基底には置いていない。

 

磯崎新の建築を大づかみにすれば、ここで呼ぶ建築は謂わゆる地上に顕現し得たモノの一群をそう呼んでいるのだけれど、二つにこれも又、分裂している。前に指摘した原作者と制作者との分裂を実ワ違う形式ではあるが良く露出している。解り易く伝えればプラトンの人間の身体を超越した理念のモデルへの希求と、それとは異なるアリストテレス流の自身の身体、気持と連続して外延しようとする有機体らしきへの愛着である。これは愛着と呼んでも自己愛とは異なる異相の自己内への関心である。その一見歴然たる矛盾らしきの全的表現が北京・中央美術学院美術館には在る。小さく程よい大きさの内に表現されている。

先に述べたように北京・中央美術学院美術館の大きさ、すなわち資本主義社会であるならば公共、民間を問わず投資額は北京においては政治の現実として決定される。すなわち現代美術というモノはこれ位に今の現実に重要であり、又同時に重要ではないかの意志、判断の、それは歴然たる表現なのである。実にシンプルである。

その重要さいかん、すなわち大きさの問題に建築家・磯崎新は十二分過ぎる程に意識的であり、今は知り尽くしてもいよう。でもそれは磯崎新の腕力の域外の問題でもある。その建築の大きさの問題に単独で立ち向かおうとしているのが今の現実の磯崎新である。そこに様々な小さな軋轢が生ずる。

それはさて置く。

北京・中央美術学院美術館を訪れた二日間を含めて、わたくしは友人が設計した北京オリンピック会場隣りの盤古七星酒店に滞在していた。長さ600メートル、高さ250メートルの巨大建築である。建築内を連結した電気自動車が動き廻り、スタッフは立ち乗りのこれも又電気二輪車で移動するといった具合。オーナーも、電気自動車で建築内を自在に移動するのであった。その高層部から毎日、北京オリンピックの巨大スタジアムやスウィミングプールを眺め、天壇、万里の長城を駆け巡ったのだから、極く極く自然に日常のスケール感も、さてはて異常を来していたのであろう。そんな眼には北京・中央美術学院の美術館は何とも、まともに小さく感じられた。それは仕方ないし実にコレワ正常に近い近代建築本来の大きさであるやも知れぬとさえ、思わせたのでもあった。

同行したドイツの友人の、「アニマルのようだ」の言が記憶に残った。確かに建築の半分の表情は若年の磯崎新が多用したヴォールトの曲面をさらに複雑に変化させたもので、ヨーロッパ人の眼からすればアニマル、すなわち有機体の如くだと直観していかにも自然である。半分は四角四面の機能体である。その大きな曲面体の表面仕上げに青灰色の石が張り込まれていた。錆が吹き出て石の表面に流れていたのが実に良かった。少し年を経たアニマルの風があり、建築家も又、画家の如くに自然に自画像を描くのだと考えたりもした。

この曲面がアルミニウムや、チタンやらの工業化製品で仕上げられていたならばこの建築の価値は半減していたであろう。かつて磯崎新と共に西安へ旅した事があった。西安の大雁塔を眺めて、「これはローマだな」と人知れずつぶやいたのを、驚いて聴いたのを忘れない。この人物は実に根っから重いモノ、重力に抗するが如きの物体、その建築形式が骨のズイまで好みなのも知ったのであった。建築はローマのそれではなくっても重力に抗して構築される由縁をその始原とも思われる頃から持ち続けた。アクロポリスの丘のパルテノン神殿を体験して堀口捨巳が愕然としたのもその形式に非ず、その質量に対してであった。それは建築の形式を持つにせよ、エジプトのピラミッドの質量に通じるモノがあった。

北京・中央美術学院美術館の曲面体も、重く重く視えるように仕上げられている。この重さは磯崎新の秀作、福岡相互銀行本店に実に通じるものであり、恐らくは極く極く一部を除いて全作品に通じる基本的性格の一つである。

10/1

石山修武第59信 作家論・磯崎新28 北京中央美術学院3

ニューヨークとは異なる姿ではあるけれど、北京でも建築の大きさの概念は著しく従来の建築の大きさとは異なる姿に変貌している。ニューヨークには現実のアメリカの国家としての権力装置はほとんど皆無である。マンハッタン島に整然と施された長方形グリッドの格子に区切られた空白の土地を埋め尽くしているのは殆どが商業資本による建築物である。シンプルに言い切れば全てがマネーの自在な顕現であると言える。2001年のWTCへのテロリズムにより、WTCのツインタワーの超高層の姿が消えた。その一瞬とも呼べる消去は都市の歴史に於いても劇的なモノであった。ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下による都市の壊滅は、都市の全体が消滅したので、それ故に人々、と言うよりも人類にとってはいまだにその消滅の意味が不可解なままである。大き過ぎる消滅は実は人間の知覚には見え難いものであるようだ。磯崎新がイタロ・カルヴィーノの詩魂に触発されたかどうかは知らぬが、その先駆けをなした(言明した)「見えない都市」の行先はヒロシマ・ナガサキの消滅に実はあった。それを我々は2011年の東日本大震災によるフクシマの原子力発電所の事実上の消滅によって知らしめられた。恐らく「見えない都市」は作家論・磯崎新の究極点の一つになるだろうが、まだ先は長い、ゆっくりやりたい。

ニューヨークのWTCの一瞬の消滅が我々に知らしめたのは何であったか。それは巨大に視えた資本主義都市の実在するかにも視えたモニュメントが一瞬のうちに消え去る事の基体ともいうべき社会構造を明示したのである。

「見えない都市」からの視線によるならば2001年のWTC消滅と2011年のフクシマそしてヒロシマ・ナガサキは同一の視角の内に納まるのである。

ニューヨークのマンハッタンが世界に独自なのは先に述べた如くにその摩天楼群の内に国家の政治権力を表象する機能が無い事である。大型ジェット旅客機による自爆テロというテロリズムの形に於いて、しかもそれを複数に組織化すると言う戦略に於いてさえも9・11に於いてイスラム過激派がアメリカ国家を消滅させ得なかったのは、実にその事にあった。もしもニューヨークの摩天楼の一群にアメリカの国家権力が集中して存在していれば、容易にそれは打撃する事が可能であったろう。

ワシントンに、あるいはその周辺にそれが散在していた事でそれはなされなかったのである。

北京がニューヨークと異なるのは、ニューヨークの中国的存在形式とも想われる上海と比較してみると容易にその中枢が理解できよう。上海はその歴史的形成のプロセスを眺めてもアメリカ合衆国、そしてニューヨークの姿形と酷似している。それは様々な民族資本の植民地的集合の離合集散の歴史であった。上海が北京と比較してよりコスモポリタニズムの気配、すなわち都市の気質とでも言うべきが濃厚なのはそれ故になのである。イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、日本のアメーバ型に散在した植民地エリアの集合が今の巨大都市上海のインフラストラクチャーを形成した。それは又、今に、視えにくい構造の痕跡をしか残していない。

ニューヨークも又、上海同様な植民都市ならぬ移民による都市の基盤が形成された歴史を持つ。始まりに目に視えやすい国家権力が視覚化されずにきた歴史がある。北京はそれ等と対極の都市である。北京には国家権力の他には何者も無い。共産主義中国と人民軍による統轄とそれにあたかも植民するが如くの民族資本、あるいは国際資本の力が輪郭も薄く混在している。

その中心、天安門広場はヨーロッパ的広場のスケールをはるかに越えて空漠として、ほとんど東京の皇居の如くにただただ空白なのである。近代共産主義中国の建国の父、毛沢東は天安門広場の設計に際し、その設計者に広場を行進させる軍事パレードの形式だけを指示したと伝えられる。何列の兵のパレードがし得て、戦車は何列縦列が組織し得たるかの視えやすい国家権力の組織デザインだけに関心があったと言われる。人民大会堂にしてもそのオープニングセレモニーの日取りが先ず決定され、それに間に合わせろの一点に命令が集中され、他には何も触れなかったとされる。

一方でナンバー2であり続けた周恩来は人民大会堂の階段の手すりのデザインまでに事細かに指示を与えたとされる。

つまり、その中心の広場は極めて政治的に創作された空白であった。2008年の北京オリンピック会場はその天安門広場の中心を新しいサイトに移動させようとするものでもあった。近代中国の中心であり続けるのには天安門広場にはいささか忌まわしい歴史が積層され過ぎていたし、古代中国の皇帝の居城であった紫禁城との関連も密接に過ぎた。しかも強い一軸で中心は貫かれ、その先に毛沢東の霊場まで設置されているのである。国家は時に大がかりな衣替えを必要とするのである。その中心の場所に於いてさえも。

 

磯崎新設計の北京・中央美術学院美術館はその新しいセンターの程近くに位置している。極めて政治的であり、その他の何者でもない北京の人間に聞いても、非常に重要な美術学院であるようだ。北京にとってはそのほとんどが重要であるか、そうでないかに区分けされるので、当然、磯崎新は非常に重要である、すなわち国家の美術の行方を左右するであろう美術学院に附属する美術館の設計に手をそめた事になる。

磯崎新が審査委員長として国際コンペに君臨したCCTVは、中国で最も重要なTVメディアである。TVメディアも美術も恐らくは中国北京に於いては同等、同様な種族のモノと考えられているのではあろう。現代美術はITやTV程に大衆に影響力を持ち得ぬから、声高なメッセージを発信するのを控えるならば、比較的に自由な表現も許されるのでもある。それは大衆に力を影響し得ぬマイナーなメディアでもあると考えられているからだ。

中華人民共和国を建国し中共中央主席を終生まで務めた毛沢東は、1976年の9月に死去した。その年の毛沢東が亡くなる前には、毛沢東の重要な補佐役であった周恩来や朱徳が先に亡くなっている。同年の四五天安門事件は、その周恩来の死を弔うために天安門広場に集まった二万人を超える群衆を、毛沢東のこれまでの部下でもあった江青などの四人組率いる政府当局の警官隊が襲撃したことで起こった。また、同じく天安門事件と称される、1986年に起きた六四天安門事件も、胡耀邦という一人の巨星の政治家の死をきっかけにしたものであった。生前の胡耀邦が抗議および異議申し立てに寛容的であったことを受けて、10万人を超えるさまざまな思想を持った群衆が一同に天安門広場に集合したのである。正確な数は明らかになっていないが、凡そ1000人ないしはそれ以上の死者が出たとも言われている。建国後の中華人民共和国の近代は、毛沢東主導による大躍進政策および文化大革命から始まり、政治・政局の変転とともに多くの死者と負傷者を生み出した暗い影の部分を持つ。そしてその舞台の中心が天安門広場であった。

1976年の死後現在に至るまで、毛沢東の遺体は天安門広場の南側に面する毛主席紀念堂の中に安置されている。(紀念堂の落成は毛沢東死去一周年の1977年9月9日。)毛沢東の遺体は永久保存処理を施され、水晶の棺の中に収められ、天安門広場を睨みつける確かな偶像として尚も据えられている。毛沢東自身が果たしてこのような肉体保存を望んだのかは定かではないが、この形式は、社会主義国家としてソビエト連邦を主導したウラジーミル・レーニンの霊廟(1930年)を模したとされる。レーニン廟は社会主義体制の象徴である赤の広場の前に立地し、こちらも神聖不可侵の威信を今現在も放ち続けている。革命の指導者が、物質として世界に残存する限り、何度もその主義思想は民衆の中で甦り得るのだろう。死者の肉体には、無数の他者によって様々な思惑とともに変形したイデオロギーが注入され、理想化された偶像=アイコンとして君臨させられる。そして過去の象徴として強力意味を纏った物体は、広場という空白の空間装置に対応して置かれることで、群衆の集団意思を巧妙に仕立て上げることにも寄与しているのだろう。英雄と社会主義思想の関係、そして死者の亡霊が担い得る現代社会における権力装置としての役割に関しては、もちろん日本の都市構造および社会システムを言及する際にも一考を要するはずである。

注釈:佐藤研吾

8/28

石山修武第53信 作家論・磯崎新27 北京・中央美術学院美術館2

大分県立図書館の新しさは磯崎新がその後説き続ける如くのプロセス・プランニングの方法的新しさばかりにあるわけではない。それはメタボリズムの新陳代謝に対しても充分に意図的に構えられた対抗的言説でもあった。しかし、チューブが空を飛ぶの言葉は恐らく瞬時に産み出された言葉であろうが実ワ同じ位に、むしろ時に様々に考え抜かれた方法的言説よりも余程重みが在る。作家が創ろうとする新奇な世界の扉をたたく音の如くに響くものだ。大分県立図書館ではその宙を飛ぶチューブはエントランス部分に顕示されている。作品全体をおおい尽くすデザインのストラクチャーにはなっていないが、明らかにその瞬発的イメージがこの建築を磯崎新に作らしめた。意味の無い、つまり合理的機能を持たぬ四角い小断面型を持つ、チューブと呼ぶよりダクトみたいな梁状のオブジェが水平に宙を飛び、その断面型を空に露出していた。この様相の断片は実に新奇なモノであった。建築史にとっては新奇な世界であったと断言して間違いない。

このイメージは何処から来たのか?

恐らくは「孵化過程」に描かれた、正確に言えばコラージュされたギリシャの遺跡に倒れている巨大な柱の形骸らしきから来ている。「孵化過程」のドローイング自体は恐らくはメタボリズム=黒川紀章に対して意図的に描かれた対抗的なモノであったやも知れぬ。わたくしはそうだと断言したい。

しかし、ギリシャ神殿の廃墟に転倒している柱や梁の断片をイメージとして、更に言えばアイコンとして建築へ再構築するアイデアは磯崎新独自なモノであり、他の何物でもあり得ない。作家は意図せざる無意識の内に自身の創造の秘園を持つ者である。

この独自なイメージとしか言い得ようのないモノが大分県立図書館の空飛ぶチューブとなった。この連鎖する転移の様相こそが作家たる者の中枢である。その転移は時に深奥で模写、模倣に繋がる。作家は常にその創造力の中心に模写、模倣を原動力として保持し続ける。誰もがだ。三流の建築家は唯々諾々として身近な他人の作品の模倣を続ける。しかし、それも又ある種の創作ではある。二流の建築家は近代建築史からの模写に努める。そして一流の作家は模写、模倣をし得ぬと思われる何者かを、これも又模倣する者なのだ。磯崎新がギリシャ神殿の廃墟の断片を模写した、その神殿はシシリアのアグリジェント(※1)であった。磯崎新はその神殿の名も場所も知らず、その写真を使用して、コラージュを創造した。後年磯崎はアグリジェントを訪ねスケッチを残している。その廃墟から間近に望む丘の上の更なる神殿の廃墟群のスケッチである。足許の神殿の廃墟の断片が空に飛び丘の上の再び廃墟の断片のシルエットとなっている。

このスケッチは実に大分県立図書館の空飛ぶチューブのアイコンへと連続している。異次元の模写の連続がそこに在る。

レム・コールハースが大分年上の磯崎新の様々を知らぬ理由はない。

ましてやCCTVは国際コンペによって選ばれたモノであり、磯崎新はそのコンペの主要な審査員であった。

 

かつて日本の福岡市のとあるBarで、そこには磯崎新やピーター・アイゼンマンが何故か居た。わたくしはその席でレム・コールハースが磯崎新の有力なクライアントであった福岡相互銀行頭取に一生懸命スケッチをその場で描いて説明しているのを間近にした事がある。それは磯崎新の博多駅前の福岡相互銀行本店の隣りの土地に、あるいはその本店の磯崎作品の一部を壊して、連結しこんな磯崎スタイルの新しいヤツを自分は考えたいと必死のアピールをしているのであった。オランダ人というのは誠に激しい商売人であり、これは一種の肉食獣であるなと、ホトホト感心した事がある。ありとあらゆるチャンスを逃しはしないのだ。優雅さには欠けるが元々オランダの海賊みたいなルーツの人なのだろうと感服した。

そんなレム・コールハースがCCTVコンペ審査委員長の磯崎新をリサーチし抜かぬ筈がない。そして当然、「孵化過程」のドローイングを知らぬ筈がない。そして大分県立図書館のチューブが空を飛ぶという一カケラの言葉だって知っていた可能性は大きい。誰からか伝えられたものであったかも知れぬ。そこからCCTVの案に飛躍するのは比較的容易なのだ。

スケールや形状は二の次である。作家は一カケラの言葉からもジャンプする。レム・コールハースの様な編集的才質に長けた作家は更にそうだろう。

「空飛ぶチューブ」

まさに現前するCCTVの建築そのものではないか。

CCTVに於いてはそのチューブが黒いガラスになっているのが実に妙なるモノがあった。黒いガラスでなければこの建築はあり得なかった。透明な、あるいは半透明なスモークガラスを避けて黒く厚いガラスを採用したのは凄い腕前である。軽く透明であると考えられているガラスの基本的な性格を逆転した。ガラスを重く視せているのがレム・コールハースにとっては要であろう。空を飛ぶチューブが軽く、透明であったりしたら何の価値も無くなってしまう。ただのエンターテインメントになる。ここではどうしても重さが必要であった。そしてその黒いガラスのチューブの姿は、その妙な重さによってある種の物神性を獲得したのである。

北京CCTVは黒い物神的形体である。

 

物神性、あるいはその性格は見下ろされると一気に変な玩具の如きに変身してしまう。レム・コールハースは中国大陸のCCTVというTV局メディアがある種の物神性を持つ怪奇なモノである事は見抜いている。それで、この様な表現になった。

これは共産主義と資本主義が際どく混淆した中華人民共和国の膨大な人口である大衆に向けてのメディア、TVを統轄する権力の神殿である。それを良く表象した建築になっている。

 

しかし大きさに問題がある。三度目の訪問であったが、施工中も火事に遭った際にも感ずる事が出来なかったが、美しく完成して、CCTVは異常に小さく感じられた。

 

CCTVの隣りの離地にはSOM(※2)設計の今は北京最高を誇る超高層のホテルを含む複合建築が建った。その超高層建築の40階、80階からCCTVは真下に玩具の如き小ささで見下ろせるのである。SOM設計の超高層ビルはミノル・ヤマサキを想わせる折衷主義のエレガンスだけが取り得である。決して良い建築ではない。しかし、その建築の足許の玩具としか、黒い物神性を備えたレム・コールハースのCCTVは見えない。

聞けばCCTV周囲の土地も全て新計画のラッシュだそうだ。いずれ、CCTVは超高層の谷間に埋もれた小神殿の如くに埋没する運命にある。

従来どおり、人間の地上の目線からレム・コールハースはCCTVを構想した。しかしCCTVが建つ中国北京は地上の人間の目線とは異なる次元に都市そのものが突入してしまっている。

『錯乱のニューヨーク』(※3)の名著があるレム・コールハースである。ニューヨーク・マンハッタンの現実と歴史は知り抜いている筈だ。でも知っている事と創作の現実は異なる世界でもある。レム・コールハースの視点は従来通りのヨーロッパ、アメリカの現実からの視点であり視線でしか無いのである。レム・コールハースは中国のメトロポリス、北京の都市の現実を計算し損じたのである。

※ 1 アグリジェント イタリア・シチリア島南岸の都市。マグナ・グラエキアと呼ばれる古代ギリシャの植民都市としてかつて栄えた。磯崎新が「孵化過程」のドローイングで重ね合わせたのはアグリジェントのヘラ神殿である。ヘラ神殿は紀元前460年頃に建造された周柱式ドーリア式神殿で、アグリジェントの神殿の谷の東側高台に位置し、基壇部分には当時塗られていた白い漆喰が現在も残っている。
意図せずにせよ、古代ギリシャの神々を象徴的に引用してきた磯崎の初源は、パルテノンに代表されるギリシャ本土の遺跡ではなく、当時の支配の周縁にあった激動たる廃墟であったのである。

※ 2 SOM(スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル) 1936年アメリカ・シカゴにて結成された、シカゴ、ニューヨークをはじめとする20世紀近代都市のスカイクレーパーを牽引した組織設計事務所。設計業務にあたり、設計者は組織とのパートナーシップ関係として、流動的な組織体制をとる。1952年に完成したマンハッタンに建つレヴァーハウスはミースのシーグラムビルと並んで本格的なガラスのカーテンウォール建築のはじまりとして評価されている。  なお、北京CCTVに隣地して建つSOM設計の超高層建築とは中国国際貿易センター第三期(330m)である。

※ 3 錯乱のニューヨーク レム・コールハース著、1978年。ニューヨーク・マンハッタンを舞台とする、大衆的資本主義的な夢と欲望の下に巨大開発・スカイクレーパー群が自生的に生成され、凶暴的に過密へと向う都市像を断章的に記述した著作。レム・コールハースは、モダニズムの合理的な純粋性を謳う建築理論を乗り越えるものとして、「マンハッタニズム」とも言える資本経済の野蛮な自動原理がもたらす都市現象を担ぎ上げ、自らの思考のフレームをその都市の凶暴性の上に被せる形で世界中の成長都市を渡り歩いてきた。

8/27

石山修武第52信 作家論・磯崎新26 北京・中央美術学院美術館1

北京のCCTV(※1)から中央美術学院美術館へ廻った。北京CCTVはレム・コールハースの最近作であり、磯崎新の美術館もほぼ同様である。ステージを35年前の日本筑波から2012年の中国北京に急転させる。

つくばセンタービルは磯崎新の代表作とされるが、わたくしの小結論は、それとは違う。つくばセンタービルは作家・磯崎新の代表作ではない。むしろ、それを成さしめた1970年代日本の建築文化状況を写し出す印画、あるいは鏡像であった。日本の建築文化、それは明治のジョサイア・コンドル来日からの洋風導入、そしてアメリカとの戦争の敗北、占領による米国風文化導入をベースにするまさにヨーロッパとアメリカ文化摂取の巨大な凹面鏡である。それ以上のものでは無い。だからつくばセンタービルはむしろそんな日本近代建築史、そして地政学が産み出した作品なのである。そして当時の建築文化の表象であった。個人としての作家の表現としたら、それは明らかに成功していないし価値も薄い。それは一向に人の気持を動かすことをしない。しかしつくばセンタービルを日本近現代の建築史の凹面鏡としてみると、それは異なる意味を持つのではないか。そしてその日本の近現代建築表現が持たざるを得ぬ性格をこそ磯崎新はアイロニーとして提示した。その事にしかこの作品の歴史的意味はあり得ないし、同時にそれ故にこそ存在するのである。

 

ありとあらゆる建築は今のところ地球上のある特定な場所に存在せざるを得ない。それ故に制度的にも文化的にも技術に於いてさえ場所の特性を反映せざるを得ない。だから作家は場所の特性をごくごく自然に考慮して、反映している。そしてその場所の特性は、場合によっては広く場所としての国家の特性に迄及ぶのである。つくばセンタービルに於いて磯崎新はその場所を日本という国家に拡張した。依頼主が日本住宅都市整備公団という官僚組織であり、日本の住宅・都市のインフラ的性格を、それこそ整備する組織でもあり、ニュータウンならぬある種の学術都市の中心的役割を担う筈の複合建築でも、それはあったからだ。

でもそれに対する答えとしてのアイロニーは到底多くに受容されるわけもなかった。ごくごく一部の日本の建築家達に理解されようとしたに過ぎぬ。そのごく一部の種族とも言うべきだって、批評も含めて日本の近現代の特性、ヨーロッパ、アメリカ建築文化への過度な受容性、鏡像性を深く自覚していた者達ではない。だからこそ、つくばセンタービルは真昼の廃墟の如くに描かれざるを得なかった。磯崎新の思考はその様な廃墟の空に漂流していたのである。

それでは作家としての磯崎新の内部世界の問題はどうなのか。作家は、特に建築家という職業は与えられた仕事が置かれる作品の、それぞれの場所に規定されざるを得ぬ。しかしながら、それはそれとしながらも対応する自己の内的世界には又別種の固有な世界が育成されている筈である。個々の場所、依頼主、諸条件に左右されながらも連綿として連続している筈の何者か、あるいは不連続でありながらも連続を目指そうとする意志は必ず内的に在る筈なのだ。それ故にこそ彼を作家と呼ぶ意味がある、そんな何者かである。

 

作家論・磯崎新を書き進めるに当って、サイト上の連載に敢えて文章を小区画に分けそれぞれに便宜上の番号を付けた。作家論・磯崎新15「作品について1」を振り返りたい。

何故、作品論の始まりに作家論15で取り上げた、小さな「久住歌翁碑」を敢えて置いたのか、それには理由がある。

「久住歌翁碑」(1966年)には「ランドスケープ化されたモニュメント(Monument for a poet)」と副題が附され発表された。この作品は日本には珍しい九州の久住山と阿蘇山という雄大な自然の内に、その二つの山の間の26.2キロメートルという距離を意識的に「生けどり」(=本人の言葉)しようとした作品である。少なくとも構想は歴然としてそのようなモノであった。

この作品には後年堰を切って溢れ立つ、噴き出すと言って良い程の作家・磯崎新の巨大好み、スケールアウトへの志向の実は萌芽が垣間見えるのである。それはすでにこの作品の内にチロチロと燃えくすぶり始めていた。磯崎新はこの小モニュメントの内に26.2キロメートルの距離を捕獲、内在させようと試みた。

近年現代建築は巨大化の傾向を見せている。建築に対する投資のスケールが巨大化を合理とするからに他ならぬ。特にこの傾向は新興国中国や産油国諸国に著しい。中国人建築家(台湾)李祖原設計による北京オリンピック会場隣りの盤古ビルディングは高さ250メートル、長さ600メートルで、地下階を電気自動車が走り廻っている。又、同氏設計の台北101ビルは高さ509メートル、それ等の巨大建築はすでに建築の概念を超えて「都市」が建築化されていると言って良かろう。

建築家は建築が建ちやすい市場、すなわち建設投資が集中する地域に群れ集まる。それは全くスケールは異なるがルネサンス以来変らぬ歴史の定理である。

今、その巨大市場の一つが中国大陸である。

 

レム・コールハース設計の北京CCTVビルは今現在、2012年に中国大陸で最も有名な現代建築の一つであろう。オランダ人建築家レム・コールハースは典型的な市場主義の建築家である。マネーには国境が無い。それは又最も自由に国境を越える力の顕現であると考える。そして建築スタイルはそのマネーの自在な表われ方であり、それでしか無いと考えようとする。言わばマネーゲームの表現なのだと。市場主義者のこれは資本主義に対するにニヒリズムである。建築家はそのニヒリズムの中でマネーゲームに建築という投資の形式を介して戯れるしか無いし、それ以上の存在ではないとする。そのレム・コールハースの中国大陸での話題作が北京CCTVビルディングだ。

作家論・磯崎新を書く為に訪ねた。これは外せない。CCTVビルディングの内部には容易には入る事が出来ぬ。中国政府はITを含めたマスメディアを強くコントロールしている。CCTVもその一つである。それにこのCCTVは大きな建築ではあるが建築の外部がそのままねじれて大きな内部を形成する、すなわちメビウスの輪になろうとしているのが主題であるから、困難をかいくぐって内にどうしても入る意味はそれ程に大きくはない。外から視れば、レム・コールハースの意図らしきは一目瞭然なのである。

外は黒いガラスでおおわれた四角いチューブが宙を飛び、ねじれて一筆描きの細身の高層ビルがクニャリと曲り連続して続き、内に巨大なボイドを抱き込みながら、又、クニャリと元に戻るという、これ迄の建築には全く無い異次元の空間を出現させている。黒いガラスの表面には、この構造を支えるべく立体フレーム状に関係させられたサッシらしきが軽やかに中国的装飾のパターンを見せながら空を舞っている。

磯崎新の実質的なデビュー作である、大分県立図書館のテーマの一つはプロセス・プランニングの説明の仕方ではあるが、美学的には重いコンクリートの四角いチューブが宙を飛ぶというシュールレアリスムにその発想の基があった。確か、磯崎新もそう書いていた筈である。

何十年か経って、レム・コールハースは磯崎新の重いコンクリートではなく鉄と黒ガラスを使って、そのチューブが宙を飛ぶというアイデアを北京に再現して見せた。

つづく。

※ 1 CCTV(China Central Television)ビル 中国国営のテレビ局である中国中央電視台の本社ビルディング。高さは234メートル、51階建て。2002年に開催された国際建築設計競技(審査委員長は磯崎新)の結果、レム・コールハース率いるOMAが設計者に選ばれ04年に建設がスタートし、08年12月に竣工した。構造デザインはセシル・バルモンドおよびアラップが協力している。なお、レム・コールハースは90年代から継続して中国へ強い関心を抱いており、同時期に開催されたWTC跡地の再開発コンペの参加を断念してまで、CCTVの設計競技に参加したとも言われる。
また、隣接する中央電視台電視文化センタービル(BTCC)は2009年に完成予定であったが、完成間際の工事中に違法な花火打ち上げによって全焼した。

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石山修武第49信 作家論・磯崎新25 つくばセンタービル4 

帰りのつくばエクスプレスの座席でグッタリしている。秋葉原に向かうこの電車は高速のわりには揺れが小さい。流石、今は昔の筑波科学万博跡地の路線を走る電車だ。そうでも無いか、ともすれば人間はイメージに毒されやすい生物でもある。

つくばセンタービルを28年振りに再訪した。梅雨の晴間の、カンカン照りの太陽をまともに喰らいながらの見学がいささか身体にこたえたのもある。でも、それだけではない。一体、自分はこの先、磯崎新を論じ、書き続けるのに何を軸とすべきか、あるいは持続させるべきか。これを書き尽くそうとして何を目指そうとしているのであるか?白昼の陽光の中に一瞬浮び、消えたような気もするそんな疑念が、確信を満たせて始めてはいるけれど、確信は時にグラつくのも常ではある。これは得も言えぬフランツ・カフカ(※1)の世界でもある。ギラリの陽光がそれをなさしめた。・・・・・いささか古い。世界は急速に転回している。

不安というような生やさしいモノではない。作家としてのわたくしだって何かを賭けて、身を削いでやり始めている事なのだ。削いだ身が、その断片がただのゴミになるのではないかの浅からぬ虚無の気配だって身体に濃厚である。しかし、この気配は充分に予想されたモノでもある。見栄や片意地を抜き去ってそう言える。予想通りだからこそ、更なる虚無が襲ってくる。磯崎新を論ずるにこれを通り過ぎる事は不可欠なのだ。そう考えられなければ作家としての磯崎を考究する醍醐味もあり得ようがない。

予想通りであった。予想を超えていたとも言わねばならない。実物としての建築からはほとんど何も感得し得なかった。ましてや、感動という様な気持の動きも無かった。予想通りに無感動の、ほとんど極であった。それでも作家論はどうしても書きたい。これは若年よりの夢である。夢のひとつ位は実現しなくては。次があるさと足踏みできる年令ではすでにない。好きで始めた事ではある。誰かに依頼され〆切があるわけでもない。だから全てを自分だけで決められる。二百枚書きつぶした原稿も、ウェブサイトの連載も一方的に消してしまう事だって、それも自由だ。

 

28年前、竣工間もないつくばセンタービルには一度訪ねている。元気だった日本の商業建築雑誌の一つにささいな事を依頼されて、それで視てみたいと考えた。1980年代の真只中、バブル景気の世も自分も只中であった。その際の印象も視てそれで感動したり、ビックリしたりの類の建築とは違うのではないかの印象であった。その雑誌では原広司をはじめとする各世代別の建築家や評論家らしき数名が当時から建築界の話題の中心であった磯崎新に短い質問を誌上に記して、それに磯崎新が答えるという企画であった。わたくしはまだ実作らしい実作もほとんど無い無名に近い新人であった。新人には新人しか持てぬ得も言えぬ意気込みがいつの時代にもあるものだ。一発のパンチでぐらつかせてやろうとか倒せぬ迄も自分の名を相手には知らしめてやろうとかの気持が働く。わたくしも例外ではなかった。わたくしも磯崎の華生の大作であるに違いはないつくばセンタービルとは余り関係の無い、むしろ遠いところから質問を浴びせた。自身の当時でも、今でも数少ない切札のひとつであった日本中世の俊乗坊重源を持ち出してのたった一人の大相撲を演じてみせた。

磯崎さんの建築の作風は俊乗坊重源の建築にも似て、何処か日本人及び日本には受け容れられぬ風があるが、いかがか?という様な内容であったと思い起こすが、定かではない。すでに今の作家論・磯崎新に沿って若干の脚色が施されているやもしれぬ。その質問らしきは見当ちがいでは無かったが、大作家への軽い商業ジャーナリズムでの質問コーナーには明らかに場違いのモノではあった。そういう事がまだ良くわかってはいなかったか、わかってはいるけど止められなかったのかは知らぬ。それで肩をいからせていた。そんな記憶がある。

磯崎新の反応は良く覚えていない。場ちがいだとは思ったにちがいない。でもわたくしはわたくしで他人に誇れるアイデアをそれ程多く持っていたわけでも無いから止むを得ず切札を切ったに過ぎない。返答はエレガンスなものであったが質問に対しては当を得たものではなかった。仕方の無い事ではある。おそらくは当時の磯崎はヨーロッパ、とりわけルネサンスの巨匠達に没頭していたから、コレワ磯崎は俊乗坊重源の問題には気付きもしていないなの実感はかろうじて得た。そんな事共をかすかに思い出そうとしていたのである。グッタリと筑波エクスプレスの電車の中で。それでも大きな画帖まで持って出掛けたのはスケッチを出来れば少なからずして、それで再びつくばセンタービルに接してみたいとは、それでも思ってはいたのだろう。眼で視て、視覚を介してだけではマルセル・デュシャーンの「泉」の如くでもあるだろうの勘らしきはあるのだが、それは直観でしか無く実証する事には遠い。わざわざ筑波山麓まで出掛けてマルセル・デュシャーンのでっかい「泉」、すなわちただの便器を視に出掛ける者は居まい。スケッチはそれでも一枚だけ描いた。

 

作家論・磯崎新22、23、24までの一応の小結論は、

一、1984年のつくばセンタービルは作家磯崎新の代表作ではない。

二、つくばセンタービルは、その建築表現の在り方は2000年を超えて露出してきたウェブサイトと建築表現の関係らしきの初源らしきではあるまいか。すなわち、つくばセンタービルの建築史的価値はその様な予言的世界に属するものであり、物体としての建築物の内実には無い。

つくばセンタービルが日本のポストモダーン建築の代表例とされるのは間違いである。何故なら言葉の意味そのものをまともに捉えるならば今の時代はまさにポストモダーン社会であり、近代以降という定義自体が収束するわけもない。それは後世より正確に呼ばれるようになるのであろうが近代以降、脱近代の混迷は今も、あるいは今こそその渦中の只中なのである。それはそう簡単に終わりようが無い。近代はそれ程に簡単な総体ではない。

建築家磯崎新は日本のポストモダーンを代表するよりわたくしなりに正確に呼べば、日本の初期ポストモダーンを代表し得る作家であるが、それは実物として実在する建築としてのつくばセンタービルを介在させる事ではない。日本近代はそんなに甘っちょろい簡単なモノではない。世界史の中で考えようとしても、その接木構造の変形、異形振りは中国伝来の盆栽の歪んだ松の形の比ではない。たかが美学だけでとらえ切れるモノでもあるまい。

 

梅雨の合い間のカンカン照りの一日に、久しぶりに対面したつくばセンタービルは、実にその様な、コレは実物からの実感も含めて、より包括的な小歴史とでも呼び得るモノを再確認させたのだった。

ここにも又、磯崎新の原作者と制作者との歴然たる分裂が視える。ここで再び言う原作者とは日本の近代建築の筋道を考究しようとする、そういう類の建築史のシナリオライター、あるいはリ・ライターとしての磯崎新であり、制作者とは古典主義、新古典主義の歴史を知識として情報として受容するしかない日本の近代建築家としての、より大きくは作家としての磯崎新である。

※1 フランツ・カフカ(1883-1924) オーストリア=ハンガリー帝国、世紀末のプラハ出身の作家。カフカは法学を専攻した大学を出た後、市内の労働者傷害保険協会に勤める。勤務は昼過ぎに終わり、午後は小説の執筆に当てたと言われている。カフカが残したものは、大量の日記と手紙、『変身』などの幾つかの短中編小説、そして『城』や『審判』といった未完の長編小説である。死後、廃棄されるはずであったそれらの文書が友人の良心的な裏切りによって世間に公開され、実存主義的見地を中心にカフカの再評価が起こった。カフカが描く世界は、人間が抱く「不安」に大きく根をはっていると言われるが、生前のカフカは人前で新しく執筆した作品を、笑みを浮かべながら朗読していたとも言われており、ユーモラスと絶望感の間の空白を巡る作品群として彼の著作を捉える試みを可能にするだろう。

注釈:佐藤研吾

記 2012年7月11日

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石山修武第48信 作家論・磯崎新24 つくばセンタービル3 

つくばセンタービルの中枢に入る前に、今少し外堀を埋めてかからねばならぬ。わたくしはそれは違うと考えるが世評ではこれは磯崎新の代表作であるとされ、日本のポストモダン建築の代表でもあるが定説になりかかっている。

つくばセンタービルは磯崎新の代表作ではない。戦後日本の近代建築を象徴するモノである。一人作家としての磯崎新を代表させるモノではない。この作品は戦後日本の巨大な接木状態の文化状況をことごとく写して余すところが無かった。

つまり、磯崎新の巨大な自身の鏡面振り、すなわち再び、あの花札の坊主振りをそのまま体現しているのである。山陰で都市が茫々と燃えている。空は紅く染まり切った。そしてグラリと鏡の如くの月が昇る。燃える都市、すなわち廃墟をその鏡面は写し出そうとしている。花札は賭博の、すなわちゲームの道具である。作家の全てを賭けてのゲームに磯崎は身を投じた。つくばセンタービルは勿論、丹下健三の代々木の東京オリンピック記念体育館の如くの雄々しい美を体得してはいない。しかし、建築は場所のそして時間の鏡であり、同時に鏡でしかあるまい。特にその時代を背負わざるを得ぬ建築家の、そして建築はそうなのだ。日本の精一杯の敗戦からの復興の努力。それが東京オリンピックの実現であった。丹下健三も良く充分以上にその要求に応えた。しかし、同じ丹下健三の手になる東京の記念碑的建築である1991年の新東京都庁舎の建築にはその決然とした雄渾さは全く視る事ができない。何故か。建築の場所と時間の鏡である根底をそれは良く示しているのである。作家本来の創造の自由を磯崎も又、師丹下健三と共に継承している。しかし、その自由は決して時代からの自由を同時に表すものではあり得ない。建築家、そして建築のそれが巨大な存在の骨格でもある。

前にも述べた通りにつくばセンタービルは磯崎の縦横自在に視える言説によって、その本来の価値を見誤られた。その実体は、より直接的に日本近代の到達点を表現していた建築物であったと言わねばならない。例えそれがそれこそアイロニーの衣をまとっていたとしても。

すなわち我々はその余りの接木振りの露出にいささかの拒否感を直観させ得た。つまり日本近代の決して調和の美等、何処にも見受けられぬ表情に自身の鏡像を見出さざるを得なかった。我々はつくばセンタービルに我々自身の鏡像を見たのだ。その事に今頃気付いている。

磯崎自身もそう気付くのにいささかの時間を要した。つくばセンタービルから20年弱程を経た2001年の著作『神の似姿』の冒頭のエッセイ「神の似姿」に於いて磯崎新はこう述懐している。

そのままつくばセンタービルの作品解説として実に的確である。磯崎新ほどの批評的才質の持主にして、自作を的確に把握するのには長い歳月を要するのである。

磯崎はこう述べている。少々長く引用するがその価値は充分過ぎるほどにある。これはこのままに、つくばセンタービルの方法的批評でもあり、自己解説である。

二〇世紀がおわった頃、私たちは、自らの身体が住み込まされているリアルな世界に加えて、ウェッブ・サイトという、もうひとつの世界が生み出されていることを否応なしに認めざるをえなくなっている。信じられない桁のマネーが、ウェッブ・サイトを利用したもののところに集まるという事実が、そのもうひとつの世界の存在を証明したからだ。このリアルな世界に住み込んでいる身体は、空間と時間という二つの基体概念によってその存在が支えられている。つまり、空間(場所)時間(記憶)身体(自己)を組み合わせさせすれば、すべてのリアルな世界の存在についての言説は可能であるとみられてもいた。ところが、ウェッブ・サイトにあっては、身体はコード番号であり、空間は関係性でしかなく、時間はたんなる順序となってしまう。身体が存在している領域も、空間内座標を成立させている距離も、時間を測定している時計の目盛りも、それぞれ無意味となる。おそらく、このもうひとつの世界は、現在という瞬間の裂け目に口をのぞかせているのだろう。そこで、ひとつの原理的な問いが生まれることになった。

はたしてウェッブ・サイトに、空間・時間・身体は存在するのか。

(磯崎新「神の似姿」『神の似姿』、鹿島出版会、2001年10月。)

ここでは磯崎新は又も自己分裂をきたしている。原作者と制作者の分裂ではない。解説者=批評家としての自己と予言者としての自己である。投企としてのプロジェクト、すなわち「孵化過程」、「再び廃墟になったヒロシマ」、「インヴィジブル・シティ」は明らかに予言的な色合いが極めて濃厚な作品群である。そして、つくばセンタービルも又、物質として実現されてはいるが今の電脳世界、ウェブ・サイトの世界をそれ自身がすでに体現していたのである。

少々、急ぎ過ぎている。普通の、日常の歩行速度に戻したい。つくばセンタービルの外堀でもあるパルテノン多摩、および多摩ニュータウンである。パルテノン多摩を今、2012年に訪れて驚くべき事が確然としてひとつある。建築物でもないし、ニュータウンの有様でもない。その歴史そのものに今更ながら仰天せざるを得ない。

パルテノン多摩は歴史ミュージアムを内部に持つ。2000年に「多摩の自然とくらし」をテーマにしていた常設展示場がリニューアルされたものだ。定点観測プロジェクトと名付けられた展示がある。それが実に興味深い。壁に五千分の一の多摩ニュータウンの模型が二つ並べられている。1962年の人口1万人であった多摩市時代のモノ。それに1999年、つまり二〇世紀最後の年の人口14万人の多摩市のものである。月並みな言い方をしか出来ぬ自分に驚くほどに、信じられぬほどの激変振りである。たった37年間の時間の推移のモノ、その時間の表現だとは思えない。口をあんぐり開けて痴呆症の如くに誰でもなるであろう。多摩の丘陵は削られに削られ、谷は埋め尽くされた。昭和30年代、つまり1955年に近く、東京を中心とする高度経済成長の変が多摩丘陵にも押し寄せた。多摩市の前身、多摩村は京王帝都電鉄と密接な関係を持ちながら、都市への開発の径を歩き始めた。先ずは多摩村内の桜ヶ丘団地の建設に積極的に協力したのである。1960年から開発の桜ヶ丘団地は当時としては全国的に見ても画期的なモノであった。

更に東京都は同じ1960年から多摩村は、稲城村中心とする16k㎡、15万人の集団的宅地開発をすすめた。多摩ニュータウンの原型になるものである。1963年に新住宅市街地開発法が制定された。それをベースに1964年に建設省、首都圏整備局、日本住宅公団(今の都市基盤整備公団)による計画案が作成された。これは稲城村、多摩村、町田市、由木村の4市町村、約30k㎡を新住宅開発の事業の対象として団地を全面買収しようとするものであった。新住宅市街地開発法は強大な用地買収の強制力を持っていたのである。多摩ニュータウンは全国でも唯一、新住宅市街地開発事業と土地区画整理事業の二本立てとしてすすめられた。

このような制度の許に40年以上にわたって進められた公的機関による開発事業は2005年度末で終了した。多摩ニュータウンの他にこのような全国の主な大規模ニュータウンは千里ニュータウン、泉北ニュータウン、港北ニュータウン、千葉ニュータウンがある。

 

パルテノン多摩内の歴史ミュージアムに展示されている定点観測プロジェクトの模型が知らしめるのは、公的制度の枠内で構想された計画概念の成果でもあろう。しかし、それは同時に戦後40年にわたる日本近代の成果とも言えよう、ニュータウンの姿が、その現実の風景と相まって、蜃気楼の中の廃墟、しかもゴミの集合の如くに視えてしまうのは何故なのか?この定点観測の成果とも言うべきに驚かされるのは、二分の一世紀にもわたる日本近代のまさにこれが成果であるのか、の驚きである。我々はこんなモノであるのかという自己の鏡像にも通じる驚きなのである。

この苦い驚きは磯崎新の花札の坊主に表われている鏡像をのぞき込む驚きにも似ていよう。

※1 新住宅市街地開発法 土地騰貴とスプロールを抑止し、膨大な宅地需要に対応するために1963年に制定された。当時、宅地供給手法としては、一団地住宅経営事業、土地区画整理事業、全面買収方式などがあったが、それに加えて収用権と先買権を付与したのが新住宅市街地開発法である。単なる宅地の供給を目的とするものではなく、地域全体マスタープランを基に都市基盤整備を実施し、道路、公園、上下水道等の公共施設および学校等の公益施設といった社会資本と、住宅群を適切な規模で配置する事業の根拠となる法律であった。

※ 2 多摩地域は、昭和30年代後半にはいると各所で住宅地開発が進み、1960年より京王帝都電鉄株式会社によって桜ヶ丘地区が宅地造成される。1964年には町制を施行し、多摩町となった。そして、1965年に新住宅市街地開発法による多摩ニュータウン開発事業の都市計画決定がなされ、行政区画の約6割の3,000haがその開発区域となって人口30万~40万人の居住地が人工的に作り出された。こうした都市建設マスタープランは、独立した自給都市を目指したものではなく、あくまでも東京都心部に対するベッドタウンとなることを意図したものであった。なおかつ、地方分散した拠点開発を意図した際に、居住人口を地方へ集積させることにより地域拠点としての産業立地を誘導するという発想は、当時(1965年)においても先鋭的なものであったと言える。

注釈:佐藤研吾

記 2012年7月8日

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石山修武第47信 作家論・磯崎新23 つくばセンタービル2 

1950年代の東京郊外での生活と風景については、わたくしの絶版書房Ⅱ、機関誌『アニミズム周辺紀行7号』(※1)にいささかを記した。小学生時代の身の廻りの感触とでも言えるのかを記録しておきたいと考えたからだ。

わたくしの東京郊外での小学生時代の記憶は『アニミズム周辺紀行7号』に尽きている。でもそれは貧しかったなあと、でも懐かしく思い出す日常の記憶である。非日常と肩をいからせる程の事は無いが、それでも貧しさの中にキラリと光る記憶もないわけではない。

磯崎新はわたくしよりも13歳年上である。だからわたくしの小学生時代、つまり『アニミズム周辺紀行7号』で描いたその日常、東京郊外のまだ鎮守の森が黒々としていた、そして広い麦畑と宅地が混在していたそれこそ原っぱで、その中で遊び呆けていた時代には、すでに学生時代を終え、東京都心で闇雲なエネルギーをただただ発散させていた頃なのではあるまいか。本郷界隈、そして時には新宿副都心間近の新大久保辺り、自ら設計らしきをした、ダダイスト達のアジトであったホワイト・ハウス(※2)辺りを夜な夜な徘徊していたのであろう。その辺りの乱暴狼藉振りは磯崎自身が実に懐かしそうに度々振り返っているので読まれたら良い。

磯崎新は実にシティボーイであったのだなあと、わたくし等は想うのである。その出生地、北九州大分の独特なイメージが磯崎のシティボーイ、ボーイと呼ぶにはいささか憚るが、都会人とするには大いに違和感もある。

わたくしの原っぱ少年時代の鎮守の森の黒々とした影や、畑の麦畑の穂並み、そしてドブ川の臭いにまみれた生活に、それでもキラリの記憶とは、夏の夜の小学校校庭での風に吹かれての校庭映画館であり、これも又、夏休みの林間学校の日々でもあった。わたくしはそこで宮沢賢治の「風の又三郎」(※3)に初めて出会いもしたし、そして東京郊外の霊場高尾山から多摩の山並みにかすむ、まだ固まりとして出現していなかった都市、東京を遠望した。林間学校で宿泊した高尾山宿坊での昼寝はとも角、そこから眺める事の出来た東京は実にささやかな、楚々とした印象のシルエットでしか無かった。

秩父の山々の濃密な修験道者と東京郊外の鎮守の森の繋がりについては、これも『アニミズム周辺紀行7号』で触れているので繰り返さない。

1950年代の高尾山、この山も関東の歴然たる修験道者達の修験の山である。高尾山に有名な天狗伝説、他今に残る火渡りの行等はその名残である。その高尾山の濃厚な自然、小学生達が林間学校として体験した色濃い自然と都市・東京とはいまだに連続していた。都市はまだその凶暴な乱開発の触手を高尾山をはじめとする東京近郊の山並みに迄は延ばしていなかった。

先日、これも又東京郊外の山並み、多摩丘陵を訪ねた。作家論・磯崎新を書く為にである。パルテノン多摩と呼ばれる曽根幸一(※4)設計の建築を見ておきたいと考えたからだ。新宿パンテオンなる映画館がかつてあった。今は知らぬ。ローマの古典中の古典建築、パンテオンとは何の関わりも由縁も無い映画館であった。日本人の命名趣向は時にまことに凶暴な迄にナンセンスである。それ自体が近代東京文化のエロ・グロに通じる手合いである。パルテノン多摩という名称も誠に凄惨極まるものだ。勿論、これは俗称であり正式名称は「多摩市立複合文化施設」と言う。しかし、ここではパルテノン多摩を焦点としたい。俗称とは言え、このネーミングはすでに公称として世に流布して、しかも定着している。パルテノン多摩のシンボルマークらしきも、何となくアテネのパルテノン神殿を想わせる列柱らしきが、いささか寂しく四本並立したものである。又、アクロポリスの丘らしきの上に列柱が並んだマークもある。だから、この名称は俗称とは言っても人びとが自然に口の端に乗せたと言うよりも、官民一体で作り出された巨大なまがいの性格を帯びていると言って良い。官は直接の基本設計者である住宅・都市整備公団であり、当時の建設省・通産省である。つまり国家だ。民は多摩ニュータウンと呼ばれる広大な丘陵都市への人口の移動を担う京王電鉄である。それ等の複合体により、この施設はパルテノン多摩と名付けられた。

1987年開館のこのパルテノン多摩の意味を設計者曽根幸一に帰して論じることは出来ない。それは磯崎新設計のつくばセンタービルも同様である。つくばセンタービルは1983年に開館している。四年のズレがあるが、大きな計画はこの四年はさしたる意味が無い。住宅・都市整備公団という設計の発注者であり、より大きな計画、筑波研究学園都市構想、多摩ニュータウンの基本設計者でもある組織はすなわち国家であり、官僚組織でもある。その根幹の発想者、企画者、設計者は一人の単独者に非ずともほぼ同一の人物であろうと思われる。

大きな計画らしきの骨格は実に単純明快である。筑波研究学園都市構想も、多摩ニュータウン構想も、中曽根内閣によってなされた国鉄新橋駅構内の巨大な土地の払い下げ民有化によって始動された汐留再開発にルーツを持つ計画なのである。この間の事はすでに鈴木博之の『都市へ』で詳細に論じられている。参照されたい。この両計画共に1980年代の謂わゆるバブル経済期の最中、まさにその禍中の計画ではある。日本の国家がらみの、民間の計画も同じような流れをデザインされていた。土地の値段の高騰をうながし、それを想定した上での投機的計画であった。つくばセンタービルも又、そのラインに沿った計画である。

パルテノン多摩に戻る。

その名称とは無縁にその建築は小さな建築である。その日常性を決して逸脱せぬスケール故に一種の滑稽さを感じさせる程である。アクロポリスの丘の上というよりもズルズルとしたゆるやかな多摩丘陵の坂の中に、小さなステンレスで表面を仕上げられたたった四本の列柱らしきの造形が坂の上に組み上げられている。それが全てである。二つに対称性を持たせられた建築デザインは、タイル仕上げのバブリーさはあるにせよ、これは明らかに磯崎新の北九州市立美術館(※5)の歴然たる模倣である。二つの直方体の筒状の形態が坂の上にひっそりと突き出している。

曽根幸一は丹下健三の許で仕事を成し、磯崎新にも師事していた時期があるから、これは実に血統的にも自然な模倣でもあり、とや角言いつのる必然は全く無い。ただその模倣がいささか小振りであっただけの欠点しか無い。

それにしても北九州市立美術館の空に突き出た二本の筒状がアルミキャストのままの仕上げであったのに比べ、パルテノン多摩は高価そうなタイル仕上げでくるまれている。一般的に良いと言われる建築家はタイル仕上げは好まない。一種のモダニズム特有の倫理感からなのだが、ここでも曽根が自らタイル仕上げを望んだのではあるまい。これを強いたのは投機的姿勢を強く持ったであろうパトロン、つまり住宅・都市整備公団であるか、メンテナンスに注意を集中する管理者組織の意志がそうさせたのであろう。

このタイル仕上げに関してはつくばセンタービルの磯崎も同様である。恐らくは即物主義的素材による仕上げを自ら封じあるいはそう則されて大いに磯崎は困惑したであろう。いくらマニエリスムを持ち出す荒技を労したとしても物質は観念同様に、時にはそれを超えて強靭な本性を露出する。磯崎新は打放しコンクリートに代わる仕上げ(打放しコンクリートも又、仕上げである)をタイルの他に遂に発見できなかった。磯崎の切り札の一つでもある赤いインド砂岩(※6)は筑波の空の寒風には似合いもしない。

 

坂の上のパルテノン多摩、坂を上りつめて日本の建築には珍しい左右対称の建築に分棟されたその間の長い長い階段、その強い軸線のその先には何があるのかもうしばらく探求してみたい。パルテノン多摩は多摩ニュータウンの文化施設の核となるように計画されている。京王線多摩センター駅からゆるい坂を、強い軸線に誘われて登りつめる。ステンレス仕上げのまがいの80年代の時代相でもある四本の列柱の衝立て、舞台装置のけれんを通り過ぎる。過剰に薄切りの石で仕上げられた池がある。池は放物線を描いて、その頂点の先に何やら稲荷神社の鳥居らしきが在る。H型鋼が赤く塗られて軸線を強調する如くに奥へ奥へ、その先へといやが上にも誘うのである。どなたか雅な方の御陵でも隠されているのだろうかと、林の中に踏み込む。赤いH型鋼の鳥居をくぐり抜けて。

そこはただの竹藪であった。藪蚊がワーッと襲ってくる。パルテノン多摩のゆるい坂の、その先は竹ヤブである。

ここで、パルテノン多摩の先が竹ヤブであったのは、妙に磯崎新のつくばセンタービルのカンピドリオの広場をもじった、広場の中心の寒々しさを想起させるのであった。

丹下健三ゆずりの強い軸好み、は筑波では成し得なかった。まさか筑波の山に向かって軸線を設定するわけにもいかない。それでは広場にガマガエルを置かねばならぬ。

必死に磯崎新は考え抜いた。ガマの油売りの如くにタラーリ、タラーリと汗だってかいたに違いない。そしてその考えの軸線の先が中心の喪失、すなわち無であった。

 

この虚無の底は深い。戦後日本の、あるいは近代史に通底する無でもある。磯崎新はそれにブチ当ったのである。

※ 1 「地下世界へ・記憶の旅」石山修武、『アニミズム周辺紀行7号 開放系デザイン、技術ノートIII 記憶の旅』、絶版書房Ⅱ、2012年2月。

※ 2 ホワイト・ハウス 1957年、磯崎新が設計した新宿区百人町にある吉村益信の住居兼アトリエであり、当時のネオ・ダダの前衛アーティスト達のサロンの役割を果たした。なお、吉村は磯崎とは大分の高校時代の友人であり、ホワイト・ハウスに出入りしていた赤瀬川原平や風倉匠も同じく大分出身であった。

※ 3 風の又三郎 宮沢賢治作の、賢治が亡くなった翌年、1934年に発表された短編小説。突如として村に転校してきた少年、高田三郎は村の子供たちに風の精(又三郎)ではないかという疑念とともに受け入れられ、そして彼らを刺激的な幻想体験へと導き、掻き乱し、そして去って行く。一人の謎の少年をきっかけに、土着信仰が作り出す幻想世界と現実とが交錯した子供達の心象風景を描いた作品。なお、島耕二が監督した映画版「風の又三郎」は1940年に公開されている。

※ 4 曽根幸一(1936-)東大丹下研究室出身の建築家、都市計画家。1970年の大阪万博では「動く歩道と7つの広場」の設計で参画している。

※5 北九州市立美術館 1974年に竣工された磯崎新の北九州での連作のうちの一つ。西洋のカテドラルをイメージして作られたとされるこの建築物の軸の先には丘の上に立ち、南北に向かってキャンティーレバーで突き出た1.2m格子のアルミキャスト仕上げの二つの大きな直方体のシリンダーを持つシンメトリーの構成を取っている。

※6 赤いインド砂岩 砂岩とは水成岩の一種であり、砂が粘土などとともに圧力を受けて硬化したものである。磨いて艶を出すのではなく、多くが割り肌の仕上げをされて使用される事が多い。磯崎新設計の建築物では、福岡相互銀行本店(現・福岡シティ銀行、1972)や、ロサンゼルス近代美術館(1986)の外壁などで使用されている。けれども、もちろんそうした赤い砂岩の使用の際にも、例えば福岡相互銀行本店などでは低層部分において基壇のボーリュームを付加したり、また赤い御影石との切り換えによって、素材の印象の強さによるデザインの単調さを回避している。

注釈:佐藤研吾

記 2012年7月7日

7/10

石山修武第46信 作家論・磯崎新22 つくばセンタービル1 

1983年に完成したつくばセンタービルは着工が1980年である。設計はその数年前、恐らくは三年程前には開始されていたと考える。社会はまさに後にバブル経済と揶揄される投機的経済社会である。つくばセンタービルもその枠組から決して自由なものではなかった。

すでに磯崎は1972年に福岡相互銀行本店、1974年に群馬県立近代美術館、1975年に秀巧社ビル等々を完成させている。しかし、それ等とつくばセンタービルとは歴然として異なる側面が在る。

マルセル・デュシャーンの「泉」とおなじに考えられぬ「建築」の重要な基本である。

すなわち、質量の大きさである。その質量には物理的な性格以上に政治経済学的重量性がある。つくばセンタービルは政治経済的に磯崎新にとって画期的な仕事であった。

そしてその質量の大きさは依頼主であった住宅・都市整備公団(※1)の発注の形式、すなわち建築物の大きさ自体にもストレートに表れていた。この建築は国家の投機的役割を担わされていた。そしてそれは磯崎新自身の設計組織の変容を促したのでもある。つくばセンタービルは国家の土地、投機および土地の附属物としての建築への商業的関心、すなわち投機を基本的な構造とする。

どんなに小さな建築であろうとも、建築と呼ぶに耐えられる物体の設計(デザイン)は今はすでに一人では出来ない。必ず、大きさに則応した労働力を要する。他の労働力が必須であることは自己組織的にも商品、すなわち商業の性格が色濃く侵入せざるを得ない。設計作業は重労働の積み重ねでもある。

程々の大きさの建築の全ての設計作図をたった一人でやり抜いたらしきは知る限りでは歴史的にはイギリス・グラスゴー派のチャールズ・レニー・マッキントッシュでしかない。彼はヒルハウス(※2)等の名作のデザイン・作図の全てを一人で成したらしい。その大きさは1,300㎡くらいのものだった。マッキントッシュの建築はその植物の寄生を想わせる装飾をまとう事が多かった。余りにも著名なハイバックチェアーも複雑極まる装飾を含めて彼がその設計作図を一人で成した。それ故にチャールズ・レニー・マッキントッシュの建築及び家具を含む内部空間は今に見る近代の建築とは異なる位相の密度、エロスの濃度に満ち溢れていた。そりゃそうだろう。全ての物体のデザイン、設計作図作業の労働を一人の人間、すなわち作家と呼び得る人間が成し遂げたのだから。

ただし、その犠牲とも言うべきは多大なモノがあった。一人の創作家が保有しているエネルギーを蕩尽してしまうが如きがその設計、そして物体としての実現の中に出現した。

チャールズ・レニー・マッキントッシュはその生命の全エネルギーと引き換えにしてその作品の実現を成すことになってしまったのだ。その生命の有限の限りを設計図書作成に蕩尽し尽くした。そして疲弊の涯にアルコール中毒に陥り、血を吐いて死んだ。それ程に設計図書作成には底知れぬエネルギーの蕩尽を要するのであった。

今に視る、チャールズ・レニー・マッキントッシュ・デザインの物体がかもし出す、あるいは醸成するエロチシズムの実体は、マッキントッシュのエネルギー、つまりは生命力との引き換えによってもたらされたモノなのだ。ここには始原とも言うべき創作家と作品との不即不離が歴然として現出している。つまりは、現代資本主義の本体とも思える分業そのものに抗するとも呼ぶべきである。創作にも要してしまう分業システムとは異なる、考案、生産、流通、すなわち社会への流布の歴然たるモデルとも呼ぶべきの社会的呈示が存在していたのである。

 

磯崎新が自身の設計組織を「磯崎新アトリエ」とネーミングしたのには、かくなる歴史的事実への認識が歴然としてあった。当然磯崎新は仕事場をアトリエの個人名を意識して附した如くにチャールズ・レニー・マッキントッシュの仕事振りなどをモデルに望んだのであろうが、歴然たる近代の中での、その不可能性を充分に知り尽くしていたのでもある。設計労働は過大であり近代に於いてはそれは複雑な分業を必然とする。つくばセンタービルの設計及び現場管理は多くの人間達の分業があり、それで成立せざるを得ない。

1983年のつくばセンタービルの竣工を乗り切ってからの磯崎新の仕事振りを振り返ってみる。恐らくつくばセンタービルの設計作業の膨大な複雑さのコントロール。それを乗り切らねばならぬ磯崎の労苦は、それ迄の設計に集約されたであろう個々の総量とは桁が外れていた。

アトリエと名付けられた、それでも自らの組織体の内ばかりではなく、構造、設備、予算との対応を含まねばならぬマネジメント、法律、そして依頼主との様々な調整作業は目もくらむ程に膨大にならざるを得ない。仕事が巨大になるに従ってそれは必然的に共に大きくならざるを得ない。そしてそれは商品的色彩をも帯びるのだ。

建築家としての物理的な生命を燃焼せざるを得なかったチャールズ・レニー・マッキントッシュの仕事=特異な労働の形式、すなわちそれこそが表現なのだが、それは建築の質量、物体としての大きさに対してフレキシブルに順応できる形式では無かった。それはバウハウス・スタイルを始祖の一つとするモダニズムデザインとは異なる、プレモダーンなアーツ&クラフツの形式の中にあり、労働の形式としてはそれを最も端的に表してもいた。直截に言えば磯崎新のつくばセンタービル以前の仕事はかろうじてチャールズ・レニー・マッキントッシュの仕事の形式に気脈を通じるものではあったが、つくばセンタービルはそれとは全く対応の形式を変えざるを得なかった。依頼された建築作品としての対象の巨大さ故にである。それは労働の総体の質の問題でもあった。そうに違いない。言説やデザイン形式を支える労働の質は明らかにプレモダーンなアーツ&クラフツに属していた。

 

つくばセンタービルの設計作業に於いて、磯崎新はチャールズ・レニ―・マッキントッシュの如きプレモダーンの作家から指揮者、ディレクターの如き機能を演ずる人間へと自己変身を遂げざるを得なかった。

 

その変身振りを客観化するには、つくばセンタービルの設計作業、及び施工管理作業の実態を追求するよりは、つくばセンタービルの大作の困難を乗り切った後の数々の仕事振りを外から眺め考究した方が容易であろうと思われる。すなわち1986年の米国・ロサンゼルス現代美術館、1990年水戸美術館、同1990年のスペイン・バルセロナの大作、パラウ・サン・ジョルディ(バルセロナ・オリンピック体育館)、1991年のアメリカ、ティーム・ディズニー・ビルディング等である。

これ等はいずれもが建設地も異なるし、依頼者の集団的性格も異なりはするが大きく眺めれば同様である。作品自体の形式的質量は同じである。個々に別の切り口から検討する機会もあろうが、ここでは繰り返すが磯崎新自身の設計組織体の変容を軸にそれぞれの作品を凝視するのが本題である。

 

閑話休題。1990年の磯崎新の大作、スペインのサン・ジョルディの丘の大体育館について話をずらしてみたい。

スペイン、バルセロナと言えばアントニオ・ガウディの建築が余りにも著名だ。アントニオ・ガウディはその生涯に建築作品を11作残したに過ぎぬ。職業建築家としては異様に数が少ない。ちなみにアントニオ・ガウディは1852年生まれ1936年没、チャールズ・レニー・マッキントッシュは1868年生まれ1928年没である。スペイン・カタロニアとイギリス・グラスゴーと異なった地域に生き、そして没したがほぼ同時代人と呼んで差し支えない。

ガウディの建築もマッキントッシュの建築同様に設計作業には余りにも手間暇がかかり過ぎた。マッキントッシュの創作活動はまだしもいわゆる製図作業が主であったが、ガウディの建築は作図が不可能であった。余りにも細妙な立体の細部が横溢していたからだ。それで、ガウディは製図作業ではなく巨大な立体の石膏模型をモデラー達に作らせた。現在でも自動車の新タイプモデルはクレイで実寸のモデルが作成される。そしてそのクレイモデルにたずさわる職人達は自身と類似の人間が得られぬ如きの異能な熟練者が必要とされる。ガウディの建築は自動車の立体クレイモデルと同様に石膏で作られた。しかし自動車が大量生産されて大きな収益を挙げられるのと比較して、ガウディの建築デザインは全て一品生産であった。しかしガウディは石膏モデルを作らせざるを得なかった。その希求する物体の形式が余りにも平面上の製図作業では伝達不可能であったからだ。ガウディだって自ら石を切り削り積み上げたわけではない。それを成すのはやはり職人、労働者であった。彼等にその作り方をどうしても伝達する手段が必要であった。それでアントニオ・ガウディはバルセロナの聖家族教会(サグラダ・ファミリア)の地下に大きな石膏モデルの制作工房を作り、そこで全てではないが要所要所は何分の一かの立体モデルを作らせたのである。つまり、巨大立体としての建築の部分を縮小したモデル(模型)を先ず石膏職人に作らせ、それにより想を練り、ほぼ良しとしたならばその立体模型を建設従事者の石工達に見せ、あるいは石彫家達に呈示して、その拡大模造を建設としてさせたのである。気の遠くなるほどに手間と時間を食い尽す労働がそこに介していた。

今、現在2012年、バルセロナのサグラダ・ファミリア教会はいまだ未完である。しかし建設は続行されている。石彫職人、石積職人による建設はやはりどうしてもあまりにもアナクロであり過ぎると建設続行担当者の皆が協議の上に、主構造は鉄筋コンクリートに置換された。材料は近代化されたのである。又、同様に相変わらずの立体作図作業に変る石膏模型の制作も不可能になった。職人が不足したからだ。またコンクリートの型枠を作成するにはやはりどうしても型枠制作の為の図面も必要となった。そして、その作業の基本はコンピューターの作図能力にゆだねられた。それでしか作図が容易ではなかったからだ。それ故に現在のガウディ建築の設計作業の大半はコンピューター作図による。その結果として、サグラダ・ファミリア教会の前近代、近代の生産方式自体の折衷様式が作り出さざるを得ない建築の結果として表現成果には、それは少なからず叙事詩的な性格を帯びざるを得ないのだが、多くの人間達が首をかしげざるを得ない。言うにはばかるが歴然としたまがい性、得も言えぬ巨大なニセ物性が出現するのである。

つくばセンタービルも表われ方は異なるが、それに近い。一人の設計者の脳内処理では不能とも言うべき時代の背理的要求とも呼ぶべきがあった。

磯崎新のバルセロナ・オリンピック体育館の設計は当初カタロニア・モデルニスモの一員でもあったアントニオ・ガウディの最も近代的合理性に満ちた小品であるサグラダ・ファミリア附属の幼児の為の保育施設(※3)の構造に大幅にヒントを得ていた。磯崎なりのカタロニア讃歌であったろう。しかし、現実の建設に際してはその性格は著しく影を潜め、パンタドーム(※4)と呼ばれる、構造家川口衛氏との共同アイデアでもある、いかにもな日本的テクノロジーが表立ったモノになった。何しろ、オリンピックの開幕に間に合わなければ磯崎の建築家としての商品生命は国際的にも大ダメージを与えられる事は歴然としていたからだ。その設計の転換の妙はいかにも実利的で見事なものであった。

その実利的転換こそは建築家として世界をターゲットにする方向へカジを切った磯崎新の鮮烈な変換でもあった。その転換の劇的ポイントの具体こそがつくばセンタービルであった。アトリエとどうしても呼び続けたかった磯崎は勿論自分の設計組織の転換を述べるわけにはゆかない。それで、自らの有機的自己投影のアトリエ組織がドラスティックな情報マネジメントの世界に足を踏み入れたのとは別に、大量の言説を労したのであり、その言説が日本近代建築のポストモダーンの幕開けとされる設計表現だけを焦点とし、それを枠付ける産業構造の変化を見落とした誤謬をも結果として産み出す事にもなった。ここにははからずも、それでも表現されざるを得なかったのは個人の才質の投影としての巨大建築の不可能性でもあった。

※1 住宅・都市整備公団 大都市の急激な人口増加に伴い、宅地地域の大規模供給と市街地開発を目的として、1981年に設立された。業務自体は戦後の住宅供給を担った日本住宅公団を承継している。1999年に解散となった後は、業務は都市基盤整備公団に承継され、その後都市再生機構への移管に至った(2004年)。

※2 ヒルハウス 竣工は1904年。施主はW.W.ブラッキーという出版業を営む者で、マッキントッシュとは1902年に出会った。ヒルハウスは、当時のマッキントッシュの活動のウィンディヒル(1901年)、「芸術愛好家の家」(1901年)など、一連の住宅デザイン系譜に位置づけることができる。マッキントッシュの手によるそれらの緻密で絵画的なデザインの集積の下敷きには、振れ幅はあれどもスコティッシュ土着の伝統的な様式観と建築工法があった。加えて、ヒルハウスの設計の際にマッキントッシュは施主ブラッキーに対して、施主の家族と少し時間を過ごしたいという旨を申し入れ、住まい手と密なコミュニケーションを図っていたという。マッキントッシュの家具および内装などの細部にまで至る貫徹されたデザインは、彼自身の壮大な創意と共に、それと対峙し時には填補し得た、身近な「他者」の存在があったとも言えるだろう。

※3 サグラダ・ファミリア附属学校 1909年。サグラダ・ファミリアの脇に建てられた学校。ガウディが現場で働く職人の子供の為に作った学校とされる。校舎の屋根において採用された双曲面ヴォールトの構造は、ガウディが当時意識的であった線織面幾何学が反映されたもので、ゴシックの建築形式を規範として構造的合理性をより洗練させた彼の近代的思考の成果の一つであったと言える。なお、この建築物はバルセロナ郊外に建てられたガウディ設計の小住宅、ボデーガ・デ・ガラーフ(1901年)とともに、ル・コルビュジェがガウディ建築の中でも特に注目した建築とされている。

※4 パンタドーム構法 構造家・川口衛によって考案された特殊工法。外周部を下部構造に接続したまま、架構の一部をヒンジ状態にして地組したドーム骨組を、中央部分からジャッキ等で完成形状まで押し上げることでドームを構成する。ドーム骨組の建方および仕上げの一部をあらかじめ地上付近で行なうことができ、安全性の確保と、工期短縮を図ることができる。なお、竣工後のパラウ・サン・ジョルディの大屋根は128×106m、高さ45mもの規模であった。建設の架構手法が建築造形に反映され、ドームのリフトアップのプロセスを直截に表現した造形デザインがなされている。

注釈:佐藤研吾

記 2012年6月27日

7/4

石山修武第45信 作家論 磯崎新21 

2012年現在、81歳の磯崎新は健在である。本来、正統な作家論はその作家が棺に納められ蓋が閉じられて書くべきであるのは知らぬわけではない。常識の中で考えるならば磯崎論を書くのはまだ時期尚早であろう。しかしながら、そのような常識にいか程の価値があろうか。作家、つまりは創作者としての磯崎新を考えるのと、人間としての磯崎の内実を究明したいという願望とは、それ程に明らかに分離できるものではない。例え作家としての磯崎がいささか分裂しているとしてもだ。人間は常識を、俗なるを旨として基盤にしている生物でもある。最大の常識は、肉体は必ず滅し肉体が滅すれば意識も又消えるという通念である。しかし作家=創作家はその通念を脱するのを生の目的にもする者である。肉体は滅しても意識は生き残る、例えば言葉の記録として、更には言葉にな得ぬモノはマテリアルとして。つまり意識は時に肉体から遊離する。そう考えようとするからこそ通念を超える生、すなわち創作を生きようとする。創作的表現は通念としての人間の生を時に超えてはそれ自体の生を生きるからである。創作の歴史は肉体の消滅から自由である。それ故に創作家はその特権の小宇宙を生きようとする。それが作家の矜持ともなる、通念を超えるモノである。肉体の消滅を超えようとする。

それに残念ながら磯崎を書くわたくしの方の事情もある。今のところわたくしの方の気力体力は作家論をやるには丁度良いのではないかと思われる。体力の方は年相応に衰えてきているが、モノを書くのは今がピークだろうと自覚している。机上でモノ想いにふけり今では古くなってしまったペンを指で走らせる、脳の細胞組織は酷使するが、動いたり人とやり合ったりの労働ではないから疲れるところが異なる。頭脳のフルマラソンには丁度良い年齢のようだ。それに正直なところ現実の社会生活のストレスからは書く事はほんの少し計り解放してくれる事もある。磯崎を書く事は、しかし精神的なと言うよりも深層意識はかなり疲弊し、時に傷つく。わたくしだって作家だから作家を書く事は同時に自分自身を値踏みする事になるからだ。キリキリと自身が痛むのである。こんな事はだから一回きりにしなくてはならない。そうしないと自分がおかしくなってしまいそうでもある。でも論を書いて傷むことはあっても死ぬ事はない。それに傷むのと同じ位の快楽だって無いわけではない。傷の深さと同じ位の快楽が得られる、なんて書けば自分の歪んだナルシズムまで誤って掘り起こしてしまいそうだ。

赤裸々な今の関心は、作家論・磯崎新を書く圏域の最大の関心についてだが、磯崎新はどれ程長生きして、そして何処まで作り続けるのだろうかと言う事だ。過去をマテリアルにして書かねば作家論は未来幻想小説になり兼ねぬ。それも面白いのだろうけれど、そういう才はわたくしには無い。でもここ迄書いてきて、この作家論はどうしても、もう無いかも知れぬ未来、こないかも知れぬ明日の創作について書く事にすでになっているのを意識し始めている。未来とか明日とかの言葉位磯崎新に似合わぬものは無い。でも磯崎新について書く事は創作そのものの明日、宮川淳を借りて言うならば、消えることの不可能性としての創作、表現についても考える事なのだ。

今の時代の、閉塞状況、大がかりな時代の趣向らしきが磯崎論を書かせるの、他愛の無いたわ言は言わぬ。考えてもみよ、良く生きたいと希求する人間に時代は常に壁を立て続けるものだ。磯崎新はもうすでに時代の波はかぶり続けてきた歴戦の熾烈な作家である。戦場に出掛ける事はかろうじて無かったが、それでも少年時代の第二次世界大戦と日本ファシズム、広島・長崎への原爆投下による戦争の終末と戦後の焼跡、そこに拡がる空の青さはギリシャの空と同じように深く高かったらしいが、それも十二分に体験している。古い言い方だが恐らくその廃墟に広がる無、宇宙の闇にもつながる青は磯崎の想像力の原点でもあろう。それにつながる1950年代の日本復興、高度経済成長と共に歩んだ昭和の日本近代建築のひたむきな清新さ。ヨーロッパに加えて新興アメリカ文化の模倣をも礎としながらも一生懸命であった建築家達。その中心に居た丹下健三に学び、そしてそのモニュメントとしての大阪万国博。復興の滞りとしてのオイルショック。そしてバブル経済とともに世界への進出。バブル経済の崩壊、リーマンショック等々の屈曲。イラク戦争、グローバリズムの飽和沸騰。そして阪神淡路大震災とオウム真理教事件。2001年9・11のイスラム・テロリズムと米国のアフガニスタン侵攻、ワールドトレードセンターの崩壊。中国経済の台頭。そして東日本大震災。

それ等はみんな大事件であった。磯崎は大事件と共に生きてきたのだ。そんな人間が状況に敏感になり得ぬ事があり得ようか。特に社会化される事が必然の建築物の創作をその表現活動の中心に据えてきた磯崎には過剰とも視える状況への即応、敏感さは必須な、生きる為の本能とも呼び得るモノだった。もしも時代の変化に不動の如き創作家が居たとしたら、それは存在し得ようが無いが、創作家幻想が育ててしまう錯誤としか言いようがない。そんな作家が居たとしたら、それは石のデク人形の如きであろう。

そんな時代と共に磯崎新は動いてきた。そして今も動いているし、これからもそうだろう。だからこそ、それ故にこそわたくしは磯崎新が生命力横溢している、変転の可能性をその生のうちに包含している時に作家論を書く。 

又、創作幻想の中枢でもある芸術家らしきの内的想像力の発露なる故なき信仰の持続。それは古来よりの日本文化文明の歴史を知れば知る程に架空の絵空事の如くではある。日本文化の特質はその一種の接木状態が余りにも明らかな基底として文化の骨格、あるいは地盤の如くに迄なりおおせている事であろうか。そして創作、表現とは独り日本のみならず、ヨーロッパ、中国、古代インド、ギリシャ、エジプト、イスラム文化圏に於いてもそれは同様なのである。古来、ありとあらゆる表現行為は個々の人間の内的想像力から生み出されてきたわけではない。それは複雑極まる、むしろ模倣の継承そしてその総体なのである。人間の想像力自体があらゆる情報のなぞり、模倣といって差し支えない。

作家論・磯崎新はその事も考える事になるだろう。

 

現在、世界を席巻しているグローバリズム、その原動力は金本位制に非ざる情報としての幻想にも近いマネーの力である。そしてマネーがそんな魔力を持ち始めたのはコンピューター・テクノロジーによるだろう。あらゆる投資はコンピューターの記録能力、計算能力の上に構想される。身近な設計デザイン業務を眺め、考える。設計、デザインという具体的な創作作業の現場はすでに一変した。これは余りにもの激変なので十二分に当事者でさえそれが意識化されているとは考えられない。

 

もう少し解り易く説いてみる。

磯崎新の作品群の中で、一つのエポックになったのはつくばセンタービル(※1)である。これは建築に於けるポストモダニズムの草分けであるとされる。思想、社会学の今はポストモダーンの枠組みはほぼ定着している。思想史、哲学史に於ける実存主義の如くのこれは明快過ぎるタームではあるけれど、そんなネーミングがまだうまく発見されていないのでポストモダーンすなわち近代以降という仮の名が附されているように考える。建築デザイン分野以外では概ね肯定的に既に大方に受容されていると思われる。

ところが建築デザインの領域では明らかにポストモダーンの評価は極めて良ろしくない。巨大な潜在的集団意識、すなわち設計者達の意識がNOを発し続けている。当然、磯崎新のつくばセンタービルの評判も良くはない。歴史的デザインの折衷主義であるとされている。

これは皮相な、実にデザインの表面しか視ていない批評の典型である。つくばセンタービルは今の、コンピューターによる検索技術とでも呼びたい技術カテゴリーによるデザインの先駆けではないのか?

コンピューター世界の進化は設計者の作業場から製図板とT定規を放逐したというにとどまらぬ。それは実に設計者の脳内機構の働き方をも変化させている。それが良いとか悪いとかの問題はとうに通り過ぎてしまい、現実に頭の働かせ方が変化をきたしている。

想像力の豊かさと言った創作の源らしきが検索能力、検索技術にすでに置換されている。更に言いつのるならば、これは絵画芸術という表現世界でのマルセル・デュシャーンによる表現形式の登場に酷似しているのである。そして、つくばセンタービルはマルセル・デュシャーンの創作方法に似て、しかもコンピューターの検索能力の建築デザインでの予言とでも呼び得るモノでもあった。

ただ、磯崎新はその価値の伝え方、つまり情報のデザインがデュシャーン程にうまくやりおおせなかったのだ。磯崎が得意とする表現領域での、これは失敗ではなかったか。

さりながら、ではない。でもしかし、建築設計は実業でもあるから、しかもつくばセンタービルは磯崎にとって初の国家がクライアントであったのだからデュシャーンの「泉」と比較してしまっては実も蓋も無しと、言わねばならぬのか。

そうではあるまい。

※1 つくばセンタービル 住宅・都市整備公団(現:都市再生機構)により、茨城県つくば市に建設された。ホテル、コンサートホール、商店群、広場などからなる複合施設。1980年に着工し、1983年竣工・オープンした。

注釈:佐藤研吾

記 2012年6月17日

6/18

石山修武第44信 作家論 磯崎新20 

「ふたたび廃墟になったヒロシマ」は磯崎新の自画像である。その作家活動のほとんど出発点、つまり宣言としての「都市破壊業KK」の持続的表現でもある。破壊願望の標的は我々の脳内風景の現実としての都市だと述べた。更には物質に物語らせるという表現の仕方をした。誤解を招きかねぬと思う。それで少し計り補足する。

コンクリートや鉄やガラスに何かを語らせたい、あるいはすでに、時にではあるがそれ等は語っているのだという考え方は古層に属するアニミズム世界の考え方である。近代の人間の考え方、あるいは想像力の働かせ方とも遠い。マテリアルがコンクリートや鉄やガラスでなくとも、例えば石材であったとしてもそれが積み重ねられ壁となり、嘆きの壁(※1)と名付けられていたとしてさえ、我々は石は嘆きはせず、黙し続けるだけなのを知っている。アーと嘆いているのは我々自身であり、その嘆きが小さなモノである時には比較的容易に言葉や絵にする事が出来るが、余りにも大きかったり集団性を帯びたモノである場合には、不可思議にも簡単に語る事も言葉にする事も絵にする事、彫刻にする事も出来ずに、語り得ぬ物質の沈黙に託すしか無い事だって本能的に知尽している。そんな形而上学を更に突きつめれば、「ふたたび廃墟になったヒロシマ」の如くのドローイングは映像であり、石や木や水よりも余程何かを語らせ易いのである。謂わゆる漫画の各種映像が時に語り得ぬ物体や人間像らしきに泡のようなフレーム付きで言説を語らせている、させようとしているのはその結果の形式なのだ。

とすれば、「ふたたび廃墟になったヒロシマ」の廃墟の映像そのものに漫画みたいに露骨につぶやかせる事だって出来た筈である。大友克洋の『AKIRA』(※2)等はその連続である。漫画文化に精通している磯崎がそれ位の事を考えぬ筈もない。では何故、「ふたたび廃墟になったヒロシマ」は漫画の形式をとり得なかったのか。それは賞味期限の問題だけではないか。容易に語らせる漫画の形式は寿命がまだ短いのである。つまり消費の、あるいは消費尽される速力が極めて速い。見られ読まれたらポイと捨てられる宿命にも属しているのが多い。だからこそ建築家磯崎新は「ふたたび廃墟になったヒロシマ」を漫画として描きはしなかったのである。あの画面に例えば「シーン!」というような言葉にならぬ音の如きが描き込まれた途端にあれは別種のモノになった。露骨に語らせぬ事に実はその価値、作品としての寿命の長さの基があった。つまり直接語らせぬ事に、あのドローイングはやっぱりハイアートの世界の住人になりおおせる事が可能であった。「ふたたび廃墟になったヒロシマ」に直接語らせぬ故に、そのハイアートの枠の外、漫画で言えばコマの枠の外で、磯崎は語り続けたのである。膨大に。何故ならば語る事、物語らざるを得ぬ事こそが磯崎の生の基盤であるからだ。それ故に磯崎は映像作家と原作者の二つの人格を自身の内に同時併存させて表現活動を続けざるを得ない。しかもその二つは分裂状態をも続ける。決して一つに溶融する事はない。

磯崎新とアニミズムは遠い。アニミズムは石や木や水というマテリアルに精霊(アニマ)を視る事から生じる。つまりマテリアルが語るのを聴く耳を持つ事でもある。その発展段階としてのシャーマニズムはその語りに耳を傾ける人間がシャーマンとして専門化してトランス状態に降下しマテリアルになり代って物語るというに他ならぬ。モノ作りのモノ、あるいはモノ想うのモノの語源だとも言われるマナ(※3)、それは太平洋文化圏、ポリネシア諸島に特有なマナイズムから来ているようだ。物の怪のモノは海からやってきた。そんな世界観と磯崎は遠い。はるか海上の道よりも余程遠いかもしれぬ。そう理解して大方間違いないであろう。

しかし大方の理解は常に大きな誤りもあるのをすでに我々は知っている。それならば何故磯崎新は空中浮揚やレオナルドの飛行の現実、レアリテに固執するのか謎である。まさか磯崎新にシャーマン願望への希求が、イヤイヤやっぱりそれはあり得ぬだろう。

マテリアルに語らせようとした現代的表現は皆無であるかと言えば、それは違う。映像の世界ではそれは普通の事でもある。宮崎駿監督(※4)の世界はそのモノずばりアニミズムの世界でもある。更にスティーヴン・スピルバーグ監督のデビュー作「激突!」(※5)を思い起こしてみよう。アレは物言わぬ筈の大型トラックに、明らかに語らせようとした映画である。少し錆びてデッカイ、トラック。それを運転する筈の人間の姿は遂に登場しない。トラックが人間に殺意を抱いてハイウェイを追いかけ続けるという新しい形でのホラー映画であった。アレは鉄とゴムと、そして油に、今を代表するマテリアルに人間への悪意を語らしめようとしたモノだ。

磯崎にはそのような表現に対するテイストは薄いように思われる。恐らくは、そのような形式で物語らせようとする事への関心は皆無ではないにしても薄い。ただし、ルイジ・ノーノの墓のデザインや宮川淳の墓らしきのデザインはそれに近いが、これは稿を改めたい。

では、「ふたたび廃墟になったヒロシマ」に語らせているに近いモノは何者であるか。すでにそれは自画像であると指摘した。多くの画家達が自画像を作品として残している。あの廃墟は現実の都市へのテロリスト、破壊願望者としての自身を表現すると同時に磯崎新の廃墟願望そのものでもある。それだけがほとんど絶対的な内部としての廃墟そのものが描かれている。

磯崎は廃墟に溶融したいと欲望している。その廃墟はつわものどもが夢の跡の草ボーボーとして石コロだけが転がるような日本的廃墟(※6)ではない。孵化過程のドローイングにも登場したイタリアの廃墟であり、筑波センタービルのドローイングにも表現されたサンピエトロ寺院の広場の日本への移送された廃墟でもある。しかし、日本には建築としての骨格が透視し得る廃墟はない。蘇我馬子の墓とされる大和の石舞台も、廃墟と呼ぶには程遠い。小林秀雄はそれを嘆いて、古代中国からの移住の技術者達に石工系が少なく、木工系の技術者ばかりがやってきたからだと指摘しているが、そればかりの事ではあるまい。例え石工系の技術者が渡来してきたとしても、大和にひいては磯崎の生まれ故郷である北部九州に壮大な石の建造物が林立したとは考え難い。

磯崎新の廃墟には日本という場所はあくまでも似合わぬのである。それだからこそ、磯崎は廃墟の場所を一切の建築形式が残る筈もないヒロシマに再び求めたのである。

原子爆弾という人間が発明してしまった魔物は一切を破壊し、殺戮し尽す。ヨーロッパの建築の粋である大聖堂群の破壊は既に第二次世界大戦に於いて体験している。無傷であった新興国アメリカも2001年9・11のテロリズムによって大聖堂ならぬワールド・トレード・センターの超高層ビルというアメリカ資本主義のカテドラルが破壊されてその廃墟を我々は共通にすでに体験している。ヒロシマの廃墟はそれをもたらせた原子爆弾という殺戮破壊の神とも言うべきモノの性格によって、世界の終末をさえ容易に想像させるのである。

我々はヒロシマに冠された「再び」の言葉に注目せねばならない。再びとは終るべき未来を指し示している。それ故にヒロシマは絶対の廃墟として磯崎の脳内風景に現れたのである。再びのヒロシマは自身の存在に対する信頼と表裏一体の、薄皮一枚に併存する深い懐疑でもあり、恐怖、自身の知覚の在り方に対する時には恐れでもあろう。それが磯崎新のメランコリアの中心である。

※1 嘆きの壁 ユダヤ教で最も神聖な建物である、ヘロデ大王時代の紀元前19年頃に拡張されたエルサレム神殿の外壁の一部(西側)を指す。紀元後70年のエルサレム攻囲戦で、ティトゥス率いるローマ軍によってエルサレムは炎上し神殿は破壊されこの西壁のみが残った。なお、ユダヤの人々は神殿の破壊を悲しみ、残された城壁の前に集まり祈りを捧げる。その際人々は壁に触れるため、壁は人の高さの部分が黒ずんでいる。

※2 『AKIRA』 大友克洋の『週刊ヤングマガジン』で連載(1982-1990年)された漫画。全120話。リアルな描写と状況演出をもって近未来の荒廃した世界をセンセーショナルに描き出したSF作品である。単行本は週刊誌と同じ大きさの大判サイズで刷られた。またアメリカンコミック風に着色されアレンジされた英語版が国外でも発売され、世界的に大きな反響を呼んだ。「ジャパニメーション」と称される日本アニメの流行の先駆となったと言える。1988年には大友自身が監督となり映画化もされている(総制作費10億円)。なお、タイトルの「AKIRA」は大友が大きな影響を受けた映画監督の黒澤明からきていると言われている。

※3 マナ ポリネシアやメラネシア地域の伝承で、神や祖先との関係に由来した、物体に宿るとされる力や権威の事を指す。1891年にイギリスの人類学者R・H・コドリントンによってメラネシアの宗教概念における非人格的・呪術的な力の観念を説明するために西洋世界に初めて紹介された。フランスの文化人類学者マルセル・モースは著作『呪術論』の中で、マナが指す対象についてを「単に一つの力、存在であるのみならず、一つの作用、資質および状態である。」と表現している。一方で、万葉学者の中西進は、日本の「モノ」という言葉の語源はマナであるとし、マナという言葉が縄文時代に非常に発達したカヌー技術によってメラネシアから渡来したのではないか、と多くの場で発言している。 (コドリントンが原住民たちのマナ概念の使用を発見したのも、カヌーの性能の違いを説明する彼等の口述においてであった。(『メラネシア人』より))

※4 宮崎駿(1941-)アニメーション作家。宮崎の制作スタイルは、脚本を作り上げずに絵コンテと同時進行でアニメーションを制作していく手法で知られる。また、作品世界の演出とその状況描写は、史実と自身の歴史観を基にした非常に純度の高いイメージで構築されている。画面のフレーム内に現れる小道具やキャラクターの演技や衣装、そしてその地の気候や植生に至るまで徹底して管理し、実写では実現でき得ない独創的かつ厳密な自身の世界観を宮崎は表現する。

※5 「激突!」 スティーヴン・スピルバーグが監督したアメリカのテレビ映画。1971年製作。撮影から放送までの製作期間を一ヶ月半ほどしか確保できなかったため、絵コンテを用いる時間がなく、撮影スポットをおおまかに地図にプロットしたのみで撮影が行われた。街から荒野までのハイウェイを舞台に乗用車とトラックのカーチェイスを描いた作品。ストーリーの構成は非常にシンプルだが、両者の視点から交互に撮るカメラワークや、トラックの運転手を登場させずにあくまでも追われる乗用車に乗った人間の心理描写に注力する演出によって、人間と、生々しさすら帯びる無機質な物体とが不気味に対峙(Duel!)し続ける、不安定な人工都市の世界を表現し得ている。

※6 松尾芭蕉は奥の細道の終点、東北・平泉の地で、「夏草や兵どもが夢の跡」という句を詠んだ。僅か三世で消えた平泉の奥州藤原家の歴史と、彼等と源義経の儚い運命を回想詠嘆し、彼等がかつて描き出した夢風景と、眼前の夏草が生い茂る光景とを重ねあわせたものである。茫漠たる自然によって侵蝕され当時の建築の痕跡は消え失せ、ただ草々に覆われてしまう、日本およびアジア独自とも言える、湿潤な気候の自然環境と人工的風土との時空的な応答の有様を恬淡と描写している。

※注釈:佐藤研吾

記 2012年6月9日

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石山修武第43信 作家論 磯崎新19 

アイザック・アシモフ(※1)やR・ハインライン(※2)と並んで、SF作家の巨匠の一人であるアーサー・C・クラークがスリランカを終の棲家(※3)にしたのは良く知られている。彼は晩年に近く仏教への傾斜を強くのぞかせたが、仏教は宗教ではないとの言明もあり、結局は無神論者としてその生を終えたようだ。本当のところは良く解らないし、その点にそれ程の関心を持てない。

作家論を書き進めてゆく上では、むしろアーサー・C・クラークと「2001年宇宙の旅」の映像作家(映画監督)であったスタンリー・キューブリック(※4)の関係の方が興味深い。どうやら二人の関係は複雑きわまるモノであった。一般的にはその関係は物語りの原作者と、その原作を基にした映画制作の監督という事になろう。

が、しかし事はそれ程に単純ではない。

「2001年宇宙の旅」(※5)は今でも歴然として20世紀に制作されたSF的映画としたら群を抜いた名作であり大作である。世界各国での観客動員数に於いても、その内実の質に於いてさえも。大衆にも一部の選良にも共に受容されたと考える。病院行予備患者とも言われる更なる先鋭的エリートがどう観たのか、あるいは全く視もしなかったのかは知らない。それも又、本論考の枠の外の世界である。

 

それではその原作者と映画監督の関係はどうであったか。不可思議な事に映画「2001年宇宙の旅/2001: A Space Odyssey」は1968年4月に公開されており、原作『2001年宇宙の旅/2001: A Space Odyssey』は同年の7月に公表されている。つまり映画の方が早いのである。又、原作が映画の制作過程に合わせて書き直されたりもしたようだ。アーサー・C・クラークはそれにいささかの不満があったと記録されている。

映画・原作共にすでに半世紀昔の出来事ではある。

 

今現在これを記すのは映画と原作、すなわちスタンリー・キューブリックとアーサー・C・クラークの、すなわち映像作品と原作とされる小説の優劣を論じたい為ではない。どんな分野の作家にもありがちな、作家らしい作家こそに見られる分裂性の併走の根底を考えてみたいからだ。特に映画や建築の分野の作家にはそれがより直截である。映画はより解り易い。脚本を書く映画監督と書かぬ監督は、これは世界が異なる。

磯崎新の言説およびドローイングらしきを脚本(原作)実作品を映像作品と置換して考えてみたらどうだろう。コンクリートや鉄やガラスは語らない。でも作者はそれに本当は語らせたいのであるとしたら。

 

磯崎新が発する言説量、端的に言えば著作量だがこれは日本のみならず、世界的にも異常に多い。フランク・ロイド・ライトはル・コルビュジェを評して、一つの建築を作る度に数冊の本を書くと、勿論これは侮蔑である。磯崎新はル・コルビュジェよりもはるかに多作であるが、著作量はその比どころではない。歴然として異常であり、説く内質よりもその多量さ自体が異様でもある。その事自体に何か異常な、つまりは今に重要な意味が隠されているのではないか。今に異形としか思えぬ事に関心がある。又、その疑問符は大きければ大きい程に現れる価値もあるだろう。

しかも自作のプロパガンダ、作風の喧伝の枠にとどまらず、より広範な建築批評、歴史観にまでその枠は拡げられてきた。すでにフランク・ロイド・ライトがコルビュジェを批判したどころの、敢えて言うが世界ではない。すでにその作家として依って立つ、あるいは立とうとする基盤そのものが大いにズレてしまっている。日本の建築家とはそして彼等が意味あるモノとして目指そうとしている世界とは画然とした異分野そのものが目指されようとしている。あるいは意図的にズラされようとしている。すでに少しばかりは述べた。その要は。

要するにこの異常な多弁振りも又、都市破壊業KKのなりわいの一つなのである。

 

メタボリズムの建築はそのオリジナル・イデオロギー通りに新陳代謝し続けて、やはり消滅する。すでに述べたようにメタボリズムは大量消費社会の鏡像を先験的に示すものであった。工業化の論理はその先に大量消費を前提とせざるを得ないのは今では自明の理である。工業化という生産の論理はその内に停まる事のない生産の拡大という自動律を内在させている。それが国境を越え世界性を所有しようとするのがグローバリズムである。その類のグローバリズムのマネーのファシズム、管理社会、監視社会の内外にユートピアに近いがデストピアでもあるもう一つの世界を構えようとしているのである。

アーサー・C・クラークは終の棲家をスリランカに定めた。インド亜大陸の外縁の島国である。そこで彼は衛星通信を使いながら世界と交信していたようだ。そしてスリランカの習俗に従って葬られた。そんな実人生も又、彼の書いた原作、シナリオだったのだろうか。そんな実人生の在り方が彼の作品の数々に不思議な光を当て続けているようにも思われる。恐らく将来はその傾向がさらに強くなるだろう。世界はあらゆる情報によって装飾されもしているのである。作品らしきも又、決してそれ自体が自立する事はない。特に建築物の価値はことさらにそうなのだ。経済性、実利性を旨とする建築物の群と、磯崎新が構想する世界とは別世界である。しかも現実は徹底した経済、実利によって構築されている。その趨勢はとどまる事を知らぬであろう。

それ故にこそ磯崎新は膨大な言説を吐き続けるのだろう。磯崎たりともその作品群の量は経済実利の建築群、つまりグローバリズムの産物としての建築群と比較すれば圧倒的な目もくらむ程の少数派でしかに過ぎぬ。かつてヨーロッパの都市にはカテドラルが存在しその在り方が都市に光輝を与えていた。近代建築の存在形式にそれは望めない。

磯崎の如くに物質、コンクリートや鉄やガラスに何かを語らせたいと希求する者、空間や光の人工的構築性によってやはり何かを語らせようとする作家の建築と、実利経済の結果としての、それも又建築物であるのは事実だが、それは別の種族と言って良い程に分離し分裂している。実利経済性の表現が、作家性の強い異形に模倣させる、あるいは模写させる事、すなわち建築思潮、表現形式の主導権を握る事は決して無い。それは別物の世界である。増々その傾向は加速するであろう。それはとも角、それ故にこそ磯崎新は多弁、多言説、多著作の人にならざるを得ない。多著作、言説によって現実の都市を、都市破壊業のなりわいとして観念世界に於いて破壊したいと、願うからである。

再び言うが、「ふたたび廃墟になったヒロシマ」は磯崎新の自画像である。都市が破壊しつくされるという強い欲動は、我々の想像力の中にさえ現実として強く構築されている都市の現実の、それも又構築性であるに違いないが、それへの破壊そのものである。標的にされているのは我々の脳内風景の現実としての都市である。

※1 アイザック・アシモフ(1920-1992) ロシア出身で、アメリカの作家、生化学者。戦前の大学在学時から「ファウンデーションシリーズ」などのSF作品を発表していたが、SF作家として本格的な活動に入るのは戦後50年代以降である。また、非科学的・非合理的な事柄を嫌い、大学に勤務しSF作品から離れていた時期(60-80年代)には自然科学系のエッセイや入門書などノンフィクション系の著書を中心に執筆している。その他推理小説も合わせると、生涯におよそ500冊を越える著作を残した。また、彼とSF雑誌編集者のジョン・W・キンベルJr.によって提唱された「ロボット工学三原則」は、SF小説の分野だけに留まらず、その後のロボット工学における倫理的規範として大きな影響を与えた。
なお、ハインラインや同じくSF作家として知られるディ・キャンプとは、第二次大戦中フィラデルフィアの海軍工廠勤務時代の同僚である。

※2 ロバート・A・ハインライン(1907-1988) アメリカのSF作家。バイブル・ベルトと呼ばれる宗教的保守性が色濃く残るミズーリ州のカンザスシティで育った。また、その後海軍の士官として入隊し、後の太平洋戦争で海軍作戦部長として活躍するアーネスト・キングの下で勤務した。SF小説の発表は海軍退役後の1939年以降である。ハインラインの作品は科学技術が作り出す単なるフィクション(もちろん科学考証に裏付けされた)を描くのではなく、そのテクノロジーの様々な社会的影響を描写し、その後の世界の原子力発電や冷戦などをはじめとする諸処の地球規模の人為的問題について多くの予見を残した。その先見的な才質と構想力はその後の他のSF作家に大きな影響を与えている。

※3 アーサー・C・クラークのスリランカの終の棲家 イギリス出身のSF作家アーサー・C・クラーク(1917-2008)は1956年にスリランカ(当時セイロン)に移住している。彼の趣味であったダイビングが主な理由ともされているが、死去するまでほとんどの期間をそこで過ごした。彼は「エレクトロニック・コテージ」とも呼ばれた邸宅で、コンピューターや無線を通じて絶えず世界との交信及び発信を行っていた。彼の晩年の著書『スリランカから世界を眺めて』(1977年)では、彼の科学的未来予測を中心としたエッセイとともに、スリランカでのそうした生活の描写や、難破船の財宝引き揚げの海洋冒険エピソードなどが集められている。なお、スリランカ国民の約7割が仏教徒であり、彼のブッティズムへの興味はその地域的伝統と精神世界に囲まれた生活環境からの大きな影響があったのであろう。

※4 スタンリー・キューブリック(1928-1999) アメリカ・ニューヨーク生まれの映画監督。少年時代からカメラに親しみ、見習いカメラマンの時代を経てその後映画製作の道へと進む。彼は完璧主義者として知られ、映画の企画・製作から配給、さらには上映される映画館の地理的条件までも掌握して映画製作に臨んだとも言われている。

※5 「2001年宇宙の旅」 小説と映画の脚本の製作は同時進行に進み、クラークとキューブリックは両者の意見と提案を相互にフィードバックする形で進められた。企画のスタートは1964年であるが、小説及び映画の発表と公開は1968年である。映画版に関して述べれば、映画本作に投じられたSFX撮影の技術や、それにともなう台詞や説明記述の非常に少ない視覚表現に特化した作品形式はこれまでのSF映画のイメージを覆すほどの大きな影響を映画界に与えた。未来のテクノロジーが作り出す想像世界を表現する、当時のテクノロジーの所作その表現形式として捉えるとより興味深い。なお、続編として書かれた小説『2010年宇宙の旅』でクラークは、映画版と小説版で矛盾する箇所は映画版を優先するという決断を下している一方で、その映画化に際してはキューブリックの起用を避けている。
未来世界の空想的風景に対して取り組んだ、クラークによるテキスト描写と、キューブリックによる映像視覚表現について、両者の表現形式(メディア)の差異と彼らの創作の交錯関係については今後さらなる考察を加える必要があるだろう。

注釈:佐藤研吾

記 2012年5月9日

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石山修武第42信 作家論 磯崎新18 

何時の事であったか、もう定かではないが六角鬼丈(※1)と新居に移った磯崎新を訪ねた事があった。六角は磯崎アトリエ創成期のメンバーである。恐らくは磯崎を最も良く知るであろう人間の一人だ。話しは夜更けに及んだ。当時、磯崎新はイタリア、フィレンツェのウフィッツィ美術館の新しいエントランスゲートの仕事の最中であった。

話しはレオナルド・ダヴィンチになった。

磯崎はイタリア、ルネッサンスのミケランジェロ、ブルネレスキ、パラディオには手放しの、少年の如き憧憬を寄せる。これがあの磯崎かと驚く程の畏敬の念を持ち続けるようだ。

レオナルド・ダヴィンチの人力飛行装置(※2)の話しになった。記憶を辿るので不精確な再現しか出来ぬ。しかし、実に忘れ得ぬ話しであった。

最近フィレンツェ郊外の巨大な岩山の下から人骨が発掘されたと言う。その人骨はどうやらレオナルド・ダヴィンチの人力飛行装置のテストパイロットのモノではないかの風評があると言うのだ。

この辺りから磯崎の眼が光り始めた。珍しいなと六角鬼丈もわたくしも身を乗り出す。深夜である。磯崎は声をひそめて話し出す。誰も他に聞く者は居ないのにヒソヒソ声になる。

「岩山の下の人骨はレオナルドの人力飛行機のパイロット、つまりテスト飛行士にちがいない。時代考証地理その他全て符合するんだ」

「ヘェー」と我々は顔を見合わせた。

磯崎新の飛行ならぬ空中浮揚の話し、及びそのヴェネチアでの実験には、まさか?のクエッションマークが相も変わらず貼り付いている。まさか?でも磯崎は今度もどうやらそう信じ切っているのが明らかに見て取れる。

磯崎アトリエOBの六角鬼丈は日本の建築家達の中では毛綱モン太と並んで超常現象は積極的に受け入れる派の最右翼である。その手になる建築もいわゆる常識を飛び超えるモノが多い。

さらに昔、わたくしは毛綱モン太に連れられて飛騨高山の不思議などなたかの研究所とやらに出掛けた事があった。そこで多くの月の裏側の写真を見せられた。人工衛星が月の裏側をのぞき込む以前の事であった。毛綱は大層熱心にその月の裏側の写真やら、何やらに集中していた。わたくしはあきれてそんな毛綱を眺めていた。

「モンちゃん、これは在り得ないよ。みんなペテンに決まってるぜ」

と正しい指摘をしたら、

「オマエ何考えとるか。コレワ本物だぜ。そう考えられぬオマエの方がペテン師だ」

と逆襲された。

はるばる飛騨高山に迄旅をして、吉島家の民家(※3)ならぬ、月の裏側の写真を見せつけられて、わたくしは呆気にとられる計りであったが、そう迄言うのならと渋々毛綱に従って月の裏面写真に見入る振りをした。コレワ、ペテンだと思ってはいたが、本物だと言い張る毛綱の建築をわたくしは好きであった。こんなに良い建築を作る奴がコロリとペテンにかかるわけが無い、これは深く隠された意味があるやも知れぬと考える事にしたのだ。そう考えなければ今、こうして明らかに何かの間違いで焼付けられた月の裏面写真を見ている自分が信じられぬのであった。

毛綱と六角は盟友であった。

二人は異形の想像力らしきを共有していた。

 

そんな六角が磯崎新の深夜の奇譚には乗り切っていない様ではあった。それが不思議だった。

磯崎新の深夜のヒソヒソ話しは続いた。

「岩山の上でね、この人骨になった人間にレオナルドは人力飛行機を装着させたに違いない」

「でも、ドローイングで見るレオナルドの人力飛行機はいかにも重そうじゃないですか。どんな素人でも、ましてや天才レオナルドがいかに自分が考案した飛行物体としても、これが本当に飛ぶとは考えていた筈がないんじゃないですか」

「イヤ、飛ぶと信じてたんだよ、レオナルドは」

「本当かなあ。それでどうしたんですかねレオナルドは」

「人力飛行装置を身に付けさせて、二人は岩山の、絶壁の先端に立った」

「・・・・・・・・・・・・・」

「それで、レオナルドはテストパイロットの背中をソッと押したんだ」

その時の磯崎新の手付きを忘れる事が出来ない。レオナルド・ダヴィンチは鏡を使って左右両方の手で自在に文字を、図形を描けたと言う(※4)。

だから、そっと背中を押し出した手が右手だったか、左手だったかの記憶は薄い。

でも両手ではなくってあきらかに片手で磯崎はレオナルドの手付きを真似てみせた。

 

真夜中の帰り道。

「今日の話しだけれど、磯崎さん本気なんだろうか。その場で見ていた様な話し振りだったけど」

六角鬼丈、いわく、

「イソさんは昔からだよ。時々、ああいう話しをするんだ」

「演技じゃないよな、アレは」

「それは無いよ。アレは時々の地だ」

「ウーム・・・・・・・」

この小話にいか程の意味はあろう筈はない。だから、このままで終る。

※1 六角鬼丈(1941-) 東京芸術大学出身、祖父は漆工芸家の六角紫水である。磯崎新アトリエには大学卒業後の1965年から勤務している。六角は、自らの建築の出自において、磯崎のその理知的かつ反語的な思考力に多く影響された事を述べている(「建築—私との出会い」六角鬼丈、『建築文化』1998年10月号)。

※2 レオナルド・ダヴィンチが手羽ばたき式の人力飛行機、オーニソプターを設計したのは1490年とされている。それはトビをはじめとする鳥類の飛行を観察し、羽ばたきの仕組みや骨格についての調査を重ねた結果であった。発明したものには幾つかのタイプがあるが、構造は主に人間の脚力を利用して装置の比翼を羽ばたかせるものであった。

※3 吉島家住宅 飛騨高山の市街地に位置する造り酒屋の古民家。明治40年河原町の名工をうたわれた西田伊三郎によって建てられた。この住宅の主たるは、大黒柱を中心に構成される梁と束の立体格子と、高窓からの自然光で包まれる土間の吹き抜け部分である。その壮麗な建築空間はまさに明治以降、幕府の禁制を解かれた豪商だからこそ実現できたものでもあるだろう(高山は江戸時代は天領であり建物高さの制限があった)。なお、1977年アメリカから来日した建築家、チャールズ・ムーアは、庭園では京都の苔寺(西芳寺)、建築では吉島家を挙げて激賞している。

※4 ダヴィンチは普段は左手を使う両利きであったとされており、残されている膨大な手稿の多くは鏡文字で書かれている。鏡文字が書かれた理由としては諸説あるが、そもそも、ダヴィンチが「ウィトルウィウス的人体図」を描くことで人体の対称性について意識していたことからも、彼が左手で書く文字が右手のそれに対して鏡像となるのは極めて当然であると言えるだろう。

記 2012年5月6日

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石山修武第41信 作家論 磯崎新17 作品論3「再び廃墟になったヒロシマ」2

2000年ヴェネチア・ビエンナーレ建築展(※1)、日本館の展示は妹島和世がインスタレーションを行った。日本館の周囲の立木に白い包帯を巻きつけて脱マテリアル、より言いつのれば脱自然するという展示であった。

磯崎新はハンス・ホラインと共に招待作家であり、造船所跡の廃墟状が会場であった。ハンス・ホラインは造船所内の水面にいかにもホライン風の何やらホライン印らしきのオブジェクトを浮かべていた。作家が自分が一度まとった衣を脱ぎ捨てるのは大変なのだ。

磯崎新の、あれが展示と呼べるものなのかは知らぬが、それは「空中浮揚」(※2)であった。クロアチアから数名の行者らしきを呼んで空中浮揚をさせるから、見に来いと言われてそれでも好奇心半分、仕方ネェなが半分で、わたくしもヴェネチア迄足を運んだ。星占いかタロットらしきで会場に辿り着く時間迄指定されていた。ところがである。その肝心要の行者達の到着が遅れてしまった。星の巡りで会場の開門時間まで決められ、会場にギューギューづめになり、入口の扉迄閉じられて逃げようも無かった。浅田彰他の顔も見えた。皆、好奇心はあるのだが、まさかの顔をしていた。

都市破壊業KKの続編なのだった。

やがて行者達が白い衣をまとって入場した。皆、男性である。行者達はこれも白い布で包まれた曼荼羅状に配置された塔状ピラミッド群の中に座した。それからメディテーション、やがて空中浮揚が始まった。浮揚と言うよりも、わたくしには空中ジャンプと眼に写った。白い衣の行者達がドスン、ドスンとあぐらをかいたまんま空中、と言うよりも床上数センチメートルに飛び上がるのであった。廃墟となった工場内にはガラスの破片が飛び散り、扉が閉め切られた会場には高窓から光が降り注ぎ、ガラス片に反射してキラキラと散乱した光の状態を作り出していた。

その中でのドスン、ドスンの群音である。スウェデンボルグ(※3)の幽体離脱体験の涯の天上界巡りの体験記などはいささか体験し、面白がる身ではあったが、流石にドスン、ドスンはどうしたっていただけなかった。

観客の大半は磯崎新の作品、思考の同好者であったろう。日本の内外を問わず。だから知的な層の人達であったろう。世の常として、簡単には神秘としか言い様の無い体験は受け入れまいとする壁を立てている。そこまで言わずとも、やはり地球上での万有引力の法則は受け入れている。万有引力の発見者であるニュートンが色濃く神秘主義者の側面を持つとしてもである。地表近くで質量の在るモノは落下はしても自ら浮揚することはあり得ない。

皆、一様に呆気にとられていた。TVカメラ迄入ったので、なるべくカメラの被写体にならぬように工夫を巡らせていた。磯崎新は花札の坊主の如くに突立っていた。

ドスン、ドスンが一段落して、皆一様にホッとして廃墟から外に出た。アドリア海の光がまぶしかった。

 

磯崎新は言った。

「浮いたな。見たろう。一瞬ではあったが本当に浮いた。アトリエの連中にビデオとらせていたんだけれどたしかに浮いたぞ。どうだった」

はねてただけなんじゃないでしょうか、とはとても言えぬ。しかし、確かに浮きましたともとても言えない。それは嘘になる。

「ウーム・・・ボソボソ」と口ごもるしか出来ない。

これを磯崎が東京で、あるいは故郷九州でさえも、日本でやろうとしたら、やはりいささかどころでは無いだろうネガティブな風評、批判が沸き起こったであろう。

でも、ここは世界の建築展、美術展の中心の一つヴェネチア・ビエンナーレの会場であり、磯崎はその運営の一端を担ってもきた。その自負と計算あってのイタリアでの空中浮揚であったのか。マルセル・デュシャンがただの便器を「泉」と題して美術展に出品し、物議をかもしたのとは異なるだろう。何故なら、磯崎はすでにそんな事迄して物議をかもす、スキャンダルを作り出す必要も全く無かったから。もう充分に世界の建築界では有名であり、地歩も確保していた。生来の事件好み、スキャンダル好みの発露であったか。それも違うと言わざるを得ぬ。

再び言うが、これは都市破壊業KKの第何弾であるやは精確に知るところではないが、破壊業KKの仕業なのである。

 

磯崎新の処女作エッセイ、つまり無名時代の作品が都市破壊業KKであるが、これは功成り名遂げてからの都市破壊業KKなのであった。

磯崎新には本能的に安定状態を嫌うクセ、性向がある。後天的に身につけた教養としてのアナーキズムとも異なる。より深い内的資質としか言い得ようの無い深層から、その衝動はやってくる。このどうにもコントロールしようの無い衝動は展覧会の、芸術的表現活動のみならず、作家の生の在り方にさえ連なるものであろう。

そして、そこには政治も策略も一切が無い。多くが指摘する磯崎新の相対性、そして批評性の過剰な創作的姿勢は、言わば磯崎が身にまとわざるを得なかった西欧の教養の如きものであった。何故なら近代建築の中心は西欧なのだから。

勿論、この都市破壊業KK、ナマな裸形としての磯崎新は建築家としての生の全てにハッキリと解り易く流れているものでは決してない。生の屈折点、あるいは転形期に内から噴き出る力ではある。

 

ヴェネチア・ビエンナーレ、廃墟となった造船工場で行われた空中浮揚の儀式らしきは、「再び廃墟になったヒロシマ」の地に描かれた、そこからの離脱浮揚の無意識なのである。平板に地球的規模でフラットになり切った近代建築の集合体への破壊への欲動でもある。

 

まさか、と皆さんは考えるであろう。そのまさか?顔や頭脳の中が少しは良く視えるようにはなっている。

「都市破壊業KK」を読んだ人間は、皆、一様にまさかと思ったのである。思わざるを得なかったろう。しかし、磯崎新は、そのまさかが持続しているのである。それが磯崎新の生と創作の中枢である。

 

こう言い切ってしまうと作家論は終止せねばならぬような気配にもなる。でも、この性急振りはわたくしの内発によってもたらされたモノではない。まだ論は延々と続く。かつてフランスからはるばる南米アルゼンチンに、J・L・ボルヘスを訪ねた作家ドリュ=ラ=ロシェル(※4)が述懐した如くに、ボルヘスは旅に値する、と同様に、磯崎新は長い長い旅に値するのである。ここで恐らくは思慮浅からぬ大方の読者は、フランスから遠くブエノスアイレスの国立図書館の盲目に近いJ・L・ボルヘスを磯崎に、フランスの作家ロシェルをわたくしに例えたくなるであろう。が、読書の知性に水を差すようだがJ・L・ボルヘスの夢と現実の薄皮一枚、極薄状態、ほとんどゼロに近い境界線の状態に比べれば、まだまだ磯崎新は発展途上国の住人としか言い様もない。

先の視えてしまう作家に関心はない。常に自分を壊して変転し続けるマグマの在り方にこそ関心がある。同様に、ともすれば先を視てしまいたがる作家としてのわたくしにも関心はない。そんな関心は飼い猫にでも喰わせれば良い。猫もいやがるだろうがね。

 

16、17回目の連載にして、初めてわたくしの初心とも言うべきを吐露させていただいた。読者もさぞかし迷惑であったろうが、ネットでの連載である、極めて良質な雑音の介入も再三再四あり、わたくしとしても無視するわけにもいかないので、こうなった。ネット時代の論考の特権である。

次に進めたい。まだ先は遠い。

※1 ヴェネチア・ビエンナーレ第7回国際建築展日本館「少女都市」(2000年) 磯崎新がコミッショナーを務め、キュレーターを小池一子、会場設計を妹島和世+西沢立衛/SANNAが担当した。その他写真家やファッションデザイナーなどもゲストアーティストとして参加している。

※2 憑依都市(トランス・シティ)と題されたこのプロジェクトは、R・バックミンスター・フラーのダイマクシオン・マップをそのモデルとする、磯崎の「群島」概念の表明として、集団的瞑想における意識の波動が作り出す場の形象化を試みたものであった。 実演したのは、超越瞑想(Transcendental Meditation)の創始者であるインド人のマハリシ・マヘーシュ・ヨーギー(1918-2008)の弟子達であった。(「不可視から不可侵へ」磯崎新、『atプラス08 瀕死の建築』(太田出版、2011年5月)より。)マハリシは1960年代にはアメリカを中心に活動し、当時はヒッピーの主要なグル(指導者)とされた。また、ビートルズとの一連の接触に関する報道でも話題となった人物である。

※3 エマヌエル・スヴェーデンボリ(1688-1772) スウェーデン・バルト帝国生まれの神秘主義的思想家。スヴェーデンボリの神学論は通来のキリスト教とは大きく異なり、神の汎神論性を軸に据えたものとして知られる。彼が死後の世界を実見したという主張のもとに二十年に及ぶ霊的体験(神の啓示)を克明に綴ったのが、『霊界日記』である。 また、彼は一方で数学、物理学、そして生理学や結晶学など様々な科学分野についても精通していた。彼の多岐にわたる業績の中でも特に、彼が描いた動力付き飛行機の設計図は、飛行機械に関する世界初の刊行物とされている。

※4 ピエール・ドリュ=ラ=ロシェル(1893-1945) フランス生まれの作家。アメリカの資本主義及びソ連の共産主義に対抗し得る思想としてファシズムに傾倒した彼は、第二次大戦中は対ナチス協力者として活動し、戦後自殺した。また、フランスの文芸評論家として知られる、モーリス・ブランショ(1907-2003)は、右翼に近い思想を持っていた1930年代にロシェルの秘書をしていたと言われている。
なお、ロシェルがアルゼンチン・ブエノスアイレスのボルヘスに会いにいったのは1933年のことである。以下彼の記述を載せる。

「懐疑とも狂言とも無縁の、本当に知的な人間。それがボルヘスである。・・・
それぞれの国に何人かはこのように頭の良い人間がいると考えるのはまことに心安らぐことと言わねばなるまい。
稀ではあるがそうした人びとが世界に存在するからこそ、旅の甲斐もあるというものではないか。」
(「旅してもボルヘスを知る価値あり」、高遠弘美訳(『ボルヘスの世界』澁澤龍彦、国書刊行会、2000年10月。))

記 2012年5月6日

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石山修武第40信 作家論 磯崎新16 作品論2「再び廃墟になったヒロシマ」

ドローイングあるいはそれに類するモノも作品として重要である。時にそれが実作、つまりは地上にある質量を具体化して作られたものよりも重要かも知れぬ、そう考えさせるのが作家としての磯崎新に焦点を当てる意味の一つだ。

特にわたくしにとっては。

わたくしにわずか計りの価値らしきがあるとすれば、あって欲しいからこそこの作家論を書いているのだが、建築家としての実作の多さ、その質量に拠り所を求めるのは不可能である。それはすでに痛い程に自覚している。それでは地上に残す質量以外に何かを残せるかと考えれば、単純極まるけれども質量を欠いた無重な情報としてのドローイングの類い、謂わゆる俗に言ってしまえば計画案という事にならざるを得ない。これには厄介な依頼主も必要としない。だから建築家らしきに必須なある商売のセンスが薄くっても何とかなる。

ただし必要なのは純然たるとは言わぬ、細密な世界の構築力である。世界のと言っても、それを言語によって構築しようとするのではない。物体らしき、あるいはそれを想わせる物体イマージュを描き出す事によって、あるべき世界を描写する事ではあろう。あるべきと言うと来たるべき未来という楽観的世界を想定してしまうやも知れぬが、それはちがう。過去へ過去へと遡行を続け、その涯に辿り着くもう一つの現実であるのかも知れない。

ここのところ、この作家論に少なからぬ時間とエネルギーを費やしてしまい、か細くなってはいるがほとんど毎日の如くにドローイングらしきは続けている。それが自分には最も適した表現方法であると考えるに至ったからだ。

かと言って、わたくしは芸術家では無いと自覚している。自分で自分を芸術家かなと考えるには、わたくしは余りに建築家らしきであり過ぎる。何を描いても、それがある種の物体らしきを描こうとするに至るのだ。建築という古い形式らしきから逸脱するのが多かろうが、それはやはりある種の物体を目指そうとしているのを知るのである。

 

磯崎新にはアンビルト(※1)と名付けられた著作があり、それは中国語にも訳されて、多くの中国人読者も獲得しているようだ。でも、それは磯崎新特有の、あるいは大建築家に独自な未来ビジネスモデルとしての計画案群である。壮大なキャピタリズム世界での営業行為でもあるだろう。わたくしはそれ等には多くの関心を持たぬ。

磯崎新の中国大陸での仕事には作家論を書く上では関心を持たざるを得ぬが、それは磯崎新にそれこそ特有な九州という場所の、群島世界状態を先験的に示さざるを得ぬ地政学の帰結としてであるか、あるいは磯崎新の本体でもあろう既存社会の破壊願望を奥深く内部の資質として持つ、作家本来のマグマの、隠そうにも隠し切れぬうごめきの、そのどちらかしか無いのである。

 

磯崎新の最良のエッセイはより精確に言えば自身を現実にさらしたものは処女作の「都市破壊業KK」(※2)である。まだ磯崎新は書き続けるであろうから、これは2012年春現在としなければならぬが、歴然としてこのエッセイには磯崎新の全てがある。そして本性もザックリと露出している。あまりにも露呈され過ぎているので、廻りの社会=読者=観客が、まさかの斜め読み、つまり滑ってしまう位のものだ。

 

ここに書かれている、あるいは不気味に表明されているのはより深くは磯崎新自身の二重性、あるいは両極性の伴走である。それは言説と実作表現の双子状態でもある。しかもシャム双子(※3)の合一性を持たずに分離され、あるいは意図的にしたまま生を、創作を進行させるという、まさに木の葉隠れ(※4)とでも呼びたい自己隠蔽術、そして俗に言えば方法とも、手法とも呼び得た二頭性である。つまり、極論すれば、磯崎新の創作群と言説群とは見事なくらいに分離している。更に言えば分裂している。しかも鏡像の如くにそれぞれが分離しながら自走を続けてきたのである。作品解説の如くの自己証明の類の中にもそれは時に歴然として浮上する。

ただ、ここに磯崎新のマグマとも呼ぶべき作家本来の本能的な近現代に対する嗅覚が在る。それ故にこそ、わたくしもこの作家論にいささか度外れた熱中をしている。

「都市破壊業KK」のマニフェストの典型とも言うべき作品がある。

「再び廃墟になったヒロシマ」(※5)である。

この作品は磯崎新の終末観=建築観の初期的表現であるばかりではなく、作家の身をとり囲む現実、観念的であろうが私的な現実であろうが、それに対する破壊願望がある。奥深くある。

アイロニーと自身を知的に装うまでもなく、その願望が露出している。この作品は磯崎新の自画像である。

観客は、つまりはこの作品の受け手はそうは考えない。ヒロシマの現実、実際その原爆投下による都市の破壊は20世紀最大級の悲劇であり、破壊でもあった。戦争の極度の表出でもあった。そこに我々は眼がゆきがちであった。

でも、これは磯崎新の自画像でもある。良く、まあこの作品を提示しながら、建築家として戦後資本主義社会をしのいできたなと驚くのである。この作品は磯崎新自身である。この作品を磯崎新は言説の如くにコラージュとして発表した。あるいは芸術家の一人として社会に提示した。それ故、社会はそれを容認し得たのだ。

おそらく「都市破壊業KK」は今でも磯崎新の中心である。

※1 『UNBUILT/反建築史』磯崎新、TOTO出版、2001年1月。1960年代以降の磯崎の作品から実際に建つことのなかった案を集め、同名の展覧会(ギャラリー間、2001)が開催されている。『反建築史』の冒頭エッセイ「流言都市」には、「都市破壊業KK」において現れたS(SIN)とA(ARATA)の分裂した磯崎の2つの鏡像が再登場し、1960年代から40年を経た21世紀においても、依然として分裂的で、弁証法的な論理の展開すらも拒む自身の根拠不在の作家性を表明した。

※2  「都市破壊業KK」(1962年) 1962年に書かれた磯崎新の寓話的エッセイ。単一の個人(=建築家)の構想力によってでは組立てることができなくなってしまった都市の動向に対する反動的帰結として、「できあがりつつある都市を壊す」という道化的な論理を立てる。磯崎自身の、分裂した二重人格的な作家であらんとする意志を自己批判的に描き、同時にその枠組をそのまま都市に投じることで社会全体への批判として提出した。なお、初出は1962年9月号の『新建築』で、当時の”批評性”を重視する編集者によって仕立てられた場でもあった。

※3 シャム双子 結合双生児の俗称。「シャム」とは現在のタイの旧王朝名を指し、シャム双生児の語源は、19世紀にタイで生まれた結合双生児、チャン&エン・ブンカー兄弟の欧米でのサーカス巡業の際の興業名「The Siamese Twins」にちなむものと言われている。彼らは肝臓のみを共有し接合部を比較的伸縮させることができた。彼らはそれぞれ別々の女性(彼女らも双子であった)と結婚し、21人の子供をもうけたという。62歳まで生きた彼らだが、死期の際、兄のチャンが気管支炎で亡くなると、約2、3時間の差で弟のエンも追って亡くなったと言われている。

※4 木の葉隠れ 木の葉隠れの術と言えば、横山光輝作の忍者comics『伊賀の影丸』の主人公、影丸であろう(初出は1961-66年の『週刊少年サンデー』の連載)。黒装束に鎖帷子という忍者の視覚イメージを確立させたこの漫画は一方で、様々に登場する人物それぞれが固有の特殊能力を持つという、戦後アクション漫画の一つのスタンダードを作り上げた。それはまた、次第に仮面ライダーや超人的能力とその必殺技を駆使して戦うヒーロー像の生成の萌芽であったとも言える。

※5 「再び廃墟になったヒロシマ」 1968年、磯崎新。ミラノトリエンナーレでのインスタレーション「エレクトリック・ラビリンス」にて出品された。未来から現実を振り返る形で眺める、レトロスペクティブな視点から、いわば廃墟に未来の廃墟を重ねたドローイング。事件や災害によって現れ出た終末的な世界の光景が、平時の社会構造そのものの破綻と暴走が向う未来の姿に極めてリアリティを持って接近しうるという、心象のイマージュを鮮やかに描き出している。ビルトでもなく、アンビルトでもない、どちらかの断定も許容しない幻影(=バーチャル)への彼の志向性は当時から現在に至るまで一貫している。

注釈:佐藤研吾

記 2012年5月6日

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石山修武第39信 作家論 磯崎新15 作品について1

磯崎新の作品について触れ始めたい。

対象とする作品の選択についての方法的基準は無い。年代順に選択するわけでも無い。それでは出鱈目なのかと言えば、どうやらそうでも無い。

すでに百枚以上の助走を経ている。

この助走を信じ、そして頼りにするしか無い。助走は助走であるが、補助的な役割であるとするのでも無い。前書きのつもりで書き始めたものが対象作家の重要な切断面をあらわにしてくれたりもする。

磯崎新を考えるに、同様に丹下健三研究室のクラスメートでもあった黒川紀章を考えてもみる事が重要かも知れぬと知ったのもそれだ。しかも作家としての黒川はそれ程多く論じられ、評価されてきたわけではない。しかし、その後はいざ知らず、メタボリストとしての作家黒川の清新さは歴史的に鋭く在る。一時期のその表現力は磯崎新を凌駕していた。磯崎がそれを知らぬ訳が無い。

でも世界中の建築、建築家に関しての膨大な論評、言説が磯崎新にはある中で、黒川紀章の作品、論考に対するそれは皆無とは言わぬが極めて少ない。

何故なのか?

当然自然に考える。それを知ろうとして黒川紀章について断片的にではあるが触れてきた。しかし、黒川紀章の良い作品は今に残るものが少ない。新陳代謝を旨とするプロパガンダ通りに消滅したものに決然とした建築があったのはすでに述べた。作品論の始まりにはその疑問をベースに始めることにした。

作品論も又、1、2、3、と流れるようには進めないつもりだ。多様な猥雑物を挟み込む心積りではある。その理由はいずれ述べなくてはならない。

 

「久住歌翁碑」

「ランドスケイプ化したモニュメント  Monument for a Poet」(1966年)

1966年は磯崎新にとって重要な意味を持つ。大分県立大分図書館が竣工している。丹下健三の下で実質的にはまとめたであろうスコピエ市センター地区再建計画(※1)も終了している。大阪万博会場基本計画も完了している。いわば磯崎にとっての初期の大仕事がほぼ完了したのである。それ等の中にあって、「久住歌翁碑」は小品である(※2)。その後の磯崎の言説の展開の中にもほとんど出てきはしない。しかし、この作品は重要である。

「九州の中央、久住高原をうたった歌のための碑の計画である。------この歌には相むかう久住と阿蘇という雄大な自然がうたわれている。そこで碑のための敷地は2つの山の頂上を結ぶ線上におかれ、それが軸となった。なだらかな山の裾野にオープンカットがつくられる。人間はこの約80メートルの長さのクラックに吸い込まれる。そして、その掘り割のすき間から、前後に2つの山が“生けどり”されるのである。」(『建築』1967年4月、磯崎新解説文)

久住山と阿蘇山と二つの山の頂の水平距離は約26.2キロメートルである。このプロジェクトはなだらかな山の裾野に80メートル程の女陰にも似たクラックだけをデザインしたものだが、その形態のアナロジーにはそれ程の意味はない。重要なのは磯崎が26.2キロメートルの距離を建築として“生けどり”しようとした事にある。明らかにこの計画では26.2キロメートルの距離の建築化が試みられていた。

 

当時の磯崎新の最大のライバル、黒川紀章のメタボリズムを短く要約すれば自然界を建築モデル化しようとするモノであった。新陳代謝は自然世界のモデルであった。つまり、その構想のヴィジョンは従来の枠にはまった近代建築モデルを歴然として外そうとしていたし、大きな拡がりを持つ思想でもあった。しかしその考えにはスケールが、尺度が著しく欠落していたのである。

黒川のオリジナルスケッチには生命体状の有機体の動きのようなモノは鮮烈に示されていたが、それには尺度らしきが欠落していた。顕微鏡でのぞいた菌類の姿のようでもあり、巨大なうごめく生態系を固定化したもののようにも視えるのであった。自然形態のアナロジーの伸縮自在の趣があった。

 

磯崎新のプロセス・プランニングのアイデアは黒川のメタボリズムを充分に意識した上での対抗アイデアでもあった。プロセス・プランニングはコンラッド・ワックスマンのスペースフレームのアイデアと同様に無限に伸展してゆく事が可能なのが要である。何処でその伸展成長していくシステムを静止させるかの理屈に欠けるのが魅力的でもあり、不明であった。建築デザインの理論としては建築が置かれる土地の大きさ、形状、あるいは建築への投資額によって決定されざるを得ない宙吊りの状態が露出せざるを得ない。

それ故に大分県立図書館の所々のデザインには切断面が露出されている。メタボリズムの歴然たる表現であった万博の東芝HIH館、タカラパビリオンもそれは同様で、黒川も同様に未完の状態を、つまり自己増殖し、新陳代謝するシステムの切断面を表現しようとしている。メタボリズムとプロセス・プランニングは双子なのである。

プロセス・プランニングはメタボリズムであり、又、メタボリズムはプロセス・プランニングなのである。

 

歴然と異なる点が二つある。

スケール=尺度に対する考えと、装飾に対する倫理性である。

「久住高原 歌翁碑デザイン」に戻る。

ここで磯崎が26.2キロメートル離れた二つの山を“生けどる”と、アイロニーのみじんも無い設計者の主体を赤裸々にした表現、ポジティブな行為の言葉として表明しているのは実に大事なのだ。

磯崎新には近代都市モデルを越える、あるいは本人の言葉を引けば枠を外したいとする、それこそボーヨーとしてデッカイ、花札の坊主みたいな内的欲求が歴然として在る。その欲求をピラミッドに繋がる神話的な大きさへと明言すべきか。

黒川にはこの大きさに対する内的な欲求は無い。

メタボリスト黒川の建築表現、特にその形態に関するヴィジョンは磯崎のそれより豊かで鮮烈であった。ただ2012年の今になってわかるのはあの有機性、増殖、新陳代謝は消費社会の鏡像でしか無かった。大量生産大量消費都市を巨大な現象としての凹面鏡に写し出されたネガティブな陰画的様相を見事に予見したものでもあった。1960年代に近未来としての消費社会の現象をなぞったものでもあったのだ。

設計・デザインの主体すなわち黒川は社会・文明に対して実に受動的であったのではないか。プロセス・プランニングも又然りである。デザイン・設計主体は切断面、あるいは鏡像を呈示するというネガティブな意志をしか表現し得なかった。それ故、建築作品としての表現は共に切断面の呈示であったのだ。

ただ久住高原のランドスケープデザインに関して、磯崎は外の世界に極めて能動的なアクションを示したのだ。小品故に気楽に書いたのだろう作品解説文をそれこそ過大にピックアップするというスケールアウトを犯しているやも知れぬ。でも、批評も創作もスケールアウトする、巨大なスケールをそれこそ“生けどる”のは実に創作方法として強く、アクティブな行為なのではないか。

彫刻家ダニ・カラバンには1963-1968年のベエルシェバのネゲヴ記念碑の実現したプロジェクトがある(※3)。ユダヤの神話的世界を砂漠に造形化したものだ。群造形であるが主要な造形物は巨大な半球にクレヴァスを切り込んだもので、磯崎の久住高原のプロジェクトすなわちクラックのランドスケープ化ということでは酷似している。

しかしカラバンの仕事にも尺度に関する考えは薄い。あるいは大きなとりとめもない自然のスケールを“生けどる”という能動の振る舞いは視られない。在るのは巨大な造形物への表現欲である。

しかしながら磯崎は1966年のこのプロジェクト以降、大きさの捕獲の意志を強く露にする事は少ない。

わずかにフィレンツェのブルネレスキの花のドーム内に二重らせんをモデルとした祭壇設計(※4)を試みたのと、これは実現したが1990年の水戸芸術館の百年記念塔に於いて再びDNAの二重らせんが虚空にのびてゆく塔を実現したが、これ等は1966年の久住高原のプロジェクトが素直に立ち上がったものである。

 

久住高原プロジェクトに於ける久住山、阿蘇山、二つの山の頂を結ぶ線を計画案の強い軸とする考えは師であった丹下健三ゆずりのものであったが、二点間の大きな距離を積極的に捕獲する、すなわち記念碑として建築化しようとするアイデアは磯崎独自のアイデアであった。

 

磯崎新の問題作、1983年の「つくばセンタービル」をランドスケープというよりも庭園デザインを中心に再考しようとすれば、今にも通じるポジティブな意味があるやも知れぬ。又、2011年のプロジェクト「アーティスト・アーキテクトはいかに事件をプロジェクト化するか」もランドスケープの問題として再読するのも興味深いだろう。少なくともそれ等プロジェクトの作家内の故郷は久住高原プロジェクトに在るのは歴然としている。

 

作家が十二分に大向こう、すなわち社会を意識したあらゆる自己解説は時に大事なモノを見逃す事がある。小詩(ソネット(※5))の如くの小品に、それだからこそフッとつぶやく様に洩らしてしまう言葉の中にも又、作家の本体は良く視えるのだ。

1、 地質学的解釈による九州

地質学の領域では、本州の真ん中を横断するフォッサマグナの発見以降、その両側の地帯をそれぞれ西南日本と東北日本と称するようになった。したがって九州地方は西南日本に属する。そして西南日本には、九州から関東まで(阿蘇-名方-伊勢-諏訪(-鹿島))を横断する中央構造線と呼ばれる大断層系が存在する。(命名は日本近代地質学の基礎を築いたH・E・ナウマン。)中央構造線の延長もしくは分岐断層として、瀬戸内海から阿蘇山を貫く大分—熊本構造線があり、その断層の横ずれ運動と、他2つの断層によって領域化された地域の陥没が主たる要因となって豊肥火山地域と呼ばれる、九重連山および周辺の火山地帯が形成されたとされている。(小玉一人氏、鎌田浩毅氏研究。)

さらに、九州を東西に走る断層付近の、南北方向の引張りが生みだす地溝の発達によって、阿蘇山と九重連山はマグマが地下で結ばれているとも考えられている。

薩摩の桜島の地域も含めて、古代においては「火の国」とも称された九州という場所が持ち得た文化の基底的な構造は、その土地に存する歴史神話の数々と、列島を貫く文字通り大地の変動の事実が作り出したものでもあるのだろう。

以上、今後はさらに地政学、古代史等による九州について述べてゆきたい。

 

※1 スコピエ都心部再建計画(旧ユーゴスラビア, スコピエ 1966年) 地震による震災復興プロジェクト。丹下健三チーム(丹下健三、磯崎新、渡辺定夫、松下一之、谷口吉夫、他)が国連の援助による都市計画コンペにて勝ち取ったプロジェクトである。1963年に起こった大地震でスコピエは都市の7割が崩壊し、死者1100人、負傷者4000人を数えた。1966年から72年にかけては丹下を中心とするチームの設計による再建事業が行われた。

※2 昭和初期、久住高原を訪れた山下彬麿はその自然の雄大さに魅了され高原の歌作りに取りかかった。その後度々の改訂が彼の手でなされ、昭和10年(1935年)に現在にまで伝わる「久住高原の唄」が完成した。その唄は人々に親しまれるにつれて、以下のように「豊後追分」へと名前を変えている。

「豊後追分」

久住大船  朝日に晴れて 駒はいななく 草千里 草千里

久住高原 すすきに暮れて 阿蘇のいただき 雲しずむ 雲しずむ

また、実見はしていないが、その歌碑は非常に小さなスケールで実現されていると聞く。

※3 建国前のイスラエルに生まれた彫刻家、ダニ・カラヴァン(1930-)が1963〜68年に製作したイスラエルのベール・シェヴァの「ネゲヴ記念碑」はカラヴァンの最初期の大規模作品であり、イスラエルのイギリス統治に対する戦闘の記念碑である。世界各地でその場所や人類の歴史を造形によって表現するカラヴァンの根本的姿勢がこの作品に表現されている。パリ近郊に、パリ中心部へ向けて作られた「大都市軸」や、スペインの海に面する村落で制作されたベンヤミンへのオマージュとしての“パサージュ”の作品などでは、直線軸という一つの形式を用いてそうした歴史への畏敬を可視化している。

※4 イタリア・フィレンツェにあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の天蓋のデザインは、15世紀初頭にブルネルスキの案が選ばれ彼が工事責任者に選ばれた。彼の提案によりこのドーム(クーポラ)の架構の建設は、巨大な足場と型枠を用いずに張り出し足場のみによって行われる革新的なものであった。ブルネルスキが残したその上昇感溢れる内部空間に対して、クーポラの直下に置かれる祭壇のデザインとして、磯崎は天空と地上をしなやかに結ぶ二重らせんのパターンを構想した。

※5 ソネットはルネサンス期のイタリアで生まれた14行からなる定型詩であり、その後、他のヨーロッパ文化圏に広まった。ここでは特に英語詩としてのシェイクスピアのスタイルについて述べる。イタリア語やフランス語のソネットは韻が5種類しかないのであるのに対して、イングランドの詩人たちは押韻の構成要素を7種類に増やすことで(a-b-a-b, c-d-c-d, e-f-e-f, g-g)、単調になりがちな英語のソネットに多様な音声的効果とダイナミズムな構成をもたらした。その英語詩独特の形式を生かす形でシェイクスピアは特に最後の二行(g-g)の結末に注意を払い、彼の詩の多くが新たな展開への予感と希望に充ち満ちた文で結ばれている。1605年に出版された彼のソネット集は、154編からなる美青年への愛をひたすらに詠ったものであるが、そうした屈折しながら揺らめく自身の心情を描くシェイクスピアにとって、英語詩のその形式は極めて調和していたと思われる。

注釈:佐藤研吾

記 2012年2月29日

04/13

鈴木博之 第15信 ブレーク

石山さんが快調に磯崎論を展開されているのを拝読しつつ、またもやブレークを試みたくなった(あるいは試みるべきであると考えるにいたった)ので、失礼いたします。

ひとつのきっかけは、今日行われた菊竹清訓さんをしのぶ会でありました。午後3時に大隈講堂に伺い、午後8時まで充実した時間を過ごしました。そこに石山さんのすがたがなかったこともまた、いかにも早稲田らしい活力と在野精神の表れと感服いたしました。弔辞における川添さんの言葉の切実さ(川添さんのほうが2歳年上)、穂積先生の誠に心情を吐露された言葉、そして伊東豊雄さんの最後に「ありがとうございました」で終わる別れの言葉の、それぞれが心に残りました。

そのあと、ホテルで開かれた会で献杯をされた槇先生が、メタボリズム発足時期の話をされたのが、また、印象に残りました(槇先生は建築評論家としても、第一級です。野武士という命名など)。今日のお話も、歴史に残ると思います。60年ころ、チーム・テン、アーキグラム、メタボリズムなどあり、チーム・テンとは長く付き合ったけれど彼らは赤穂浪士ではないけれど同志的グループだった。それに対してアーキグラムはブリティッシュ・ジェントルマンのクラブ(これは、違うのではないかと思いましたけれど)、そして、メタボリズム発足時のわれわれは、甲子園球児のようであったと話されて、華やかな投手は菊竹さん、同じく派手なのがショートの黒川さん、すべてを引き受けてくれていたのが捕手の大高さん、などと話されて、ご自分は見通しのきくセンターだったと言われました。丹下先生と磯崎さんはネット裏でそれを見ていた、と述べられました。磯崎さんとメタボリズムの関係を考えるとき、この槇先生の言葉は決定的な意味を持つ歴史的証言だったと思いました。

磯崎論を考えるとき、彼の知的影響力とその範囲の評価は、かなり幅のあるものとなります。磯崎さんは常にあらゆる場に居合わせるのですが、そのとき彼はどういうスタンスでそこにいたか、なかなかはっきりとしません。メタボリズムとの関係についても、傍観者、随伴者、共犯者、仲間、他人など、あらゆる立場が現れます。けれどメタボリストから見ると、磯崎さんはネット裏にいたのでしょう。

この立ち位置こそ、磯崎さんではないでしょうか。それを見失うと、磯崎論は根底から成り立たなくなります。わたくしは、磯崎さんの位置について、ある賞の選考を巡って議論をしたことがあります。人々は、磯崎さんが幅広い影響力を持った稀有な建築家であると評価しました。けれどもそうした知的影響力などわたくしには、ないと思えたのでした。そんなエリートの存在幻想は1968年に破産している。磯崎さん自身、一時期は1968年を大変重視していました。さいきん死んだ吉本隆明が「大衆の原像」といって、丸山真男に代表される進歩的知識人エリートと自身の立ち位置を区別しましたが、磯崎さんの影響力はあくまでも進歩的知識人のそれでした。安藤忠雄は十分に大衆の原像を背負えていますし、丹下健三もオリンピックから万博までの大衆の原像を視覚化し得ていました。磯崎さんにはそのスケールも幅もありません。あえて言うなら、建築家として初めて、東大仏文出身の(小林秀雄から内田樹にまで至る伝統的知識人)エリートと話せる知的選良になれた存在ということでしょう。

磯崎新の存在を論じることには意味があります。それは、建築の世界における知的あり方を考える(あくまでもひとつの)きっかけになるからです。

4/10

石山修武第38信 作家論 磯崎新14

磯崎新のアイロニーは何処から来るかに進みたい。エピソード2、3を介してアイロニーとは異なる磯崎の実行としての直截を具体的に述べた。つまり磯崎新をアイロニーの切断面だけで考えるの意味が小さい。無くはないが小さい。単純明快な解釈では不明なところが多過ぎるし、我々の創作の拡張にも繋がらぬ。作家論はまさに創作論と同義でもあろう。

アイロニーの中枢には無知が生み出す、生み出さざるを得ない自己防御の壁、基本的にはエゴイズムであるが、その仮面性を暴き立てると言う批評がある。人間それぞれの我執とも呼ぶべきへの批評である。

数多くの、磯崎が手掛けた展覧会の成功はその批評のアイロニカルな思考が洗練されている事によって共感を得られた。代表的なものは1978-79年にパリで開かれた「間 - 日本の時空間」展(※1)である。この展覧会はニューヨーク、ヒューストン、シカゴ、ストックホルム、ヘルシンキと巡回した。2000年に東京で「間 - 20年後の帰還」展として再生されている。

空(うつ)、見立(みたて)、擬(もどき)、間(ま)に会場構成は便宜的に分かれているが、全ての流れに磯崎の思考形式が良く表現されている。視覚として磯崎の脳内風景の切断面をのぞき視るといった風になっている。日本の時空間の主題を借りた、磯崎的思考展である。しかもその思考方法は自己をさらす、あるいは自説を主張するという姿勢からは遠い。むしろそんな自己露出の方法をもアイロニーをもって批評しているのである。批評の対象は二重になっている。自己を主張、表現するという創作方法に対して。そして旧来の日本的という無知とは言えぬがキッチュとは呼べる伝統論の壁に対する批評である。

ここには自己表現は薄い。しかし自己編集と呼ぶべきがある。自己編集とは自身の脳内風景の批評を介しての切断でもあり、それが世界、ここでは日本的世界と通底しているという自負でもあろう。あるいは創作家としての自身の主体が月の如くに鏡面になっているという自覚である。そこに、磯崎のアイロニーがシニカルさとはそれこそ少しの間を置いている独自性がある。しかし、その確実に得られた理解共感はアイロニカルであるが故にある知識階級に限定されてもいた。例えば安藤忠雄の如くに広く大衆的な支持を得られた訳ではない。

だからやはり磯崎をゲームメーカー任天堂の始まりである花札の、坊主に例えた、あの黒い山の上にボーッと浮かぶ円は鏡すなわち月である。

情報時代、すなわちコンピューターの時代、創作に即して言えば、それは自己表現から自己の内的想像力の自覚的編集への移動を意味している。磯崎の過度にも視える情報への好奇心、状況への過敏さの意味もそこに在り、他にはあり得まい。驚くべきとしか言い様のない域に達している多著作振りもその自覚の反映である。外部の諸々の情報単位が自己内で並列され、次に選択され再配置される。その思考の運動が連続していく。

この様な思考の運動形式らしきは絶対的中心を持つ人間、創作者には不可能であろう。自分自身の内的世界をも外部から眺め渡す位置に身を、つまりは視点を置く必要がある。視点が中心に固定されては不可能である。ある大きな現実の圏域を想定する。全世界でも、日本でも。その中心に居続けようとすればその視点による独自な視界は得られようがない。

近代建築様式の中心はヨーロッパである。日本生まれ、日本育ちの磯崎はその中心に元々居る事は、居続けることも出来なかった。極東の国、日本を活動の拠点にせざるを得なかった。つまり世界の近代建築の境界線上に位置すると言う、自己の資質に適した日本という場所を得ていたという逆説の中にいた。

日本に於いても、磯崎の幼児期・少年時代に身を置いた、あるいは置かざるを得なかったのも境界線上にある島であった。九州である。

世界史のエッジで先ず中心であるヨーロッパに出会ったのは九州である。日本からの脱出者でもあったヤジロウ(※2)に導かれたジェスイットの宣教師フランシスコ・ザビエル(※3)の布教活動は先ず九州を始まりにして成された。何故なら九州は世界の中心ヨーロッパに海を介してはいるが最も近い位置を占めている。古代に於いては日本にとって世界の中心は大陸中国であった。更に戦争を含む濃密な交流史に於いては朝鮮半島でもあった。網野善彦氏(※4)の史観をひけば、本来日本という場所は朝鮮半島、更には中国大陸沿岸地域との交通・交流をベースに地政学的に生み出された境界線上の曖昧さを所与の前提としての場として所有していた。

海に沈む日没の荘厳すなわち西への憧憬には磯崎は率直である。アイロニーの意識はそこにはない。生な気持が座っているのを隠そうとはしない。アメリカ西海岸に在るルイス・カーン(※5)のソーク研究所の庭、そのエッジは太平洋に面している。庭と太平洋とがほとんど抽象化された境界だけで、鉱物質の物体すなわち建築と海とが連続されている。そして庭には一条の軸が刻み込まれている。春分の日、秋分の日にその軸上に太陽は海に燃え落ちる。古代エジプト人の宇宙観すなわち死生観にも似た観念の創作者ルイス・カーンによる直截な表現である。磯崎はかくなる思考の直截さには決してアイロニカルな視線を注ぐ事はない。むしろ積極的な同化の傾きを示して止まない。

磯崎新の最近の思考の中心の一つは群島世界と呼ぶ場所に対する詩的ヴィジョンであろう。これについては稿を改めて論じる事にする。アイロニーの身振りはそこには視え難い。都市からの退行すなわち建築デザインの言説としての方法化、個別としての手法化により先鋭=孤立を余儀なくされた磯崎の世界の現実への反攻の姿勢らしきでもある。その境界線上にはアイロニーとは少し様相の違うメランコリアが潜在する。

このヨーロッパの近代芸術精神の構造的中心軸とでも言うべき濃密な、ほとんど気質とまで肉体化された思想は、磯崎には実に濃厚なのである。

近代建築の始まりの理念はある階層に偏向しやすかった技術の恩恵、それは王権や貴族そしてそれと併存する宗教権力もそうだが、その偏在を平準化しようとするのが中枢であった。バウハウスデザインは基底にそんな広大な理念を持っていたのだ。デザインの標準化・規格化は生産の合理化に向けていたが、その根底の理念はそんな確然たる社会性を核としていた。初期近代建築に厳然として存在していた瑞々しさの源はそれであった。

磯崎のアイロニーはその近代建築の歴史の又も境界線上に位置する。それ故にこそメランコリーの陰翳を浮かべざるを得ない。

※1 「間 - 日本の時空間」展("MA; Space-Time in Japan") 1978年にパリの装飾美術館、翌年にはニューヨークのクーパー・ヒューイット美術館で開催され、その後ヒューストン・シカゴ・ストックホルム・ヘルシンキと巡回した。この展示において、「間」という日本人ならば困難無く理解できるであろう概念=文化を、日本人である磯崎は意識的に西欧的ロジックを用いて解読し構築する。この作業は、日本と西欧の両者の複眼的姿勢を投じることではじめて浮び上がる、磯崎の日本文化に対する独自の視点の獲得であったとも言える。

※2 ヤジロウ(1511?-1550?)史料上で最初の日本人キリスト教徒とされている。ザビエルの日本での宣教活動の際、通訳者、翻訳者として従事した。彼について未解明な部分は多いが、織田信長や豊臣秀吉とも面会したとされるポルトガル出身のイエズス会宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』には彼についていくつかの記述がある。

※3 フランシスコ・ザビエル(1506-1552) スペイン・ナバラ出身のカトリック教会の宣教師。イエズス会の創設者の一人である。1542年、ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインド・ゴアに派遣され、1547年マラッカにてヤジロウと出会い、1549年に九州の薩摩に上陸して日本にはじめてキリスト教を伝えたとされている。

※4 網野善彦(1928-2004) 歴史学者。中世日本史を専門とし、中世の芸能民や職人、漂泊民など、農民以外の非定住の人々の内実を明らかにし、天皇を頂点に据えた農耕民族としての従来の日本国家史観と大きく対立した。網野は晩年の著作『「日本」とは何か』において、日本は島国として孤立していたのではなく、むしろ周辺の海を通じて多くの人間や物が日本列島に出入りし続けてきたと主張し、従来の単一民族としての日本人像を問い直おすことを試みた。主な著作に、『日本の歴史をよみなおす』、『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』など。

※ 5 ルイス・カーン(1901-1974) エストニア生まれ、アメリカの建築家。1906年よりアメリカ・フィラデルフィアに移住。ペンシルバニア大学に進学し、フランス系建築家ポール・クレの元でボザール的教育を学んでいる。その後カーンは世界恐慌、そして大戦の只中にあったアメリカで公共住宅や都市計画に携わる。ソーク生物学研究所は、その後カーンが世界的に注目されるきっかけとなったイエール大学アートギャラリー、ペンシルバニア大学リチャーズ医学研究棟といった作品を経た後の作品である。また、ソーク研究所の庭は、カーンの友人であったメキシコの建築家ルイス・バラガンからのアドバイスもそのデザインに取り入れられている。

注釈:佐藤研吾

記 2012年2月23日

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石山修武第37信 作家論 磯崎新13

「Xゼミナール、鈴木博之第10信 2011年5月16日付」について。

エピソード3

ここ迄書いてきて、昨年のウェブサイトXゼミナール鈴木博之第10信の発言の意味がわたくしなりの構図の中で理解できるようになった。確信はまだ持てぬがこの作家論はかなりの長編になるであろうと覚悟している。すでに告白しているが作家論らしきはこの磯崎論しか書かぬと決めている。R・B・フラーや俊乗坊重源と比較したらわたくしには比較的書き易いと気付いたからでもある。フラーに関してはわたくしが敬愛してきた川合健二をきちんと相対化するためにも書きたかったが非力で不可能であった。川合を論ずるのに何故フラーなのかと言えば、川合は確固たる意志を持ってR・B・フラーを封印していたからである。二十代の半ばからの完全なマンツーマンの師事であったから、わたくしはわたくしなりに川合を知り尽くした。それは自分自身の才質も又残酷に知らざるを得ぬ事と同義であった。わたくしは川合健二の天性の才質が作る壁から自由になりたかった。フラーの数学者としての資質がどれ程のものなのかは知る事ができぬ。わたくしにその才が無いから。でも数学、理学的才質は恐らく川合健二の方が大きかったのではないかと思う。詳述はせぬが数理と経済、つまり金の流通に関して川合は実に独自の巨大な才覚の所有者であった。ただフラーには血統なのであろう詩があった。大叔母のマーガレット・フラー(※1)はエマーソンに傾倒した超絶主義者であり、フラーの思考は特に後半生のものはその世界へと接近した。川合健二は色濃くアニミズム的世界観の所有者であったが詩に欠けていた。

たった一度だけ、川合にバックミンスター・フラーは近いですよねと尋ねた事がある。彼の物理的な住居観建築観の原理性が余りにもフラーに酷似していたからだ。それに川合は四国の金子香川県知事(※2)を介してイサム・ノグチとも親密であった。よく知られるようにノグチはフラーの共鳴者であり、その造形にもフラーは影響を与えている。しかし、わたくしの自然で疑いようの無い質問に対して、川合は何故だか決然として「知らん」と言い切った。その時の眼の光り方、強いエネルギーの言葉の響きから、わたくしは知り抜いているな、その才質の質量形までも、と知ったのである。俗な言い方だが天才は天才を知り、その才質と激しく競い、時に相反するのだ。創造者とはそう言う者でもあろう。

わたくしはそんな川合から本当に自由になりたかった。それでフラーの詩にひかれたのだった。余りにも川合健二に関心を持ち過ぎたからである。フラー論を書く、すなわちそれは川合健二論なのであった。

川合健二からは丹下健三の才質についての話も、それはかなり赤裸々なものであったが良く聞かされた。川合は丹下健三の初期の設備・エネルギー関係の設計パートナーであった。

川合からは又、黒川紀章の話も良く聞かされた。黒川は、川合が丹下と袂を分かって豊橋、二川の丘の上のノアの方舟みたいな鉄製の自邸に孤絶してからも、良く訪ねていたらしい。二人は共に丹下健三と反発する磁石でもあり、気脈を通じていたのであろう。

磯崎に関しては川合は余り語らなかった。恐らく磯崎が丹下健三研究室でその様な距離を取っていたのだろう。ただし、磯崎は良く川合を観察していた。そしてその才質の中心、つまり、ウルトラ貿易商でもあったのも見抜いていた。

川合のモットーは一人で世界企業とわたり合う事でもあった。つまり、わたくしは川合健二の眼を介してではあったが、丹下健三、黒川紀章も眺めていたのである。

鈴木博之がXゼミナール第10信で述べた事は、だから実は良く解る。岩波文化の土俵の上に伊東豊雄・山本理顕を乗せて、その岩波的思想性、あるいは無思想性を相対化してみせようとしたと言うのはその通りであろう。でもそれは歴史的には常に繰り返されてもきた事ではあるまいか。

丹下健三を中心とした星座群、すなわち磯崎、黒川、浅田孝そしてメタボリズムグループの面々の間でもそれは歴然としてあった。歴史の必然とでも言うべき確執なのではないか。

その星座は宇宙=自然の必然らしきの、つまりは神の似姿としての体系とは異なり、人工の、つまりは人間の関係性としての人工の星座でもあった。人工の星座は小さな戦争の如くでもある。情報戦も繰り拡げなければならなかったろう。権謀術数の数々、スパイや裏切りや不意討ちの数々の縮図でもあったろう。

日本の近代建築の第二期の構図が描かれたのはアメリカとの敗戦からの再生の始まりであった1950年代であった。この間の端緒らしきはXゼミナールですでに糸口らしきが論じられている(※3)。勿論第一期はジョサイア・コンドルに象徴される外国人建築家による建築設計教育の始まりである明治の始まりであった事は言うまでも無い。日本の近代の始まりはそれを国家的拡がりの中で行われた事にあるが、ヨーロッパではより成熟した形の個人史の世界の中でもなされたのである。

ル・コルビュジェがヤニス・クセナキスの存在をコルビュジェのやり方で小さく見せようとした事実があるやも知れぬし、これも又、磯崎が設定した九州の非公開ではあったが、レム・コールハースがマイケル・グレイブスのデザインをキャピタリズムだとののしって、それでポストモダニズムを戦略的に打倒して、シニシズムの体現者としての自分を売り出したような事は、磯崎の言うデザインマフィアすなわち奇妙なエリート達の間では日常茶飯事なのではあるまいか。伊東も山本もそのような世界の選良たらんと努力しているのだから、それ位の目に遭うのはいたしかたないのでもあるまいか。

更に磯崎の設定した土俵ならぬリングが二重の三角形でもあったとの指摘は鈴木の指摘のさもありなんと思い知りもした。磯崎VS伊東・山本の構図が同時に磯崎・篠原一男・原広司のトライアングルであったとは、デザインマフィアの熾烈な陣取り合戦のゲームとは言え、ルネサンス以来の累々たる建築家達の伝統でもあるのではないか。

磯崎・篠原・原のトライアングルと言えばそうか、こんな事もあったなとある小事件を思い出したので記しておく。

 

 

ある時、いずれ時は特定し得ようが、今は不明としておく。六本木に在る磯崎新アトリエだったかに何人もの建築家が集められた。別のBarだったかも知れぬ。記憶が定かでない。篠原一男、原広司をはじめとして六、七名であったか。そこに至る迄の話しは全て忘れた。その後の話しが全てであった。何故かわたくしも末席らしきで呼ばれた。そこで篠原一男に面と向って磯崎新は言ってのけた。

「ヨーロッパでは公共建築をする人を建築家と呼ぶのであって、住宅を設計している人を建築家とは呼ばない。自分もそう考えている」

ザワザワとしていた懇親会の如きの空気は一気にそれこそ凍りついた。篠原一男は当時住宅建築デザインを領土に明らかに日本の最先鋭の建築家であり、同時に世界へと認知され始めてもいた。建築にコンテンポラリーアートとでも呼び得る領域の呼称があるとすれば、当時の篠原は歴然として磯崎を抜いて先頭に立とうとしていた。それを磯崎は正々堂々といおうか単刀直入というべきか、言うに適う言葉が無いので面と向って、自分は貴君を認めないと言い切った。すでに論じた荒川修作との対談と同じ様に。何の裏芸も策略もない。西部劇の決闘である。

対する篠原一男も立派であった。

「僕は帰ります」

と一言。その場を去った。あの場はそうするしか無かったろう。原は無言であった。

そこへ大前田英五郎(※4)が出現した。子分の居ない一人親分の大前田、否、建築写真家の第一人者、二川幸夫であった。刀は持たぬが着物姿であった。二川はその場にドデーンと座るなり、居並ぶ建築家達を全て呼び捨てになで斬りの如くを始めた。思い起こしても失礼なのであった。末席に控えていたわたくしも「おマエが石山か。名前は知ってるよ」ときた。わたくしは二川幸夫の名も勿論知っていたが初対面であった。瞬発力で言い返していた。「アナタに呼び捨てにされる筋合いはない」「ナニーィ。オー言うじゃネェーか」といざこざが当然起きた。呼び捨てにされ続けた居並ぶ筈の建築家達は皆うつむいて完黙を続けた。原広司もうつむきっ放しであった。皆、世界に名を知られたい連中ばかりであった。二川幸夫に写真を撮ってもらえば『GA』を介してそれは一つの径でもあったからだ。その明らかな暴力、篠原一男言うところの野性の天皇に対して誰も立ち向かわなかった。二川幸夫は丹下健三に対してさえも何故か拒否を続けた位だから向う気も腕ぷしも滅法強かった。

「オー立派じゃネェか表出ろ。やってヤローじゃネェか」

「なにをーッ」

となり、二川幸夫は先に表に出た。わたくしも止せばいいのにやせた見栄を張り席を立って表に出ようとした。そこを磯崎がガッと肩を押え、「ヨセ、石山ヤられるぞ」と言った。

世に言う、殿中松の廊下の事件であった。世に言うといったって自分で言ってるだけの話しだけれど。あの時磯崎が肩を押えてくれなければわたくしは鼻の骨位は折られていたに違いない。

二川幸夫はそのまんま席には戻ってこなかった。一週間後二川幸夫とわたくしは台北で李祖原(※5)と共に会っていた。

「ヤクザってのは、出会い頭はケンカするんだ。それが決まりだ」

と磯崎は後年評した。

つまり磯崎VS伊東・山本の事件なぞは実に小さい日常茶飯事なのである。

後年、山本夏彦がメディアで磯崎に噛みついた事があった。山本が発行人編集長を兼ねていた個人誌とも言うべき『室内』というインテリア雑誌の取材を磯崎が体良く断ったのに対する、それは筋の通った文句であった。山本夏彦は武林無想庵と中学時代共にパリで暮した男である。アナーキスト辻潤とも知己であった。岩波書店、朝日新聞にもケンカを売り続けた男でもあった。流石に磯崎は二川に相談したらしい。この売られたケンカどうするかと。こんどは二川が磯崎をいさめて、肩を押えた。

「ヤメとけ、ヤられるぞ」

日常茶飯事とは言わぬが、磯崎VS伊東・山本小事件などは良くある事に過ぎない。建築家とはその存在の中枢に名と金の双方共に追求する実際家でもある。大きな文化の歴史はそんな濁流の中にあるのではなかろうか。

ちなみに丹下健三は磯崎を介して二川幸夫と冷え切った関係を改修しようとした。しかし双方共に歩み寄る事は無かったようだ。かく言う赤裸々なゴシップ=ドキュメントの中にも歴史の実相の断面は露出する。そして一人の作家には複数の中心が存在し続けるのではないか。その複数性、ジキル博士とハイド氏ならぬ、磯崎新に即して例えればドグラ・マグラ、中国大陸と日本列島の本州、しかも近世から近代の中心であった江戸東京の中間地帯、境界線上に在る九州を生誕と幼児体験の故郷とし続けた磯崎のそれは必然でもあった。

※1 フラーの大叔母マーガレット・フラー(1810-1850)は、女性権利獲得の先導者、そして文芸批評家として知られ、さらにはラルフ・ワルド・エマーソンやヘンリー・デヴィッド・ソローを中心とするマサチューセッツの超絶主義者のメンバーとしても重要な位置にあった。フラーの家系はもともとは奴隷制廃止運動の一翼を担ったことで知られ、また政治的な要職を務める名家であった。その厳正な伝統を持つフラー家から、バックミンスター・フラーやマーガレット・フラーが生まれ得たことは非常に注目に値する。

※2 金子正則(1907-1996) 1950年から6期24年に渡って香川県知事を務めた。イサム・ノグチや猪熊弦一郎らとの交遊が厚く、1958年の香川県庁舎の建築にあたっては猪熊の助言から丹下健三に設計を依頼している。  

※3 2010年3月から始まったXゼミナールは、まずはイームズについての批評から始まっている。過去のXゼミナールの投稿を参照

※4 大前田英五郎(1783-1874) 江戸末期にその名を轟かせた、上州の大博徒。若い頃、気鋭の侠客として諸国を流浪した英五郎(当時の異名は「火の玉小僧」)は、侠客同士の喧嘩の仲介役を多くつとめ、無益な争いを解決した。その謝礼でもらった縄張りが全国に200カ所以上あり、子分も3000人はいたとも言われている。諸国の博徒は“天下の和合人”と呼んで、英五郎への尊敬心も高かった。けれども、そうした諸国を股にかけた大親分であった一方で、彼の日常は極めて質素で、服は木綿、酒も喰らうことは無かったという。晩年は故郷近くの村の屋敷で静かに過ごし、82歳のとき自宅の畳の上で亡くなった。死に臨んだ際、自分の縄張りはすべて子分に分け与えて、自分の葬式料の80両しか残さなかったという。 利根川を挟んだ笹川繁蔵と飯岡助五郎の勢力争いを描いた『天保水滸伝』によれば、天保13年(1842年)、笹川諏訪明神の例祭日を利用し、農民救済のために大規模な花会が笹川の商人宿で行われた。その花会には上州大前田英五郎、佐伯郡国定忠治、駿州清水次郎長など、天下の大親分衆がいずれも出席し、山車や御輿、芝居や演劇が一日中続く大盛会となったという。民衆・大衆の代弁者として、そして民衆を救う「英雄」として厚い支持を得ていた、彼ら俠客たちの社会的影響力をもった「顔役」としての存在感を示す逸話である。 (2012/05/13追加)

参考に、明治25年に刊行された、江戸時代から明治維新にかけての全国的に有名な侠客を並べた番付「近世俠客有名鏡」を載せる。(林英夫,芳賀登 編『番付集成 下』、柏書房、1973年4月。)なお、ここでは武蔵の大前田英五郎は関脇となっているが、明治24年刊行の同番付では大関として名を連ねている。 (2012/05/21追加)

※5 李祖原(1938-) 台湾を代表する建築家。プリンストン大学出身。中国および台湾独自の思想を根本に据えながら、中国伝統建築や西洋建築などの言語を意識的に応用し、数多くの巨大計画および超高層建築を手掛けている。主な作品に、「台北 101」、「上海万博台湾館」「北京盤古広場」。

注釈:佐藤研吾

記 2012年2月20日

3/22

石山修武第36信 作家論 磯崎新12

わたくしは大阪万博の会場を実見していない。しかし20代のわたくしはその設計作業の末端には参加していた。アフリカの諸々の国々の共同館の、これは基本設計をした。又、諸々の民間ではない小パビリオンだったかの設計図作成に関わっていた。詳細は記憶していないが、多分EXPO協会の仕事として、その末端実働部隊だったのだろう。設計料なんてものではなく図面一式、あるいはパース一式いくらというようなペイメントであった。恐らくはそんな形で随分多くの若い設計家らしきが動員されていたのではないか。そんな理由で大阪万博の設計実動部隊の現場はかろうじで体験した。でも会場には一度も足を運ばなかった。得たあぶく銭は皆旅行等に使ってしまった。わたくしにとっての大阪万博は実体験としたらそれ位のものである。

磯崎新の様々な言説だって、すべて万博終了後に、ヘェそうだったのかと知った位だ。反博運動らしきからのコンタクトは勿論あったが、労働者の如くに参加している実感しかなかったのでそんなイデオロギーに悩むなんて事は全く無かった。日々のパンと旅行代の為に働き、なおかつ未知の体験もさせて貰って何が悪い位の感じであった。反博運動よりはカムイ伝(※1)やあしたのジョーに夢中だったのだ。

黒川紀章はすでにスターであり、わたくし達の貧しい仕事場の万博設計労働者のパーティらしきにもスターとして登場していた。様々な同時代のスター達にも随分お目にかかった記憶がある。皆若くて屈託が無かった。反体制的身振りは皆ファッションとして身につけてはいたが、それはいつでも脱ぎ捨てられるのは皆すでに知っていたような気がする。勿論、わたくしもそんな議論を好みはしたが、好んだ衣を着けていないと馬鹿だと思われかねぬような時代の風も吹いていたのである。

磯崎新は無縁の人であった。桜のマークの巨大プランをした政府館の設計現場は良く知っていた。同級生が誰かの下で担当していたからだ。

でも丹下健三の大屋根の下には入れなかった。入りたいとも思っていなかった。一級上の学科の先輩達が、チームボスと言ったけれど大屋根のスペースフレームに未来都市のモデルらしき模型をブラ下げるのにセレクトされていた。このチームはもうムンムンにアーキグラムであり、コンラッド・ワックスマンであった。学生時代の課題に真空管を沢山並べ立てたアーキグラムよりアーキグラムな模型を提出して落第だと言われたり、卒業設計にワックスマンのジョイントの精巧な鋳物模型だけを提出して、再び落第だと呼びつけられたりで、わたくしは彼等にぞっこんであった。彼等は全く理屈を好まなかった。でも行動がスカーッとしていて格好良かった。わたくしは昼は建築史研究室で渡辺保忠の理屈を聞き、夜は彼等の仕事場にも出入りしていた時期があった。みんな実に若くって、今振り返れば恥ずかしい程の青春であった。ポール・ニザン(※2)が読まれエルネスト・チェ・ゲバラのゲリラ教典も廻し読みされ少年ジャンプとつげ義春であった。

今、振り返ってみると一級上のチームボスの連中の何だか解らん模型を大屋根のフレームの中にちんまりと、それこそプラグオンしたのは磯崎新だろう。そんな芸当は黒川紀章には出来なかったし興味も無かったろう。黒川は自分の野心にまっしぐらに突き進んでいた。

黒川紀章の大阪万博会場内の東芝IHIパビリオンを、だからわたくしは実見していない。内部の体験もない。でもその作品だけは磯崎新論のためにも作家論としても論じておきたい。作品を見ていなくてもそれを取り巻く空気は知っていたからと論ずる権利の正当性をいささかゴリ押ししただけだ。

黒川のタカラ・パビリオンはいかにもなメタボリズムだけれど、東芝IHI館はメタボリズムの枠を越えるモノであった。それ故に今論ずるに充分足りる何かがある。このパビリオンの内容はル・コルビュジェ/ヤニス・クセナキスのフィリップス館の実験的意味を広告代理店的な商業主義のレベルでただ技術的に少し計り進歩とそれこそ調和させたモノに過ぎない。マルチスクリーンと12チャンネル・マルチ・サウンドが主役である。黒川の才は、2階のドーム状空間の内をマルチスクリーンの動の空間として、階下に水を張った円形の池を作り、それを静の空間とすると言う随分荒っぽい筋道を立てた事であり、その池の水を上階のマルチスクリーンを楽しむ観客席の昇降回転油圧装置の冷却水に使うというアイデアを採用した事くらいだろう。しかし問題はここには無いのだ。問題はこのマルチスクリーンを内包するいささか不格好なドームをくるむように覆っている装飾的スペースフレームに在る。

マルチスクリーンの不格好なドームは全体を赤く塗装されて写真からだけの印象としても異様な存在感がある。このマルチスクリーンドームが白かったりアルミニウムの光沢で仕上げられていたら、実に軽さだけが頼りの素材主義あるいは商業主義的モダニズムの範疇のモノに終っていただろう。ただただフィリップス館から後退した退行的意味合い、つまりは作家にとってはただの二番煎じ、歴史的には番茶の出がらし程の意味しかあるまい。しかし、このドームは全体を赤く塗り込められ、しかも更にそれを覆い尽くすように黒く塗られた装飾としてのスペースフレームで覆い尽くされている。

我々はすでにフレデリック・キースラーのエンドレス劇場のプロジェクトを歴史として知っている。設計当時の黒川だって知らぬ訳はない。この形はそれに触発されているやも知れぬ。ドームといってもR・バックミンスター・フラーのドーム理論とは歴然として異なる。模倣元はフラーではない。

深読みのそしりを受けかねぬが、ここで我々はフレデリック・キースラーのエンドレス劇場を知らされた写真メディアを思い起こす必要がある。卵形の変形ドームの背景に得体の知れぬ植物群が確かに写し込まれていた(※3)。キースラーは卵形のドームを森の中にどうしても置きたかったのだろう。芸術家、しかも山口勝弘(※4)に呼ばせれば環境芸術家フレデリック・キースラーならではの遠い遠い、いまだに未見の要素を含むヴィジョンから生み出されたそれは宇宙を切り裂く如くの一断面らしきであった。若くまだ柔らかかったであろう黒川はこれに反応した可能性がある。作家とはそう言う才質の存在なのだ。

この明らかに装飾としてのスペースフレームのデザインが森のアナロジーである事は間違いがない。異形ドームの内部の底に黒川は水を、池をデザインしている。池を覆う、水を覆う森のアナロジーくらいは作家はふんだんに考えつくものである。そしてその森は全てが黒い。

ここにはメタボリズムとは全く異なる世界が歴然と端緒を開いていたのである。それは黒川本来の詩であった。

フレデリック・キースラーがイスラエルに唯一実現したユダヤの死者の書の収蔵パビリオンである「本の神殿」は決して名作でもないしラディカルな表現とも言えない。しかしキースラーのプロジェクト銀河計画(※5)、有名なエンドレスハウス(※6)そしてエンドレス劇場は実にラディカルである。近代に於ける、神の似姿とも呼べるだろう。それはユダヤの民の神ではあるけれど。コンラッド・ワックスマンもユダヤである。キースラーもそうだ。黒川の当時の瞬発力はその真の原理性を感知して、そしてそれを黒く塗り込め、その全体をも形態としても装飾的に操作したのである。

このパビリオンにはグラスゴーのチャールズ・レニー・マッキントッシュ(※7)のバラの装飾と一体となった、つまりは植物と一体となろうとしている姿をしたハイバックチェアーのデザインの骨組みがある。すなわち共生がある。黒川の後半生から晩年の思考の命名である。作家は時に自分自身の未来をも無意識のうちに実現してしまう者でもある。

作家の内実を規定するのは大小をそして時間を自由に旅する自由である。黒川紀章はこのとき実に自由であった。その自由を保証したのは1970年に至る日本の高度経済成長であった。作家は良くそれを蕩尽したのである。

現実の大阪万博会場に於いて黒川のこのパビリオンがどんなであったかを考えるのはそれ程の意味はない。大屋根の周囲に配布されたパビリオン群の全体に森の調和がある筈もない。しかし問題は作家の内である。博覧会建築には時にそれが、すなわち作家本来の自由が横溢するのである。

※1 カムイ伝 白戸三平による長編漫画。江戸時代の非人である主人公と数多くの脇役が織りなす壮大なスケールの物語りを描く。1964年から1971年にかけて『月刊漫画ガロ』に連載。その後1988年から2000年まで第2部がさらに連載され、現在も未だ物語りは完結していない。

※2 ポール・ニザン(1905-1940) フランスの哲学者。1930年代には反ファシズム文化運動の中心的存在であったが、後に脱党、1940年に戦死した。戦後には生前の友人であったサルトルなどの努力によって、彼の著書は再評価され若い世代を中心に世界中で読まれることとなった。著書に『アデン・アラビア』(1931)、『陰謀』(1938)など。

※3 キースラーが1950年に発表した<終りのない家>の模型の写真を指す。なお、それは山口勝弘の著書『環境芸術家キースラー』(美術出版社、1978年)の表紙の挿絵に採用されている。

※4 山口勝弘(1928-) 芸術家。電子機械および映像テクノロジーを駆使したさまざまな空間表現作品を生み出した。ビデオアートの先駆としても知られている。また、作家活動初期では武満徹らと共に実験工房を結成した。

※5 銀河計画 1918年から続く<銀河系>と名付けられたキースラーの一連のプロジェクト。肖像画、彫刻など表現媒体は様々であるが、いくつかのユニットが、人間の造形的な知覚によってそれらユニット間の連続性が把握されることで、互いの相関関係が発生することが構想された。それらの非視覚的な連関性は、物理的・視覚的な連続性を構想したエンドレスハウスをはじめとする彼のいくつかの殻構造体の作品と対としてあることで彼の<エンドレス>の概念を構築している。

※6 エンドレスハウス 近代建築の機能主義への批判を根底に持ち、人間の生を中心に据えた連続する曲面で構成された建築作品。最終案では具体的な基本設計の裏付けが補完されたことで、その家での生き方がより鮮明に想像ができる。内部の空間構造はいくつかの殻体構造に分化され、相互補完的に連続した空間を形成している。

※7 チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868-1928) スコットランド生まれ、グラスゴー美術学校出身の建築家。マッキントッシュの描く植物は極度に細い線で描かれ、その抽象的曲線は独特な造形をもつ。ラスキン、モリスなどのアーツアンドクラフツの流れを経た19世紀末のイギリスにおいて、近代工業デザインへの転換期だからこそ萌芽した表現とも言える。また、そのデザインは「幽霊派」とも称され、ウィーン分離派に大きな影響を与えたとされる。なお、「バラの間のハイバックチェア」は1902年に製作された。

注釈:佐藤研吾

記 2012年2月20日

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石山修武第35信 作家論 磯崎新11

磯崎新を考えるのに一九七〇年の大阪万博に触れぬわけにはいかぬ。作家論的に再考すれば丹下健三の大屋根は未来都市のモデルとして表現されたと言うが、大屋根は丹下健三の東京湾上の東京計画(※1)の関西での実行であった。バケマの空中都市計画、更に原理的にはコンラッド・ワックスマン(※2)のスペースフレーム(エンドレスシェルター)の実現であったが、それはそれ程に今では重要な問題ではない。あらゆる創作は実は模倣の連続組み合わせによって生み出されるのはすでに殊更にいいつのる迄も無いだろう。

「東京計画1960」は東京湾上に構想された。そして丹下健三に必須な軸は皇居と富士山に向けて構えられていた。大阪千里の日本万国博覧会場に丹下健三は軸を発見する事が不可能であった。関西の京都大学建築学科の西山夘三(※3)がいかにも京都大学風に設定した広場らしきを中心に据えるという中途半端に民俗学的しかも生活する人間の集団らしきの空想的社会主義の裸形を下敷きにせねばならぬ地点から丹下健三は構想をリセットしなければならなかった。軸がどうしても必要だった丹下健三は水平の地政学をあきらめて、垂直方向の軸を持ち込む必要を感じて岡本太郎の太陽の塔が出現した。あの塔は丹下の生命線とも言うべき強い軸が垂直に立ち上がったモノなのだ。巨大な岡本太郎自画像彫刻としか言い様のない縄文以前のアニミズムの胎児風の物体を丹下は好まなかったに違いないが、それにも増して当時の丹下健三にとっては軸が必要だった。現在、未来都市モデルとしての大屋根は消失したけれど、楔の如くの太陽の塔が万博記念公園のモニュメントとして残されているのは当然の事なのである。アレは万博会場に垂直に立つ異形の軸なのだ。残ったモノも立派だが、更に立派なのはアレを残した何者かの集団的意志であろう。つまり保存の対象になったのは垂直軸そのものであった太陽の塔であった。

それはさて置く、本題に戻ろう。

万博会場設計に磯崎新、黒川紀章共に参加している。恐らくは丹下構想をまとめる現場のプロデューサー的立場で磯崎は丹下健三及び万博協会、当時の通産省官僚達から随分重宝がられたのではないか。勝手な憶測ではあるが、そうに違いない。つい先年、フッと磯崎が洩らすに「僕は手帖を持たないんだ、今は有能な秘書が居るけれど万博の頃は一、二週間の超過密なスケジュールも皆頭に入っていた。今はそれが出来ない」と何かの約束で遅れてしまったわたくしをジロリとたしなめた。わたくしは俺の頭はカボチャだなとうつむくばかりであった。結局、磯崎は過労と恐らくはストレスで倒れる事になったが、後の磯崎新のスーパー・プロデューサー振りの土台はこの時に育成されていたに違いない。磯崎は倒れても結局はモトは取ったのである。

そんな役割とは別にほぼ自立した作家として磯崎はデメとデクと命名された大きなロボットを設計、実現している(※4)。

情報に鋭敏過ぎる位の磯崎であり、黒川であった。彼等がル・コルビュジェの、否、むしろヤニス・クセナキスのフィリップス館のパビリオン概念を知らぬ筈がない。勿論それを建築を拡張するであろう情報そして環境建築の萌芽である事位は嗅覚で直覚していた。

磯崎のロボットは丹下健三の大屋根内とは言わずとも、大屋根下の大空間をフィリップス館でのクセナキスの萌芽をよりリアルに実行すべく構想したに違いない。

黒川紀章は丹下健三研究室では京大出身でもあり、余りにも才気走るが故に外様大名であったろう。それ故に丹下健三の大屋根下には入れなかった。しかし外様の特権を良く生かし、大屋根の外に二つの大きな民間パビリオンを実現した。恐るべき若き行動力、そして商才でもあった。 黒川が実現した民間パビリオンは2つある。「東芝IHIパビリオン」と「タカラパビリオン」である。タカラパビリオンには多くを触れない。垂直方向水平方向共に増殖可能な単位化され、つまり分節され、勿論工業化モデルを装った骨組にカプセルが組み込まれるという典型的なメタボリズム造形であった。でもそれは当時ビートルズや痩せた女の子ツィッギーのスタイルが世界の若い世代をほぼ席巻していたのと同様に世界にメディアとして彼等の思惑通りに流通していたアーキグラムのスタイルとは微妙に異なっていた。当時の黒川はむしろ磯崎よりも、と言うよりも、磯崎とは異なる鋭さを持つ鋭角的な才質の持主であった。それこそそよぐ柳を雨の中、跳びつき続ける一匹の痩せたカエルでもあった。

アーキグラムのスタイルの強さはやはりイギリスの強みを背景にしていた事だ。イギリス近代文化の基底を踏まえていた。それは今のノーマン・フォスター、ロジャース、そしてジェームズ・スターリング、ジェームズ・ゴーワンの系譜(※5)と実に同根なのである。イギリスは近代の源である機械を発明した国である。産業革命はジェームズ・ワットの蒸気機関の発明(※6)によって始められた。帝国艦隊の力と共にそれがイギリスを大英帝国に育てた源であった。教育その他総合的な文化育成の力によってイギリスはまさに伝統としてその機械を育て続けてきたのである。アーキグラムの機械美学とはそういうモノ、筋金入りの伝統の継承の中に在る。それにアメリカンポップカルチャーをまとったのだから強かったのである。

デイビッド・グリーンの「リビングポッド」と命名されたカプセルのデザイン(※7)も絶妙ではあったが、そのポッド=カプセルに小さくユニオン・ジャックのフラッグがつけられていたのを見落としてはならない。そのカプセルはヘンリー・フォードのT型フォードの如くに大量生産される以前の、やはり原マシーンなのである。二十世紀の兵器を除く、マシーンの華であった自動車に例えれば、やはりロールス・ロイスと言うべきか。決してマスタングではないだろう。

これも又、イギリスの生んだ伝統でもある『女王陛下のユリシーズ号』のアリステア・マクリーンを代表とする冒険スパイ小説のポピュリスト、イアン・フレミングが生み出したヒーロー、「007は殺しの番号」のジェームズ・ボンドだって乗り廻す車はアストンマーチン、イギリスの名車であり、アメリカン・ヒーローであったスティーブ・マックイーンが乗ったマスタングでもなく、エルビス・プレスリーが愛したキャデラックでもないのである。

好きな横道にそれようとしている。磯崎論に戻る。

タカラパビリオンを今更見直すのはそれ程の意味が実は無い。アレはアーキグラムよりもオランダのアルド・ヴァン・アイクのアムステルダムの孤児院(※8)を下敷きにしていたのではないか。アルド・ヴァン・アイクの群体集合の生態系モデルとも呼ぶべきを、平面形の群体原理性を垂直方向へ立体化したのである。黒川は当時しきりにマルチン・ブーバーを引用したと記憶しているから、そうに違いない。

黒川の目ざとさは別にして、今はそこから新しく問題を引き出す事は出来ない。少なくともわたくしには出来ない。

しかしもう一つの黒川のパビリオンであった東芝IHIパビリオンには今でも謎が残り続ける。

丹下健三の大屋根の原型はコンラッド・ワックスマンである。ワックスマンのアイデアそのモノは勿論丹下健三は知り抜いていた。1955年に今や神話的とも言えるワックスマンゼミナールが磯崎新を中心に多士済々を東京大学に集めて開催されている。日本のインダストリアルデザイン界そのものの創始者とも呼べるGKの栄久庵憲司もゼミナールに参加している。磯崎新はそのゼミナールのオーガナイザー的存在であったように知るが、コンラッド・ワックスマンの印象は仲々に冷ややかなモノに思える。テクノニヒリストであり、ワックスマンの家系は棺桶屋の流れを汲むからだろうと言っている。(※9)

丹下健三はワックスマンのスペースフレーム、本来は何処迄も無限に繰り返しの単位の集合だけで延び得るという原理を、切断して部分として実現した。このシステムは飛行機の格納庫のシェルター等多く軍事施設に転用されているのはR・バックミンスター・フラーのドーム理論が軍事用レーダードームとして多く実現されているのと同様に技術的なヴィジョンの究極が兵器性を帯びるという原理主義の危うさも又示しているのだが―———。

それに対して黒川紀章の東芝IHIパビリオンに採用されているスペースフレームは完全に装飾として使われているのである。これが今、わたくしには大変興味深い。

※1 東京計画1960、東京大学丹下健三研究室。『新建築』1961年3月号にて発表。東京湾上を東京(晴海)から木更津まで直結し、そのまま富士山へと向かう「都市軸」としてハイウェイの骨格、および枝分かれして平行射状の都市構造を計画した。建築の諸機能を大きく当時の東京の都市混乱への新しい認識を要請し、その都市構造の変革を唱えた。なお丹下健三の他、神谷宏治、磯崎新、渡辺定夫、黒川紀章、康炳基などが連名でクレジットされている。

※2 コンラッド・ワックスマン(1901-1980)ドイツ生まれ、ユダヤ系ドイツ人の建築家、工学技術者。1941年にアメリカに移住し、グロピウスとともに木材プレハブの「パッケージハウスシステム」を開発する。無限に続くことを想定したスペースフレームのジョイントシステムを考案し、その原理的な工学技術は米軍の飛行機格納庫の構造として採用された。

※3 西山夘三(1911-1994)京都大学出身の建築家。戦前からマルクス主義的な、庶民の生活の調査・分析を基盤に置く住宅論を展開。特に庶民の生活実態として「食寝分離」を見いだし、自身の住宅計画において応用した。またそのコンセプトは戦後、東大の吉武研究室が提案する集合住宅のプロトタイプ「51C型」に採用され、その後の住宅生産におけるnLDKの間取り形式の原型とも言える。なお、1970年の大阪万博では会場の全体設計を東大の丹下健三とともに行っている。

※4 デクとデメ お祭り広場に出現した、磯崎新設計の高さ14m程の巨大な二つのロボット。「デメ」の頭部には操縦室、胴体には照明と音響装置があり、「デク」には会場の諸情報に基づいて光や音、煙等を送出させる装置が搭載されていた。なお、そうした制御プログラムは丹下研究室の後輩である月尾嘉男によるものであった。

※5 イギリスの産業革命以降の温室作りから始まった、機械技術好みを、彼等は持つべきアイデンティティとして意識的にデザイン表現に反映させた。鉄とガラスを用いた「ハイテク建築」は、イギリスの伝統を血脈として持つ必然であったとも言える。

※6 イギリス・スコットランドのエンジニアとして知られるジェームズ・ワットは、1776年、当時の蒸気機関の設計におけるエネルギーロスの原因を発見し、基本的な出力の向上を計る改良を施したことで業務用として実用可能な動力機関を生み出した。彼が発明した蒸気機関の普及はイギリス国内の輸送と産業の効率化をもたらした。

※7 デイビッド・グリーンが提案した、身体を包む環境装置としての移動式カプセル型住居。外部環境とは膜のようなシェルターによって遮断され、そこに生命維持に必要な装置や、通信設備が取り付けられている。

※8 オランダの構造主義の建築家、アルド・ヴァン・アイクが設計したアムステルダムの孤児院(1955-1960)は、ヒューマニズムを原理にもつ形態の反復操作によって、統一性と多様性を共存させることを試みた。この設計思想とその手法はメタボリズムと親和するものであったとも言える。

※9 磯崎新による小エッセイ、「和尚ヘラブナを釣る」(『INAX REPORT 158』)参照。

注釈:佐藤研吾

記 2012年2月20日

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石山修武第34信 作家論 磯崎新10

『神の似姿』(※1)とは凄い乾坤一擲だなと考えた。ウェブサイトについての書き始めがあり、とうとう磯崎は視えない都市への具体的かつ包括的アイデアをつかんだかとも予想させた。時に命名、あるいはスローガン、アジテーションは来たるべき社会の一断面を垣間見せることがあるからだ。

2012年春現在、磯崎新の最新プロジェクトはいずれも2011年3月11日の東日本大震災・福島原発事故関連と言うよりも、大事件に触発されてのモノである。「アーティスト/アーキテクトは災害(事件)をいかに作品化(プロジェクト)するか」(※2)と命名された福島遷都計画についてとり敢えずは入口だけ触れたい。このプロジェクトの意味には二つの筋があろう。一つはその伝達形式とは別のプロジェクトの内容、つまりは意味についてであり、二つ目はそれを離れた伝達自体の形式についての筋道である。

まだこの作家論は作品論には入っていない。それはだいぶん先の事になる可能性がある。それ故にここでは二つ目のプロジェクト、あるいはその伝達形式について考えてみたい。

『神の似姿』で磯崎はこう述べた(※3)。

この著作は今世紀になって編まれた。すでに磯崎は揺るぎなき大家である。冒頭の小エッセイ「神の似姿」だけが新世紀になってのもので他は大作シリーズ『建築行脚』(※4)からの再録である。

「同じように都市・建築における時間を取り扱っているとしても、チームXの「変化と成長」、メタボリズム・グループの「新陳代謝」にたいして、アーキグラムが「プラグ・オン」と自らの方法を呼んでいたことを比較してみるといい。前者は一般化を意図した啓蒙性をもつタイトルであるにたいして、後者は単純にカプセルをくっつけることを言っている。私が理屈抜きにアーキグラムにシンパシイをもつのは、方法の呼称に賭けているからでもあるが、「プロセス・プランニング」もそんな呼称のひとつだった。」 (『神の似姿』、磯崎新、7-8頁。)

不動の大家になってからの創作家の大半の言説は自己の創作方法の歴史的な自己擁護の中にある。あるいは更に大きな歴史の文脈への自己編集の趣きから、それ程自由にはなれぬものだ。ここで磯崎が説きたかったのはアーキグラムへのシンパシイでもあるが、それ以上にメタボリズム=黒川紀章と、自己の創作上の距離の表明である。

しかし、ここで磯崎が方法のネーミングに関して着目しているのは重要である。重要だが自己のプロセス・プランニングの重要さを述べようとする為にそのネーミングから、プラグ・オンを抽出はしてみせても、肝心要目のアーキグラム・・・のネーミングを焦点の外に除いているのは実はおかしい。アーキグラムが重要なのはプラグ・オンではなくって、ピーター・クック以下のメンバーの名称をアーキグラムと命名した事なのだ。その方法的意識である。

そう指摘する事の正当性は実に磯崎自身が「神の似姿」と命名したこのエッセイの基調低音、つまりインフラストラクチャーがウェブサイトへの関心に、つまり情報の作り出す超唯物論世界、もう一つのあり得よう空間へ向いているからである。さすれば、当然プラグ・オンよりもアーキグラム・・・、つまりテレグラムのもじりの命名の才質に触れてしかるべきだろう。これは相対主義者磯崎新らしからぬ自己撞着である。

メタボリズムにも同じような事が言えよう。メタボリズムは新陳代謝と短く訳すべきではない。やはり大衆消費社会に必念の新陳代謝をバックボーンとするイデオロギーらしき・・・、と長々しく言明すべきなのだ。短く言い切り難いのはメタボリズムを集約する代表作にこと欠くからである。今は黒川紀章が残したドローイングだけだろうが、「山形ドリームランド」と似て消えていってしまった建築もある。例えばEXPO’70、大阪万博に於ける「東芝IHI館」(黒川紀章設計 ※5)である。

博覧会等の本来的には仮設建築であるパビリオンの現代的祖形(原型=モデル)はル・コルビュジェのフィリップス館(※6)である。仮設という唯物論的条件には、ズバリとメタボリズム=新陳代謝するという一般的解釈=俗論以上の何者も無い。極論すれば博覧会建築は全てメタボリズム的原理では急速に消費され、取り替えられる以前に消失するのであるから、メタボリズムの作家達はその原理を実行するに良い機会であったろう事は想像に難くない。あらゆる人工の、つまり自然以外の物体に永遠なんて事はいくら輪廻しようと転生しようとあり得ない。つまり神は居ないのだ。それが、ニーチェが扉を開けた、神は居ない、のすなわちヨーロッパ近代=キリスト教社会の始原であった。

 コルビュジェ設計によるフィリップス館は、コルビュジェの代表作でもあるラ・トゥーレットの僧院の、一般的には担当者、協力者であったヤニス・クセナキスの考え、デザインが一部を占有していた(※7)。更にフィリップス館の中枢の考えはむしろル・コルビュジェよりもクセナキスの思考によるものであろう。クセナキスは建築である以前に音楽家、そして数学者であったと言われる。日本では音楽家の高橋悠治(※8)がクセナキスに師事した。あるいは強く影響を受けた。高橋悠治は日本の最前衛の音楽家の一人である。これもクセナキス、ジョン・ケージ(※9)とともに極めて知的な音楽家である。詳述するには音楽の世界に無縁に近いわたくしには荷が過ぎる。しかし、小林秀雄の代表作でもあるモーツアルト論に対する苛烈極まる批判(※10)を一読すれば良質な音楽家のほとんど数理に接近するが如きの特性とでもいうべきものを体験する事ができよう。この小林秀雄版モーツアルトへの批判は又、一人高橋悠治の才質である計りではなく、より一般的に良質な音楽家の、音楽鑑賞家=消費者=言説を使い文学的意味を創作する人間との距離、落差とでもいうべきを示しているのでもあった。坂口安吾の小林秀雄批判「教祖の文学」よりも余程、唯物論的すなわち理学的な日本的創作批判とでも呼べるものでもある。

フィリップス館の価値の中枢はその建築が中での人間の表現行為、音楽と言うよりも音そのものの、色光の動き、すなわち映像メディアが主体であり、器としての建築は従の位置に置かれて考えられていた事である。

この考えは近代にも連続し続ける前近代的のすなわち人間主義的音楽をそれこそ解体して、人工の自然の再構築への先駆とも呼ぶべきコンピューター音楽、十二音階音楽(※11)の実質的な創始者であったヤニス・クセナキスの良く考え得る事であった。クセナキスに比べればル・コルビュジェは造形家、フォームギバーでしかなかったのである。ただしル・コルビュジェは建築家である前に画家たらんとした人物でもあり、それ故にこそ、磯崎の深い関心を呼ぶのであるが。

敢えて更に直接的に述べればフィリップス館は、すなわちパビリオン建築はすでに磯崎新が標榜し続ける、視えない都市の似姿=モデル=アイコンなのである。アイコンは神の似姿ではないか。

※1 『神の似姿』、磯崎新、鹿島出版会、2001年10月。

※2 石山修武第22信(2011年7月4日)参照。

※3 磯崎の対作家批評家評価に関して、石山修武第31信「作家論・磯崎新7」冒頭部分を参照。

※4 『磯崎新+篠山紀信 建築行脚』全12巻、六耀社、1980-92年。

※5 「EXPO’70 東芝IHI館」、黒川紀章、1970年。テトラユニットを組み合わせてできるスペースフレームによって劇場の屋根を吊る構造をとる。万博終了後、解体して別の建築として再生されることを想定し、「新陳代謝」の考えをそのままに提示したパビリオンであった。

※6 「フィリップス館」、ル・コルビュジェ、1958年。

※7 『生き延びるための建築』(石山修武、NTT出版、2010年3月)参照。

※8 高橋悠治(1938-) 現代音楽を中心とするピアニスト、作曲家。1960年代クセナキスに師事。また、1980年頃にはアジアの抵抗歌を独自のアレンジで演奏する「水牛楽団」を組織している。クセナキスの著書『音楽と建築』(全音楽譜出版社、1975年)の日本語訳も行っている。

※9 ジョン・M・ケージJr(1912-1992) アメリカ出身の音楽家。詩人。偶然性と不確定性を持った音楽(実験音楽)を多く制作。クセナキスとともに、現代前衛音楽の基礎的基盤を作り上げた人物と言える。

※10 「小林秀雄『モオツァルト』読書ノート」高橋悠治、1974年。小林秀雄のモーツアルト論「モオツァルト・無常という事」(1961年)に対する批評文。

※11 十二音階音楽 十二平均律におけるオクターブ内の領域の12の音を均等に使用する事により、西洋音楽における「メロディ」という形式の脱構築を意図する技法。したがって、数式的関数を振り当てることで音階を半自動的に生成する事が可能となり、不確定性をめざした現代音楽と高い親和性を持っていた。

記 2012年2月20日

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石山修武第33信 作家論 磯崎新9

博多山笠を背負ったふんどし姿も、ヒマラヤを背負った水泳パンツ姿もデッカくてボーヨーとしている。その先に進みたい。

磯崎新が極めて高度に完成しているらしい占い例えばインド占星術等(※1)に深い関心を寄せているのは知っていた。インドに占星術師を訪ねたりの話しは聞いた。何処迄本気なのかねの疑いは持たぬでも無かったが、どうやら本人は本気で居たいらしい。高度な知的存在は自然としか言い様の無い不可知に近づくのである。

これもチベットで、磯崎が深刻なケガをした時の事。旧チベットの首都というより歴代ダライラマの居住地ラサに着いてホテルの一室にチベット有数といわれるチベット医術の権威に身体を診て貰う現場に立会った。医師は占い師と区別がつかぬ。聴診器を当てるなんて事はしない。ましてやレントゲンやら解剖の初歩やらも一切しない。マッサージ師の如くに身体に軽く手を触れ、そして実に静かに話しを続けた。静かな対話の如くであった。二時間チョッとしてチベット医術の検診は終った。

「あの医者の言う事は皆当っていたよ」

と磯崎は洩らした。何時頃どんなダメージを身体が受けた歴史があるかを皆言い当てたと言う事であった。今度のケガは、それ程気にする事は無い。大丈夫らしい。チベット医術師はそう言い置いて薬も出さずに去った。インドの高名な占星術師の占いもかくなる如きであったろうと想像した。その時間、まさに時間としか言い様が無いのだが、それも又ボーヨーとした拡がりだけを、何やらデッカイものが在るな、の感を、それ以上も無くそれ以下でも無い言語化し得ぬモノをただ身近にしたのである。

言葉に出来ぬのなら、ボーッとデッカイ磯崎を言葉と同様に抽象、すなわちデザインに移し変えてみる努力をしてみよう。視覚的にデザインしたらどうなるのか。磯崎新の占星術好みに倣って占ってみる事にしたい。

花札占い(※2)があるや無しやは知らぬ。但しあのゲームが極めて占星術に近いシステムであるのは知る。星々の運行の代りに森羅万象の精霊のアイコンが使われているのだから。日本の空、つまり宇宙はアジアモンスーン圏内にも属しているから時に分厚い気流、すなわち雲に覆われ水気も多い。インド、ヒンドゥ文化圏の如くに雨季乾季の明快な二項対立も、それ故の「0」の発見に迄辿り着く延々たる例えばマルチン・ブーバー(※3)の非ず非ずの神秘に極度に接近する事も無い。イスラムの砂漠の上に拡がるこれも又極度の抽象も無い。在るのはもうもうたる水を含んだ大気の動きである。それが時間の動きへの関心となり、広く民衆には四季の移ろいとして眼に写り続けてきた。

日本にも北斗信仰やらの星々を巡る宗教的観念は無いわけではないが広がりは見せなかった。もうろうとした大気の動き故であろう。その明快な輪郭を持ち得ぬ視覚が生み出したのが身近な時間の移ろいとそれに関連した自然の精霊達の数々をデザインした花札であり、四十八種のカードゲームである。全てに四季の時間の動きがデザインされている。このデザインは多種多様であるようだが、いずれも見事だ。なまじな日本論よりも余程見事に日本という場所の特質を表現し得ている。何よりも深く民衆にそのアイコンの美学が浸透している。

それ故にこれもゲームとして磯崎新をそのカードの群に配布してみたい。単純に磯崎新はどのカードを割り当てればピタリなのか。ゲームであるから相対性を必要とする。星々ならぬ花々樹木生物、森羅万象の曼荼羅でもある花札のどなたが、どの札のデザインに相当するだろうか。

丹下健三は、これは歴然として鶴と松と太陽である。松の内の松。天照大神の太陽。今は東京カテドラルに眠ってはいるが神道の天皇制に最も近い。

安藤忠雄は春爛漫の桜で間違いようが無い。万葉集の時代、古層の我々の先祖は梅の花を好んでいたらしいが、安藤はより近世の江戸大衆文化の始原らしき、やはり桜である。陣幕が張られ、その内外で戦や儀式がなされ続けた。

黒川紀章はメタボリズムから利休ねずみに跳んだから柳にカエルの雨である。刻苦勉励を重ねて柳に飛び続けた。

さて本論の主役である磯崎新は奈辺に落ち着くのだろうか。ボーヨーとしてデッカイ。すなわち黒い山の上にボーッと出現する得体の知れぬ坊主(芒)。この札に間違いようが無いではないか。

妙な札ですよ、坊主は。

と、ここの語り口は坂口安吾風になってしまうが自然である。安吾の文体を真似るしか無いここは。だって安吾のエッセイだか小説だか知れぬ土俵作り。エッセイが小説であり、小説(作品)がエッセイである、は磯崎の土俵そのものではないか。違うのは、それ故に安吾は小説=作品主流の日本文学史では二流の作家であると見なされ続けてきたの下りだけである。磯崎は「都市破壊業KK」(※4)なる危険なエッセイが書き始めであるにしても始まりから一流であり続けた。

坂口安吾の創作論としての自己規定はファルスすなわち道化論(※5)である。アイロニーとファルスは行動の始まりに於いて近いがその後のプロセスが全く異なる。だから出来上がった作品は実に安吾の言うように悲しい位におかしいのと、悲しい位にアイロニカルな開きを見せてしまう。ファルスとしての始まりが実に堂々たる正統に逆転して視えてしまう。

磯崎新の自分自身の墓所は自分で書いているように、京都の名刹の、それはどうでも良いのだが、出雲の阿国の墓(※6)と細川ガラシャ夫人の墓(※7)に挟まれたのを選んだと言う。この営為こそはファルスそのものである。でも磯崎が実行すると別のモノに視えてくるから不思議である。坂口安吾が教祖の文学に於いて批判した小林秀雄(※8)の如くに妙に座りが良くなってしまう。

世評が極めて高い「孵化過程」のドローイング(コラージュ)(※9)にしても、シシリアのアグリジェントの遺跡に未来都市の姿の行く末を視たという、ダダイスト、マルセル・デュシャンの便器、「泉」(※10)と同じ行為としてはファルスそのものである。ただし、それこそ褌がキリリと決っているので、言ってしまえばそれだけで大作品になってしまった。デュシャンの便器の兄弟ふんどしなのである。

「孵化過程」の射程は極めて遠く長い。実物らしきを描いた建築作品としたらピラネージの廃墟シリーズ(※11)と共に最強最遠になり続けるだろう。どうやら人類が類として生き延びるのはそれ程遠くない時間の内に終了するのは眼に視えてきた。そしていずれ磯崎の建築作品はどれも物理的に機能停止して、そして廃墟になるか人為的に消失させられる。

わずかに秋吉台国際芸術村(※12)に自らの手で再生保存させた小品N邸(※13)だけが保存の道筋が示されている故に生き長らえるやも知れぬ。例えそうなったとしても、「孵化過程」の紙片は残り続けるだろう。今の世に得体の知れぬモノ、つまり解釈し難いモノ程に生命は長い。

すなわち坊主は強い。

あのデザインは花札の中でも最も非可解なモノである。ボーッとしていてスケールも何も、もしかしたら意味さえも失せているではないか。黒い山影らしきの上に円い何か、太陽なのか月なのか定かでないモノがただただボーッと昇っている。円の中には何も無い。空は白い空虚から真紅な空に変っている。山影の都市が燃え上がっているのか、磯崎が好んでいるらしい落日の一瞬なのかは知らぬ。知り様がない。他の札の一切と異なり四季折々の季節さえも日本という場所も消えている。

磯崎新の全体はだから花札の坊主なのである。このアイコンを介して磯崎新を何とか自らが取り巻いたアイロニーの不可能から取り出したい。

作品論に入る手前でいきなり一見妙に見えかねぬ小結論に到達してしまったのは本意ではない。わたくしは賭博師ではないから、これ以上花札には手を触れぬ。花札小考から磯崎新坊主論を導けた。さて花札から個々の磯崎作品へと移るのも唐突である。頭の切り換えもスムーズには行かぬだろう。それ程器用な頭ではない。再びに横径に入り込みたい。

離見の見(※14)を説いた、丹下健三の巨大な影、大江宏(※15)のできるだけの遠回りをせよの教えに従いたい。

※1 インド占星術 インドで発達した占星術で、「ヴェーダ占星術」とも呼ばれており、インド古来のヴェーダの観念的教示と深く関係している。インド占星術は地球の歳差運動による春分点の移動を修正し、実際の星座の正確な位置を使用するように、西洋占星術とは異なり極めて理論的に構築された形式を持つ。

※2 花札 「花かるた」とも呼ばれ、安土桃山時代にポルトガルから日本に伝わったトランプを起源に持ち、一組48枚で、12の月の折々の花が4枚ずつ描き込まれている。「松に鶴」や、「牡丹に蝶」など、それぞれの花(トランプの数字に当る)に動物や短冊などのスート(記号)が組み合わせられることで様々な絵柄が構成されている。

※3 マルチン・ブーバー(1878-1965) オーストリア出身のユダヤ系宗教哲学家、思想家。1935年にナチス政権によって追放処分を受け、ドイツからエルサレムに移住している。ブーバーの「我と汝」の概念は、自己と、自己と共にある人間との両者主体的な応答によって生まれる関係の場(=「間」)に価値を見いだし、信仰の本質は「永遠の汝」としての神的存在との応答関係の内にこそあるとした。自己でもなく、他者に依るでもない、フーバーのヨーロッパ的自我から脱却しようとする思想はまた、日本の禅との親和性が指摘されてもいる。

※4 都市破壊業KK 1962年に書かれた磯崎新の寓話的エッセイ。単一の個人(=建築家)の構想力によってでは組立てることができなくなってしまった凶暴な都市に対する反抗として、当時磯崎は「できあがりつつある都市を壊す」という論理をぶつけた。

※5 坂口安吾は20代に、「ピエロ伝道者」(1931年)、「FARCEに就て」(1932年)などの短いエッセイを著し、「笑い」を詩魂として持って当時の文学界に切れ込もうとする自らの作家像を表明している。

※6 出雲阿国(1572(?)-没年不詳) 安土桃山時代の女性芸能者であり、歌舞伎の創始者ともいわれる。京都の四条河原で阿国は武家の扮装、つまり男装をして茶屋の女と戯れる様子を演じたとされ、そうした「傾く」(かぶく=常識離れした)女として阿国は人気を博した。ちなみに出雲阿国のものとされる墓は、出雲大社のそばに、そして京都大徳寺の高桐院にある。

※7 細川ガラシャ(1563-1600) 明智光秀の三女で、織田信長の命令によって細川忠興の正室となった。キリシタンとして有名。戦乱の世の政略的な争いに巻き込まれながらも、自らの信仰を貫いたその気高い女性の姿は、1698年にヨーロッパのイエズス会によって上演されたオペラ「気丈な貴婦人」のモデルとなった。

※8 坂口安吾は「教祖の文学」(1947年)の中で小林秀雄批判を展開する。論考の中では、小林が書く文章の迫真力を評価しながらも、一方で小林の達観した、冷静な視点が作り出す言い回しの妙に見出される、小林の仮面性を痛烈に批判する。

※9 孵化過程=ジョイント・コア・システム、磯崎新、1962年。空撮された都市の写真を貼ったテーブルの上に、来場者は釘を自由な場所に打ち、色付きのワイヤーを掛けて思い思いに都市のインフラを提案する、という作品形式をとる。磯崎はここで、現実都市の自走してしまったシステムを表現し、都市の変動していくことそのものを「かたち」にした。

※10 泉、マルセル・デュシャン、1917年。デュシャンはこの作品を、自身が展示委員をしていたニューヨーク・アンデパンダン展に匿名で出品した。けれども展示委員会の議論の末に展示されなかったことを受けて、デュシャンは直ぐさま新聞に抗議の評論文を発表し、委員を辞任した。そこでデュシャンはレディメイドについての意味可能性を挙げ、当時の芸術の価値概念を美や感性等の感覚的領域から、言語操作を伴う知的領域へと向かわせた。

※11 ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(1720-1778) イタリア・ヴェネチア出身の画家、建築家。ローマで古代遺跡の研究を進めるとともに、エッチングの技法を学んで、ローマを舞台にした牢獄幻想や廃墟となった古代都市の想像的世界を描いた版画作品を多く残した。

※12 秋吉台国際芸術村、磯崎新、1998年。山口県美祢市にある複合文化施設。芸術家が自ら長期滞在して創作活動を行うアーティスト・イン・レジデンスとしての機能を想定している。磯崎の初期の作品「N邸」の移築復元が敷地内にある。

※13 N邸、磯崎新、1964。 磯崎新の初期の住宅作品。異なるスケールの立方体を組み合わせて構成され、内部空間の水平方向に空く開口部は少なく、大部分を壁で囲まれる。代りに天井からの採光によって光は上から降り注ぐ。当時磯崎自身がヨーロッパで体験した、壁への意識と上からの光の体験という闇と光の対比状況を、幾何学的形態操作によって日本的陰影へと転回させながら建築内部に注入した作品と言える。

※14 離見の見 大江宏が引用したこの理念は、室町時代初期の芸能者、世阿弥によるものである。世阿弥は『花鏡』の中で、観客の見る役者の演技は、離見(客観的に見られた自分の姿)である、とする。そして、「離見の見」すなわち離見を自分自身で見ることが必要であり、自分の見る目が観客の見る目と一致することが重要だと述べる。

※15 大江宏(1913-1989) 建築家。丹下健三と対比的に論じられることの多い大江宏は、明治・大正の日本建築の造営技師であった大江新太郎の息子でもあり、近代的枠組と日本の「伝統」の併存を試みた建築家として知られる。また、建築における「日本的なもの」を追求し続けた建築家、堀口捨巳を師と仰ぐ。代表作に、「国立能楽堂」(1983年)、「香川県文化会館」(1965年)。

記 2012年2月17日

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石山修武第32信 作家論 磯崎新8

磯崎にとってニーチェのツァラトゥストラ(※1)はまぎれも無い神話的モデルであろう。端的に言えば私的英雄モデルである。近代そのものが内に持たざるを得ないアイロニーを知り尽くしても、内奥にそれに抗そうとする人間の身体が縛りつけようとする意志はあくまでも自由を欲せざるを得ない。他と比較してあり余る程の自由への意志つまりは本能的な自我が強い者程その傾向を帯びる。そして同じ位に深く自己批評も同時に行なわざるを得ない。磯崎新の内の芸術、及び芸術への理解、親近感の正体はそういう類のものである。それは理解欲親愛感のアイロニーとしての形式である。批評の形式をとって表現され易いのである。近代に特有の形式である。

磯崎新にとっての更に具体的な近代の神話的英雄は毛沢東(※2)である。毛沢東は磯崎の中ではツァラトゥストラと同一なのだ。この問題に関しては別章に於いて詳述する事になろうが、今は毛沢東の英雄的個人史の中では東征の道である。

茶馬古道(※3)と呼ばれる雲南省の峻険極まる道を毛沢東は東へ後退的進軍をした。世に言う長征の現場である。そして虎視眈々と近代大中国の統合独立の野望達成の機をうかがった。毛沢東がまさに英雄として世界史に残る大戦略であった。

磯崎との旅はシャングリラからメコン河の大峡谷を遡行する旅であった。プロのドライバーの運転するジープ三台に磯崎のクライアントである上海の大デベロッパー社長他の一行である。ヒマラヤ行くから一緒に来いと言われて気楽に同行したわたくしも、これはとんでも無い旅だぞと気付くのに時間はそれ程にかからなかった。シャングリラからラサ迄ジープで三日ぐらいとは聞いていた。しかしメコン大峡谷の絶壁にへばりつくような茶馬古道の道を走り始めて、その計算はとんでも無く大雑把なものでしか無いのを知った。水平距離を指コンパスで目算したものに過ぎぬのはすぐに知れた。厳しい山道のクネリ曲がる距離、そして三千数百メートルから六千メートルを越える高度の上下を全く計算に入れていなかったのだ。車の窓のはるか下、千メートルは白髪三千丈としても五、六百メートル位の断崖の、はるか眼下にメコンの激流が細く視えている。メコンの水は赤い。崖も岩も赤い。異様な風景である。道は車一台ようやくの事ユルユル走れる位に岩壁を切り取ったモノ。それも何ヵ処も崩落してジープは一台一台用心して傾きながら急斜面にしがみつきながら、まさに進軍するのであった。タイヤがすべればそれで崖下のメコンに落下するしかない。

わたくしは二重にそれこそ仰天していた。何故こんな処に命からがら居るのかが第一。第二にあの沈着冷静、つまりは自分を取り巻く状況を計算し尽くせる筈の、それ故に建築家の中の建築家である筈の人間が小さなジープの隣りの座席に居る事であった。危険極まる状態にわざわざ身を置いているとしか思えない。

わたくしが何故このヒマラヤ、チベット行に同行したかと言えば、福岡VS東京のオリンピック招致合戦で磯崎チームに加わり少し努力した事をねぎらうという事であったらしい。磯崎アトリエとしてはヒマラヤ、チベットなど危ないに決っているから石山を付けて用心させよう位の事であった。

わたくしとしては磯崎新の傘の下で国内外の大きな展覧会やプロジェクトに参加して、磯崎新の事はすでに知り尽くしていなければならず、自分としても少しは知った風を吹かせようとしていた頃でもあった。そんな風を吹かせても何の実利にもならぬのだが、それはそれとしてそうなのであった。

ところがこのメコン峡谷からチベット・ラサへの旅はそんなわたしの理由知り振りを根底から覆したのだった。これ迄、少し計りを述べてきた磯崎新像、それは世間一般の磯崎像とそれ程の違いはないものでもある。この旅を体験する迄は、わたしの書くべき作家論はR・バックミンスター・フラー(※4)か鎌倉期の勧進僧、大仏殿再建の俊乗坊重源(※5)と決めていた。磯崎は彼等と比較すれば格下だなと計算もしていたのである。ところがこの法外なワケの解りようの無い旅を経て、一生に一人だけ作家論を残したいと言うわたくしの書く対象に磯崎新が侵入してきたのである。

この男は何故こんな無茶をするのだろう、一つ間違えば生命もなくなるだろう事は解っているだろうに。相対主義者、アイロニストの世界を代表する建築家がとるべき行動では、これは無い。磯崎はすでにやるべき事の大半は成している。このジープがメコンに転落しても、そうなってもである。

——世界的建築家、なぜかメコン峡谷に死す―— と大報道されて少なくとも世を驚かせるであろうが、俺はどうなのか、もう一人どうやら死者も居たらしいが関の山ではないかと、死後の世界迄を想像する始末なのであった。

「これは石山、半端じゃないな。危ないぞこれは」と、磯崎がつぶやく。

やがて再び道が大きく崩落して、大きな岩も道をふさぎ切っているのに遭遇した。遂にジープのドライバー達が口論を始めた。行くべきか、引き返すべきかの大口論である。彼等だって命がけなのだった。

「これはもう駄目かもしれんな。ヘリコプター呼ぶしか無いだろう」と磯崎がつぶやく。「でも磯崎さん、ヘリコプター呼んでもそれが降りる場所なんて何処にも無いですよ」と、わたしだってヤケのヤンパチでつぶやく。対岸遠くには、それこそ六十センチ巾程のオリジナル茶馬古道がかすかに断崖をけずって走っているのが細く視えている。口論したってしゃーない、どうやら谷底にジープで降りられそうだ、そこに温泉があるらしい、となった。ようようの事で谷底に降りた。そこに何故か、奇跡としか言い様のない温泉宿舎があった。おまけにヒマラヤを遠く谷底から望む温泉プールまであったのである。

「オーイ、石山来い。いい湯だぞ」と磯崎新が叫んだ。見れば水泳パンツを身につけて泳いでいるではないか。水泳パンツは東京から、大きな革製のバッグにひそませてはるばるやってきたモノらしい。ヒマラヤに水泳パンツ持参の用意周到振り。しかも常識的な計算からは思い付かぬ事。あまりにも非磯崎的としか言い様のない夢幻の、わたくしにとっては忘れようの無い事件なのであった。

あの時にヒマラヤの山をバックに水泳パンツを身につけて泳ぐ実に何とも言えぬ磯崎新という人間の想像もつかなかったイメージがわたくしの中に像を結んだのだった。あの時の磯崎新もボーヨーとしてただただデッカかったのである。R・バックミンスター・フラーの卵形の頭の印象とも異なる。俊乗坊重源の西行さえも煙に巻いただろう狷介極まる表情とも異なる、言い得ようの無いボーヨーとした感じがわたくしの頭脳に焼き付いてしまった。ヨイとかワルイとかの印象とは全く異なる。まさに謎そのものの感じなのでありました。

※ 1 ツァラトゥストラ フリードリヒ・ニーチェの著書、『ツァラトゥストラはかく語りき』に登場する主人公。ニーチェは、小説的もしくは神話的散文の文体を用いて、神の死、超人、そして永劫回帰の思想を論じる。ツァラトゥストラは物語の中で、いわばニーチェによる観念の擬人化といえるさまざまな登場人物に遭遇し、物語の読者に解釈を要求する。

※ 2 毛沢東(1893-1976)初代中華人民共和国主席。日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中華人民共和国を建国した。蒋介石率いる国民党による共産党殲滅作戦によって、中国共産党は江西省の根拠地・瑞金を維持することができず西へ逃れた。これが約二年間にもわたる、共産党の中国内陸への大移動「長征」の始まりとされる。毛沢東が英雄的モデルとして語られるならば、「長征」は、困難な道のりを乗り越えて中国国土に革命の種を蒔くことを達成した20世紀最大のロングマーチとも言える。

※ 3 茶馬古道 中国の西南部、四川・雲南省からチベット自治区ラサへの交易ルート。雲南省で取れた茶をチベットの馬と交換したことからこの名を持つ。毛沢東率いる中国共産党は、「長征」の際この古道を通過している。

※4 R・バックミンスター・フラー(1895-1983) アメリカの思想家、創作家。ハーバード中退後、機械整備工として働き、後に海軍兵学校に入学。第一次世界大戦後までアメリカ海軍に勤務している。シナジェティクスの概念や、ダイマクシオンマップなどをはじめとするフラーの原理的かつ詩的なアプローチの多くは、この海軍での航海および機械実験の経験を根に持っているとも考えられる。

※ 5 俊乗坊重源(1121-1206)平安時代末期から、鎌倉時代にかけて活躍した僧侶。平家の焼打によって1180年に焼失した東大寺の再建計画を、重源は61歳の時に上皇にむけて進言して東大寺勧進職に就く。全国各地を回って浄財寄付を依頼し再建のための資金を調達し、さらには技術者・職人集団を組織して再建事業に従事した。再建された東大寺の架構は大仏様と称され、同時代の日本には見られない独自の構造形式であった。なお重源の死後は、臨済宗の開祖である栄西が東大寺勧進職を継いでいる。

記 2012年2月17日

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石山修武第31信 作家論 磯崎新7

「ゆるふんである」

つまり褌がキリリと締まっているかいないか、が磯崎の対作家批評家評価の要である。と言い切ればアノ聡明極まる相対主義者の磯崎さんが?と大方はいぶかるであろう。でもこれは間違いがない。この作家論も前哨戦ではあるがいよいよ本論に進めたい。ふんどし論では巨匠に失礼だろうとの凡庸なる思惑は外したい。この期に及んでわたくしも、あるや無しやも覚つかぬ自分のふんどしをキリリとは言えずとも締め直したい。思惑は外してもふんどしは外せない。締め直すしか無い。

具体的にやりたい。

幸いにもかく言うわたくしは磯崎新のふんどし姿に立ち会っている。2006年の夏博多の山笠の大祭(※1)に於いてである。前後は省略するが、その年山笠の山見せの行事、これはとても大事な行事で磯崎新はその一番山車に乗る事になって、はるばる中国から駆けつけた。嫌がっていたけれど、山笠はオリンピックより大事な祭で福岡博多の沽券に関わります、乗っていただけないとわたし腹を切らねばなりません、の侍もいて、それでそうなった。

ふんどし姿を世にさらしたので記憶に残るのは日本浪漫派(※2)の残党であった三島由紀夫である。聖セバスチャンの殉教姿やら、三島由紀夫は裸体の露出狂じみたところがあった。矢を射込まれて身をよじる姿を露出する三島のポートレートは決して気持の良いものではなかった。市ヶ谷の自衛隊に日本刀を引下げて侵入し挙句の果てに切腹(※3)、そして介錯の手で切り落とされた自身の首まで新聞に掲載されるグロテスクさを予見させるに十二分なモノで、それはあった。ナルシズムの極みでもあった。しかしふんどし姿の三島由紀夫は実に異常な位の小男であり、隆々たるボディビル仕立ての人工筋肉もその貧弱な肉体を充分にカバーするには至っていなかった。黒川紀章もほっておけば裸をさらしかねぬ男であったが、着物姿に日本刀が限界であった。文士と建築家の社会に依って立つポジションの違いであろう。建築家が裸になって日本刀持ったりしたら誰も仕事等依頼するわけも無い。建築家は独自な実業家でもあるからだ。同じ実行家であるにせよ基盤が異なる。建築家は文化人の装いも持つけれども、その行動の大半の内実は実業家であり商売人でもある。そういう仕組みになっている。洋の東西を問わずそうだ。建築家の生誕をうながしたヨーロッパ、ルネサンスからその実体はそれ程に変りはない。パラディオだってブルネルスキーでも、その行動の原理はクライアントの獲得に向けられていた。

福岡の何処であったか控室で間近に見た磯崎新のふんどし姿は実に様になっていた。覚悟も決めて照れもせず、勿論三島の如くに見せびらかすでもなく堂に入っていた。これが磯崎の地でもあるなとわたくしは妙に納得した。

磯崎新には隠しても隠し切れぬ俗に言われる九州男児振りがある。決してフェミニストではない。フェミニズムを演じる事は出来てもそれは後付けの教養がなせる技でもあろう。花と竜(※4)、そして満州浪人、玄洋社総帥、頭山満(※5)への、その先の夢野久作(※6)等の大陸浪漫がチロチロと奥深く消える事はない。これは今の磯崎にも通じる。ハッピは身につけていたけれど、ふんどし姿でボーッと立つ磯崎は実に絵になっていた。

磯崎は珍しく得意気にウィーンのハンス・ホラインのレオナルド・ダヴィンチを真似た如くの建築家の解剖図を示したのを紹介したことがある。ホラインによればチンポコは丹下健三で頭は磯崎新、腕はミケランジェロ、心臓は誰それと機知に溢れたものであったが、それはハンス・ホラインが磯崎のスタンドカラー、スーツ姿と付き合っていたからに他ならない。ホラインは磯崎のふんどし姿を知らぬのだ。ウィーンあたりの知識人だから無理からぬ中華主義、否ヨーロッパ主義なのだがそれは仕方が無いのであった。あれはヨーロッパからの視点でしかないと但し書きが添えられるべきであった。如何にもなヨーロッパ、しかもウィーンというその中心に近い場所の知性の解剖図であった。でもアレは磯崎新のふんどし姿とは全く別世界のものでしか無かった。そしてふんどし姿としては異形ではあったが三島由紀夫のふんどし姿も知らなかった人間のヨーロッパ的唯我独尊に過ぎない。2012年の今になってやっとそう言えるようにはなってきたのである。

磯崎新のふんどし姿を博多山笠で実見する二週間程前にわたくしはふんどし姿ならぬ水泳パンツ姿の磯崎を見ている。それもヒマラヤ山中で、しかも毛沢東の東征の径を追うような山中行の真只中であった。中国雲南省シャングリラ(※7)と称される場所からチベット・ラサ迄のジープと酸素ボンベ付きの激しい旅であった。その旅で死ぬような目に実際に磯崎は遭った。それを経てチベットのラサ空港でわたしは北京に磯崎新は上海へと別れて、それで博多山笠での再会であった。

博多山笠でのふんどし姿と、ヒマラヤ山中での水泳パンツ姿が忘れようもなくダブって焼き付いている。それはエピソード1、エピソード2(※8)と書き継いだ印象とは正反対の印象でもある。

磯崎新の身体はふんどし姿になっても、水泳パンツ姿でも実にデッカイのであった。三島や黒川紀章、そして岡本太郎、丹下健三は皆小さい身体の持主であった。ところが磯崎新は彼等と比較すれば偉丈夫と言っても良い程にデッカイのである。ふんどし姿の日本流になっても水泳パンツのアチラ流になってもである。

博多山笠でのふんどし姿はまだしも、ヒマラヤ山中での水泳パンツ姿に関してはいかにも不可思議であろうから少し付け加えねばならない。

※1 博多祇園山笠 福岡県博多で毎年7月1日から15日まで開催される祭。700年以上の歴史があるとされる。山笠という山車を持つ「舁き手」と呼ばれる集団は伝統的な縦社会で形成され、舁き山に上がる者は「台上がり」と呼ばれ、舁き山の全体指揮を取る。舁き手達は幅44cm長さ5mの帆布を使用する締め込み(褌)を付ける。

※2 日本浪漫派 1930年後半、保田與重郎を中心とする、反近代と伝統賛美を支柱に日本の古典的美学への回帰を提唱した文学思想、およびその理念を共有した作家のグループ。三島由紀夫は学習院時代から浪漫派の教師たちの影響を大きく受け、太平洋戦争の壮絶な国土状況の最中に死と滅びの美しさを歌い上げる日本浪漫派の作家・詩人たちに傾倒した。1960年の安保闘争を機に、三島は戦後社会に決別して自身の文学的出発の原点に回帰し、反近代・反戦後の具現化へと向かった。

※3 三島の自決は昭和45年(1970)11月25日。当時彼は45歳であった。

※4 花と竜 火野葦平による戦後日本の近代化しつつあった港湾労働の世界を舞台にした長編小説。主人公の玉井金五郎は戦後全てを失ってしまった日本において裏切りと屈辱の境遇にあったとしても人としての品位を守ろうする。火野自身の戦後日本の将来への思いが込められた作品。

※5 頭山満(1855-1944) 福岡出身。玄洋社の総帥として明治から戦前に至るまで活躍したアジア主義の中心的存在。国権論・アジア主義を主張し、右翼の巨頭として政界に隠然たる影響力を持った。玄洋社は自らの理想を「日韓合邦」と表現し、20世紀的な国民国家とは異なる国家像を目指していた。

※6 夢野久作(1889-1936) 幻想作家。主な作品に『ドグラマグラ』、『少女地獄』。本名は杉山泰道で、彼の父親の「政界の黒幕」として知られる杉山茂丸は福岡藩士の出身で、頭山満とは青年時代から交際を保っていた。1935年に夢野が著した『近世快人伝』では、頭山や父親について記している。また特に、同書に収録されている「日韓合併思ひ出話」では、黒龍会の創設者、内田良平への聞き書きの形で内田の日韓併合についての思想を書き起している。

※7 シャングリラ 中国雲南省デチェン蔵族自治州に位置する県。チベットではカム地方南部にあたる(チベット語では「ギャルダン」)。旧称は「中甸」であったが、ジェームズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』で描かれたユートピア「シャングリラ」の名を2001年に採用し、現在の県名に至った。

※8 石山修武第29信「作家論・磯崎新5」、第30信「作家論・磯崎新6 エピソード2」参照。

記 2012年2月17日

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石山修武第30信 作家論 磯崎新6 エピソード2

ネット上で磯崎新と荒川修作(※1)の対談を読んだ。正確には本屋での対談ショーらしきを聞いた傍聴者の感想文である。この報告の形をとった感想は2012年春の今に近い磯崎新の率直な気持の状態を良く伝えているような気がする。何故なら筆者は磯崎に対しても、荒川修作に対しても何の自意識らしきも無くほぼ完全な傍観者の位置を取り続けているからだ。その状態は磯崎新にとっては理想的な観客、読者の状態のようにも考えられるのだった。少し感傷過多でそれ以上の何者でも無いところがあるがそれは仕方無い。若者にそれ以上を期待してはいけない。

ネットへの寄稿者、読者共に歴然たる年令層がある。この磯崎新、荒川修作対談ショーに集まった観客層のほとんどが20代の若年層であったと記されてもいる。

「荒川修作VS磯崎新」(「Y'not Report Revival」、2005年5月30 日ON。)(※2)。対談は5月29日に青山ブックセンターで行われた。筆者はreikoimamura、ブロガーを自称している。2012年春現在80歳の磯崎新は自在にネットを操作する世代には属していない。むしろ典型的な活字文化世代に属する者であるだろう。でもこの若いブロガーを自称するライターの磯崎そして荒川に対する距離感は磯崎自身が書き続けてきた結果の空気でもあるように感じられた。つまり今の時代のネット的文化状況は磯崎が奇妙な形で先見的に示していた。意識せざる相対的思考の敷衍状況である。それがわたくしには新鮮であった。

対談自体はそれ程に内容のあるものではない。「荒川君、僕と君は全く違うのだから僕を説得しようと言ったってムダだからね」の磯崎の発言が全てであるような対談である。明らかに荒川修作は磯崎に何かを説得しようとしてかかる積りであったのだろう。磯崎はそれを拒否した。それだけの事である。恐らく荒川修作は対談中に登場したらしい月島の長寿村らしきプロジェクトの実現を磯崎に働きかけようとしたのだ。良く知られるようにニューヨークで芸術活動を続けていた荒川は日本で建築家として再生しようとした。デビュー作は岐阜県知事の肝入りで実現された「養老天命反転地」の名が付けられた大きなスタジアムであった。岐阜県では磯崎は幾つもの建築プロジェクトをプロデュースしている(※3)からこの計画の実現にも力を貸していたのかも知れぬが良くは知らぬ。このプロジェクトはその建設の実現に全ての価値が懸けられたものでもあった。本来的に意味の無いテーマパーク庭園である。このプロジェクトは興行的には当った。当時の時代風潮にも適合し多くの人間を集客した。田舎に突如出現した巨大スーパーマーケットのアトリウムだけがうねって機能しているみたいなものであった。20世紀末の大衆大量消費社会の産物である。荒川はこのいかにもな日本独自な成功に勢いを得て東京月島に巨大住宅団地のプロジェクトを次に発表した。しかし、この場所は都市博(※4)の青島幸男都知事による中止でケチが付いた東京テレポート計画に端を発する、東京都の築地市場の移転計画、東京オリンピック会場計画にも繋がるいわく因縁付きの、それこそ悪場所であった。磯崎の師である丹下健三も東京湾を埋め立てる東京計画で何かにつまづいた感もあり、東京湾は実に近代の建築・都市の歴史にとっても仲々の難物であり、難しい場所なのである。磯崎はその歴史を知り尽くしていた。だから、この時も恐らくは荒川修作は単刀直入に磯崎にプロジェクトの実現に向けての協力を要請したに違いないが、磯崎は簡単には乗らなかったようだ。荒川は岐阜と東京湾の場所の意味の違いを知らなかったと言う他は無い。場所に関してはそれが重要な意味を持てば持つ程に政治経済の渦中に接近し、政治家のみならず官僚組織やらの分厚い壁の中に囲い込まれるものでもある。いかなニューヨーク暮しの荒川とて、荒川のニューヨークは芸術家のニューヨークであり、ニューヨークの場所の中枢その権力の近くには荒川は存在し得ようが無かったろう。その点磯崎は東京大学出身でもあり、しかも都市工学科であった。だから学生時代からその周辺には政治家はいざ知らずトップクラスの官僚の卵やらは極く極く自然体の如くに蠢いていたのである。丹下健三の体質もあり、磯崎はそんな身近な廻りの環境にも慣れ親しんでいたろう。荒川にはそんな政治力学への親近性は無い。それ故に芸術家であった。ただ磯崎だったら何とかしてくれるかもしれないの直観はあったに違いない。やはり芸術家特有の直観としか言い様がない。単純な良い人間であった。

黒川紀章は実に単純明快に政治権力に接近した様に思う。その晩年の東京都知事選立候補はそれを良く示した。良くも悪くも黒川は政治的人間であった。建築家以前の人間としてもそうであったに違いない。建築家としてのその資質は恐らく京都大学から東京大学の丹下研究室を目指し、丹下に師事しようとした学生時代にすでに開花したのではなかろうか。丹下健三門下の双璧であった磯崎も又、その資質に丹下健三の権力への接近を学んでいたのは疑いようが無い。ただ黒川よりはより複雑に用心深く学んだのである。

恐らくこの荒川、磯崎対談はプロジェクトの実現を急ごうとした芸術家荒川修作がなんとか磯崎を自身の土俵に巻き込もうと試みた小戦術があって実現された。しかし荒川修作は建築の小さくはないプロジェクトが対談程度では動きようが無い事を知らない。その政治力学の現実に余りにもイノセントであった。磯崎はその荒川の芸術家としてのイノセント振りは知り尽くしていたろうが、芸術家の単純明快さを振り廻そうとする剣呑さも又、見透かしていた。

エピソード①(※5)に石井和紘が登場した。いささか唐突な感があったろう。石井は自意識も強く満々たる野心家でもあったが、自我に固執する才質ではなかった。その自我自体が極めて極薄の、それが典型的に表われても居る才覚を中心に所有していた。その意味では我々の我執猛々たる世代では特異な才質の持主であった。恐らくは最も磯崎好みの才質の持主であったのではないか。

荒川修作が都下三鷹市に作った「三鷹天命反転住宅」をグラビアで見た時、又、石井和紘がやらかしたなと思った。それ位に荒川の住宅は石井の建築に酷似していたのである。

石井和紘の作品に「54の窓」(※6)がある。均等ラーメン構造に54の標準化された箱型の開口部が装飾として並列されたものだった。この表面的な印象が荒川修作の「三鷹天命反転住宅」と瓜二つであった。荒川にも石井にも針小棒大と言おうか事大主義的であると言おうか、自分のアイデアを過剰に飾り立てる才質があった。三鷹という土地と天命反転なる観念を住宅という卑俗極まる機能の中に同居させようとするケレンがあった。一時期三鷹に住んでいたわたくしとしては三鷹で天命は反転しまいと考え込んでしまうようなところがあった。まだしも岐阜養老ならば天命は反転せずとも反転を夢想する芸術家の主体は理解できなくはない。岐阜は飛騨高山を抱え込み、日本古代史の謎とも言うべきも無くは無いようである。少なくともそれを想像する根拠らしきは在る。しかし東京都下三鷹には東京天文台はあっても新撰組近藤勇の墓より他にとり立てて見るべき史跡も無い。典型的な東京郊外の新開地である(※7)。そこで天命を反転させようと言うのにはいかな芸術家でもいささかの無理がある。その点では石井の「54の窓」は湘南に位置している。湘南電車のオレンジ色とグリーンをその主題である装飾的効果にも取り入れて、視覚的にはどうかなと首を傾けざるを得ないが、知的ゲームとしては実に軽やかで頭脳をくすぐらせるのであった。サザンオールスターズの妙なアメリカ的日本語の風もある。桑田の唄ほど乗りは良くないが、津波も来そうに無かった湘南ビーチでサーフボードに日がな一日乗って遊んでいるような気分にもなる。その解説を聴いてからCDを廻せばであるけれど。何故なら石井の「54の窓」は明らかに装飾的効果が意識されていた。建築装飾と消費文化の相がすり合わせられる可能性も呈示されていたのだ。それに比較すれば荒川の「三鷹天命反転住宅」には装飾の概念が無い。だから空間構造に迄その気配が侵入してしまいただの七転八倒の大騒ぎになっている。

石井はこの一作だけにその装飾的効果の問題を表現しながら、その後は持前の語呂合わせ的才質に傾いてゆく。又、建築形態の骨格全体も遊戯性の濃いものになっていった。

荒川修作の「三鷹天命反転住宅」は、その本質的に装飾的なアイデアが空間構造そのものに制御される事なく拡張侵蝕しているところが矢張り表現者の主体の中の遊戯性の反映としての限界を自ずから内在させている。その一点に於いてこの建築は石井和紘の「54の窓」には届いていない。つまり荒川修作には建築の装飾の概念自体の現代的意味の追求への思考が欠落していた。残念である。

恐らくは荒川は「アラタ、君は僕のアイデアの実現に協力すべきだ」と磯崎に迫ったのだろう。その姿勢は決して悪いものだとは言えぬ。画廊や美術館の外の政治的力業の一切にうといあるいは充分に訓練されていない芸術家が、アイデアの社会化、実現に向けて、様々な努力をするのは正しい。ましてやそれを磯崎に託そうと考えたのは、荒川としてはそれしか無かったろうと思わせる上出来でもあった。しかし、磯崎はそれを拒絶した。その拒否は荒川の要求の正当性よりも更に正しかったと言わねばならない。荒川の一点突破の気力の充分さは認めるにしても、そのアイデアが良くなかったのだ。良くなかった理由はすでに述べた通りである。

※1 荒川修作 (1936-2010) 愛知県名古屋出身の芸術家。1960年代から渡米、以後ニューヨークに定住し、マドリン・ギンズと知り合い共同制作を始めている。1994年には岡山県奈義町に磯崎新とコラボレーションして「偏在の場・奈義の龍安寺・建築する身体」を制作。代表作の「養老天命反転地」(1995、岐阜)や「三鷹天命反転住宅」(2005、三鷹)など、人間の自立的な行動環境に直接働きかける庭園および建築的なものを実現した。通常の美術家・芸術家の概念では捉え切ることができなくなった自身の活動領域を「コーデノロジスト」と称した。

※2 「荒川修作VS磯崎新」(「Y'not Report Revival」、2005年5月30 日ON。) http://reikoyamamoto.blogzine.jp/ynot/2005/05/_vs__3eda.html

※3 神岡町役場」(1978、神岡町)、「セラミックパークMINO」(2002、多治見市)、「北方町生涯学習センターきらり・岐阜県建築情報センター」(2005、北方町)など。

※4 世界都市博覧会 東京お台場の臨海副都心で1996年に開催される予定であった博覧会。通称都市博。1993年に当時の都知事・鈴木俊一によって開催が決定された都市博は、臨海副都心開発を進めるための起爆剤として意図されたものであった。けれども、バブル崩壊後に都市博の中止を公約に掲げる青島幸男が都知事選を勝利したことで、都市博の中止が断行された。その後、都市博が中止になった臨海副都心の開発は練り直され、現在は当初予定していたオフィス街ではなく、商業・観光施設を中心としたアーバンリゾートの様相を帯びている。

※5 石山修武第29信 「作家論・磯崎新5」(2012年1月26日記)

※6 「54の窓」(石井和紘+難波和彦、1975年、神奈川県平塚市。) 南北面「タテ3xヨコ6」、東西面「タテ3xヨコ3」の均質なグリッドを基準したコンクリート構造体の中に多種多様なデザインを施された窓が嵌め込まれている。内部も含めると合計171個の窓がある。基準グリッドは2,880mm。建築の標準化、工業化の影響を大きく受ける建築部品の一つである窓をテーマにして、グリッドというスタンダードを定義し、住居としての機能に対する形態のバリエーションをそうした窓の形式の中で自由に表現した。多様性(ゲーム性)と規格性の間の問題に対して真向から向かった作品である。

※7 『絶版書房アニミズム周辺紀行7・記録の旅』、石山修武の論考を参照。

記 2012年2月12日

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鈴木博之 第14信

Xゼミの石山修武 第28信 磯崎新論5の中で語られるエピソードには、わたくしもかかわっているので、またもやブレークというのも気が引けるのですが、書き記しておきたいと思います。

石井和紘さんが磯崎さん(槇さんも関与していたのかもしれない)の企画による「若手建築家の訪米団」から外されたとき、わたくしも磯崎邸について行っていました。磯崎さんから直接呼ばれたのか、磯崎さんに呼ばれた石井さんが私にも声をかけて連れて行ったのか、記憶が定かではありませんが、お茶の水にあった当時の磯崎邸に行きました。

そこで宮脇愛子さんが出てきたのでびっくりしてしまった記憶があります。というのも宮脇さんのところには、磯崎さんに会う以前から出入りしていたからです。その頃、宮脇さんは三田の日活アパートに一人で住んでいて、わたくしの友人の東大の美術サークルという同好会のメンバーが出入りしていたので、それについて出入りしていたわけです。私は美術サークルでもなかったのですが、建築の同級生が行こうというのでくっついていったりしていたのです。

その宮脇さんが磯崎さんと結婚したと知らなかったものですから、初めて磯崎さんのところに行ったら、宮脇さんが出てきて、びっくりしたというわけです。それはさておき、石井さんが磯崎さんに呼ばれて、アメリカでの講演旅行から降りてくれというような話が始まりました。磯崎さんとしては、入れてやりたいのだが、反対意見もあるのでというようなことだったと思います。わきから宮脇さんが「そんなにしてまで,行ったって面白くないわよねえ」というようなことを言っていました。石井さんとしても、引っ込みがつかず、「降ります」といって二人で辞去したのですが、どうもわたくしはこの顛末の見届け人として呼ばれたらしい(石井さんにか、磯崎さんにか、定かではないのですが)と、ようやく気付いた次第です。石井さんは帰り道、「これは事件だぜ」といったのを覚えています。石山さんに「一緒に降りてくれ」と連絡したのは、おそらくその後なのではないでしょうか。

磯崎さんとの出会いが、こんな形だったので、それが磯崎さんのイメージに付きまとうのは仕方ないのですが。ただし、磯崎さんにはずいぶんお世話になった記憶があります。当時、磯崎さんが作っていた円筒ボールト屋根を持つ住宅(中央線沿線)を何人かの若手が見せてもらった時が、わたくしが安藤忠雄さんと会ったはじめだと、これは安藤さんが後から振り返って教えてくれました。このときには、ほかに伊東豊雄、石山修武もいたのではなかったかと思うのですが。

石井さんと磯崎さんの関係は、訪米団の一件があった後も、特に悪くなったということもなかったと思います。ずっと後になって、磯崎さんは石井さん、石山さん、伊東豊雄さんを起用してロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館で大きな日本建築展をしましたから。この展示の時、たまたまわたくしもロンドンにいたので、印象に残っているのですが、磯崎さんのプロデューサーとしての才能のすごさを深く印象付けられた展覧会でした。

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石山修武第29信 作家論 磯崎新5

磯崎新に何時何処で会ったのだろう、と思い出そうとしている。恐らくはわたくしが27、28才の頃。だから1971年か?場所は当時の磯崎のお茶の水の家だった。住宅に関しては自他のそれに関して磯崎は持家制そのものに批判的であり、昔も今も建築家が住宅を設計してその事によって建築家であると言い張る住宅建築家の存在には素っ気ない。その姿勢は一貫している。

わたくしが「世田谷村(※1)」と呼ぶ自宅を設計そしてその殆どを自営施工して棲み始めたとき。それが小さな話題になってTV番組が作られた。放映された時などは、「最近はモルモットみたいに自分で家を作って、一時間もTVに出てしまうような建築家がいるんだね」と真向から言われた事をハッキリと思い出す。しかも二人だけの時だった。わたくしとしてはこれで住宅設計は余程の事が無い限り休止しようと覚悟の上の自宅設計施工であったから、真向から小手ならぬ面を打たれて何秒かは自失した記憶がある。磯崎でなければ幾ら年上でも飛びかかっていただろう。でも不思議なもので自失した数秒のうちに頭脳がその時だけは恐るべき速力で回転した。今、この人間は自分を真向唐竹割りしようとしているが、我慢しなくてはいけない。この男は持家制を否定しているのだ、と間抜け顔をしてしのいだのであった。

余計な事を記したが、訪ねた磯崎宅は勿論借家であった。木造平家、白いリシンがグレーに落ち着いていて、確かツタがからまっていた。道路に面した玄関脇に書斎らしきがあって午前中だったのか磯崎は読書か原稿書きの最中だった。その気配が窓から視えた。「巨匠は朝から勉強なんだねえ」とわたしに言ったのは確か石井和紘(※2)であったか。何かの用で呼ばれて出掛けた。あるいはアーキグラムのピーター・クック(※3)が来日して、それで若い建築家に会いたいとなり呼ばれたのであったか。毛綱モン太(※4)も居て、二人で毛綱流の土下座の挨拶をしたのを覚えている。いずれにしても日本の若い奴等を世界に紹介しようという企ての一環で呼ばれた。槇文彦先生(※5)もその試みの企画運営側に参加されていたと記憶する。石井和紘は才気煥発で野心もあった。磯崎やピーター・クックに我々はそれぞれの作品をスライド・プレゼンテーションした。要するに首実検であった。何人かの若いのがアメリカの五つの都市、大学を巡って講演する事になった。わたくしもその一員になった。

ところがしばらく経って石井和紘から連絡がきて会いたいと言う。会ったら、「アメリカ行きの企画から降ろされた。ついては君も一緒に降りてくれないか」との事であった。わたしは英語がしゃべるのも聞くのも大の苦手だった。それで英会話のレッスン迄始めていた。でもアメリカくんだりで英語で考えを発表したりは辛いなとも思っていたので、惜しい気も半分あったが、そこまで言うのだったらと、そのアメリカ行きの企画からは石山石井二人そろって降りた。当時は東映任俠モノの映画が全盛ではなかったが残り火程度はくすぶっていた。石井はいざ知らず、わたくしはこれはラストに雪降りしきる中を傘を差しかけてのなぐり込みならぬ、なぐり退きだなと気はセイセイもしていた。

今から想えば書いても仕方がない些細な事件であったが、これが後をひいたのである。これも又若かった鈴木博之がこの話の一部始終を聞いて実に複雑な顔をして怒った。石井と鈴木は東大の建築学科のほぼ同級生であり、わたくしは鈴木博之とは飛騨の「高山建築学校(※6)」で出会ったばかりの時であったか。

何故こんな小事件を記しておきたいかと言えば、この事件が今、こうしてこんな形式の中で「磯崎論」を書いて残したいと考えた、実にさざ波の如くではあるが一因だからである。気になるのだ。神は細部に宿る。そしてその神は歴史の細部にも隠れ棲む者でもあろう。

その後、石井和紘とわたくしは恐らくささいであったろう事で交友を断った。鈴木博之も石井とは遠い仲となった。これも又、あり得ぬ、もしもの世界ではあるが、あの時石井和紘がアメリカの講演講義で大成功し、それが縁でアメリカで教職を得たり、建築家としても大成功したりの可能性は大いにあったのではないかと想う事がある。

※1 世田谷村 石山修武研究室設計、2001年。石山の自宅であり、オープンテックハウス第一弾。元々あった平家の民家の上に造船技術を応用した鉄骨の構造体を組み上げ、内部造作等には多くの職種の人間が関わり、石山研究室の人間も設計施工に携わった。屋上には菜園が広がる。

※2 石井和紘(1944-) 建築家。東大建築学科大学院在籍時に設計した直島での一連の公共施設の設計が有名。その後もポスト・モダン期の建築家として建築界の潮流および言論の先端に位置した。自著の執筆、雑誌への寄稿のほかにもヴェンチューリの『ラスベガス』の翻訳もおこなっており、翻訳家としても名高い。

※3 ピーター・クック(1936-)サウスエンド・オン・シー生まれ。イギリスの建築家。同じくAAスクール出身のロン・ヘロン、ウォーレン・チョークなどとともにアーキグラムを結成し、同人雑誌『アーキグラム』を刊行。そのペーパーメディアにおいて、「プラグイン・シティ」、「ウォーキング・シティ」など、ポップ・カルチャーと消費世界を背景とした建築・都市の将来像を描く先鋭的なドローイングを発表。70年代の世界の建築潮流の一端を担った。アーキグラムは提案する建築の概念を情報伝達のプロセスそのものに組み込み、むしろ具体的な建築作品として具体化することを、二次的なものとする価値観を打ち出した。

※4 毛綱モン太(1941-2001) 建築家。初期の代表作「反住器」は毛綱の母親のために設計した住宅。建築の機能的合理性に反逆し、それを「入れ子」の空間構成によって表現した。建築の機能的側面よりも、形而上の概念をどう建築に当てはめていくかを探求し続けた。

※5 槇文彦(1928-) 建築家。丹下研究室出身。母方の祖父は竹中工務店の会長を務めた竹中藤右衛門。メタボリズムグループに所属し、旧山手通り沿いに数次にかけて実施した、ヒューマンスケールな空間構成で、成長する都市建築を目指した「代官山ヒルサイドテラス」が代表作として挙げられる。

※6 高山建築学校 法政大学で教師を務めた倉田康男(東京大学建築学科出身)が1972年に開設した建築の私塾。初め数年間は廃校を求めるジプシーのスクールとしてあったが、その後高山の古民家にその拠点を置いた。石山と鈴木は約20年ほど講師として参加。当時は哲学者の木田元、生松敬三、英文学者でありモリス研究者として知られる小野二郎、言語学者の丸山圭三郎などの、さまざまな学問領域の者も講師として参加した。

記 2012年1月26日

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難波和彦 第19信 石山修武のユーモア

石山さんのXゼミ 第27信『磯崎論3』を読んでいたら、磯崎新と黒川紀章の関係について論じた最後あたりで、石山さんがこう書いているところに眼が止まった。

「黒川に無くて磯崎新にあったものはアイロニーであり、それは岡本太郎にも三島由紀夫にも同様であった」。

まさにドンピシャリの指摘で、思わず膝を叩いた。そこで、僕は、なぜ石山さんが磯崎のアイロニーを的確に理解できるのかという点について少し考えてみることにした。以下は、その試論である。

ロバート・ヴェンチューリを初めとして、ポストモダニスト建築家のほとんどはアイロニー(反語や皮肉)を駆使することはよく知られている。アイロニーは一種の美学的な態度だといってよい。アイロニーの背景にはニヒリズムがある。それは、建築家が社会から阻害されていることへの直接的な反応である。社会からの疎外感を持たなければ、アイロニーは生まれない。なぜなら、アイロニーは疎外感から身を引き離すことによる、一種の「保身」だからである。したがってアイロニーから社会を変える力は生まれない。

アイロニーを駆使したのが、戦前の日本浪漫派であることもよく知られている。日本浪漫派は戦時における疎外を過激に美化することを通じて、結果的には現実を受け入れ、なかんずく現実を推進する結果を招いた。戦前の丹下健三や池辺陽が、日本浪漫派に惹かれ、美学的な建築を展開したことも、いまでは周知の事実である。それはロマンチック・アイロニーと呼ばれた。池辺の戦後の活動は、ロマンチック・アイロニーからの脱却だった。『現代建築愚作論』は、それに対する批判であり、その先鋒が磯崎であったのは偶然ではない。

1970年代のポストモダニストたちにも同じような面があったように思う。彼らが駆使したアイロニーが、一見、ラディカルに見えても、実際には反動的であったのは、そのような意味においてである。逆に言えば、現実に働きかけ、社会を変えようとする建築家にはアイロニーはない。黒川紀章を初めとするメタボリストにアイロニーがないのはそのためである。

ここまで考えてきて、僕は、磯崎新と石山修武との決定的な相違に気づいた。石山にはアイロニーとは異なる、何か別の要素があるからである。石山は、人並み以上に過激な反語や皮肉を駆使する。しかし、磯崎とは異なり、いつもそれは現実に対してだけでなく、自らにも向けられている。石山の発言をリテラルに受けとめれば、単に腹が立つだけのように思えて、実際にはそうならないのはなぜだろうか。その理由は、石山の反語や皮肉が、アイロニーというよりも、むしろフロイト的な意味での「ユーモア」だからではないかと思う。

フロイトによれば、「死への欲動」(攻撃衝動)が抑圧され、内面化されることによって「超自我」が生まれ、その超自我が、現実の中に置かれた矮小な「自我」を相対化するところにユーモアが生まれる。アイロニーと同様、ユーモアにもニヒリズムが背景にあるが、アイロニーが現実の相対化による保身であるのに対し、ユーモアは現実に巻き込まれている自らの立場を、丸ごと相対化しようとする態度である。ユーモアにも保守的な現実感覚があるが、アイロニーとは異なり、自らも相対化の対象になっているので、何事かを行うことと現実を変えることが結びついている。したがってユーモアには微かなヒューマニズムがある。僕は、石山のそのような自我を含んだユーモアに、痛く共感する。

この問題はアートとデザインの相違にも関係している。アートにはアイロニーがあるが、デザインにはアイロニーはない。アートは個人的な作業だが、デザインは社会的な活動だからである。磯崎はアーティストだが、石山はアーティストであると同時にデザイナーでもある。この違いは、小さいようでいて、実はきわめて大きい。

石山が磯崎に惹かれるのは、社会に対するアイロニカルな態度の徹底においてであるように思える。しかし、僕としては、むしろ、石山のユーモアに注目したいのである。

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石山修武第28信 作家論 磯崎新4

パブロ・ピカソにはジョルジュ・ブラック(※1)。ル・コルビュジェにはヤニス・クセナキス。巨匠として顕在化した創作家には必ずそれよりそのアイデアの射程を先行させていたとも言うべき、つまり深い影響を与えた創作家がいるものだ。そして本物の創作家ほどその存在に敏感である。敏感に感じ取り得たからこそ大きな存在として歴史に残ろうとするのである。

建築家磯崎新にとってもそんな存在がいた。それが黒川紀章であると断定しようとしている。

磯崎新が20世紀の資本主義社会の原理的様相を建築として結晶化したルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエよりも、より曖昧な本質の持主であったル・コルビュジェにより深い関心を寄せたのは実に自然である。何故なら日本の近代そのものが実に説明しようの無い、それこそ、宿命としか言い様の無い理不尽な不可解さの中にいまだに在るからだ。磯崎新は俗に言われる相対主義者、自我の不在者と呼ばれる以上に余程、歴史に対しての原理主義者なのである。彼が元ラディカルと自称したりするのは、日本の大方の思考の水準を斜視しているからに他ならない。それを認識すると先ず自身表現せざるを得ぬのは、日本近代文化や、伝統に対するアイロニックな認識そしてそれがもたらせる姿勢なのである。

磯崎新がラディカルであった事はない。ただそれを十二分に演技し得ただけである。それを磯崎新に演技させたのは日本近代建築の歴史の歪みであったの外連は言うまい。磯崎はその歪みを悪場所としての日本、の言い方をした。しかし、その宿命としての接木状態、接木の歴史であった事は歴然としている。磯崎はそれを認識し、その認識をベースに実行としての建築デザインに表現しようとする知性の持主でもあった。

黒川紀章はその一生のホンの一瞬にラディカルな時間を得た。先ずその乱雑としか言い様のない都市スケールの平面マスタープラン状のドローイングに於いて。建築としては、とても作品とは呼び得ようの無い「山形ハワイドリームランド(※2)」がほとんど唯一の彼の詩的インスピレーションを真っ当に実現したモノであった。しかも、それは地方の商業娯楽施設であったから建設単価も低く、完成度としてはとても建築作品と呼び得る水準ではないモノなのだが、それでも我々はアレを黒川紀章の作品の中では良品とそして作品と呼ばねばならない。商業建築だから今は存在していない。

少し急ぐ。

磯崎新ほどの知性である、それ位の事はお見通しであったろう。今、わたしは磯崎新は日本近代の接木文化の宿命が典型的に生み出したモデルとしての建築家であり、数々の建築作品群であると指摘しようとしている。それに最も自覚的な創作家であったし、今も恐らくはそれを全うしようとしているだろう。磯崎新がその始まりの活動らしきから意識していたのは日本の近代の歴史そのものであり、その基盤上の建築であり、建築家であった。

磯崎が作家として最も意識したであろう黒川紀章にはその歴史感覚が欠如していたとしか言い様が無い。それ故に黒川にはアイロニカルな言説、そしてデザイン表現が全くない。黒川は時に「利休ねずみ考(※3)」とかの歴史的キャッチフレーズをブチ上げたが、それはどうやら建築家として営業的に抜群な感覚から生み出されたものでもあったようだ。時には営業感覚だって歴史的スケールをもってしまうのである。

近代日本には社寺仏閣はさて置き和風建築のマーケットが大きく残っている。最良のモノは木造和風建築であり、それを発注し得る階層は限られていて、黒川紀章はそこには入り込めなかった。吉田五十八、村野藤吾等がそれを成した。その周囲に伝統芸能技能演劇等のマーケットが拡がる。黒川紀章の利休ねずみ等のアッピールはそれ等のマーケットを視据えていたものだろう。建築家としての営業感覚と言うのは時にそんなスケールを持つものである。ヴィジョンと呼ぶには生々し過ぎるが、そう呼んでもさしつかえぬものでもある。

そんな黒川を磯崎は丹下健三研究室時代から視ていた。視ない筈が無い。冷ややかに視ていたのではない。ただジィッと視ていた。

※1 ジョルジュ・ブラック(1882-1963) フランスの画家。パブロ・ピカソ共にキュビズムの創始者のひとりとされる。ピカソのアトリエを訪れ「アヴィニョンの娘たち」を見たことで衝撃を受けたことでピカソと協力してキュビズムを発展させた、というのが通説ではあるが、それとは異なりむしろブラックのほうがその創作アイディアを先行させていたとする説もある。

※2 山形ハワイドリームランド 黒川紀章建築都市設計事務所、1966年。生命体の細胞をイメージした一本の直線も存在しない環状のプランをしており、商業施設としての回遊性を強調した。それは循環の原理を示し、建築じたいが増殖していくことも黒川はイメージしていた。しかし、わずか5年後の1971年に経営悪化によって閉園する。

※3 「利休ねずみ考」、黒川紀章、『新建築』1977年9月号。日本の色彩感覚が反映されたとする利休ねずみと呼ばれる独特の色を介して、西欧世界とは異なる構造を持つ日本文化の原点を探る、黒川の野心的論考。日本文化のそうした感覚を西欧のパースペクティブ的空間イメージに対して、「二次元性」、「平面性」、あるいは「非感覚性」と黒川は表現する。

記 2012年1月24日

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石山修武第27信 作家論 磯崎新3

黒川紀章の周辺にも学生達は居たのだろうが、妙に建築学科の学生達は寄り附かなかったように記憶している。早稲田には当時第二学部と呼ばれる夜間の学校があった。少しどころではなく年も取って、何がしかの社会生活にもまれてもいたような多少フケた学生がそこには属していた。今の象設計集団に属していたアトリエ・モビルの丸山欣也(※1)、GKに居た大西氏(不確かです)等がいて、わたくしは学部二年生の頃に設計実習を見てもらっていた。当時の早稲田の二年生の設計実習のカリキュラムは渡辺保忠が武基雄、吉阪隆正先生等から、おまえそんなにウルサイ事言うんだったら自分で設計教育やってみろと言われて組んだ、歴史家が考えた理路整然としたカリキュラムであった。わたくしはそのカリキュラムの第一期生であった。

記 一月十八日

渡辺保忠は極めて知的な歴史家であったから早稲田建築の存在の意味も充分に考える能力の持主であった。東京大学の建築学科の意味とは異なる世界を設計教育の現場に構えねばと考えようとした。その様な枠組をごくごく自然に考える建築史家であった。それで渡辺は考え抜いて、バウハウスのモホリ=ナジ(※2)による造形教育の理念とそのカリキュラムをかなり忠実に二年生の建築造形教育に持ち込もうと考えた。モホリ=ナジの造形教育理念をわたしなりに要約すれば、それぞれの造形を学ぼうとする資質の中に内的想像力を発見し、又自ら発見させようとするものであった。今、我々が考えがちなW・グロピウスが主導したとされる建築デザインの合理的生産へのヴィジョンとは少しばかりどころか、大いに異なる方向を持っていたのである。渡辺は学生達に平然として言ってのけた。

「この早稲田の建築デザイン教育システムは大人数には向いていない。せいぜい20名位が限度だから適性試験をして20名に絞る」

当時、早稲田建築は一学年140名程の大人数であった。それ故、他の120名程にはこのシステムは適応しないと宣言した。更に早稲田建築は十年に一人の建築家を生み出せば良い。その一人を発掘して育成するのがこのシステムであると、今の時代からは信じられぬ位の非民主的な暴言を、しかし傲然として言ってのけた。

俗に言えば、建築デザイン教育の選良主義であり、少数精鋭、更に言うならば一種の天才教育のようなものであった。それであったから実際の教育現場に携わったTA(ティーチングアシスタント)には猛者がいたのである。デザインに自信満々でしかもそれなりの経験もすでに積んでいた者が従事した。今の大方のTAシステムとは全く違うものであった。

丸山欣也はいつも大きなスケッチブックを小脇に抱えているような人で、渡辺保忠のモホリ=ナジ理解の権化みたいな人であった。若くしてすでに苦労人の風格も漂わせ、実に人をおだてるのも上手であった。

「ル・コルビュジェのパースは眼を細めて眺めると紫色に視えるんだ。君のも紫に視えるぞ」

と、わたくしもおだてられた一人だ。学部2年でそんな事言われたら奮いたたぬ方がおかしい。紫色の鉛筆で描いたスケッチなのはさて置いて、そうかル・コルビュジェのパースに似てるのかと考えて、読んでも解らぬコルビュジェの『モデュロール』などを買い求めて読みふけった。丸山欣也は吉阪隆正先生とも近かったから、紫発言等は吉阪隆正先生の受け売りであったやも知れぬ。吉阪隆正先生はル・コルビュジェのアトリエでクセナキス(※3)等と製図板を並べて学び、帰国して間もなかった。そんな丸山欣也達、早稲田の夜の建築学科の猛者達が黒川紀章の極めて初期の、例えばプレファブリケーションされる共同住宅のプロジェクトを手伝っていた。恐らく実際に手を動かして模型等にリアライズさせていたのは彼等であった。

そういう才が黒川紀章には若くからあった。つまり設計事務所運営の才である。黒川は名古屋で親の代からの設計事務所運営の実利、実態を肌で知っていた。丸山は黒川紀章をクロちゃんと呼んでいたけれど、黒川はその後事務所では自分を社長と呼ばせたらしい。

磯崎新とはその出発時から全く異なる考え方であったのだ。附け加えれば黒川紀章は初代の全国学生建築会議だったかの初代議長でもあった。その立場(肩書き)で当時の共産主義国家ソビエト連邦に出掛け、その体験資料などから『プレファブ住宅』なる本も出版した。この本は早稲田の製図教室で半ば強制的に買わされた。黒川にはそんな才があった。

黒川紀章のプロジェクト、プレファブ化された共同住宅は床構造に丹下健三の香川県庁舎の合わせ梁をちゃっかり使って、カプセルのオリジナルアイデアと組み合わせたりがあるが、それは重要では無い。黒川にはそれ等のデザインを実際に生み出す人間達を使いこなす才があった。

磯崎新が自分の設計組織を始まりから、アトリエと命名したのはそんな黒川紀章を丹下健三研究室時代から間近に視ていたからでもあるだろう。

記名性あるいは命名性についての率直なエッセイが磯崎にはある(※4)。本当に何処までが建築家個人の名に帰するものかも考えている。が、中心に据えられているのは古典的とも考えられる建築家とは何者かの論であり、磯崎新による磯崎新論でもある。磯崎新ほどの膨大な著作を残し続けている人間を考えるには何が書かれているかを考えるのは得策ではない。何が書かれていないかを考えるのも方法にはなるだろう。磯崎新が好むマルセル・デュシャンの言を磯崎に倣って引くならば、——さりながら死ぬのはいつも他人なり――である。が、マルセル・デュシャンを好む磯崎がそれほど単純にデュシャンを引用しているとも思えぬ。そう考えざるを得ないのも余りにも膨大な言説、著作故の磯崎新への用意せねばならぬ視線でもあろう。自他の中心の空虚を書き続けた作家が敢えて書かなかったモノも視る必要がある。

この視線の必要は何も目新しいモノでは一切なく、坂口安吾も『飛騨の顔』で指摘しているところで、安吾も言うように、大きく遡行すれば日本書紀にも巨大な空虚=欠落が意図されているのは多くの指摘がすでに在る。

イギリスのミステリー作家の巨匠アガサ・クリスティに『アクロイド殺人事件』がある。密室での殺人の真犯人を捜すというイギリスが生んだコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ以来の正統を引くものである。ありとあらゆる推理小説のプロットが開発された後に、この小説では遂に真犯人はわたし、すなわち語り手であると言う殆ど禁じ手の如きが書かれた。

ありとあらゆる小説のジャンルの中で推理小説は最も論理性を赤裸々に求められる。批評評論に求められる比ではない。20世紀文学の至高点の一人であった南米アルゼンチンの作家J・L・ボルヘスの博識は宇宙的拡がりを持つと言っても過言ではない。ブエノスアイレス国立図書館館長でもあり、それこそ膨大な書物に囲まれながら生をまっとうした。しかも晩年は盲目になったので書物をほとんど記憶したと言う、これは明らかな天才であった。ボルヘスは長編小説を無駄だとして書かなかった。最良の仕事は詩と短文、そしてアンソロジーであった。ボルヘスも又、推理小説を書く意欲が大であった。

磯崎新が自分以外に最も深い関心を抱いたのは実は黒川紀章なのではないかと推理しているのだが、これはあながち日本独自の三流推理小説まがいだとは言えまい。メタボリズムが世界的な再評価の中に在るようだが、その中心は明らかに黒川紀章である。

晩年の黒川紀章は都知事選に出馬して東京隅田川で自家用クルーザーを街宣車代わりにしてみたり、陸上の街宣車のデザインはカプセル状ならぬ日の丸の円形窓であったりの不可思議なキッチュさの中にあった。六本木の自らが設計した国立新美術館での黒川紀章展には、日の丸を背負って日本刀まで持った宣伝媒体を作りもした。三島由紀夫まがいであり、これも晩年の岡本太郎のギンギラの着物姿の道化振りの如くであった。黒川紀章は道化を演じてそして居なくなった。黒川に無くて磯崎新にあったものはアイロニーであり、それは岡本太郎にも三島由紀夫にも同様であった。

※1 丸山欣也(1939-) アトリエモビル主宰。非営利活動法人有形デザイン機構理事長。名護市庁舎は象設計集団との共同設計。

※2 モホリ=ナジ・ラースロー(1895-1946) ユダヤ系ハンガリー人の写真家、画家、タイポグラファー。1923年から1928年までバウハウスに招聘され、教鞭をとった。バウハウス叢書の1冊として1925年に『絵画・写真・映画』(Malerei, Fotografie, Film)を著す。

※3 ヤニス・クセナキス(1922-2001) ギリシャ系フランス人の現代音楽作曲家。建築家。1948年より建築家ル・コルビュジエの弟子として学び、ブリュッセル万国博覧会(1958年)でフィリップス館を担当。その後も、インド・チャンディーガルのプロジェクトやラ・トゥーレット修道院などの設計に関与。 

※4 磯崎新、『建築家捜し』、岩波書店、1996年。この本には黒川紀章は登場しない。磯崎らしく古今東西の多士済々が登場するが、黒川は登場しない。

記 2012年1月22日

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石山修武第26信 磯崎新論3に進む前に

ここ迄書いてきて、と言うよりも入口に入ったばかりのところで敷居にけつまづいたようだ。鈴木博之先生から磯崎が結局は行かなかった建築史研究室は大岡ではなく藤島亥治郎研究室(※1)であると指摘があった。先生も気合いを入れて読んで下さっているのがうかがえ、更に気持を入れて書き進んでゆきたい。

これも又不正確な記憶に頼るが、わたくしの院生時代であったか『国際建築』が休刊となった。真っ黒い表紙に楽譜の休符だったかが鮮やかだった。最終刊だったのでエッセイも粒よりであった。

渡辺保忠の「建築ジャーナリズムの機能と使命(※2)」は建築ジャーナリズムは本来寄稿者と編集者、そして読者によって成立する筈のものだの理想が述べられ、渡辺が最も高位な概念だと教えた理念が述べられていた。理念は決して実現し得ぬのが近代の哀しみであるが、今はそれの断片さえも見当たらぬのが現実である。それはさておき、もう一つのこれは論文に近いものだったが太田博太郎先生の「私の伊藤ていじ論(※3)」の、「伊藤ていじよ ぼくは期待している 乞う自重せよ 才に溺るることなかれ」は、実に衝撃的な、それこそジャーナリズムの粋でもあるかの如くのモノであった。これは伊藤ていじ先生(※4)の論の誤りを克明に延々と指摘したものでもあり、確か最後を自重せよ、期待していると結ばれたものだった。学生なりに読んで背筋が凍るような感に打たれた。学問に求められる実証的姿勢とジャーナリズムが求めてやまぬ勝手とも言える自由な恣意による面白さ斬新さの違いを、圧倒的な力で実証の優位を示したもののように感じ入った。

これを読んでわたくしは歴史家にはなれないと思い知ったのであった。

作家論磯崎新をあのまま書き進めていたら、エッセイを自覚しているぞと言い訳しても、矢張り惨憺たるモノになる可能性は大なのである。入口で自重せよと忠告されたのは有難い。書き進めたモノに数十ヶ所の誤りを指摘される等したら大きなダメージを受けるであろう事は確実である。入口で指摘されたのは幸運であった。

わたしが間違った大岡は大岡實先生(※5)である。鎌倉時代に俊乗坊重源によって再建された大仏殿の復元図を発表された。その復元図は驚くべきものでもあり、磯崎新はそれに触発されて重源ノートの如きエッセイを発表している。

大岡實先生は又、堀口捨巳先生(※6)との三仏寺投入堂に関する論争でも良く知られる大建築史家でもある。堀口捨巳先生は殆ど唯一と言って良い程に磯崎新が手放しで敬意を表し続けた建築家、作家、歴史研究家であり、そのライフスタイル、身の置き処、才質そのモノの質実は磯崎新のモデルであるようにも思うのでいずれ触れなければならない。

磯崎新は自分の書くモノがエッセイのカテゴリーに属すると随分若い時期から意識していた。しかし、意識されていたとは言え、そのエッセイ形式の論述は余りにも膨大な数となり、精緻なモノにもなっている。それ自体が一つの分野の如き領土を作り出している。この領土自体が表現している筈の意味にももはや触れなければならないだろう。

作家が書く自分の作品の解説文の類はともかく、磯崎新の著述の世界、言説の世界は余りにも異常な数量に達している。ル・コルビュジェの言説も又数多かったが、その域をとうの昔に超えているのは確かでもある。それは作家の自己宣伝の世界の境界を越境していて、しかも何処に向けて越境しているのか不明な部分も多い。

渡辺保忠先生はル・コルビュジェのドミノのアイデアの制作年月日等には嘘が多いのではないかと教えた。でもそれは大作家の業のようなものだとも教えた。磯崎新が歴史家の実証の上に書いた『始原のもどき』が近代の作家の血脈にも在るのは確かであろう。磯崎新の論述は自己撞着、自己宣伝の域には無い。だからこそ、その膨大なエッセイが何に向けて成されたのか、そしていまだになされ続けているのかは考えねばならぬだろう。

※1 藤島亥治郎(1899年〜2002年) 1933年から終戦まで、朝鮮・韓国の建築に関する調査、保存活動を続けた。戦後は平泉遺跡調査会をつくり、毛越寺、中尊寺の整備、中山道宿場の研究などを行った。また、大阪四天王寺伽藍の再建計画を組んだ。著書に『韓の建築文化』(1976年)、『平泉建築文化研究』(1995年)など。

※2 渡辺保忠、「建築ジャーナリズムの機能と使命」、『国際建築』、昭和42年3月号。

※3 太田博太郎、「私の伊藤ていじ論」、『国際建築』、昭和42年6月号。伊藤ていじ氏の『日本の工匠』についての書評。

※4 伊藤ていじ(1922年〜2010年) 本名は伊藤鄭爾。建築史家。建築評論家。作家。日本の民家研究を行った。1959年、写真家の二川幸夫と共に日本の民家を紹介した『日本の民家』を出版。著書に『現代建築愚作論』(八田利也―磯崎新、川上秀光と共著)、『重源』(1994年)など。

※5 大岡實(1900年〜1987年)日本建築史研究家。昭和4年以降の国宝保存法時代に文部省の文化財行政で活躍。著書に『日本建築の意匠と技法』(1971年)『日本の建築』(1967年)など。設計実績に霊友会弥勤堂、川崎大師平間寺など。

※6 堀口捨己(1895年〜1984年)東大学部卒業前に同期生と分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。著書に『利休の茶室』(1949年)、『庭と空間構成の伝統』(1965年)など。主な作品に、岡田邸(1933年)、八勝館・御幸の間(1950年)。

記 2012年1月20日

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鈴木博之 第13信

むかし、アマチュア無線に興味があったころ、無線で交信している人に割り込んでしゃべる時、「ブレーク、ブレーク」と叫んだものですが、石山先生の御論考に、ブレーク。

いよいよ石山先生の論考が始まり、固唾をのんで拝読しております。

わたくしは石山先生の御論考その1の末尾に出てくる稲垣栄三先生のところで勉強したので、磯崎さん、渡邊保忠先生、太田博太郎先生などの構図を、逆の側から垣間見た部分があります。

磯崎さんが興味を持っていて、結局行かなかった研究室は「大岡先生」ではなく、藤島亥治郎先生の研究室です。磯崎さん自身からその話は聞きましたし、藤島先生にも、磯崎さんのことを聞いたことがあって、おそらく間違いないと思います。念のために付け加えると、「藤島先生」というのは稲垣先生の先先代の教授、太田先生の先代の教授で、伊東忠太の次の教授だった方です。

磯崎さんは、当時の(今も、かもしれませんね)東大の建築の教授たちの複雑怪奇な構図の中で丹下研究室に進んだので、そうした構図のゆがみに敏感だったはずなのです。

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石山修武 第25信  磯崎新論2

渡辺保忠先生は繊細で厳しい先生であった。わたしに学問は敬せよをイヤと言う程に教え込んだ。そんな先生が学問とは距離があるだろうに何処で誰から吹き込まれたのか磯崎新の名を知っていた。ここで学問と呼ぶのは少なくとも実証への努力を怠らぬと言う位のものである。

研究室で商業ジャーナリズムの出版物を読むのを禁じる位に、建築史学の大方の現象を記録するに過ぎぬ嫌いのあるジャーナリズムから身を遠ざけようとしていた。先生の一方の師である田辺泰教授はそれとは反対の姿勢を持つ先生であった。商業ジャーナリズムには勿論見向きもされなかったが、俗な仕事でもある設計に手を染めておられた。良く知られる熊本城、岡山城、浅草浅草寺五重塔、川崎大師、等を手掛けられた。岡山県生れであったから岡山県に本部があった新興宗教金光教本殿も設計した。そんな事の是非に頓着する事は無かった。

どんな話の際に渡辺保忠先生から磯崎新の名が出たのか細部は記憶にない。

「アレは東大の宝モノだよ」

が突然出てきたのであった。いかにも唐突であったが強く記憶に残った。先生は東大の建築史研究会に属されてもいたから、その仲間達との交友から得られたモノだったのやも知れぬ。昨年、2011年、気になり磯崎新に尋ねた。磯崎さんは建築史研究会の人間とは附合いがあったのかと聞いた。

「実はね、僕は建築史に興味があってね、大岡先生(ここは不正確かも知れない)の研究室で模型作り迄手伝った事があった。先生はだから僕はてっきり自分の研究室に来る者だろうと考えていたようで、僕が丹下研に行くのを知った時はね、何だ君は俺のところに来るんじゃなかったのか?と言われた」

との事であった。そんな言葉から憶測するばかりではなく、磯崎新の学生時代は本人の言であり、又、色々と記録も残っているが、画家になろうとしていたり、歴史家にも大きな興味も関心もあったりの全体としてのカオスがあったのは事実であろう。

それは比較すると理解しやすいのだが、丹下健三研究室出身の一方の雄、黒川紀章とまったく異なる資質であった。

早稲田の渡辺保忠ゼミで何故、磯崎新の名がポツリと出たのか思い出そうとしている。わたしの学生時代、黒川紀章はすでに大スターであった。当時はメタボリズムが売り出し中の華であった。60年代と言って良かろうが商業ジャーナリズムは最盛時を迎えようとしていた。実に多くの商業紙が流布しており、その読者は学生を中心としながら三十代前半迄の若い建築家予備軍団であった。予備軍団の数は決して少なからぬスケールで存在していた。2012年の今、それはすっかり所謂建設業界に吸収され埋没しているように思うが、今とは随分と違っていたのである。建築家予備軍団のスケール、今はこれをマーケットと呼ぶのだが、そのスケールの大きさにメタボリズムは実に良く適合していた。つまり、今も昔も未成熟な学生達にもそれは良く解りやすい理屈の上に成立したものでもあった。

早稲田出身の建築家、菊竹清訓がメタボリズムグループに属していた事も我々学生達の関心を引いた一因であったろう。菊竹は卒業論文の指導ゼミを学内外で開催していた。わたしの同級生も参加していた。メタボリズムとは一見無関係なセミパブリックスペースについて、だったかのゼミであった。菊竹は黒いシボレーで大学に来ていて、シボレーの部品はどうやら取り換えられる事を前提にして設計されているらしい、流石メタボリだな。ヘェ、そうなの、の他愛ない噂も飛び交っていた。

渡辺保忠はメタボリズムにはかなり懐疑的であった。単純過ぎるがその懐疑の源であった。黒川紀章はいざ知らず菊竹清訓の考え方は武谷三男の思想らしきに大いに影響されていて、設計事務所の組織形式も、「か、かた、かたち」のそれぞれに別れているのであった。そんな事も含めて渡辺保忠は単純過ぎるとの感想を持っていたのだろう。学生なりの無知な印象でしか無かったがわたしなりにそうか単純なのかと思ったものだ。

同級生には磯崎新の周辺に出入りしている者もいた。若くして亡くなった伊藤俊介君などがそうだった。菊竹ゼミの連中とは少し違う才質の持主であった。それ程に単純好みではなく、複雑とは言えなかったが実に細妙な絵を描く能力を持っていた。そんな伊藤君から生な磯崎の話を聞いた。

「こっちとこっちをガチャーンとブチ当てて組み合わせればいいんだよ。デザインは」

と言われたとかの話を皆で聞いた。そうかガチャーンなのかとわたしは妙に納得したものである。

メタボリスト達の影に隠れていたのでわたしは磯崎新の実作(プロジェクトを含む)を殆ど知らなかった。後に知る事になる「孵化過程」のドローイング等は当時の元気盛りの学生達には理解しようが無かったのであろう。メタボリズム自体が評論家、川添登のアジテーションの側面があったから、アジテーションの原理に添った繰り返しの単純明快さを持っていたのに比べて、良くは知らぬママではあったが磯崎が醸し出していた気配は実に曖昧なアウラであったし、それでしか無かった。学生達には。でも当時の学生達の新興日本近代建築への関心は随分とエネルギッシュなものではあった。それだからこそ十に一つは当る位の嗅覚の力はあったのではなかろうか。

まともに先鋭的でありたかった学生の大半はメタボリズムの風の中にいた。そんなわたし達に磯崎新も又、ガチャーンと組み合わせるんだってさと随分機械的なイメージで捉えられていたのだった。少なくとも、そう捉えざるを得ない時代の風が吹いていた。

その2 記 2012年1月18日

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石山修武 第24信  磯崎新論

身構えて仕舞ったら磯崎新論は書けそうにない。その結論に到達せざるを得ぬ数年であった。その途中は省略する。書き進むうちに身構えるとは何か、何者に対してなのかの今はすでに近代でも古典的とでも言える姿勢を懐かしく述べるようにもなるであろう。

でもXゼミナールは電子システムの上に完全な砂上の楼閣として想定されているので、経済は壊れようがない。それぞれの労力以外は一切が0コストである。ここのところが先ずは停滞の大きな原因であったのではないか。

この論述はしかし極めて古い形式の中で書かれる。すなわち原稿用紙のます目の中にペンで文字を埋め込む形式の中で書く。その形式が今のわたしの思考の形式には一番合っているからだ。ペンで紙に文字を書く速力がわたしの思考の才質をもっともよく表現できる。

これはかつて1968年にピークを示した学生たちが幼いながらの、それ故の理想論として示した考えの老残である。

ここ十年、正確には11年間ほぼ毎日の如くに日記を附してきた。当初は原稿用紙に最近は使用済みの紙片の裏側を使って。そして他人の手をわずらわせて、その手書きの原稿をコンピューターに打ち込んで公開してきた。手書き文字の日記と巨大複製文字としてのインターネット上の文字の二重の表現がなされてきた。なされてきたのではなく、わたしがしてきた。好んでやってきた事である。

2012年1月15日にこの稿は書き始めている。この日付は後になっていささか重要なものになるやも知れぬ。ならぬかも知れぬ。それはわからないでいる。

わたしの手書き文字、インターネット発信の二重文字表現は、しかしいささか方法的に片手落ちであった。数万枚の文字原稿の大半が失われている。それで書き始めた磯崎新論の生原稿はどれ程の量になるのかいまだ知らぬが、これはきちんと保存する事にした。つまりその伝達文字の二重性はより意識化されている。

手書き原稿の最終稿は公開されない。時限付きではあるが意図的に公開せぬ。

そしてインターネットの文字はイヤになる位に公開され続けるだろう。インターネットに公開される言説はゼミナール形式をとる。これはわたしと建築史家・鈴木博之、建築家・難波和彦で始めたXゼミナールの形式の踏襲である。

わたしの論述には恐らく間違いや、記憶違いが多いであろう。その点に関してはより広くの読者諸兄姉の指摘を待ちたい。遠慮なく言ってくれたらよい。特に書き始めの1970年代初頭の私的体験の記述はまったく記憶だけを頼りに書くので間違いだらけになる可能性が大である。当時を共有する人々、そればかりでなく資料の取り扱いに長けた若い世代からの情報も実ワ欲しいのである。

更に、より重要であるだろう1950年代に関しての記憶に関しては私の『アニミズム周辺紀行7』にいささかの記録を記したので参考にされたい。磯崎新の1950年代、若く横溢する思考のエネルギーの坩堝であった生身が戦後の焼け跡にボーッと立ちすくんでいたであろう時代であり、戦後日本近代建築の大筋の潮流の枠がすでに定められた時代でもある。

早稲田建築の学生であったわたしが磯崎新の名をハッキリと知ったのは建築史家の渡辺保忠先生からであった。バカ学生の典型であったのであわてて大学院に進み、ようやく勉強を始める始末の日々であった。研究室ゼミナールの席で参加学生はオーバードクター、博士課程含めても数名であった。わたしは数年振りの歴史研究室入室希望者だったので実に大事にされたような記憶がある。わたしの鈍い思い違いであるやも知れぬ。院時代の初年、渡辺保忠先生は『伊勢と出雲』(平凡社)を執筆される最中であり、ゼミの大半はその話に集中した記憶がある。渡辺保忠先生は一時期その師、田辺泰先生から東大の建築史研究の太田博太郎先生に預けられた経緯があり、東大の同期と言えるかどうかは知らぬが、神社建築の稲垣栄三先生と一緒であった。よく稲垣栄三先生に対する忌憚の無い評も聞いた記憶があるが全て忘れた。

その1 記 2012年1月15日

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難波和彦 第18信

Xゼミが再び活動を再開したと思ったら、いきなり石山さんから「読者から購読料を取ったらどうか」という提案が跳び出した。Xゼミが持続しないのは、下部構造がしっかりしていないからだという分析である。それに対する僕の考えを聞かれたのだが、Xゼミでも神宮前日記でも、書きたいことを書いている訳で、僕としては読者に読んでもらっている感じだから、購読料を取るという発想はまったくない。実際問題ウェブ上で購読料を取るのは技術的にも難しいだろう。それにXゼミがしばらく中断してしまったのは、震災後の仮設住宅や復興活動のボランティアで忙殺されたためで、下部構造が確立していないからではない。ボランティア活動は下部構造を求めない活動であり、上部構造における「交換」(コミュニケーション)をめざしている点において、Xゼミと同じ意味を持っている。ついでに確認しておきたいのだが、現代マルクス主義では、上部構造と下部構造という図式の現実的な説明力は、とうの昔に否定されている。マックス・ウェーバーの上部構造自立論を待つまでもなく、インターネットによるグローバルな金融資本主義においては、情報や信用(上部構造)が資本(下部構造)を支えているからである。その旨を書こうかと思案していたところ、鈴木博之さんが第12信を送ってきた。どこかのメディアで書いた文章の読者を拡げるためにXゼミを使ったらどうかという提案で、基本的に僕と同じ考えである。という訳で、僕も他の場所に書いた文章を、以下に転載したい。

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「抑圧されたモダニズムの回帰」

『球と迷宮』の原書(イタリア語版)は1980年に出版された。日本語版が出たのは1992年である。原書出版から30年以上を経た本書を、2011年の今日に読み返す意義はどこにあるだろうか。同じ問いはLATsで取り挙げるすべての本に投げかけられていると言ってよいが、『球と迷宮』に関しては、とりわけクリティカルな問いのように思える。なぜなら本書はモダニズムの建築と都市についての批判的な歴史書であり、書かれた時点において、すでに同じような問いに晒され、その問いに対する回答として書かれているからである。

僕の考えでは、東日本大震災の後に本書を読むことには特別な意味があるように思う。というのも震災復興においては、モダニズムの核心にあった「計画」の思想が、何らかの形で再評価されることは間違いないからである。道路、港湾、鉄道、ライフラインなどのインフラストラクチャーの復旧には、都市的なスケールでの計画が不可欠である。しかしすべてをトップダウン的に計画するのは時代錯誤である。本書におけるタフーリのモダニズム批判は、その限界を明らかにしている。

1990年代初頭の社会主義諸国の崩壊は、国家的なスケールでの政治的・経済的計画の失敗を証明した。『球と迷宮』はその事件以前に書かれてはいるが、タイトルが示唆しているように、社会主義諸国の崩壊の可能性を先取りしている。「球」とは「計画=秩序」であり「迷宮」とは「カオス=無秩序」である。本書はモダニズム建築における計画とカオスとのせめぎ合いに関する歴史的ケーススタディだと言ってよい。とりわけ本書のユニークな点は、モダニズムにおける公共住宅の計画に焦点を当てている点にある。通常のモダニズム建築史では、住宅の問題はほとんど取り上げられることがない。しかし本書においては、モダニズムの中心的なテーマが公共住宅の計画にあったことが詳細に検証されている。社会主義諸国の崩壊以降、そして1980年代の新自由主義による民営化の世界的な浸透以降、果たしてどのような「計画」が可能だろうか。その意味で、本書はこの問題について考える重要なヒントを示唆しているように思う。

タフーリ体験

マンフレッド・タフーリには一度だけ会ったことがある。1982年に日本でイタリアのルネサンス期に活躍した建築家アンドレア・パラーディオに関するシンポジウムが開催され、タフーリはそのコメンテーターとして招待された。当時の日本ではプレモダンな建築を引用する、いわゆるポストモダン歴史主義のデザインが流行していた。僕自身も1970年代末にヴェネツィアやヴィツェンツァなど北イタリアの諸都市を訪れ、一連のパラーディオ建築を見て回り、その明解な論理性と透明な空間性にカルチャーショックを受けた記憶がある。さらに『パラーディオ―世界の建築家』(福田晴虔:著 鹿島出版会 1979)は日本におけるパラーディオ理解に大きな影響を与えた。

バウハウスのように歴史的建築を全面否定するモダニズムのデザイン思想の洗礼を受けた建築家たちは、それまでプレモダンな西欧建築と現代建築を結びつけることには考えも及ばなかった。しかし『マニエリスムと近代建築―コーリン・ロウ建築論選集』(コーリン・ロウ:著 伊東 豊雄+松永 安光:訳 彰国社 1981)や『建築の多様性と対立性』(ロバート・ヴェンチューリ:著 伊藤公文:訳 鹿島出版会 1982)は、両者を結びつける手本を示してくれた。その影響もあって、ポストモダンに共感する建築家たちは、自作のアイデアの中に西欧建築のイメージがどれだけ引用されているかを競い合うようになったのである。そのなかで突出した活動を展開したのが磯崎新である。そのシンポジウムで磯崎は、自作をパラーディオ建築と対照させながら説明するプレゼンテーションを行った。それを聴いていたタフーリが、いかにも不愉快そうな顔をしていたことを印象深く記憶している。磯崎は彼特有のアイロニカルな発想によって、日本人の西欧コンプレックスを建築化してみせたつもりだったかも知れない。しかしそれに対してタフーリは、極東の島国の建築家がパラーディオを引用する必然性がどこにあるのかと訝ったに違いない。タフーリ自身のモダニズム建築史観からすれば、ポストモダン歴史主義はもっとも退廃的なデザインだからである。タフーリの研究者である八束はじめによれば、当時のタフーリは、『建築神話の崩壊』(1973)、『建築のテオリア』(1976)、『球と迷宮』(1980)というマルクス主義的な立場からの一連のモダニズム建築論をまとめ終え、モダニズムから現代に至る建築の歴史的展開に関して、かなり悲観的な評価を抱いていたらしい。そして1980年代以降、タフーリは現代建築に対する批評家としての立場を捨て、建築史家としてのオーソドックスな研究活動に回帰して行ったのだという。

モダニズムへの両義的批判

日本の建築家が、明治時代以降の西欧的なモダニゼーション(近代化)を明確に自覚するようになったのは第2次大戦以後である。それ以前の建築家はモダニズム建築の表層のスタイルを真似るだけだった。近代化の文化的自覚としてのモダニズム(近代主義)デザインは、基本的にプレモダン(前近代)のデザインを否定した。大学の建築教育においても、デザイン教育と建築史教育とは完全に分離していた。しかし1960年代後半になると、戦後の急速な近代化がもたらしたさまざまな問題が噴出し、それに並行してモダニズム・デザインに対する反動としてポストモダニズム・デザインが勃興してきた。ポストモダンはプレモダンな歴史の再評価を通じて、モダニズム自体の歴史性を明らかにした。そうした潮流の先鞭をとったのが、先に挙げたコーリン・ロウやロバート・ヴェンチューリだが、その中でもっとも根源的なモダニズム批判を行ったのがタフーリだったのである。

『球と迷宮』を読んでも明らかにように、タフーリのモダニズム批判は、モダニズムの反歴史主義に対してポストモダニズム歴史主義を対置するような単純な構図には納まらない両義的な批判である。彼はモダニズムの深部に潜む歴史性を抉り出し、その可能性と限界を明らかにしようとした。モダニズムに対して、タフーリがそのような両義的な態度をとった理由は、彼の歴史観がフランクフルト学派のテオドール・アドルノやマックス・ホルクハイマー、あるいはその周辺で活動したヴァルター・ベンヤミンといったマルクス主義者たちの強い影響を受けていたからである。『球と迷宮』の中でも詳しく論じられているように、バウハウスやロシア・アヴァンギャルドのような1920年代のモダニズム・デザイン運動の中には、マルクス主義の思想が色濃く混入していた。したがってタフーリとしては、モダニズムを単純に否定することはできなかったのである。

本書の序「歴史という計画=企画」において、タフーリは歴史を記述することは、デザインと同じように明確な意図を持った計画=企画であると主張している。つまりタフーリによる歴史の記述は、マルクス主義的な歴史観にもとづく記述ということである。この問題と関連して、タフーリは『建築のテオリアーあるいは史的空間の回復』(1976 八束はじめ:訳 朝日出版社 1985)において、「階級的批評はあっても、階級的建築はない」という、いかにもマルクス主義者らしい主張を行っている。タフーリの立場から言えば、マルクス主義的な視点からの建築批評は可能であっても、マルクス主義の思想を表現した建築というようなものは存在しないということである。

一般的に、建築家は建築デザインにおいて自らの思想を表現すると考えられている。建築家が何らかの意図を持ってデザインに取り組むという意味では、確かにその通りである。しかしでき上がった建築において、そこに当初意図された通りの思想を読み取ることができるという保証はない。建築史家としてのタフーリの一連の建築史研究は、建築家たちが建築に表現しようとした思想=イデオロギーを読み取ることができるかどうかという問題を巡って展開した。しかしながら最終的に彼はそれが不可能であるという結論に達したのである。タフーリの上記の主張は、思想と建築との関係は、建築史家によるイデオロギー的な読み取りの中にしか存在しないということを意味している。『球と迷宮』における「球」と「迷宮」のメタファーは、秩序をめざした計画が必然的に無秩序なカオスをもたらすという主張だが、それは上記の主張の言い換えでもあるだろう。

本書において、タフーリは18世紀のピラネージから説き起こし、1920年代のヨーロッパ、ロシア、アメリカにおけるモダニズム・デザイン運動を経て、1960年代のジェームズ・スターリング、アルド・ロッシ、ルイス・カーン、さらには1970年代のロバート・ヴェンチューリやホワイト&グレイの建築家たちの仕事を詳細に検討している。その論調は、モダニズムの社会的ヴィジョンが徐々に失われ、モダニズム建築のスタイルをなぞるだけのフォルマリスム(形態主義的な)デザインへと零落していく歴史として一貫している。本書は1990年代の冷戦終結以前に書かれたため、冷戦時代の社会主義諸国の建築については論じられていないが、1930年代に始まるスターリンの専制時代以降の反動的な建築デザインを観れば、基本的な論旨は変わらなかっただろう。タフーリはソヴィエト連邦が崩壊した1991年の3年後、1994年に亡くなっている。この歴史的符合も偶然とは思えない。

マンフレッド・タフーリと鈴木博之

僕が大学生だった1960年代後半には、まだモダニズムのデザイン教育が色濃く残っていた。先にも書いたように、西洋建築史や日本建築史の講義はあったが、デザイン教育との関係は皆無だった。そもそもデザイン教育を担当する教員が歴史的様式のデザインを全否定していた。当時、フランク・ロイド・ライトが設計した日比谷の「帝国ホテル」が解体されるというので、僕たち学生は見学に行き、その繊細で大胆な空間構成に圧倒された。その後の設計製図課題で、ある学生が「帝国ホテル」に似た瓦屋根をデザインしたところ、教員にこっぴどく批判されたことを鮮明に記憶している。しかしながら1960年代末の大学紛争を契機に、ポストモダニズムへの転換が急速に進み、建築史と建築デザインが一気に緊密な関係を見せるようになった。先にも述べたように、西洋建築史は建築デザインのアイデアを引き出すカタログのような存在になったのである。

タフーリの存在を知るようになったのは1970年代の後半に『a+u』誌や『建築の文脈 都市の文脈』(八束はじめ:編 彰国社 1979)を通じてである。『建築の世紀末』(鈴木博之:著 晶文社1977)が出たのも同じ頃である。タフーリの日本における代弁者ともいえる八束はじめが、鈴木の著書に対して批判的な書評を書いたために、鈴木と八束の間でモダニズムの建築史観に関して激烈な議論が交わされたことは、いまだに語り継がれている事件である。しかしながら当時の僕の眼には、タフーリと鈴木は同じような歴史観を持った建築史家に見えた。両者とも建築史を進化論的に捉えるのではなく、一種の「敗者の歴史」として捉えていたからである。さらに建築と思想との錯綜した関係を、モダニズムがそうしたように一筋縄には捉えない点においても共通していた。とはいえタフーリがモダニズムを内在的に批判したのに対し、鈴木はプレモダンという外部からモダニズムを批判した。鈴木が焦点を当てた時代がイギリスの19世紀だったのに対し、タフーリは主に大陸のモダニズムに焦点を当てていた点も異なる。マルクス主義に対するスタンスにも相違があったかも知れない。僕が両者の微妙な、しかし根本的な相違を理解できるようになるのは1980年代の半ばを過ぎてからである。

1985年に『建築のテオリア』の日本語版が出たとき、僕は『SD』誌(1986年1月号)に書評を書いた。そこで僕は「歴史化=脱神話化もまたひとつの〈伝統〉なのだ」と題して、反歴史的なモダニズムを歴史的に位置づけ、脱神話化=相対化しようとするタフーリの視点も、モダニズムと同様にひとつの伝統ではないかと評した。僕が依拠したのは、ロラン・バルトが『神話作用』(篠沢秀夫:訳 現代思潮社 1983)で主張した「神話化に対する最良の武器は、今度は神話を神話化することであり、人工的神話をつくり出すことである」という論理だった。要するにタフーリの歴史化=脱神話化という作業も、ひとつの伝統であると主張することによって、モダニズムという伝統の洗礼を受けた僕自身の立場を相対化しようと試みたのである。ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』にもとづいて書かれた本書の第2章「〈等閑に付され得るオブジェ〉としての建築と批評的注視の危機」は、僕にとって、後に「建築的無意識」(『建築の4層構造』(難波和彦場:著 INAX出版 2009)所収)に展開するヒントとなった記憶に残る重要な論文である。

このように僕は、八束はじめ経由のマンフレッド・タフーリと鈴木博之から、建築に対する歴史的視点を学んだのである。ジークフリート・ギーディオンやニコラス・ペヴスナーといったモダニズム建築史家に対しては、タフーリと鈴木を通して逆遠近法的にアプローチする形になった。そのような僕の視点をコンパクトにまとめたのが1986年に『都市住宅』誌に連載した読書日記『難読日記』である。1986年2月号のエッセイ「歴史が紡ぎ出すコード」は、ポストモダニズムの理論的根拠である記号論を建築史に結びつける試みである。

抑圧されたモダニズムの回帰

今年の8月末に僕は初めてモスクワを訪れた。ロシア革命後の1920年代のロシア構成主義の建築を見るためである。2日間という短期滞在だったので、訪れることができたのは比較的都心に近いコンスタンチン・メーリニコフ設計の「ルサコーフ・クラブ」(1927-29)、バス・ガレージ(1926-28)、「メーリニコフ邸」(1927-29)、イアン・ゴーロゾフ設計の「ズーエフ・クラブ」(1927-29)、モイセイ・ギンズブルグ設計の「ナルコムフィン官舎」(1928-30)、ル・コルビュジエとニコライ・コリィ設計の「ツェントロソユーズ」(1928-35)といった建築だけだった。「ズーエフ・クラブ」は一部に新しい屋根が架けられてはいたが、現役で使用中であり、「バス・ガレージ」はギャラリーにコンバージョンされ、「ツェントロソユーズ」は改装中だった。「ルサコーフ・クラブ」と「メーリニコフ邸」はかなり傷んだ状態で放置されていた。「ナルコムフィン官舎」はもっとも悲惨で、修復計画はまったく実施されておらず、ほとんど廃墟になりかけていた。現在は完全に資本主義化されているロシアにおいては、第2次大戦以降に建設された、いわゆるスターリン・スタイルの建築は現役で使用されていたが、戦前の近代建築は総じて冷遇されていたように思う。ほとんど装飾のないザッハリッヒなデザインと機能性を追求した切り詰められた空間が、その後のプログラムの変化に対応できなかったのかもしれない。ともかくモダニズム建築の一画を担ったロシア構成主義の建築が、80年以上を経てモダニズムの「計画」の限界を体現しているように見えたことは確かである。

では、2011年の現在にタフーリを読み返す意義はどこにあるのだろうか。1990年代の社会主義諸国の解体は、マルクス主義が主張しモダニズム思想がめざしたトップダウンの計画の不可能性を証明した。それはポストモダニズムが主張する「大きな物語」の失墜と並行している。タフーリの一連のモダニズム批判は、その理論的背景を明らかにしている。それは社会主義諸国がめざしたような「球=計画=物語」は単一で巨大であってはならないこと。しかし同時に1980年代以降の新自由主義経済の世界的浸透が主張したような自由放任的な「迷路=カオス」は、結果的に多国籍資本の巨大化をもたらし経済格差を拡大するだけであることを示唆している。正しい答えはおそらく「球と迷宮」の中間、あるいは両者を止揚したところに存在するはずである。

東日本大震災の復興計画は、その試金石となるだろう。今回の震災は地域を越えた巨大なスケールの災害だったために、国家レベルでの復興政策が不可欠である。しかしそれは決してトップダウン的に進められるべきではなく各地域の自主的でボトムアップ的な計画の統合によって支えられるべきである。復興計画においては、生産施設の再建のみならず、住居の再建を中心に置くべきである。震災の復興は、住居の再建を生産に結びつけることによって加速するだろう。「球と迷宮」は対立しているのではなく、相補的に存在している。計画があるからこそカオスが浮かび上がるのであり、カオスが浮かび上がるからこそ、さらなる計画が推進されるのである。今回の震災復興は、新自由主義思想によって長い間抑圧されてきたモダニズムの計画思想の回帰をもたらすことは間違いないように思われる。

12/15

鈴木博之 第12信

石山さんのメッセージ、興味深く拝読しました。磯崎さんを論ずるについては、このゼミを有料化せよという意見は、なかなかに過激で興味深く思いました。けれども、だいたいネット上の言説はだれでもアクセスしようと思えばアクセスできるところに意味があるので、「読みたければ(知りたければ)金払え」というだけが解決でもないでしょう。

むしろわたくしの場合は(ブログなど開いていないものですから)、他で書いたものを、ここに転載することで、無料なるが故の範囲の拡大を考えたいと思いました(何の範囲が拡大するのかは、定かでなないのですが)。

「この一年

今年の建築界は、三月十一日の東日本大震災を体験することによって、それ以前の世界とはっきり異なる次元に入った。生活の基盤としての都市や建築がもろくも流されていってしまったとき、建築家たちは自らのあまりの無力に茫然となった。今年は建築作品の竣工によって記憶される年ではなく、三陸地方の破壊によって記憶される年となってしまった。建築家たちは自らの仕事を通じてどのように震災を受け止めているのか。

伊東豊雄や妹島和世らは「帰心の会」をつくり被災地への建築的支援を試みはじめた。また坂茂は紙管を用いた避難所の間仕切りシステムを提供し、難波和彦も被災者のための住居モデルを提示した。さらには石山修武や安藤忠雄は「鎮魂の森」計画によって復興の拠り所を造り上げようとしている。建築という職業の専門性を通じてどのような貢献ができるか、彼らそれぞれにとって正念場である。

建築家たちの国際組織であるUIA(国際建築家協会)の世界大会が東京で開催された。日本建築家協会が悲願としていた世界大会の招致が実現したのだったが、震災が大きく影を落とした。さまざまな会議や付随行事が開かれたが、やはり東日本大震災後の日本のあり方を問う企画が多くの注目を集めた。都市の物理的存在形式、都市エネルギーのあり方など、原子力発電所事故を含めて、未解決の問題があまりに多すぎるのが現状である。

こうしたなか、東京の六本木ヒルズにある森美術館で「メタボリズムの未来都市」展が開かれた。メタボリズムとは、一九六〇年代の日本で起きた建築運動であり、若手であった黒川紀章や菊竹清訓らが大胆な建築イメージを提示して、日本の現代建築が世界のなかで注目されるようになっていった運動である。いまこの展覧会を見ると、建築にも都市にも未来への希望が満ちていて、まぶしいほどである。しかしながらこの時期から日本の建築は、大きな世界観を失い、技術主義的な現実路線に入っていったように思われるのである。そしていまや、世界観や都市理念を語る建築家はいなくなってしまった。大震災があらためてわれわれに都市のあり方を問いかけているのであり、そのなかからポスト・メタボリズム時代の都市観が生まれることを期待したい。汐留のパナソニック・ミュージアムでは一九世紀末ウィーンに起きた「ウィーン工房」に関する展覧会が開かれて、装飾が生活全体に対して総合的な豊かさをもたらしていた時代の建築、家具、インテリアが示された。ここにも豊かな時代の香りが漂っていた。

六月に韓国との関係を大切にした建築家伊丹潤が亡くなり、十一月には大手設計事務所である日建設計の中心的建築家として東京のパレスサイドビルや中野サンプラザビルなどを手がけた林昌二が亡くなった。また、都市計画学者であり、若い頃は評論も手がけた川上秀光も九月に亡くなった。時代は大震災だけによってではなく、移ってゆく。」

つづいては、今年読んだ本から

1.東雅夫編『小川未明集』(ちくま文庫)

東日本大震災の後、小川未明の「赤い蠟燭と人魚」を読みたくなり、家にある未明集など見たが収録されておらず、この文庫を買った。ある村の衰亡の歴史なのだが、わたくしのなかでは、津波によって崩壊した村の運命とこの物語には、つながる部分があるように感じたのである。

2.鎌田慧『六ヶ所村の記録』(上下)(岩波現代文庫)

これも東日本大震災に触発されて読んだものだが、かつてむつ市の調査を行ったとき、そこにいたる六ヶ所村の異様な近代的風景を思い出した。原子力船「むつ」、「むつ小川原開発」など、夢を振りまく開発計画が、最終的には原子炉からの廃棄物処理施設の集中する地区になってゆくプロセスは、まるきり澱みのない歴史の流れであるかに見えて、唖然とする。日本の近代とはなんであったのかを深く考えさせられる。

3.ポール・カートリッジ(新井雅代訳)『古代ギリシア 十一の都市が語る歴史』(白水社)

ギリシア都市の歴史を語りながら、時代の変遷をたどるという構成の本である。クノッソス、ミュケナイからはじまり、アテナイ、テバイ、アレクサンドリアなどの都市が語られる。マッサリア(いまのマルセイユ)などという都市も含まれていて、ギリシアがいかにヨーロッパに広く勢力を張っていたかが知られる。都市の消長の理由、その伝統の継承とは何かなど、多くを教えられる。

4.ジェフリー・スコット(桐敷真次郎編著)『ヒューマニズムの建築』(中央公論美術出版)

二〇世紀前半の著作の翻訳であるが、解説と注記がかなりのボリュームを占めていて、それが興味深かった。特に著者ジェフリー・スコットの評伝というべき解説は、バーナード・ベレンソン、メイナード・ケインズからブルームズベリー・グループにいたる多彩な群像が現れて、そのなかを泳ぎ回ったスコットの特異な個性が浮き上がって面白かった。しかし六万円以上というこの本の定価は、常軌を逸しているのではないか。

5.鈴木杜幾子『フランス革命の人体表現 ジェンダーからみた二〇〇年の遺産』(東京大学出版会)

時間をかけてまとめられた名著である。」

つまり、ここでわたくしは金をとって読んでもらう文章をただでぶちまけたらどうでしょうといいたいのです。文章にはいつも、幾ばくかの楽屋落ちがあるものですし。無論いつもそうしろというわけではなく、有料じゃなくてもいいじゃないかといいたいだけのことなんですが。

妄言多謝。

12/14

石山修武 第23信 「磯崎新について」

Xゼミナールをサイト上に開いて、今は休業状態である。何故休業状態に停滞したのかを先ず考えてみる。同人誌の如くは三号雑誌で終わるのが常である。Xゼミナールもその手合いかと考えれば、それ程に大仰に考えるのもおかしい。同人誌の大方は経済状況により自己破綻する。

でもXゼミナールは電子システムの上に完全な砂上の楼閣として想定されているので、経済は壊れようがない。それぞれの労力以外は一切が0コストである。ここのところが先ずは停滞の大きな原因であったのではないか。

Xゼミナールに真っ当に書いても、誰もが0円で読んでしまうので、書いた者にも当然のことながら一銭にもならぬし、読者にも一切の負担がかからない。だから60代も半端を過ぎた大のジイさんが三人寄ってたかって、ああだこうだとやり合っているが、大方にとっては不可思議なモノに視えたのであろう。タダで書いてタダで読まれるモノに人間はまだ価値を見出すには至っていない。というよりも社会がそういう仕組みになってはいない。

これはかつて1968年にピークを示した学生たちが幼いながらの、それ故の理想論として示した考えの老残である。

マルクーゼのエロス的文明を要約すれば、実にこれ迄Xゼミナールでやってきたタダ書き、タダ読みの世界そのものなのだ。労働の深い構造を持った本体についてはジョン・ラスキンやウィリアム・モリスがすでに指摘していたが、マルクーゼやルフェーブルの論も又、その延長上にあると考えられぬものではない。

ただ、そこに余暇の考えをすべり込ませた。余剰な生産が余暇を産み、それがエロス的文明の基底になると言った。

でも、われわれが少しは続けたXゼミナールは自分にとって少しもエロスを感じさせなかったし、ユートピアへの匂いも嗅ぐ事が出来なかった。恐らくわたしが鈍かったのだろう。

こんな言わずもがなを敢えて述べるのは、磯崎新がその「アート、アーキテクトは事件を作品化できるか」と命名されたプロジェクトプレゼンテーションの冒頭の定義に於いて、「アーキテクトは体制中に本来的に在るので体制(権力)に近接する、それに対してアーティストは体制に属しにくい存在形式である故に、体制に属し難い」ー資料が手許に無いので精確ではないけれど、その様な事(少しニュアンスは異なるが)を言明している。

しかし、再び言うがXゼミナールへの寄稿の労働はまさにエロス的文明であり、ユートピア便りの側面も又、その労働の構造自体が所有していた。読者も又、確実にその世界に入浴していたのである。

それが停滞の一因である。我々はまだタダで書き、又タダで読ませるエロスを感得するに至ってないのだ。

それをハッキリと知らしめたのは、やはり東日本大震災であった。

この大災害に際して、いかにもXゼミナールのやり取りはユートピア便りであり、エロス的文明であった。

大震災がXゼミナール停滞の第二因である。

深く面白い事をやっていたのだが、やはりその面白さは大災害を前にして、ヒマ持て余したジイさんの遊び。まさにその通りなのではあるが、それを絵に描いたモチの如くに露出したのである。

そこで鈴木博之、難波和彦両先生に先ずは申し上げようと思うのだが、再スタートするであろうXゼミナールは有料にすべきでしょう。わたしも何度か言われた事があるのですが、読者は少なくとも、読む事に何がしかを支払うべきでしょう。多額ではなく、ネットなりの小額でも支払っていただくのが良いのでは。いかがでしょうか。

わたしの先を視るに愚かな眼には、これも又当然の事ながら「磯崎新について」の一番の読者は当の磯崎新さんになるでしょう。又、そうしなければ意味もない。そして出来得れば当の磯崎新さんの寄稿だって想定しなくてはいけない。

そんな枠組みを考えた時に、これは現実界にタダ乗りはあり得ないでしょう。

先ずはその辺りを難波和彦さんにおうかがいしたい。

いかがでしょうか。

やっぱり本格的にやるには下部構造をはっきりさせた方がよろしいと、わたしは思います。

2011年12月14日 

石山修武

作家論・磯崎新 第2章

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